FILE 122

【織田作之助 吉田栄三】

(2016.08.15)
提供者:ね太郎
  
文樂の人 白鷗社
1946.6.20発行
  
あとがき
「文樂の人」は吉田榮三、吉田文五郎の二人の人形使ひを書いたものだが、この人達を書くことは即ち他の文樂の人達や文楽の歴史をも書くことになるわけで、題名を「文樂の人」とした所以である。
 國寶といふ言葉も今日では大分値打ちが下つて來たやうだが、しかし敢て使へば、たしかに榮三、文五郎は國寶級の人形使ひだ。ところが、この二人については從來傳記といふものが殆んどない。わづかに鴻池幸武編「吉田榮三自傳」と櫻井書店の「吉田文五郎」の二著があるのみだが、何れも絶版で、今日では容易に入手しがたい。
 傳記がないばかりか、誰もこの二人を小説に書かうとしなかつた。だから僕が書いたといふわけだが、脱稿した原稿を出版屋へ渡して間もなく、榮三は死んでしまつた。
 この書が出來ればまづ榮三に献じようと思つてゐただけに、痛惜極まりない。わづかに、文五郎とそして古靱太夫の長壽を祈るばかりである。この二人がゐなくなれば、もう文樂はだめだ。今月の文樂は落月の最後の明りの文樂である。
 最近來朝したソ聯のシモノーフ氏は、文樂の不入りを見て、このやうな優れた藝術がかくも冷淡に扱はれてゐるのは解せぬと慨嘆してゐたが、僕も同感である。
 いつの世にも藝術の道は渝らない。浮足立つた昨今の人心に文樂の人達の血のにじむやうな修業振りを知らせたいと思ふ。
 
昭和二十一年四月二十四日
 
織田作之助
 
 
吉田榮三
  一
 
 焰[ひ]の夜が明けると、雨であつた。燒跡に降る雨。しかし、その雨もなほ燒跡のあちこちでプスプスと生き物の舌のやうに燃えくすぶつてゐる火を、消さなかつた。そして、人人ももう消さうとはしなかつた……。
 人人はただもう疲れ切つた顔に、虚脱した表情をしよんぼりと泛べて、あるひは燒跡に佇み、あるいひゾロゾロと歩いてゐた。呆然として歩いてゐた。ポソポソと不景氣な聲で何やら呟いてゐるのは、自分たちをこんな惨めな人間にしてしまつた軍部や政府への呪ひであらうか。もう負けやなアといつてゐるやうな聲であつた。
 ゾロゾロと珠數つなぎにされたやうに歩いて行く。歩いてゐることだけが生きてゐる證據であるやうに歩いて行く。力なくとぼとぼと……。東條の阿呆んだらめ、オツチヨコチヨイめ、あいつも死ねばよいと歩いて行く。誰も傘をさしてゐなかつた。雨の冷たさなどには、もう無關心になつてゐるのだらう。
 私だけが傘を持つてゐた。私はしかしすぐ傘を疊んでしまつた。そして、それがまるで燒跡の壕の中から拾ひ出した唯一の品であるかのやうな顔をして、歩いた。燒跡見物に來てゐる男だと、思はれたくなかつた。
 郊外に住んでゐるので、私は燒け出されなかつた。しかし、私の心の中に住んでゐる大阪、そして私自身の郷愁がその中に住んでゐる大阪、私の知つてゐる限りの大阪は燒けてしまつた以上、私もまた同時に燒けてしまつたのと同然だつた。
 船場も燒けた。島ノ内もなくなつた。心齋橋も道頓堀も、そして「夫婦善哉」の法善寺もなくなつてしまつた。東條の阿呆んだらめと、私も呟きながら、千日前から日本橋一丁目へ、そして盤舟橋を過ぎ、下寺町の方へ歩いて行つた。
 下寺町の停留所附近。ここにも何一つ殘つてゐなかつた。そこには私が「夫婦善哉」の中で書いた蝶子のサロン蝶柳があり、「立志傳」や「わが町」で書いた佐渡島他吉――刺青[がえん]の他アやんの人力車の客待場があつた筈だ。實際にあつたのかどうかは問題ではない。すくなくとも私にとつては、あつた筈なのだ。が、もうその名殘りをしのぶ何のよすがもない。
 戰爭などしなければ……と呟きながら、私は下寺町の坂を登つて行つた。谷町九丁目。そこから一つ東寄りの筋を右へ折れると、上汐町だ。そこに私の生れた家がある。七年前に、私はふとその家の前を通り掛つて、思はず胸が溫まつたことがある。今、七年振りにその家を見に行くのだ。が、果して、あるかどうか……。行つてみると、無論なかつた。茫漠たる燒跡の一點でしかなかつたのだ。私は自分自身がその一點と同じやうになつてしまつたやうな氣恥しさを感じて、こそこそと立ち去らうとした途端、
 「あ、さうだ、この近所に榮三の生れた家があつた筈だ」
 と、思ひ出した。
 上汐町筋の一つ東の筋の濃堂[のど]町(野堂町とも書く)で、榮三は生れたのだ。榮三とは文樂の人形使ひの吉田榮三だ。本名、柳本榮次郎。明治五年大阪東區濃堂町に生る――と私は記憶してゐた。
 しかし、濃堂町のどこの角を曲つて何軒目か、あるひは、何屋と何屋の間の家であつたかを、私はまだ調べてゐなかつた。それさへ調べて置けば、榮三の生れた家はあるひは少年の私がその前を通るたびに立小便する癖のあつた家であつたかも知れず、なつかしさも増さうものだのにと、私はふと後悔したが、しかしまた思へば、よしんば調べて置いたところで、今となつてみれば、同じことだ。私の少年時代の想出も榮三との因縁も、家もろとも昨夜のうちに灰になつてしまつたのだ。調べて置いた家の燒跡に佇んでゐたところで、何にならう。
 それよりも、歸つて榮三のことを今のうちに知つてゐることだけでも書いて置いた方がいい。私が書かねば誰も書くまい。私は雨に濡れて、再び下寺町の坂を降りて行つた。
 人人はやはりゾロゾロと歩いてゐた。どこへ往くのか、どこへ歸るのか、ゾロゾロと歩いてゐた。
 
  二
 
 榮三が大阪東區濃堂町に生れたのは、明治五年の四月二十九日であつた。どうしたわけか戸長役場には明治三年生れとなつてゐたので、榮三は十九の歳に徴兵檢査を受けた。
 榮三の生れた明治五年は、たまたまその一日に松島千代崎橋東詰に、文樂座の新築が落成して、柿葺落し興行があつた年である。文樂の人形淨瑠璃芝居が名實共に文樂座と唱へたのは、この時がはじめである。それまでは文樂軒の芝居といつてゐた。
 淡路の興行師正井文樂軒が大阪へ出て來て、現在の高津七番丁、高津の入堀川に架つた高津橋の南詰を西へ入つた濱側に、文樂軒の淨瑠璃稽古所の看板を掲げたのは、いつの頃か詳かでない。明和といひ天明といひ寛政ともいひ、諸説區區である。が、ともかく、その頃は竹本義太夫、近松門左衞門以來の竹本座も、竹本座から分離した豐竹座もその威地に陷ち、道頓堀の檜舞台を追はれて、その殘黨や末流が水草のやうに轉轉してその日暮しの興行をつづけてゐるといふ情けないありさまで、この時に淡路から出て來た文樂軒がひそかに期するところがあつたことは、いふまでもなからう。果して寛政の某年には御靈~社境内に文樂軒の芝居が名乘りをあげた。そして文化八年一月には、文樂軒の子淨樂翁が父の志を繼いで、博勞町稻荷~社内南門内の東に文樂軒の芝居をつくつた。これは天保十三年までつづき、十四年二月には社寺内の芝居興行禁止令のために北堀江市之側芝居に移り、安政元年一月からは更にC水町濱に移つた。天保の禁令がとけて舊地の稻荷境内へ復歸したのは、安政三年の九月であつたが、もうその頃は三世文樂翁の時代であつた。
 文樂翁は一世の傑物である。正井家の門前に捨てられてゐたのを先代の淨樂翁に拾はれたのだともいはれてゐるが、明治の文樂の隆盛をつくつたのはこの人である。はじめ養家の正井姓を稱へたが、のち植村姓に改めた。
 幕末の動亂期、維新の變革期に遭遇して、大阪の興行物は一時大いに衰微したが、文樂翁はよく堪へて、仕打ちとしての才腕を振ひ、長門、團平、春、越路、玉造等の名人を傘下に集めたばかりでなく、文才にも富み、新作、改作の筆を取つた。時勢を視るの明もあり、明治初年大阪府が新開地松島町の發展を策して、道頓堀の歌舞伎芝居や稻荷社内の文樂芝居の松島移轉を命じた時、彼は「松島へ移るのは島流しみたいなもんや」といやがつた一座の者を説き伏せて、直ちに松島千代崎橋東詰に小屋の新築をはじめた。
 そして、明治五年正月にはその柿葺落し興行がおこなはれたのであるが、この時の狂言は「太功記」の通しと「三番叟」で、太夫は、春、越、古靱(先代)、越路、染、三味線は團平、新左衞門、吉兵衞、人形は玉造、辰造、喜十郎、玉之助、玉治といふ豪華な顔觸れで、島流し興行といやがつたにもかかはらず、五十三日間打ち續けの大當りを取つた、この時、春太夫は引退した湊太夫に代つて紋下となつたが、同時に人形の初代玉造は人形淨瑠璃史上最初の人形の紋下として、櫓下に名を列ねた。
 そして、この引越し興行でかつての稻荷社内東芝居ははじめて松島文樂座として名乘りをあげたのである。もつとも、その前年の九月に、稻荷の芝居の番附に「文樂座」の名が見えてゐるが、しかし、名實共に文樂座としての名乘りをあげたのは、この明治五年一月からである。
 榮三はこの年に生れたのである。いはば、文樂座と共に生れたのである。
 
 榮次郎と名づけられたのは、父の榮助の一字を取つたのであらう。母は柳本あいといひ、下大和橋の壽し屋の娘であつた。父の榮助は橋本姓であつたが、入聟して柳本の姓を繼いだのである。
 榮三は子供の頃、がしんたれと言はれた。がしんたれといふのは、大阪の方言で、意久地なしのことである。おとなしい性質で、近所の子供と喧嘩をしたり、叩いたり叩かれたり、するやうなことは一度もなかつた。惡口を言はれても、ぢつとこらへて、鉛のやうに默默として手出しなどしなかつたから、喧嘩にならなかつたのである。それ故に、がしんたれと言はれたのであらうが、けれども本當は辛抱づよい子供であつたのである。
 この辛抱づよさは記憶して置く必要がある。なぜといへば、榮三が六十年の間傍眼[わきめ]もふらずに人形一筋の孤獨な道をとぼとぼ歩んで來られたのも、ひとつにはこの辛抱づよい性質があつた故である。明治の藝道の荒行の中でも、人形の修行は常識を超えた亂暴なものであつた。たとへば、派手な人氣はなかつたが、初代玉造、玉助、先代紋十郎につぐ名手として仲間うちではその伎倆を怖れられてゐた吉田多爲藏は、次のやうな手記を殘してゐる。
 「私が人形つかひになるやうになつたのは、九歳の時に人に勸められて堀江市の側の堀江座に出て居た吉田金四といふ人に弟子入りしたのが始です。其の時分の修行は中々嚴しかつたもので、殊に私の師匠と來たら其上にも嚴しく、入門の最初は、先づ師匠の履物を揃へるとか、外出の供をするとか、歸れば家の内外の掃除から台所の用まで足し、それが濟めば雜巾をさす、指固めだといつて師匠は元より妻女や娘達の肩を揉ませられる、それも揉んで呉れといふのでなく、揉まして貰へといつたやうな調子です。そしてやれ供をするのに餘り間が近過るの遠過るの、やれ提灯の持様が惡いのと、叱られ通しです。芝居では人形の屍骸とか煙草盆とかを手摺の蔭に兩手を伸して支へて居るのが役で(その頃は今の様に台を使はなかつたのです)それが少しでも動いたりすると直ぐ叱られます。それから少し經つと今度は木偶[でく]の足を天井に吊して體の使方を稽古するので、師匠の家は新町の越後町に在りまして、その格子内で一生懸命に習ふのですが、足の使方が惡いとか、體が据らないとかいつては、煙管で打叩かれる。そこへ之も名人でしたが二代目辰造といふ人がよく遊びに來て、師匠と一緒になつて、矢張り煙管を斜めに構へて叱つたり叩いたりします。外には近所の藝妓や娘達が寄つてたかつて覗いて居るので、隨分格好の惡い思をしたものです。時には餘り折檻が烈しいので、藝妓が見兼て、中へ這入つて謝つてくれたこともありました。漸く足も動くやうになると、芝居へ出て一人遣の人形を持たせられます。こんなことで滿三ヶ年稽古を積みましたが、其間一錢の給金とてはありません。三年目に始めて一朱貰ひました。今の六錢二厘です。……夜家へ歸つて寝る間といつたらホンの三時間位しかありません。ですから外を歩いても眠いので、電信柱にぶつかつたり、郵便箱に凭れて眠つたり、芝居へ往つても奈落へ落ちたりすることは始終です。そんな修行をして來ても、今日私のやうな棒鱈です」
 棒鱈といふ大阪辯は、東京でいふデクの棒のことであらう。そんな辛い烈しい修行をして來ても今日なほ棒鱈であると、多爲藏は謙遜してゐるが、一流たるを二流たるを問はず、よしや一生足遣ひといふ下積みで終る人でも、人形遣ひといふ人形遣ひはひとり殘らず、多爲藏と同様の、いやそれ以上の難行苦行と闘つて來たのである。誰もが一度はその辛さにたまりかねて逃げ出さうとした。げんに逃げだした人もゐる。そして辛抱づよい人だけがよくその辛さに堪へたのである。そして、榮三もまたその持前の辛抱づよさで、それに堪へて來た人である。
 
 榮三が人形の道に憧れたのは、父親がおもちや人形の職人であつた關係もあつたらうが、それよりも、母方の叔母が、豐竹湊玉[みなぎよく]といふ當時大阪ではかなりの顔の女義太夫であつたので、はやくから義太夫に親しんでゐたからである。
 榮三が七つの時、彼は當時流行の一枚刷りを見た。初代豐竹古靱太夫が御靈~社裏門土田の席で、大道具方の梶コといふ男にチヨンナ(大道具の一つ)で背後から斬り殺されてゐる繪刷であつた。
 古靱が殺された原因はかうである。
 その前年、明治十年の九月、全國にコレラが流行した。ことに大阪では猖獗を極めて一切の興行が停止された。そこで古靱は一門一黨を率ゐて南紀へ巡業した。留守中の表方の者はたちまち衣食に窮した。そのうちに、コレラ病の脅威もやみ、興行停止の禁も解かれて、市内の各座は一齋に開場した。が、御靈表門の土田の席だけが、肝腎の古靱が南紀巡業中なので小屋を開けることが出來ない。小屋の借金も嵩む。表方の者や關係者はますます衣食に窮し、債鬼に責めたてられる。たまりかねて、出方頭[でかたがしら]が南紀へ古靱を迎へに行つた。そして出方頭は一足先に歸つて、開場の準備を萬端整へた。演し物も古靱の十八番の「先代萩」を選び、役割も決めて、古靱の歸りを待つた。ところが、直ぐに歸つて來る筈の古靱が、南紀の興行主に足止めされたのか、大阪は海潚だとの噂に二の足を踏んだのか、十日待つても、二十日過ぎても歸つて來ない。この分では年内の開場もむつかしかろ、暮の算段をどうしてくれるのかと、表方の者は喧しく騒ぎだして、出方頭に詰め寄つた。何をしに紀州くんだりまで行つたのかと、暴言を吐く者もある。借金には責められる、座の老には喧しくいはれる、おまけに折角南紀まで迎へに行つてこのざまである。出方頭はたまりかねて、御靈表門席の木戸前で自らくびれて死んだ。血の氣の多い梶コは、出方頭を殺したのは、古靱だと、逸り立つた。古靱は幼年の頃盲目の父親の手をひいて按摩に出掛けてゐた。梶コは同じ貧乏長屋の子供として育ち、その頃からの古靱の幼友達であつた。それだけに一層古靱を許しがたいと思つた。梶コはかねがね侠客肌が自慢で、道具方仲間でも親分然としてゐたのである。古靱が歸阪して、やつと開場したのは翌年の二月であつた。千秋樂の夜、詰り場を濟ませて樂屋風呂にはいつた古靱が、やがて風呂を出て、二階への梯子段を上りかけると、薄暗がりから飛びだした男が、背後から斬りつけた。虫の息の古靱の口から、一言「梶コ……」といふ言葉が洩れた。二日のち御靈~社の床下から、梶コの死骸が現れた。自殺してゐたのである。
 市中はこの評判に明け暮れた。道頓堀の辨天座では早速これを狂言に仕組んだ。ひとびとは寄るとさはると、「梶コ」と言つてゐた。一枚刷が飛ぶやうに賣れた。榮三の見たのはその一枚刷である。
 おとなしい榮三は、あくどい色に彩られたその「古靱太夫殺し」の繪を見て、ぶるぶる顫へた。梶コといふ名前が囁かれてゐるのを耳にすると、ぞつと寒氣がして、子供心にそんな惨事の行はれる人形芝居の世界が空恐ろしいものに思はれた。しかし、この氣持も、彼の人形への憧れを減ずるやうなことはなかつた。
 八つ、九つになると、彼はもう父親のつくるおもちや人形などで滿足できなかつた。彼は叔母の湊玉が出てゐる席の樂屋へこつそり出入りして、たまに人形が加入した時など樂屋にぶら下つてゐるツメ人形にさはつてみたり、時には兩手を突つ込んでみたりした。見つかつて、叱られたこともあつた。
 父親の榮助は榮三がどうやら人形遣ひになりたがつてゐるらしいことに氣がつくと、榮三を叱りつけた。
 「阿呆んだらめや。人形遣ひちうもんは、あら阿呆のするもんや。阿呆でなけりや、あんな辛い修行はでけん、あの世界だけは、世の中を諦めてしまはな、居れんとこや。榮コ、お前飯も食はんでもええいうのんか。あの世界は飯も食べられん地獄やぜ。人形遣ひみたいなもんに成りたがる阿呆があるか。それより、お父つあんの眞似して、おもちやの人形でも作つとり」
 父親はさう言ひ言ひしてゐたが、間もなく榮三の叔母の湊玉が吉田榮壽といふ人形遣ひと結婚すると、もう彼は人形遣ひの惡口も言はなくなつた。彼は榮壽が自分と同じ榮といふ名を持つてゐることに、へんに親しみを感じてゐた。
 そして、榮三が十二歳の時、この新しい叔父の橋渡しで人形修行の道にはいつた折も、父親はつよい反對はしなかつた。
 
 榮三は最初からいきなり文樂へはいつたわけではない。
 その頃松島文樂座のほかに、隨分多くの淨瑠璃の寄席があつた。多くは素語りであつたが、稀に人形一座も加つてゐた。そのひとつに、明治十六年六月に、日本橋北詰の安井稻荷のすぐ隣に開場した澤の席があつた。松島の文樂座に對して小文樂と呼ばれ、人形淨瑠璃の席の中では重きを成してゐた。この澤の席へ十二歳の榮三は入座したのである。
 榮三が入座したのは、丁度この席の柿葺落し興行の時であつた。一座は染(八代田)、春子(後の大隅)、澤(先々代)、朝の太夫、三味線は後に松葉屋さんと呼ばれた五代廣助、初代新左衞門、人形は三代目吉田辰五郎、三代豐松東十郎、小辰造(後の三吾)、駒十郎(後の四代辰五郎)等で、狂言は松島文樂座の柿葺落し興行の時と同じく「太功記」に御祝儀「三番叟」、それから「布引の四段目」そして切が景事であつた。
 この時の番附の最下位に、吉田光榮[みつえ]の名が見える。これが榮三で、この名は叔父の榮壽が師匠の光造に入門した時の名で、榮三はその名を繼いだ譯であつた。
 しかし、榮三は正式に榮壽に入門したわけではなかつた。榮壽はただ榮三が澤の席へ入座する橋渡しをしただけで、師匠といふわけではない。
 榮三は不思議なことに、その後も師匠といふものを持たなかつた。隨分多くの名人や先輩に仕へ、その足を遣ひ、左を遣ひ、教へも請うたが、一生正式の師匠を持たなかつたのである。強ひて言へば、それらの名人、先輩のすべてが彼の師匠であつた。
 
  三
 
 人形淨瑠璃の番附には「幽靈」がある。實際その舞臺にない役の名や、人の名が番附に乘つてゐたりする。
 たとへば、澤の席の柿葺落し興行の番附にも、當時の榮三の名、光榮の上に宗祇坊や三法師丸の役が振つてあるが、榮三は實際にその役を持たせて貰つたわけではなかつた。
 それどころか、誰もこの新米の見習に足すら遣はせなかつた。榮三は下働きとして、小使のやうにこきつかはれただけである。きまつた師匠といふものがなかつただけに、誰からもこきつかはれた。舞臺ではただ蓮臺[れんだい]のさし入れをしたり、横幕の開け閉めをしたり、舞臺下駄を揃へたりするだけだつたが、ただこれだけの仕事でも、その忙しさと來たら眼のまはるくらゐで、家から持つて來た握り飯を頬張るひまもなかつた。無論、身體はくたくたに疲れた。おまけに氣苦勞が大變である。十二歳の子供だからといつて、容赦してくれなかつたのである。
 入座してから十日目のことである。「三番叟」を豐松東十郎が遣つてゐたが、その舞臺下駄を出すのが榮三の役であつた。最初は四人上段に構へ、それから動きになつて東十郎が船底へ降りて來る時、舞臺下駄を揃へて出すのだが、うつかりして右と左を間違へて出した。あつと思つた時には、もう榮三は船底で氣が遠くなつてゐた。「このどんけつめ!」といふなり、大きな舞臺下駄で向脛を蹴られてゐたのである。身體に生疵の絶え間はなかつた。
 それでも持前の辛抱づよさでぢつと堪へて、その興行を濟ませてほつとしたとたんに、頭取から、
 「光コ、お前はあかん。お前は鈍臭[どんくさ]いし、それに身體がちつちや過ぎる。お前みたいなちんぴらでは間に合はん。やめてしまひ」
 と、言はれた。それを、叔父の榮壽が「そらあんまりや。たつた一興行[しばゐ]で斷つてしまふのもなんやさかい、まあもう一興行[しばゐ]使こたつとくなはれ」
 と、とりなしてくれた。
 それで、榮三は引續き澤の席で勤めることになつた。次の興行は「一の谷」と「夏祭」であつた。染太夫と松葉屋廣助はこの時退座して、代りに組太夫がはいつて來た。
 この組太夫はもと西京で豆腐屋をしてゐたのが義太夫へ轉向した人で、もと灘の「柳店」といふ酒屋の旦那をしてゐた初代柳適太夫と、天滿でハラハラ藥を賣つてゐた初代豐竹呂太夫と共に、明治の三大化物といはれた。化物とは素人より玄人になつた人をいふ。
 因みに、この興行で、「石屋の寶引」を語つた琴太夫は、法善寺に「夫婦善哉[めをとぜんざい]」の店をひらいた人である。
 榮三はこの興行中、ここが大事なところだと、身體を粉にして働いた。頭取はその敏捷な働き振りを見て、小柄も一コだと思つたのか、その興行が濟んでも、もうやめてしまひとは言はなかつた。
 八月、九月は澤の席は夏休みだつた。父親の榮助は話をきいて、
 「そんな辛いところなら、やめてしまひ」
と、言つたが、十月興行がはじまると、榮三はいそいそと澤の席へ出勤した。
 ところが、その興行が終ると、榮三は一緒に働いてゐた下働きのコ丸と共に、警察へ呼び出された。見習だつた故、鑑札を受けてゐなかつたのが、いけなかつたのである。十二歳の榮三は、薄暗い部屋へ放うり込まれて、蒼くなつた。が、年少の故を以て、榮三は説喩だけで歸して貰つた。コ丸は五十錢の罰金を取られた。コ丸の給金はその當時一興行六錢二厘であつた。
 十一月興行が濟むと、澤の席はそれを最後に木戸を閉めた。そして一座は翌十七年の一月から博勞町稻荷社内北門に出來た彦六座で新しい旗上げをした。榮三もその座へちよこちよこと移つて行つた。
 
 彦六座は、長堀中橋南詰に「灘屋」といふ酒店を出して、俗に灘安さんで通つてゐた寺井安四郎等がつくつてゐた「彦六社」といふ素人淨瑠璃の一派が、澤の席の一座を押し立てて、松島文樂に對抗するために稻荷社内の北門につくつた、いはば旦那業の小屋である。
 
 第一囘の旗上げ興行は「菅原」の通しで、澤の席一座のほかに、さきに一寸觸れた明治三大化物の一人初代柳適太夫が新加入した。柳適太夫は巴太夫といふ名で松島文樂座に居つたこともあるんだが、もとは仕打の灘安と同じ酒屋の旦那で、同業のよしみから彦六座へ参加したのである。柳適太夫と改めたのは、この興行からで、もつとも旣に次の巴太夫も出來てゐたので、口上では「先[せん]巴太夫改め柳適太夫――」と言つてゐた。當時の口上役は吉田友造といひ、後年の吉田冠四である。
 吉田冠四は、昭和五年三月七十五歳で死ぬまで、文樂で一番年長のいはば古老であつた。安政二年十二月大阪天~橋筋三丁目に生れて、二十一歳の時に吉田兵吉の門にはいつたが、以來六十歳まで足ばかり遣つてゐた。足遣ひ四十年である。昭和四年に、文士、畫家の有志がつくつた文樂の擁護會が、この不遇の人形遣ひを慰めるべく、金一封を贈つた。五十圓の小額であつた。が、七十四歳の冠四は、
 「わてはこの歳になるまで、こんな大金を人様より頂戴したことは、いつぺんもおまへなんだ」
 と、言つた。
 古靱太夫が梶コに殺された時、冠四も土田の席で働いてゐて、古靱が死の直前にはいつた樂屋風呂には、冠四もはいつてゐた。冠四はその騒ぎのあつた時、まだ風呂の中にゐたが、湯から出るのが怖く、中で蛸のやうになつて顫へてゐたと、榮三を摑へて話をしたが、しかし、榮三はおちおちその話を聽いてゐるひまもなかつた。一座には榮三のほかに子供がゐなかつたので、舞臺の下廻りの用事はもちろん、樂屋の片づけ、走り使ひなど、夜明け頃から夜遅くまでテコテコとこき使はれてゐたからである。
 眠る時間といつては殆んどなく、一日中うつらうつらしてゐたが、ことに切狂言近くなつて來ると、眠くて仕様がなく、ちよつとした隙をうかがつて、ツメ人形を入れてある葛籠[ぼて]の中にかくれてこつそり眠つた。そして、「光コ、光コ」と舞臺から呼んでゐる聲にあわてて飛びだし、スカを食つて、ひどいこと叱られ、ここでもやはり生疵の絶え間がなかつた。
 
 彦六座の旗上げ興行は、衣裳、道具などすべて新調で、旦那衆の興行らしい豪氣なものであつたが、散ざんの不入りであつた。が、つづく二月興行には松葉屋廣助が加入して三味線の紋下に座つて氣勢を添へたのと、柳適太夫の「橋供養」衣川庵室が當つたので、大入りをつづけた。三月には盲目の美聲語り住太夫が松島文樂座を脱退して、入座して、重太夫と隔日交替で紋下に座り、ますます大入りをつづけた。
 彦六座の成功はたちまち松島文樂座に影響した。足場の惡い松島まで足を運ぶ客がだんだんに尠くなつて來たのである。そこで、驚いた文樂座では、御靈表門の土田席を改築して、その年の九月松島から移つて來た。が、同じ月に彦六座も改築してその新築記念興行を打つて、御靈文樂に對抗した。しかも、文樂で越路太夫(のちの攝津大掾)を彈いてゐた通稱「C水町」の豐澤團平が、この時から彦六座へ加入して、三味線紋下に座つた。
 この時の狂言に「四天王寺伽藍鑑[がらんかがみ]」の通しが出た。その義光館の段切で、本田義光が阿彌陀池から出た佛を背負つて、信濃の善光寺へ行くといふ「負[お]ひ人形」の趣向がある。人形遣ひが頭から義光の人形を被り、人形遣ひ自身の脚に脚絆をつけ草履をはいて、出孫[でまご](新客土間)と、平場[ひらば](平土間)の間の通路を無言で引つ込むといふ趣向だが、人形との釣合ひ上、どうしても背の低い人形遣ひでなくてはうつりが惡い。
 「光コがええやろ」
 と、いふことになつた。光コとは勿論榮三の光榮のことである。榮三は座の中では一番のちんぴらであつた。
 そこで、榮三ははじめて役を貰つたとよろこんで、義光の人形を頭から被り、脚絆、草履ばきで舞臺へ出て、人形の振りのまま段切に引き込むと、客は「人形が歩く、人形が歩く」と言つて面白がつた。時には引つ込みの通路の附近の榮三は客に足を觸られて、
 「あ、こらほんまの人間の足や」
 と、言はれた。そして鳥屋[とや]口(揚幕)まで來ると、人形遣ひが榮三を人形と共に葛籠の中へ放うり込んだので、榮三は毎日頭を打つてゐた。眼から火が出るほど痛かつた。
 この時、榮三は十三歳であつた。
 
 その年の十一月から、團平はもと春子太夫といつてゐた三代大隅太夫を彈くことになつた。
 團平は「ほかの太夫はおれが彈いたつたが、長門はんだけは、彈かして貰つた」といふだけあつて、義太夫以後の義太夫語りといはれた幕末の名人三代長門太夫には頭が上らなかつたが、その他の太夫は皆團平には頭が上らなかつた。團平を合三味線とした太夫は一人殘らず團平の稽古のはげしさに泣かされたのである。ことに、大隅はのろまといはれてゐただけに、これを一人前に仕込まうといふ團平の意氣込みは、これまでにない激しさだつた。
 その稽古の激しさは、初日の大隅を聽くと、誰にもうなづけた。見違へるほど立派な大隅になつてゐるといふより、痛痛しいくらゐ聲を痛めてゐたのである。大隅はすぐ休場して、源太夫が代りを勤めた。
 榮三はこの大隅の休場が、團平の稽古が激しくて聲を痛めたためだと判ると、なにか心を打たれて、自分などはまだまだ精進が足らぬと子供心に思つた。そして、ますます精をだして修行をはげんだ。
 團平の稽古の激しさは、その後もしばしば榮三の耳にはいつた。
 ある夏、大隅は團平から「壬生村」の稽古をして貰つた。石川五右衞門の妹お冬が、「守り袋は遺品ぞと」いふところが、のろまの大隅には何度やつても巧く語れない。團平は何百囘も繰りかへさせた。夜になつた。が、まだ巧く語れない。大隅は半分泣いてゐた。蚊が出て來るので、團平は蚊帳の中にはいつて、横になりながら、大隅の語るのを聽いてゐる。大隅はもちろん蚊帳の外である。そして蚊に喰はれながら、氣違ひのやうになつて「守り袋は遺品ぞと」の一つ所を繰りかへした。しかし、團平は「よし」と言はない。だんだん夜が更けて來る。蚊はますます出て來る。それでも、大隅は繰りかへし語り、語つてゐた。夏の短夜がやがて明けようとする頃である。蚊帳の中でもう寝てゐた筈の團平が、「よつしや、出來た」と言つた。團平は一晩中眠らず聽いてゐたのである。そのため團平は眼をわづらつて、半年ばかり眼醫者へ通つた。
 榮三はこの話を聽いた時、頭の中がヂーンとするほど感激した。大隅もえらいが、團平もえらいと思つた。のろまの大隅がぐんぐん上達して行くのが、榮三の耳にもよく判つた。そして、團平のやうな名人の三味線を毎日聽きながら働ける自分は、幸bセと思つた。自分はまだ子供だが、今のうちにうんと人形のコツを見覺えて置かねばならぬと、下廻りの仕事をしながら、眼をキヨロつかせてゐた。
 人形のコツは、手をとつて、ああしろ、かうしろと教へられるものではなく、よしんばそのやうにして教へることが出來ても、それでは性根にはいらない。むろん、誰も教へてくれない。結局舞臺のコマゴマした仕事をする合間合間に、名人や先輩の遣ひ方を見て、自ら納得するよりほかに方法がないのである。なほ人形だけではない、淨瑠璃の文句や節、三味線のキマリキマリも耳に入れて置く必要がある。さう思へば、小屋に居る間、一秒の餘裕も心にあつてはならなかつたが、やはり身體がくたくたになつて、しびれるやうな睡魔に襲はれる時は、ひそかに引幕にくるまつて、居眠ることもあつた。
 ある時、「法界坊」の狂言が出たが、その時も榮三は引幕にくるまつて、あはただしい眠りを貪りながら、夢をみた。舞臺から「綱や、綱や」と言つてゐるやうに思つたので、あわてて舞臺へ飛びだしたが、勿論呼ばれたのではなかつた。おかげで、隨分ひどく叱られた。十三歳のことである。
 翌年の七月、彦六座は晝夜二部興行をした。それで榮三の身體は一層忙しくなつた。が、ちょうどその月に大阪に大洪水があり、二日より十二日まで遠慮休業したので、榮三はほつとした。それほど毎日毎日が辛かつたのである。けれども、榮三は人形遣ひを諦めようとしなかつた。
 
  四
 
 洪水のあつた年の翌年の五月、大阪に再びコレラが流行した。折柄彦六座では、團平の妻お千賀の作を團平が節付けした「彌陀本願三信記」を初演してゐた。この淨瑠璃は二十三册物で、親鸞上人の御傳記、蓮如[れんによ]上人の御傳記、顯如上人の御傳記を通しで聽かせるといふ、いはばありがたい淨瑠璃であつたから、連日大入を續けてゐたが、さすがにコレラには勝てず、二十五日限りで休業した。そして、その休業は十月の末まで續いた。コレラの猖獗は容易に歇まなかつたのである。
 名人初代玉造の實子初代玉助が三十三歳の若さでこの年の七月急死したのも、この夏のコレラの爲であつた。
 玉助は父の玉造と一緒に文樂座で働いてゐたが、親まさりの伎倆があるといはれてゐた。天才肌の人形遣ひであつた。玉助は、彦六座の人形紋下であつた三代吉田辰五郎のことを、
 「うちの親父の藝は怖くないが、辰五郎はんの腕はおそろしい」
 と、言つてゐたが、その辰五郎が玉助のことを、
 「親父の玉造の腕は評判ほど怖いと思はんが、悴の玉助の藝はおそろしい」
 と、言つてゐたのを、榮三は耳にしたことがある。
 名人の家に生れて、いはば血筋が良いとはいふものの、しかし、三十そこそこの若さで、當代隨一の人形遣ひとおそれられた父の玉造をしのぐ腕があるとは、どんなに偉い人であらうと、榮三はその人の舞臺を殆んど見て置かなかつたことが、後悔された。彦六座の朝夕忙しい想ひをしてゐた榮三には、文樂座へ足を運ぶ機會が殆んど無かつたのである。せめてその人の足をいつぺん遣ひたかつたと、榮三は思つた。
 團平は玉助の急死をきくと、
「親に先立つ奴は親不孝や。コレラで死ぬ阿呆があるか。藝人はもつとほかの死に方がある」
 と、はげしい口調で言つた。團平らしい言ひ方だと、ひとびとは思つた。團平の親孝行は知らぬ者はなかつたのである。
 團平は兩親の命日には、早朝より起きて、齋戒沐浴して、佛間にとぢ籠つて、先祖代代父母の法名と本名を唱へて讀經し、そして佛前に備へた生魚を自ら料理して、お餘りだといつて朝食に食べた。亡母がさうしろと遺言したので、彼はそれを守つて五十年一日のやうに缺かさなかつたのである。
 ある時、歌舞伎役者の左團治が、團平の教へを請はうとして、彌太夫に紹介をョんだ。しかし、團平は會はうとしなかつた。團平は歌舞伎役者を輕蔑してゐたのである。ところが、團平は彌太夫から、左團治が母親の死んだ晩、夜伽の人の隙をうかがつて、ひそかに蒲團の中にもぐり込んで、母親の死骸を抱きしめたといふ話をきくと、
 「そんな親孝行の男なら會はう」
 と、言つて、會う[ママ]たといふ。藝のほかには何ものもない團平だつたが、ただ兩親、それもとつくになくなつてゐた兩親だけは大事にした。
 それだけに、團平には一人息子の玉助に死なれた玉造のなげきが人一倍わかるのだつた。おまけに玉助が殘して行つた孫は、生れつきの盲目である。
 「可哀相に玉造もがつくり精落したことやろ」
 團平はつづいてさう言つた時、もう涙を落してゐた。が、すぐそれにつづけて、
 「しかし、これで玉造の藝も冴えるやろ」
 と、やはり藝のことを言つた。
 名人に二代はないといふが、玉造の家は、父の吉田コ藏、玉造、玉助と三代つづいた名門である。玉造にしてみれば、實子の玉助が二代玉造として自分のあとを繼いでくれると思へば、何か安心であつたらう。ところが、その玉助が死んだ。玉造の藝ももはや一生一代になつてしまつたのである。親の代からの藝の血が自分一代で盡きてしまふのかと思へば、玉造の藝も末期の眼に冴えかへつて行くだらうと、團平は思つたのか。それとも、盲目の孫を殘して一人息子に死なれた玉造の孤獨な心が、やがて人形の情合ひに現れて行くのを、團平は期待したのだらうか。期待といへば、旣に玉造は名人として自他共に許し、その藝の圓熟は誰の眼にも頂點に達してゐると思はれたのに、團平はやはりそれ以上を期待したのである。團平の眼には、藝の頂點といふものはなかつたのである。これでよしといふ極樂を求めて求められぬ地獄が藝の世界であつた。
 太夫も三味線も人形も、疊の目を一つづつ數へて行くやうに、とぼとぼ藝を磨きながら、上達して行くのである。一足飛びの名手といふものは現れないのである。修行の勞苦に命を刻む歳月だけが、名手をつくるのである。それを、玉助が三十歳やそこらの若さで名手になれたといふのも、天分も無論あつたらうが、なんといつても一日を一月にし、一月を一年にするほどの休みなききびしい鞭を、父の玉造から受けて來たからであつた。
 玉造もまた父のコ藏からさうされて來たのである。
 玉造は天保十一年、十一歳で道頓堀の竹田の芝居にはじめて出勤した。名をつけてくれと父にョむと、
 「お前みたいな棒鱈に名つけても仕様がない」
 と、コ藏は突つ放した。が、名前なしでは出勤するわけにいかない。そこで、コ藏は、
 「お前は圓顔やさかい、玉造として置け」
 と、簡単に言つた。由緒ある人形遣ひの名を與へて子供の初出勤に花を飾つてやらうなどといふ氣持は、コ藏にはなかつたのである。
 さういふ父を持つてゐたから、玉造はとくにコ藏の子だからといつて、優遇されるやうなことはなかつた。勿論、いきなり役がつくやうなこともない。足も遣はせて貰へない。樂屋や舞臺裏の雜用にこきつかはれるだけである。それでも辛抱して勤めてゐるうちに、一座が四國へ巡業した。そこではじめて年相應の役がついた。「先代萩」の鶴千代の役である。ところが、千松を遣ふ人形遣ひが、玉造みたいな新米の鶴千代相手では千松が遣へないと言つて、納まらなかつた。それを拜み倒すやうにしてョむと、千松の人形遣ひが、
 「そんならお前の晝飯をわいにくれるか」
 と、言ふ。座で貰う辨當では腹が一杯にならぬのである。
 「よろしおま」
 鶴千代さえ遣はせてくれるならと、玉造はその興行中自分の晝飯を千松の人形遣ひに與へて、機嫌をとりながら、鶴千代を遣つた。れいの「腹が空つてもひもじうない」といふ「先代萩」御殿の芝居である。玉造は自分の役の千松のひもじさがひしひしと同感できるくらゐ、毎日空腹で倒れさうになつたといふ。その代り實感は出たのである。
 そんな苦勞のおかげで、倖ひその役は好評を博して、大阪へ歸り、間もなく博勞町稻荷町に出來た文樂座へ父親と一緒に出勤したが、コ藏は玉造が遣つた「關取二代鑑」の秋津島の内の場の伜力造の役が成つてゐないと言つて、怒りだし、到頭十四歳の玉造を勘當同然にしてしまつたといふことである。
 さういふ人を玉造は父に持つて、そしてはげしい修行できたへて來たのである。子供の玉助にもすくなくとも藝の上では嚴格であつたことは、いふまでもなからう。
 名人の玉造がはじめて持つた役は鶴千代だつたが、榮三もまたなんの因縁でか、はじめて貰つた役らしい役は鶴千代であつた。コレラの流行した年の翌年の一月である。榮三はこの時十六歳であつた。
 以後榮三にはぼつぼつ端役が當てがはれたが、しかし、それでもう下積みの足遣ひを卒業したかといふと、さうではなかつた。やはり自分の役の合間合間には、この足を遣へ、あの足を遣へと、こきつかはれた。が、これはひとり榮三だけに限つたことではなく、どの人形遣ひも修行中は皆させられるのである。吉田冠四などは、さきにも述べたやうに、六十歳まで主遣ひになれず、足ばかり遣つてゐた。
 俗に足遣ひ十年といはれてゐる。いふまでもなく人形は、主遣ひ(あるひはシン遣ひ、胴遣ひ)左遣ひ、足遣ひの三人で操るのだが、その三人の呼吸が少しでも狂へば、もう人形は死んでしまふ。それ故、足遣ひの仕事といつても莫迦にはならず、ことに足遣ひは立つ、坐る、歩く、走るなどの動作のほかに、人形の動きと三味線の間にピツタリ合はせて足拍子を踏まねばならない。そして、それらがすべて主遣ひの足もとにかがんで、五尺の身體を三尺にも二尺にも縮めて遣ふのだから、骨の折れることは大變なものである。しかも、これらの動きは、あらかじめ打ち合はせてやるわけではなく、自分の身體を主遣ひの腰にすりよせて、その腰のひねり方を自分の右腕に感じ、その感じと太夫や三味線のイキによつて、咄嗟の動きを悟るのであるから、わづかの歳月では覺えられるものではない。それに、いつなんどき誰のどの役の足を遣はされるかわからず、その役をすつかり呑み込んで置かねばならない。足遣ひ十年といはれるのも、誇張ではないのである。
 榮三は小柄ゆゑ身體を縮めて遣ふのには、ひと一倍助かつたといふものの、しかし、やはりこの緣の下の仕事は辛かつた。
 たとへば、榮三はその年の冬「苅萱桑門[かるかやどうしん]」の高野山の場で、辰五郎の道心の足を持たされた時の辛さを、いつまでも忘れることが出來なかつた。この場では、石童丸との名殘りが二十分も掛るのだが、その間人形の動きは殆んどなく、道心はぢつと突つ立つたままである。で、榮三は高下駄をはいた道心の足をキツチリ揃へて、ピタリと支へてゐなければならなかつたが、余りの苦しさに一寸氣を抜くと、辰五郎の舞臺下駄で向脛を蹴られて血がにじんだ。
 また榮三はカゲを打たねばならなかつた。カゲを打つといふのは、人形のきまり、きまりに、かげに居つてチヨンチヨンと柝を打つことであるが、ある時「安達ヶ原」の三段目の辰五郎の貞任に、カゲを打つたところ、その打ち方が氣にくはぬと、やはり舞臺下駄で向脛を蹴られて、大怪我をした。それで翌日はスカタンを打たぬやうにと、氣を配つて舞臺へ出るともうその日は辰五郎のきまりの個所が變つてゐるので、狼狽しなければならなかつた。
 
  五
 
 明治二十一年、榮三が十七歳の二月、彦六座が燒失した。
 それで新築の普請が出來上るまで、一座はちりぢりになつて旅巡業に出た。榮三も芳太夫、兵吉、玉松、小才、玉六などの小人數に加はつて大和方面を廻つた。
 まだ汽車は通じてゐなかつたから、天王寺の河堀[こぼれ]口から國分峠の麓まで馬車で行き、そこから草鮭がけで大和にはいり、あちこちと打つてまはつた。土佐町を最後に旅興行を切りあげて、高田へ戻つた。そして、そこで一日泊つて大阪へ立つ積りだつたが、所持金も心細かつたし、直ぐ國分峠へ急げば天王寺行きの馬車に間に合ひさうだつたのを倖ひ、道を急いだ。ところが、途中で人形遣ひの一人が、蛙に惡戯をはじめた。火のついた煙草を紐の先に附けて、蛙の側へ持つて行くと、餌かと思つて喰ひついて來る。それを釣つてヒヨイと向ふへ投げると、蛙は後足をシユツと伸ばして死んでしまふ。それを見て、皆んなも眞似て釣りだした。手先きの器用な連中ゆゑ、面白いほど釣れた。この惡戯に旅の辛さを忘れながら暫らく行くと、小川の邊で犬と蛇が喧嘩してゐた。犬はすぐ逃げだすのだが、子供たちが集つてけしかけるので、また蛇に突つ掛つてゐる。そのありさまを一行は長い間見物した。
 そんなことで、うつかり時間を食つたので、國分峠を大周章てに越えたが、馬車には乘り遅れた。高い人力車などに乘る金は無論なかつた。そこで一行は、とぼとぼ大阪まで歩いて行くことになつた。日頃舞臺で立ちづくめで足の強い人形遣ひもさすがに平野あたりまで來ると、もう歩けなかつた。這ふやうにして榮三が生國魂[いくだま]~社の近くにあるわが家へ辿りついたのは、夜の九時頃であつた。
 
 旅から歸つて、間もなく六月二十日を初日として、彦六座の新築興行の幕が開いた。が、思つたほど客は來ず、彦六座の衰運も火災と共に傾いて來たやうで、一座の者には氣味わるくかつ心細かつた。おまけに、翌二十二年の春興行中には、紋下の住太夫がなくなり、つづいて翌二十三年の夏には人形紋下の吉田辰五郎がなくなり、同時に三吉、兵吉などの人形遣ひも退座し、いよいよ彦六座はさびれて來て、盆替りの興行は五日しか打てず、すぐ狂言を替へて初日を出さねばならぬといふ情けないありさまだつた。
 榮三は翌二十四年の一月興行が濟むと、彦六座から暫らく暇をとつて、~戸の楠社内にあつた菊の亭といふ寄席へ出勤した。菊の亭へはその頃女義太夫が掛り、人形は文樂の玉五郎がシンで、三吾、兵吉、玉米、榮壽などで、榮三がこの寄席へ出勤したのは、彦六座の先輩である三吉、兵吉や、叔父の榮壽などの勸めであつた。
 この時榮三はちやうど二十歳であつた。
 榮三はこの寄席の二階に寝起きしながら、まる一年くらした。寄席稼ぎは收入[みい]りはよいとはいふものの宿をとつたり、どこかの二階を借りたりするには、やはり足りなかつたのである。さうして、菊の亭で働いてゐる間、榮三の氣に掛るのは大阪の彦六座のことであつた。ところが、その年の暮に兵庫の「村芝居」へ大阪の人形一座が掛つたときいたので、出向いて行くと、果して彦六座の引越し興行で、きけば、この一年彦六座の興行は不入りつづきで、到頭旅興行に出て來たとのことであつた。
 榮三は二十一歳の正月まで菊の亭で働いたが、二月にそこの人形の一座が京都四條北側の芝居に掛つた素人連の淨瑠璃興行に雇はれたので、榮三もそれに一座し、ひきつづき三月から四月へかけて千本通の上[かみ]の方[はう]や・猪熊の小屋に出たりした。
 そして、大阪へ歸つて來ると、彦六座はまだ休業してゐたので、榮三はその足で再び~戸へ行き、菊の亭で働いた。この時もやはり女太夫で、今の吉田文五郎が巳之助といふ名で一緒に働いてゐた。文五郎は明治二年生れといふから、當時榮三よりは三つ年長の二十四歳で、死んだ吉田玉助に入門し、はじめ松島文樂から御靈文樂で働いてゐたのだが、文樂では食へず、やはりさうして寄席稼ぎしてゐたのである。
 
 十月まで~戸にゐて、榮三は大阪に歸り、十一月興行から彦六座に復歸した。この時榮三は「大江山」の碓井貞光[うすゐさだみつ]と「三日太平記」の松井市作の役を貰つたが、この復歸を機會に彼は叔父の榮壽から貰つた光榮の名をかへし、本名の榮次郎からとつた榮三郎といふ名に改めたいと思つた。歳もちやうど二十一歳、定まつた師匠のない身輕さに、今獨立して一本立ちで行かうと思つたのである。そして、この旨を仕打に言ふと、
 「そら、よかろ。しかし、榮三郎の郎はいらんがな。榮三[えいざ]にしときなはれ」
 と、言はれたので、さうすることにした。
 かうして、榮三は獨立の喜びに勇み立つて、二年餘りの寄席廻りにきたへた腕を發揮するのはこの時だと、一生懸命遣つたが、まだ歳も若く人氣もない榮三ひとりが力んでみても、團平や大隅が旅に出た留守の無人の一座ではどうにもならず、散ざんの不入りだつた。
 その頃から仕打の灘安は逼塞[ひつそく]して土藏の中に住みだし、彦六座の經營もいよいよ苦しくなつた。そして、翌年の盆替り興行まで辛うじてもちこたへたものの、その興行が七日しか打てぬといふ不成績ぶりを見て、到頭彦六座を投げだしてしまつた。灘安がョりにしてゐたもと同じ酒屋の旦那の柳適太夫も旣になくなつてゐた。
 彦六座が沒落したので、一座の者はちりぢりになり、ある者は文樂へはいつたがたいていは旅を廻つたり、寄席へ出たりなどして、再起の機會を待つてゐた。榮三は再び~戸の菊の亭へ出た。
 ところが、その年が明けると、その頃博勞町三休[さんきゆう]橋の北東角にあつた「花里櫻[ママ]」といふ料理屋の旦那が、彦六座の小屋を買收して、稻荷座と名を改めて、興行することになつた。舊彦六座の者は喜んで、これに参加した。榮三も勿論である。旅を廻つてゐた團平、大隅も歸阪して、加はつた。おまけに、十九年に文樂座を退いてからづつと休養してゐた世話物の名人五世彌太夫が出座して紋下に座り、また人形では東海道邊りを旅廻りしてゐた豐松C十郎が大隅の紹介で座頭格として新加入するなど、一座の顔觸れは堂堂たるものであつた。舊彦六座の仕打の灘安も十八[とはち]太夫と名乘つて、こんどは藝人として加はつた。
 さうして、三月二十六日の初日で開場したが、榮三は「菅原」の梅王、「お染久松」飯椀[めしわん]の久松、「式三番叟」の千歳の三役を貰つた。この興行は大變な入りであつたが、旅の間に團平からはげしく仕込まれてゐた大隅がこれまでとは見違へるほどの「寺小屋」を語つたし、それに紋下の彌太夫の「飯椀」がさすがに世話物の名人といはれるだけあつて、惡聲ではあつたが、見事な寫實味で客を泣かしたし、團平の指揮のもとに太夫三味線人形の精鋭が熱演した三番叟もあり、客が來たのも當然であつた。舊彦六座の者は涙を流してよろこんだ。
 榮三はその年の盆替りの彌太夫の演し物「四谷怪談」伊右衞門内の段で下男小介の役を振られた。いふまでもなく端役である。ところが、彌太夫から急にダメが出て、小介を駒十郎に、直助權平を榮三に振りかへてしまつた。駒十郎は榮三から見ればはるかに先輩である。その先輩へ何故自分の役であつた小介が振られたのであらうと、榮三にはわけがわからなかつた。理由もいはずに變へられたのだから、良い氣持はしなかつた。駒十郎にしても同様であらう。いや、駒十郎にしてみれば、そんな端役を振られて、一層良い氣はしなかつたであらう。
 ところが、初日になつてみて、榮三は驚いた。端役だと思つてゐた小介を、彌太夫は非常に丁寧に語つてゐる。まるで小介が主役のやうである。人物の性格を語りわけるのに妙を得てゐる彌太夫だから不思議はないものの、しかし、たしかに彌太夫は他の人物よりも小介を重要視してゐるやうである。なるほど端役だと思つてゐた小介にも、こんな生かし方があつたのかと、榮三は感心した。そして同時に、彌太夫が小介を自分に遣はせなかつた理由が判つたと思つた。彌太夫は自分のやうな未熟者には、大事な小介を遣はせたくなかつたのであらうと、判つたのである。
 榮三はこの時豁然として悟つた。慢心してはならないと思つた。そしてまた、どんな端役もおろそかにしてはならないと思つた。
 ところが、間もなく榮三に大役が廻つた。もつとも大役といつても、代役であつた。二十八年の二月の興行で、團平が節付した「勸進帳」(鳴響安宅新關[なりひびくあたかのしんせき])の初演があり、辨慶の役の駒十郎が途中で病氣したので、その代役が榮三に廻つて來たのである。
 人形遣ひは皆代役をよろこぶ。代役が廻つて來るのを待つてゐるのである。誰れか病氣して休んでくれないだらうかとさえ思ふくらゐである。何故なら、代役でなくては、そんな大役は廻つて來ないし、そしてまた代役を立派に勤め果たすことが伎倆を認められる機會になるからである。で、榮三も喜んで引き受けたが、人形を持つて舞臺へ出てみると、人形の重さに驚いた。おまけに榮三は小柄ゆゑ、辨慶の人形をぐつと支へ上げねばならず、舞臺の高い所にゐる富樫に向つて勸進帳を讀む間の辛さは、わづか二日間であつたが、よく寝こんでしまはなかつたものだと、あとで思つたくらゐであつた。それを榮三はぢつと辛抱した。
 ところが、この「勸進帳」の上演に對して、市川宗家から板權侵害の訴訟をおこした。そこで團平は法廷へ出て、勸進帳は近松巢林子の原作である、市川宗家のみが私すべきものではないと主張して、事なきを得た。
 どうなるかと思つてゐた一座の者は、團平が訴訟に勝つたと知ると、ほつとし、ますます團平に信服した。そして、この團平と彌太夫、大隅の居る限り、稻荷座は大丈夫だと安心してゐたところ、間もなく仕打の花里が株で失敗して、興行をつづけることも危まれた。
 そこで、團平、彌太夫、大隅の三人は、ここで稻荷座がつぶれてしまつては大變だと、無給で出演することを仕打に申出て、ともかく興行をつづけて貰ふかたはら、善後策を講じ、その結果ひゐきの内の有志が集つて大阪文藝株式會社を創立し、その手によつて稻荷座の經營を行ふことになつた。明治二十九年十一月のことである。この時組太夫も歸り、彌太夫以下、大隅、越、組の太夫で「忠臣藏」の通しを出したところ、大入であつたので、一同は虎口を脱した想ひにほつとした。
 
  六
 
 人形の道にはいつてちやうど十五年が經ち、榮三は二十七歳になつた。もと彦六座で一緒に働いてゐた門治から手紙が來た。今は東京の淺草に住んでゐて、寄席の人形芝居に出てゐるといふたよりだつた。
 榮三は讀んで、羨しかつた。彼は子供の頃から、東京といふところが一度見たくて堪らなかつたのである。で、お前も東京へ來ないかといふ誘ひの文句を見ると、もう我慢がし切れなかつた。
 そこで、榮三は血氣の餘り稻荷座を暇取つて、ちやうど小正月の一月十五日の朝、梅田の驛から汽車に乘つた。途中名古屋で下車して、白山~社近くの知人の家に立ち寄つた。一晩泊めて貰ひ、すこしは無心を言つてみやうと思つたのである。父は五圓の旅費しかくれなかつたのだ。
 ところが、立ち寄つてみると、主人は留守で、一見識もない細君だけしかゐなかつた。當てが外れたが、それでも晩御飯だけをよばれて、その夜の六時の上りで名古屋を發つた。
 翌朝、新橋へついてみると、二十錢しか無かつた。十錢ですしを食べ、馬車で淺草まで行き、門治の家を尋ねまはつた。やつと探し當てたが、母親が出て來て、門治は~田の新聲館といふ寄席へ行つて留守だといふ。
 もう四錢しかなかつた。馬車にも乘れず、その足で~田まで歩いた。途中で「サンライス」といふ煙草を三錢で買つて一錢殘り、てくてく歩いてゐるうちに、一本の煙草に醉うてしまふくらゐ、腹が空つて來た。
 やつと、新聲館に辿りつくと、案の定門治がゐた。樂屋へ通されて、話をしてゐるうち、もと彦六座の頭取をしてゐた榮造がやはり同じ寄席で働いてゐるらしく顔を見せて、
 「光コ、よう來たな。――晝飯[ひる]はまだやろ」と言つて、辨當を注文してくれた。
 辨當を食べ終ると、榮三は楊子ひとつ使ふ間もなくそのまま黒衣[くろこ]を着て舞台へ出た。そして晝の新聲館の芝居をくたくたになつて濟ませるとその身體で夜はまた別の寄席へ出て働いた。着いた早早、少しは身體に樂をさせねばといふ氣持なぞ榮三にはなく、夜の寄席では門治が遣つてゐた「酒屋」のお園の役をわざわざ讓つてもらふくらゐで、人形さえ遣つてをれば、旅の疲れなぞ忘れてしまふのであつた。
 泊るところもなく、榮造の家に居候することになつた。榮造は彦六座の人形頭取をしてゐた頃から榮三を師匠のない子として可愛がつてくれてゐた。で、昔に甘えて居候することになつたのだが、榮造はちやうど十日前に東京の一座のシンの兵吉の世話で花嫁を貰つたところだつた。おまけに、榮造は新町の大火で燒けだされて、東京へ流れて來た矢先ゆゑ、萬事不如意で、夫婦二人の暮しにさえ困る日日を送つてゐるらしいのが、榮三にもすぐ判つた。細君は贅澤な氣性の女だつた。
 惡いところへ來たと恐縮してゐると、ある日榮造は、細君に兵吉のところへ手紙を持たせてやつた。そして、
「榮コ、お前もついて行つたリイ」
 と、言ふ。そこで細君と同道して、兵吉の家へ行くと、兵吉はその手紙を讀んで、
 「榮コ、お前さきに歸つとリイ」
と、言つた。そこで、一人で榮造の家へ戻つて來たが、いつまで待つても細君は戻つて來ず、實は細君が兵吉のところへ持つて行つたのは自分の離縁状だつたのだ。
 榮造は榮三を家へ置いた代りに、新妻を追ひだしてしまつたのである。榮三はますます恐縮したが、けれど榮造はその賛澤な氣性の細君が氣に入らなかつたらしかつた。
 
 榮造の家に居候して一月ばかり新聲館その他の席で働いてゐたが、間もなく、大阪の稻荷座の大隅太夫から、榮造の所へ手紙が來た。榮三を大阪へ歸せといふのである。榮造はそれを讀んで、
 「追ひ歸すわけやないけど、こらやつばしお前は歸つた方がええな。なんちうても、人形淨瑠璃は大阪が本場や。お前もこれから頭を抬[あ]げんならん男やさかい、やつばし大阪イ歸つて修行した方がええ。歸んなはれ」
 と、言つた。
 そこで、榮三は二月の末に新橋を發つて、大阪に歸ると、すぐ稻荷座の三月興行に出て、「忠臣藏」の喜多八を遣つた。
 この「忠臣藏」は通[とほ]しで、「大序[だいぢよ]」は、彌太夫の直[ただ]義、組太夫の判官、大隅の顔世[かほよ]、伊勢太夫(のちの土佐太夫)の若狭[わかさ]之助に、三味線は團平といふ豪華な顔觸れであつた。「大序[だいぢよ]」は一曲の第一章で、普通太夫や三味線の最下位の者が勤めるので、この人達のことを大序の人といふくらゐである。角力でいへば幕下である。それを紋下以下の精鋭が總出演で勤めるといふのだから、いはば勿體ないくらゐの「大序」であつた。
 七十二歳の名人團平はこの時「大序」のほかに、「茶屋場」と「九段目」を彈いた。その歳でよくそんな無理がきくものだと、ひとびとは老いてなほ疲れを知らぬ團平の剛力に感心してゐたが、さすがに「茶屋場」だけは中頃から源吉がかはつて彈いた。
 つづいて四月興行には、團平は大隅の「志渡寺[しどうじ]」を彈いた。相變らず、その大ノリのタタキは、まるで三味線の音とも思へぬくらゐ凄く、表の木戸番が道具が倒れたのだと早合點して、勘定場へ飛び込んで來るほどであつた。
 そして、二日目のことである。「まさしく金比羅大權現――」の一二三「すりあげ」の合の手の「たたき」の音を、これが人間業かと感心しながら榮三が舞臺で聽いてゐると、もうあと一枚といふところの、「――はやせぐりくる斷末魔」の合の手のくりかへしの二へん目が、ふつと調子が狂つたので、榮三がはつと思つて見ると、團平は床の上でがくり前のめりになつてゐた。
 すぐ床を廻し、龍助が着物のままで出て替りを勤めた。榮三は人形を遣ひながら、團平のことが案じられてならなかつた。
 幕になると、榮三はすぐ二階の團平の部屋へ駈けつけようとした。すると誰かが、
 「堀江はんの部屋や」
 と、叫んだ。
 團平の部屋は二階だつたので、新左衞門と友松(のちの道八)が通稱「堀江の大師匠」の彌太夫の部屋へかつぎこんだのであつた。
 榮三は彌太夫の部屋へ駈けつけた。が、その時は團平を擔架にのせて病院へ運んで行つたあとだつた。そして、間もなく榮三の耳に、團平が病院へ行く途中三條橋の北詰で息をひき取つたといふ報らせがはいつた。
 その夜、榮三は島ノ内C水町、心齋橋を東へ入つたところにあつた團平の家へ通夜に行つた。
 末座にひかえてゐると、集つた人達が團平の噂をしてゐる。
 「C水町さんは三味線の一番上まで行きはつたが、またもとの大序まで戻つて死なはつた」
 などと言つてゐる。前の月の興行で團平が「忠臣藏」の大序を彈いたことを言つてゐるのである。
 そのうちに、主だつた者が、
 「葬式の金も無いさうや。さあ困つたな、どないしよ」
 と、相談をはじめた。遺産はすこしも無いといふことであつた。
 榮三はそれを傍できいて、團平が物慾に括淡で金錢に無頓着な人であることはかねがね知つてはゐたが、あれほどの名人で、しかもその教へを受けた者が千人を下るまいといはれてゐた團平が葬式金も殘さなかつたのは、まるで、嘘のやうに思はれ、なるほどC水町はんは藝のほかに何もなかつた人や、藝が命になつてしもたら、貧乏も忘れてしまふのかと、今更のやうに感心した。
 そして、團平が稻荷座の經濟難を救ふために彌太夫や大隅太夫を説いて、無給で出演してゐたことなどを想ひだしてゐると、誰かが、「C水町はんは、なんでもかでも紙屑箱に放うり込む人やつたさかい、いつべん紙屑箱の中探してみたらどないや」
 と、言ひだした。
 それで、みんなが團平の稽古机の傍にあつた紙屑箱の中のものを出してみると、果して團平が貰つた給金や、祝儀や稽古の謝禮が封もきらずに紙包のまま、紙屑と一緒に放うりこんであつたのが、いくつも出て來た。
 「助かつた。これで葬式金が出來た」
 と、一人が言ふと、誰かがまた、
 「それで想ひだしたが……」
 と、こんな話をした。
 團平のところへ、二度目の細君のお千賀が來た頃のことである。
 月末になつて、借金取りが來ると、團平はその紙屑箱を出して、
 「さあ、その中からほしいだけ取つて、持つて歸りなはれ」
 と、言つて、そのまま借金取りの顔も見ず、稽古をつづけてゐたといふ。
 「なるほど、そ言へば、そやつたな。しかし、そら借金取りの話やが、わいの聽いたのは、泥棒にはいられた時の話や」
 と、また一人が話しだしたのは、かうだつた。
 團平がまだ獨り身の時に、泥棒がはいつた。すると、團平は、
 「三味線と撥と、舞臺で着るもんのほかやつたら、なんでも持つて往きなはれ」
 と、言つて、れいの紙屑箱を出した。泥棒は兩手を突つ込んで、さらつて持つて逃げたが、あとで泥棒が勘定してみると、百十兩もあつた。それで、泥棒は、氣味がわるくなつて、どうにも手がつけられず、團平のとこへ戻して來たといふのである。
「その泥棒はあとで捕つた時、團平いふ男はえらい男やと言うとつたが、たしかに、藝人はC水町はんみたいにならんといかん。大きな聲では言へんけど、松葉屋の師匠とえらい違ひやな」
 と、その男は言つた。
 松葉屋の師匠といふのは、當時團平につぐ三味線彈きとして、文樂座に出勤してゐた五代廣助のことである。細君のはながお茶屋をしてゐた時の家號が松葉屋だつたので、廣助はそれを家號としてゐたのである。
 この松葉屋廣助は、放縦な父親のために莫大な借金を背負はされて、隨分金には苦しみ、貧乏の辛さが骨身にこたへたので、發奮して蓄財を志し、宴會の折詰の折箱まで金にかへるといふ藝人にはめづらしい吝嗇[こまか]さがつもりつもつて、もう十萬圓も殘したとか言はれてゐた。
 「松葉屋の師匠は道端の葱を拾[ひろ]て歸つて、食べたちうことや」
 さう噂してゐるところへ、松葉屋廣助が顔を見せた。そして、團平の枕元へ坐ると、蠟色になつた團平の手を取つて、
 「ああ惜しい手を死なしたこの手は何萬兩だしても買はれん手や」
 と、言つた。
 松葉屋らしいことを言ふと、ひとびとは思つたが、その言葉で、ひとびとは今更のやうに、もうあの三味線が聽かれぬのかと、すすり泣いた。
 間もなく、初代玉造がはいつて來た。
 「あ、親玉はん、ようこそ」
 と、挨拶したひとびとにはちよつと頭を下げたままで、玉造は團平の枕元へ駈けるやうに寄つて行つて、
 「團平さん、團平さん」
 と、言ひながら、ぼろぼろ涙を落した。
 それを見て、ひとびとは、かつての團平と玉造の喧嘩を想ひだした。
 まだ長門太夫が生きてゐた頃のことである。長門が團平の三味線で「志渡寺」を語ることになつて、その總総稽古の日のことである。
 お辻の祈りのくだりの、「ものを言はつしやれぬか」トチチリトチチリ「南無金比羅大權現」トチチリトチチリといふ、團平の「たたき」が物凄い音を出す性念場へ來た時、團平はどうした氣のゆるみだらうか、稽古といふので氣を許したのであらうか、三味線の棹に粉をかけ、胴をなめた。
 すると、玉造は、
 「胴がなめたかつたら、樂屋でなめて來なはれ。氣がぬけて仕様がない」
 と、舞臺から怒鳴つた。團平ははつと思つたが、けれどまだ若かつた。團平は血相をかへた。が、長門が仲裁したので、喧嘩にならずに濟んだ。
 その次の興行で「千本櫻」が出た。權太の引つ込みの「是忘れては」のくだりの打ち合はせを、團平から言つて來た時、玉造は、
 「あんたのええやうに彈いとくなはれ。こつちはどう彈かれても乘つて行きまつさかい」
 と、打ち合はせに應じなかつた。
 團平はむつとした。そこで、初日にそのくだりへ來ると、團平は力のあらん限り彈きだした。長門はその調子に攻められて、みるみる苦しい汗を絞りだした。が、それよりも權太を遣つてゐる玉造が苦しみだした。團平の調子に乘つて行かうとすると、どんなに力があつても足りないくらゐであつた。が、玉造はどう彈かれても乘つて行くと言つた手前、その調子を外すわけにはいかなかつた。玉造は齒をくひしばつた。その拍子に緊めてゐた腹帶がぷつつり切れた。あとで、玉造は、
 「さすがは團平や。おれやさかい腹帶で濟んだが、ほかの者[もん]やつたら、腸が捻ぢれてしもたやろ」
 と、言つた。
 この喧嘩をひとびとは想ひだしたのである。以後、二人は不和になつてゐたといふ。けれど、いま玉造が死んだ團平の枕元で、
 「團平さん、團平さん」
 と呼びながら、おいおい泣きだしたのを見てゐると、二人が不和になつてゐたなどといふのは、ひとびとには嘘のやうに思はれた。よしんば喧嘩はしても、藝のほかには何ものもないこの二人の名人には、つまりはそれは藝の上の喧嘩で、それだけに相手の藝を愛する心は人一倍強かつたのであらうと、ひとびとには思はれたのである。
 すくなくとも榮三にはさう思はれた。
 
 四月二日の夜は次第に更けて行つた。榮三は、
 「C水町は自分で阿呆や言うて、葬式錢も殘さんと、一生貧乏で通したが、それがほんまに賢こかつたんや。おれみたいになまじつか金に眼がくれてる藝人の方が阿呆や」
 と、しみじみと松葉屋廣助が言つた言葉を聽きながら、こんなありがたい通夜に列ぶことの出來た自分を、倖せに思ひ思ひしてゐた。
 
  七
 
 團平が死んでしまふと、稻荷座はにはかにさびしくなつた。客の入りも目立つて減つて來た。經營主の文藝株式會社の會計ももうその以前から苦しくなつてゐて、小屋を抵當に入れて、金を借りてゐたらしかつた。
 それでも五月興行は無事に濟み、そして六月興行がはじまつたある日のことである。
 一座の者は、いきなり、今日限り稻荷座を解散すると言ひきかされて、呆然とした。まもなく六月興行も千秋樂で、夏休みである。夏休みの間に小屋の借金の整理をして、盆替りをあける積りであつたのに、千秋樂もまたずに解散するといふ。誰ひとりとして耳を疑がはぬ者はなかつた。
 しかし、だんだん聽けば、文藝株式會社の社長の岡崎が、稻荷座を獨斷で文樂座へ賣つてしまつたといふことである。文樂座ではかねがね目の上のこぶである稻荷座の崩壞を策し、これまでにもしばしば團平、彌太夫の引き抜き運動をやつてゐたが、それが効を奏さなかつたので、こんどは社長の岡崎に働き掛けて、遂に稻荷座を買收してしまつたのである。
 
 稻荷座が潰れてしまつたので、榮三は再び寄席を廻るより道はなかつたが、倖ひ文樂座の頭取の吉田三吾が、寄席を稼ぐよりはいつそ文樂の檜舞臺で修行してみてはどうかと言つてくれた。
 そこで、榮三は盆替りから御靈文樂座へ出勤することになつた。
 その頃文樂座は、三世文樂翁は旣になく、また四代目の座主植村大助も早世して、その實子の泰藏が五代目を繼いでゐた。しかし、泰藏は病弱の上に素行も修らず、實際の監督は大助の未亡人ハルが當つてゐた。ハルは幕内の信ョがあり、「おえはん」と呼ばれてゐた。
 紋下は越路太夫、ほかに法善寺の津太夫、ハラハラ屋の呂太夫、染太夫、七五三[しめ]太夫、文字太夫、源太夫、むら太夫など、三味線は松葉屋廣助が紋下で、五代吉兵衞、勝鳳[しようほう]、才治、四代勝右衞門、四代勇造など、人形は紋下の玉造のほかに、先代紋十郎、玉治、二代玉助、金之助(後の多爲藏)、玉五郎、助太郎など、頭取は吉田三百で、稻荷座にくらべてさすがに賑かな顔觸れであつた。
 ことに、榮三にとつては、人形芝居始まつて以來の名人吉田文三郎につぐ名人といはれてゐる玉造や、女形遣ひの名人桐竹紋十郎と一座することがうれしく、思はず心がひきしまつたが、けれど文樂座は昔から古參者を大切にして、新參者には待遇のわるいといふしきたりだつたので、稻荷座では若手の花形であつた榮三も、碌な役も貰へなかつた。
 ところが、「相撲場」の長吉を遣ふ金之助がトチツたので、その代役が初日から榮三に廻つて來た。文樂へはいつたその日から代役が廻るとは、なんとありがたいことかと、榮三はよろこんで勤めたが、それが「おえはん」や勘定場の者の眼にとまつて、榮コはよう遣れるといふことになつた。
 しかし、それですぐ優遇されるといふことはなかつた。それどころか、その次の年の二月興行で「阿波鳴門」のお鶴の役を當てがはれた。この役割が發表されると、さすがに榮三はよい氣はしなかつた。稻荷座では重次郎や勝ョを遣つてゐたのに、今更子役を遣へとはあまりだと思つたのである。
 ところが、初日になつて、お弓とお鶴との母子對面の場を濟ませて、次の殺しの場の出を待つてゐると、十兵衞の玉造が、
「榮コ、おれの足遣へ。そんな端役のお鶴は誰ぞに遣はせ。お前はおれの足持つて、十郎兵衞をよう見とき、見とき」
 と、言つた。
 「へえ、おほけに」
 と、榮三はよろこんだ。足遣ひからもう一度たたき上げてやらうといふ玉造の氣持が、うれしかつたのである。
 そして、その後榮三は本役のほかに隨分足を持たされ、まるで子役上りのやうに、一日忙しい想ひがしたが、しかしこれも皆末のためだ、修行だと思つて、我慢して黙默と勤めた。
 
 一方、舊稻荷座の者たちは、どうかしてもう一度旗上げしようと、彌太夫以下がもとの文藝株式會社の有志を説いてまはり、稻荷座沒落後五ヶ月目の十一月から、北堀江の明樂座に立て籠つて、興行してゐた。
 もつとも、彌太夫は引退して出座せず、後見として監督することになつて、太夫は、大隅、組太夫、伊達太夫、住太夫、春子太夫、長子太夫等で、三味線は廣作に小團二、濱右衞門、友松、新左衞門など、人形はC十郎、玉米、門藏、それにもと己之助といつてゐた文五郎が簑助の名で稻荷座時代からひきつづいて、この座へはいつてゐた。
 ところが、翌年六月に花形玉米が急死した。それで、明樂座では急に人形遣ひが手不足になつたので、文樂座へ行つてゐる榮三を呼び戻さうとした。明樂座の仕打の花里は稻荷座時代から榮三にいくらか金を貸してゐた。それを楯にとつて歸れと言つて來たのである。が、文樂座でも榮三を忙しく使つてゐるので、手離したくない。借金があるなら、返してやらうとまで言つた。それを明樂座へ傳へると、金を返せといふのではない榮三の身體が要るのだ、働いて貰はうと思へばこそ前に金を借してあるのだと言つてきかない。
 さうして、すつたもんだしてゐるうちに、三十三年の一月興行の番附には、文樂座と明樂座の兩方に、榮三の役が出てしまつた。文樂座の方は、前の「八陣」の春姫と柵、中の紋下の越路の「酒屋」の半七、明樂座の方は、前の「信長記[しんちようき]」の信長と十河[そがは]軍平、切の大隅の「質店」の久松である。
 榮三は困り果てたが、番附にさう出てしまつた以上どうするわけにもいかず、まづ文樂座の三役を濟ませると、その足で北堀江の明樂座へ駈けつけ、「質店」の久松を遣つた。しかし、信長と軍平は間に合はず、代りをョまねばならなかつた。二月は文樂座は狂言を持ち越した。明樂座の方は一月の晦日から二月興行の初日をだし、「忠臣藏」の通しで、榮三の役は小浪とおそのであつた。で、榮三は同じやうに文樂の三役を濟ませると、明樂座へ駈けつけ、「道行」の小浪から勤めた。「松伐り」の小浪は間に合はず、勿論代役をョんだが、その「道行」小浪でさえ、さすがにトチることがあり、玉次郎にョんで代つて貰はねばならなかつた。
 榮三は悩んだ。こんな風に忙しく藝の切賣りじみたことをしては、藝が荒んで來る一方だ、おまけにトチヅて座に迷惑を掛け、客にも會はす顔がない。さう思ふと毎日氣持が暗くなつて、それが一層藝に影響する。どちらか一方を斷らねば、自分の藝がくさつてしまふと、思つた。
 それで、榮三は前まへからの義理を考へて、一時文樂座を暇取つて、借金が濟むまで明樂座で働くことを決心し、三月からさうした。そして、月月の給金から少しづつ借金を戻して行くことにした。
 
 明樂座での義理を濟ませて、榮三が再び御靈の文樂座へ歸つたのは、それから二年六ヶ月のちの明治三十五年の九月であつた。
 その六月の明樂座の興行は、大變な不入りで、早く打ちあげて太夫や三味線は人形なしの素淨瑠璃の旅に出てしまつたので、榮三は仕打の花里の手代のところへ行つて、借金も旣に濟んでしまつてゐるし、これを機會に暇をくれと言ふと、旦那が旅から歸るまで待てとのことで、それを待つてゐるところへ、文樂座の方から頭取の三吾が迎へに來てくれて、萬事話がついたのであつた。
 借金で縛られて働いてゐるといふ氣持は暗かつたが、けれど榮三は明樂座の舞臺を投げやりにしたわけではなく、C十郎や門藏や、それから一時東京から來てゐた名手西川伊三郎に揉まれて精進し、また役によつてはわざわざ文樂座の多爲藏に教へを請うたりして一心に勤めたので、めきめき技倆が上達してゐた。それで、文樂座でももう榮三を冷遇するやうなこともなく、給金ももとの倍になり、番附も「雨晒し」に座ることになつた。
 ここですこしく番附のことを言ふと、人形遣ひの筆頭は、筆下の左端で、次が筆頭の右端である。それと、眞中の中軸がある。以下、左右、左右と千鳥に讀んで行つて、人形遣ひの順位がきまるのだが、右端にすこし字間をあけて、更に右端に一人書き出してある。これは「別書出し」といつて、左端の座頭とたいした差異はないのだが、座頭が二人あつても困るので、ここに据ゑて置くのである。それともうひとつ、座頭のまだ左の方に、枠で圍まずに載せてあるのがある。これは圍み即ち屋根がないから、雨に打たれるといふ意味で、「雨うたせ」もしくは「雨晒し」といひ、若手で腕や人氣がある者で、本欄にいれると先輩の下位になつて顔が惡くなるので、さうするわけにいかぬといふ者を、ここに置くのである。
 その時、文樂座の座頭は無論玉造、別書出しは先代紋十郎、中軸は多爲藏、右の筆頭は二代玉助、そして榮三は雨晒しへ置かれたのである。現在の文樂座で雨晒しは若手の女形遣ひとして人氣のある桐竹紋十郎である。それから考へて行けば、當時三十一歳の榮三がいかに優遇されたか、また腕があり、人氣があつたかがわかるのである。
 さすがに、その時榮三はうれしかつた。もう明樂座と掛け持ちで勤めてゐた時のやうな暗い氣持もなく、もうここで一生修行しようと思つた。
 ところが、それから二月餘り經つた十一月の二十四日に、父の榮助が五十四歳でなくなつた。
 良いことは續くものではないと、榮三は思つた。おまけに、かへつて惡いことが續いたのである。といふのは、その翌年の正月から榮三は齒をやみ、それが昂じて到頭骨膜炎になつた。入院したが、醫者の言ふのには、大手術をしなければならぬ、手術の結果生命を落すやうなことがあつても構はぬかといふのである。えらいことになつてしまつたと思つたが、そのまま放つて置くと、骨が腐るばかりなので、生命を失つても苦情はいはぬといふ證文をつくつた。が、さうして手術の日を待つてゐるうちに、妹が腫物の~様の石切さんへお詣りしてくれた。間もなく手術をしたが、それはほんの骨の一部分を削つただけで、簡単なものであつた。證文は捺印はしなかつた。
 退院した時には、もう三月興行がはじまつてゐたが、榮三は途中から舞臺へ出た。もつとも本役の「女[ママ]四孝」の濡衣[ぬれぎぬ]の役は出遣ひだつたので、まだ繃帶のとれぬ榮三は出遣ひするわけにいかず、ほかの輕い役に替へてもらつた。舞臺の合間には、病院通ひをしなければならず、まだすつかりよくなつてゐない身體で舞臺に出るのは無理だつたが、前後五週間の入院代が思ひのほかの高額で、自分の分はもちろん親や妹の乏しい財産まですつかり無くしてしまつてゐたので、無理をしてでも稼がねばならなかつたのである。ひとつには、やはり人形を手にしてゐないと、淋しかつた。
 その興行は大入りだつたが、五月は紋下の越路(當時春太夫)が小松宮家から賜つた攝津大掾の號に改名する披露興行があるので、その準備のため四十五日ほどで打ち揚げた。
 
 その頃、明樂座は旣に經營難で潰れてゐて、一座の大隅太夫が文樂入りをして、その「壼坂」を附物に、「妹背山」の通しを出し、「山」の掛け合ひ、大掾の定高[さだか]に、三代越路の雛鳥、津の大判事、染の久我[こが]之助、「杉酒屋」は越路、「上使」が津、「竹雀[たけす]」が大掾といふ豪華な顔觸れだつたから、この披露興行は折柄の博覧會の景氣も手傳つて、五月一日から七月十五日、七十五日間打ち通しの大入りであつた。
 この興行の景氣の旺んであつたことは、その頃の文樂に關係してゐた人が一人殘らずいつまでも語り草にするほどで、榮三もまた後年、「六十年の舞臺生活を振りへえつてみて、どの點からいつても、あの時の興行が文樂の全盛期でした」と言つてゐるが、けれどこの時、榮三は、傷口のガーゼの上ヘマスクを掛けて出遣ひしなければならず、まだ身體も本調子でなく、芝居の景氣にひきかへ、ひとり苦しい舞臺であつた。
 
  八
 
 明治三十七年二月に日露戰爭が勃發した。
 その月の十八日、三味線紋下の松葉屋廣助が遺産二十萬圓を殘して、死んだ。
 當時、一三味線彈きでこれだけの蓄財をした者はなく、その點でも第一人者であつたが、三味線にかけても廣助の右に出る者はなかつた。道端の葱を拾つて臺所に使つたり、宴會の折詰の空箱を金にかへたり、絶えず些事にも細心の注意を怠らず、いはば藝と蓄財の二筋道を歩いて來た人だけに、藝一筋でそのほかのことは何も構はなかつた團平にはさすがに劣つたが、しかし、團平につぐ近世の名人であつた。
 明治二年、まだ廣助が若かつた頃、堀江の芝居で竹澤彌七が大三味線を彈いた。それを見て、廣助はおれも負けるものかと二貫目もある釘貫[くぎぬき]で阿古屋の三曲を彈いたことなど、ひとびとはお通夜で昔語りした。
 廣助が死んだので、文樂座の紋下は太夫の攝津大掾と人形の玉造の二人きりになつたが、その玉造はそれから一年も經たぬ三十八年の一月十二日に死んでしまつた。
 玉造が死んだ時、その胴巻から隨分の額の金が出て來た。彼は銀行といふものを知らず、あるだけの金をすつかり胴巻の中に押しこんでゐたのである。そして、彼の得意の藝の早替りの時も宙乘りの時も、その胴巻を肌身離さなかつた。
 玉造はかねがね持ち溜めが良くて、口の惡い者は小心な蓄財家だといつてゐたけれど、しかし、ひとびとは、
 「親玉は松葉屋とはだいぶ違ふな」
 と、通夜の時に言つた。玉造の胴巻からは通用せぬ大政官札が何枚も出て來た、それを言つたのである。松葉屋の廣助ならこんなうつかりした手抜かりはしなかつた筈だとひとびとは思つたのである。
 それに、玉造が小心な蓄財家といはれるやうにまでなつたのは、一人息子の玉助に殘していかれた盲目の孫のためであることは、ひとびとにはうなづけた。守錢奴ではなかつたのである。
 それどころか、彼もまた團平と同じく藝のほかには何ものもなかつた人であることを、ひとびとは知つてゐた。それについて、通夜の晩、こんな昔話が出た。
 玉造が南區の炭屋町に住んでゐた頃のことである。
 ある時、炭屋町へ號外賣りが來た。
 「號外、號外!」
 といふ聲を聽いて、玉造は、
 「おい、ボウガイが來よつたぜ」
 と、弟子に言つた。
 「何言うたはりまんねん、親玉はん」と、弟子は笑ひながら、「あら、妨害と違ひまんがな。號外だつしやないか」
 と、言つた。すると、玉造は、
 「一字だけの間違ひやないか」
 と、答へたといふのである。
 やはり炭屋町に住んでゐた頃、文樂座からの歸りの夜道で、玉造は立小便をした。玉造は人一倍大男である。すぐ巡査に見つかつて、住所を訊かれた。
 「わたいの家でつか。西横堀の御池橋の東詰におます」
 「そんなことは訊ねとらん。町名はあるだらう。町名を訊ねとるんだ」
 「さあ、どない言ひましたかいな」
 自分の住んでゐる炭屋町といふ町名を知らないのである。
 「ョりない奴だな。御池橋の東詰だつたら、炭屋町だらう」
 「へえ、そない言ひましたかいな」
 「番地は何番だ?」
 すると玉造は、
 「そんなもん、うちにはおまへん」
 と、答へたのである。
 
 そんな風に玉造は世事に疎く、字は一字も讀めなかつた人だが、人形にかけては~様とまでいはれた人であつた。工夫に富み、松島文樂座柿葺落し興行の時、「松島八景」の所作事で、七化けの早替りをやつて魔術かと見物を驚かせたり、明治十三年の五月には、「五天竺」の孫悟空になつて輕業師のやうな宙乘りをやつたり、十七年九月の「夜這星」の所作では、夜這星となつて天井裏を飛びまはつたり、早替りで太夫の見臺から現はれたり、懷ろから出たり、ケレンの名手であつた。
 ことにその狐は天下一品で、毎日床で見てゐる三味線彈きにも、玉造の狐が早替でぱつと出て來る場所が舞台のどのへんであるか、判らぬくらゐ、眼にも止らぬ早業で、しかもいつたん狐が舞台へ出ると、もう玉造の身體が狐の中に吸ひこまれて見えなくなつてしまふくらゐの入~の藝であつた。
 玉造は狐のほかに猿でも鼠でも獅子でも、虎でも、淨瑠璃にあるほどの動物を全部遣ひこなしたが、けれど玉造の本領はかうしたケレンや動物遣ひだけにあつたのではなく、荒事でも女形でも立役でも道化でも何ひとつ出來ぬものはなく、しかもそのすべてが凄いくらゐの藝だつた。
 それはもう、單に技巧がすぐれてゐるといふやうな、生易しいものではなかつた。いつのことであつたか、紋十郎の父の桐竹門十郎が、
 「玉造、玉造と騒いどるが、いつたいどのくらゐ遣ひよるねやろ、いつぺん舞台で恐れ入りましたと言はしてやろ」
 と、思つて、文樂座入りをした。
 門十郎はそれまで外の芝居ばかりにゐた人形遣ひであつたが、腕は鍛へに鍛へてゐたので、玉造なにするものぞといふ自信があつたのである。おまけに、門十郎の細君のお久は門十郎に離縁されてからのち、嫁いで行つた先がひともあらうに玉造のところだつた。門十郎にしてみれば、一層玉造を負かしたかつたのであらう。
 ところが、門十郎がまるで道場破りの意氣込みではいつた時の狂言はたまたま「敵討龜山道中噺」で玉造の石井兵助に門十郎の敵水右衞門といふ役割であつた。宿屋の場で二人の立ち廻りになるのだが、その前に、門十郎の水右衞門が二階から降りて來る、玉造の兵助が表から戻つて來る、出合ひ頭にパツタリ顔を見合つた途端、ピシヤリと戸を閉める、その双方の呼吸[イキ]の凄さに、お互ひの身體が思はずふるへたくらゐであつたが、その時この舞台を見てゐた文樂翁は、
 「門十郎はとてもここに居よりやへんやろ」
 と、言つた。果して門十郎は間もなく退座した。門十郎の藝も凄かつたが、玉造の藝はそれ以上の凄さだつたのである。維新前の話だといふから、當時玉造はまだ若かつた。
 榮三はこの話を聽いて、自分もまた玉造と一緒に舞台に出てゐて身體がぶるつと震へるくらゐの凄さを經驗したことがあるのを、想ひだした。そして、榮三は一生師匠をとらぬ積りで、玉造から正式に弟子入りしてはといふ話があつた時も斷つたのだが、いま玉造に死なれて見ると、得がたい師匠を失つたやうな氣がした。玉造の足は何度も遣ひ、またその舞台も暇のあるなしにかかはらず見て來たが、なぜもつとよく見て学んで置かなかつたかといふ後悔が先に來て、通夜の晩、榮三はいきなりわつと泣きだした。
 この時、榮三は三十四歳であつた。
 この年の九月、日露戰爭が日本の大捷利のうちに終りを告げた。そしてその歓びの最中に、舊稻荷座の若手の者たちが北堀江市之側大露路内の堀江座に據つて、明樂座解散後二年八ヶ月振りに文樂座對抗の旗上げをした。
 大隅は旣に文樂座へ走つて兄弟子の攝津大掾の傘下にはいつてゐたので、この堀江座の一座は、春子、伊達、長子、雛、角、錣、新靱、此太夫等に、三味線は龍助、仙左衞門、小團二、新左衞門、人形は兵吉、玉松、文五郎の簑助、玉治等で、文樂座の老手達には及ばなかつたが、いづれも背水の陣の熱演をしたので、折柄の戰勝景氣もあり稻荷座時代の好況を取り戻すことが出來た。
 五世彌太夫は、稻荷座沒落後再び素人相手の稽古に退いてゐたが、明樂座、堀江座と轉轉として苦闘をつづけるこの一座のために蔭になり日向になり盡して來たが、この好況に氣を許したのか、一年餘りのちの十月三十日、七十歳でなくなつた。
 
 彌太夫が死んだ時、彼の文庫の中から、汚れてカチカチになつた古い木綿ぎれが出て來た。なぜこんなものを大切に藏つて置いたのかと、ひとびとは不審がつたが、彼が十一歳の時から死の直前までつけてゐた日記で、それが判明した。
 それは彌太夫の師匠の名人長門太夫が床[ゆか]で痰を拭ふ時の布であつた。ある時、長門は床で語りながら、意氣ごんだ拍子にこの布をポンと下へ投げた。それを白湯汲みの場所で控へてゐた弟子の彌太夫が拾つて、ひそかに懷へしのばせて持ち歸り、自分もお師匠はんのやうな太夫になれますやうにと、毎日その痰拭きの布に祈つてゐたといふのである。その布がカチカチになつてゐるのは、痰のためであつた。
 彌太夫が長門の門にはいつたのは十一歳の時であつたが、彌太夫の父親は彌太夫の覺えが惡いといつては、錢湯へ連れて行つて、彌太夫を逆さまにして湯槽の中へ突つ込んだ。浴客が見兼ねて、助け舟を出してやつたといふことである。
 かうして彌太夫は子供の頃からはげしい修行で鍛へられて來たが、うまれつき惡聲小聲だつたので、泣きと笑ひにはことに苦心した。毎朝、未明から、天王寺河堀[こぼれ]口の師匠長門のところへ通ふのに、いつも道道泣きの稽古をした。泣きの稽古をしながら、高津のある大工の家の前を通ると、家の中では、「それ泣き男が通つた。かかよ、朝飯にしよか」
 と、言つてゐた。時太鼓の代りにされてゐたのである。
 また、笑ひの稽古では、丼鉢を二つに割つて、それを薄い布でまいて腹へ當てて、稽古した。布が破れると、腹に疵がつく。それで、布が破れぬやうに笑ひの調節を圖つたのである。
 
  九
 
 明治四十年、榮三は三十六歳になつた。
 正月興行の「和田合戰」三段目の板額を遣つてゐた紋十郎が病氣になつた。
 普通代役は、左遣ひが勤めるものだが、その時紋十郎の左を遣つてゐた龜三郎は、左遣ひが専門であつた。いはば左を遣はせると名人だが、胴は遣へない。そこで多爲藏の與市の左を遣つてゐた榮三に代役が廻つて來た。
 代役ほどうれしいものはない。ところが、この時ばかりは榮三は躊躇した。といふのは紋十郎は大兵だつたので、板額も特別大きな人形をつくらせて遣つてゐた。それを人一倍小柄な榮三が遣るのは無理である。
 榮三は一應斷つた。が、是非に遣へといふ。そこで致し方なく板額を遣ふことになつた。かねがね紋十郎の板額は見て置いたから助かつたが、さすがにその大人形で長丁場を通すのは苦しくて、途中で何度人形を捨ててしまはうと思つたかわからぬくらゐであつた。けれど、この辛抱ができぬやうで、人形遣ひが出來るかと、持ち前の辛抱づよさで堪へ堪へ、九日間代役を勤めたところ、朝日新聞の劇評は「大物の代りとしては案外の出來であつた」と激賞した。勘定場の者も賞めた。
 榮三の伎倆はこの時内外に認められたのである。三十一歳で「雨晒し」になつた時、旣に榮三の凡手でないことは認められてゐたが、しかし、榮三の藝の前途がはつきりと約束されたのは、それから五年の精進を經たこの時であつた。
 榮三はこの劇評を讀んで、うれしかつた。けれど、油斷はならない。人形の道は所詮一生が修行である。果して、それから二日のち、即ち三月興行の「忠臣藏」の九段目で、多爲藏の左を遣つた時、多爲藏から、「手負ひやさかい、強い中にも弱いところがないといかん。本藏と又助とはまた違ふねやぜ」
 と隨分叱られた。
 この九段目を語つたのは勿論紋下の攝津大掾だつたが、(九段目は至難な語り物で紋下以外には語れぬといはれてゐるくらゐである)彼はこれまで九段目の本藏が不得手だといはれてゐた。いはば彼の語り口に合はないのである。それをこの時は、申し分ないほど見事に語つた。彼はそのことを、
 「わいはこれで九段目を九度語る勘定になるが、七十の歳になつて、やつと本藏のコツが判つた」
 と、言つた。
 榮三はこの言葉を聽いて、藝の道日暮れて遠きをますます悟つた。
 
 この年の八月、京都の南座に人形芝居が掛つた。仕打は松竹であつた。ちやうど文樂座は夏休みだつたので、榮三は紋十郎、門造、助太郎、玉五郎、玉次郎などと一緒に出向いた。太夫は、南部、叶、源太夫、なほ堀江座からも住太夫に龍助が加入するといふ寄合世帶であつた。狂言は「廿四孝」「壺坂」「吉田屋」でこの「吉田屋」の伊左衞門は紋十郎が十八番で遣つたが、相手役の夕霧は紋十郎の名指しで榮三に廻つて來た。初役だつたので、榮三は隨分苦心したが、初日の舞台を打ち揚げると、紋十郎の部屋から、ちよつと來いと言ふ。
 そこで、肩衣をつけたまま、伺ふと、
 「榮コ、お前、伊左衞門といふ役は夕霧に遣はして貰ふ役やぜ」
 紋十郎は裸のまま冷やしそうめんをすすりながら、言ふ。
 「へえ」
 「へえやないぜ。お前があんな遣ひ方したら、わいは遣はれへんがな」
 案の定、小言だつた。紋十郎の弟子は黙默として師匠の背中を團扇で煽つてゐる。その風が榮三のところまで來るわけもない。たださへ暑い京都の夏の夜の樂屋である。榮三は肩衣をつけたまま汗づくになつてゐた。
 ところが、その翌日もまた呼びつけられて、「吉田屋」の講釋である。三日目も同じであつた。
 榮三は毎日苦しい想ひをした。が、そのおかげで、伊左衞門の型だけはすつかり紋十郎から学び取つた。
 その紋十郎は文樂の盆替り興行から、人形頭取になつた。それで番附が變り、榮三は中軸になつた。もつとも中軸には助太郎と玉次郎も座り、いはゆる三人中軸になつた。それをしほに、間もなく榮三は妻帶した。かなといひ、京都の千家下職の淨益の一等職人の娘を娶つたのである。南座出勤の折に、その話が出たのであらう。榮三は三十六歳だつたから、どちらかといへば晩婚の方である。
 その頃、文樂座の仕打の植村家は財政に破綻を來たしてゐた。三世文樂翁の實子大助が骨董癖があつて、暢春堂と稱し、書畫骨董の賣買を行ひ、支那方面にまで手を伸ばしてゐるうちに、次第に損を重ねて、明治廿三年の三月に、父文樂翁のあとを追うて早世した時には、もう植村家は苦境に陷つたのである。大助の死後その子泰藏が五代文樂座主となつたが、この人は病弱で素行も修らず、到底經營の器でなかつた。そこで、大助の未亡人ハルが後見して、一座を監督し、傍ら渡邊幸次郎を財政顧問として苦境と闘つて來たが、座運振はず、殆んど經營不可能になつてしまつた。
 このまま放置すれば、植村家の沒落ひいては文樂座そのものの崩壞は到底避けがたい。そこで植村家の顧問渡邊は、植村家を救ひ、文樂座を救ふ手段としては、文樂座をしかるべき興行主に讓渡するほかはないと見た。そして、その興行主として、渡邊は先年京都南座で人形淨瑠璃芝居の興行を行つた松竹會社を選んだ。話は進められた。紋下の攝津大掾も、自分の代に文樂座が亡んでしまつては申譯ないと、白井松竹社長に泣きついた。
 さうして、文樂座は明治四十二年の三月興行を最後に、松竹に讓渡された。松竹が植村家に渡した金は二萬圓であつた。
 初代文樂軒以後人形淨瑠璃界に覇をとなへ、敵國の彦六座を競り陷し、明樂座を買收した文樂座も四代目の座主の骨董癖が災ひして、僅か二萬圓の金で到頭松竹の傘下に投じてしまつたのである。もつとも、文樂座の座名は受け繼がれた。また、小屋のほか二棟の土藏の人形、衣裳をはじめ、繪看板、臺本をはじめ、太夫三十八人、三味線五十一人、人形遣ひ二十四人の引き繼ぎもその勘定の中にはいつてゐた。
 
 引き繼ぎの第一囘興行は、直ちに四月八日の初日で行はれた。この時「先代萩」の土橋[どばし]で、榮三は三婦[さぶ]と金五郎と累の三役を早替りをした。これは松竹の奥役のC水qセ郎の注文であつた。早替りは榮三には初めてだつたから、どうかと危まれたが、白井社長の眼に止まるほどの上出來だつた。彦六座時代に、辰五郎や玉松の早替りの介錯をして、そのコツを見覺えて置いたのが役に立つたのである。
 この早替りの成績が良かつたので、C水は次次に榮三に良い役をつけた。ところが、それがたいてい皆榮三にとつては初役のものだつた。榮三は先輩の舞臺を想ひだしながら、苦心に苦心を重ねたので隨分痩せる想ひがした。
 ことに六月興行の「夏祭」の泥場の團七九郎兵衞ではすつかり頰の肉がこけ落ちてしまつた。九郎兵衞の人形は丸胴の大物で、ただ持つてゐるだけでも相當苦しい。それを榮三は小柄だから、高い舞臺下駄を履いて遣はねばならない。おまけに、相手の義平次が藝風が派手で舞臺の激しい紋十郎である。紋十郎は大兵ゆゑ低い下駄で、しかも輕い義平次の人形を遣ふのだから、「駕返せ」のセリ合ひなど、ぐいぐい九郎兵衞に迫つて來る。榮三は左を遣つてゐた玉次郎と共にジリジリと油汗をかき、その油汗が身體の肉をもぎとつて行くやうに思はれた。ある日、鏡を見ると、眼が落ちこみ、げつそり頰がこけてゐた。
 この興行で、榮三は「鈴ヶ森」のお駒も遣つてゐたが、「泥仕合」の出を待つてゐる時、紋十郎は、
 「榮三、お前こんどの二役が滿足に遣へたら、もう座頭やぜ」
 と、言つた。榮三の落ちこんだ眼は、さすがに嬉しさに輝いた。
 また、この年の盆替りに、「廿四孝」の山本勘助と、それから紋十郎の代役の八重垣姫の早替りを一囘多くして遣つた時、攝津大掾は、
 「あんた勘助遣[つこ]て、八重垣の代りしたら、丁度大寶寺町やがな」
 と言つた。
 大寶寺町とは玉造のことである。(玉造は晩年大寶寺町に住んでゐたから、さう呼ばれた。)玉造の遣つてゐた役を、いま榮三が遣つてゐる、それを言つたのだが、ただ役が同じだからさう言つたのではなかつた。
 この時も榮三は天にも上る心持がした。そしてその年が暮れて、明治四十三年の正月には、榮三は「書出し」に昇進した。奥役のC水qセ郎が推挽したのである。座頭は勿論紋十郎であつた。
 この紋十郎はその年の四月、阿古屋の琴責で、とくに注文して三貫目の人形をつくらせて遣つた。これは、ちやうど十年前の明治卅三年の十月に、北堀江の明樂座で東京下りの西川伊三郎が先祖傳來の六尺有餘の阿古屋の大人形を遣つた向ふを張つたのだが、なんといつても、紋十郎は六十四歳と言つてはゐたが、本當は七十歳の老齢である。おまけに、一年まへからたびたび榮三に代役をやらせるくらゐ、身體が弱つてゐた。果して、この阿古屋の大人形は紋十郎の身體に障つたのか、その興行が濟むと、到頭ねこんでしまひ、間もなく譫語を言ひつづけた。そして八月十五日の早朝息を引き取つた。
 死ぬ前の日の夕暮、紋十郎はもう殆んど虫の息の中から蚊細い掛け聲を掛けながら、「二十四孝」の八重垣姫を遣ふ手振りを、臥たままでしてゐたと、聽いて、榮三はその八重垣姫の代役をしたのはちやうど一年前だつたことなどを想ひだして、泣いた。
 紋十郎はれいの玉造と「敵討龜山道中噺」で張り合つて負けた桐竹門十郎の子である。門十郎の細君のお久はこの紋十郎を産んでから、離縁になつて玉造に嫁ぎ、玉助を産んだので、紋十郎は玉助のいはば種違ひの兄弟であつた。
 玉助は天才として若くから名人藝を發揮したが、紋十郎は若い頃はぼんくらと言はれてゐた。幼い時から切り紙で人形を作り、障子へ影人形をうつして修行し、父門十郎の血もうけてゐたから、無能の筈はないと思はれたのに、師匠の吉田辰造や義弟の玉助が呆れるほどの拙さで、到底モノにならぬと言はれてゐた。父の死後、龜松と名乘つて文樂に入り、「先代萩」の御殿で師匠の辰造の政岡の足を遣うたが、クドキの「武士の種に生れたが果報か因果か、いぢらしや」の「いぢらしや」の間がどうしても踏めず、毎日舞臺下駄で蹴りつけられてゐた。また同じ「先代萩」の床下の鐵之助を遣うたが、これもぶちこはしの無能ぶりを見せたので、鐵之助の役を取りあげられ、給金は半分に下り仲間に嗤はれ、頭取からはモノにならぬと眼の前で言はれた。
 そこで、紋十郎は發奮して十六文の錢を懷中して江戸に下り、女形遣ひの名人西川伊三郎の門にはいり、女形遣ひ専門に修行を積んだ。
 ところが、何年修行しても、足ばかりで胴を遣はせてくれない。そこで師匠に、一度胴を遣はせてくれとョむと、ちやうど淺草の芝居で「忠臣藏」の九段目が出てゐた時だつたが、師匠は、それでは下女のおりんを遣へと言つた。
 おりんは一人遣ひのツメ人形である。しかもこのおりんの仕草は、加古川本藏の妻の戸無瀬が娘小浪を連れて、大石の山科閑居を訪れるその「ョみませう/\と言ふ聲に、襷はづして飛んで出る、昔の奏者今のりん、どうれといふ――」だけの簡単なものである。
 いくらなんでも、こんな端役をと、紋十郎は憤慨もし、がつかりもしたが、しかし、折角貰つた役である。精一杯に勤めようと、さまざま工夫した。そして、本來がツメ人形であるのを、左と足をョんで三人遣ひとし、「昔の奏者今のりん」で、下女のりんは髪を結ひかけて立つといふ趣向にし、髪を鬢付[びんつ]けで立てて赤い襷をかけて飛んで出て、仔細ありげな二人の顔を見てびつくりしたといふ思ひ入れを見せ、それから襷をはづして、髪をまきあげ簪で止め、油を前垂で拭いた手を帶にはさんで、それから「どうれ」と兩手をついたのである。この新工夫に師匠は驚いた。見物も喜び、その後この型は歌舞伎にも使はれるやうになつた。
 そのうちに、母親のお久からさすがに腹を痛めた子が可愛く、大阪へ歸れと言つて來た。そこで、紋十郎は師匠の西川伊三郎のもとを辭し、大阪へ戻つて、再び文樂座へはいつたのは明治九年の三月である。そして、その四月の「一の谷」で相撲[ママ]を遣つたが、昔のぼんくらとは見違へるほどの出來榮えで、評判をとつた。
 以後師匠讓りの女形専門でメキメキ上達し、玉造と共に文樂座の双壁となつた。どちらかといへば、大向う受けを擔つた派手な藝風で、ケレ[ママ]が多いとか、花があつて實がないとかいはれてゐたが、宙乘りや早替りで人氣をとつた立役の玉造と對抗して行くために自然にさうなつたのだらうか。死ぬ前の年の十一月には、「忠臣藏」を見事に遣ひこなして、女形専門でありながらさすがに立役を遣つても巧いものだといふ評判を取つて、死に花を咲かせたのが、せめてもの慰めであつたらうと、榮三はその死を悲しむかたはらひそかに呟いた。
 そして、紋十郎が死んでしまつた今、自分は誰に學んでよいのかと、寂しい氣がした。名手の吉田多爲藏もその頃文樂を去つてゐた。
 
  十
 
 翌年の五月、市の側堀江座が瓦解した。しかし、その翌年の明治四十五年一月には、大阪の紳商の手によつて、南區佐野屋橋南詰(現在文樂座の所在地)に近松に因んだ近松座が創設されたので、一座はそれに據つて、再び文樂相手の苦闘をつづけることになつた。文樂座を去つてゐた大隅太夫が、この近松座へ歸参したので、一座は漸く活氣づいた。
 
 一方、文樂座では、紋十郎のなきあと目ぼしい人形遣ひがゐなくなつた。そこで一時文樂座を去つてゐた吉田多爲藏を歸参させた。
 ところが、翌大正二年の四月に、天性の美音で文樂座の人氣を七分通り一身に背負つてゐた紋下の攝津大掾がいよいよ引退することになつた。
 そして、その引退興行の語り物が「楠[くすのき]昔噺」の三段目であると發表されると、客はもとより幕内の者もあつと驚いた。皆はこんな大物の長丁場を大掾が七十八歳で語らうとは夢にも思つてゐなかつた。得意の「先代萩」の御殿か、「十種香」が出るだらうと思つてゐたのである。ところが「楠」である。大事な引退興行の途中で休んでしまふやうなことが無ければ良いがと、幕内のものは心配した。そして四月一日の初日をあけてみて、ひとびとはもう一度驚いた。七十八歳とは思へぬ若若しい美音で、美事に語り通したのである。高調子のところを外すやうなことも無論なかつた。聲も枯れなかつた。おまけにこの興行は近來にない大入つづきで翌月の二十一日まで五十一日間打ち通したが、その間大掾は一度も休まず、聲の疲れも見せなかつた。
 「大掾はんはこれ語りはるために、前から聲が殘したつたんやろか」
 樂屋ではさう囁いた。
 なにしろ、明治十六年四月以來三十年以上もずつと文樂座の紋下に座つてゐた人である。千秋樂の日は、見物も泣き、樂屋も泣いた。大掾も床を降りて、樂屋で幕内の者の挨拶を受けながら、聲をあげて泣いた。ところが、皆がさうして泣いてゐるところへ染太夫がやはり眼をしばたきながらはいつて來て、「わても今日限りで引退させて貰ひまつさ。永い問いろいろお世話はんでした」
 と、いきなり言つたので、ひとびとは呆然とした。染太夫はなんの前ぶれもなく、引退興行もなしに引退してしまつたのである。法善寺の津太夫は旣になく、染太夫は大掾の次位の人であつたが、次次と名人に去られて行くので、ひとびとはどうなることかと、空虚な想ひで、次の六月興行をあけたが、さすがに火の消えたやうな寂しさで、芝居は倒れんばかりの不入りであつた。
 そして、七月を迎へると、大隅太夫が六十歳で臺灣で客死したといふ報らせが來て、もうひとびとは口も利けぬくらゐしよげてしまつた。ことにこの大隅客死の報にがつくりしたのは、近松座の一同であつた。
 
 大隅は相三味線、といふより、師匠の團平に隨分苛められて修行した。蚊に喰はれながら夜を徹して稽古したことは、前に述べたが、それなどまだ生易しい方である。
 ある時、團平と共に出かけた姫路の旅興行の舞臺で、「合邦」を語つた。ところが、「オイヤイオイヤイ……」のくだりが巧く語れないといふので、團平はいつまで經つても次を彈かず、「オイヤイ」の手を繰りかへした。自然、大隅も同じ個所を繰りかへして語らねばならず、三味線につれて無我夢中に語つてゐるうちに、いつか大隅の顔は眞蒼になつて、遂に見臺へ顔を伏せて、半分氣絶状態になつてしまつた。しかし、團平は相變らず同じところを彈いてゐる。見物が騒ぎだした。樂屋も騒いだ。その聲に、はつとわれにかへつた大隅は、やつとあとをつづけた。團平は表情一つかへず、次を彈いてゐた。
 こんな生命がけの修行をして來たのである。だから、大隅はいつか「凝り固り」といはれるほどの藝馬鹿に仕込まれてしまつた。その代り、師匠の團平と同じく、藝のほかには何もなく、おまけに性來の奔放不羈な性質が手傳つて、隨分思慮に缺けた無定見なこともした。
 たとへば、大隅は團平に死なれたあと、堀江座を捨ててひとりで文樂へ走つた。贔屓の杉山茂丸は東京でこのことを聽き、棟梁の大隅に去られた堀江座の殘留組に同情し、隨分大隅を責めた。が、出來てしまつたことは仕方がない。せめて文樂へはいつたからには、紋下の攝津大掾のあとを繼ぐやうに勉強せよと激勵して、一應大隅を許した。そして、杉山翁はなんとかして大隅に文樂座で一花咲かせてやりたいと、大掾にもョんでゐたところ、大隅は一年足らずのちに、フイと文樂座を去つて、堀江座の春子太夫や伊達太夫(土佐太夫)と一緒に北海道へ巡業に行つてしまつた。
 さすがに杉山翁は怒つた。もう大隅など相手にしないと、到頭絶縁されて、大隅が訪ねて行つても會はなかつた。
 その後、大隅らの一座が東京の明治座で興行した。大隅は杉山翁のところへ上京の挨拶に行つたが、玄關拂いをくらつた。杉山翁はむろん明治座へ行かうともしなかつた。
 ところが、ある日の新聞に大隅の語り物が「布引四段目」である旨、廣告されてゐた。大隅の十八番である。杉山翁は聽きたくてたまらぬ。たまりかねて、雨の中をひそかに明治座へ出掛けた。自動車を久松署の前に待たして置いて、外套を頭からかぶつて、悟られぬやうに木戸をはいつた。平場を見ると、客は六七十人の入りで、さびれてゐた。杉山翁は坐つてゐると見つかるので、外套を被つたまま寝轉んで聽いた。
 そして、だんだん聽くうちに、すつかり大隅の藝に魅了されてしまつた。大隅の出番が濟むと、杉山翁は小屋を出た。そして、待たしてあつた自動車に乘らうとすると、雨の中を舞臺衣のままの大隅が駈けて來て、「旦那!」といふなり、杉山翁のあとからその自動車に飛び乘つて、扉をしめてしまつた。杉山翁はにがい顔をして見せたが、もう大隅の藝に打たれて陶然としてゐたところだつたので、眼だけ微笑してゐた。
 そして、車が杉山邸へつくと、早速稽古がはじまつたが、車の中でさんざん叱られてゐた大隅がこんどは、
「誰がそんな阿呆なこと教[おせ]せました」
 と、杉山翁を叱りつけたといふ。
 その日から、大隅は杉山宅へ出入りがかなつたが、その後近松座へ出勤して、昔の堀江座への義理をつくしたかと思ふ間もなく、またもやそこを飛び出して、臺灣へ走つたので、杉山翁はかんかんになつてゐた。
 ところが、間もなく臺灣で客死したとの報らせがはいつたのである。
 大隅の客死によつて、もうこの一枚看板の出座の望みを絶たれた近松座は、氣の毒なくらゐ落膽したが、つづいて翌大正三年の二月には、大隅なきあとの人氣太夫であつた伊達太夫が、文樂入りをしたので、もはや近松座の運命も殆んど決まつたやうなものであつた。
 果して、その年の十月には、殘留組の春子長子等の苦闘も空しく、遂に休座の止むなきに到り、もと簑助といつてゐた女形遣ひの吉田文五郎が明けて正月には文樂へはいつて來た。
 つづいて二月には、吉田玉藏が久し振りに文樂座へ再勒し、四月には近松座の頭取格であつた吉田兵吉が出座し、人形一座はにはかに賑つたが、その兵吉も七月五日にはもうなくなり、そして翌五年の六月には多爲藏は病氣引退し、十月二十一日にはもうこの世にゐなかつた。翌六年の一月には吉田駒十郎が退座する。再び人形一座はさびしくなつた。十月九日には攝津大掾が死んだ。この月、もと近松座の六世彌太夫が出座したが、もうこの頃から人形淨瑠璃の前途に暗い影がさしかけて、藝道の衰へて行く音が、客の入りがわるくてがらんとした文樂座のさびしい平場に不氣味にきこえるやうな氣が誰の心にもした。
 
  十一
 
 五十一日間打ち通し、その間に大入袋が三十六囘も出たといふ攝津大掾引退興行などもう昔の夢であつた。文樂座はさびれる一方だつた。おまけに、相つづく名人の死である。大正十年には三世團平が、大正十一年には野澤[ママ]C六と三世南部太夫が死んだ。紋下の越路も病氣缺勤である。一座は毎月、毎月、毎年、毎年暗い氣持で興行をつづけて來たが、やがて一座の者が思ひがけぬ喜びに身體のしびれる時が來た。
 それは、大正十二年五月廿三日畏くも 秩父宮殿下が文樂座へ御來臨遊ばされて「千本櫻の道行」を御台覧になつたといふ光榮に浴したことである。その前年には佛國答禮使ジヨツフル元帥の一行が觀覧した。
 しかし、その翌年の大正十三年は、再び文樂座に不幸が訪れた年であつた。
 三月十八日、紋下の越路太夫が死ぬ。その通夜があけると、三味線紋下の名庭弦阿彌(六世廣助)が死んだといふ報らせだ。二日のうちに太夫、三味線の二人の紋下を失つて、一座は呆然とした。
 太夫の紋下には四世[ママ]津太夫が五月に座つた。そして三味線紋下には野澤吉兵衞(吉彌)が座る筈であつたところ、突然六月の四日に死んだ。が、不幸はそれで濟まなかつた。野澤吉兵衞の葬儀場へ、彌太夫が死んだといふ報らせが來たのである。六月六日のことである。
 この相つづく不幸は、ただごとではないと、ひとびとは不吉な想ひに濡れて蒼くなつた。そして、こんどは誰の順番かと、口には出さなかつたが、ひとびとは寒寒とした心の底をひそかに覗いて、ひたすら~に祈つた。
 おかげで、翌十四年にはさしたる不幸はなかつたが、十五年にはまた目に見えぬ糸にあやつられた惡魔が、一座の頭上に現れた。四月に五世竹澤權右衞門が死に、九月に人形の三代玉藏が死んだことなど、まだ生易しかつた。
 榮三はその日を忘れることは出來ない、十一月二十九日のことである。この月は新作の「法然上人」が出て、榮三は上人と、それから紙屋治兵衞を勤めた。そして、二十八日で千秋樂になつたので、一座は二十九日は廣島へ巡業に旅立つことになつてゐた。その日の朝十一時、榮三が鰻谷の自宅でおそい朝飯を食べてゐると、向ひの寺の人が來て、
 「柳本はん、えらいこつちや、御靈の文樂が火事や言うてまつさ」
 と、言つた。
 まさかと思つたが、しかし否定する自信はなく、どきんとして、電話を掛けに走つた。
 しかし、なかなか通じない。
 「何番へお掛けですか」
 交換手が問うたので、
 「文樂座へ掛けてまんねん」
 と言ふと、
 「文樂はいま火事ですよ」
 あわてて、御靈へ駈けつけた。しかし、その時には、もう七分通りまで火が廻り、手がつけられなかつた。
 「ああ、えらいことになつてしもた」
 といふ想ひに足をすくはれて、榮三は暫らく動くことも出來なかつた。
 晝前に火は消えた。が、小屋は九分九厘まで灰になつてしまつてゐた。その頃には、急をきいて駈けつけた一座の者が、
 「頭[かしら]はどないしたやろ。頭[かしら]はどないしたやろ」
 と、囁いてゐた。頭[かしら]といふのは、人形の首のことである。
 するうちに、誰かが、
 「衣裳は助かつた。葛籠のまんま持ち出したらしい」
 と、言つた。
 「衣裳なんかどないでもええ。頭は……」
 持ち出せずに、燒いてしまつたとわかると、ひとびとはがつかりしてうなだれた。
 人形遣ひは燒跡の一隅にひとかたまりになつて、おいおい泣きだした。泣きながら、榮三がひよいと見ると、あつちには太夫がひとかたまり、こつちには三味線彈きがひとかたまり、同じやうに泣いてゐた。
 その日は旅興行へ出發するので、頭[かしら]と衣裳は鐵道便で送るために、それぞれ別の葛籠に收めてあつた。ところが、火事だと知つた小屋の者が、衣裳は金が掛つてゐるといふのであわてて衣裳の葛籠をさきに持ちだした。おかげで衣裳は助かつたが、頭の葛籠は燒けてしまつたのである。
 その時、小屋に居た者は文樂にとつて、頭がどんなに大事なものかを知らなかつたのである。その葛籠の中にある頭のいくつかが、もはや得ようと思つても得られない、作らうと思つても作れない國寶級の名品であることを知らなかつたのである。
 「笹屋[ささや]」が燒けた。これは笹屋喜助といふ人形細工人がつくつた女形の名作で、數ある人形のうちでももつとも珍重されてゐたものである。顔の左の方が右より少しちひさくつくられてゐるが、それでゐて舞台へ出すと、若い娘の可憐な美しさが香氣のやうに匂ふ名作であつた。
 「源太[げんた]」の良いのも燒けた。これは初代玉造や二代玉造などが遣つて來た二枚目の頭[かしら]であつた。その他、「鬼[き]一」も燒け、「斧右衞門」も燒け、「東[とう]馬」も燒け、「陀羅助[だらすけ]」も燒け、「檢非違[けびゐ]使」も燒け、「孔明[こうめい]」も燒け、また、ツメ人形の良いのも燒けてしまつた。
 ただ、「文[ぶん]七」「團七」「景C」「金時」「鬼若」など巡業に使はぬので葛籠に入れなかつたものは、誰かが投げだしたおかげで助かつた。それが、せめてもの倖せであつた。
 燒けた頭はいづれも名人がつくり、名人が遣ひ、永年の藝道の手垢に磨かれて魂のはいつた惜しいものばかりだつた。ほかに太夫の床本も燒けた。舞台下駄も燒けた。
 燒跡にうなだれてしよんぼり突つ立つてゐたひとびとは、いつまでもそこを動かなかつた。ある者は灰を掴んで、「笹屋」の可憐な美しさがこんなになつてしまつたのか、「源太」の水もしたたるやうないぢらしい男ぶりがこんなになつてしまつたのかとわが子やわが妻を火葬場に送る人のやうに、取りかへしのつかぬ想ひに寒寒として、冬の夜の風が白く渡りかけても、なほ立ち去らうとしなかつた。
 さきには多くの名人を失ひ今また頭を失ひ、住みなれた小屋を失つたひとびとは、もうこのままで人形淨瑠璃もなくなつてしまふのかと、ホロホロ泣いた。
 しかし、仕打の松竹は倖ひ多くの小屋を持つてゐた。そこで、道頓堀の辨天座で引越興行を行ふことになつた。
 初日は、翌昭和二年の一月二日であつた。燒け出されたといふので同情が寄つたのか、それとも御靈にくらべて足場が良かつたのか、客の入りは御靈の時よりもはるかに良かつた。
 二月興行も良かつた。一座の者はほつとしたが、この興行中に古老の文三が死んだ。
 さきに死んだ玉藏と、文三の二人はどちらが座頭とも書出しとも區別できぬいはば二人座頭の地位にあつた。ところが、その二人は一年經たぬうちに死んでしまつたのである。不幸は絶えてゐなかつたのである。
 文三が死んだので、三月興行から番附の改正をすることになつた。そこで、榮三と文五郎とそれから玉次郎の三人で、協議した。まづ第一に誰が座頭になるかといふ問題である。人氣は女形遣ひだけに、文五郎が一番であつた。おまけに榮三より三つ年長である。しかし、文五郎はあつさりと、
 「わては別書出しで結構だす。玉次郎はんとの間を、ほんのすこしあけといて貰[も]ろたら、そいでよろしおます」
 と、言つた。玉次郎は書出しである。書出しとの間が餘計あいてゐる方が、位が高いのである。文五郎はしかし「ほんのすこしあけといて貰[も]ろたら」と言つたのである。
 そこで、殘る榮三が座頭に坐ることになつた。古老といふ點ではほかに玉七と冠四がゐたが、これは中軸に座つた。また、もと駒十郎の四代辰五郎は病氣で永らく休んでゐたので、一時番附面から去ることになつた。辰五郎は大正九年文樂に迎へられた名手で、榮三も判らぬところがあると、時時教へを請うてゐたくらゐゆゑ、榮三は禮をつくして辰五郎の病床を訪れ、了解を求めると、辰五郎は、
 「結構だす。わても病氣が癒つたらまたどこぞへ座らせて貰ひます。しかし、もう出られませんやろな」
 と、言つた。果して、辰五郎はその年の六月には死んだ。
 榮三が座頭になつたことについては、誰も苦情を言ふものはなかつた。文樂座での年功、伎倆からいつても、それが順序であると、新聞も書いた。人形の座頭は先代紋十郎以來、番附面では空位のままであつた。それを榮三はついだのである。しかし、この時、榮三は五十六歳であつた。澤の席へはじめて出勤してから四十四年が經つてゐた。
 
 さすがに榮三はうれしかつた。澤の席の初舞台で、お前みたいなちんぴらはあかんと危く暇を出されかけた時のことを思ふと、まるで夢のやうな氣がした。けれど、座頭となつた以上一座の責任を負はねばならない、おまけに辨天座の引越し興行は、榮三が座頭となつた三月からがた落ちに不入りになつた。立役遣ひの者が死んでゐなくなつたので、座頭の榮三は初役の由良之助や熊谷など、小柄の彼には無理な役も遣つてしかもそれが彼の當り藝になるほど健闘したが、小屋はさびれる一方で、三分の入りもない日すら稀らしくないやうになつた。榮三は座頭として、ひと一倍文樂の前途に想ひを致さねばならなかつた。座頭になつた喜びよりも、その心配の方が大きかつたのである。
 さうして、昭和二年が暮れ、三年が暮れ、四年には、もう一座が辨天座へ出たのは、三月と五月の二囘だけであつた。四月に天滿の八千代座へとつて置きの「忠臣藏」を持つて行つたが、これも大變な不入りで、一座は人形淨瑠璃の故郷である大阪を離れて、殆んど年中旅から旅へ巡業を續けねばならなかつた。
 旅は悲しかつた。故郷を追はれた者のさびしさがひしひしと來た。おまけに、巡業では、ことに東京での場合は、演し物が三日目か五日日毎に變るので、初日にもう次の演し物の用意や稽古をしなければならなかつた。太夫、三味線、人形の三業がぴつたり呼吸を合はさねばならぬ人形淨瑠璃では、早替りのやうにめまぐるしく演し物を變へられては、もう息をつく暇もなく、舞臺での氣苦勞も大變だつた。ことに人形遣ひはただ舞臺へ出るだけではなく頭[かしら]の手入れや支度、衣裳、小道具の用意まで自分の手でしなければならない。
 それでも、ひとびとは愚痴ひとつ言はず、黙默として、働いた。そして、たまに大入りになると、文樂もまだすつかり見捨てられてゐないと、子供のやうに喜んだ。同時に、故郷の大阪ではなぜ文樂は容れられぬのかと、ふとさびしい想ひがするのだつた。
 
  十二
  
 佐野屋橋畔のもとの近松座を改築して、新しい四ツ橋文樂座が落成したのは、昭和四年も押しつまつた師走の二十六日であつた。
 二年の間、わが家を失つて轉轉としてゐた一座の者は、二十六日に開場式と聽いた時には、巡業先の東京で轉げまはつてよろこんだ。彼等は旅から旅へ巡業を續けてゐる間、このまま定住の家がなくなるのではないかと何度思つたかも知れなかつた。けれど、文樂を愛する者はその間しきりに松竹へ定打小屋の建築をすすめてくれてゐたのである。そして、松竹も放つては置かなかつたわけであつた。
 開場式には五囘にわけて客を招待した。それ故「三番叟」を五囘遣はねばならなかつた。その話が榮三のところへ持ち込まれると、榮三は、
 「そらあきまへん。三番叟は飛んだりはねたりとうない身體がえろおますさかい、一日に五へんも遣たらへたばつてしまひま」
 と、言つた。
 「ま、さう言はんと、折角の開場式やさかい」
 と、しきりにョむ。そこで、
 「ほんなら、文五郎はんにきいてみます」
 と、相手役の文五郎を呼ぶと、文五郎も、
 「そらあきまへん」
 と、言ふ。
 しかし、當日、二人はやはり五囘遣つた。新しい住み家が出來たといふ喜びが、そんな無理を敢てさせたのである。榮三は五十八歳、文五郎は六十一歳であつた。
 
 開場式が濟んで、柿葺落し興行の初日があいたのは、あけて昭和五年の元旦であつた。
 小屋見物の物見高さもあつたらうか、この二年の間あれほど文樂に冷淡であつた大阪の見物が連日詰めかけて補助椅子の出ぬ日はなく、この興行は到頭三十四日間打ちつづけ、攝津大掾引退興行以來の大入りであつた。一座の者は二重の喜びに相好くづして、むしろそはそはしてしまつた。二月、三月も大入り、そしてこの状態は七月までつづき、一座の者は正月から七月まで樂屋へ足を踏み入れない日はなかつた。そして、十二月まで、到頭一月も休まず打ち通して、文樂の前途にもほのぼのと光明が見えたかと、一座の者は一年前の暗い氣持がまるで嘘のやうであつた。
 しかし、こんな状態はいつまでも續かなかつた。
 この一年間の華華しい興行中、古老の吉田冠四が七十五歳でなくなつた。榮三とは彦六座以來の古いなじみで、榮三よりは十六歳も年長だつたが、番附も中軸にとどまつて、座頭にも書出しにもなれず、六十歳まで足を遣つてゐたといふ不遇な人であつたが、その冠四のそれにも似た運命がやがて文樂座を襲うて來たのである。
 
 翌昭和六年の九月に滿洲事變が勃發し、間もなく文樂座も柄にもなく新作の「肉彈三勇士」をだしたり、「空閑少佐血櫻日記」をだしたりして、たまに入りのある時もないではなかつたが、昭和八年の一月の第六十四囘帝國議會に「文樂座保護に關する建議案」が提出されるほど、文樂座の前途はやがて暗膽たるものになつてゐた。
 この建議案は可決され、文樂座は國庫から三千圓の補助を仰ぐことになつたので、榮三は津太夫、土佐太夫、文五郎の三人と共に上京して衆議院に禮を述べに行つたが、そのやうに政府が文樂座の眞價を認めて補助してくれることはさすがにうれしかつたものの、政府の補助を受けねばならぬほど一般が文樂座に背中を向けてゐることを思へば、やはり寂しかつた。文樂はこのままでは亡びる、今のうちになんとかしなくてはと座の者はもちろん識者も頭を痛めたが、見物は映畫や歌舞伎やそれから當時擡頭してゐた漫才へ淺墓に走つてゐた。市内の女學生や中學生が團體で見学したり、外國の名士が國寶藝術だと聽かされて文樂座を訪れて人形の美に陶醉したりするたびに、一座の者は自分たちの藝道に今更のやうに誇りを持つたが、けれどそれらはすこしも文樂座の不況を救ふに至らなかつた。
 けれど、一座の者はよしんば客が來ず、自分たちが食ふや飲まずの暮しをしてでも、この不況に堪へて行かうと覺悟してゐた。修行時代の困苦を想へば、なんでもないと思つた。いや、文樂の世界では一生が修行なのである。修行と物慾とが兩立しないことを、ひとびとは理屈でなしに知つてゐた。身を以て體驗して來たのである。太夫や三味線彈きの中には素人相手の稽古で口を糊する者もゐたが、人形遣ひはそれも出來ず、ただ人形を遣ふことを一筋の樂しみにじつと不況を堪へた。人形を稽古しようなどといふ素人の物好きはなく、またしようと思つても出來ないのである。
 けれど、そんなことはどうでも良かつた。榮三が頭を痛めたのは、人形遣ひの弟子にならうとする者もゐないことであつた。自分や文五郎が生きてゐる間はまだ良い。しかし、二人が死んでしまつたら、どうなるのかと思へば、弟子の問題は一日もゆるがせにすることも出來なかつた。しかも、人形遣ひにとつては、弟子はただ後繼者としてのみ要るのではない。舞臺で足を遣はせ、左を遣はすものとして要るのである。弟子はいはば人形遣ひの手足なのだ。その弟子にならうとする者がゐないのである。修行の嚴しさにもかかはらず、給金だけでは暮しの立ちさうにない、しかもいつ亡びるかもわからない文樂の人形遣ひになどならうとする少年はゐないのである。よしんばならうと思つても、親が承知しないのである。
 けれど、榮三にまつたく弟子が無かつたわけではない。大正二年の六月に北ノ新地の子の榮之助といふのが入門して、最初の弟子となつた。が、間もなく修行のはげしさに堪へかねて、逃げだした。次に大正八年の秋、榮枝といふ弟子が入門したが、これも半年も辛抱できずに廃業した、九年の六月には、榮三を手引してくれた榮壽の息子の光之助が入門した。光之助はさすがに人形遣ひの子だけあつて倖ひつづいた。十四年の六月には、また一人弟子が出來たので、二世榮之助と名前をつけた。しかし、この少年もよしてしまつた。昭和二年の五月には門造の紹介で、榮三郎が入門した。これはつづいた。昭和五年の八月には十六歳の少年が見つかつた。三世吉田榮之助と名づけた。このほかもと玉五郎の弟子で、玉五郎沒後榮三のところへ弟子入りした扇太郎がゐて、都合四人の弟子だつた。
 ところが昭和十一年の一月に榮之助がなくなつた。
 榮三はこの榮之助については、隨分細かい心づかひをしてやつてゐた。榮三はこの少年を弟子にする時、徴兵檢査の時まで榮三の家に預かるといふ条件をつけた。そして榮之助を内弟子にして、寝起きから食事衣服萬端、小遣ひまで自費で賄つてやり、給金は母親に渡す五圓を除いて全部藝名で貯金させ、なほべつに本名の貯金帳をこしらへ、それには榮之助が祝儀の收入をそのまま貯金させた。どうせ一人前になつても人形遣ひの給金は知れたものである、それに藝人はややもすると締りのない生活に流れ勝ちだから、下手すると、家も持てないことになる、そんなことでは、預けた親にも申譯ないし、本人のためにもいけないと考へた榮三は、さうやつて貯金させて溜つた金で、一人前になつた時に家を持ち、女房に小商ひをさせ、まづ生活に困らぬやうにして本人には人形一筋に勵むことが出來るやうにしてやらうと思つたのである。そして五年の間にその貯金が千三百圓餘りになり、本人もひそかに喜んでゐたが、ちやうど約束の徴兵檢査の正月、もう直き親の許へ返すのだといふ時になつてちよつとした風邪がもとでポクリと死んでしまつたのである。
 藝の筋はよく、漸く足遣ひも出來るやうになつてゐたし、また榮三にはそんな風にしてやつたのはその弟子がはじめてだつたし、死なれて見ると、がつかりしてしまつた。ところがそれから一月經たぬうちに、榮三の左を遣つてゐた扇太郎が死んでしまつた。歳は四十二歳で、油の乘つて來た矢先きであつた。器用で松竹の井上専務の目にもついてをり、近く名前替へをすることになつてゐた前途有望の人形遣ひであつた。
 折角丹誠してつくりあげた有望な弟子を、一年の間に二人まで死なせてしまつて、榮三は手足をもぎとられたやうな氣がした。ことに榮之助の死は、これからの弟子はかうして預からねばならないといふ無い智慧を絞つて考へた切羽詰つた試みが、もう一息といふところで挫折したのも同然だつたから、もう再び弟子を取る氣もしないくらゐ、榮三を悲しませた。
 榮三はもう光之助、榮三郎の二人の弟子にョるほかはなかつた。彼は會ふ人毎に、
 「わてが死んだあとは、あんさん光之助と榮三郎の二人を、味善[あんじよ]うョみます」
 と、言つた。
 人形遣ひといふものの生命が、もしかしたら自分や文五郎の代に亡びてしまふのではないかといふ心細い想ひが、その言葉のうらにひそんでゐるかのやうであつた。
 よしんば、自分たちの代に亡んでしまはず、紋十郎やそれから光之助や榮三郎の代までつづくとしても、そのあとをどうするか。それを想へば、いまのうちに弟子を養成して置かなくては遅いのである。もう弟子をとるのはこりごりだといふ榮之助を死なせたにがい經験も忘れて、榮三はまた弟子になる少年を探すのだつたが、そしてまた文五郎もその點は同じだつたが、もう昔と今とでは時勢がちがつてゐた。
 榮三は文樂座の不況に頭をなやますよりもこの後繼者としての弟子の問題に頭を痛める時の方が多かつた。しかし、どれだけ前途の不安はあつても、いやそれだけに榮三の藝はますます冴えて、いはば落日の最後の明りのやうに輝いて、ひとはもう名人と言つた。
 
 その五月頃から榮三はまた齒が痛みだして、どうやら骨膜炎が再發したらしく、舞臺を休むことが多かつた。
 そして、骨膜炎がやつと癒つたと思つたら、翌十二年の四月には風邪がこぢれて寝こんでしまつた。
 五月になつても全快しなかつた。が、その五月は、津太夫と紋下を爭つたほどの、ある點では津太夫以上といはれてゐた名人級の土佐太夫の引退興行があつた。
 また一人名人を失ふのかと思へば、そぞろに寂しくて、それだけにまた何か責任感に責め立てられるやうで、榮三は病氣の身體を舞臺へ運んだ。
 六月は、その引退興行を東京の明治座へ持つて行つたので、榮三も病氣上りだつたが、一座と共に上京した。そして五日目毎に演し物の變る苦しい舞臺を、飯を食ふ暇もないくらゐ忙しく勤めて、歸阪した。
 そして七月の四ツ橋文樂の興行は、折柄勃發した日支事變の影響もあつて、おそろしいくらゐの不入りであつた。そこで十八日からは一座は京都の南座へ出勤した。弟子の榮之助はその翌日應召した。
 南座の興行は五日で打ちあげた。が、一座は大阪へ歸れなかつた。文樂座は八月からニユース館になつてしまつたのだ。一座はさびしく北陸の旅へ出た。
 そして十月には大阪へ歸つたが、文樂座へ出ることは出來ず、一座は北陽演舞場を借りて興行した。不入りだつた。
 つづいて、京都の彌榮會館や新町演舞場へ出たりした。正月興行も北陽演舞場で文樂座へは歸れず、一座は勘當されてわが家を追ひ出された子供のやうなさびしさにうなだれて、
 「文樂ももうしまひやな」
 「いや、亡びる亡びるいはれてから、もう四十年も經つてる。今まで亡びんと來たのは、どこぞええところがあんねやらう。今にお客もそのええとこに氣がついて、振り向いてくれはるわいな」
 「そやろか」
 などと囁き合つてゐた。
 一座の者は再び四ツ橋の小屋へ戻れないものと、ひそかに諦めてゐた。暗い氣持が毎月つづいた。
 ところが、一方四ツ構文樂座ではニユース映畫上映の興行の成績も芳しくなかつた。そこで松竹では再び人形淨瑠璃を出演させることにした。昭和十三年の五月であつた。十ヶ月振りに歸れたのだと、一座の者はうれし泣きにないた。
 
 さうして、十三年が暮れ、十四年が暮れ十五年が來て、その年もやがて暮れやうとする師走の十三日、竹本錣太夫がポツクリ死んだ。
 つづいて、十六年の三月の末、文樂に殘された唯一の端場語りの名手である駒太夫が死んだ。
 一座の者はふつと通り魔が走つたやうな寒氣にぞつとした。大正十三年、越路、名庭弦阿彌の二人を二日のうちに失つてしまつた時のあの不氣味さを想つて、あわてて首を振つた。
 駒太夫は四月興行には「新口村」を語ることになつてゐた。初日にはあと二日しかない。駒の急死に驚いた奥役はあわててその代役を新進の伊達太夫に振つた。
 伊達太夫は聖天坂に住んでゐる師匠の土佐太夫のところへ駈けつけ、稽古をョんだ。
 土佐はもう引退してゐたが、弟子のョみである。早速稽古をはじめた。
 「――落人のためかや今は冬枯れて、すすき尾花はなけれども」と、かつて堀江座に居た頃文樂座の紋下美聲攝津大掾をもしのいだといはれたほどの美聲で語られて行くのを、伊達は一生懸命に聽いてゐた。すると、突然土佐の手からばたりと撥が落ちた。あつと驚いて伊達が見ると、もう土佐は稽古机の上に俯伏してゐた。そして間もなく絶命した。
 
  十三
  
 私がこれまで見た文樂座の興行の中で、一番記憶に殘つてゐるのは、この昭和十六年の四月興行であつた。
 なぜ記憶に殘つてゐるかといふと、これほど文樂の餘命について考へさせられた興行はないからである。さきには錣太夫を失ひそしていまこの興行に出る筈の駒太夫を失つた。盲ひた顔を上向きにして、身體を二つに折つて、ぼそんと見臺の前に坐りながら樂楽とした美聲でいかにも藝に遊んでゐるかのやうに淀みなく語つてゐた、あの盲老人をもう見ることは出來ないのかと思ふと、さすがにさびしかつたが、しかも、その代役で「新口村」を語る伊達太夫の眞劍な表情のかげには、恩師土佐太夫を失つたひとの悲しみが見えてゐるのだ。私はたまらなかつた。
 そればかりではない。この時の狂言に、津、古靱、南部、それから津太夫の息子で最近中支戰線より歸還したばかりの津の子太夫改め五世濱太夫の掛け合ひで「妹背山」三段目が出る筈だつたが、津太夫は病んで休み、大隅が代つて語つてゐるのだ。この狂言は津の子太夫の襲名披露狂言である。父親の津太夫にしてみれば、是が非でも出演して花を飾つてやりたいところである。それを休んでゐるのである。私は病氣の津太夫の胸中を思ふと、絢燗たる「妹背山」三段目の舞臺に陶醉することも出來なかつた。
 津太夫が死んだのは、土佐の死におくれること約一月の五月七日であつた。文樂のことが氣になりますと言ひつづけて死んだのである。
 氣になるのであれば、死んではならなかつたのである。土佐太夫の死はもう引退後であつたから、直接文樂座にはこたへなかつた。が、津太夫は古い文樂の最後の人であり、紋下であつた。かけがへのない人を文樂はなくしてしまつたのである。殘るのはもう古靱一人である。しかも、何といふ惡因縁であらうか、津太夫の死と日を同じうし、殆んど時刻も同じうして、古靱は長男をなくしたのである。
 いかなる惡魔に文樂は魅入られたのであらうか。私はさう呟きながら、五月の中頃、四ツ橋へ足を運んだ。津太夫の死がかうまで響くのかと思ふくらゐ、文樂の舞臺はさびしかつた。けれど、たつたひとつ古靱の「尼崎」だけは、津なきあとの床を一身に背負つて立たねばならぬといふ責任感のためだらうか、それとも肉親の死の悲しみが彼の藝をにはかに圓熟させたのだらうか、いつにもまして生彩のある語りロで語つた。
 そして、その語り口の澁さに合はせて、口をぐつとへの字に曲げながら、黙默として淡淡として操る榮三の光秀からは、異様な迫力が舞臺一杯に溢れてゐるのだつた。私はこれを見ながら、この七十歳の榮三と、そして古靱と文五郎の三人が生きてゐて、四ツ橋に小屋がある限り、まづ文樂は亡びないだらうと思つた。無論その時の私は、四年後に文樂座が燒けて、人形も衣裳も失はれてしまふなどとは、夢にも想像しなかつたのである。