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【 今昔操浄瑠璃外題年鑑 】

外題名索引
 
提供者:ね太郎(2003.09.28)
(2022.05.30補訂)
 
浄瑠璃研究文献集成版を元とし、下記web上の影印により補訂した。
緑色で浄瑠璃研究文献集成版の校異を、---▽ ▽--で版による異同を示した。また、当該外題が引用されている義太夫年表近世篇の巻・ページを【 】で付記した。
譜:竹本豊竹浄瑠璃譜へのリンク 操:今昔操年代記へのリンク 
 
他に新群書類従第七(『参考今昔操浄瑠璃外題年鑑』:p691-751)に翻刻あり
(参考今昔操浄瑠璃外題年鑑引/今昔操浄瑠璃外題年鑑は 、一楽子の編するところにして 、宝暦七丁丑年二月大坂島之内八幡筋綿町書肆文華堂増田源兵衛より出板せり。後明和五戊子年、 同じ編者同じ書肆の手より増補せられて出板せられ、又寛政五癸丑年に至り 、新訂出板せられたり。今三本を対照して、具に其の異を存し、覧者をして甲乙を飜閲し、彼此を渉猟するの労を省き、兼ねて自ら其の適従せんとするところを択ましむと云爾。/明治乙巳冬 齋藤素影識)
 
浄瑠璃研究文献集成版 解題
編著者一楽子。竹豊故事の作者と同人。
「外題年鑑」は普通四種が知られてゐる。
一、今昔操浄瑠璃外題年鑑 宝暦七年二月 大坂 文萃堂増田源兵衛刊 【1-282】 早稲田大学(宝暦七年版)  慶應義塾図書館
二、増補外題年鑑   明和五年       同 【1-389】早稲田大学(明和五年版)[六十七丁まで] 都立中央図書館[加5579]
三、同(増補改正外題年鑑とも) 安永八年 同 【1-539】霞亭文庫 国文学資料館 慶應義塾図書館
四、新増外題年鑑(新増改正外題年鑑とも)寛政五年 同 音曲の司
 初版の宝暦版は巻頭に八十翁一楽の序文があり、興行年代については、竹本座は正徳五年の「国性爺」、豊竹座は享保三年「鎌倉三代記」以前は殆ど記載されてゐない。総紙数五十五丁。明和版は序を省き、前書になかつた興行年代が全体に亘つて記入され、曲目の増補も八十種に近い。総紙数六十八丁。安永版も同じく序を省き、堀江市ノ側此太夫座之分以下十丁を増補し、曲目の増加は四十種余。総紙数は七十九丁。寛政版は、全般に亘つて作者名を象嵌し、更に安永版を増補して百種近い曲目を加へてゐる。総紙数九十一丁。
 この外に「古今浄瑠璃年代記」といふ本が宝暦十三年江戸で刊行されてゐるが、これは外題年鑑を剽窃したもので、たゞ江戸の操座に関する記録を数行増補したものに過ぎない。
 外題年鑑を翻刻するにあたつては、それらの一書のみでは利用価値が低いので、右の四種を総合して一本を作ることにした。これはこれ迄の翻刻本にも行はれて来たことで、既に新群書類従巻七、昭和版帝国文庫近松世話浄瑠璃集所収の二通りがある。類従本は宝暦版を底本として、明和版・寛政版を参照したものであるが、相当誤脱がある。帝文本は前書の誤りを訂し、四本を校合整理したものであるが、尚類従本の誤謬を踏襲した個所も見受けられる。よつて、翻刻に当つて本館所蔵の原本により四書校合を行ひ、傍ら帝文本を参照した。
 本書は編者一楽が多年浄瑠璃を愛好するところから作成した操浄瑠璃の外題年表で、外題・作者・上演年月等を記載した簡略なものであるが、浄瑠璃研究には基礎となる重要な文献である。義太夫節については「近世邦楽年表・義太夫之部」によれば良いが、近松時代の浄瑠璃になると邦楽年表だけでは不十分なので、矢張りこの書の恩恵を蒙らなければならない。然し編者も断つてゐるやうに、流義の相異、外題や興行年月の誤謬が相当あるので、この書を全部直ちに信頼することは危険である。
 宝暦版の序文には八十翁一楽とあるが、寛政版が出たのは三十五年余り後の事に属する。従つて八十翁といふのを正直に解釈すれば、明和版以後の増訂は或ひは出版書肆の手によつたのではないかと考へられるが、兎に角明和版の増補には可成り誤謬が含まれてゐて、それが後々迄伝へられてゐる点は注意しなければならない。そこで今回の校合本では研究者の利便を考慮して、既に学界でその誤りが指摘訂正され或ひは問題になつてゐるものは、出来るだけ註に於て指摘解説して置いた。(略註 は本文中にも転記した)
 
参考 藤井乙男 外題年鑑及び操年代記の異版 江戸文学叢説
 

今昔操浄瑠璃外題年鑑 叙
 夫[それ]、浄瑠璃[じやうるり]外題[げだい]の起[をこ]りハ、小野[おの]のお通[うつ]と云し女の作[つく]られし浄瑠璃物語十二段[だん]を始めとす。此物語を聞𦾔[きゝふる]したる後[のち]滝野[たきの]・角沢[つのさハ]の両検校[りやうけんげう]、大職冠[たいしよくわん)・八嶋[やしま]・高館[たかだち]等[とう]の舞[まひ]の章[しやう]雅[が]に節[ふし]を付、是[これ]を浄るり節[ふし]と云習[いひなら]ハせしより惣名[さうめう]とハなれり。其後薩摩[さつま]次郎右衛門新作[しんさく]を綴[つゞ]り、曲節[きよくせつ]を語り出さる。併[しか]し其文句何れも短[ミぢ]かくして、今の世の景事[けいこと]道行抔[など]の類[たぐ]ひ也。其上[そのうへ]三絃[さミせん]に合するといふ事もなし。右[ミぎ]の手の爪先[つまさき]にて扇[あふぎ]の骨[ほね]を抓鳴[かきなら]して拍子[ひやうし]を取語りたる由、江戸鹿子[かのこ]に見へたり。其後、角澤検校三絃ニ合し始られぬ。此[この]角澤[つのさハ]の門人、京都東[ひがし]の洞院[とうゐん]二条の住人目貫[めぬき]屋長三郎と云人、都巡[ミやこめぐ]り見物左衛門と云外題の五段續を作らる。夫より相續[あいつゞ]き好者[かうす]の遊人[ゆうじん]衆、或[あるひ]ハ俳諧師達[はいかいしたち]、次第〳〵ニ新作[しんさく]を編出[あミいだ]されり。西靍翁[さいくハくをう]・宇治嘉太夫[かだいふ]・錦文流[にしきふんりう]・近松門左衛門・紀海音[きのかいをん]・村上[むらかミ]嘉介・西澤[にしさハ]一風・松田和吉・長谷川千四・竹田出雲[いづも]・為永千蝶[ためながせんてう]・並木宗輔[なミきそうすけ]・同丈輔等より當時の作者達ニ連綿[れんめん]せり。扨又、京都の山本土佐掾[やまもととさのしやう]・宇治加賀掾[かゞのしやう]、大阪ニ井上播磨掾[はりまのしやう]・竹本筑後掾・豊竹越前掾等の芝居[しバい]にて語り来[きた]られし浄るり、段々に繁昌[はんじやう]し、外題[げだい]の数[かず]凡[およ]そ数百千番[すひやくせんばん]にも及びなん。然るニ古代にハ當時[とうじ]竹本豊竹両座の別[わか]ち有と違ひ、同じ浄るりを何れの座にても語られしと見えたり。譬[たとへ]ハ、井上氏の跡目論[あとめろん]、加賀掾自作[じさく]のいろは物語・山本氏の四十八願記等の例[れい]のごとし。又井上氏の花山院[くハさんのいん]を弘徽殿嫉妬打[こうきでんうハなりうち]と加賀掾方ニてハ外題を替、又井上氏の日向景清[ひうがかげきよ]を松本治太夫方にてハ鎌倉袖日記[かまくらそでにつき]と替[かへ]、山本氏方の都志王丸[つしわうまる]を岡本文弥ハ山桝太夫[さんしやうだいふ]と変[へん]し、加賀掾方の団扇曽我[だんせんそが]を筑後掾芝居にてハ百日曽我と変題[へんだい]されし様成[やうなる]例[れい]無数[すくな]からず。其上[そのうへ]、前々ハ不葉流成(ふはやりなる)浄るりハ板本[はんほん]にも成らさる由。勿論[もちろん]井上氏山本氏の時代にハ、絵入[ゑいり]細字[さいじ]の讀本[よみほん]斗[ばかり]にて、稽古本[けいこぼん]と云[いふ]ハ曽[かつ]てなし。貞享[てうきやう]二乙丑年に七ツ伊呂波[いろは]の浄るり五段を大字[をゝじ]八行[やくだり]に板行[はんかう]させ、宇治加賀掾節章[ふししやう]を指[さ]し、直[ぢき]の正本[しやうほん]と号[がう]して出さる。是[これ]稽古本[けいこぼん]の最初[さいしよ]也[なり]。其後宝永七庚寅の年、竹本筑後掾の語られし吉野都女楠[よしのゝミやこをんなくすのき]の時[とき]よりも大字七行と成[な]し始[はしめ]、是より前々の當[あた]り浄るり共をも改[あらた]め七行に再板[さいはん]せられし也。然るに宝永年中京都二度の大火事[をゝくハじ]、次に享保[けうほ]辰[たつ]の年大坂大火の砌[ミぎり]、古来[こらい]の正本板木[はんき]焼失[しやうしつ]して伝[つた]ハらざるも多[をゝ]し。然れ共予[よ]若年の比より、此道を好[すけ]る余[あま]りに古流[こりう]の名に觸[ふれ]し外題共を、次第の前後に構[かゝハ]らず思ひ出せる儘[まゝ]に拾[ひろ]ひ集[あつ]め、次ニ竹本豊竹両芝居共に近頃の分ハ初日の年月日を記[しる]し、次に名高き太夫達[たち]の出勤[しゆつきん]退座[たいざ]の節[せつ]を顕[あら]はし、此道を好[す]き給ふ衆中の慰[なくさ]ミ共ならんかしと並[ならべ]出[いだ]せり。勿論[もちろん]年旧[としふり]し事[こと]成[なれ]バ、流儀[りうぎ]部分[ぶわけ]の相違[さうい]、近来[きんらい]の分ハ初日の月日聞及びの違ひ、外題[げだい]文字の誤[あやま]り等も多[をゝ]からんなれバ、用捨[ようしや]を希[こいねがふ]而已[のみ]
      宝暦七丁丑年二月   八十翁一楽  』5ウ
 
 
------▽〔宝〕〔明〕〔安〕〔寛〕▽---------
 
今昔操浄瑠璃外題年鑑目録
○古流井上播磨掾 分
○同 門弟井上市郎太夫 分
○同 同  清水理兵衛 分
○同 山本土佐掾 角太夫事 聞
○同 門弟松本治太夫 分
○同 同  都太夫一中 分
○同 宮古路国太夫事 分
○同 岡本文弥 分
○同 門弟阿波太夫 分
○同 宇治加賀掾 嘉太夫事 分
○同 門弟野田若狭・富松薩摩 分
○同 伊勢島宮内同佐太夫事
○同 道具屋吉左衛門 分
○同 表具屋又四郎 分
○当流竹本喜与太夫 分
○同 伊藤出羽掾座 分
○同 明石越後 分
○同 陸竹小和泉 分
○同 江戸豊竹肥前掾 並来歴 分
○同 京都竹本義太夫座之事
○同 大坂諸所稽古浄瑠璃場始り之事
○当流祖竹本筑後掾 分
○同 豊竹越前掾 分
○正徳享保已来(このかた)両座替り浄瑠璃初日年月日記
     (正徳享保の割書を、〔明〕〔安〕〔寛〕は貞享元禄と訂正)
○古今太夫受領年月記
○両座太夫出座退座之事
○出語出遣始り之事
○時代事世話浄瑠璃始り之事
○出語太夫ワキツレ三絃(さミせん)人形出遣日記
○芝居之表へ幟進物等到来之始り
○間之狂言道具建之事
○舞台二小幕ヲ引初る事
○正面之床を横床ニ直ス時節の事
○両座諸事の始り之事
目録終
                                   』宝8ウ・明・安3ウ
------▽〔安〕〔寛〕▽---------
     (以下〔安〕〔寛〕のみ)
 
○堀江市ノ側豊竹此太夫座之分
○大坂所々新浄るり之分
○江戸表新浄るり之分
○京都新浄るり之分
○読本浄るり之分
作者附のならびに同上とこれあるは二度目のことにあらず作者附なり 〔寛〕
 
------▽〔宝〕〔明〕〔安〕〔寛〕▽---------
○古流井上播磨掾並門人井上市郎太郎清水理兵衛分
新十二段
是ハ古への十二段を作り直したる物也。
仁王の本地
日本廻り
是ハ中古の見物左衛門を綴直せしなり。
舟遺恨
粟津の太郎が敵討の事也。
女袖鑑
是ハ後ニ作り直し日向景清と号す。
都女商人
放下僧の能をやつせしもの也。
二親孝行
是ハミのゝ国太郎介が行跡也。
金平法問諍
白旗の由来
八幡太郎よしいへの事を作りし也、
敵討の遺恨
五天竺
祇園精舎
天鼓
大友真鳥
日本王代記
荏柄平太
神道蟻通
百合若麿
甲賀の三郎
源平恋遺恨
道釈禅師伝
長谷寺利生記
土蜘蛛退治
金剛兵衛左文字刀
兵庫の築島
二代の敵討
田村将軍初観音
利屈物語
一休物語
頼光跡目論
源氏筑紫合戦
根元曽我物語
聖徳太子伝記
業平一代記
源氏熱田合戦
頼義北国落
花山院物語
頼朝七騎落
菅原親王行状記
蒲御曹子東踏歌
金剛山合戦
大曽我富士牧狩
賢女手習鑑
日向景清
信濃源氏木曽軍記
大職冠知略玉取
大念仏由来
三浦北条軍法競 (〔寛〕は北条を道寸)
楠千早合戦
河津相撲の遺恨
東大寺大仏縁起
佐々木藤戸先陣
三浦大助老後誉
源氏十五段
井上市郎太夫
五大力菩薩
上ニ同(井上市郎太夫)
待宵物語
清水理兵衛
源氏東の門出
上東院
右ニ同(清水理兵衛)
松浦五郎旅日記
 井上氏一生ニ語られし浄るり、百余番も有之由、西沢氏の操年代記ニ見へしか共、予見聞及ハざれば爰ニ止まる。追々考へかき加ふべし。
 
○山本土佐掾角太夫事並松本治太夫都太夫一中分
楠天外兵法問答 〔寛〕
角田川
小野篁
むらさき野 〔寛〕
天親菩薩
愛子(あいごの)若
阿漕平次
伝教大師記
王昭君
生捕八百人 〔寛〕
清水晴玄
源氏蓬莱三ツ物
三条小鍛冶
女人往生記
行基誕生記 〔寛〕
久米仙人
都志王丸
飛弾内匠
天王寺彼岸中日
善光寺開帳
信田小太郎
信太妻
熊井太郎孝行巻
西教寺七万日回向
一心二河白道 (〔安〕三世三河白道〔寛〕は一心を三世)
小敦盛
鉢被
小栗判官
逆髪王子横車
因幡堂開帳
眉間尺物語
石童丸
浦島太郎
入鹿大臣
四十八願記
平親王将門
花山法皇巡礼記
袈裟御前物語
酒呑童子
日蓮聖人徳行記
高砂
松本治太夫
牛若東下向
上ニ同(松本治太夫)
源氏烏帽子折
同(松本治太夫)
此時藤九郎盛長・渋谷金王丸二ツの人形ニ初て足を付たり。
    ※註 人形に初めて足を付(四一八)「外題年鑑」の記事では足が附いたのは京松本治太夫座の本曲(延宝六年か)と、宇治嘉太夫座の「世継曽我」の朝比奈に始るとされてゐる。これらは延宝貞享頃で、立物の人形に限つたことであつたらしい。「南水漫遊拾遺」には大阪の石飛弾掾の工夫によつて、手や足がつけられたと云つてゐる。宇治派はこの飛弾掾の影響を受けてゐると考へられる。何れにしろ人形に足がついた事は、三人遺ひの操法の出現を予想せしめる、操史上重要な出来事である。
石川五右衛門
右同(松本治太夫)
鎌倉袖日記
同(松本治太夫)
八嶋合戦
同(松本治太夫)
清水寺利生物語延宝六年午八月 〔寛〕
同(松本治太夫)
伝授小町
都太夫一中
万屋助六心中
上ニ同(松本治太夫)
椀久末の松山
同(松本治太夫)
菜種の花盛
同(松本治太夫)
辛崎浪枕
同(松本治太夫)
彦三近江八景
同(松本治太夫)
愛染明王影向松
同(松本治太夫)
おしゆん伝兵衛川原の心中
同(松本治太夫)
 
○岡本文弥並阿波太夫 分
三桝太夫
玄恕上人記
曇鸞太師記
大職冠方便の玉
阿弥陀坊
守屋大臣
日親上人法難記
中将姫蓮蔓陀羅
三田八幡御伝記
恋塚物語
百合若高麗攻
契史国物語
長命寺開帳
中山利生物語
雁金文七
元禄十五年壬午八月十六日ニ御仕置ニ合、同九月九日初日也
    ※註 雁金文七(四二〇)「雁金文七秋の霜」。雁金文七を頭目とする無頼の徒五人男が捕へられ、八月二十六日(十六日は誤り)千日寺で処刑された。この一件は文彌以外、各派でも脚色して上場、大いに流行した。本曲は世話浄瑠璃としては「曽根崎心中」より古い。
善光寺開帳
照天姫操車
当世様続日本紀
卅三間堂棟木由来
山本河内作 〔寛〕
 岡本文弥・同阿波太夫・松本治太夫・都太夫一中等ハ、何れも先師土佐掾又ハ井上氏の浄るりを多分語られし故、新作多からず。別して、一中の弟子宮古路国太夫ハ、竹本豊竹の世話浄るり共を取直し語られしゆへ、一生の間、新作五段続の時代事を勤められしを聞及ばず。
 
○宇治加賀掾 嘉太夫事並門弟衆の 分
大磯虎遁世記
小晒物語
百人一首
西王母
一心五戒玉
身替問答
融大臣
今川了俊
柿本人丸
大仏供養
西行物語
染殿后
吉備大臣
浄蔵貴所八坂塔
俵藤太
和田軍
中将姫
柏崎
弓削道鏡
当流小栗物語
元服曽我
融通大念仏 〔安〕〔寛〕
阿部宗任東大全
日本武尊
丹生山田 〔寛〕
小袖曽我
衣通姫和光玉
梅雨左門由来 〔寛〕
三井寺狂女
十六夜物語
晴明道満行力諍
夜討曽我
摩耶山開帳
小野道風額揃
法隆寺開帳
弘徽殿嫉妬打
源頼家鞠始
神武亭潤正月
薩摩守忠度
惟喬惟仁位諍
大原問答
三社の託宣
須磨寺青葉笛
富貴曽我
門出八島
浦島太郎七世縁
遊行上人名号記
傾城反魂香 〔寛〕
蒲冠者鞠初
賢女相生松
弱法師
徒然草
いろは物語
天神御本地
鳥羽恋塚物語
世継曽我
此浄るりの時、朝比奈の人形に足を付初しより、諸流共ニ立物人形ニ足をつけたり。
伏見常磐
葵の上
藍染川
凱陣八島
東山殿子日遊
本領曽我
関東小六東六法
弁慶京土産
平安城都遷
頼朝由井浜出
おなつ清十郎哥念仏
呉羽中将廿三夜待
曽我七ツ以呂波
桑原女之助
津戸三郎往生要集
遊君三世相
源三位頼政
葛葉道心物語
主馬判官盛久
団扇曽我
義経懐中硯
寿永忠度
刈萱道心物語
結城七郎小袖売
石山寺開帳
野田・冨松
吾妻歌七枚起請 〔安〕〔寛〕
吉岡兼房染
上ニ同
新腰越訴状
舎利 〔寛〕
難波五人男
西明寺殿行脚松
富松
忠臣身替物語 〔寛〕
傾城姿見池
夕霧筐の袂
富士浅間舞楽諍
今様伊呂葉物語
辛崎一本松
白髭寿命髪置
同 伊藤流枝作 〔寛〕
椀久狂乱笠
魂産霊観音
宇治
誓願寺名号記
宇治
女人即身成仏記
傾城今西行
傾城八重桜
鞍馬山師弟杉
同 清水三郎兵衛作 〔寛〕
曽我花橘
玉黒髪七人化粧
南都御影森
念仏往生記
忠信身替物語 (〔寛〕になし)
加増曽我 〔寛〕
粂盛久地獄ゑとき 〔寛〕
遊行念仏記
頼政歌道扇享保四年十月十一日 〔寛〕
野田・富松 伊藤流枝・清水三郎兵衛作 〔寛〕
契情我立杣
同上
傾城浅間嶽
龍城連理鐘
伊勢御遷宮
宇治
傾城浮洲岩
八幡宮和光白旗
富松
三井寺豊年護摩
大黒天神万宝御蔵
南大門秋彼岸
愛宕山旭峯
大和歌五穀色紙
傾城紋日暦
富松
忠臣伊呂波夜討
立花
関東小六丹前姿
富松
扇の芝 〔寛〕
 加[嘉]太夫の先師伊勢島宮内、浄るりも江戸の大ざつま抔と同前ニ五段続の外題を聞及ハず。宮内門人佐太夫、後ニ節齋と云し人、京都北野ニ而芝居を興行し、久々勤められしか共、数年の間、加賀掾と井上氏との浄るりを語られし也。又、加賀掾弟子野田若狭、北野七本松糸屋伊右衛門定芝居の太夫にて、久々勤められしか共、新作の浄るり多からず。此外ニ、富松さつま・宇治さがミ・立花河内等右ニ同じ。就中、富松氏ハ四条宇治加太夫定芝居にて、宇治宮内等と同座にて、永々勤められし中ハ、大坂竹本豊竹両座の新浄るり共を替る/\語られし故、自分の新作すくなし。
 
○道具屋吉左衛門節
四天王雷論
筑紫問答
金平地獄破
鎮西八郎
三原合戦
 
○表具又四郎節
木曽義仲
難波八景
草紙洗小町
忠臣兵揃
右の両人ハ井上氏の浄るりを多分語られし也。
 
○竹本喜世太夫曽根崎芝居ニ而享保四年
竜宮東門阿波鳴門【1-068 享保4】
熊野権現烏牛王【1-068 享保4】
此人道頓堀ニ而芝居興行せられし節ハ古浄るり也。
 
○伊藤出羽掾芝居ニて当流 (〔安〕〔寛〕に当流の二字なし)
一心二河白道 〔安〕〔寛〕
雁金文七 〔安〕〔寛〕
前内裏嶋都[王城]遷 (〔寛〕には都を王城)享保一七壬子年十二月十二日初日 【1-096 17.12.12
作者 豊田新助・土木待賈 伊藤伊太夫初出座 〔寛〕
孝謙天皇倭文談
是ハ外題の出たる斗にて此節より芝居断絶したり。(〔寛〕には以下の如し。)是は少しの間の興行にて、本不出、此節より芝居断絶したり。
 
○明石越後曽根崎芝居ニ而
三軍桔梗原延享二年乙丑十一月十三日初日 【1-156 2.1.12】
作者 桜井頼母・文瀾堂。 陸竹伊豆太夫・竹本源太夫 〔寛〕
延喜帝秘曲琵琶同(延享二)年孟夏上の三日  〔寛〕【1-158 2.4.3】 
作者 紀甘谷 〔寛〕
 
○陸竹小和泉芝居道頓堀ニ而
歌枕棣棠花合戦延享三年丙寅八月三日初日 (〔寛〕は朔日) 【1-172 3.8.1】
作者 春草堂 並木宗助 〔寛〕
唐金茂右衛門東鬘延享二年十二月朔日  〔寛〕 【1-164 2.u12.1】
作者 桜井頼母 並木和助 〔寛〕
女舞劔紅楓〔寛〕には紅葉を楓同(延享)三年十月廿一日  〔寛〕【1-175 3.10.21】 
作者 春草堂 大当たり  〔寛〕
鎮西八郎射往来同(延享)四年二月廿一日   〔寛〕【1-182 4.2.21】 
作者 春草堂  〔寛〕
氷室大内軍記 〔寛〕 【1-188 4.2.21以降】
大切出語り、 佐和太夫 〔寛〕
此外、古代ニ虎屋喜太夫、次ニ、陸奥茂太夫・二ツ井彦太夫・永島重太夫・竹本源太夫・辰松八郎兵衛等、大坂表ニて芝居興行ありしか共、何れも井上竹本の浄るりを語られし故、別に新作を見聞及ハず。
 
○江戸豊竹肥前掾 新太夫事
享保十九甲寅の年、御江戸表ニ立越、四五年の間ハ若松丹後掾といふ名代にて芝居を興行せられ、其後又、辰松氏の芝居にても勤められしが、元文年中に今の芝居を求め、普請成就し豊竹肥前掾藤原清正と新たに櫓幕を揚られたり。当座、新浄るりの外題
石橋山鎧襲寛保二 八月朔日 〔寛〕 【1-136 2.3.3】 
作者 豊岡珍平 為永太郎兵衛 〔寛〕
義経新含状 (〔安〕〔寛〕の巻末江戸の部に延享元、三月とあり。) 【1-148 延享1.3】(重出)
日蓮記児硯 〔寛〕寛延二年十月八日 【1-207 2.10.8】
古人近松門左衛門作 並木宗助添削 肥前座 〔寛〕
増補日蓮記 【1-225】
後江戸の分ノ児硯 〔寛〕
小山判官信太小太郎新板累物語寛延三年八月朔日 〔寛〕 【1-213 3.8.1】
作者並木良助 〔寛〕
霞の関守鎧の渡守八幡太郎東海硯寛延四年八月朔日 〔寛〕 【1-223 4.8.1】
作 一二三軒 〔寛〕
親鸞聖人絵伝記【1-227 宝暦1ヵ】
十五日男女太平記枕詞宝暦二年七月二十一日 〔寛〕 【1-232 2.7.21】
作 安田蛙文 〔寛〕
聖徳太子職人鑑 〔寛〕宝暦八年八月朔日 【1-286 8.8.1】
四天王寺伽藍鑑也 〔寛〕
当座ニ限らず、江戸表の外記・辰松等の操芝居、此二三十ヶ年の間ハ、何れも大坂竹本・豊竹両座の新浄るり共を替る/\に勤らるゝ故、新作の外題を見聞及ず。
    ※註 江戸表の外記・辰松(四三八)宝暦十三年江戸で刊行の「古今外題年代記」には、江戸の太夫について「外題年鑑」にない左の記事を収めてゐる。
       江戸竹本伊勢太夫佐太夫事
       宝暦十一巳年葺屋町辰松座跡取立普請成就して、当三月やぐらに幕をはられたり。始の浄るりは
       三浦大助紅梅靮座本 祝儀 伊勢太夫 出語 三味 富澤市之丞
       江戸薩摩外記座 座元 小倉小四郎
       宝暦十三末年大西藤藏後見いたされあやつり興行、則大阪より竹本千賀太夫、同岬太夫下り
       おはつ徳兵衛曽根崎模様
 
○京都竹本義太夫芝居
------▽〔宝〕▽-------------
宝暦三年癸酉の春より始る。当座ハ、大坂表の太夫達入替りて勤らる。勿論、大坂本家芝居の浄るりを勤る故、別に新作ハなし。 【1-236】
 
○追加 (此項〔宝〕のみ)
宝永四丁亥年二月、大坂生玉御社の境内におゐて、竹本豊竹の浄瑠璃稽古場始る。夫より諸方の寺社境内にて興行有。日を追而益々繁昌す。
    ※註 浄瑠璃稽古場(四三九)劇場以外で浄瑠璃を行ふ場所の事であらう。「宝永四年、大阪生玉の社内に於て、稽古浄瑠璃興行の儀御免有之候、是稽古浄瑠璃、寄進浄瑠璃等の始め也」(「摂陽落穗集」)
                                   』〔宝〕24オ
 
------▽〔明〕〔安〕〔寛〕▽---------
宝暦三酉春より多分大坂本家の浄るり也。
花景図都鑑宝暦十二午ノ三月廿一日 【1-319 12.3.21】
                                   』〔明・安〕19ウ
契情阿こや松  〔寛〕は「阿こや松」を「阿古屋の松」宝暦十四年申ノ正月 【1-348 14.1.17】
京羽二重娘形気同(宝暦十四)年四月十七日 【1-351 14.4.17】 
 
------▽〔宝〕▽-------------
○当流竹本筑後掾 義太夫事
大坂道頓堀ニ而、芝居興行の始めハ、貞享二年乙丑の二月也。最初の浄瑠璃ハ、世継曽我。次ハ藍染川。其次いろは物語。此三番ハ加賀掾方の古物。其次に、井上氏方の賢女手習鑑。頼朝七騎落。以上五替りハ、先師達の語ら 』〔宝〕24ウ れし古浄るりにて仕廻、同三年寅の春より、近松門左衛門京都より新物を作り越さる。其第一ハ 〔宝〕
出世景清 〔宝〕
是近松氏義太夫浄るり作の最初なり。此後多分近松の作なり。 〔宝〕
     【〔宝〕25オ3行目~29ウ 出世景清以下のを別に示す】
 
------▽〔明〕〔安〕〔寛〕▽---------
○当流竹本筑後掾 義太夫事
竹本義太夫ハ摂州天王寺村の豊家の出産成しが、若年の比より井上播磨掾の浄瑠璃を好みて修行せられ、延宝年中大坂虎屋喜太夫芝居を勤め、天和年中京都へ登り宇治加賀掾芝居を勤め貞享二年大坂へ帰り道頓堀に而自分ニ櫓を揚げて、常芝居を興行せられ、其後筑後掾と受領せらる。最初貞享二年より 』〔明・安〕20ウ 明和四年迄、八十三年なり。而益々繁昌せり。最初より、替り浄るり初日年月日に及び、他所へ行又ハ名高き太夫衆の出座退座委細ニ記す。 〔明〕〔安〕〔寛〕
     (以下明・安・寛の三本に共通な場合は×印を以て示す)
 
世継曽我貞享二年乙丑二月朔日初日 【1-005 貞享1.7中以前 推定】  
宇治加賀掾方の古浄るり也。
     (以下頼朝七騎落まで〔宝〕になし。)
藍染川同(貞享二)年四月八日 【1-005 貞享1.7中】 
右同断
                                   』〔明・安〕21オ
いろは物語同(貞享二)年七月十五日 【1-005 貞享1.三の替り】
右同断
一心五戒玉 〔安〕〔寛〕【1-020 元禄12.1以前 推定】
右同断
    ※註 一心五戒玉(四四一)現存の丸本の版式や、内容から考へて、元禄十一年の作と推定される。(黒木勘藏「浄瑠璃史」二五二頁)
賢女手習鑑同(貞享二)年九月廿一日 【1-006 貞享2.1.吉】 
井上播磨掾方の古浄るり。
頼朝七騎落[源氏長久移徒悦]同(貞享)三年正月二日 【1-006 貞享2.三の替り 推定】 
右同断
出世景清同(貞享三)年二月四日 【1-006 貞享2.二の替り 推定】  
是ハ近松門左衛門竹本義太夫新浄るり作の初なり。此節ハ近松氏京都住居なり。後ニ大坂へ下り多分新作をせられしなり。当夏、京都へ行。 〔明〕〔安〕〔寛〕(以下明・安・寛の三本に共通な場合は×印を以て示す)
佐々木大鑑同(貞享三)年七月十五日 【1-007 貞享3.7.吉】 
又、佐々木先陣とも。作者同上 〔寛〕
     (以下国性爺合戦まで〔宝〕は興行年月を欠き、且年代的に順序不同につき、他の三本による)
多田満仲記同(貞享三)年九月十三日 × 【1-053 正本不明】
達磨の本地貞享四丁卯年正月八日 【1-053 正本不明】
当三月より中国路所々旅行。 ×
源氏冷泉節貞享五戊辰年正月二日 【1-50 正徳4.9.10以前 推定】
    ※註 源氏冷泉節(四四二)宝永七年八月頃。題簽に「孕常盤」追加とある故。(同右[浄瑠璃史])
当夏、江州大津より伊勢へ行。 ×
大塔宮熊野落同年九月改元 元禄元年十月十二日  【1-053 正本不明】
定家卿小倉色紙同(元禄)二年正月二日 【1-053 正本不明】
天智天皇同(元禄二)年三月三日 【1-010 元禄5.5.11以前 推定】
当夏、泉州堺より紀州へ行。 ×
今様柏木同(元禄二)年八月十五日 【1-017 元禄11.1以前 推定】
当冬、京都北野へ行。 ×
自然居士元禄三庚午年正月十四日 【1-016 元禄10.7.25以前 推定】
源氏十二段同(元禄三)年三月三日 【1-018 正本不明】
当夏秋、堺・奈良・和州へ行。 ×
讃談記同(元禄三)年十月十一日 【1-053 正本不明】
文武五人男 〔寛〕 【1-013 元禄7.7.15以前 推定】
今様柏崎元禄五壬申年正月二日
当春、京都七の社へ行。 ×
日本西王母同(元禄五)年四月八日 【1-021 元禄12.5.9以前 推定】
作者近松門左衛門 〔寛〕
当秋冬、西国・中国所々へ行。 ×
愛子若都富士元禄六癸酉年正月二日 【1-015 元禄8.5.28以前 推定】
平仮名太平記同(元禄六)年三月三日 【1-024 元禄14 推定】
新本領曽我同(元禄六)年五月六日 【1-053 正本不明】
当秋冬、和州・美濃・尾張へ行。 ×
弁慶出生記 ×元禄七年甲戌正月九日 【1-053 正本不明】
松風村雨束帯鑑同(元禄七)年三月三日 【1-035 宝永4.暮以前 推定】
    (×は、松風村雨を割書)
    ※註 松風村雨束帯鑑(四四四)宝永二年十一月以後と推定。三段目の景事を豊竹若太夫と竹本頼母が掛合で語つたとあるが、若太夫は元禄十六年竹本采女の改名したもの。又内容からみて宝永二年十一月「用明天皇職人鑑」以後のものと推定される。(高野正己「近世演劇の研究」)
作者近松門左衛門 〔寛〕
当夏京都中御霊の社内、秋冬北野七の社へ行。 ×
大掛物十幅一対 〔寛〕 【1-040 宝永7.4.8】
斎藤別当実盛元禄八年乙亥正月二日 【1-053 正本不明】
多田院開帳同(元禄八)年三月六日 【1-016 元禄9.8 推定】
釈迦如来誕生会同(元禄八)年四月八日 【1-050 正徳4 推定】
    (×は、釈迦如来を割書)
    ※註 釈迦如来誕生会(四四四)宝永七年以後。七行本の正本の板行は宝永七年に始るが、この曲の正本は筑後掾の七行本十行本があるのみでみる。(同右[近世演劇の研究])
作者 近松門左衛門 〔寛〕
当夏秋、堺・奈良・和州所々行。 ×
鎌田兵衛名所盃同(元禄八)年十月十二日  【1-043 正徳1.1.21以前推定】
忠信廿日正月元禄九丙子年正月八日 【1-039 宝永7.1以前 推定】
当夏、伊勢へ行。 ×
当麻中将姫 ×同(元禄九)年四月十四日 【1-051 正徳4.9.10以前ヵ 推定】
当夏、讃州より宮島へ行。 ×
義経追善女舞同(元禄九)年九月九日 【1-018 元禄11.1以前 推定】
    ※註 義経追善女舞(四四五)団十郎の「兵根元曽我」の影響をうけたものと考へられるので、元禄十年盆頃の興行と推定。(同右[近世演劇の研究]、五五頁)
那須与市小桜威元禄十丁丑年二月朔日【1-052 正徳4.9.10以前ヵ 推定】
新板腰越状同(元禄十)年四月六日 【1-014 元禄8.2.13以前 推定】
当夏、泉州・堺より奈良へ行。 ×
頼朝伊豆日記同(元禄十)年七月十五日 【1-011 元禄6.2.18以前 推定】
作者 近松門左衛門 〔寛〕
百日曽我同(元禄十)年十月十三日 【1-023 元禄13 推定】 
    ※註 百日曽我(四四六)高橋宏氏は元禄十年を否定して五年説を取る。(「國文学踏査第一輯」近松著作年代考)「団扇曽我」の興行は更に遡り、貞享末年と考へられる。(同右[近世演劇の研究]、四二頁)
初ハ団扇曽我と号せし、京都宇治加賀掾浄るりニて、近松氏の作成し、定日百日相勤めしゆヘに、ことぶきて百日曽我と云。此時分ハ百日と勤めし事ハ珍敷がゆへなり。 ×
吉野忠信 〔宝〕
今様小栗判官元禄十一戊寅年二月十四日 【1-052 正徳4.9.10以前ヵ 推定】
作者 近松門左衛門 〔寛〕
小野道風記 ×同(元禄十一)年五月五日
義経東六法同(元禄十一)年六月五日 【1-044 正徳1.1.21以前推定】
当秋、伏見中書島、夫より伊勢へ行。 ×
源氏烏帽子折元禄十二己卯年正月二日
山本土佐掾古浄るり。 〔寛〕
当春、泉州堺へ行。 ×
本海道虎が石同(元禄十二)年五月六日 【1-012 元禄7.7.15以前 推定】
当秋、備中宮内・芸州宮島へ行く。 ×
浦島年代記元禄十三年辰正月六日 【1-072 7.3.3】
作者 近松門左衛門 〔寛〕
長町女腹切 〔安〕〔寛〕正月六日 (元禄十三年) 【1-047 正徳2.秋 推定】
    ※註 長町女腹切(四四七)正徳二年秋。銭相場や歌舞伎役者の記事等から推定。(「浄瑠璃史」二五四頁)
作者 近松門左衛門 〔寛〕
淀鯉出世滝徳同(元禄十三)年四月八日 【1-038 宝永6.11.1以前 推定】
    ※註 淀鯉出世瀧徳(四四七)宝永五年末。作中に「重井筒」の噂が出てゐる事と、宝永六年十一月歿した坂田藤十郎めが在世中であることを暗示する句がある事より推定。(同右[浄瑠璃史]、二五四頁)
作者 近松門左衛門 〔寛〕
当夏、堺・奈良へ行。 ×
因幡薬師伝記同(元禄十三)年九月九日 【1-053 正本不明】
当春より休足、京へ行。 ×
蝉丸元禄十四年辛巳五月六日 【1-012 元禄7.2以前 推定】
作者 近松門左衛門 〔寛〕
元禄十四年辛巳五月竹本義太夫勅許受領、筑後掾藤原転教と号す。 〔宝〕 【1-021】
竹本義太夫筑後掾藤原博教と勅許受領の弘めを勤めらる。今年五十一才なり。 ×
神詫粟万石同(元禄十四)年八月朔日 【1-032 宝永2u4-5 推定】
    ※註 神託粟万石(四四八)宝永二年三月。作中に「宝永二年の如月や」云々の句がある。(「邦楽年表」)
十二段長生島台同(元禄十四)年九月九日 【1-018 元禄11.1以前 推定】
大掛物十幅一対*同(元禄十四)年九月九日 【1-040 宝永7.4.8】
作者 近松門左衛門 〔寛〕
曽我五人兄弟同(元禄十四)年十一月朔日 【1-022 元禄12 推定】
同上 〔寛〕
傾城八花形元禄十五壬午年正月二日 【1-028 元禄16.10 推定】
豊年富貴万歳*元禄十五壬午年正月二日 【1-053 正本不明】
当春の末伊勢へ行。 ×
大磯虎稚物語同(元禄十五)年五月二十八日 【1-012 元禄7.7.15以前 推定】
    ※註 大磯虎稚物語(四四九)元禄四・五年か、八行献上本の様式が元禄四・五年の頃にのみ見られるもの。(「浄瑠璃史」二五五頁)
同上 〔寛〕
賀古教信七墓廻同(元禄十五)年七月十五日 【1-052 正徳4.9.10以前ヵ 推定】
同上 〔寛〕
新一心五戒の魂同(元禄十五)年九月九日
来春堺より奈良へ行。 ×
西[最]明寺殿百人上臈元禄十六癸未年三月四日 【1-021 元禄12.3 推定】
作者 近松門左衛門 〔寛〕
前 浄るり日本王代記同(元禄十六)年五月七日 【1-027 元禄16.5.7
同上 〔寛〕
曽根崎心中*同(元禄十六)年五月七日 【1-027 16.5.7 】 
此心中ハ当四月廿三日也。前浄るりハ 日本王代記 是世上世話浄るりの始にて竹本氏古今の大当り也 〔宝〕(×にはおはつ徳兵衛なし)
作者 近松門左衛門是、世上世話浄るりの始めにして、竹本氏古今の大当りなり。 〔明〕〔安〕〔寛〕
悦賀楽平太元禄十七甲申年正月十五日 【1-010 元禄5.1.24以前 推定】
切 源五兵衛おまん薩摩歌*元禄十七甲申年正月十五日【1-043 正徳1.1.21以前推定】
同上 〔寛〕
甲賀三郎当四月改元 宝永元甲申年四月十六日 【 1-051 正徳4.9.10以前ヵ 推定】
心中重井筒*宝永元甲申年四月十六日 【1-035 宝永4.11以後 推定】
    ※註 心中重井筒(四五〇)宝永四年十一月。道行文中の劇場名の読込みと、宝永四年十月の畿内地方大地震の当込みより推定。(同右[浄瑠璃史]、二五五頁)
同上 〔寛〕
当秋冬、太夫病気休息。是まで筑後掾自分の座本なり。 ×
用明天皇職人鑑宝永二乙酉年三月二日 【1-032 宝永2.11 推定】 〔安〕〔明〕〔寛〕  
    ※註 用明天皇職人鑑(四五〇)宝永二年十一月。「今昔操年代記」の記事と、「心中二枚絵草紙」の発端の文より推定。(黒木「近松門左衛門」一四九頁)
同上 〔寛〕
今度より、竹田出雲掾竹本芝居の座本と成ル。人形の衣裳ニ及び道具建等まで、立派ニ成りしなり。
鐘入の段、大夫筑後掾、三味線竹沢権右衛門、おやま人形辰松八郎兵衛出語り出遣ひ、今度より仕初る。 〔安〕〔明〕〔寛〕
    ※註 竹田出雲(四五〇)二代目竹田出雲、即ち外記。浄瑠璃作者として著名なのは千前軒の竹田出雲で、三代目である。
宝永二年乙酉三月 当年より竹田出雲掾竹本芝居の座本ト成。鐘入りの段出語 太夫筑後掾 三絃竹沢権右衛門 おやま人形辰松八郎兵衛今度より出遣ひヲ仕初ル 〔宝〕
雪女五枚羽子板同(宝永二)年七月十四日 【1-037 宝永5.1 推定】
    ※註 雪女五枚羽子板(四五一)正月の景物行事を取入れてゐるので盆興行とは考へ難い。但宝永二年正月は竹本座休座中なので、同年ではない。(「浄瑠璃史」二五五頁)
同上 〔寛〕
傾城返[反]魂香同(宝永二)年八月十五日 【1-037 宝永5. 推定】
    ※註 傾城反魂香(四五一)寛永五年か。狩野元信の百五十年忌を当込んだものと思はれる。(同右[浄瑠璃史]、二五六頁)
同上 〔寛〕
木曽軍記同(宝永二)年十一月廿一日 【1-053 正本不明】
切 おなつ清十郎笠物狂*同(宝永二)年十一月廿一日 【1-053 正本不明】
義経将棊経宝永三丙戌年正月廿五日 【1-043 正徳1.1.21以前推定】
    ※註 義経將棊経(四五一)正しくは「源義経將基経」。内容の技巧から見て宝永二年十一月の「用明天皇」以前のものと推定。(「近世演劇の研究」七四頁)
本領曽我同(宝永三)年三月廿七日 【1-033 宝永3.4.1以前】
心中二枚絵草紙*同(宝永三)年三月廿七日  【1-033 宝永3.2.11以前 推定】
作者 近松門左衛門 〔寛〕
兼好法師物見車同(宝永三)年五月五日 【1-41 宝永7.碁盤太平記以前 推定】
    ※註 兼好法師物見車(四五二)本曲は「兼好法師跡追碁盤太平記」と合せて一つの作と見做すべきで、同時の興行であつたのであらう。(同右[近世演劇の研究]、七四頁)
同上 〔寛〕
碁盤太平記同跡追一段物同(宝永三)年六月朔日 【1-042 宝永7. 推定】
同上 〔寛〕
曽我扇八景同(宝永三)年七月十五日 【1-043 正徳1.1.21以前推定】
同上 〔寛〕
扇八景 三段目迄同(宝永三)年九月廿一日 【1-043 正徳1.1.21以前推定】
大経師昔暦*同(宝永三)年九月廿一日 【1-054 正徳5春 推定】
    ※註 大経師昔暦(四五二)正徳五年春か。おさん茂兵衛の三十三回忌の当込み。(「浄瑠璃史」二五六頁)
同上 〔寛〕(×にはおさん茂兵衛なし)
吉野忠信宝永四丁亥年正月廿日 【1-016 元禄10.7.16以前 推定】 
    ※註 吉野忠信(四五二)義太夫の正本によつて、元禄十四年五月筑後掾受領以前のものと推定。(「近世演劇の研究」七四頁)
吉野忠信 三段目迄同(宝永四)年二月十五日 【1-016 元禄10.7.16以前 推定】
堀川波の鼓*同(宝永四)年二月十五日 【1-044 正徳1.1.21以前推定】
今川了俊 ×同(宝永四)年四月廿一日 【1-008 貞享4.1吉祥日】
切 おかめ与兵衛卯月の紅葉*同(宝永四)年四月廿一日 【1-034 宝永3.夏 推定】
    ※註 卯月紅葉(四五三)宝永三年六月。作中に宝永三年夏、岩井半四郎座の「鳥辺山心中」を当込んだ趣向がある。(「近松門左衛門」一五六頁)
根元曽我 ×同(宝永四)年六月朔日 【1-018 元禄11.1以前 推定】
後日卯月の色上[潤色]*同(宝永四)年六月朔日 【1-035 宝永4.4 推定】
    ※註 後日卯月の色上(四五三)正しくは「卯月の潤色」。宝永四年四月。作意上から前者より十ヶ月の隔りがなくてはならない。(「浄瑠璃史」二五六頁)」
源氏十二段同(宝永四)年六月廿四日 【1-018 正本不明】
切 丹波与作関小まん待夜小室節*同(宝永四)年六月廿四日 【1-036 宝永4.心中重井筒以後 推定】
    ※註 待夜小室節(四五三)宝永五年。クドキの文句によつて「重井筒」より後の作品たるべきととと、宝永二年の抜参りを当込んだ句がある等の理由によつて推定。(同右[浄瑠璃史]、二五六頁)
    (×には丹波与作関小まんの順)
酒呑童子枕言葉同(宝永四)年九月九日 【1-041 宝永7.5.5以前 推定】
作者 近松門左衛門 〔寛〕
酒呑童子 三段目迄宝永五戊子年四月十六日【1-041 宝永7.5.5以前 推定】
切 おむめ久米之助心中万年草*宝永五戊子年四月十六日 【1-040 宝永7.4.8】
同上 〔寛〕
当夏、奈良・伊勢へ行。秋より冬、備中宮内・芸州宮島へ行。 ×
今川制詞条目宝永六丑年正月二日 【1-053 正本不明】 〔宝〕宝永六己丑正月二日
おなつ清十郎五十年忌哥念仏 〔安〕〔寛〕 【1-035 宝永4.7.14以前 推定】
今川[制詞条目] 三段目迄同(宝永六)年三月三日 【1-053 正本不明】
切 上巻助六千日寺心中*同(宝永六)年三月三日 【1-023 元禄13 推定】
新天鼓同(宝永六)年四月八日 【1-053 正本不明】
切 おまん源五兵衛芦分舟*同(宝永六)年四月八日 【1-053 正本不明】
当夏、伊勢へ行。 ×
紅葉狩剣本地[栬狩剣本地]同(宝永六年)九月九日 【1-053 正徳4顔見世】
作者 近松門左衛門 〔寛〕
当冬、伏見中書島へ行。 ×
曽我虎が石磨宝永七庚寅年正月二日 【1-043 正徳1.1.21以前推定】
虎が石磨 三段目迄同(宝永七)年正月廿三日 【1-043 正徳1.1.21以前推定】
切 おきさ二郎兵衛掛鯛心中*同(宝永七)年正月廿三日 【1-044 正徳1.夏 推定】
大原問答青葉笛同(宝永七)年三月四日 【1-50 正徳4.9.10以前 推定】
作者 近松門左衛門 〔寛〕
百合若野守鏡[百合若大臣野守鏡]同(宝永七)年五月六日 【1-044 正徳1.初秋以前 宝永7ヵ 推定】
同上 〔寛〕
野守鏡 三段目迄同(宝永七)年六月十六日 【1-044 正徳1.初秋以前 宝永7ヵ 推定】
心中氷の朔日*同(宝永七)年六月十六日 【1-038 宝永6.盆以前 推定】
同上 〔寛〕
根元曽我 三段目迄同(宝永七)年七月廿四日 【1-018 元禄11.1以前 推定】
夕霧阿波鳴戸*同(宝永七)年七月廿四日 【1-046 正徳2.初春 推定】
    ※註 夕霧阿波鳴戸(四五五)正徳元年末か二年春か。正徳元年秋刊の段物集「鸚鵡が杣」に外題が載らず、同二年九月刊の「鸚歌が園」に始めて出てゐることゝ、夕霧の歿後三十五年目を当込んでゐることゝによつて推定。(「近松門左衛門」一九三頁)
当秋より冬、堺・伏見・大津へ行。 ×
新いろは物語宝永八辛卯年正月九日 【1-053 正本不明】
作者 近松門左衛門 〔寛〕
いろは 三段目迄同(宝永八)年三月五日 【1-053 正本不明】
切 梅川忠兵衛冥途飛脚*同(宝永八)年三月五日 【1-044 正徳1.初秋以前 推定】
同上 〔寛〕
当五月正徳と改元。当夏、和州より伊勢へ行。 〔安〕〔寛〕
吉野都女楠正徳元辛卯年九月十日 【1-042 宝永7 】
同上 〔寛〕
傾城掛物揃正徳二壬辰年三月四日 【1-046 2.3.4 】 
丹波与作 二度目*正徳二壬辰年三月四日 【1-046 2.3.4 】 
今度、和哥竹政太夫始て出座。道中双六出語り後ニ竹本と改む。 ×
正徳二年壬辰三月四日 政太夫始て出座道中双六節事出語り 〔宝〕
弘徽殿鵜羽産家同(正徳二)年五月五日 【1-051 正徳4.9.10以前ヵ 推定】
同上 〔寛〕
二[五]百番ノ内嫗山姥同(正徳二)年七月十五日 【1-047 正徳2.9以前 推定】
作者 近松門左衛門 〔寛〕
傾城吉岡染同(正徳二)年十一月二日 【1-039 宝永7.3.25以前】
同上 〔寛〕
河内国姥が火正徳三癸巳年正月二日 【1-070 享保5頃】
作者 松田和吉 〔寛〕
天神記同(正徳三)年二月廿五日 【1-048 正徳4.1.】 
作者 近松門左衛門 〔寛〕
今度彦太夫初て出座。後ニ大和太夫と名を改む。天拝山節事出語り。 ×
正徳三年癸巳二月廿五日 大和太夫初出座、天拝山節事出語〔宝〕
孕常盤同(正徳三)年七月十六日 【1-041 宝永7.u8 推定】
    ※註 孕常盤(四五七)宝永七年八月か。「鸚鵡が杣」に外題が見え、また本年八月の閏を当込んだ句がある。(「浄瑠璃史」二五七頁)
同上 〔寛〕
新撰大職冠同(正徳三)年十一月朔日 【1-045 正徳1.10前後】
同上 〔寛〕
相模入道千匹犬正徳四甲午年四月八日 【1-049 正徳4秋以前 推定】
同上 〔寛〕
瀧口横笛娥哥加留多同(正徳四)年八月朔日 【1-050 正徳4.9.10以前推定】
    ※註 娥歌がるた(四五八)本曲は延宝四年十一月刊、山本角太夫の正本「瀧ロ横笛紅葉之遊覧」と題材趣向が同じで、近松の作といふのは疑はしい。(「近世演劇の研究」七五頁)黒木氏は近松作を肯定してゐる。
同上 〔寛〕
大和太夫退座 〔宝〕
筑後掾事、当八月中旬より病気にて引込、保養ニ相叶はず、終に当九月十日行年六十四才ニて死去せらる。法名ハ釈道喜と号せり。此人、芝居興行、貞享二乙丑年より当正徳まで、年歴三十ヶ年。浄るり九十四番を操に掛て勤られたり。其助の衆中にハ、豊竹若太夫・陸奥茂太夫・長島重太夫・二ツ井彦太夫・多川源太夫・内匠理太夫・竹本難波・豊竹万太夫・竹本喜代太夫・竹本頼母・若竹政太夫・竹本彦太夫・竹本文太夫・其外の衆中、年々に替りてつとめられたり。これより筑後掾死後の分。 ×
嵯峨天皇甘露雨同(正徳四)年十月十五日 【1-50 正徳4.9.10以前 推定】
同上 〔寛〕
此節の太夫、竹本頼母・内匠理太夫・竹本政太夫・豊竹万太夫・竹本文太夫。大和太夫退座。 ×
殩静胎内捃正徳五乙未年正月二日 【1-048 正徳3.u5 推定】
    ※註 殩静胎内捃(四五九)正徳三年閏五月か。本年閏五月の当込みの句がある。(「浄瑠璃史」二五七頁)
     (〔寛〕以外は「殩」を「二人」、「捃」を「探」)
同上 〔寛〕
当春伊勢へ行。 ×
                                   』(〔宝〕29ウ)・〔明・安〕30ウ
------▽〔宝〕〔明〕〔安〕〔寛〕▽---------
持統天皇歌軍法同(正徳五)年八月朔日 【1-049 正徳4.夏以前 推定】 〔明〕〔安〕〔寛〕 (〔宝〕では削除)
同上 〔寛〕
此節迄ハ、浄るり短かく故、間の物(※註 間の物(四五九)間狂言。浄瑠璃の一段と一段との間に、軽い喜劇であるのろま人形が演ぜられた時代がある。それを間の狂言と呼んだ。)ニのろま人形のどうけ或ハからくり有。こくせんやよりハかゝる事もなし。 〔宝〕
筑後掾芝居興行、貞享二年より已来卅二三ヶ年の間、井上氏宇治氏先師達の勤られし浄るり凡五六十番余も語られしか共、前の部分ニ出せる故、爰ニ略す。近松氏ニ及び、其他の新作百余番都合百五六十番余を操ニ掛て、芝居を勤め、正徳四年甲午九月十日六十四才ニて死去せらる。豊竹若太夫・陸奥茂太夫・二ツ井彦太夫・内匠利太夫・竹本難波・多川源太夫・豊竹万太夫・竹本頼母・竹本喜代太夫・竹本政太夫・竹本大和太夫・竹本文太夫等の衆中、筑後掾存生の内勤められし也。 (以上四本共)
筑後掾死後、国性爺よりハ替り浄るり初日の年月日ニ及び、他所行又ハ名高き太夫衆の出座退座を記す。 〔宝〕 (〔明〕〔安〕〔寛〕では削除)
嘉平次おさが生玉心中 〔寛〕
同上 〔寛〕
                                   』〔宝〕30オ・〔明・安〕31オ
父ハ唐土母ハ日本国性爺合戦
     (以下は〔宝〕にも興行年月日あり)
初日 正徳五年乙未十一月朔日より、三年越十七ヶ月勤ム。来申正月閏有。 【1-057 5.11.15】  
九仙山、竹本頼母・内匠理太夫・竹本文太夫、三絃鶴澤三二。三段め,同政太夫・豊竹万太夫・同難波。作者近松門左衛門
種ハ日本産ハ唐土同(国性爺)後日合戦享保二年丁酉二月十五日 【1-061 2.2.15】 
同上 〔寛〕
大幕の上ニ小幕を引き初む。此度、吉田文三郎初て出座。
曽根崎心中 二度目同(享保二)年八月朔日 【1-062 2.8.1】
同上 〔寛〕
鑓権三重帷子同(享保二)年八月廿二日 【1-062 2.8.22】
同上 〔寛〕
聖徳太子絵伝記同(享保二)年十一月十六日 【1-063 2.11.16】
同上 〔寛〕
文太夫退座。
山崎与次兵衛寿門松享保三年戊戌正月二日 【1-063 3.1.2】
同上 〔寛〕
大和太夫再出座。
日本振袖始同(享保三)年二月廿二日 【1-063 3.2.22】
同上 〔寛〕
曽我会稽山同(享保三)年七月十五日 【1-064 3.7.15】
同上 〔寛〕
日蓮上人記同(享保三)年十月十二日 閏十月有 【1-064 3.10.12】
同上 〔寛〕
傾城酒呑童子同(享保三)年十月廿五日 【1-064 3.10.25】
同上 〔寛〕
いづミ太夫事澤太夫初テ出座。
博多小女郎波枕同(享保三)年十一月廿日 【1-065 3.11.20】
同上 〔寛〕
国太夫出座。
善光寺堂供養(〔寛〕以外は「御堂」を「堂」) 同(享保三)年十二月十三日 【1-065 3.12.13】
同上 〔寛〕
本朝三国志享保四年己亥二月十四日 【1-066 4.2.14】
同上 〔寛〕
俊寛牛若平家女護島同(享保四)年八月十二日 【1-066 4.8.12
同上 〔寛〕
島原蛙合戦同(享保四)年十一月六日 【1-067 4.11.6
同上 〔寛〕
出語大和太夫。ツレ国太夫。三絃鶴澤三二。
国性爺合戦 二度目享保五年庚子正月二日 【1-069 5.1.2
九仙山、頼母。三絃、三二事鶴澤友二郎。
井筒業平河内通同(享保五)年三月三日 【1-069 5.3.3
同上 〔寛〕
出語リ太夫、頼母。ツレ澤太夫。三絃友二郎。
双子生隅田川同(享保五)年八月三日 【1-069 5.8.3 
同上 〔寛〕
日本武尊東鑑 (〔寛〕 は「東」を「吾妻」)同(享保五)年十一月四日 【1-069 5.11.4
同上 〔寛〕
陸奥茂太夫再勤。
小はる治兵衛心中天網島同(享保五)年十二月六日 【1-070 5.12.6】
同上 〔寛〕
文太夫又出座。
津国夫婦池享保六年辛丑二月十七日 【1-071 6.2.17
同上 〔寛〕
千畳敷出語、大和太夫、ツレ国太夫、三絃友二郎。
女殺油地獄同(享保六)年七月十五日 閏七月有 【1-071 6.7.15
同上 〔寛〕
信州川中島合戦同(享保六)年八月三日 【1-071 6.8.3
同上 〔寛〕
山すだれヲはりぬきの本山ニ作リ初ム。
唐土噺今国性爺 (〔寛〕は「土」を「船」)享保七年壬寅正月二日 【1-072 7.1.2
同上 〔寛〕
式太夫出座。
浦島年代記同(享保七)年三月三日 【1-072 7.3.3
二度目 〔寛〕
心中宵庚申同(享保七)年四月廿二日 【1-073 7.4.22
同上 〔寛〕
妓王妓女仏御前扇軍同(享保七)年九月朔日 【1-074 7.9.1
作者 松田和吉 〔寛〕
当冬茂太夫退座。 (〔寛〕には「当冬」の二字なし)
大塔宮曦鎧享保八年癸卯二月十七日 【1-075 8.2.7
作者 竹田出雲・松田和吉 〔寛〕
お吉空月桜町昔名花同(享保八)年十一月廿四日 【1-076 8.11.24
将軍太郎良門出羽冠者頼平関八州繋馬享保九年甲辰正月十五日 四月ニ閏有 【1-077 9.1.15 】 
作者 近松門左衛門 〔寛〕
当三月廿一日、大坂中大火芝居類焼故、四月八日より仮芝居にて、酒呑童子・持統天皇・相模入道、十日替に相勤むる。 【1-077 9.4.8
三国志大全諸葛孔明鼎軍談同(享保九)年七月十五日 【1-078 9.7.15
作者 竹田出雲 〔寛〕
右大将鎌倉実記同(享保九)年十一月四日 【1-079 9.11.4
同上 〔寛〕
当十一月廿二日、近松門左衛門死す。
出世奴稚物語 (〔寛〕は「奴」を「握虎」)享保十年乙巳五月九日 【1-080 10.5.9
同上 〔寛〕
和泉太夫退座。
復鳥羽恋塚同(享保十)年六月十五日 【1-080 10.6.15
喜太夫出座。
大内裏大友真鳥同(享保十)年九月十八日 【1-080 10.9.18 】 
作者 竹田出雲 〔寛〕
此節、政太夫・大和太夫・文太夫・式太夫・喜太夫等相勤ム。
翌年午六月より南都へ行、大友真鳥・河内通・鎌倉実記。 【1-082 享保11.6 
伊勢平氏年々鑑享保十一年丙午九月十三日(十一日 〔寛〕) 【1-082 11.9.13
同上 〔寛〕
道行出がたり、政太夫・大和太夫、三絃友二郎。
敵討御未刻の太鼓享保十二年丁未正月十五日 正月ニ閏有 【1-0863 12.1.15
同上 〔寛〕
前浄るり、鼎軍談。
小野炭焼深草土器師七小町同(享保十二)年四月十八日 【1-084 12.4.18
同上 〔寛〕
三荘太夫五人嬢同(享保十二)年八月朔日 【1-084 12.8.1
作者 竹田出雲 〔寛〕
工藤左衛門富士日記享保十三年戊申三月廿二日 【1-085 13.3.22
同上 〔寛〕
加賀国篠原合戦同(享保十三)年五月廿三日 【1-086 13.5.23
同上 〔寛〕
初テ正面の床ヲ横へ直ス。
尼御台由比浜出享保十四年己酉二月十五日 【1-087 14.2.15
大塔宮曦鎧[新板大塔宮] 二度目同(享保十四)年六月十八日 【1-087 14.6.18
眉間尺象貢同(享保十四)年八月朔日 【1-087 14.8.1
作者 竹田出雲・長谷川千四 〔寛〕
当九十月京都へ行。大友真酉・三荘太夫。 【1-088 享保14.9以後 
京土産名所井筒同(享保十四)年十一月廿五日【1-088 14.11.24 】
作者 長谷川千四 〔寛〕
三浦大助紅梅靮享保十五年庚戌二月十五日 【1-089 15.2.15
作者 長谷川千四・文耕堂 〔寛〕
信州姨捨山同(享保十五)年八月朔日 【1-090 15.8.1
同上 〔寛〕
須磨都源平躑躅同(享保十五)年十一月十五日 【1-090 15.11.4】
同上 〔寛〕
国性爺合戦 三度目享保十六年辛亥五月五日 【1-091 15.5.4】
天満贔屓組より、芝居の表ニ初テ幟ヲ立る。
鬼一法眼三略巻同(享保十六)年九月十三日 【1-092 16.9.12】
同上 〔寛〕
増補用明天王[職人鑑]享保十七年壬子四月朔日 【1-094 17.4.1
二度目 〔寛〕
鐘入出語、政太夫、三絃友二郎、出遣人形桐竹三右衛門。
伊達染手綱 二度目 (〔寛〕には「二度目」なし)同(享保十七)年六月八日 【1-095 17.6.8
作者 近松門左衛門 〔寛〕
前浄るり、信大[田]小太郎。
壇浦兜軍記同(享保十七)年九月九日 【1-095 17.9.9
作者 文耕堂・長谷川千四 〔寛〕
大内裏大友真鳥 二度目享保十八年癸丑二月朔日 【1-097 18.2.1
当三月十二日大和太夫死す。
太平記住吉巻車還合戦桜同(享保十八)年四月八日 【1-097 18.4.8
作者 文耕堂 〔寛〕
和泉太夫又出座。
今度、大盛彦七人形ニゆびさきの動事を仕初ム。
当六月卅日芝居類火、仮家芝居ニて景事揃。 【1-097 享保18.6.30】夫より上京、鬼一法眼・国性爺。 【1-097 18.7.上】
椀久松山元日金年越同(享保十八)年十一月十五日 【1-105 20.1 推定】
同上 〔寛〕
七太夫出座。
応神天皇八白幡享保十九年甲寅二月朔日 【1-099 19.2.1
政太夫義太夫と名ヲ改ム。
河内通同(享保十九)年六月八日 【1-101 19.6.8 】 
二度目 〔寛〕
蘆屋道満大内鑑同(享保十九)年十月五日 来卯年三月閏有 【1-103 19.10.5 】 
作者 竹田出雲 〔寛〕
三輪太夫出座。内匠太夫ト名改ム。
此節、義太夫・式太夫・和泉太夫・喜太夫・七太夫・常太夫等勤ム。今度与勘平より人形の腹ふくるゝ様ニ仕初ル。
当秋京へ行。大内鑑。 【1-104 秋 不審】
甲賀三郎窟物語享保廿年乙卯九月十四日 【1-106 20.9.14
作者 竹田出雲・文耕堂 〔寛〕
赤松円心緑陣幕享保廿一年丙辰二月朔日 【1-107 21.2.1】 
作者 文耕同・三好松洛 〔寛〕
受領の祝儀ニ、進物ヲ芝居の表ニ餝リ初ム。享保廿年乙卯十一月義太夫事勅許受領。竹本上総少掾藤原喜教。祝儀出語、天神記冥加松。()三絃鶴澤友二郎。
敵討襤褸錦同(享保廿一)年五月十二日 【1-108 21.5.12】
作者 文耕堂・三好松洛 〔寛〕
前浄るり、四季十二段[十二段長生島台]。出語和泉太夫。三ミせん友二郎。
猿丸太夫鹿巻毫同(享保廿一)年十月十三日 【1-109 21.10.13】
同上 〔寛〕
御所桜堀川夜討元文二年丁巳正月廿八日 【1-110 2.1.28】 
同上 〔寛〕
上総掾播磨少掾ニ変名す。
太政入道兵庫岬同(元文二)年十月十日 十一月ニ閏有 【1-111 2.10.10】 
作者 竹田出雲・竹田正蔵 〔寛〕
美濃太夫出座、合羽伊太夫事。
行平磯馴松元文三年戊午正月廿五日 【1-113 3.1.25】 
作者 文耕堂・三好松洛 〔寛〕
此節和泉太夫死す。
小栗判官車街道同(元文三)年八月十九日 【1-115 3.8.19】 
作者 千前軒・文耕堂 〔寛〕
濃太夫事此太夫ト名ヲ改ム。
ひらかな盛衰記元文四年己未四月十一日 【1-118 4.4.11】 
島太夫初て出座。
今川本領猫魔館元文五年庚申四月十一日 【1-122 5.4.11】
作者 文耕堂・千前軒 〔寛〕
将門冠合戦同(元文五)年七月朔日 七月閏有 【1-123 5.7.1】
同上 〔寛〕
百日曽我同(元文五)年十一月十一日 【1-124 5.11.11】
二度目 〔寛〕
恋八卦柱暦*同(元文五)年十一月十一日 【1-124 5.11.11】
近松門左衛門十七回忌追善。
伊豆院宣源氏鑑元文六月壬酉正月十四日 【1-127 6.1.14】
同上 〔寛〕
百合太夫・紋太夫初て出座。
新うす雪物語寛保元年酉五月十六日 【1-129 1.5.16】
作者 文耕堂・竹田小出雲 〔寛〕
此節、出勤之衆、此太夫・島太夫・百合太夫。 
当冬、七太夫江戸へ行。播磨掾・内匠太夫・紋太夫・七太夫、三味線鶴澤友二郎相勤むる。
花衣いろは縁起寛保二年壬戌二月十四日 【1-135 2.2.14】
去冬内匠太夫退座。
室町千畳敷 夫婦池也二度目(寛保二年)四月十七日 【1-138 2.4.17】
出語太夫此太夫、ツレ島太夫、三絃友二郎。
男作五雁金同(寛保二)年七月二日 【1-138 2.7.2】
作者 竹田出雲 〔寛〕
当冬、河内太夫事駿河太夫出座、追付死す。
入鹿大臣皇都諍寛保三年癸亥四月六日 四月閏有 1-144 3.4.6
丹州爺打栗同(寛保三)年五月十八日 【1-144 3.5.18】
作者 竹田小出雲・三好松洛 〔寛〕
大内裏大友真鳥 三度目同(寛保三)年十月廿五日 【1-146 3.10.25】 
政太夫初テ出座 ざこば重兵衛事。
児源氏道中軍記延享元年甲子三月六日 【1-148 1.3.6】 
同上 〔寛〕
当七月廿五日播磨掾死す。行年五十四才。 【1-155】
ひらかな盛衰記 二度目同(延享元)年十一月十六日 【1-151 1.11.16】
錦太夫出座。和佐太夫事杣太夫出座。
切 播磨掾追善八曲筐掛絵*同(延享元)年十一月十六日 【1-151 1.11.16】 
出語、此太夫・政太夫・百合太夫・杣太夫・島太夫・錦太夫・紋太夫・其太夫。三絃鶴澤友二郎・同平五郎。
軍法富士見西行延享二年乙丑二月十三日 【1-156 2.2.13】 
作者 並木千柳・竹田小出雲 〔寛〕
夏祭浪花鑑同(延享二)年七月十六日 十月閏有 【1-159 2.7.16】 
同上 〔寛〕
今度、人形ニ帷子衣裳を着せ初む。
楠昔噺延享三年丙寅正月十四日 【1-167 3.1.14】
作者 並木千柳・竹田[小]出雲 〔寛〕
前 播磨掾三回忌追善仏御前扇軍同(延享三)年五月四日 初日法楽 【1-170 3.5.4】
    ※註 仏御前扇車(四七七)番附には「追善佛御前」とあり、切も「追善重井筒」となつてゐる。それ/\「仏御前扇車」「心中重井筒」の改題。
二度目 〔寛〕
切 筑後掾卅三年忌心中重井筒*(延享三年五月四日) 【1-170 3.5.4】
同出語太夫此太夫。ツレ政太夫。三ミせん友二郎。人形出遣ひ、吉田文三郎・山本伊平治。
菅原伝授手習鑑同(延享三)年八月廿一日 【1-173 3.8.21】 
傾城枕軍談延享四年丁卯八月廿三日 【1-185 4.8.23】 
作者 並木千柳・竹田出雲 〔寛〕
文字太夫・信の太夫出座。紋太夫退座。
義経千本桜同(延享四)年十一月十六日 【1-187 4.11.16】 
作者 並木千柳・竹田出雲 〔寛〕
仮名手本忠臣蔵寛延元年戊辰八月十四日 【1-193 1.8.14】 
同上 〔寛〕
当十月此太夫・島太夫・百合太夫・友太夫退座。
    ※註 当十月此太夫等退座(四七八)忠臣藏上場に際して、吉田文三郎と演出上の意見の衝突から、竹本此太夫は一党を率ゐて退座、豊竹座へ移つた。この太夫の移動については「浄瑠璃譜」参照。
蘆屋道満大内鑑 二度目同(寛延元)年十一月廿二日 十月閏有 【1-197 1.11.22】 
当冬、大隅掾再勤、内匠太夫事。 【1-199】
千賀太夫・長門太夫・土佐太夫出座。古参政太夫・錦太夫・佐野太夫・上総太夫又出座。文字太夫退座。
粟島譜嫁入雛形寛延二年己巳四月十八日 【1-201 2.4.18】 
同上 〔寛〕
切、出語太夫大隅掾、ツレ千賀太夫、サミせン友二郎。
双蝶々曲輪日記同(寛延二)年七月廿四日 【1-206 2.7.24】 
同上 〔寛〕
当夏、三味せン鶴澤友二郎死す。 【1-210 2.7.24】
源平布引滝同(寛延二)年十一月廿八日 【1-209 2.11.28】 
同上 〔寛〕
当冬上総太夫死す。
国性爺合戦 四度目寛延三年庚午七月十六日 【1-212 3.7.16】 
九仙山、大隅掾、ワキ千賀太夫、三絃野澤喜八郎。
文武世継梅同(寛延三)年十一月廿四日 【1-215 3.11.24】 
同上 〔寛〕
今ノ紋太夫初テ出座。
恋女房染分手綱寛延四年辛未二月朔日 六月閏有 【1-218 4.2.1】 
作者 吉田冠子・三好松洛 〔寛〕
道成寺所作事。盆より切ニ操踊。人形、シテ吉田文三郎・ワキ同甚五郎。大皷吉田才治。小皷桐竹門三郎・笛吉田彦三郎。大皷桐竹助三郎。
役行者大峯桜同(寛延四)年十月十七日 【1-225 4.10.17】 
作者 竹田外記 〔寛〕
大隅掾大和掾ニ変名す。
名筆傾城鑑宝暦二年壬申三月廿三日 【1-229 2.3.23】
作者 吉田冠子・三好松洛 〔寛〕
世話言漢楚軍談同(宝暦二)年五月十八日 【1-230 2.5.18】
作者 竹田外記 〔寛〕
敵討襤褸錦 二度目同(宝暦二)年七月十六日 【1-231 2.7.16】
前 浄るり 川中島三段目迄。
伊達錦五十四郡同(宝暦二)年十一月十六日 【1-232 2.11.16】
同上(作者 竹田外記) 〔寛〕
春太夫・陸奥太夫出座。
愛護稚名歌勝鬨宝暦三年癸酉五月五日 【1-236 3.5.5】 
政太夫・錦太夫京都行。組太夫・折太夫初出座。
菖蒲前操弦宝暦四年甲戌二月三日 二月閏有 【1-241 4.2.3】
作者 竹田出雲・三好松洛 〔寛〕
大和掾上京、陸奥太夫退座、信の太夫又出座。
小袖組貫練門平同(宝暦四)年四月十七日 【1-243 4.4.17】
新うす雪物語 二度目同(宝暦四)年七月十六日 【1-244 4.7.16】
信濃太夫退座。
小野道風青柳硯同(宝暦四)年十月三日 【1-247 4.10.3】 
作者 竹田出雲・三好松洛 〔寛〕
染太夫・家太夫初テ出座。
相模入道宝暦五年乙亥七月十六日 【1-253 5.7.16】
二度目 〔寛〕
庭凉操座舗*宝暦五年乙亥七月十六日 【1-253 5.7.16】
大和掾帰京。
拍子扇浄瑠璃合同(宝暦五)年十一月十六日 【1-255 5.11.16】
    ※註 拍子扇浄瑠璃合(四八二)「邦楽年表」によると、切になつて居り、前は「相模入道千匹犬」である。
年忘座鋪操*同(宝暦五)年十一月十六日 【1-255 5.11.16】
友太夫出座、桐太夫初出座。
崇徳院讃岐伝記宝暦六年丙子二月朔日 【1-258 6.2.1】 
錦太夫上京、森太夫・仲太夫出座。
鬼一法眼三略巻 二度目同(宝暦六)年六月朔日 【1-261 6.6.1】
播磨掾十三回忌追善
男作五雁金 二度目同(宝暦六)年八月二日 【1-264 6.8.1】
於曽根崎芝居。政太夫上京。 【1-263】
平惟茂凱陣紅葉同(宝暦六)年十月十五日 十一月閏有 【1-265 6.10.15】 
作者 竹田出雲・三好松洛 〔寛〕
千賀太夫出座。
姫小松子日の遊宝暦七年丁丑二月朔日 【1-271 7.2.1】
作者 吉田冠子・三好松洛 〔寛〕
政太夫京より帰。三絃、野澤喜八出座。
                                   』〔宝〕40ウ
     (〔宝〕には、以下の竹本座の記事なし。)
------▽〔明〕〔安〕〔寛〕▽---------
薩摩哥妓鑑同(宝暦七)年九月卅日 【1-277 7.9.30】
大和掾上京、百合太夫再勤。当時出勤の衆、政太夫・錦太夫・千賀太夫・染太夫・百合太夫・紋太夫・中太夫・嶋太夫等也。
昔男春日野小町同(宝暦七)年十二月十五日 【1-281 7.12.15】
作者 竹田出雲・同瀧彦 〔寛〕
春太夫京より帰ル。
敵討崇禅寺馬場宝暦八戊寅年三月十三日 【1-284 8.3.13】
作者 竹田小出雲・同瀧彦 〔寛〕
菅原伝授手習鑑 二度目同(宝暦八)年五月十五日 【1-285 8.5.15】
曽根崎ニて一ヶ月勤め、七月十五日より道頓堀へ帰り盆中勤ル。 【1-285 8.7.15】
蛭小島武勇問答同(宝暦八)年八月十九日 【1-286 8.8.19】
作者 竹田小出雲・同瀧彦 〔寛〕
大和掾京都より帰ル。
日高川入相花王宝暦九己卯年二月朔日 【1-289 9.2.1】 
作者 竹田小出雲・二歩堂 〔寛〕
大和掾・吉田文三郎休。
当五月四日芝居類焼せしゆへ、仮屋芝居にて右日高川四段目迄切ニ、
用明天皇職人鑑【1-292 宝暦9.5.21】 
を一段、五月廿一日より、出語り 太夫政太夫、人形出遣ひ吉田文吾。当閏七月人形吉田文三郎・同文吾父子共退座。(※註 吉田文三郎父子退座(四八四)「倒冠雑誌」参照。)
太平記菊水の巻同(宝暦九)年九月十六日 【1-293 9.9.16】 
作者 二歩堂・三好松洛 〔寛〕
此節、大和掾又上京。音太夫・岬太夫初て出座。人形吉田文吾再勤。三郎兵衛と名を改む。
ひらかな盛衰記 二度目[誤] 〔寛〕三度目宝暦十庚辰年五月六日 【1-300 10.5.6】 
竹本播磨掾十七回忌。
極彩色娘扇同(宝暦十)年七月廿一日 【1-301 10.7.21】 
作者 二歩堂・三好松洛 〔寛〕
八木太夫初て出座。
国性爺[合戦]二段目迄同(宝暦十)年十一月廿八日より十日ノ間
年忘座鋪操*同(宝暦十)年十一月廿八日より十日ノ間 【1-303 10.11.28】
曽根崎芝居にて、太夫不残、大和掾・錦太夫・染太夫・音太夫・八木太夫出かたり。政太夫・其太夫・中太夫・岬太夫。
安倍晴明倭言葉宝暦十一辛巳年正月廿日 【1-307 11.1.20】
三絃野澤喜八。紋太夫・綱太夫等出座。
由良湊千軒長者同(宝暦十一)年五月十六日 【1-310 11.5.16】
作者 二歩堂・三好松洛 〔寛〕
錦太夫休。
当九月、堺へ行。ひらかな盛衰記卅日の間。 【1-313 11.9】
冬籠難波梅同(宝暦十一)年十月廿一日 【1-313 11.10.21】 
人形顔見世夜芝居、十日の間相つとむ。吉田三郎兵衛改名、文三郎と云。江戸へ行暇乞出遣ひ。
古戦場鐘懸の松同(宝暦十一)年十一月廿日 【1-314 11.11.20】 
作者 二歩堂・三好松洛 〔寛〕
志賀太夫・喜太夫出座、紋太夫・中太夫退座。
恋女房染分手綱 二度目宝暦十二年午七月二日 【1-322 12.7.2】
政太夫上京、百合太夫死去ス。
奥州安達原同(宝暦十二)年九月十日 【1-325 12.9.10】 
政太夫帰京。
仮名手本忠臣蔵 二度め同(宝暦十三)年未正月十八日 【1-329 13.1.18】
当正月九日、竹田芝居類焼ニ付、竹本座へ相加り、浄るり・あやつり・竹田からくり狂言打込、七[一]切追出し、拾文つゝいたし候。
初日山城国畜生塚同(宝暦十三)年四月十三日 【1-331 13.4.13】 
作者 近松半二・竹本三郎兵衛 〔寛〕
生駒太夫出座、浜太夫退座。
後日天竺徳兵衛郷鏡*同(宝暦十三)年四月十三日 【1-331 13.4.13】 
磯太夫出座。前後一日替り。
諸葛孔明鼎軍談同(宝暦十三)年八月三日 【1-335 13.8.3】 
二段目迄
中太夫退座。
御前懸り浄瑠璃相撲*同(宝暦十三)年八月三日 【1-335 13.8.3】 
    ※註 御前懸り浄瑠璃相撲(四八七)「浄瑠璃譜」参照。
大和掾一世一代、三味せん喜八。
九月十八日切ニ而堺へ行。
御所桜堀川夜討同(宝暦十三)年未十二月九日 【1-339 13.12.9】
極月十八日切、当申年座中江戸表へ行。
京羽二重娘形気同(宝暦)十四年申五月廿八日 【1-352 14.5.28】
作者 近松半二・竹本三郎兵衛 〔寛〕
京都新作。尤、京座中大坂へ引相勤。 〔明〕〔安〕
岡太夫初而出座。
敵討稚物語 〔寛〕同(宝暦十四)年七月十五日 【1-353 14.7.15】
江戸桜愛敬曽我同(宝暦十四)年十一月十七日 【1-357 1.11.17】 
江戸表より帰。夜五日昼十日之間相勤。
仮名手本忠臣蔵 三度目同(宝暦十四年)閏十二月廿五日 【1-359 1.u12.25】 
蘭奢待新田景図明和二年酉二月九日 【1-362 2.2.9】 
作者 近松半二・竹本三郎兵衛 〔寛〕
春太夫京へ行。
愛護稚名歌勝鬨 二度目同(明和二)年五月六日 【1-364 2.5.6】
春太夫京より帰。
御祭礼棚閣車操同(明和二)年六月十五日 【1-365 2.6.中旬】 
当七月十日、竹本政太夫死去。 【1-369】
姻袖鏡同(明和二)年九月十二日 【1-367 2.9.12】
作者 近松半二・竹本三郎兵へ 〔寛〕
中太夫出座。
会狂言役者双六同(明和二)年十一月五日 【1-368 2.11.5】
鐘太夫出座、錦太夫退座。
霜月十八日ニて堺表へ行。 〔明〕〔安〕
富士日記菖蒲刀 〔寛〕【→1-364 2.5.17 京】
事始室早咲同(明和二)年十二月七日 【1-369 2.12.7】
堺より帰り、中太夫江戸へ行。
本朝廿四孝明和三年戌正月十四日 【1-371 3.1.14】 
作者 近松半二・竹本三郎兵へ 〔寛〕
嶋太夫出座、若太夫事。
児源氏 二段目迄同(明和三)年五月十九日 【1-372 3.5.19】
和田合戦 三段目迄*同(明和三)年五月十九日 【1-372 3.5.19】
小夜中山鐘由来同(明和三)年七月十八日 【1-372 3.7.18】 
組太夫出座。
太平記忠臣講訳[釈]同(明和三)年十月十六日 【1-375 3.10.16】 
作者 近松半二・竹本三郎兵衛 〔寛〕
四天王寺稚木像同(明和四)年亥五月五日 【1-380 4.5.6】
夏祭浪花鑑 二度目同(明和四)年六月十二日 【1-381 4.6.吉】
花軍寿永春同(明和四)年八月四日 【1-382 4.8.吉】
関取千両幟*同(明和四)年八月四日 【1-382 4.8.吉】
作者 近松半二・竹本三郎兵衛 〔寛〕
堺へ行。京都へ行。
石川五右衛門一代噺同(明和四)年十月十四日 【1-384 4.10.14】 
同上(作者 近松半二・竹本三郎兵衛) 〔寛〕
京都太夫不残下り相勤。
泉州小田居茶屋摂州殿下茶屋三日太平記同(明和四)年十二月十四日 【1-386 4.12.14】 
同上(作者 近松半二・竹本三郎兵衛) 〔寛〕
木々太夫・の太夫出座。
中太夫江戸より帰、政太夫と改名メ。
                                   』〔明・安〕46ウ
     (〔宝〕〔明〕には以下の竹本座の記事なし)
------▽〔安〕〔寛〕▽----------
傾城阿波の鳴門明和五子年六月朔日 【1-393 5.6.1】
名代 近松門左衛門
此節、島太夫竹本ニて出勤。鐘太夫・染太夫・君太夫・綱太夫等也。
きのふのお初けふの徳兵衛よみ売三巴同(明和五)年七月朔日 【1-394 5.7.1】
作者 近松半二・竹本三郎兵衛 〔寛〕
初櫓操目録同(明和五)年九月十四日 【1-397 5.9.14】
殿造千丈嶽明和六丑年八月朔日 【1-404 6.8.1】
同上 〔寛〕
竹本豊竹打込ニて、座本豊竹万三。
近江源氏先陣館同(明和六)年十二月九日 【1-405 6.12.9】
同上(作者近松半二・竹本三郎兵衛) 〔寛〕
再興、座本竹田新松。
近江源氏太平頭鍪飾明和七年寅年五月廿二日 【1-410 7.5.22】
同六月十六日切ニ相止ム。本不出。
廓の名ハ陸奥国の名ハ長門萩大名傾城敵討同(明和七)年八月十六日 【1-414 7.8.16】
敵討襤褸錦 上中下同(明和七)年九月廿一日【1-416 7.9.21 】
用明天皇鐘入之段*同(明和七)年九月廿一日【1-416 7.9.21 】
出かたり竹本鐘太夫・ツレ染太夫・文太夫・三絃鶴澤文蔵。人形吉田才二。
切ニ穴意探
おどけ上るり。 近松門左衛門・鶴澤友二郎・竹本筑後・竹本播磨、冥途ニて当時しやばの太夫三絃操方惣芸者の評 よみ本出来。 〔安〕
忠臣蔵武士鑑忠臣講釈通失[矢]数四十七本 〔寛〕【1-417 7.10.3】
椀久松山由縁の十徳同(明和七)年十一月十五日 【1-418 7.11.15】
此節、吉田文三郎江戸より登り、故人文三郎十三回忌追善出遣ひ所作事。
切ニ神霊矢口渡*同(明和七)年十一月十五日 【1-418 7.11.15】
此節、竹本春太夫スケニ出ル。但シ忠臣講尺道行。
十三鐘絹懸柳妹背山婦女庭訓明和八卯年正月廿八日 【1-423 8.1.28】
此節、春太夫・染太夫・綱太夫・咲太夫・筆太夫・三根太夫・梶太夫等也。
今年四月下旬より、大坂表おかげ参り(※註 おかげ参り(四九四)ぬけ参り。路金を持たず沿道の人々の庇護により伊勢参宮をすること。江戸時代に宝永・明和・文政と約六十年目毎に突発的に起つた流行で、明和八年の時は春頃丹後国から始り忽ちの内に京・大阪に伝播し何十万といふ人間が繰出したといはれてゐる。)はやり候ニ付、あやつりニ取組、出かたり出遣ひ也。其外題左ニ、
艶祝詞太々神楽同(明和八)年五月 【1-424 8.5.】
本不出。
色為替曲輪之通同(明和八)年七月 【1-425 8.7.18】
外題斗、本不出。
彦三古今朝迎三途雲同(明和八)年八月十一日 【1-426 8.8.11】
本不出。
亭主方東山殿上客一休禅師桜御殿五十三駅同(明和八)年十二月廿九日 【1-429 8.12.29】
座本 竹田栄蔵
此節、竹本大隅十七回忌、政太夫十三回忌追善として、切ニ古上るり、毎日取かへ十日ヶ間相つとむ。
大切ニおどけ上るり
雷太郎君代言葉*同(明和八)年十二月廿九日 【1-429 8.12.29】
麓太夫出座。
躾方武士鑑明和九辰年四月廿八日 【1-438 9.4.28】
とりあへず見取浄瑠利同(明和九)年八月朔日 【1-442 9.8.1】
刀屋半七[色+里]初花安永二巳年正月九日 【1-447 [2.1.9]】
達模様愛敬曽我*安永二巳年正月九日 【1-447 [2.1.9]】
座本 竹田氏吉。本不出。
小田角髪羽柴産髪島原千畳鋪同(安永二)年八月廿一日 【1-453 [2.8.21]】
本不出。
三十二相力双競同(安永二)年十一月五日 【1-453 2.11.5】
本不出。
性根競姉川頭巾安永三午年四月六日 【1-460 3.2.8】
作者 近松半二。 〔寛〕 座本 竹田縫之介
役者評判身振操同(安永三)年十一月六日 【1-466 3.11.6】
座本 近松半二。 古上るりよせもの。 本不出。
東海道七里艇梁安永四未年二月廿三日 【1-471 4.2.23】
座本 竹田義太夫。
塩飽七島稚陣取安永五申年九月廿三日 【1-494 5.9.23】
座本 竹田万二郎。
日本歌竹取物語安永六酉年二月朔日 【1-499 6.2.1】
座本 竹本染太夫 〔寛〕
     (〔安〕には以下の竹本座の記事なし)
                                   』〔安〕46ノ4ウ
------▽〔寛〕▽-------------
[雷電源八八十島鬼市]繁花地男鑑安永八年亥七月廿六日 【1-535 8.7.26】
座本 竹本義太夫。
立春姫小松安永九年子正月七日 【1-544 9.1.7】 
座本 竹本義太夫。
新板[版]歌祭文同(安永九)年九月廿八日 【1-552 9.9.28】
作者 近松半二。 座本 竹田新松。 太夫 竹本組太夫。
時代織室町錦繍天明元年丑二月廿四日 【1-569 1.2.24】
染太夫出座。 竹本義太夫座。
道具屋お亀同(天明)二年寅六月廿六日 【1-586 2.6.26】
竹本内匠太夫出座。
新うす雪物語同(天明)三年卯正月 【1-598 3.1.2】
加々見山旧錦絵同(天明)三年卯正月 【1-598 3.1.2】
座本 竹本太市。江戸、竹本住太夫出座。
伊賀越道中双六同(天明三)年四月廿四日 【1-604 3.4.27】
作者 近松半二。
此節、竹本染太夫・同住太夫・同男徳齋名太夫事・同鐘太夫・鶴澤文蔵・吉田才治・同冠蔵等出勤。
比良嶽雪見陣立同(天明)六年午六月五日 【1-623 6.6.5】
座本 竹本千太郎。
彦山権現誓助劔同(天明六)年[閏]十月十八日 【1-624 5.u10.18】
政太夫・麓太夫・内匠太夫。
安徳天皇兵器貢同(天明)七年未五月朔日 【1-628 7.5.1】
内匠太夫退座。三根太夫事竹本染太夫出座。
増補織合団七島同(天明七)年六月十八日 【1-629 7.6.18】
本不出。
鬼一法眼三略巻同(天明七)年八月九日 【1-60 7.8.9】
麓太夫退座。
最明寺殿由緒礎同(天明)八年申十二月廿五日 【1-640 8.12.25】
豊竹錦太夫出座。本不出。此節太夫、竹本政太夫・同弥太夫・同咲太夫・同内匠太夫・同中太夫・和太夫事同氏太夫。
浜真砂千町封疆寛政元酉九月廿三日 天明九改元 【2-012 1.9.23】
座本 竹本文治郎。 本不出。
此節、豊竹麓太夫・竹本梶太夫・竹本鐘太夫・豊竹駒太夫・竹本綱太夫・森太夫事竹本三根太夫・野澤吉兵衛勤。
故豊竹駒太夫十三回忌追善壇浦(兜軍記)琴責同(寛政元)年十月廿八日 【2-012】
出語、豊竹麓太夫・同駒太夫。
恋伝授文武陣立同(寛政)二年戌十一年十五日 【2-024 2.11.15】
座本 竹本徳松
此節、竹本政太夫・竹本内匠太夫・竹本頼太夫・竹本越太夫・
太平鳴戸の船諷寛政五年三月九日 【2-058 5.3.9】
横山郡領信行小栗判官兼氏照天姫操車【2-063 5.6カ】
作者 豊田新助
蝶花形名歌島台【2-064 5.7.15】
  
------▽〔宝〕〔明〕〔安〕〔寛〕▽---------
○当流豊竹越前少掾 初ハ若太夫と号す
大坂(〔宝〕のみ「大坂」他は「道頓堀」から始まる))道頓堀にて、芝居興行の始めハ元禄十二年の比成。井上宇治竹本等の先師達の浄瑠璃を語られたり。傾城懐内子、是新作の始め也。京都堺紀州南都等にても芝居を興行せられ、其後元禄十五壬午年より、道頓堀ニ而定芝居を勤らる。最初よりの新浄るり外題共を集む。
------▽〔宝〕▽---------------
 
     【〔宝〕41ウ2行目~44オ 末広十二段以下を別に示す
 
 
------▽〔明〕〔安〕〔寛〕▽-----------
東山殿子ノ日ノ遊元禄十二己卯年三月十一日 【1-058 正本不明】
宇治加賀掾古浄るり。
     (以下佐々木大鑑迄〔宝〕になし。)
源三位頼政同(元禄十二)年五月六日 【1-051 正徳4.9.10以前ヵ 推定】
右同断(宇治加賀掾古浄るり)
鎌倉袖日記 〔安〕〔寛〕
大職冠知略ノ玉取同(元禄十二)年七月十五日 【1-058 正本不明】
井上播磨掾古浄るり
傾城懐子 同(元禄十二)年八月廿八日 【1-026 元禄15 推定】 
新作
佐々木大鑑同(元禄十二)年十月十三日 【1-059 正本不明】
竹本筑後掾古物。
     (以下西行法師墨染桜迄〔宝〕に興行年月日なし)
末広十二段元禄十五壬午年五月廿八日 【1-058 正徳5顔見世 推定】
    ※註 末広十二段(五〇二)「邦楽年表」に、豊竹上野少掾の正本中、享保十六年九月以前の刊行と認められるもので年代不明の作が挙げてある。   末広十二段・新百人一首・新板兵庫の築島・殺生石・坂上田村麿・忠臣青砥石・富仁親王嵯峨錦・笠屋三勝廿五年忌・頼光跡目論・本朝五翠殿・袂の白しぼり・八幡太郎東初梅・傾城国性爺。
心中涙の玉の井*元禄十五壬午年五月廿八日 【1-028 元禄16.7 推定】 
    ※註 心中涙の玉の井(五〇二)「操年代記」の記事によつて元禄十六年五月の「曽根崎心中」より後の興行であると解釈され、内容的に両者を比べてみてもそのことが肯定される。「邦楽年表」は同年七月としてゐる。尚作者については黒木氏は未詳としてゐる。(「近松以後」)
作者 紀海音 〔寛〕
源氏烏帽子折 (〔宝〕になし)同(元禄十五)年八月朔日 【1-059 正本不明】
金屋金五郎浮名ノ額*同(元禄十五)年八月朔日 【1-028 元禄16 次の替り 推定】  
    ※註 金屋金五郎浮名額(五〇二)「心中涙の玉の井」の次の替りに出たとある(操年代記)ので、一年繰下げで、元禄十六年秋の興行と考へられる。
東岸居士同(元禄十五)年九月九日 【1-031 宝永1 推定】 
小野小町都年玉 〔寛〕 【1-049 正徳4.5.7以前 推定】
    ※註 小野小町都年玉(五〇二)本文中の銭相場から考察して正徳二年から四年の間の興行と推定される。(若月保治「古浄瑠璃の研究」延宝・享保篇一二六頁)
作者 紀海音 〔寛〕
新百人一首同(元禄十五)年十月十五日 【1-057 正徳5.秋頃 推定】
新板兵庫の築島 〔寛〕 (〔宝〕には「板」なし。) 元禄十六癸未年正月七日     〔寛〕) 【1-060 享保1推定】
作者 紀海音 〔寛〕
     (〔明〕〔安〕には)
兵庫ノ築島元禄十六癸未年正月七日 【1-060 享保1推定】
井筒屋源六恋ノ寒晒 *元禄十六癸未年正月七日 【→1-075】
今様殺生石同(元禄十六)年二月十五日 【1-092 享保16.9.30以前推定】
     (〔宝〕には「今様」の二字なし)
当春、泉州堺へ行。 ×
井筒屋源六恋寒晒 〔宝〕
坂上田村麿同(元禄十六)年五月五日 【1-074 享保6or7顔見世 推定】
今川青砥刀同(元禄十六)年七月十五日 【1-092 享保16.9.30以前推定】
     (〔寛〕は「今川了俊青砥刀」)
信田妻女占 同(元禄十六)年九月十一日 【1-048 正徳3 推定】
     (〔寛〕は「妻」を「森」)
熊谷三ツ子盃同(元禄十六)年十一月朔日 【1-059 正本不明】
     (〔宝〕は「盃」を「鑑」)
増補佐々木大鑑元禄十七甲申年正月二日【1-059 正本不明】
     (〔宝〕は「増補」を「新板」)
東大全 ×同(元禄十七)年二月十五日【1-059 正本不明】
八百屋お七哥祭文*同(元禄十七)年二月十五日 【1-059 正本不明】
    ※註 八百屋お七歌祭文(五〇四)正本がなく、叉当時豊竹座は退転してゐたので、この時の興行には疑問がある。(「近松以後」)
当四月宝永ト改元。 ×
いろはノ始千丈か滝宝永元甲申年六月朔日 【1-059 正本不明】
女長田皐桜同(宝永元)年七月廿日 【1-059 正本不明】
当秋、奈良へ行。 ×
傾城富士ヵ嶽同(宝永元)年十月廿一日 【1-059 正本不明】
美濃近江寐物語宝永二乙酉年正月二日 【1-059 正本不明】
     (〔宝〕は角書なし)
三井寺狂女同(宝永二)年二月十五日 【1-059 正本不明】【1-018 元禄11.1以前 推定】
     (〔宝〕は「新板」を附す)
泉州枕物語 ×同(宝永二)年四月八日 【1-059 正本不明】
傾城二河白道同(宝永二)年七月十五日 【1-059 正本不明】
曽我三部経 同(宝永二)年九月九日 【1-059 正本不明】
播州曽根松同(宝永二)年十一月廿八日 【1-059 正本不明】
傾城躑躅が岡宝永三丙戌年正月九日
作者 清水三郎兵衛 〔寛〕
紀三井寺開帳同(宝永三)年三月四日 【1-059 正本不明】
男色加茂侍*同(宝永三)年三月四日 【1-030 宝永1.11 推定 竹本座】
作者 錦文流。 これは筑後浄るり也。 〔寛〕
元服曽我 三段目迄 (〔宝〕には三段目迄なし)同(宝永三)年四月十二日 【1-059 正本不明】
切 弥市お高梅田心中*同(宝永三)年四月十二日 【1-055 正徳5.秋以前 推定】
曽根崎新地芝居にて。 ×
聖徳太子舎利都同(宝永三)年六月二日 【1-059 正本不明】
[聖徳太子]舎利都 三段目迄同(宝永三)年七月十六日 【1-059 正本不明】
傾城千日ノ鐘*同(宝永三)年七月十六日 【1-059 正本不明】
当秋より讃州より宮島へ行。 ×
増補富貴曽我 ×宝永四丁亥年正月二日
増補日向景清同(宝永四)年三月三日 【1-059 正本不明】
浄瑠璃古今序*同(宝永四)年三月三日 【1-092 享保16.9.30以前推定】
     (〔明〕〔安〕のみ、〔寛〕は浄瑠璃古今序を削除)
新日向景清 〔宝〕
今様女袖鑑同(宝永四)年五月五日 【1-059 正本不明】
増補女袖鑑 〔宝〕 
頼朝七騎落同(宝永四)年七月十六日 【1-059 正本不明】
三度目 〔寛〕
     (〔宝〕は「新板」を附す)
当秋、泉州堺より紀州へ行。 ×
身替問答同(宝永四)年十一月十八日 【1-059 正本不明】
     (〔宝〕は「新」を附す)
今様西行物語宝永五戊子年正月廿日 【1-059 正本不明】
新利屈物語同(宝永五)年三月三日 【1-059 正本不明】
椀久末の松山*同(宝永五)年三月三日 【1-040 宝永7.4.4以前】
秦始皇帝太夫松同(宝永五)年七月十五日 【1-059 正本不明】
三桝太夫恋慕湊同(宝永五)年十月十三日 【1-045 正徳1.10前後 推定】
藍染川 〔宝〕なし宝永六己丑年二月五日 【1-059 正本不明】
三段目 〔寛〕
敵討難波梅*宝永六己丑年二月五日 【1-059 正本不明】
冨仁親王嵯峨錦同(宝永六)年六月朔日【1-072 享保6 推定】
    ※註 富仁親王嵯峨錦(五〇八)享保改鋳の当込みらしい句があり、現存の正本が上野少掾(享保三年受領)のものである等の点から見て、享保六年頃とも考へられる。(同右[近松以後])
作者 紀海音 〔寛〕
嵯峨錦 三段目迄同(宝永六)年八月廿三日
笠屋三勝廿五年忌*同(宝永六)年八月廿三日 【1-067 享保4 推定】
赤染衛門栄花物語同(宝永六)年十月三日 【1-059 正本不明】
頼光新跡目論宝永七庚寅年正月二日 【1-066 享保4.8.1推定】
跡目論 三段目迄同(宝永七)年三月廿日 【1-066 享保4.8.1推定】
心中恋の中道*同(宝永七)年三月廿日
佐与ノ中山夜泣ノ石同(宝永七)年七月十四日 【1-059 正本不明】
夜泣石 三段目迄同(宝永七)年十月十六日 【1-059 正本不明】
椀久熊谷笠*同(宝永七)年十月十六日 【1-059 正本不明】
本朝五翠殿宝永八辛卯年正月廿日 【1-092 享保16.9.30以前推定】
浄瑠璃古今序 〔寛〕*宝永八辛卯年正月廿日 【1-092 享保16.9.30以前推定】
五翠殿 三段目迄同(宝永八)年四月八日 【1-092 享保16.9.30以前推定】
油屋お染袂の白絞*同(宝永八)年四月八日 【1-039 宝永7.なんば橋心中以前 推定】
作者 紀海音 〔寛〕
当夏、堺へ行。 ×
北国源氏金の山吹正徳元年辛卯九月九日 【1-059 正本不明】
平安城細石正徳二壬辰年正月十六日 【1-054 正徳5.春 推定】
藤戸ノ前陣 ×同(正徳二)年四月八日 【1-059 正本不明】
切 今宮心中丸腰連理松 *同(正徳二)年四月八日 【1-044 正徳1.夏 推定】
信の[濃]源氏 ×同(正徳二)年五月十七日
新艘太夫丸*同(正徳二)年五月十七日 【1-059 正本不明】
松浦五郎 ×同(正徳二)年七月十六日 【1-059 正本不明】
切 七枚起請五[吾]妻雛形*同(正徳二)年七月十六日 【1-059 正本不明】
八幡太郎東初桜     (〔寛〕は「桜」を「梅」)正徳三年癸巳二月朔日 【1-060 享保1.1推定】
作者 紀海音 〔寛〕
傾城国性爺同(正徳三)年五月六日 【1-061 享保2.春 推定】 
同上 〔寛〕
当秋、京都四条へ行。 ×
仁徳天王万歳車同(正徳三)年七月十五日 【1-057 正徳5.秋以前 推定】
同上 〔寛〕
播州曽根松同(正徳三)年十月十二日 【1-059 正本不明】
傾城三度笠*同(正徳三)年十月十二日 【1-056 正徳5.秋以前 推定】
同上 〔寛〕
曽根崎新地芝居ニテ。 ×
鬼鹿毛武蔵鐙     (〔寛〕は「武蔵」を「不佐志鐙」)同(正徳三)年十二月朔日 【1-041 宝永7 推定】
同上 〔寛〕
小敦盛花靱正徳四甲午年四月朔日 【1-059 正本不明】
当夏、泉州堺へ行。 ×
御前曽我姿ノ富士同(正徳四)年七月十五日 【1-056 正徳5.秋以前 推定】
愛護若塒箱同(正徳四)年十月朔日 【1-055 正徳5.秋以前 推定】
吉野忠信錦着長正徳五乙未年正月廿日 【1-059 正本不明】
吉野忠信 三段目迄同(正徳五)年五月五日 【1-059 正本不明】
傾城思升屋 ×*同(正徳五)年五月五日 【1-055 正徳5.秋以前 推定】
記録曽我玉笄曲     (〔寛〕は「曲」を「髷」)同(正徳五)年六月二日 【→1-075】
作者 戸川不鱗
天智天皇豊年ノ秋(〔宝〕は天智天皇豊歳秋)同(正徳五)年九月十日 〔明〕〔安〕〔寛〕 【1-054 5.9.10】
是は筑後浄るり也。 〔寛〕 
鎌倉尼将軍正徳六丙申年二月朔日 【1-047 2.7.26以前 推定】
当七月享保ト改元。 ×
花山院都巽享保元丙申年七月十六日 【1-056 正徳5.秋以前推定】
作者 紀海音 〔寛〕
当冬、奈良へ行。 ×
甲陽軍鑑今様粧     (〔寛〕は「今様」を「時世」)享保二丁酉年正月三日 【1-056 正徳5秋以前 推定】
同上 〔寛〕
西行法師墨染桜同(享保二)年五月二十二日 【1-054 正徳5.5.27以前 推定】
作者 錦文流 〔寛〕
照日前都姿同(享保二)年九月二十八日 【1-062 2.9.28】
                                   』〔明・安〕53オ
------▽〔宝〕〔明〕〔安〕〔寛〕▽---------
鎌倉三代記初日享保三戊戌正月二日 【1-060 享保1.1推定】  
作者 紀海音 〔寛〕
今年、太夫本上野少掾藤原重勝と受領す。此節ハ、喜世太夫・万太夫・文太夫等相勤むる。
傾城吉原雀同(享保三)年八月朔日 十月閏有 【1-064 3.8.1】
今様賢女手習鑑同(享保三)年十一月五日 【1-065 3.11.5】
義経新高館享保四年己亥正月廿日 【1-066 4.1.20】
作者 紀海音 〔寛〕
神功皇后三韓襲同(享保四)年五月十五日 【1-066 4.5.15 大・宝】
同上 〔寛〕
当秋、泉州堺へ行。
業平昔物語同(享保四)年十月朔日 【1-067 4.10.1
同上 〔寛〕
鎮西八郎唐士船享保五年庚寅正月二日 【1-069 5.1.2
同上 〔寛〕
冨仁親王嵯峨錦 二度目同(享保五)年六月三日 【1-072 享保6 推定】
日本傾城始同(享保五)年九月廿一日 【1-069 5.9.21 
同上 〔寛〕
山桝太夫葭原雀 【1-065 享保3.11以前】 〔安〕〔寛〕
同上
三輪丹前能享保六年辛丑正月廿日 【1-071 6.1.20
同上 〔寛〕
伏見常盤昔物語同(享保六)年五月十六日 七月閏有 【1-071 6.5.16 正本未見】
呉越軍談比翼台 同(享保六)年九月十一日 【1-071 6.u7.5 絵尽】
作者 紀海音 〔寛〕
大友王子玉座靴享保七年壬寅正月二日 【1-072 7.1.2
同上 〔寛〕
心中二ツ腹帯同(享保七)年四月六日 【1-073 7.4.22以前 推定】
同上 〔寛〕
当夏秋、堺より紀州へ行。
東山殿室町合戦同(享保七)年十一月朔日 【1-074 7.11.1
同上 〔寛〕
玄宗皇帝蓬莱鶴享保八年癸卯正月廿日 【1-075 8.1.20
作者 紀海音 〔寛〕
四段目出語太夫上野掾。
記禄[録]曽我同(享保八)年五月六日 【1-075 8.5.6
同上 〔寛〕
傾城無間鐘同(享保八)年七月十五日 【1-076 8.7.15
同上 〔寛〕
井筒屋源六恋寒晒 〔寛〕 【1-075 享保8.7.6 推定】
作者 西沢一風・田中千柳
日本五山建仁寺供養同(享保八)年十一月三日 【1-076 8.11.3 】 
同上 〔寛〕
内匠事三輪太夫初て出座。
頼政追善芝享保九年甲辰二月朔日 四月閏有 【1-077 9.2.1 】 
同上 〔寛〕
此節、源太夫・喜世太夫・佐内等勤ム。
当三月廿一日、大阪中大火。芝居も類焼ニ付、四月廿三日より堺の芝居にて、建仁寺供養 【1-078 9.4.23】。夫より又曽根崎新地にて、六月廿三日より、建仁寺供養・頼政追善芝。 【1-078 9.6.23】此節、道頓堀今の芝居屋敷地を買求め、普請の間、秋中伊勢ニ立越、芝居相勤。九月下旬に大坂ニ立帰、新造の芝居にての外題。
女蝉丸享保九年甲辰十月十六日 【1-078 9.10.16/顔見世】  
同上 〔寛〕
切二昔米万石通享保十年乙巳正月二日 【1-080 10.1.2
同上 〔寛〕
前浄るり女蝉丸、三段目まて。
南北軍問答同(享保十)年三月三日 【1-080 10.3.3
同上 〔寛〕
身替弓張月【身替弫張月】同(享保十)年五月六日 【1-080 10.5.6 】 
同上 〔寛〕
和泉太夫・品太夫初テ出座。
大仏殿万代礎同(享保十)年十月二日  【1-081 10.10.2
文耕堂 〔寛〕
当冬京都ニ行、鎌倉三代記。 【1-081 10.冬
曽我錦几帳享保十一年丙午二月朔日 【1-082 11.2.1
作者 安田蛙文 〔寛〕
新太夫初テ出座。
北条時頼記享保十一年丙午四月八日 【1-082 11.4.8 】  
作者 西沢一風・田中千柳 〔寛〕
来未正月閏有。
切二雪の段
太夫上野掾、ワキ和泉太夫。三絃野澤喜八郎。出遣ひ人形藤井小三郎・近本九八郎・中村彦三郎。此節、喜世太夫・品太夫・三輪太夫等相つとむ。
作者 西沢一風・並木宗助・安田蛙文
清和源氏十五段享保十二年丁未二月十五日 【1-084 12.2.15 】 
作者 並木宗助・安田蛙文 〔寛〕
四段目摂待、太夫・ワキ・三絃右ニ同。ツレ品太夫。
摂津国長柄人柱同(享保十二)年八月十五日 【1-84 12.8.15 】 
同上 〔寛〕
切二芦苅
出語 太夫上野掾、出遣ひ人形藤井小三郎。ワキ和泉太夫。三ミせん野澤喜八郎。
尊氏将軍二代鑑享保十三年戊申二月朔日 【1-085 13.4.8 補】 
同上 〔寛〕
南都十三鐘同(享保十三)年五月十五日 【1-085 13.5.15 】 
同上 〔寛〕
当秋冬奈良ニ行。清和源氏・時頼記・長柄人柱。 【1-086 13.秋以降 
後三年奥州軍記享保十四年己酉正月二日 【1-087 14.1.2 】 
同上 〔寛〕
藤原秀郷俵系図同(享保十四)年九月十日 九月閏有 【1-088 14.9.10 】 
同上 〔寛〕
切ニ出語。太夫上野掾、ワキ和泉太夫。三ミせん竹澤藤四郎。
蒲冠者藤戸合戦享保十五年庚戌正月廿日 【1-089 15.1.20 】 
作者 並木宗助・安田蛙文 〔寛〕
切二出かたり。 右(藤原秀郷俵系図)ニ同。
本朝檀特山同(享保十五)年五月六日 【1-089 15.5.6 】 
作者 西沢一風・田中千柳 〔寛〕
切ニ出かたり。 右ニ同。
楠正成軍法実録同(享保十五)年八月朔日 【1-090 15.8.1 】 
作者 並木宗助・安田蛙文 〔寛〕
和田七人形ニ目のはたらく事を仕初る。
源家七代集享保十六年辛亥正月二日 【1-091 16.1.2
同上 〔寛〕
切二女丹前出語。太夫上野掾、ワキ和泉太夫。三絃竹澤藤四郎。
和泉国浮名溜池同(享保十六)年四月二日 【1-091 16.4.2 】 
同上 〔寛〕
酒呑童子枕言葉同(享保十六)年六月朔日 【1-091 16.6.1 】 
間の物出語。 太夫左近、ワキ右近。三ミせん野澤文次郎。
赤沢山伊東伝記同(享保十六)年十月十六日 【1-093 16.10.16 】 
同上 〔寛〕
今度、天満橋三右衛門と云人初テ幟一本進上す。
当九月卅日太夫本勅許受領越前少掾藤原重泰。祝儀出語、蓬莱山。太夫越前掾、ワキ和泉太夫。三絃竹澤藤四郎。
八百屋お七恋緋桜 二度目享保十七年壬子正月廿日 【1-094 17.1.20 】 
鎌倉三代記 三段目迄*享保十七年壬子正月廿日
湊太夫初テ出座。
今様返魂香同(享保十七)年五月七日 五月閏有 【1-095 17.5.7
待賢門夜軍同(享保十七)年九月十日 【1-095 17.9.10
当冬、和泉太夫・三輪太夫退座。
吉野忠信 三段目迄享保十八年癸丑二月二日 【1-097 18.2.2
要太夫初テ出座ニ付、芝居の表ニ進物ヲ初テ餝ル。
お初天神記*享保十八年癸丑二月二日 【1-097 18.2.2 】 
観音廻り 出語。 太夫越前掾、ツレ湊太夫。出つかひ人形藤井小三郎、三絃竹澤藤四郎。
鎌倉比事青砥銭同(享保十八)年四月十五日 【1-097 18.4.15
作者 安田蛙文 〔寛〕
伊太夫出座。甘塩事。
莠伶人吾妻雛形同(享保十八)年七月十六日 【1-098 18.7.16
作者 並木宗助・同丈助 〔寛〕
切二忠臣金短冊同(享保十八)年十月朔日 【1-095 17.10】
品太夫、河内太夫ト変名す。
北条時頼記 二度目享保十九年甲寅正月二日 【1-099 19.1.2 】 
正面の床ヲ横床ニなす。
切雪の段 太夫越前掾、ワキ河内太夫。三絃竹澤藤四郎。出遣人形藤井小四郎・同小八郎・中村勘四郎。
曽我昔見台同(享保十九)年六月朔日 【1-101 19.6.1
作者 並木宗助・丈助 〔寛〕
新太夫江戸へ行。
那須与市西海硯同(享保十九)年八月十三日 【1-102 19.8.13 】 
同上 〔寛〕
当冬伊太夫退座。
南蛮鉄後藤目貫享保廿年乙卯二月七日 【1-105 20.2.7 】 
清和源氏十五段同(享保廿)年二月十二日 【1-105 20.2.12 】 
摂待。 太夫越前掾、ワキ河内太夫、ツレ湊太夫。
万屋助六二代衾[𧚓]同(享保廿)年五月六日 【1-105 20.5.6
作者 並木丈助 〔寛〕
苅萱桑門筑紫𨏍同(享保廿)年八月十五日 【1-105 20.8.15 】 
駒太夫初て出座。
和田合戦女舞鶴享保廿一年丙辰三月四日 【1-107 21.3.4】 
作者 並木宗助 〔寛〕
安部宗任松浦簦元文二年丁巳正月十五日 【1-110 2.1.15】
同上 〔寛〕
釜淵双級巴同(元文二)年七月廿一日 【1-110 2.7.21】 
同上 〔寛〕
和佐太夫初テ出座。綿武事
蝉丸同(元文二)年七月廿一日 十一月ニ閏有 【1-110 2.7.21】
二度目 〔寛〕
傾城無間鐘来午正月二日 【1-113 元文3.1.2】
二度目 〔寛〕
丹生山田青海劔元文三年戊午四月八日 【1-114 3.4.8】 
作者 並木宗助 〔寛〕
右の浄るり暫く相勤、芝居普請ニ付、五月六日より曽根崎新地にて、和田合戦と八百屋お七恋緋桜を勤めし内に 【1-114 3.5.6】
普請成就し、新造芝居にて、七月十五日より又丹生の山田を相勤む。 【1-114 3.7.15】
新宅祝儀出語。
太夫越前掾、ワキ湊太夫・駒太夫。三味せん竹澤藤四郎。
茜染野中隠井同(元文三)年十月八日 【1-116 3.10.8】 
作者 原田由良助 〔寛〕
鎮西八郎*同(元文三)年十月八日 【1-116 3.10.8】
要太夫死す。
奥州秀衡有鬠壻元文四年己未二月朔日 【1-118 4.2.1】
作者 並木宗助 〔寛〕
佐渡太夫出座。
建仁寺供養同(元文四)年五月六日 【1-119 4.5.6】
二度目 〔寛〕
湊太夫退座。
狭夜衣鴛鴦劔羽同(元文四)年八月十五日 【1-119 4.8.15】 
同上 〔寛〕
当冬、堺へ行。和田合戦女舞鶴。 【1-120 4.冬】
 鶊山姫捨松元文五年庚申二月六日 【1-120 5.2.6】 
同上 〔寛〕
佐渡太夫退座。
本田義[善]光日本鑑同(元文五)年四月十日 七月閏有 【1-121 5.4.10】 
杣太夫出座。
武烈天皇艤同(元文五)年九月十日  【1-123 5.9.10】 
作者 為永太郎兵衛 〔寛〕
文字太夫出座。
狭手彦の人形眉毛うごく事を仕初る。
本朝班女扇[本朝斑女䈉]元文六年辛酉三月四日 【1-128 1.3.4】
同上 〔寛〕
青梅択食盛 二ツ腹帯也 二度目同(寛保元)年五月廿一日 【1-130 1.5.21】
前 浄るり後三年 三段目迄*同(寛保元)年五月廿一日 【1-130 1.5.21】
作者 紀海音 〔寛〕
播州皿屋鋪同(寛保元)年七月十五日 【1-130 1.7.15】 
作者 為永太郎兵衛・浅田一鳥 〔寛〕
河内太夫、駿河太夫と変名す。
田村麿鈴鹿合戦同(寛保元)年九月十日 【1-131 1.9.10】 
作者 浅田一鳥・豊田正蔵 〔寛〕
内匠太夫再勤。
当冬より、太夫元越前少掾・駒太夫、江戸豊竹肥前掾芝居へ行。
百合稚高麗軍記寛保二年壬寅三月三日 【1-137 2.3.3】 
作者 為永太郎兵衛 〔寛〕
切二宮島八景*寛保二年壬寅三月三日 【1-137 2.3.3】
出語太夫内匠太夫、ツレ文字太夫。三絃野澤喜八郎。
道成寺現在鱗同(寛保二)年八月十一日 【1-139 2.8.11】
越前掾・駒太夫、江戸より帰り勤ム。
鎌倉大系図同(寛保二)年十月二日 【1-140 2.9.】
作者 為永太郎兵衛 〔寛〕
来亥春、南都ニ行。大系図。釜淵。駿河太夫退座。 【1-143 3.春】
風俗太平記寛保三年癸亥三月四日 四月閏有 【1-143 3.3.18】
同上 〔寛〕
久米仙人吉野桜同(寛保三)年八月朔日 【1-145 3.8.15】 
同上 〔寛〕
潤色江戸紫延享元年甲子四月二日 【1-149 1.4.5】 
同上 〔寛〕
柿本紀僧正旭車同(延享元)年九月十日 【1-150 1.9.11】 
同上 〔寛〕
道太夫・春太夫出座。和佐太夫・杣太夫退座。
遊君衣紋鑑同(延享元)年十二月二日 【1-152 1.12.1】
詩近江八景延享二年乙丑二月朔日 【1-157 2.2.27】
作者 浅田一鳥・為永太郎兵衛 〔寛〕
増補大仏殿万代礎同(延享二)年五月四日 【1-158 2.5.4】
二度目 〔寛〕
陸奥太夫出座。
浦島太郎倭物語同(延享二)年八月五日 十二月閏有 【1-161 2.8.5】
作者 浅田一鳥・為永太郎兵衛 〔寛〕
北条時頼記 三度目延享二年乙丑十一月三日 【1-162 2.11.3】
式三番三ヲ勤ム。 伊勢太夫初テ出座。
雪の段
出語。越前少掾ワキ内匠名改上野掾。三絃野澤喜八郎。太夫元一世一代六十五才、出遣人形藤井小八郎・同小三郎・若竹藤九郎。
酒呑童子出生記延享三年丙寅五月六日 【1-171 3.5.6】
作者 梁塵軒 〔寛〕
当秋、京行。越前掾一世一代、久米仙人吉野桜。
花筏巌流島/b>同(延享三)年十一月三日 【1-176 3.11.17】 
裙重紅梅服延享四年丁卯二月十三日 【1-181 4.2.5】 
作者 浅田一鳥・但見弥四郎 〔寛〕
上総太夫出座紋太夫事。
万戸将軍唐土日記同(延享四)年三月四日 (〔寛〕は廿二日) 【1-183 4.3.22】
同上 〔寛〕
鐘太夫初出座、上野文字太夫退座
悪源太平治合戦同(延享四)年七月十五日 【1-184 4.7.28】 
作者 浅田一鳥 〔寛〕
四段目ニ操踊を仕初る。人形方、豊松・若竹・藤井等。
容競出入湊延享五年戊辰正月二日 【1-190 5.1.5】
作者 並木丈助 浅田一鳥 〔寛〕
升太夫出座。陸奥太夫退座。
東鑑御狩巻同(延享五)年七月十五日 十月閏有 【1-192 1.7.15】 
同上 〔寛〕
当十月太夫元堺ニテ一世一代ヲ勤ム。東鑑ト悪源太。 【1-196 1.10.】
摂州渡辺橋供養寛延元年戊辰十一月十四日 【1-196 1.11.15】 
同上 〔寛〕
陸奥此太夫・島太夫・百合太夫・友太夫・阿曽太夫等出座也。
駒太夫江戸へ行。上総太夫・道太夫・元太夫・春太夫等ハ退座也。当冬床改リ、出勤の太夫此太夫・島太夫・伊勢太夫・桝太夫・百合太夫・鐘太夫・阿曽太夫・狩野太夫等也。
八重霞浪花浜荻寛延二年己巳三月廿六日 【1-200 2.3.26】 
橋供養 二段目迄*寛延二年己巳三月廿六日 【1-200 2.3.26】
花和讃新羅源氏同(寛延二)年七月十五日 【1-204 2.7.15】
前計リ替ル。
切ニ操大踊。いせ音頭、茶屋掛あんどう、雀踊の仕出し珍重。
右かしくの趣向ハ三月十八日十九日の事也。廿日ニ外題を出し五六日の間ニ出来。作者並木丈助及び惣役者中の働、前代未聞。
十帖源氏物ぐさ太郎同(寛延二)年十一月四日 【1-207 2.11.4】 
作者 浅田一鳥・浪花三蔵 〔寛〕
駒太夫江戸より帰り、伊勢太夫江戸へ行。八重太夫初て出座ス。
当九月廿三日、此太夫事勅許受領。筑前少掾藤原為政。祝儀ニ出語ヲ勤ム。
切二 かしく追善惣太夫出語 来午三月十八日より 【1-211 3.3.15】
梅川新七夏楓連理枕寛延三年庚午六月朔日 【1-211 3.6.1】 
同上 〔寛〕
和田合戦女舞鶴 二度目同(寛延三)年八月七日 【1-214 3.8.7】 
島太夫、若太夫[二代目]二名改。和歌八景出語。
玉藻前曦袂寛延四年辛未正月十五日 【1-218 4.1.14/15】 
作者 浪岡橘平・安田蛙文 〔寛〕
浪花文章夕霧塚同(寛延四)年四月廿五日 六月閏有 【1-220 4.4.25】 
同上 〔寛〕
頼政扇子芝 二度目同(寛延四)年七月十五日 【1-222 4.7.15】 
水操。切ニ踊。
日蓮上人御法海同(寛延四)年十月十日 【1-224 4.10.10】 
百合太夫退座。
一谷嫩軍記宝暦元年辛未十二月十一日 【1-226 1.12.11】 
作者 浅田一鳥・古人並木宗助 〔寛〕
並木宗輔名残作。来申の盆より切ニ踊。
此時出勤の衆、八重太夫時太夫ト名改、筑前掾・駒太夫・阿曽太夫・友太夫・若太夫・鐘太夫・信濃太夫、以上八人今度より出座。
倭仮名在原系図宝暦二年壬申十二月七日 【1-233 2.12.7】 
作者 浅田一鳥・豊竹甚六 〔寛〕
森太夫・志賀太夫出座。友太夫退座。
雄結勘助島宝暦三年癸酉七月廿八日 【1-238 3.7.28】 
苅萱桑門筑紫𨏍 二度目同(宝暦三)年十月朔日 【1-238 3.10.1】 
十七太夫出座。信の太夫・志賀太夫退坐。
相馬太郎莩文語[談]宝暦四年甲戌二月廿一日 二月閏有 【1-242 4.2.21】 
作者 並木永輔・豊竹千簬 〔寛〕
義経腰越状同(宝暦四)年七月廿九日 【1-244 4.7.29】 
釜淵双級巴 二度目*同(宝暦四)年七月廿九日 【1-244 4.7.29】 
天智天皇苅穂庵同(宝暦四)年十二月十五日 【1-249 4.12.15】 
作者 並木永輔 〔寛〕
森太夫退座。
当冬、伊勢太夫江戸より帰り新太夫と変名す。阿曽太夫江戸へ行。伊豆太夫・武太夫初テ出座。
三国小女郎曙桜宝暦五年乙亥四月廿一日 【1-251 5.4.21】 
作者 難波三蔵・豊竹上野 〔寛〕
双扇長柄松同(宝暦五)年七月七日 【1-252 5.7.7】 
作者 並木永助・豊竹上野 〔寛〕
切ニ操踊。当秋堺へ行。後三年奥州軍記。 【1-254 5.秋】
後三年奥州軍記同(宝暦五)年十一月朔日 【1-254 5.11.1】 
二度目 〔寛〕
鰭太夫初テ出座。
義仲勲功記宝暦六年子三月十八日 十一月閏有 【1-259 6.3.18】 
作者 浅田一鳥・豊竹応律 〔寛〕
乱菊枕慈童*宝暦六年子三月十八日 【1-259 6.3.18】 
藤井小八郎
甲斐源氏桜軍配同(宝暦六)年閏十一月朔日 【1-266 6.u11.1】 
同上(作者 浅田一鳥・豊竹応律) 〔寛〕
諏訪太夫初テ出座。
写[イ+画]足利染宝暦七年丁丑正月廿六日 【1-270 7.1.26】 
同上(作者 浅田一鳥・豊竹応律) 〔寛〕
前九年奥州合戦同(宝暦七)年三月廿日 【1-273 7.3.20】 
作者 並木宗助・安田蛙文 〔寛〕
     (〔宝〕に以下の豊竹座の記事なし)
------▽〔明〕〔安〕〔寛〕▽---------
清和源氏十五段同(宝暦七)年八月朔日 【1-275 7.8.1】 
三度目 〔寛〕
筑前掾一世一代暇乞、山伏摂待出語りをつとむ。ワキ鐘太夫、ツレ時太夫事今度名を改、此太夫。
                                   』〔明・安〕64ウ
祇園祭礼信仰記同(宝暦七)年十二月五日より丑寅卯三年越勤ル。 【1-279 7.12.5】 
作者 中村阿契・浅田一鳥 〔寛〕
此節出勤、若太夫・駒太夫・鐘太夫・此太夫・十七太夫・伊豆太夫・伊勢事新太夫と名改・麓太夫・恒太夫初て出座。
芽源氏鴬塚宝暦九己卯年三月三日 【1-290 9.3.3】 
作者 浅田一鳥・豊竹応律 〔寛〕
此節久米太夫・喜美太夫・豊太夫初て出座。十七太夫・恒太夫・人形藤井小八郎江戸豊竹 [肥前]座へ行。
難波丸金鶏同(宝暦九)年五月十四日 【1-291 9.5.14】 
作者 中村阿契 〔寛〕
当冬、筑前掾一世一代ニ堺へ行。 【1-295 9.冬】
先陣浮洲巌同(宝暦九)年十二月七日 【1-295 9.12.7】 
作者 浅田一鳥 〔寛〕
十七太夫・諏訪太夫江戸より帰ル。
桜姫賎姫桜宝暦十庚辰年三月十一日 【1-299 10.3.11】 
摂津国長柄人柱 二度目同(宝暦十)年八月十五日 【1-302 10.8.15】 
祇園女御九重錦同(宝暦十)年十二月十一日 (〔寛〕は十二日) 【1-304 10.12.11】
作者 若竹笛躬・中村阿契 〔寛〕
加賀太夫・鶴太夫・喜代太夫初て出座。新太夫・伊豆太夫・諏訪太夫・喜美太夫退座。
宝暦十一辛巳年二月十四日、芝居類焼ニつき、曽根崎新地芝居ニて、 【1-316】
一谷嫩軍記 二段め迄(宝暦十一年)三月十一日 【1-308 11.3.11】 
八重霞浪花浜荻*(宝暦十一年)三月十一日 【1-308 11.3.11】 
二度目 〔寛〕
筑前掾暫く助ニ出ル。
祇園女御九重錦(宝暦十一年)四月十九日 【1-309 11.4.19】 
二度目 〔寛〕
同所にて。
おはつ徳兵衛曽根崎模様(宝暦十一年)五月十八日 【1-311 11.5.18】 
同所にて。
人丸万歳台同(宝暦十一)年九月十日 【1-311 11.9.10】 
作者 豊竹応律・福松藤助 〔寛〕
新造芝居祝儀。式三番三。半出遣ひ。切、惣太夫出語り、高砂人形出遣ひ。
三好長慶碪軍記[談]宝暦十二壬午年二月廿四日 【1-318 12.2.24】 
作者 梁塵軒 〔寛〕
岸姫松轡鑑同(宝暦十二)年閏四月十八日 【1-320 12.u4.18】 
作者 豊竹応律・並木永助 〔寛〕
当時出勤衆、若太夫・駒太夫・鐘太夫・麓太夫・民太夫・品太夫・富太夫・采女太夫・浅太夫。八曽太夫初て出座。
此太夫・加賀太夫・久米太夫・豊松藤五郎・藤井小三郎伊勢へ行。 【1-323 12.u4-9】
当九月より京へ行。【1-326 12.9.】
藤原秀郷俵系図宝暦十三年正月四日 【1-328 13.1.4】 
二度目 〔寛〕
当正月九日芝居類焼。堺へ行、京へ行。     (〔寛〕に此一行なし。)
洛陽瓢念仏 〔寛〕同(宝暦十三)年三月六日 【1-330 13.3.3】
新舞台式三番叟三十石艠始同(宝暦十三)年四月九日 【1-333 13.4.19】 
新建芝居にて古浄るりよせ物。当夏秋、南都へ行。
番場忠太紅梅箙同(宝暦十三)年極月八日 【1-338 13.11.6 or 12.8】 
駒太夫江戸へ行。
官軍一統志同(宝暦)十四年申四月十日 【1-350 14.4.10】 
当夏、堺へ行。
九月十三日越前掾死去ス。行年八十四才。 【1-360】
娘[嬢]景清八島日記明和元年申十月廿一日 【1-356 1.10.21】 
越前追善、筑前掾相勤。豊竹若太夫退座。
伊呂波歌義臣兜[いろは歌義臣鍪]同(明和元)年閏極月十七日 【1-358 1.u12.15】 
駒太夫江戸より帰出座。此太夫・若竹藤九郎江戸へ行。
しきしま操軍記同(明和)二年酉三月十六日 【1-363 2.3.16】 
内助手柄淵同(明和二)年七月廿五日 【1-366 2.7.25】 
当八月晦日切ニ而相続難成、歌舞妓芝居ニ成。 【1-369】
星兜弓勢鑑明和四年亥正月三日 【1-378 4.1.3】
豊竹座再興。
麓太夫・十七太夫・恒太夫・組太夫・喜代太夫。当二月中旬より座中伊勢へ行。【1-379】
                                   』〔明・安〕67ウ
同(明和四)年四月八日より、古浄るり一[〔寛〕二]段づゝ、札銭十文、追出し芝居ニ成ル。錦太夫出座。 【1-388】
     (〔明〕に以下の豊竹座の記事なし。)
------▽〔安〕〔寛〕▽----------
寿永楓元暦梅源平𨿵鳥越明和七寅九月十九日 【1-416 7.9.19】
豊竹座再興。座本豊竹此吉。 太夫、島太夫・駒太夫・此太夫・時太夫・生駒太夫・入太夫・杣太夫・房太夫。
北条時頼記同(明和七)年十一月十九日 【1-419 7.11.19】
座本 豊竹和哥三。 
今年故越前少掾七回忌追善トシテ、鉢木出かたり。麓太夫相勤ム。此節、此太夫・時太夫退座。
朝鮮細見九州与次兵衛灘明和八卯年正月廿三日 【1-422 8.1.23】
此節、竹本三郎兵衛出勤。此後都而新浄るり此人の作なり。
お梅久米之介角額嫉蛇柳同(明和八)年五月廿三日 【1-424 8.5.23】
壇浦兜軍記同(明和八)年七月廿八日 【1-426 8.7.28】
切ニ忠臣蔵 道行 九段目*同(明和八)年七月廿八日 【1-426 8.7.28】
此節、竹本政太夫出座、忠臣蔵九段め相勤。
梅の由兵衛迎駕篭死期茜染同(明和八)年八月十四日 【1-427 8.8.14】
嗚呼忠臣楠氏籏同(明和八)年十二月廿八日 【1-428 8.12.28】
茜屋半七みのや三勝艶容女舞衣明和九辰年十二月廿六日 【1-445 1.12.26】
岡太夫出座。
しのた妻今物語安永二巳年閏三月十五日 【1-448 2.u3.15】
本不出。
釜淵双級巴同(安永二)年十一月廿二日 【1-454 2.11.22】
桜鍔恨鮫鞘*同(安永二)年十一月廿二日 【1-454 2.11.22】
綱太夫出座。
惣体北男鑑安永三午年十二月廿六日 【1-466 3.12.26】
本不出。
菅原伝授手習鑑安永四未年三月十日 【1-472 4.3.10】
豊竹嶋太夫一世一代。
此後、豊竹和哥三座断絶故、新上るり不出。古上るり見どり物是迄ニ度々出れども、一切物故、略之。
                                   』〔安〕69オ
     (〔安〕に以下の豊竹座の記事なし。)
------▽〔寛〕▽-------------
船歌唐音船頭徳蔵汐境七草噺天明二寅年十月 【1-592 2.10.7】
名代 近松門左衛門。 太夫 豊竹氏太夫。
此時、太夫、豊竹氏太夫・同文字太夫・同綱太夫。
釜淵双汲[級]巴同(天明二)年十一月八日 【1-593 2.11.8】
座本 近松門左衛門。 
此節、内匠太夫・和佐太夫出座。綱太夫・吉田文三郎退座。
石高千五百冊数四十七廓景色雪の茶会同(天明七)年未九月廿六日 【1-631 7.9.26】
座本 竹本千太郎・豊竹此吉。
東ノ芝居にて、豊竹此太夫・豊竹時太夫・竹本中太夫・竹本咲太夫・竹本政太夫・豊竹頼太夫・豊竹百合太夫・豊竹伊太夫。
韓和聞書帖同(天明七)年十二月廿三日 【1-633 7.12.23】
座本 竹本千太郎・豊竹此吉。
此節、太夫、竹本政太夫・豊竹此太夫・竹本中太夫。江戸、鶴澤三二事蟻鳳出勤。
初嵐元文噺寛政元酉年五月十日 【2-006】
本不出。
児淵東軍記同(寛政元)年七月十九日 【2-008 1.7.19】
本不出。
豊竹此太夫・竹本政太夫。
天王山杜鵑合戦同(寛政元)年九月八日 【2-011 1.9.8】
本不出。
座本 豊竹此吉。
  
     (以下〔安〕〔寛〕)
------▽〔安〕〔寛〕▽----------
北堀江市ノ側芝居 座本 豊竹此吉 太夫 豊竹此太夫
今年明和三戌のとし、北堀江市側ニ而、豊竹座新芝居興行。新浄るり外題左ニしるす。 【1-378】
染模様妹背門松明和四亥年十二月十五日 【1-387 4.12.15】
駒太夫・此太夫・生駒太夫・時太夫・入太夫・氏太夫・八重太夫・光太夫・弦太夫・佐太夫・槇太夫。
忠孝大磯通明和五子年九月廿二日 【1-389 5.9.22】
此節、鐘太夫出座。
助六揚巻紙子仕立両面鑑同(明和五)年十二月廿一日 【1-400 5.12.21】
四天王寺伶人桜明和六丑年二月廿四日 【1-402】
前上るり北浜名物黒舟噺同(明和六)年七月廿八日 【1-404 6.7.28 (1-403 6.7.12)】
後上るり双紋刀[筐]巣篭*同(明和六)年七月廿八日 【1-404 6.7.28 (1-403 6.7.12)】
義経腰越状明和七寅年正月十五日 【1-407 7.5.15】
    ※註 義経腰越状(五四八)四段目一段だけ豊竹応律が新作した。(「声曲類纂」)
是ハ四段め丸一段、新作なり。
此節、道頓ぼり豊竹芝居ニて、島太夫・駒太夫・此太夫三人ニて新上るり興行。外題ハ道頓堀豊竹の部ニ出ず。此後堀江荒木芝居にて鐘太夫・此太夫にて、新上るり興行。外題奥ニ出す。
澪標浪花筏明和八卯年八月十日 【1-426 8.8.10】
本卦復昔暦同(明和八)年十二月廿廿五日 【1-428 8.12.25】
鐘太夫退座。
忠臣後日噺明和九辰年四月七日 【1-438 9.4.7】
千種結旧絵艸紙同(明和九)年八月十九日 【1-443 9.8.19】
麓太夫出座。
後太平記瓢実録安永元辰年十二月廿四日 【1-445 1.12.24】
摂州合邦辻安永二巳年二月五日 【1-448 2.2.5】
綱太夫出座。
起請方便品書置寿量品伊達娘恋緋鹿子同(安永二)年四月六日 【1-449 2.4.6】
此節、麓太夫退座。君太夫出座。
南無三宝正三追善極楽往来蓮奇初同(安永二)年七月 【1-452 2.7】
本不出。
綱太夫相勤ム。
呼子鳥小栗実記同(安永二)年八月廿七日 【1-453 2.8.27】
けいせい恋飛脚同(安永二)年十二月廿三日 【1-456 2.12.23】
綱太夫・君太夫退座。
此節、一座曽根崎新地芝居ニて、右上るり相勤。
時太夫死去。麓太夫出座。
花襷会稽掲[褐]布染安永三午年八月十三日 【1-463 3.8.13】
堀江へ戻り、興行、此節鐘太夫江戸より帰り出座。
軍術出口柳安永四未年正月廿九日 【1-470 4.1.29】
此節、鐘太夫死去。
倭歌月見松同(安永四)年九月八日 【1-478 4.9.8】
鯛屋貞柳歳旦闙安永五申年正月廿二日 【1-487 5.1.22】
作者 近松半二出勤。
三国無双奴請状同(安永五)年四月三日 【1-491 5.4.3】
作者 近松東南出勤。
葢寿永軍記同(安永五)年九月八日 【1-493 5.9.8】
おはん長右衛門桂川連理柵同(安永五)年十月十五日 【1-495 5.10.15】
此節、綱太夫死去。 【1-497 5.10.13】
唐丸新艘始【1-497 安永5】
外題ばかり。尤本不出。
端手姿鎌倉文談安永六酉年正月廿五日 【1-498 6.1.25】
伊賀越乗掛合羽同(安永六)年三月廿六日 【1-504 6.3.26】
置土産今織上布同(安永六)年五月十九日 【1-506 6.5.19】
融大臣塩竃桜花同(安永六)年八月十五日 【1-506 6.8.15】
女小学平治見台同(安永六)年十二月廿六日 【1-507 6.12.26】
本不出。
御堂前菖蒲帷子安永七戌年正月廿六日 【1-513 7.1.26】
以呂波行状記讃州屏風浦同(安永七)年八月十六日 【1-518 7.8.16】
妹背結町家仙人同(安永七)年十一月十日ヨリ 【1-521 7.11.10】
あやつり顔見世。
田村丸[麿]鈴鹿合戦 三の切迄同(安永七)年十二月廿一日 【1-523 7.12.21】
風流戯曽我*同(安永七)年十二月廿一日 【1-523 安永7.12.21】
夏浴衣清十郎染*同(安永七)年十二月廿一日 【1-523 安永7.12.21】
今様乱拍子*同(安永七)年十二月廿一日 【1-523 安永7.12.21】
麓太夫・時太夫・町太夫・鶴澤三二・豊松十五郎 出がたり、出つかひ。
 
                                   』〔安〕73ウ
     (〔安〕に以下の市の側芝居の記事なし。)
------▽〔寛〕▽-------------
近江国源五郎鮒同(安永)八年亥八月十三 【1-536 8.8.13】
今盛恋緋桜同(安永八)年十月十九日 【1-538 8.10.19】
色噺庚申待同(安永八)年十二月十九日 【1-538 8.12.19】
八重太夫出座。
東山殿幼稚物語同(安永九年)子二月九日 【1-545 9.2.9】
稲荷街道墨染桜同(安永九)年九月廿三日 【1-552 9.9.23】
後太平記十三巻目時代織室町錦繍天明元年丑二月廿四日 【1-569 1.2.24】
碁太平記白石噺同年[天明元年](十一月三十日) 【1-566 1.春】
    ※註 碁太平記白石噺(五五三)括弧の中の月日は「邦楽年表」によつて、興行日附を書加へたものである。原本と区別するために小字を用ひた。以下同じ。
是は七つ目丸一段新作、此太夫場。
合詞四十七文字同(天明元)年九月十三日 【1-578 1.9.13】
本不出。
此比、浄瑠璃評判闇の礫出板。 【1-582 1.9】
吾妻海道茶屋娘同(天明)二年寅九月廿六日 【1-589 2.9.26】
此節、豊竹此太夫・豊竹頼太夫・豊竹村太夫・豊竹麓太夫・豊竹梶太夫等出勤。若竹友五郎死す。
義仲勲功記同(天明)三年卯(三月十五日) 【1-602 3.3.15】
近頃河原達引*同(天明)三年卯(三月十五日) 【1-602 3.3.15】
豊竹八重太夫勤む。
太平[記]義臣礎同(天明)四年辰正月二日 【1-610 4.1.2】
本不出。
豊竹氏太夫死去す。
木下蔭狭間合戦寛政元年酉二月廿一日 【道頓堀大西芝居2-003 1.2.21】
此太夫・麓太夫・駒太夫・時太夫。
博多織恋[金+荷]同(寛政元)年五月九日 【2-005 1.5.9】
座本豊竹此母。此節床改り、豊竹此太夫・豊竹内匠太夫・豊竹弥太夫・豊竹中太夫等出座、豊竹麓太夫・同駒太夫・同時太夫退座。
有職鎌倉山同(寛政元)年八月十五日 【2-008 1.8.15】
弓太夫事豊竹岡太夫出座。
星月夜百人上臈同(寛政)二年戌(五月八日) 【2-018 2.4.18 2-020 2.5.8】
近江八景石山遷同年(寛政二年) 【2-022 2.7.16】
雕刻左小刀同(寛政)三年亥三月四日 【2-030 2.3.4】
江戸豊竹紋太夫出勤。伊太夫事鐘太夫と改。
会稽故郷錦(寛政五年三月廿三日) 【2-059 5.3.23 ?】
甲斐信濃世話両国志【2-034 3.7.15】
花楓都模様寛政三年六月十一日 【2-033 3.6.11】
    ※註 花楓都模様(五五五)六月十一日といふのは正本刊行の日附であつて、上演は七月二十九日。(「邦楽年表」【2-034】)
摂津国長柄人柱寛政四年九月廿八日より 【2-050 4.9.28】
    ※註 摂津国長柄人柱(五五五)別の番附には五段目迄あり、切に「けいせい反魂香」とある。(「邦楽年表」)
四段目まで。
切ニ義仲勲功記【2-050 寛政4.9.28】
三の切
一世一代、豊竹此太夫、三味線鶴澤寛治勤。
鼻手本給銀蔵同(寛政)五年九月晦日より 【2-067 5.9.19】
顔見世座附。
   
     (以下〔安〕〔寛〕)
------▽〔安〕〔寛〕▽----------
○大坂取々新浄瑠利混雑
須磨内裏[子/子+男]弓勢宝暦十四年申ノ正月三日 【1-347 14.1.8 補】
北ノ新地。北本和泉座。
正保四年粧水絹川堤明和五子年二月十五日 【1-395 5.7.15】
あミた池門前。座本幾竹島吉。
小春治兵衛中元噂掛鯛明和六丑年七月廿八日 【1-403 6.7.28】
同(あミた池)東ノ芝居、座本竹本綱太夫。
東口咄西口噂傾城浪花おた巻明和五子年十月十四日 【1-399 5.10.14】
同(あみた池)門前。幾竹座。
振袖天神記明和六丑正月廿七日 【1-401 6.1.27】
道頓堀角ノ芝居。座本竹本義太夫。
連管[官]三番叟明和五子九月 【1-396 5.9.11】
関取二代勝負附*明和五子九月 【1-396 5.9.11】
同 亀谷芝居。座本並木正三。
夏衣裳雁染明和七寅壬六月廿二日 【1-411 7.u6.22】
同(道頓堀亀谷)芝居ニて、座本竹本春吉。
聖徳太子利生の池水同(明和七)年八月十二日 【1-413 7.8.12】
同座(道頓堀亀谷座)ニて。
小いな半兵衛廓色上明和五子十一月十九日 【1-399 5.11.19】
あミた池東ノ芝居、竹本綱太夫座。
裙重浪花八文子[字]明和六丑二月十二日 【1-401 6.2.12】
同座(あミた池東ノ芝居竹本綱太夫座)ニて。
初物八百屋献立同(明和六)年 【1-402 6.2.】
同(あみた池東ノ芝居竹本綱太夫座)座ニて。本不出。
平家義臣伝【1-406 明和6】
同座(あみた池東ノ芝居竹本綱太夫座)ニて。本不出。
勇将兼道猛将真鳥魁鐘岬明和七寅十二月十五日 【1-420 7.12.15】
同芝居(あみた池東ノ芝居)ニて、座本豊竹若太夫。
園生の竹本明和六丑九月廿九日 【1-405 6.9.29】
道頓堀亀谷芝居。竹本義太夫座。
時代蒔画世話模様いろは蔵三組盃安永二丑七月廿八日 【1-451 2.7.28 丑は誤】
北新地芝居。座本竹本染太夫。
心中紙屋治兵衛安永七戌四月廿一日 【1-515 7.4.21】
同(北新地)芝居。座本竹田万二郎。太夫、竹本染太夫。染太夫・政太夫・梶太夫・咲太夫・彦太夫・文字太夫。
道中亀山噺同(安永七)年七月十七日 【1-516 7.7.17】
同座。
往古曽根崎村噂同(安永七)年九月廿三日 【1-519 7.9.23】
同(北西ノ芝居)座。
政太夫退座。
 
                                   』〔安〕75ウ
     (〔安〕に以下の記事なし。)
------▽〔寛〕▽-------------
仮名写安土問答安永九年正月四日 【1-543 9.1.4】
竹本染太夫座。
襤褸錦今様織留天明元年丑九月十八日 【1-578 1.10.7 】
堀江西之芝居。座本竹田新松。
太夫、竹本政太夫・男徳斎・弥太夫・巻太夫・中太夫。
此浄瑠璃は先に古浄るり敵討つゞれの錦興行の所、古今の大あたりに付、大安寺堤の段より先増補にて丸新作也。
替唱歌糸の時雨同(天明)二年寅三月 【1-585 2.3.吉】
北新地芝居。竹本染太夫・氏太夫・綱太夫。
女節用操鏡同(天明)三年卯四月 【1-603 3.4.8】
北の芝居にて、竹田新松座。本不出。
太夫、竹本組太夫・豊竹駒太夫・竹本弥太夫・豊竹磯太夫。
年忘長生噺同(天明三)年七月 【1-606】
竹本男徳斎勤。
大功艶書合同(天明)七年未十月十九日 【1-632 7.10.19】
道頓堀竹田芝居にて、座本竹本万作。豊竹麓太夫・竹内内匠太夫・竹本磯太夫・竹本染太夫・竹本弥太夫。
近松半二死去。
碁太平記白石噺同(天明七年)八月十二日  【1-631 】
北の新地芝居にて、座本豊竹此吉。太夫、豊竹此太夫・豊竹頼太夫・豊竹百合太夫・豊竹時太夫・鶴澤寛治。
晴勝負万両名器(天明八年八月十五日) 【1-635 8.8.15】
陸竹常吉座。北の新地芝居にて。
  
     (以下〔安〕〔寛〕)
------▽〔安〕〔寛〕▽----------
○江戸
鉵鈷駄六一代噺安永三 九月三日 【1-464 3.9.3】
義経新含状延享元 三月 【1-148 1.3.】
東金茂右衛門明和六 六月七日 【1-402 6.6.7】
吉野合戦名香兜宝暦十四 正月二日 【1-347 14.1.2】
神霊矢口渡明和七 正月十六日 【1-408 7.1.16】
弓勢智勇湊明和八 正月二日 【1-422 8.1.20】
源氏大草紙明和七 八月十九日 【1-415 7.8.19】
鎌倉山緑翠勝鬨安永四 正月四日 【1-480 4.1.7】
時代世話女節用明和六 七月十九日 【1-403 6.7.19】
吉野静人目千本安永四 正月二日 【1-467 4.1.2】
蝦夷錦振袖雛形明和六 三月十六日 【1-402 6.3.16】
忠臣いろは実記安永四 七月十五日 【1-475 4.7.15】
初冠賎束帯安永四 五月廿八日 【1-474 4.5.28】
前太平記古跡鑑安永三 正月十三日 【1-460 3.1.12】
桜姫操大全安永五 正月二日 【1-486 5.1.2】
江戸自慢恋商人安永六 三月 【1-505 6.3.】
増補河内通【1-492 5.5.28】
初冠ノ外題ガヘ。
志賀の敵討【1-492 5.8.1】
驪山比翼塚 〔寛〕安永八亥七月二日 【1-534 8.7.7】
肥前座。
累物語 〔安〕 【1-213 3.8.1ヵ】
和泉の三郎
八幡の太郎【1-223 4.8.1ヵ】
関取石の鳥井【1-425 8.7.7】
当世模様往古噺【1-411 明和7.5】
往昔模様亀山染【1-408 明和7.4.19】
嫩㮤葉相生源氏安永二年四月晦日 〔寛〕 【1-446 2.1.2】
新太夫座。 〔寛〕
    ※註 新太夫座(五六四)豊竹新太夫座。
けいせい扇富士明和七 八月朔日 【1-412 7.8.1】
新太夫座。 〔寛〕
     (以下〔安〕は外題のみ。)
糸桜本町育安永六年三月十一日 【1-502 6.3.3】 〔寛〕
新太夫座。 〔寛〕
     (〔安〕にはこの次に日蓮記児硯とあり。)
日蓮記児硯
恋娘昔八丈安永四年九月廿五日 【1-477:補-36 4.9.25】 〔寛〕
新太夫座。 〔寛〕
     (〔安〕には以下の江戸の記事なし)
------▽〔寛〕▽-------------
色揚瀬川染安永五年二月廿三日 【1-490 5.2.23】
新太夫座。昔八丈後編。
伊達競阿国戯場安永八年三月廿一日 【1-527 8.3.21】
肥前座。
増補会稽山【2-159 寛政前期】
けいせい扇富士外題替
和泉式部軒端梅明和三年 【1-373- 3.8以前】
肥前座。駒太夫出座。大当り也。
寿万歳島台安永四年 【 】
新太夫座。若太夫勤。
東歌名物男【1-646 天明年間ヵ】
東唄操文章天明七年三月 【1-627 7.3.25】
薩摩外記座。
増補腰越状【1-646 天明3末-寛政前半以前】
肥前座。
後日菅原【1-389】
汐境七草双紙[天明二年寅十月] 【1-592 2.10.7】
納太刀誉鑑安永八年七月六日 【1-534 8.7.6】
新太夫座。
霊験宮戸川同(安永)九年三月三日 【1-546 9.3.3】
肥前座。
碁太平記白石噺同(安永)九年正月二日 【1-539 9.1.2】
新太夫座。紋太夫・八重太夫・島太夫。
裙重血紅跂同(安永)九年正月廿五日 【1-545 9.1.25】
肥前座。
むかし唄今物語天明元年正月二日 【1-565 1.1.2】
肥前座。
鎌倉三代記天明元年三月廿七日 【1-572 1.3.27】
肥前座。
万代曽我二番目
お千代半兵衛天明元年丑七月 【1-576 1.7.15】
肥前座。
荒御玉[霊]新田神徳安永八年二月八日 【1-526 8.2.8】
結城座。
万代曽我二番目
お夏清十郎天明元年七月 【1-576 1.7.15】
肥前座。
万代曽我二番目
おはん長右衛門天明元年丑七月 【1-576 1.7.15】
肥前座。
加々見山旧錦絵天明二年寅正月二日 【1-583 2.1.2】
新太夫座。
伊達娘恋緋鹿子天明元年卯正月二日 【1-598】
肥前座。
七草若菜功同(天明)二年七月十五日 【1-587 2.7.15】
肥前座。
伽羅先代萩同(天明)五年正月 【1-613 5.1.2】
結城座。
石田詰将棊軍配同(天明)三年卯正月二日 【1-597 3.1.2】
肥前座。竹本政太夫・紋太夫・越太夫。
内百番富士太皷同(天明三)年十月廿五日 【1-608 3.10.25】
肥前座。竹本政太夫。
おしゆん伝兵衛近頃河原達引同(天明)五年九月九日 【1-617 5.9.9】
    ※註 近頃河原の達引(五六九)九月九日は正本の刊行日附で、上演は五月五日。(「邦楽年表」)
肥前座
花上野誉の石碑同(天明)八年八月二十一日 【1-636 8.8.22】
肥前座。竹本住太夫・同政太夫・三輪太夫。
此節、薩摩座豊竹新太夫死去に付、座元竹本折太夫座と替る。 【1-613】
筆始いろは曽我寛政三年亥二月 【2-029 3.2】
薩摩座。
  
     (以下〔安〕〔寛〕)
------▽〔安〕〔寛〕▽----------
○京都
浪花の地染洛陽の潤色増補女舞劔紅楓明和元申八月四日 【1-354 1.8.4】
座本 扇谷豊前掾。
都朗詠東管絃住吉誕生石寛延元辰九月三日 【1-195 1.9.3】
竹茂都大隅
咲分赤間関明和四亥九月九日 【1-383 4.9.9】
竹本義太夫。
小田館双生日記明和七寅八月十一日 【1-413 7.8.11】
扇谷和歌太夫。
競伊勢物語安永四未八月十二日 【1-475 4.8.12】
豊竹嶋太夫。
此上るりハ、大坂中ノ芝居嵐松二郎座ニ致せし哥舞妓狂言なり。嶋太夫・春太夫相つとむ。
     (以下〔安〕になし。)
------▽〔寛〕▽-------------
源平二張弓明和(四年五月十四日) 【1-381 4.5.14】
本不出。
富士日記菖蒲刀明和二年五月十七日 【1-365 2.5.17 京】
    ※註 富士日記菖蒲刀(五七〇)京都の項に入つてゐるが、大阪の竹本座上演の誤り。竹本座の項にも載つてゐる。
竹本義太夫座。
佐々木高綱武勇日記安永七年二月朔日 【1-513 7.2.1】
    ※註 佐々木高綱武勇日記(五七一)「邦楽年表」に四月とあるのは出典不明。
竹本義太夫座。
本不出。
伽羅先代萩同(安永七)年九月 【1-521 7.9.】
    ※註 、伽羅先代萩(五七一)「伝奇作書残編」によると、安永六年四月大阪嵐座興行の「伽羅先代萩」を、翌七年京都の竹本春太夫座で浄瑠璃化して上場し、御殿の場迄の院本を刊行したといふ。それを指すのであらうか。但し「邦楽年表」では採用してゐない。完成されたものとしては天明五年正月江戸結城座が始。又此時春太夫が花景図を勤めたとあるが、「邦楽年表」によると宝暦十二年三月京蛭子星座で上場、春太夫が出勤してゐる。
三段目まで浄るり出来。太夫、竹本春太夫。此時、竹本春太夫一世一代、花景図都鏡相勤む
苅萱桑門筑紫𨏍同(安永)八年 【1-538 安永8】
豊竹嶋太夫一世一代
曠勝負廓環安永二年壬[閏]三月廿一日 【1-449 [2.u3.21]】
    ※註 昿勝負廓環(五七一)「邦楽年表」によると、明和七年五月京都扇谷和歌太夫座で上場したとある。
竹本岡太夫。
  
     (以下〔安〕〔寛〕)
------▽〔安〕〔寛〕▽----------
○よみ本上るり(※註 よみ本浄るり(五七一)読物として刊行された浄瑠璃。歌舞伎で好評を博したのを浄瑠璃化したものもある。)
宇賀道者源氏鑑宝暦九卯正月 【1-296 9.1】
木曽冠者旭系図同(宝暦九)年七月 【1-296 9.7.下】
桜井御前班女御前都鳥東古跡明和三戌三月 【1-377 3.4】
誓義士三人次[治]郎明和四亥六月 【1-382 4.6】
仮名雑後日菅原同(明和四)年八月 【1-389 4.8】
源氏の弓流平家の矢合船軍凱陣兜明和八卯三月 【1-430 8.3】
聖徳太子物部守屋四天王寺伽藍鑑宝暦七丑四月六日 【1-281 7.4.5】
座本大松百介。並木正三作
競伊勢物語安永四未四月五日 【1-473 4.4】
中ノ芝居。座本嵐松二郎
平家朗詠源氏管絃相生轡の松安永七戊九月 【1-525 7.9】
     (以下〔安〕になし)
------▽〔寛〕▽-------------
花飾三代記天明元年丑八月 【1-582】
是ハ先に興行の佐々木高綱也
花櫓名取関
下総國かさね説安永八年亥八月 【1-539 8.8.】
今昔妹脊腹帯宝暦十三年未三月
    ※註 今昔妹背腹帯(五七三)宮薗豊前(鸞風軒)が作つた薗八節の正本で、誤つて読本浄瑠璃に入れたのである。従つて宮薗豊前座といふ座はない。
宮薗豊前座
乱曲扇拍子
越後座
○豊竹伊太夫事鐘太夫・豊竹和佐太夫事若太夫・竹本町太夫事春太夫・豊竹弓太夫事岡太夫・竹本森太夫事三根太夫・竹本葉太夫事倭太夫・竹本武太夫事鐘太夫・竹本浜太夫事綱太夫・竹本三根太夫事染太夫・竹本重太夫事咲太夫・竹本和太夫事氏太夫・竹本梶太夫事染太夫
 
----------------------
宝暦七丁丑年二月吉旦 作者 一楽子〔宝〕
明和五子年 増補 作者 一楽子〔明〕
安永八亥年増補改正 作者 一楽子〔安〕
寛政五丑年新増補改正 作者 一楽子〔寛〕
 
  大坂島之内八幡筋南綿町〔宝〕
  大坂島之内 油町〔明〕
  大坂堺筋長堀橋半町北〔安〕〔寛〕
        書林  文萃堂 増田源兵衞
 
 
----------------------
宝暦版 当流竹本筑後掾 義太夫事
 〔宝〕25オ3行目『
出世景清 是近松氏義太夫浄るり作の最初なり。此後多分近松の作なり。
佐々木大鑑多田満仲記
達磨の本地源氏冷泉節
大塔宮熊野落定家卿小倉色紙
天智天皇自然居士
源氏十二段讃談記
文武五人男松風村雨束帯鑑
愛子若都の富士平仮名太平記
今様柏木大掛物十幅一対
齋藤別当実盛多田院開帳
釈迦如来誕生会鎌田兵衛名取盃
忠信廿日正月義経追善女舞
新板腰越状那須与市小桜威
頼朝伊豆日記百日曽我
吉野忠信義経東六法
源氏烏帽子折本海道虎が石
淀鯉出世瀧徳浦島年代記
蝉丸 元禄十四年辛巳五月 竹本義太夫勅許受領、筑後掾藤原転教と号す。
神託粟万石曽我五人兄弟
酒呑童子枕言葉傾城八花形
大磯虎雅[稚]物語加増曽我
西明寺殿百人上臈豊年富貴万歳
おはつ徳兵衛曽根崎心中 元禄十六年癸未五月七日 作者 近松門左衛門 
此心中ハ当四月廿三日也   是世上世話浄るりの始にて
前浄るりハ日本王代記     竹本氏古今の大当り也
源五兵衛薩摩哥おふさ徳兵衛心中重井筒
用明天皇職人鑑☆宝永二年乙酉三月 当年より竹田出雲掾竹本芝居の座本ト成。
鐘入りの段出語 太夫筑後掾 三絃竹沢権右衛門 おやま人形辰松八郎兵衛今度より出遣ひヲ仕初ル
雪女五枚羽子板心中二枚絵草紙
傾城返魂香おなつ清十郎笠物狂
おかめ与兵衛卯月紅葉兼好法師物見車
同後日卯月色上ヶ碁盤太平記
義経將基経堀川波の鼓
おまん源兵衛芦分船おむめ久米三郎心中万年草
関小まん丹波与作待夜小室節上巻助六心中千日寺
当麻中将姫新本領曽我
今様小栗判官 【1-052】日本西王母
今川制詞条目新天鼓
増補根元曽我 【1-053 正本・年次不明】悦賀楽平太
小野道風記甲賀三郎
大原問答青葉笛木曽軍記
雁金文七  【1-031 】長町女腹切
下関猫摩館 【1-053 正本・年次不明】十二段長生島台
百合若野守鏡 【1-045】新一心五戒玉
吉野都女楠当世いろは物語 【1-053 正本・年次不明】
増補藍染川  【1-053 正本・年次不明】新増補盛久 【1-053 正本・年次不明】
傾城三世相 【1-007】因幡薬師伝記
おさん茂兵衛大経師昔暦加古教心七墓廻
栬狩剣本地心中氷朔日
弐百番内嫗山姥 【1-047】梅川忠兵衛冥途飛脚
夕霧阿波鳴門心中天網島
おきさ次郎兵衛掛鯛心中 【1-044】曽我扇八景
前 傾城掛物揃 正徳二年壬辰三月四日
切 丹波与作 政太夫始て出座道中双六節事出語り
曽我虎が石磨河内国姥ヵ火
新撰大職冠 【1-045】弘徽殿鵜羽産家
孕常盤傾城吉岡染
天神記 正徳三年癸巳二月廿五日 大和太夫初出座、天拝山節事出語
相模入道千疋犬滝口横笛娥歌がるた
  大和太夫退座 【1-050】
嵯峨天皇甘露雨二人静胎内探             』〔宝〕29ウ
→次項へ(持統天皇歌軍法)
----------------------
 
 
宝暦版 当流豊竹越前少掾
 〔宝〕41ウ2行目『
前 末広十二段
切 心中涙の玉の井
金屋金五郎浮名額
東岸居士新百人一首
殺生石井筒屋源六恋寒晒
坂上田村丸新兵庫築島
今川青砥刀信太妻女占
熊谷三ツ子鑑新板佐々木大鑑
いろは始千丈瀧女長田皐桜
傾城富士嶽傾城二河白道
新板三井寺狂女紀三井寺開帳
寝物語曽我三部経
傾城躑躅岡七枚起請吾妻雛形
播州曽根松男色加茂侍
弥市お高梅田心中傾城千日鐘
聖徳太子舎利都新日向景清
浄瑠璃古今序増補女袖鏡
新板頼朝七騎落新身替問答
今様西行物語新利屈物語
秦始皇帝太夫松三桝太夫恋恋慕
椀久末松山笠屋三勝廿五年忌
冨仁親王嵯峨錦敵討難波梅
赤染衛門栄花物語心中恋中道
佐与中山夜泣石頼光新跡目論
椀久熊谷盃本朝五翠殿
北国源氏金山吹新艘太夫丸
油屋お染袂の白絞心中丸腰連理松
平安城細石八百屋お七哥祭文
八幡太郎東初桜傾城国性爺
仁徳天皇万歳車鬼鹿毛武蔵鐙
小敦盛花靱傾城三度笠
御前曽我姿富士愛子若塒箱
吉野忠信錦着長記録曽我玉笄曲
天智天皇豊歳秋鎌倉尼将軍
花山院都巽甲陽軍艦今様粧
照日前都姿西行法師墨染桜
是まての分前後混雑初日の年月確と知れがたし
追て考へ記すべし此次より初日の年月をしるす             』〔宝〕44オ
→次項へ(鎌倉三代記)
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浄瑠璃研究文献集成版 略註
 
大職冠・八島・高館 (四〇二)何れも幸若舞の曲名
稽古本の最初 (四〇三)貞享二年「七つ以呂波」を稽古本の最初とする説は誤りで、既に加賀掾が延宝七年五月「牛若千人切」を八行本として刊行してゐる。六七一頁参照。
宝永七庚寅の年 (四〇三)正徳元年が正しい。九月「吉野都女楠」より八行が七行に改り、爾後義太夫の丸本は七行本を形式とするに至つた。
人形に初めて足を付 (四一八)「外題年鑑」の記事では足が附いたのは京松本治太夫座の本曲(延宝六年か)と、宇治嘉太夫座の「世継曽我」の朝比奈に始るとされてゐる。これらは延宝貞享頃で、立物の人形に限つたことであつたらしい。「南水漫遊拾遺」には大阪の石飛弾掾の工夫によつて、手や足がつけられたと云つてゐる。宇治派はこの飛弾掾の影響を受けてゐると考へられる。何れにしろ人形に足がついた事は、三人遺ひの操法の出現を予想せしめる、操史上重要な出来事である。
雁金文七 (四二〇)「雁金文七秋の霜」。雁金文七を頭目とする無頼の徒五人男が捕へられ、八月二十六日(十六日は誤り)千日寺で処刑された。この一件は文彌以外、各派でも脚色して上場、大いに流行した。本曲は世話浄瑠璃としては「曽根崎心中」より古い。
江戸表の外記・辰松 (四三八)宝暦十三年江戸で刊行の「古今外題年代記」には、江戸の太夫について「外題年鑑」にない左の記事を収めてゐる。
  江戸竹本伊勢太夫佐太夫事
  宝暦十一巳年葺屋町辰松座跡取立普請成就して、当三月やぐらに幕をはられたり。始の浄るりは>
  三浦大助紅梅靮座本 祝儀 伊勢太夫 出語 三味 富澤市之丞
  江戸薩摩外記座 座元 小倉小四郎
  宝暦十三末年大西藤藏後見いたされあやつり興行、則大阪より竹本千賀太夫、同岬太夫下り
  おはつ徳兵衛曽根崎模様
浄瑠璃稽古場 (四三九)劇場以外で浄瑠璃を行ふ場所の事であらう。「宝永四年、大阪生玉の社内に於て、稽古浄瑠璃興行の儀御免有之候、是稽古浄瑠璃、寄進浄瑠璃等の始め也」(「摂陽落穗集」)
一心五戒玉 (四四一)現存の丸本の版式や、内容から考へて、元禄十一年の作と推定される。(黒木勘藏「浄瑠璃史」二五二頁)
源氏冷泉節 (四四二)宝永七年八月頃。題簽に「孕常盤」追加とある故。(同右[浄瑠璃史])
松風村雨束帯鑑 (四四四)宝永二年十一月以後と推定。三段目の景事を豊竹若太夫と竹本頼母が掛合で語つたとあるが、若太夫は元禄十六年竹本采女の改名したもの。又内容からみて宝永二年十一月「用明天皇職人鑑」以後のものと推定される。(高野正己「近世演劇の研究」)
釈迦如来誕生会 (四四四)宝永七年以後。七行本の正本の板行は宝永七年に始るが、この曲の正本は筑後掾の七行本十行本があるのみでみる。(同右[近世演劇の研究])
義経追善女舞 (四四五)団十郎の「兵根元曽我」の影響をうけたものと考へられるので、元禄十年盆頃の興行と推定。(同右[近世演劇の研究]、五五頁)
百日曽我 (四四六)高橋宏氏は元禄十年を否定して五年説を取る。(「國文学踏査第一輯」近松著作年代考)「団扇曽我」の興行は更に遡り、貞享末年と考へられる。 (同右[近世演劇の研究]、四二頁)
長町女腹切 (四四七)正徳二年秋。銭相場や歌舞伎役者の記事等から推定。(「浄瑠璃史」二五四頁)
淀鯉出世瀧徳 (四四七)宝永五年末。作中に「重井筒」の噂が出てゐる事と、宝永六年十一月歿した坂田藤十郎めが在世中であることを暗示する句がある事より推定。(同右[浄瑠璃史]、二五四頁)
神託粟万石 (四四八)宝永二年三月。作中に「宝永二年の如月や」云々の句がある。(「邦楽年表」)
大磯虎稚物語 (四四九)元禄四・五年か、八行献上本の様式が元禄四・五年の頃にのみ見られるもの。(「浄瑠璃史」二五五頁)
心中重井筒 (四五〇)宝永四年十一月。道行文中の劇場名の読込みと、宝永四年十月の畿内地方大地震の当込みより推定。(同右[浄瑠璃史]、二五五頁)
用明天皇職人鑑 (四五〇)宝永二年十一月。「今昔操年代記」の記事と、「心中二枚絵草紙」の発端の文より推定。(黒木「近松門左衛門」一四九頁)
竹田出雲 (四五〇)二代目竹田出雲、即ち外記。浄瑠璃作者として著名なのは千前軒の竹田出雲で、三代目である。
雪女五枚羽子板 (四五一)正月の景物行事を取入れてゐるので盆興行とは考へ難い。但宝永二年正月は竹本座休座中なので、同年ではない。(「浄瑠璃史」二五五頁)
傾城反魂香 (四五一)寛永五年か。狩野元信の百五十年忌を当込んだものと思はれる。(同右[浄瑠璃史]、二五六頁)
義経將棊経 (四五一)正しくは「源義経將基経」。内容の技巧から見て宝永二年十一月の「用明天皇」以前のものと推定。(「近世演劇の研究」七四頁)
兼好法師物見車 (四五二)本曲は「兼好法師跡追碁盤太平記」と合せて一つの作と見做すべきで、同時の興行であつたのであらう。(同右[近世演劇の研究]、七四頁)
大経師昔暦 (四五二)正徳五年春か。おさん茂兵衛の三十三回忌の当込み。(「浄瑠璃史」二五六頁)
吉野忠信 (四五二)義太夫の正本によつて、元禄十四年五月筑後掾受領以前のものと推定。(「近世演劇の研究」七四頁)
卯月紅葉 (四五三)宝永三年六月。作中に宝永三年夏、岩井半四郎座の「鳥辺山心中」を当込んだ趣向がある。(「近松門左衛門」一五六頁)
後日卯月の色上 (四五三)正しくは「卯月の潤色」。宝永四年四月。作意上から前者より十ヶ月の隔りがなくてはならない。(「浄瑠璃史」二五六頁)」
待夜小室節 (四五三)宝永五年。クドキの文句によつて「重井筒」より後の作品たるべきととと、宝永二年の抜参りを当込んだ句がある等の理由によつて推定。(同右[浄瑠璃史]、二五六頁)
夕霧阿波鳴戸 (四五五)正徳元年末か二年春か。正徳元年秋刊の段物集「鸚鵡が杣」に外題が載らず、同二年九月刊の「鸚歌が園」に始めて出てゐることゝ、夕霧の歿後三十五年目を当込んでゐることゝによつて推定。(「近松門左衛門」一九三頁)
孕常盤 (四五七)宝永七年八月か。「鸚鵡が杣」に外題が見え、また本年八月の閏を当込んだ句がある。(「浄瑠璃史」二五七頁)
娥歌がるた (四五八)本曲は延宝四年十一月刊、山本角太夫の正本「瀧ロ横笛紅葉之遊覧」と題材趣向が同じで、近松の作といふのは疑はしい。(「近世演劇の研究」七五頁)黒木氏は近松作を肯定してゐる。
殩静胎内探 (四五九)正徳三年閏五月か。本年閏五月の当込みの句がある。(「浄瑠璃史」二五七頁)
間の物 (四五九)間狂言。浄瑠璃の一段と一段との間に、軽い喜劇であるのろま人形が演ぜられた時代がある。それを間の狂言と呼んだ。
佛御前扇車 (四七七)番附には「追善佛御前」とあり、切も「追善重井筒」となつてゐる。それ/\「佛御前扇車」「心中重井筒」の改題。
当十月此太夫等退座 (四七八)忠臣藏上場に際して、吉田文三郎と演出上の意見の衝突から、竹本此太夫は一党を率ゐて退座、豊竹座へ移つた。この太夫の移動については「浄瑠璃譜」参照。
拍子扇浄瑠璃合 (四八二)「邦楽年表」によると、切になつて居り、前は「相模入道千匹犬」である。
吉田文三郎父子退座 (四八四)「倒冠雑誌」参照。
御前懸り浄瑠璃相撲 (四八七)「浄瑠璃譜」参照。
おかげ参り (四九四)ぬけ参り。路金を持たず沿道の人々の庇護により伊勢参宮をすること。江戸時代に宝永・明和・文政と約六十年目毎に突発的に起つた流行で、明和八年の時は春頃丹後国から始り忽ちの内に京・大阪に伝播し何十万といふ人間が繰出したといはれてゐる。
末広十二段 (五〇二)「邦楽年表」に、豊竹上野少掾の正本中、享保十六年九月以前の刊行と認められるもので年代不明の作が挙げてある。
  末広十二段・新百人一首・新板兵庫の築島・殺生石・坂上田村麿・忠臣青砥石・富仁親王嵯峨錦・笠屋三勝廿五年忌・頼光跡目論・本朝五翠殿・袂の白しぼり・八幡太郎東初梅・傾城国性爺。
心中涙の玉の井 (五〇二)「操年代記」の記事によつて元禄十六年五月の「曽根崎心中」より後の興行であると解釈され、内容的に両者を比べてみてもそのことが肯定される。「邦楽年表」は同年七月としてゐる。尚作者については黒木氏は未詳としてゐる。 (「近松以後」)
金屋金五郎浮名額 (五〇二)「心中涙の玉の井」の次の替りに出たとある(操年代記)ので、一年繰下げで、元禄十六年秋の興行と考へられる。
小野小町都年玉 (五〇二)本文中の銭相場から考察して正徳二年から四年の間の興行と推定される。(若月保治「古浄瑠璃の研究」延宝・享保篇一二六頁)
八百屋お七歌祭文 (五〇四)正本がなく、叉当時豊竹座は退転してゐたので、この時の興行には疑問がある。(「近松以後」)
富仁親王嵯峨錦 (五〇八)享保改鋳の当込みらしい句があり、現存の正本が上野少掾 (享保三年受領)のものである等の点から見て、享保六年頃とも考へられる。(同右[近松以後])
義経腰越状 (五四八)四段目一段だけ豊竹応律が新作した。(「声曲類纂」)
碁太平記白石噺 (五五三)括弧の中の月日は「邦楽年表」によつて、興行日附を書加へたものである。原本と区別するために小字を用ひた。以下同じ。
花楓都模様 (五五五)六月十一日といふのは正本刊行の日附であつて、上演は七月二十九日。(「邦楽年表」)
摂津国長柄人柱 (五五五)別の番附には五段目迄あり、切に「けいせい反魂香」とある。(「邦楽年表」)
新太夫座 (五六四)豊竹新太夫座。
近頃河原の達引 (五六九)九月九日は正本の刊行日附で、上演は五月五日。(「邦楽年表」)
富士日記菖蒲刀 (五七〇)京都の項に入つてゐるが、大阪の竹本座上演の誤り。竹本座の項にも載つてゐる。
佐々木高綱武勇日記 (五七一)「邦楽年表」に四月とあるのは出典不明。
伽羅先代萩 (五七一)「伝奇作書残編」によると、安永六年四月大阪嵐座興行の「伽羅先代萩」を、翌七年京都の竹本春太夫座で浄瑠璃化して上場し、御殿の場迄の院本を刊行したといふ。それを指すのであらうか。但し「邦楽年表」では採用してゐない。完成されたものとしては天明五年正月江戸結城座が始。又此時春太夫が花景図を勤めたとあるが、「邦楽年表」によると宝暦十二年三月京蛭子星座で上場、春太夫が出勤してゐる。
昿勝負廓環 (五七一)「邦楽年表」によると、明和七年五月京都扇谷和歌太夫座で上場したとある。
よみ本浮るり (五七一)読物として刊行された浄瑠璃。歌舞伎で好評を博したのを浄瑠璃化したものもある。
今昔妹背腹帯 (五七三)宮薗豊前(鸞風軒)が作つた薗八節の正本で、誤つて読本浄瑠璃に入れたのである。従つて宮薗豊前座といふ座はない。