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【 操曲入門口伝之巻 】

 

其傀儡の始る事甚遠し、されば事物紀原を稽れば、漢高祖平城に囲まれし時、陳平が策略を以て、木にて美人の形象をつくり、敵を偽りで勝利を得たり、是ぞ今行はる人形といふ物の権輿と見へたり、されども又列子を閲すれば、周穆王の時に、偃師といへる巧人あり、木にて人の形をつくりて舞はしむ、王その后と倶に是を観たまふに、此人形舞畢りて、目を瞬し、手を以て王の左右を招く、王怪しみ怒りて偃師を殺さんとす、偃師怖れて人形を壊して見せければ、漆膠をもつてからくる者也、王是を見て大に其妙巧を感じたまひ、褒美を賜はりしとあるは、是ぞ傀儡の始なるべし、史記殷の本紀の正義に、土木をもつ人を為りて人形に対象する也と書り、これより人形といへる名目は起れるなるべし、日本にても人皇三十四代推古天皇の御時、人形の事を記し給へり、是を道ひ慰む事は足利の末よりはしまり、御当代に至りては益盛んに行はる、近く寛文の頃に江戸に小平太といへる名人あり、人形活るがごとくに遣ひ、既に羅山子道春先生も詩を賦して是を称美す、その後おやま次郎三郎といふ者、女形をよく遣ふ、その後辰松八郎兵衛名誉を顕はし、京都にては貞享元禄の比、おやま五郎兵衛、同五郎右衛門、大蔵善右衛門、正徳享保の頃には、三桝平四郎、宇治久五郎、同三十郎、同与八郎、皆々達人の名をとれり、大坂には藤井小八郎、同小三郎、桐竹三右衛門、各おやま人形を能遣ふ、其後吉田文三郎続きて若竹東工郎、是らは前代未聞の妙手と謂べし、さて又手妻人形といふ物は、京都山本飛騨掾座にて、山本弥三五郎といふ者、これを遣ひはじめたり、南京糸からくりは、是も京都山本角太夫が芝居にて、寛文延宝の頃より遣ひはじめたるなり、又其頃江戸和泉太夫が戯場に、野呂松勘兵衛といへる人形遣ひあり、頭ひらめにして顔色青黒く、いやしげなる人形を遣ひて人を笑はせり、又謙斎佐兵衛といふ者は、賢き象の人形をつくりて、野呂松氏の鈍なると、謙斎が賢き人形と相対して、狂言に仕始めしなり、其比人の鈍き者をいやしめて野呂松/\と異名を付、痴漢に競べていやしめり、野呂松を後にはぬるまといひ誤り、既にひらかな盛衰記二段目、梶原平治が詞にも、兄貴はしれたぬるま殿といへるも、近き僻言を取ていふたる也、さて又出遣ひは大坂辰松八郎兵衛、用明天皇鐘入の段に遣ひはじめて、今にたへずも世に行はる、此時太夫は筑後掾、三味線は竹沢権右衛門也、いづれも名誉の人、三人立揃ひてつとめられし三絶の見物と、称誉せられしは是也、昔は立役の人形といへども、足をつくる事なく、裾より手を入れて遣ふたり、然るに延宝六年京都松本治太夫座にて、源氏烏帽子折興行の時、藤九郎盛長の人形并渋谷金王丸などに始めて足を付たり、又三番叟といへども目の動く事なかりしに、享保十五年八月、大坂豊竹座に楠正成軍法実録興行の時、和田七、人形にはじめて目玉の働く事をはじめて、見物の歓びを取れり、同十八年竹本座に於て車返合戦桜興行の時、大森彦七、人形のゆひ動く様に造り初めしより、世上皆この如く成たり、明和三年の頃にぎり手、ねむり眼など起る、猶又時に従ひ妙巧深慮の工夫よりさま/\の事出来るべし、

 

浄瑠璃といへる名目の起りは、高倉院の御宇、安元二年の頃、三河国矢作駅に金高長者あり、其娘に美婦有て、名を浄瑠璃御前といふ、浄瑠璃とは東方薬師如来の浄土をかくいへば、それを表して人の名に執用ひたる也、其頃源牛若丸鞍馬を出て、奥州の秀衡が許に下らんと欲して、此長者が館にやどるに、彼浄瑠璃姫と契りを結び、帰路再会の期を約諾してわかれ、奥州に至り給へり、かの姫今やと侍ども、帰り来り給はざるを恨て、身を菅生川といふに投てむなしく成ル、冷泉と名くる侍女ありしが、姫の死を悲歎して、尼と成て菩提を訪ふ、程歴て牛若丸、長者が許に来り、此よし聞給ひて後悔すれども詮なし、扨しも冷泉尼は一堂を草建して冷泉寺と名づけ、今になを遺せり、其後織田信長の侍女に小野のお通といへる秀才の婦人あり、此故事に拠て物語りをつくり、薬師十二因縁の数をとりて、いせ物語りの風調になして十二段とす、信長此物語りを見て感心あり、堂上家に沙汰し、世挙てもてはやせり、表題をも浄瑠璃物語と付られたり、山中山城守に仰せて、出船検校に節章を付させられ、滝野角沢両検校を以て三味線に合さしめ、以来世に伝へてもてはやせり、是や浄瑠璃といへるの始メなりける、永禄の末年芝居を糺川原に建て、女太夫六字南無右衛門といへる者、座本と成て語りなせり、其時八島物語、媒曾我、高館物語等の新作出てより追年本朝にはびこりける也、実や戯場は治世泰平の表示にして、聖人の楽の余風なれば、神慮をなぐさめ、人気を和するの一器也、悪を懲らし善を勧め、鬱を散じ憂をわすれ、治世の今に居て乱せの趣を悟り、安きに坐して危きの理を知り、愚人といへども仁義の端くれを聴、児女子といへども故人の姓名を覚へ、治世の栄玩是にしく物なかるくし、物茂卿先生のいへるも戯場は是治道の象也、是に三利あり、一にはこの游楽に因て都下繁華也、繁花は太下の象也、二には天性無頼の徒、是を以て生業をいとなみ、おのづから盗賊放火の悪事を為さず、三には世間の金銀流行して滞らず、一概に禁制を加ふれば、是治道をしらざる有司の政也、よろしく禁をはぶき興行ならしめ給へといへり、人形造ひ方の事は、其旧三議一統の書より起り、陰陽自然の事に帰す、深長に至りては草紙の上の沙汰に及はずといへども、其大概を五十三首の和歌につゞりて、覚へ易からしむる事左の如し、

 

 踏出しは男ひだりに女右、これ陰陽の差別なりけり、

 大将は立時跡を見るばかり、その外は皆入際に見る、

 爰に居ぬ人の名刺(なさし)に国所、右のかひなを巻て天衡(てんつき)、

 胸ひざの伸て屈むは窃び足、やみには宙を腕でなでゆく、

 請ふは進み、辞は退くの膝と体、こゝろならいは左右する顔、

 請ふとは願ふ也、膝を運びて向ふへ乗かゝる心持也、

 辞は辞退する也、跡へしりぞく也、心ならぬとは気遣ひする也、

坐して後ぬくは上使の刀也、座敷へさげてあがるのは臣、

女形三足しづかに、其のちははやめて入ルぞ常の例なる、

 尤文句時宜に依て、本歌の意と少違する事もあり、

地文句の振りは跡よりつたふ也、詞は先へとるが常法、

 地にうつる際にては振を急かず、文句を聞縮めて遣ふ、

 詞になる際にては構へて待て、詞と一所に動止をなすの心得也、左あらずしては喜怒哀楽の情に違ふなり、

 又詞より先へ頭をきりて待っ事あり、時宜によるべし、

全盛は紙にて涙ぬぐふ也、勇者は手にてぬくはぬぞよき、

 全盛とは傾城の司などをいふ、勇者は弁慶などをいふ、堀川夜討三段目弁慶、只一チ度のみ腕をそへて泣せたるは此例也、

男泣手よりもて住てふく涙、女は顔をもていてぞふく、

左にて巾(ふく)は三度に一度也、うしろ姿は一座一遍、

 桐竹氏一座、両度迄うしろをむかせしを、見物より非言せし由也、是らを後年迄後悔せられし也、

三足性て顧は思ひを残す也、猪首になすはおもひ込也、

 顧とはかへり見る也、思ひを跡にのこすは、三歩一顧とて、三あしゆきては、一チ度かへり見る事をいふ、

文句時宜に依て猶気転肝要なり、

迷惑は額をなでゝ揉尻(もみじり)に、身をそむけるが極まりし法、

驚きは顔しりぞけて腕を出し、拳(こぶし)を宙に置くものぞかし、

袖口にをくは勇者の掌、女は膝に置ものとしれ、

袖ふりて倒ろは二度の愁也、大ヲトシ迄侍は猶よし、

算ふるは指、用意には襟を撫、立ゆくときは帯を〆べし、

眉立は一座三度に過ざれや、口をひらくは二度に越へざれ、

納得は退く頭、驚きはこれに反する心持なり、

熟案は両手を組て首を低、下賎はこれに烟管もたせよ、

 深く物を案じるに両手を組事、古今違変なし、但無刀の者は多くきせるをもたせて佳也、

下知ははね、聞けばうなづく、スヱテ膝、中はうつむく、

高位跡見ず、

 下知とは<早ゆけすされ>などゝ人に物をいひ付る也、是には其方へ頤をふる也、聞とは人に物をいひ聞する也、たとへば<とうさつしやれ、かうさつしやれ>などの類也、是には其方へ向ひて大うなづきさす也、此下知と聞(きけ)とを差別して分明ならねば情を失ふ事也、スヱぶしには必ひざをすゝみ、身体及び腰と成ル、尤是は愁のスヱぶし也、中はうつむくとは、中へ落る節の時は顔をうつむかせる工合也、是は文句にはよらずして節に従ふ振也、

坐する時、男は肛(いど)を地につけず、女は左りのひざを立ツベし、

込足(こみあし)の窃(うかゞ)ひはこれ勇者也、体をくづさぬ為に斯する、

 込足とは長刀の足法にある、右の足を左りの足の前へ込ム也、一ト間の内などへうかゞひよるの体也、

横きざみ、止まる時は陰陽の二ツの踏所、大事也けり、

 込足中きざみなどの踏仕舞ふ時は、左右各一歩して、

かげで陰陽に打せる事習ひあり、

大将の出入の時は一座みな頭をさげて礼をなすべし、

行違ひ貴人は前を通す也、傍近き時、せよや黙礼、

笑ふ時、男は肩を添る也、女は袖をあてゝうつむく、

左りの手、浪打をして天を差し、おろす其手を脇へ納る、

はだかるに余れ奴と長袴、農工商は是に反する、

奥に居る人を差す手は、うつむけて、目通りさげて教ゆるぞよき、

一ト間より呼とめられし其時は、利(きゝ)足ふみて頭ふりむく、

詰よする向ふ立身のその時は、身をひくふしてよるぞ陰陽、

太刀打に取わき順逆陰陽を、もれてはならぬ事と覚へよ、

無音有音三シ宛打て、其次はてう/\はつしと打が初段ぞ、

あふのけに請て刎つく身をかわし、双方立身是ぞ中段、

敵陽に来れば我身は陰にうけ、これより下段さま/\の振、

三ツ道具、鎗の囲みは左右にたつ、敵のたましひ目と脚にあり、

 つくほう さすまた ひねり

 これを仕寄道具ともいふ、

 鎗は中段に備へ、小足にふむべき也と、兵法のごとくすべし、鎗の上段とは眉間の通り也、中段とは帯締の通り、下段は膝節の通り也、其外道具を手に取ては、目を敵の顔に置て、外カを見る事なかるべし、

鎗をもつ、其上段は眉間なり、中は帯仕に、下段膝節、

大将の首は髪をは紙で巻、これ首入にいるゝ作法ぞ、

脇差をさすべき故実尋れば、鍔をば腰の通りにぞなす、

腰の物いたゞく時は刃を空へ、左りにて鍔、右の手に鞘、

坐してのち衣紋繕ふ事なかれ、用なき時にあふのかぬ也、

座礼にはさま/\あれど、さし当る真行草をとくと覚へよ、

 真行草、黙礼君礼小寄(こよせ)大びらき等の差別あり、真とは両手を組合せて下へのべ、我鼻の手の上につく程に頭をさぐる也、行とは両手をすれ合ふ程に一ツ所によせ、真よりはゆるく頭をさぐる也、草とは両手を四寸程あらけさげて頭を少さぐる也、

 君礼とは左りの手を突、右の手を右の膝に置、右の膝を跡へ引きざまに、鍔のぱつとならぬ様に、右の手にてかい込ム也、扨左の膝を引合て両手を突也、君の前へ出たる時の威儀かくのごとし、

 小寄とは座を立んとおもふ時、先シ居敷をあげ、両足をつまだて、足のきびすの上に居敷をすへ、腰をすへ、左右の手を膝の上に取り、下座の方の膝を少上てひらき、扨残れる膝をはじめ、ひらきし膝の所にすり合せ、

又初メひらきし膝より踏出して立ツ事也、大披きとは長ガ上下など著せし時、何にても持て立つ時の膝也、

是も右の小寄の所体を用ひて、跡の方へ八の字形りにひらくなり、

四季ともに扇を持が礼なれば、袴のひもの正面にさす、

 著座して刀をぬく時は、扇もぬきて、刀は左り、扇は右の方に置く、扨いふ事済て、立ツ時、元の紐にさし、次に刀を手に提、一ト間を過て腰にさゝせる也、但シ凶事急なる時には、扇はさしながら其事を弁ずる也、

さしよつて主の仰をきく時は、主人の膝に目をつけて居る、

神前は二度の拝みを礼とする、仏前は手を合せうつむく、

人前の礼に九ツ差別あり、別の口伝を聞てしるべし、

用のなき人形はたゞ露程も、うごかせぬをば達者とぞいふ、

地の姿、詞の振りとかくべつに、わかる所を功者とぞいふ、

所作の内、息遣ひをば籠たるを、たゞこの術の相伝とする、

 師伝に云、詞など渡して仕舞たる跡にて、うつかりとして居てもあしゝ、さればとて役にもたふぬ手ずさみするも見苦し、是らに功者付て自分の力見へすく所也、人形の喜怒の情を、我にうつして他念なければ、自然と奇妙の手も出る事也、何さまにも其義理、その文句、其趣向をよく/\身に引くらべて、年頃の功をつまざれば、至りがたき場なるべし、

 

十三条口伝

仁心有過ては、ぬるきに成すます事あり、

義を立過る時は意地わるに成りたがる事、

礼義に余りては子細らしく見ゆる事、

智恵有過る体なれば賢だてするやからと見ゆる事あり、

信あり過ては、にべもひやうしもなき様に成りたがる事、

潔白者は無骨者と成たがる事、

無欲者は前後つゞまらぬ奢り者となる事、

いんぎんに過ては軽薄者に見ゆる事、

愛敬に過ては諂ひ者に見ゆる事、

誠有て諂はざる者は横柄者と見ゆる事、

吝嗇者と倹約人とは其訳違ふ事、

偽りと謀はよく似て其元大に違ふ事、

血気と勇者とも右のごとくなり、

 序破急に喜怒哀楽をいつまでも忘れざるこそ上手なりけれ、

 振にては時の人気をうつすとも、すがたに古今変り目はなし、

人形を遣はんとおもはゞ、先此秘歌を得会して、其意を胸中に畳み、余の極秘は其師に尋ねて知くし、故人の言にも上手下手は情にてしるべしといへり、此意はいか程文句詞に連て遣ひなすといふトモ、其情に移らざれば自ら絶感の場にいたる事なし、遣ふ人の心を人形にうつして、嬉しさも悲しさも面白さも、わが魂は皆人形の臓腑に置の思ひをなすべし、是人形のみにかぎらず、浄瑠璃にも三味線にも此意をもるゝ事あるべからず、三曲を併せて論ずる時は、浄瑠璃は心、三味線は衣裳、人形は手足とも心得くし、穴賢云々、

 

右此口伝巻は去ぬる寛政二年の頃、一異人の許より予に閲見せよとて送り越されしを、即日に写しとりぬ、原巻も、草筆にして再写烏焉馬の差ひあるやしらず、茲頃上村氏の請ふに依て旧本の儘、不一房の細燈の下にてうつしておくる事しかり、

 

享和改元のとし水無月下浣

 

(未刊随筆百種 第1巻 昭和2年4月  引田家資料 図版:p101-107 翻刻:p215-219)

提供者:ね太郎さん(2003.09.16)
補訂(2012.10.14)