(十) ひら仮名盛衰記 三段目切 松右衛門逆櫓の段

 此外題は、元文四未の四月(大正十五年を距る百八十八年前)竹本座に上場せし物で、作者は文耕堂、三好松洛、浅田可啓、竹田小出雲、千前軒であるとの事、又芋屋平右衛門と云ふ人、竹本鳴太夫(*竹本島太夫)と名乗つて始めて出座したとの事。役場は二代目義太夫、即ち竹本播磨の少掾であると聞く。此人は、元祖に較べると、極々の小音の人で、全く修業の一点張にて、成功した人である故に、音遣ひが其芸術の骨子と成つたので、音遣ひの点になると、寧ろ元祖よりも、後世に伝はる音譜の運は、此人の方が元であると云ふてもよいとの事。斯道中興の祖とも云ふべき、筑前の掾の語り口などは、其淵源を全く此二代目義太夫に取つて居るやうに思はるゝ。先づ『妻恋ふ鹿の』ハルフシ風が「一」(*「二」)に落ぬやう、尤も上品に語らねばならぬ、大抵はお筆に色気があり過ぎて困る、お筆はソンナ人形ではないのであるから、出の文句にも『妻恋ふ鹿の果ならで』と書いてある。『難儀硯の海山と、苦労する墨憂事を、数書くお筆が身の行衛』との名文は其作者たる文耕堂等が作中の誇りと賞へられたのである。故に此文句を語り出す太夫は、大概は位負を為るのである。故団平は「逆槽の枕は近来の太夫さんでは、ドンな豪い人でも、物に成つてる人は一人もなかつたと思はれる。ただ巴太夫さんに(柳適太夫ならん)此枕を云はせた時斗りは、アー良なア、是が本当の逆櫓の枕ぢやなアーと思ひ升た」と云ふたとの事である。左すれば大掾も大隅も、団平の耳には、夫が面白くなかつたと見えるのである。『ナンーーンーーンギスズリノ、ウミーイ、ヤマト』と音で語るが此風であるとの事。『クロースルスミ、ウキコトヲーヲーヲ』、と音で走るべき味がある。『カズカクオフデガ、ミノユークーウウエ』と足を極めて語る事が六ヶ敷との事。夫から『松を見当に尋ね寄り』は「ユリナガシ」に品よく収めるのが正式だと聞いて居る。此「ユリナガシ」と云ふ手を能く味わはねばならぬ。二ノ口村の「二ノ口村へ着きけるが」、湊の町の「湊の町に着にけり」、又「ギンガヽり」では、玉三の「白書院」、布四の「庭の紅葉斗りなり」等の如く、皆此節で語方弾方が違ふのである。夫から「詞」から「地中」から「地色」から、皆音の操縦が秘决である。其遣り方運方で、此段が自然と田舎じみた、漁村の漁師の家となるのである。夫から後段になつて『踏砕く頭の皿微塵に成つて死してんけり』になつて、何時も素浄瑠璃では、「ツンツル/\/\/\」『涙にむせぶ腰折松』となるが、是は無理とも無法とも、芸にも咄にもならぬが、然らばと云ふて『畠山の重忠』や『権四郎の船唄』などを、五行本の通りに入れて語れば、惰劣て仕方がない故に、庵主は大掾の頼みで五分間斗りで仕舞へるやうに此繋を書足して置いたことがある。