(八) 堀川夜討(*御所桜堀川夜討) 三段目切 弁慶上使の段

 此外題は文耕堂や三好松洛の作と聞く。又初演は、元文二年巳の正月(大正十五年を距る百九十年前)に竹本座にて若竹政太夫、即ち二代目義太夫、後の播磨少掾となつた太夫が役場と思ふが五行本に竹本越太夫、鶴沢仲助とあるは、後年江戸で改作して講座に上せたとの事で、此等が風となつて今日伝はつて居るとのこと。併し元来の作が悪るい為めか、文章をいじりいじつてメチヤ/\にしたのみならず、語り方も何が何やら判らなくしてしまふたものである。随つて絃の方もヨタの競争会見たよふに、太夫と共に当節斗りになつて居る。されば大掾生存中に曰く「堀川夜討の四段目藤弥太物語は、団平師がスツカリ朱章を調らべて、キチンと致されまして、前の源太夫と三郎(*寛三郎)が勤めましたと聞ましたが、三段目丈は吾々生き残つた者共が、何共申訳ない哀れな物にして仕舞ました」と云ふて居た。
 即ち小音であつたと云ふ二代目義太夫、即ち若竹政太夫、所謂播磨少掾の語り場故、尤も真西風に位取を語るが第一で、足取音遣ひが大変に六ケ敷のである。枕からシツトリと大地にメリ込むよふに弾いたり語つたりして、『ムヅと座して一礼し』まで語つたら、満場の見物は、モウ其舞台に酔ふて何処も彼方も元暦頃の気風になるやうに、語り且つ弾かねばならぬ。『程もあらせず入来るは』の一句は、訳が分らぬでも元暦の頃の鎌倉と云ふ事を思へ、又大山の崩るゝ計りの大難題を胸に持つた弁慶が、鎌倉から態々京に馳せ上つて、今此所に入り来る時の心地で語れと「浄瑠璃古咄集」に書いてある。総てトン、ツン、テン、と云ふ音に、限りなき重味ある妙趣を含んだ三段目の音遣ひを研究修業せねば、歯の立たぬ品物である。
『イザお通り』は侍従太郎で語り、『御案内』とは花の井で語る。『跡に引添ふ武蔵坊、鎌倉殿の難題を、ツイこう/\と云へばへに、暫く心奥の間へ、打連れ伴ない入にけり』の文句が、此段の一番六ケ敷所である。古今独歩の忠臣武蔵坊弁慶の息組を語るは、此所を外してはモウないのである。
 豫ても云ふ通り、義太夫節の半可通の人々が、ヤレ其処でソー語れば、奥の筋を割つて仕舞ふとか、ソー云へば人形の腹が割れるとか云ふが、夫れは此芸を知らぬ人の言である。元来此義太夫節と云ふものは、能楽から出たもので、組織が一切能楽であつて、チヤンと主手(して)脇が極って居る。夫に主手連れ、脇連れが付いて居る。夫から能楽は、絶対に表情を禁じてある。義太夫節は表情が主である。夫が尤も極端である。夫故両者共其の極端が六ケ敷のである。
 表情を語れば割れるのである。割るには其人形の意思の変化と境遇の差別が、太夫の腹にチヤンと理解せられた表情でなければ徹底せぬのである。夫を実行するには、技量が入用であり、其技量は修練せねば出来ぬのである。其修業には斯芸の種が正式でなければならぬ。今の太夫共は、絃の音の何物たるかをも知らず、又極まり切つた三段目、四段目の音遣ひをも知らずして、暗雲に呶鳴り散らして、人気と金丈けを欲しがつて居るから、全く浪花節と一所の、無茶苦茶芸と、なり下つたのである。
 夫斗りでなく、今の素人の馬鹿天狗共が、一番此芸の賊である。三段目、四段目計りより外知らずに、太夫を凌駕せん斗りの殻法螺を吹立て居る、是が又芸の悪るくなる一原因である。此等は飯を食ふ事を知つて、米と云ふ物の訳を知らぬと同じ事である。即ち大序が苗代で、二段目、三段目、四段目に付随する端場や道行や、景事等にて組立てて、耕耘幾多の艱難の経過となつて、始めて三段目、四段目の切場という米や、飯になるのである。其三段目や四段目の切計りを修業して語つても、夫が不味いから、素人義太夫の事を、昔から冷飯太夫と云ふのである。
 芸人は身分は卑くとも、芸は権威である。権威は修業である。其修業が悪るくては、本が腐つて居るから、何も無いのである。夫を銭を出して聞く奴、是が人間中の一番の馬鹿者である。此堀川夜討の三段目も今銭を出して聞く太夫はあるまいと思ふ。
 「おわさの口説」はアンナに俗受の陳列会ではいけない。詞ノリの心持で憂の腹でサラ/\と語り捏くり廻したり、引摺り廻したりしてはいけない。元来が此段は弁慶が泣くよふに書いたもの故、外の連脇で舞台を破壊さぬよふにせねばいけない。皆弁慶に対する芸の保護者でなければならぬ。夫から侍従太郎が脇であるから、中々位取が六づかしい。