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【 摂陽奇観 紀海音 死】

浪速叢書第三巻 p403-407
 

巻二十七
寛保二年
一 十月四日紀海音死 行年八十歳
紀海音は近松氏に劣らぬ浄瑠璃の作文に其名高し姓は榎竝貞峩と呼ぶ俗称は喜右衛門後善八と改ム。初メ黄檗山悦山和尚に属して僧と成高節夫よの医道を業とし契沖翁の門に遊びて契因鳥路観と號し浄瑠璃の作名紀海音といふ。元文元年辰の夏法橋に叙ス。委くハ貞柳傳にあり。墓は八丁目寺町寳樹寺ニ有。台石にたいや忠七とあり。忠七は貞峩の息貞風といへり。道頓堀太左衛門橋筋八幡筋にて鯛の看板を出し菓子を製して業とす
 
 
  狂歌机の塵ニ
      中納言水無瀬卿御月竝の末席にて腰折よみけるつひてに 海音堂貞峩
敷島の道は神より佛よりお公家さまこそたふとかりけれ
  柳翁狂哥集の中に
    鳥路観貞峩より年頭の禮に團扇をこしけれハ
物すきにていかよけれハ夏のものを春にもっかふうちはゆへなり
同書ニ 鳥路観七十賀に
十はかり千世の余りの吾におほきつらなる枝は花も身もあり
    色里今八卦曲中の条ニ古人はい人の貞峩杖にすかりて亀菊太夫に夜毎かよひしも此所なれば也……原本此ノ所以上ノ書入レアリ……
 
院本東山殿室町合戦享保七寅十一月一日初日豊竹越前芝居といへる紀海音戯作第齣座敷八景のふし事の文段に貞柳翁の狂歌を文中に綴れるを見あたりぬかく兄弟共に風流の道に秀で其名高し
東山殿室町合戦  作者紀海音
第四
王元之が竹楼も是れんけつの余樂とかやされバ細川勝元は繁榮日々に彌増て何思ふこと夏もくれ秋をもてなす下やしき西の京に地を転じ遊亭閑所とり/\に奇石をたゝむ築山ハ諸木こもって枝をたれ月をむかへる池水はおしかも所得がほにて風をふくめるぶどう棚すゝ波よするごさく也頃しも盛りの百日紅花にえいずる書院先キ障子開かせ勝元は近臣諸共汲酒に肴は千倉検校がしらべ妙なる物の音は荻の葉わたる風よりも身にしミ増る斗の也勝元ほとんど興に入あっはれ手だれの音曲に此間のうつ病もやゝ忘られて面白ししかし朗詠平家など耳ふれて氣が替らす當世めきたる一ふしを所望也とすゝむれバハァ何をがな申たらお心に入候ハんヱヽ幸ひかな/\樂人達の戯れに座敷廻りの道具をバ八景に準らへ一々狂哥によまれしを某ふし付ケ仕る憚ながら御聞と拍子をとりて語りける
 
ざしき八けい
 
げに海山の風情をも爰にうつせバをのづから座敷に浮ふ八景の中にかゝやく名どころはまづ鏡台の秋の月蒔画に見ゆる松の枝にくもらぬ影はまん丸ござる/\十五夜の月の輪のごとくいつも最中の詠め也次に扇の晴嵐をたとへもよしや暑き日の光りもやがてうす物の扇にゑがく山かぜは音たかさごや相生の妹脊も遠く待宵に聞ケバせはしき時計こそ恋しらぬ身やつくり初けんいづれ逢瀬は秋ざれも短き夏のよるの霜おもりの糸のむすぼれず時計の晩鐘響く也扨又台子のよるの雨ふりミふらずミ定めなき身にし昔を思ひ出す大黒庵もよるの雨台子の習ひ音にこそきくされバ高きも賎しきも交りむすぶ中立は雪の口切春雨の花より色も香も濃茶しな有て又和らかに人附合も綿ぞとはいざ白雪のかきくれて払へど袖に塗桶の暮雪と是を申べき明暮きやしやな手にふれて聞や琴柱の落雁は詠めし歌も優美也ふきといふも草葉の露の玉琴を手ならす袖にミやうがあらせ給へ吟じ返せバかうバしき梅が枝ぐミや須磨明石君が引手に誘ハれて時しもわかぬ酒のかんあい/\/\の長返事遊び過して花の枝に入日を残す行燈のかげ夕照とおしまるゝ緑樹かげ沈んでは魚木にのぼる景色ありしやくに梢を汲上てさつとたばしる手水鉢風のかけたる手拭は丸にやの字の帆が見ゆるひたす絞りの文字が關入江も爰にほの/\と手拭かけの蹄帆ぞと三十一もじを浄るりへ途り三重引まぜてつゞり寄たる八景とさも有々と述けれバ勝元を初めとし皆々興に入たまふ
 
   鏡台の蒔絵ニみゆる松のうへにくもらぬ月のかけハまん丸
暑き日の光りもやかてうす物の扇やゑかく松風の聲
むつ言もまたつきなくに打時計恋しらぬ身やつくり初けん
釜のにへ聞ハさなからよるの雨大黒庵の昔をそ思ふ
綿そとハいさしら雪のゆふへ哉はらへと袖につもるけしきハ
ふきといふも草ハの露の玉ことを手ならす袖に冥加あらせ給へ
花の枝にかけて詠めんくれおしき夕日を残すあんとんのかけ
手水ハち風のかけたる手拭ハ丸にやの字のほのみゆる哉
 
右八景の歌は由縁齋貞柳ノ詠也
〔編者曰ク原本ニハ此ノ八景ノ歌ヲさじき八景ノ文中ノ頭書トナシアリ〕

提供者:山縣 元(2006.01.21)