(四十三) 本朝廿四孝 三段目切(*四段目切) 十種香の段

 此段は明和三年戌正月(大正十五年を距る百六十一年前)竹本座にて興行し、作者は竹本三郎兵衛にて、役場は竹本鐘太夫であると思ふ。而して此場は四段目とは云へど、斯芸本領の凄惨悲愴の筋を書かず、太夫と人形使ひの芸格本位に仕組みたるもの故、之を語る太夫は、舞台の高尚と、人形の品位とを、寸亳も失はぬやうに辿つて語り、人形遣ひは人形の容と、間と振とを見物の眼底に永く印象するやう使はねばならぬ事に成つて居る場である。故に六ヶ敷としては限りなき物ながら場格としては、三段目よりもズーツと下るのである。前としても、下駄場と鉄砲渡しの違ひがあるやうに、切場も二十四孝の外題は、三段目がお仕舞である。況んや語つた人が島太夫、即ち二代目若太夫である。四段目は鐘太夫と云つて、日本無双の大音の太夫である。夫に此四段目を語らせて自分はアノ恐ろしい三段目を語つて、此外題の結びを付けた力に至つては、只々驚嘆の外はないのである。又此の如き名人に三段目を語られた後に、全く筋の違ふやうな、風の違つた此四段目を、日本一の大音で語つて、夫が此人の出世芸となる程、上出来であつたとは、此鐘太夫が当時の勉強と鍛練も亦恐ろしい程である。ナゼなれば、此鐘太夫は忠臣講釈喜内住家や、近江源氏の八ッ目、盛綱首実検を語つた人と、同名同人であると云ふことで、此四段目の修業が、如何に精励努力の結果であつたかと云ふ事が判るのである。今時の太夫は、己れが給金を貰つて居る役場を粗末にして修業をせぬのみならず、自分の我流に節を付けて、勝手に読付げてゐる。偶々上等の部が、他人の悪るい所斗りを真似るのである。真似の出来る所は屹度悪るい所で、良い所は修業せねば決して出来ぬのである。否修業してさへ出来ぬ者が多いものである。故摂津大掾は曰く、
「鐘太夫さんの風で此段を語つては、銭は儲かりませぬが、当り前に語れば、実に立派な場で厶り升。先づ『月洩る臥戸に入る月の』(*『ふし戸へ行水の』)と「ギン」で流しまして、「シャン」と弾いた音より高く『流れと』四段目風の「ハルフシ」で出る時に、此一段の位がチヤンと定まらねばなりませぬ。団平さんはコウ申ました「私が「シャン」と弾いて、アンタが『流れと』と出るまでの間に、毎日脇の下から冷たい汗がたら/\と出るよ」と云はれた時は、此『流れと』で若い時から永年沢山お金を儲けました私も又冷ツと致しまして、其翌日から「シャン」と弾かれ升と、目がグラ/\ッとするやうな気が致しました。夫から「チントン」と受けられた後は大抵「トン」の音に付いて、当り前に語り升が、夫が違ひ升。「チン」の方の音に付いて自然と音を下げて来て「中ギン」の音に漂つて『人の簑作が』と段々と運んで参り升。夫から詞の困難は又別儀で厶い升が、八重垣姫の出と来ましては「ギン」の音の遣ひ分けが「ビードロ」甕の中で、金魚の泳ぐやうに、澱まずにハツキリ、ユラ/\と「ギン」の音を遣ひ分けて語んなはれと、団平さんに云はれました時は、私は太夫を止めやうかと思ひました。又「サハリ」になつては、実に泣ました。「アンタは師匠春さんのも聞いて居なさらうが、八重垣姫がソー腹の中で「ウレイ」の譜を探つて語つては、カラ駄目じや、涙はオボコ涙で、涙までオボコな色気がなくてはイケません」と云はれましたから、私はイヤ泣いたのは八重垣姫ではありませぬ、私が泣いたのだす、と申ましたら、プツト笑ひやはりました。此段で名高い咄は、私は団平さんと分れました後も凝りましたが、松葉屋広助と共に九年目(*五年目)に、少し心面白くなりました。又『庭の溜りの泉水』の処や、『渡り頼まん船人』(*『船人に渡り頼まん』)などの処あたりになり升と、景事の心持やら、道行の足取やら、其混雑な芸風は何ともお咄になりません」
と云つた。之を聞いた庵主は丁度、能楽喜多流の哲人梅津只圓翁が、九十二歳の時、庵主が父に葵の上を伝授せらるゝ時の講釈と、寸分違はぬと思つた、成程義太夫節は能楽から出て、チヤンと芸格の極まつた物じやナアーと思つて聞いて居た。今や哲人、大掾已に死して、其慈訓の声のみ、庵主が耳底に残り、斯芸の妙蘊は已に世に廃れて、皆新規のハイカラ義太夫節計りとなつて、彼の帝展の画の如く、筆力と気胆とを練らずして、只色彩の塗湛にのみ流れて来たやうに、斯の芸も其風格によりて生動すべき人形は、様々の間違つた声の画の具で、顔も首も塗り潰ぶされて居る者となつて来たから、止むを得ず、庵主が昔日聞いた先哲の咄を思ひ出した儘、斯くは愚痴るのである。