(四十五) 関取千両幟  二段目切 稲川住家(*稲川内)の段

 此外題は明和四年亥八月四日(大正十五年を距る百六十年前)竹田文吉座に上場した物である。前狂言が「花車寿永の春」で、此外題の第八、九の道行追出しまでが,切狂言である。作者は近松半二、三好松洛、竹田文吉、武田小出雲(**竹田小出雲)、八民平七、竹本三郎兵衛である。此段は第二の切で、役場は綱太夫を(*と)聞く。此時の太夫の顔触れは、初筆が鐘太夫で、住太夫、咲太夫、組太夫で、彦太夫が中軸で、梅太夫、和佐太夫、倉太夫、綱太夫となり、書止めが染太夫である。
 夫から書下しには、稲川を岩川としてある。又女房おとはの「サワリ」文句の如きものはなかつたのである。只だ『大事の相模をふつてやらざ成るといと思へば、不甲斐ないやら口惜いやらで、おりや胸が裂ける様なワイ』『オヽ道理ぢや/\/\わいなア、去ながら、夫程の大事のこと、連添ふ女房に隠して居る、お前の心が聞へぬと、恨み涙に時うつる。早追々の呼使ひ、ヤア/\(*モウシ/\)土俵入でござります』と是丈になつて居る。当時の綱太夫が語つて以来、此二段目の評判がよくて、夫が切狂言であつたので、其後之を掛合に遺ふ(**遣ふ)事となり、夫が当つて、毎度掛合/\/\/\となつたのである。夫から嘉永の頃名古屋生れの新七と云ふ素人の三味線弾が、非常に手の廻る芸風で、京都に出て来て興行をした。其時京都出身の大阪角力に、稲川と云ふ人気の良い力士があつた。夫に当て込んで、岩川を稲川と語り、又三味線の三段目の手を、アレコレと易へて面白く弾き、おとはの「サワリ」を書き加へて人形を踊らせ、「チンチリトン」と乗せて、『江戸長崎や国々へ行かしやんすりや、其あとの』などゝ語り、其後で矢櫓太鼓を面白く弾いたので、初日より大当りを取つたので、 一般の芸人が其朱譜を取つて、我れも/\と真似をしたとの事である。庵主の考へでは斯道、義太夫節の堕落は、此頃から始まつたものと思ふ。元来二段目の切役と云ふ物は、絞下(**紋下)太夫で、老功の太夫が後進を引立てる為めに、自分が二段目の切に廻つて、後進に三段目四段目の切を語らせて小言を云つたものゝ由。第一自分が二段目に廻れば、客足も早くなるし、其外題の根本も早くドツシリと定まる故、一座の責任を負つて客の尻をちやんと落付かせて、後進の三段目四段目を聞くに、最も興味を持たせるやうに勤めたと云ふ心尽しであるとの事。故に千本桜の渡海屋、政太夫場や、二十四孝勝頼切腹、染太夫場や、忠臣蔵の判官切腹、政太夫場や、妹脊山の芝六場、綱太夫場等の如く、重く/\/\二段目を大事の役場とした物である。夫に綱太夫の語り残した此千両幟の二段目の結構な物を、茶々無茶苦茶にして、芸人が之を何とも思はぬのみか、夫を我先きに真似て前受け専門に聴衆に媚び諂ふた、当時の芸人の心裡は、モウ芸道堕落の機運が来て居たのであると思ふ。故に昔から名言が残してある。
「芸は芸人が悪くし、旦那衆が之を善くする」
と、ナゼこんな言を云つたかと云へば、芸人は芸を商売にして利益収入を欲しがる、ソコデ聴衆に媚びて、前受けに眼を眩らます。旦那衆は道楽で遣るのぢやから、折角覚へるなら、正しき道を研究したいと思ふ。ソコデ本当の事を覚へて居る。夫に芸人がツマらぬ芸をして、金取をして居ると旦那衆は腹を立てゝ贔屓にせぬ事になる。夫が苦しいから、芸人は苦しいなりに、又本当の芸に心掛ける事になる。故に「芸人が芸を悪くし、旦那衆が之を善くする」と云ふのである。庵主は此段を沢山に聞いたが、一つも感心したのはなかつた。只だ明治の中頃、東京に竹沢弥七と云ふ三味線弾が居た。是は外の出し物は格別感心もしなかつたが、此矢櫓太鼓丈けは一寸芸が離れて居た。先づ撥尻や蝋燭の曲弾は別として、落付払つた大きい間で、掛声が誠に宜敷、息合ひが芸の妙に入つて居て、暫く弾く中に、風に連れた遠音近音が真の櫓太鼓に開かれる(*聞かれる)事になつて、懐の広い芸風であつた。此れ一つは屹度良かつた事を証明してよいと思うて居る。庵主の考へでは、此外題は若し後年斯道回復の時機が来たらば、切狂言でなく、二番目物とでもして立てゝ見たいと思ふ。名にしおふ半二、松洛、平七,三郎兵衛等一騎当千の大作者の筆になつた物故、作も宜敷、文章も宜敷、太夫の顔触も宜敷事故、二段目丈けを拾つて、後を捨てる品物ではないと思ふ。大序の釣狐の場が染太夫で、第二の岩川住家の場が綱太夫で、第三の相合傘鉄ケ嶽殺の場が住太夫で、第四の千羽川内の段が鐘太夫で、第五の団右衛門、吉兵衛決闘合の場が掛合で、団右衛門が咲太夫で、千羽川、吉兵衛が倉太夫である。夫から第六の足代屋の段が又掛合で、彦太夫の芸子桂と中居(*仲居)のおさかで,綱太夫の長崎客で、和佐太夫の中居(*仲居)と礼三郎で、住太夫の芸子藤江と岩川で、組太夫の錦木で、咲太夫の九平太の役割である。第七の鰻谷礼三郎侘住居の段は染太夫で、第八が道行で、第九が大団円追出である。是なら立派に芝居が立つて、賑やかで、派手で、シツカリ興味のある外題であると思ふ。夫を二段目丈けで殺して仕舞ひ、其二段目も軽業師のやうな三味線弾が、行戻り引掛撥斗りを用ひて、道化交りの掛合専門の端物にして仕舞ふとは、嬲殺しにも大抵程のある惨酷さである。
庵主の考へでは初めは引出しよりも『別れ行』の三重で出たがよいと思ふ。『芝居は南』の「小ヲクリ」『相摸と能』の「ハルギン」、『羽織脇差衣まわし(*とりまわし)』の「中ギンフシ」等、皆運びが宜敷いと思ふ。夫から『酒は松(*杉)ばへ』の「江戸ギン」、此が何時も三味線の心得違のある処と聞いて居る。「江戸ギン」と云ふは「ヘタル」手になつて居て、必ず下に結びの「フシ」が「三ツ入」か何かあつて、一卜鎖りの手を切る下地拵へと聞いて居るから、念を入れて冴え渡るやうに弾くとの事である。夫から詞を克く/\研究して、人情の変りと息合とを、寸分間違へぬやうにして押通す事。夫から『町中の』と云ふ皆「地色」に語るがあれは「道具屋」で「ハツテ」出るとの事。『打連帰る我家の内』はユツタリとした「ハルフシ」で語らねば、昔の「手摺」は角力の足取が使へぬと云つて小言を云つたとの事、夫から『稲川土俵で逢ふと「チヽン」強い詞のどこやらに、あぢな金捧引ずる雪踏、ぐはらつかせてぞ出て行く』は、力一ぱいの声を出し、足取を易へて大きく収めねば、又「人形遣」が小言を云ふとの事。夫から『鬢のほつれを撫付ける』以下は「ギン」の音を時代に遣はねば、綱太夫風にならぬとの事。夫から増補の「サワリ」も語るは結構であるが、躍らぬやうに世話女房に、シツトリと「ウラ半太夫」の間で、即ち普通の「サワリ」の間で、「チヽヽチンテン」『互ひに胸を明しあい』の如く騒がしくならぬやうに運ぶ事。夫から『行空の』三重の所で「道具返し」のかはりに、櫓太鼓を三返し斗リ引いて、サラ/\と語り収むれば、二段目として立液な太夫が一人で付け物にでも何にでも、シツカリした語り物になる物ぢやと、古老の咄に聞いた事がある。