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【 浪花其末葉 】

(2003.10.19)
(2022.05.21補訂)
提供者:ね太郎
 
徳川文芸類聚、浪速叢書(15:2~30)によった。
興行年月は義太夫年表近世篇に従った。
( )内はルビ、〈 〉は注記、

 
浪速叢書版解題
一 『浪花其末葉』の原本は、堅三寸五分、横五寸二分の枕本型、評判記型の横本で、序文一丁、本文廿二丁、都合二十三丁の浄るり評判記である。
一 『浪花其末葉』は、延享四年(我が二四〇七西暦一七四七)の二月に上梓された。著者は竹遊二笑と、その序文に署名してゐるが、何人であるか私は知らない。
一 『浪花其末葉』の上梓された年は、延享四年、即ちその年の七月に、寛延と改元されてゐるから、浄るりからいつて最上の爛熟期の評判記である。別項の『東西評林』の解題の条にも述べた如く、浄るり道の峠の頂上であるとともに、もう衰運の下り坂に足を踏込んでゐた時代だ。そして『東西評林』が、東西の竹本豊竹の二座の評判であつたが、この『末葉』時代には『竹本、豊竹、外に新操の陸竹小和泉座がある。
一 『浪花其末葉』と『東西評林』とを、並べ掲げて、数の少い浄るり評判記の代表とするとともに、浄るり最盛時代の斯道を、これでうかがふことが出来ると思ふ。猶ほ『東西評林』解題の条を参照されたい。
一 『浪花其末葉』を、今一つ浄るり史上から観て、有意義だとして、茲に採録したわけは、『東西評林』の条りでも申したやうに、東西両座の入替り、即ち竹本此太夫が、例の九段目事件で、竹本座を去つて、東に転じて、豊竹竹筑前少掾となつた。これと入替りに東より大隅掾、千賀太夫、長門太夫らが、西に来たといふ騒ぎが、寛延元年(我が二四〇八西暦一七四八)八月のことで、恰も、この『末葉』が延享四年(我が二四〇七西暦一七四七)の二月に上梓されてゐるから、東西両座入替りの最後十年を浄るり最盛期として、『末葉』と『東西評林』とが、丁度、その最盛期を挟んでゐることになるのである。以て、この浄るりのこの二評判記の位置がわかると思ふ。
一 『浪花其末葉』の原本は、解題者の所蔵本を用ひた。(石割松太郎記)

 
 
琵琶法師[びわほうし]が平家を語り扇子掻[かき]ならして拍子[ひやうし]取ル是かや小野ゝお通[つう]がむかしかたり假初[かりそめ]に筆を染たるもいづれ音曲[おんぎよく]の始メとして終[つい]に井上播广がなき面影[おもかげ]今竹本の末廣く陸奥茂太夫がいにしへ盡[つき]ぬうき世のかず〳〵ゑしれぬ事を書つらねあやしき鬼[おに]のうれひ幽霊[ゆうれい]の所作事知らぬ国〃の風景も偽[いつわり]まじりに文花をつくせバそれ〳〵の節章[ふししやう]清濁[せいだく]のわかちをなして人〃の目を驚[おどろ]かし耳をさハがす是も又怪力[くわいりよく]乱神[らんしん]の咎[とか]にや落[おち]ん我も又それになぞらへゑしれぬ事を書つゞりて浪華[なにわ]其[その]末[すへ]葉[ば]と題[だい]する而已
延享四ツのとし
   きさらぎすへつかた
作者竹遊三笑
卯[う]いてくる拍子[ひやうし]の撥音[ばちおと]ひいたり
  御ひいき心を立ぬく初日の大幟[のぼり]
武道[ぶだう]の矢声[やごゑ]は家に伝[つた]ハる根[ね]づよい    竹本
色[いろ]事のせりふはしつほりとやハらかな 豊竹
新操[しんあやつり]の陸竹に見物ハわいてくる    小泉
 
 大臣[だいじん]の乙声[おつごへ]に微塵[ミぢん]ひるまぬ女郎のかん声
室咲[むろさき]の初メより.紅梅の色よきも.終[つい]にハ桜にかハり.木の下影[かげ]に幕[まく]打はへて.詠メにあかぬ一樹[じゆ]のやどり.それハ名にあふ紅葉狩[もミぢがり].ふしぎや今迄有りつる花の.散[ちり]がてになれバ.水無月も過七夕の笹釣[つり]さほの糸.長くたへせぬ四季の楽[たの]しミ.引かへていつも替らぬ桜色ハ.通ふにまさり逢てかこち.さすが岩木にあら男も.ついにしゆす鬢[びん]と成つて.飛ざやの帯何となく.たけ長き羽織.素[す]足にばら緒[お]の足元ゆたかに.あまりぎらつかぬを落しざしに.茶筅[せん]髪の小者つれたるハ.疑[うたが]ひもなき難波の.粋[すい]と呼れし延四大臣[ゑんしだいじん].南嶋[なんとう]にてハ足代[あじろ]貝塚が槌[つち]で庭[にハ].箒[はうき]ハ此里のきんもつとかや.先新春の御慶.サア〳〵奥へ御来臨[らいりん].御約束[やくそく]遊ばせし松屋のときハ木様.アレ奥に待兼[まちかね]てござります.そりやお盃[さかづき]お吸物[すいもの]と騒[さハげ]バ.末社[まつしや]の万介二三四の幸助鼠なきの忠七.名代[なだい]役者のこハいろ.小女郎[めろ]のさんがつまミ喰[ぐい]ハ.百助が真似[まね]じやと.口がましき牽頭[たいこ]が拍子[ひやうし]と共に.飲[のミ]かける底[そこ]なし共.今の世に素戔鳴[そさのお]が居給ハヾ.爰にも大蛇[だいじや]あるかとあやしみ給ふべし.私もちつとおあい致たふござりますと.亭主[ていしゆ]が一種[いつしゆ]もつて出るハ.生貝に生姜酢[しやうがず].肴ハ是で仕廻といふ事か.イヱ〳〵女郎様方を.今年も来年も旦那[だんな]のお仕廻といへバ.是ハ出かした.幸此盃[さかづき]ハいかふもめてある.そなたひらふて一ツ飲[のめ]と.いつもながらの一ツ角[かく].忝しと盃取上れバ.中居のとよがてうどついで銚子[てうし]かへに立テバ.大臣を始末社[まつしや]牽頭[たいこ]も一同[どう]に.コリヤあじやつたと手を打ツての御機嫌.亭主もあたまをかいて.どうで私に何ンぞ意趣[いしゆ]が有ルか存ませぬ.あのよふにすりや猶堪忍[かんにん]ハならぬとつぶやくにぞ.道理で嚊[かゝ]の目をぬいて.実悪[じつあく]仕出しの色でハないかと.後ハ大笑[わら]ひに成つて.一座興[けう]をもよほす折しも.襖[ふすま]一重[ひとへ]となり座敷に.何やらこハ高な女のせり合.どういふわけじやと聞耳[ミヽ]たつれバ.サアあのせり合についていはく段〃有磯海[ありそうミ].底意[そこゐ]をお聞なされませ.丁子[てうじ]屋の花世様桔梗[ききやう]屋の染菊[そめきく]様.其外いづれも名代[なだい]の君達[たち].最前からふつと浄[じやう]るり太夫の咄[はな]しについて.せりあふてござります.何ンと替[かハ]つたことでハござりませぬか.何ンじや浄るりの事.是ハ合点[かつてん]のいかぬ.女郎衆のせり合にハふ相応[さうおう]な.ソレ幸介[こうすけ]忠七.かしこまつて両人となり座敷へちよくしに立.コレ〳〵いづれも様.先〃おしづまりなされ.我〃が旦那延四[ゑんし]大臣襖[ふすま]ごしに各[おの〳〵]方[がた]のせり合を聞[きい]て.とくと訳[わけ]を承り.よろしく御取持[とりもち]申たいとの事.くるしからずバ間の襖[ふすま]をとつて.座敷を打込始終[しじう]の様子仰られハ.此旨[むね]申上いとの御事と.聞もあへず.イヤ〳〵内證のあらそひ.余[よ]の人の耳[ミヽ]へいれることじやない.お心ざし.忝いとよふいふてくだんせと.腹立[はらたち]まぎれひんとした口上.サアそこが談合[だんかう]所.訳[わけ]ハ旦那に直[じき]におつしやれ.先〃此襖[ふすま]が邪广[じやま].ぶ作法[さほう]ながらと押明クれバ.大臣大様[おふやう]に.君達[きミたち]是へと打招[まね]き.マアどうした訳[わけ]で色よき顔に.火花をちらさるゝと尋られて.ぜひなく染菊[そめきく]がづつと出て.マア聞てくださんせ.此里の女郎さんがたハ.新九さんの又太郎さんの.いぢの悪[わる]さふな大五郎さんに迄.打込ムおさんもあれど.わたしらハアノ西の此太夫さんが.思ひ入レふかふ語[かた]らんすを聞イてハ.どうもかふも成らぬわいな.それに何ンじややらあほうらしいと.聞よりコレ染菊[そめぎく]さん.此花世がまヘでそんな咄しハいやでござんす.わしや内匠[たくミ]さんのかハひらしいふし事が.ほんに〳〵身にしミ〳〵としミこんだ物.脇[わき]の噂[うハさ]ハ耳へも入らぬハいなと.互[たがい]に水かけ論[ろん].井筒やのあふよが中から.いや〳〵大西[おふにし]の佐和太夫さん.あれが真実[しんじつ]かハひらしいといふ物.おまへ方の物好[ずき]ハ大きな間違[ちが]ひじやと.又いさかひ若[わか]やぎ。もや〳〵と後[のち]ハ女郎のあるまじい.そろ〳〵上着[ぎ]の肩[かた]ぬぎかけてのせりふ.大臣もあきれ果[はて].末社[まつしや]にいひ付ケ.両方たゝき付ケさすれど.いかな〳〵ミぢんもおさまる氣色のなき折から.勝手[かつて]口より牽頭[たいこ]の伝三.御注進と出来れバ.大臣扇[あふぎ]を上ケて.何とて最前よりハこぬぞ.おそい〳〵と御意の内.伝三畳に頭を付ケ.委細[いさい]あれにて承る.それに付キ旦那にお願ひの一通と差出せバ.幸介それにて披見[ひけん]せよと.仰に取あへず読[よミ]上る.
 
會本
おもしろい上るりじや
まあおさへ申
行平中なごん三とせハこゝすまのうら
よふ〳〵でき申
一ツおあかり
かハつたせりふの
たいていのことでない
まづだまらんせ
此のあふぎをいただかんせ
いやでござんす
 
一 何[なに]〃明七日の夜.當所におゐて碁盤[ごばん]人形人形やつし狂言[きやうげん]興行仕候.上るりハ三芝居立[たて]者の太夫衆罷出相勤[つとめ]申候.御慰[なぐさミ]ながら御来駕下さるべく候,ムヽこりや則[すなハち]其方が会[くわい]するのか.されバ當年[とうねん]いまだ引初[そめ]語初[かたりそめ]も致さねバ.我〃が国太夫のひんぬき.旦那の御意に入レたく.ことにハ明晩[ばん]此一座の君達御誘引[ゆうゐん]遊バし.御出なされ.いづれも御贔屓[ひいき]なさるゝ.太夫衆の浄るりを御聞なされ.其上にて互[たがい]に恋あらハ御取持申さん.それをきぼに今晩[ばん]の所.旦那を始我〃がもらひましたと.あじな所へ持つて参れバ.今迄赤き顔色も忽[たちまち]柔和[にうわ]の姿を顕[あらハ]し.襟付[ゑりつき]帯の廻りをなでゝ。相好[さうがう]を粧[よそほ]ふ心ハ粋[すい]とても色に目ハなく.何事もお頼み申ますと打とけた穿鑿[せんさく].サア埒[らち]が明イた.万事ハ明晩[ばん]〳〵と大臣も御きけんよく.打つれてお帰りあれバ.一座の女郎も銘〃[めい〳〵]の館[やかた]へ立帰り.あすの夜を待あかしぬ.明れバ。床脇[とこわき]にミすをかけ燭台[しよくたい]数[かず]をならべ毛毬[もうせん]敷つめ大臣のお出遅[おそ]しと待ゐたる。程なく御約束の女郎達[たち]引つれられ.牽頭[たいこ]末社がそゝり立座敷に直[なを]せ給へバ.スハ狂言[きやうげん]も始[はじま]りミすの前にて身ぶり所作事[しよさごと].古[ふる]けれど『無間[むけん]の鐘』.アノ内から語[かた]るハ内匠[たくミ]さんじやそふなとぞく〳〵おどれバ次[つぎ]ハ『やすな物狂ひ』.笹屋の呉[くれ]竹相勤[つとめ]ます.上るりハ政太夫と張紙[はりがミ]すれバ.サアこちの太夫様ンじやと聞耳[きゝミヽ]立テ.どふやらいつもと違[ちが]ふて.しんきな所があるハいなと.思ひ〳〵にうつゝをぬかしての見物.程[ほど]なく祝義[しうぎ]ハお定[さがま]りの長生殿[てうせいでん].此太夫相勤[つとめ]ますと.既[すで]に語り出する折ふし.又もや〳〵女郎衆何やら云上[いひあが]り.そんなら互[たがい]に太夫さんがたに.直〃[じき〳〵]に逢[あふ]ての事と.床[ゆか]のミす引ちぎれバ.此里に名代[なだい]の牽頭.五六人ばら〳〵と立出.粋[すい]さまがた深[ふか]い所へお出なされた.ナント旦那私が内匠太夫の真似[まね].おそらくてんとれでござりませふがと.いな光[ひか]りの雲[うん]八がじまん顔[かほ]にいへバ.万助ハ政太を漸〃[やう〳〵]飲[のミ]込ましたと笑ひ〳〵出れバ.会本[くわいもと]の伝三.夜前[やぜん]勝手[かつて]にてふと思ひ付た趣向[しゆかう].何ンとどうでござります此太夫さまのまねで祝義[しうぎ]せふと思ひの外.君達[たち]の御はづミ.さらバ恋を叶[かな]へませうと.皆〃打つれて床[ゆか]よりおるれバ.いづれも明た口ふさぎもやらず.一座の女郎も月夜に釜[かま]ぬかれた顔付.とかう詞もなけれバ.大臣もコリヤ出かしたとことない大笑ひになつて.さりとハきついおはまり.サア〳〵中直しに銚子[てうし]〳〵と又さハぎ立テバ.大臣しかつべらしく.イヤ〳〵此分では君達の心の程もいかゞなれバ.いざ皆〃打寄[より]三芝居の浄るり評判せまいか.是ハ旦那かハつた御趣向[しゆかう].いかさま役者の評判ハあれ共.浄るり太夫の評判なし.銘〃[めい〳〵]が心のたけを随分と仰られいと.たかりかゝつていひ勝[がち]の世の中.ゑこひいきなしにマアおまへから.イヤそこからと両方が.いさみ立たる春げしき.にぎハふ御代ぞめでたき
 
 
大坂三芝居操評判
      竹本義太夫  座
      豊竹越前少掾 座
      陸竹小和泉  座
 
▲浄[じやう]るり太夫之部[ぶ]
     見立扇子[あふぎ]づくし
大上上吉 豊竹上野少掾 内匠太夫事
  御名ハ四方[よも]にかゝやく檜扇子[ひあふぎ]
上上吉 竹本政太夫
  師匠[しせう]の名まであげはの朝鮮[てうせん]扇子
上上吉 竹本島太夫
  御出世[しゆつせ]は次第〳〵に末廣[すへひろ]扇子
上上士 陸竹佐和太夫
  声[こへ]がらハきやしやで奇麗[きれい]な京扇子
上上吉 豊竹駒太夫
  評判[ひやうばん]に乗[のつ]てくる見物を招[まね]き扇子
 
上上吉 豊竹陸奥太夫
  御口中もさつぱり自由[じゆう]に廻るからくり扇子
上上吉 豊竹上総太夫竹本紋太夫事
  御名を聞[きい]ても好[この]もしい箱[はこ]入の銀扇子
上上吉 竹本錦太夫
  節付[ふしつけ]の名人[めいじん]身内が拍子[ひやうし]扇子
上上吉 竹本文字太夫
  聞からに花やかな間拍子のよい舞[まひ]扇子
上上士 竹本百合太夫
  うつくしさは粋[すい]らしい加賀扇子
上上士 豊竹宋女太夫
  よい〳〵と声[こへ]諸共うき立るかざしの扇子
上上士 豊竹伊世太夫
  やがて難波[なには]の指[ゆび]折に一ツかニツ三ツ扇子
上上士 陸竹伊豆太夫
  音曲の行義くづれぬ中啓[ちうけい]扇子
上上士 豊竹元太夫
  どこやらに見込ミのある墨絵の扇子
 
上上 陸竹冨太夫
  うれい事ハ互[たがい]にしぼる袖[そで]扇子
上上 陸竹桐太夫
  お声のはつきりハいさましいぢん扇子
上 陸竹弥太夫
  末たのもしき御功者[こうしや]追附左り扇子
上 豊竹春太夫
上 豊竹鐘太夫
上 竹本友太夫
上 陸竹美和太夫
上 陸竹常太夫
上 陸竹初太夫
 
総巻軸
大上上吉 竹本此太夫
  御功者[こうしや]に見物も耳を揃へた金扇子
 
▲三味線之部
 
上上吉 靍沢友治郎
  御名人の評判ハ今にめいらぬ調子[てうし]扇子
 
上上吉 野沢喜八郎
  お上手[じやうず]のうハさは光りかゞやく砂子[すなご]扇子
上上士 靍沢平五郎
  糸による鹿[しか]ならでいかな女中も色地[いろぢ]扇子
上上士 竹沢弥七
  ひきしめるねじめハうつくしいぬり骨[]ぼね扇子
上上士 竹沢伊左エ門
上上 野沢文五郎
上 冨沢正五郎
上 竹沢音五郎
土 靍沢本三郎
 
▲人形之部
  見たて筆づくし
大極上上吉 吉田文三郎
  隠[かく]れなき名人[めいじん]評判ハ大文字筆[あふもじふで]
 
上上吉 藤井小八郎
  おやまの開山[かいさん]やハらかなかな書[かき]筆
上上吉 豊松藤五郎
  世の人のおしなへて重宝がる日記筆
上上吉 若竹東九郎
  いつ見ても當りめのきく真書[しんかき]筆
上上吉 桐竹門三郎
  身ぶり風俗いふにいハれぬ舌を巻筆
上上吉 中村勘四郎
  能[よい]〳〵の評判ハ幾年[いくねん]云ても果[はて]しなき万年筆
上上吉 桐竹助三郎
  取廻りの利口[りこう]さいつでも間にあふ矢立筆
上上士 藤井小三郎
  女のふうハ其儘[まゝ]うつくしい繪筆
上上吉 山本伊平次 
  思ハくの功者誰[たれ]でもひいき有馬筆
上上吉 吉田才治
  心のたけを自由におもひ入書上た焼[やき]筆
 
上上士 淺田祐十郎
  立役の真行草覚へ込んだ手習筆
上上士 笠井藤四郎
  しつほりうつくしう角[かく]のないしんなし筆
上上士 三浦新三郎
  いつ見ても見ばへのするうハ絵筆
 
竹本芝居頭取 吉田文三郎
   同   吉田三郎兵衛
豊竹芝居頭取 藤井小八郎
   同   豊松藤五郎
陸竹芝居頭取 笠井藤四郎
   同   芳川勘之丞
右之外名人[めいじん]の人形役者あまたあれども畧[りやく]してあらましを爰に記ス
 
 
▲浄るり太夫之部
大上上吉 豊竹上野少掾
  [評判師延四大臣]「さあ〳〵皆打寄ツていふて見たがよい.此人越前殿一世一代の出語[がたり]の折〈北条時頼記 延享2.11.3 三絃野沢喜八郎〉から.内匠といふ名を上野少掾と受領[しゆれう]なされたも無理ならず.おそらく三ケの津に肩[かた]をならへる者ハない、[女郎染ぎく]「是あたりに人もなげな事いひなんすな.今三ケ津に上手[じやうず]といふハ西の此太夫さんそれになんじや.肩[かた]をならべる者がないとハ.おまへ方[がた]の耳ハどこに付イてあるそいな[女郎花よ]「何いハんす上野さんハ大上〃吉と云ふのハまだふ足な.なぜ極[ごく]の字にしてくださんせぬ.地事ならふし事なら.何にいハふ所のないこちの太夫さんじやわいな[たいこ伝三]「まあ〳〵お待なされ.成程御両人のせり合尤に存る.しかし此太夫殿の事ハ.此太夫どのゝ座敷で申そふ.先此人内匠[たくミ]理太夫の御子息[しそく].勝次郎とかやいひし人.始ハ諸国へ御出にてそれより豊竹座へ身をよせ.三輪[わ]太夫と名付て『南北軍問答[なんぼくいくさもんだう]』〈享保10.3.3〉の前後より.すでに『時頼記[じらいき]』〈北条時頼記 享保11.4.8〉の二の奥なと語られし時より.はつきりとしてよかつた.しかしながら詰[つめ]詞ちと申ぶんありしが.程[ほと]なく出羽芝居にて.和泉太夫殿其外二三人打寄.『前内裏嶋[まへだいりしま]』〈前内裏島王城遷 享保17.12.12〉といふ新上るり興行ありしが.様子あつて相止[やミ].それより江戸へ御出にて段〃評到よく.二度[ふたゝび]大坂へ御登り竹本芝居にて.親の名をすぐに.内匠[たくミ]太夫と改[あらた]め.出給ふ時ハ、『蘆屋道満[あしやどうまん]大内鑑[おふうちかゞミ]』〈享保19.10.5〉かと存た.いにしへ承つたとハきつい相違[さうゐ]にて.聞[きく]人感[かん]じ入.是程にも能クなる物かとの取沙汰.又〃越前殿芝居へ御戻[もと]り.只今上野と成り給ふハ大きな御出世[わる口女郎]「其様[そのやう]にほめさんしても.去年の冬ハ何ンとやらもや〳〵と.御浪人[らうにん]のやうにあつたそふな.それでがんりう嶋〈花筏巌流島 延享3.11.17?〉の浄るりも,しか〳〵ぬしのふし付さんした所もないそうな.どうしたわけかしらぬ.したが又おつとめなさんすそふな[大臣]「そんなこといふまい〳〵.毎年[まいねん]十月切りの折極[おりきハめ]の時分[じぶん]ハ.左様[さやう]な事ハいづれにもある事.しかしその事も有り.二ツにハ越前殿もはや役義[やくぎ]ハおつとめなけれど.いまだ御存生[そんしやう]でござるゆへに.極上上吉と致したい所を.極の字を遠慮[ゑんりよ]いたして.大の字に仕つた.何ンと無理でござるか.ことに此度『裾重紅梅服[つまかさねこうはいこそで]』〈延享4.2.5〉の上るり.殊之外の評判.とにかく功者[こうしや]にして.節[ふし]事わけてはんなりとよし.今少[すこ]しお声あらバといふ噂[うハさ]もあれど.それハ十ぶんと申物.欲[よく]にハ限[かぎ]りのないうき世.巻頭[くわんどう]ハ此人〳〵
 
上上吉 竹本政太夫
  [延四大臣]「此人助ケ分ンにて竹本座へ御出.『真鳥』〈大内裏大友真鳥 寛保3.10.25〉の二の詰[つめ]、前方より得[ゑ]てござるよし.中〃聞[きく]事なれ共.浄るりこまへにて幕[まく]の通りいかゞと存る所.つゞいて『児源氏[ちごげんじ]』〈児源氏道中軍記 延享1.3.6〉二段目の詰[つめ].うれひしゆらをまぜての段切.扨〃面白[おもしろ]く.それより『西行』〈軍法富士見西行 延享2.2.13〉の二の詰.団[だん]七〈延享2.7.16〉から『楠昔噺』[くすのきむかしはなし]〈延享3.1.14〉、次第[しだい]〳〵にお声も大きうなつて.座本ハ勿論[もちろん]政太殿もお仕合〳〵[わる口中間]「あんまりほめまいぞ.此お人の浄るりハ.もち〳〵とねばついて.どうやら時によつてハ.口中に地黄煎[ぢわうせん]でも入レてあるやうな[たいこ幸介]「ホヽウ尤な御ふしん.しかれども此度『菅原伝受[すがはらでんじゆ]』〈菅原伝授手習鑑 延享3.8.21〉の二の詰[つめ].菅丞相[かんせう〴〵]道明寺のおばご.かくじゆに別れのうれい.ふせごの内にある娘かりや姫を.しらぬふりにてよそながらのうれひ.位[くらひ]事なれバ浄るりにも位が付カねバならぬ.四段目の口怒[いか]りの段など又各別[かくべつ]よし.惣躰[そうたい]位事ハあのやうに語らねバ勿躰[もつたい]がなふていやしう聞[きこ]へる物.武家[ぶけ]事世話[せわ]事になつてハ.又〃次第に御功者に語[かた]らるゝでござらふ.もとざこ場[ば]にて十兵衛殿と申たれど.小政[こまさ]〳〵と異名[いミやう]する事.過[すぎ]ゆかれた播广[はりま]どのにいきうつしじやといふ心で.名付たるハ誠に無理[むり]ならず.次第に立身[りつしん]あらバ.おそらくあるまいと存る
 
上上吉 竹本嶋太夫
  [堀江組曰]「幾[いく]竹屋平右衛門とて.こちの嶋で名高いお人.声大場にしてうれひせりふともに.はつきりとしていやミなく.修羅[しゆら]といひどうもいわれぬお上手[しやうず].政太どのゝ下へハなぜさげた.いひわけあらバ聞ふ〳〵[わる口中間]「いや〳〵そのやうにりきまるゝな.もと嶋太どのゝ癖[くせ]に.節落[ふしおと]しの引捨[すて].あるひハ地のとまりにも.長[なが]ふひかるゝに申ぶんあつて.物の売声[うりこへ]のやうにもあるといふ人かござる.あまりほめられもいたさぬかい[延四大臣]「こなたのいはるゝのハ評到じやない.そりやわる口といふ物.引すてのとまり.わるいのハいひ人[て]があつて直[なを]りました.尤生れながらの孔子[こうし]も有ルまい.又うれい事ハ実[ミ]がいらいで.しつほりとせぬといふ人がある.しかし此度『手習鑑[てならひかゞミ]』〈菅原伝授手習鑑 延享3.8.21〉の四の詰.たけべ源藏かんしう才をかくまひゐる所へ.三ツ子の松王丸.我子小太郎を手ならひにおこし.跡より討ツ手に来り我子の首[くび]を身替りに受取.立帰[かへ]り後に来り.段〃のうれひ野辺送りと我子の死がいを乗物[のりもの]にのせ.さいのかはらの砂手本[すなてほん].つるぎと死出[しで]のやまけこへ.あさきゆめみし心地しての段切.町中の三ツ子まで口まね.竹本芝居にて座中見物[けんぶつ]が涙をぬぐふゆへ.めつきりと鼻紙[はながミ]の相場[そうば]が高いとの噂[うハさ].是でも実[じつ]がないとハ申されまい.猶此上に心を付ケ給ハヾ.鬼にかな棒[ぼう]なるべし
 
上上士 陸竹佐和太夫
  [思はくの女郎]「さあこちの太夫さんじや.声といひ節[ふし]といひ.其癖[くせ]男ぶり迄いふ所のないお人.わしや此さんを巻頭[くハんどう]にしてほしひわいな[たいこ万介]「成程[なるほど]女中の心に左様に思し召ももつとも.しかしながら此人の浄るり.殊之外お上手[じやうず]にて功者[こうしや]なれ共.いかにしてもちいそうておしい事しやとの評判もとより男ぶりがよいとてそれが浄[じやう]るりの為[ため]になるものでござるか[大臣]「こりや両人ともに尤.成程[なるほど]此人の上るりきれいにして.先ハ御功者[こうしや].始ハ陸奥[むつのく]の門弟にて.それより播广[はりま]どのゝ門弟となられしよし今に風義[ふうき]残り有.小兵[こひやう]なれ共一ツ方の大将と成り.去冬[きよふゆ]より『女舞劔紅楓をんなまひつるきのもみぢ]』.〈延享3.10.21〉六ツ目いひ名付のおそのと半七と.三かつが心底[しんてい]の不[ぶ]心中なといふせりふ.それよりたとへていはバミやま木とミやこのはな.りんきせまいとたしなんでゐてもなさけなやといふ替りぶし.町〃も口まねする程の事.先ハお上手の程見へました.承れハ尾張[おハり]にてハ飛[とぶ]鳥もおちたと申噂[うはさ].うそで有ルまいと存る.當地にてハいまだお名染[なじミ]なきゆへ.しか〳〵とした事もござらぬ猶春永[はるなが]に申そふ
 
上上吉 豊竹駒太夫
  [延四大臣]「古今[ここん]珎[めづ]らしき太夫どのとハ此人まんざらのしろとにて何国[いづく]の座へも御出なく.すぐに豊竹へ御住[すミ]なされ.『真鳥』〈大内裏大友真鳥 不詳]の三の口か目見へ上るり.以前の大和太夫の真似[まね]にて.中〃おもしろかつたゆへに.則其時の上るり『かるかや道心』〈苅萱桑門筑紫 享保20.8.15〉.三の口.『真鳥[まとり]』の三の口の心持にて.作者[さくしや]より利口[りこう]にこしらへ渡しけれバ.其儘[まゝ]大和太夫のふたゝび来るかと.見物も感[かん]じ入ました.大きなお手がら〳〵[嶋の内連中]「いかさま手がらな人なれ共.近年ハ何とやらお声も少〃こまへに成り.次第〳〵にいやミが付クやうに思ハれ.いかふきのどくに存る[たいこ伝三]「いや〳〵いやミといふ程の事でもござらね共.すべて功者[こうしや]になつて思ひ入レがふかふなるに随[したが]ひ.声がそれにからまれてちいそふなる物.昔[むかし]のお声で今の御功者あらバ.おそらく三ケ津に又有ルまいと存る[大臣]「尤ないひぶん.『石川五右衛門釜[かま]が淵[ふち]』〈釜淵双級巴 元文2.7.21〉の上之巻.傾城[けいせい]瀧川[たきかハ]が親の身かハりに死[し]なんと書キ置の所.硯[すゞり]の海[うミ]に筆しめすといふ所.町中に口まねせぬ物ハなかつた.いかさま其時の声と今の声とハ余程[よほど]違[ちが]ひました.何とぞ昔の御声にいたしたいと存る.去ながら去冬より『がんりう嶋』〈花筏巌流島 延享3.11.17〉.此度の『紅梅服[こうばいこそで]』〈裙重紅梅服 延享4.2.5〉.扨〃おもしろいことでハある
 
上上吉 豊竹陸奥太夫
  [延四大臣]「堀江にて平太[ひらた]殿と申て.当世の氣に應[おう]じうけもよく.声ふし共にそろひ.『がんりう嶋』〈花筏巌流島 延享3.11.17〉に此人の場[ば]を.内匠[たくミ]殿.春から語[かた]らるゝ程の大役.あつはれお手がら珎重[ちんてう]に存ます[ひいきぐミ]「それ程よい太夫さんを.駒太夫さんの次へなをし給ふハゑこひいきといふ物あまりよいしかたでハござるまい[たいこ万介]「尤でござる.旦那が申さるゝ通り声がらもよく.あつはれ聞[きゝ]事てござるゆへ.駒どのゝ上[かミ]へもあげたふ存れ共.駒殿事ハ尤近[きん]年ハちとめいつたやうなれど.此芝居にふるふござる.功者も又それ程の御修行[しゆぎやう].お声のちいそふなつたといふが疵[きづ]なれば.どうも跡へハ廻されぬゆへ.先此通りの評判でござる.しかしながら此度『裙[つま]かさね』〈裙重紅梅服 延享4.2.5〉の評ハかさねて申さふ.とにかくお上手.いつでもおもしろいと申まする
 
上上吉 豊竹上総太夫 紋太夫事
  [大臣]「此人竹本座にて紋太夫[初代]と申て.是迄評判よく.お勤めなされ.此度〈裙重紅梅服 延享4.2.5 但し 花筏巌流島 延享3.11.17に上総太夫出座〉上総太夫と改め豊竹座へ御すミ.相かハらず何ンでも御功者に.しつかりとして人〃のうけもよく.実[ミ]をいれて語り給へバ.きめなどもよふきくゆへ.次第に御出世.先達て『手ならひ鑑』〈菅原伝授手習鑑 延享3.8.21〉道行.二の口など語られた.それより此度などハなを〳〵聞増[まし]て.おもしろふ覚へまする
 
上上吉 竹本錦太夫
  [たいこ幸介]「第一かハつた節[ふし]付能なさるゝ.ことに拍子[ひやうし]よく御功者[こうしや]にて.ちよこ〳〵めづらしき思ひ入レなど承る.つめ修羅[しゆら]のたぐひもあつはれよし[わる口女郎]「此おさんハ錦武さんといふた時ハ.町でことの外人の嬉[うれ]しがつたお人.播广[はりま]さんのうつしを語らんした.それから豊竹座へはいらんして.和佐太夫といふた時ハ.それハ〳〵きついものじやあつた.どうしたことか次第〳〵にめいつて.又竹本座へ御出なんした.なぜ大きなひやうばんがないぞいな、[大臣]「尤〃しかし其折節[をりふし]よりも.浄るりハきつふ御功者に御成なされた.功者になれバふしにからまれ.おのれとこまへになるによつて.めいる様な物なり.近年[きんねん]竹本におすミなされて.近比[ちかごろ]でハ『西行』〈軍法富士見西行 延享2.2.13〉の二の口.謡[うたひ]うたい靭負[ゆきへ]が西行に逢[あふ]て.互[たがひ]のしうたん.町中がよろこびました.『楠[くすのき]』の三の口〈楠昔噺 延享3.1.14〉おかしうてたまらず.ことに此度『手ならひ鑑[かゞミ]』〈菅原伝授手習鑑 延享3.8.21〉の序[じよ]の切.菅丞相とらハれと成給ふ所中〃よし
 
上上吉 竹本文字太夫
  [大臣]「一両年前豊竹座御勤[つとめ]なされそれより尾州[びしう]へ御出にて.彼[かの]地もことの外首尾[しゆび]能[よく].去年〈延享3〉御帰りより竹本座へ御有り付.則『手習鑑』〈菅原伝授手習鑑 延享3.8.21〉紋太殿の役を其儘[まゝ]おつとめ.二の口五段目の節事迄.中〃見物のうけよく.紋太殿よりよいといふ人もあれば.お仕合〳〵
 
上上士 竹本百合太夫
  [大臣]「此太夫殿の御門弟とやら承りました中〃御功者にて声もよく.今もつて聞[きゝ]ことでござる.此度〈菅原伝授手習鑑 延享3.8.21〉序[しよ]の中三の口.あら事はつきりとてひしく.拍子[ひやうし]よけれバ次第に御立身でござらふ梅王桜丸を車のうへより時平[しへい]がぎせいしてにらむ所.てづよふてよし
 
上上士 豊竹宋〈采〉女太夫
  [たいこ万介]「此人折[おり]にハ河内太夫の風義を御うつしにて.一トふうおもしろく.ことの外はねたることもなけれ共.なか〳〵御功者にて尤声がよく聞へ.いやしからず.めつきりと御出世[しゆつせ]にて.追附上上吉にも御成リなされふと頼[たの]もしう存る.猶此上にも御精出され.大鳥ともいはれ給へ
 
上上士 豊竹伊世太夫
  [たいこ万介]「此人出生ハしらねど.近比[ちかごろ]嶋の内三休橋[きうばし]筋に親御と一所に御商売[しやうばい]なされし折から.殊の外音曲[おんぎよく]お好[すき]にて.それよりそここゝと御出にてついに豊竹座へ御すミなされしに.わけて評到よく.第一声よくふしなども利口[りこう]に取廻りよく.御器用[きよう]なれバ追付上座へ上ケまするぞ
 
上上士 陸竹伊豆太夫
  [大臣]「ぬしや彦兵衛といふてハ誰[たれ]しらぬ者もなく.他国[たこく]へござつても二三とさがらぬお人.中音[おん]にて声がらよく.尤ふしこまかにして道行景事よし.ふるい事など能[よく]御存と承りました[わる口仲間]「此人のやうな古風[こふう]な律義[りちぎ]な浄るりハ.百ねんもさきの人に聞したらよからふが.今の人のミヽへハ本堂で茶漬[ちやづけ]喰[くふ]よふで.抹香[まつかう]くそふてどふもならぬ、[たいこ万介]「大きな間違[ちが]ひな事をいふやつがある.尤當世[とうせい]の様[やう]に端手[はで]にハなけれど.先浄るりの行義くづれず.第一達者[たつしや]にしてうれひしゆらにても.実[ミ]をいれてつゝ込[こ]んで語らるゝ.『女舞』〈女舞剣紅楓 延享3.10.21〉の四ツめ.宇治や久貞子息[むすこ]市藏を藏[くら]の内へおしこめておいたるうれひ.幕[まく]切までしつほりとしてよし.此人が古風でなく當世を飲[のみ]込.声に今少し場[ば]あらバ.只の人でハござらぬ.道行ふし事どうもいわれぬ程おもしろし
 
上上士 豊竹元太夫
  [たいこ幸介]「京都よりお下りなされ.豊竹座御出の日より.わけて町中の評判よく.扨〃お仕合でハあるぞ[上るりの功者女]「此元太夫さん.京下リに『時[じ]頼記』〈北条時頼記 延享2.11.3〉の四の詰.おもしろい事でござんしたが.それから後[のち]ハ.其時程にハわしや思ひませぬ.どふしたことでござんしよ[大臣]「御ふしんもつとも.めい〳〵の得手[ゑて]ものといふハ.各別[かくべつ]なものなり.ことに其以前越前殿語られた口うつしを仰らるゝによつて.一倍[ばい]よふ聞へました.それよりのちハ自身[じしん]の節付なれバ.左様にハ結句[けつく]ないはづ.何にても形[かた]のあることハ致しよい物でござる.しかしながら中〃驚[おどろ]き入ツた音曲[おんきよく].追付御出世[しゆつせ]頼[たの]もしう思ハれます
 
上上 陸竹冨太夫
  [大臣]「声[こへ]花やかにして上地かんの所など身内がちゞむ程よし.ばくろ町いなりにて六兵衛とよハれ.大坂一枚[まい]になびかし給ふほどあつて.中〃承り事.しかし其時のお声とハいかふおちたやうに聞[きこ]へまする.根[ね]が元手[もとで]のある声なれバ.此三勝〈女舞剣紅楓 延享3.10.21〉の五ツめむしやうにおもしろふ覚へました.かねのかハりに女房[ぼう]になれと云ふ所など.どふも〳〵[たいこ忠七]「こりや壱番旦那[だんな]の誤[あやま]りでござります.尤かんをはりあげた所ハどうもいへねど.浄るりの行義[ぎやうぎ]がくづれて.詞やら地やら何やらわからぬやうに聞へます[大臣]「まだな事いふやつ.もと此人の浄るりハ稻荷[いなり]で東の上るりハ越前殿の場[ば].西の上るりハ大和太夫の場と、一日替[かハ]りにおつとめなされた.それゆへ両方の口うつしが一ツになつて.今に其癖[くせ]がなをらず.越前殿やら大和殿やら.知れぬゆへ行義がくづれた.やうなとかくうれひのかんをずつとあげらるゝ所ハ銀箱[かねばこ]〳〵
 
上上 陸竹桐太夫
  [大臣]「此人當地初[はじめ]て.此芝居御つとめ節[ふし]も相應[さうおう]に御付なさるゝ.此太夫殿の門弟のよし.此度『女舞』〈女舞剣紅楓 延享3.10.21〉の二ツめ.にせ侍[さむらい]金[かね]受取ル時.大序の夜番[やばん]を殺す所など.はつきりとしてよし.今少し御師匠[しせう]の御功者あらバと存る随分御精[せい]出され肝要[かんよう]〳〵
 
上 陸竹弥太夫
  [嶋の内連中]「此人錦[にしき]殿の御門弟のよし.おどけたる所さハぎなどおかしく.おもしろきふしなどよく付らるゝ.御師匠[しせう]のおかげか拍子[ひやうし]よく.うれひ事ハ少シ申ぶんあれ共.先ことの外お達者[たつしや]にて.役替[かハ]りなどよくおつとめなさるゝ.此上ながら語り口に御念御入.国太夫文弥など多[おほ]からぬやうにたのみます
 
上 豊竹春太夫
上 豊竹鐘太夫
上 竹本友太夫
上 陸竹美和太夫
上 陸竹常太夫
上 陸竹初太夫
  [大臣]「右六人の衆中.少しづゝふ同[どう]あれ共.いづれも御功者[こうしや]にて声がらしごくよし.しかしながらいまだ大きな場[ば]を一ト場も御受取なく.評判いたしがたく.それゆへ此度ハ一所に申ます.猶かさねて申そふ.随分[ずいぶん]〳〵御出世なされ.上〃吉の黒いのにあやかり給へ
 
惣巻軸
大上上吉 竹本此太夫
  [大臣]「むかし〳〵合羽[かつは]商売[しやうばい]なされた折から.殊之外お好[すき]にて.御精[せい]出されたるしるしにや.段〃の御出世にて伊太夫と名乗[のり]方〃へ御出なされ.いにしへ出羽芝居へもちよとおつとめなされたかと存る.それより竹本座〈太政入道兵庫岬 元文2.10.10]へ相すミ.此太夫と改〈小栗判官車街道 元文3.8.19 美濃太夫から改名〉.播广殿存生[ぞんじやう]の時引廻し給ふよし.只今大鳥と成り給ふ.きついお手がら、[ひいき女郎]「其やうにほめてくだんしても.巻頭[くわんとう]にしてもくだんせぬ.何ンぞ又思ハくがあるかしらぬ.わしが心にもなつて見さんせ[わる口女郎]「これそないにひいきさんしても.此太夫さんハなんぼでもてうしがあがらぬ.大入の時ハ聞へぬよふな事がある.そんな人が巻頭にハならぬ〳〵[大臣]「両方だまれ〳〵.其纔[わづか]壱越[こつ]か半越の調子[てうし]にてあれ程に大びらに語らるゝ所.御功者と申そふかいやはやどうもいへぬ.三ケの津に一二とさがらぬよふに存る.それゆへ.内匠[たくミ]殿と此人を巻頭[くわんどう]巻軸[ぢく]に引わけました.上野殿ハ受領だけといひ.くらべてハ此人を軸[ぢく]になほしたがむりであるまい.此度『手ならひ鑑[かゞミ]』〈菅原伝授手習鑑 延享3.8.21〉三の詰[つめ]。ちやりまじりにて白太夫が梅桜[さくら]松三本の木に膳[ぜん]すへて.挨拶[あいさつ]のせりふ.それより桜丸が切腹の所.うれひの念仏思ひ入ふかく.段切迄扨〃驚き入ツたお上手.どうも〳〵
 
▲三味線之部
 
上上吉 靍沢友次郎
  播广[はりま]殿此世を去リ給ふ砌[ミぎり][延享1.7.25〉.此人も芝居御引にていかゞなられしと思ひしに.去〃年[きよきよねん]〈延享2〉陸竹芝居京都へ登ル折から.一ケ月御つとめ.佐和太夫殿と鐘[かね]入[用明天皇職人鑑 延享2年〉の出語り.都にてお上手の評判.一座も大當りにて.それより竹本座へ又〃お戻[もど]り.むかしより此しばゐにて聞なれたる撥音[ばちおと].いつきいても聞あかぬといづくの人も申ます
 
上上吉 野沢喜八郎
  いにしへの喜八殿ハ.豊竹座にて初メの時頼記の出がたり.其時の三味線.ことの外町中の評判.それより世上喜八どの.御功者にて.一ト風かハりはでなる思ひ入.友次郎殿のかうとう成ルと打かへて又おもしろいとのうハさ.つゞいて又喜八殿も.それにおとらぬ御功者.見物のうけもよく聞人感[かん]じ入ります
 
上上士 靍沢平五郎
  此人もなか/\御功者にてひやうしよく.合の手のり地などあつはれ聞事でござる
 
上上士 竹沢弥七
  竹本座に御つとめなされし所.いかなる事にやいつ比よりか御引なされ.去〃年〈延享2〉曾根崎新地にて.明石越後座へ御すミなされ.それより其冬陸竹芝居.『唐金茂右衛門』〈唐鐘茂右衛門東鬘 延享2.閏12.1〉より御つとめ.此度『女舞』〈女舞剣紅楓 延享3.10.21〉に二の口取リに.少し斗りの琴[こと].聞及びました.『歌枕[うたまくら]』〈歌枕棣棠合戦 延享3.8.1〉の時.胡弓[こきう]を承つた.いかさま御器用[きよう]な事.猶とつくりと承りたい
右之外三味線あまた有.御休[やすミ]の方も大勢あれ共.いづれも名人にて評仕るとても同じ事ゆへ申ませぬ.春永〳〵
 
▲人形之部
大極上上吉 吉田文三郎
  [嶋の内連中]「扨もある物か.是程の名人又あるまい.人形[にんぎやう]の氏神かと存る.思ひ入レいきかた.其外道具の思ひ付迄がよいと有ル.三ケの津ハおろか.唐天竺にもあるまいと存る.きつい御名人でハある[わる口中間]「あんまりほめてもらふまい.それ程の名人なら何もかもよいはづなれど.立役ハ若男でも老人でも.あつはれどうもいへねど.おやま人形女形ハどうやらしんきな所がある.それでも名人か[ひいきぐミ曰]「やいうつそり.目の見へぬものか東西子が見たらば.そんなこといハふかしらず.人心地のある者が何ンのそんな事いわふぞい[大臣]「是ハけうとい御ひいき.したが両方ともに無理ならず.なるほどおやまの方ハ.立役から見てハさのミそれほどにハなけれど.なか〳〵及ばぬ事.ほんに人形がいきて働[はたらき]ます
 
上上吉 藤井小八郎
  [大臣]「今おやまハ此人にならぶ者なし.身ぶりよく拍子迄がきいてある.太夫地女.それ〳〵の風そなハり.いにしへの辰[たつ]松殿.藤井小三殿にもおとらぬ御名人.いかな〳〵人形とハ思ハれませぬ.中〃御功者どうもいへぬ
 
右之外名人の人形あまたあれ共.此巻ハ浄るりの評判なれバ是を畧[りやく]いたします.くわしうハかさねて申ませふ.先此御両人ハ.竹本豊竹の両芝居にて.ならびなき方なれバ.爰にあらハし評仕る
 
竹のそのふの其末葉.三ツの屋ぐらに音高く.朝ハとふから〳〵の.たいこのひゞきに諸見物.ゑいとう〳〵木戸口ハ.宝の山や蓬莱[ほうらい]の.松竹いはふ君が代の.おさまる御代ぞ久しけれ
 
正本屋 平兵衛板