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【 人形の魂 】

人形の魂    吉田栄三・吉田文五郎

 

阿波郷土誌 第四輯 阿波人形芝居特輯号 P66−92 1932.9.30発行

[筑摩:文楽p117-128 芸談 人形の魂 吉田栄三 吉田文五郎 小倉敬二記 筑摩書房 1942.4.30]

 

 坐ることですか、何?そう堪らぬといふほど窮屈でもないんですが−−。

なんせ、人形遣ひといふ職業は立ちづめの、それもたゞ立つてゐるのと違つて、時には三尺もある高い舞台下駄を履いて、立身で重たい人形を遣ふんでせう。立つ辛抱なら、一日中立ちづめでも平気なんですが、どうも座るのだけは……。(栄)

 

 坐る話なら人形の坐らせ方ですが、人形、殊に女の人形を坐らせるにはなか/\技巧がいるものでしてね。

 御存じの通り女の人形には足がありません。なぜ女の人形に限つて足がないか、足、足、足と足が顔以上に幅を利かしてゐる今日、女の人形に足がないなんてけつたいな話ですが、とに角女の人形には足がありません。足のあるのは役柄上どうしても足を遣はねばならぬ特殊の人形ばかりでして、−−例へば鏡山のお初、これは草履打ちをしなければならぬから足がある。中将姫の岩根御前、これは庭へ下りて中将姫を雪の中で折檻しなければならぬから足がある。その他、日向島の糸竹、白石噺の信夫、戻りかごのかむろ−−これは駒下駄を履いてゐます−−など足のあるのはまあざつとこれ位で、その他の人形には全然足がない、足がなくて坐らうといふんですから土台が無理です、達磨さんなら知らぬこと、何とか工夫して身体のすはりをよくせんことにはきまりがつきません。で考へついたのが「きんだま」です。

 女にきんだま、けつたいな話ですが、このきんだまがあるために女は、位置の安定が保てる。−−つまり坐り恰好がつくのです。きんだまと申しますのは、例へぱ、この傾城初菊[筑摩:宮城野]を真裸にして御覧になるとよくわかりますが、胴の下からぶらりと下つてゐる大きな袋のやうなものでして、この袋には綿がつめてある。これが真中にブラ下つてるために、立つ時にも、坐る時にも膝の格好がつくわけです。しかし何といつても無い足をあるやうに見せて、きちんと坐らせようといふんですから、そこのコツがなか/\むつかしいんです。

 こんな何でもないやうな−−人形からいや、極く初歩の技巧一つでもよほどの修練が要る。まして無表情な人形に表情を与へ、人間すべての感情や生活をつかひ生かさうといふにはなか/\並大抵な修行ぢや追つきません。(文)

 

見習修業だけで八九年もかゝる

 

 御承知の通り、今日の人形は三人遣ひでツメ−−端役のチヤリ人形−−以外は三人で一つの人形を遣ふ。足は足づかい、左手は左遣ひ、胴とカシラはその首位者とチヤンと役割がきまつてゐて、この三人の心と心、呼吸と呼吸がぴつたり合はなければ、人形一つつかふことも出来ないのです。のみならず人形遣ひは、太夫にも三味線にも呼吸を合はしてゆかねばなりませんから数等厄介です。

 足だつて楽なやうに見えてゝ、なか/\楽ぢやありません。遣ふまでに八九年、一人前になるのはなか/\容易のこつちやない。昔は一生足ばかり、左ばかりを遣つて、肝腎のカシラに手もつけられずに死んだ人さへたんとありました。

 それが今はどうでせう。やつといろはのいの字を覚へたか覚えぬかに早もう―廉の人形遣ひになつた気でゐる。イヤふけや女形はぢみだからいかぬ、初菊や八重垣姫見たいな、パツとした振袖ものが遣つて見たい−−なんて贅沢ぬかす。昔なら、ひどいこと殴られるところですが、この節の若いものは一寸手荒なことでもすると、「ぢやもうやめさせて貰ひまつさ」とあつさり出よる。腹が立ちますが、出てゆかれちや無人のこの際忽ち弱るからへイヘイいつてゐてもらつてる、といつた始末でどつちが師匠やら、弟子やらわかりません。情ない話です。(文)

 

 わたしらの修業時代は、今と違つて、そりや厳しいものでした。体に生疵の絶え間がない位に師匠から手厳しい折檻を受けたものです。わたしは明治十七年、十二の春はじめて澤野席−−日本橋北詰にあつた−−といふ人形座へ入つたのですが、忘れもせぬ、入つてから十日目、当時評判の豊松東十郎さんが三番叟を遣つた。その時舞台下駄を揃へる役をさせられましたが、うつかり右と左とを間違へて出したものと見えます。「このどんけつめ」といふなり、あの大きな舞台下駄でウンといふほど向脛を蹴られ、気が遠くなつたことを覚えてゐます。

 それからこんなこともあります。彦六座にゐたころ、 吉田辰五郎さんが「貞任」を遣つた。私は傍にゐてチヨンチヨンとそのツケ−−柝−−を打つ役でしたが、どうした拍子か、スカタン打つてしまつたのです。案の定舞台下駄で向脛をやられて大怪我をした事があります。今でも貞任をつかふたんびにその事を思ひ出し感慨無量です。(栄)

 

ゾツとした血ぞめの人形の片足

 

 無暗矢鱈に人の子を傷つけるなんて、一寸考へると無茶な話。何ぼ今と時代が違ふといつたつてあんまりやないか、さうも考へられますが、人形といふものは一芸一代、一生涯かゝつても覚えられるものぢやない、それを仕込むには生優しいやり方ぢやいけないのです。あゝ遣へ、かう遣へ、と手をとつて、撫でつさすりつ教へたんぢや、シンから腹に入らない。殴つて、蹴つてピシ/\鞭を加へてから、ひとり合点ゆくやうに仕向けてやる−−といふ仕込み方でした。(文)

 初代吉田玉造さんといへばわたしの師匠ですが、そりや厳しい人でした。ズウツと以前、文楽座が松島にあつたころです。玉造さんが『戻りかご』で浪花治郎作を遣はれた。その足をわたしが遣つたのですが、どこがどういけなかつたのか、初日にひどいこと向脛をやられました。けれど自分にや、どこがどう悪いのか合点がいかない。一生懸命に遣つてるはずなのに、ウンといふほどけり飛ばされたんでせう。腹が立ちます。それが一度きりならまだしも、次の日も次の日も、またその次の日も、四日続けて蹴られ通し、血の出た上にも血を流し、二重にも三重にも怪我させられてたまつたもんぢやない、ようし今に見てをれ、今度蹴りやがつたら、何ぽ師匠でも容赦せぬ、殴り飛ばして逃げてこまさうと幾分殺気立つてもゐたのでせう、凄いほどの心もちでウンと力を籠めて遣つた。と、意外にも「ようし、出来た!」と一言、眼に微笑んで褒めてくれました、その時のうれしかつたこと。

 後からわかつたのですが、あれほどの名人になると違つたもので人形を支へてツ、ツ、ツウと舞台へ歩いて来て、キツと極まる時の勾欄の位置が、毎日寸分違はない。物指しで測つたやうに、キチンときまつてゐる。それがわからないもんだから、いゝ加減なところで足をきめようとしたのです。それならそれと教へてくれゝぱいゝやうなわけですが、それを前以て教へて了ふと、芸が生きない。そこで教へずに、身を以て会得させようと仕向けられたのです。その心遣ひ、その思ひやり、それについてわたしには一生涯忘れることのできぬ記憶がある。

 わたしはこの話をするたびに、今でもひとりで泣けて来ます。人形道に入つて四十七[筑摩:五十何]年、いろんな話を聞き、いろんなことも見て来ましたが、これ位私を感動させた話はありません。

 玉造さんといふ人は大変な稲荷さん凝りでして、庭さきに大きな稲荷さんが祭つてありました。そしてその扉の中へいつも舞台で遣ふ狐のカシラをいれて置いて玉藻前だの、廿四孝だの、出し物によつて、狐のいる時にはいつも恭しう礼拝して取り出すといつた風に大切にしてをられました。

 それからもう一つ大切にしてゐられたものがある。それは黒塗りの大きな長い桐の箱なんです。それをチヤンと床の間に祀つて置いて、時々その前にうつむいて、合掌瞑目されてゐることがある。ハテ何だらう、位牌だらうか。位牌なら、仏壇にチヤンと祀つてあるはず、けつたいやな、何やろ、一ぺん見てやれといふんで留守の間にこつそり開けて見ました。と、それは何と、ぺつとり血の着いた人形の片足ぢやありませんか。つけ根の所を綿で包んでありましたがその綿にもべつとり血の痕がある。それもよほど日数が経つたと見えて黒くなつてゐる。奇怪な人形の足、血ぞめの片足、それを見た時、わたしはあんまり思ひがけないのと 凄いのとでゾーツと身うちが寒うなりました。(文)

 

荒い一面に優しい師匠の情け

 

 なぜこんなヘンなものが、親のかたみか何ぞのやうに大切そうに蔵はれてあるのか、−−それについて玉造さんはかういつて語り聞かせてくれました。

  「見てしまつたとありや仕方がないからいふが、これはワシに取つて忘れやうと思つても忘れられない記念の品だ。ワシがまだ足を遣つてた時分、吉田金四といふ師匠が、阿波十郎兵衛を遣つた。その時ワシの足のつかひぶりを見て、「いつになつたら覚えやがるんだ」といふんでのその時遣つてた十郎兵衛の人形の片足で頭を叩き割られた、これがその時の人形の片足だ。記念に納めて置けといはれたので頂いて、こゝにかうして蔵つて置いたのだ。ワシは今にその時のことをよう忘れない。思ひ出し、思ひ出して、いつでもわれとわが心を鞭打つてゐる。ワシが今日かうして兎も角人形遣ひになれたのも、師匠にこの足で頭を割られたゝめ、いはゞこの人形の片足のお蔭だ、その折檻がどれだけ芸道のはげみになつたか知れない。心に緩みのできる時、芸道に弛みの出る時、ワシはいつもその人形の足を押し頂いて泣いた。泣きながら励まして来た。ワシがこんなになれたのも師匠のお蔭、その厳しい折檻の賜物だと思つて、時にふれ、折にふれ、合掌礼拝してゐる。

 師匠が歿くなる時、ワシはその臨終の席に呼ばれたが、今息を引き取らうといふ際に、ワシは師匠の枕許近くすり寄つて頼んだ。「どうか左のお手を頂かして下さい、どうぞこの手を−−この立派な腕を−−あの世へ持つて行かないで、わたしに残して行つて下さいまし」と泣きながら左の手を押し頂いて頼んだ。この人形の片足は師匠の御位牌も同然、亡き師匠への追慕のしるし、感謝のしるしとして毎日忘れずにこうして合掌するんだ」と

 −−この涙の述懐を聞いて、わたしは身がジーンとしました、そして心の中に、あゝなるほど名人と呼ばれる人の心がけは違つたものや、ワシもその心にあやかつて、一生懸命芸道に精を出さう、さう思つて、何べんも/\逃げ出したいほどの苦しい目をぢいつと耐へ忍んで来ました。飛びぬけ愚か者の私が名利にも迷はず、外れ道もぜず、とにかく四十[筑摩:五十]何年間芸道一筋に生きて来られたのも、この師匠のこの教訓あつたればこそとありがたく思つてをります。(文)

 兎に角吉田玉造さんといふ方は、かういふ苦労をして育つて来た人だけに、荒いことも荒かつたが、また一面優しいとこもありました。一緒に街を歩いてる時など、「俺に一尺離れてついて来い、一尺以上を寄つてもいかぬし、一尺以上遠のいてもいかん、キチンと一尺の距離をきめて歩くんだ、でなきや、一人前の人形遣ひになれぬぞ!」といつて、人ごみの中をすりぬけすり抜け窮屈な思ひで歩かされたことがあります。

 新町などを歩いてると、色街のことですから、美しい女が、長い華麗な着物の裾をひるがへして通る。「どうや、あの裾のさばけ工合は? よく/\見て置けよ、人形の裾もあんな工合にさばくのや、着物のふきの裏返り工合だつてあゝいふ風にならなけりやいかん−−」などと一々こまかいところまで教へて下さる。馬に乗つた兵隊が来ると、「あれ見い、洋鞍の時は騎り手の足はあゝいふ工合に真直にのびてるやろ、和鞍の場合は反対に脚がかう曲るのや−−」といつた工合で、わざわざ天満の天神さんへ流鏑矢を見に連れて行つてくれられたり、それは/\涙のこぼれるほどやさしいところもございました(文)

 王造さんにはわたくしも一方ならぬ世話になつてをります。稲荷座から初めて文楽へ加はつた時、二十七の春[明治32年2月]かと思ひます。傾城阿波鳴門が出て、浄瑠璃が越路、−−後の摂津大掾さん−−人形は十郎兵衛が玉造さん、お弓が先代桐竹紋十郎さんそれにわたしのお鶴です。初めて振られた役が子役ぢや始まりません。これでも稲荷座ぢや一座の花形として、重次郎や勝頼を遣つてのけた自分だ、それに役もあらうに子役を振るなんてあんまり人を見くびつてゐる、と不平やる方なかつたのですが、どうも仕方がない。母はお弓と申します−−十郎兵衛浪宅の母子対面の場をすませて引込まうとすると、玉造さんが、「栄コ、一寸待て、これを遣へ」といふ。まだもう一場、お鶴の殺される場が残つてたのですが、「そんな端場は誰かにつかはせ、お前はこれを遣ふんだ」とあつて無理矢理につかわされたのが十郎兵衛の足でした、いろはのいから叩き直してモノにしてやらうといふ思ひやり それが今どれだけためになつてるか知れません。(栄)

 

見物席へ人形を投げられる

 

 ですが、とに角あの時分−‐わたしらの修行時代の人形遣ひは乱暴で無茶なことを平気でやつたもんです。今でもよう忘れませんが、わたしが堀江座にゐたころ、日蓮記で吉田兵三が勘作のぱゞ、私が勘作の女房を遣つたことがございます。その時わたしの女房があんまりばゞの傍へ近寄り過ぎてたゝめ、婆が自害する邪魔になつたものと見えます。「コラツ! 何さらしてけつかる!」といふなり、わたしの人形をひつたくつてぽんと見物席のどまん中へ放り投げて了つた。人形遣ひが晴れの舞台で、人形を放り投げられるなんて無細工な話です。判官さんぢやないが、おのれやれとは思へども、こゝは大事の殿中、ぢやない舞台手向ひもならず黒んぽを着たまゝスゴ/\見物席へ下りて行つて人形を拾つて帰つた間の悪さ、今思つても冷汗が出ます。

 故人玉七のやうな名人でも、大念仏の景清の立ち廻りに、「追手のつかひぶりが生ぬるい、そんな手ぬるい追手ぢや、悪七兵衛景清、見えが切れぬワイ」といふんで、景清を遣つてた玉助さん−−初代吉田玉造さんの息子さんで私の最初の師匠−−のために人形を見物席に叩き投げられ、拾つて帰つた時は幕がしまつてたといふやうなこともあつたさうです。(文)

 舞台は戦場、真剣勝負の晴れの場だ、なんてよくいひますが、実際あゝなると、白刃の勝負もいつしよですな、一寸でも気合のゆるんだものが負け、気合で押して押して押し切つた方が勝ちといふわけです。ですから偉い遣ひ手と相対した時には、実際息づく程苦しい。

 忘れもせぬ先代桐竹紋十郎−−この人は古今無隻の女形遣ひで、しかも荒物づかひ、チヤリづかひ何でも出来た名人ですが、この人と夏祭浪花鑑[明治42年6月]で、紋十郎さんが義平次、わたしが団七九郎兵衛をつかつたことがあります。「駕返せ、/\」からいよ/\「殺し」となつて、義平次が泥田の中から手をのばしてぐつと団七の左の腕を掴む。そこのところ、人形ではたゞ掴む恰好をするだけでほんまに引張らない、芝居のやうに写実風にやらないのが人形の常道。

 それを承知してゐながら紋十郎さんは意地悪く真実力をこめて引張らうとするのです。あの時はほんとに弱りました。何しろ紋十郎さんは堂々たる体格ですし、わたしは御見かけ通りの小男、おまけに自分のつかつてゐる団七九郎兵衛の人形は人形中でも一等大きい。そいつを脊の低い自分が遣ふんですから、大一番の三尺もある高い舞台下駄を履いてゐる。義平次を引張り上げるのにスル/\と素直に引張られてくれるとワケないんですが、今申したやうに紋十郎さんはどうしても素直に引張られてくれない、力いつぱい引かうと思へば形が崩れるし、形を崩すまいとすれば引張れない。気合と気合、ウム、ウム、ウムでやつと引きあげたが、それが毎日、しかも真夏のことでせう。暑さは暑し、二十日間の興行をすませた時は、げつそり痩せて、眼が落ち込み、顔も嶮しうなつて凄い位でした。 考へて見ますに、あの場は役の性質からいつて団七をカンカンに怒らせなけりやならぬ、殺す気でなかつたのに、義平次があんまり畳みかけて悪口雑言するので、ツイ赫つとなつて舅殺しの大罪を犯す−−といふのが浄瑠璃の本意ですから、団七役を引き立てるために紋十郎さんがわざと私を怒らせてかゝつたのです。(文)

 

 人形が三倍に見える名人の力

 

 それからも一つ、ずつと昔のことですが、何でも文楽の七月興行に釈迦如来誕生会といふ、釈迦一代記が出たことがある、太夫は誰だつたか覚えないが、人形役は相[紋]十郎さんの阿羅々仙人に、わたしの悉達太子。難行苦行の太子を験さんとして阿羅々仙人が霊杖をもつてピシ/\打つところがありますが、今いつた流儀で紋十郎さんは型ばかりでなく、ほんまにピシピシ人形を打ち下すのです。人形の衣裳が薄いもんですから、その脊中へ手を入れてぐつと構へてる私の左の甲へその杖がピシ/\こたへる。折檻されてるのが人形やら、自分やら、お釈迦さまやら、悪魔外道やらわからぬ。手の甲がしびれて何べん人形を取り落さうとしたか知れません。たうとうヘコたれて、次の日から雑巾で手の甲を二重三重に巻いて出たことがあります(栄)

 その紋十郎さん−‐先代桐竹紋十郎さんの前に一字違ひの桐竹門十郎といふ人がゐました。荒物遣ひの名人でしてな、この人が初代吉田玉造さんの評判を聞いて、道場破りの恰好で玉造さんの出てゐられた座へ乗り込んで行つた話があります。

 「−−玉造、玉造つて、評判ばかり高いが、一体どれくらゐ遣へるのか、手の内を見てやれ」といふんでやつて来たのですが、門十郎としては、「何、玉造ぐらゐきつと圧倒して見せる」といふ自信があつたのでせう。その時の語りものは皮肉にも敵討亀山道中噺で太夫は長門さん[筑摩:なし]、人形は敵役の門十郎さんが敵水右衛門、玉造さんが石井兵助。

 水右衛門と兵助とが戸口でぱつたり出会ふ、兵助?が、口に柄袋を喞へて、ヤツと構へる、そこんとこをどつちもまるで敵討ちの気合でやつたものと見えます。あとで門十郎は、「負けた。玉造にはとても敵はぬ、あゝも凄い人とは思はなんだ」といつてブイとその座を出て行つてしまつた。一方玉造さんは王造さんで、「イヤ 門十郎はエラい人形遣ひだ。ヤアッと剣を構へた時は思はず身がふるへた」といつて感心してたさうです。これは王造さんのまだヅツと若いころ、御維新前のことのやうに聞いてゐますが、とにかく玉造つて方はズバぬけて偉かつたに違ひありません。(文)

 

 私は明治二十八年御霊文楽で玉造さんの源平布引瀧の実盛を見たことがあります。私が小万の役でしたが片腕を斬落とされた小万の死骸が担込まれてくる。実盛が懐中から気付け薬を出して、小万の口に含ませてやる。そしてウムと活を入れる。その活の入れ工合がどうも見てゝコワくなるくらゐで身のうちがゾーツとしました、そして目に見えぬ何ともいへぬ力が、グン/\わたしを押してくるのでした。何といふ力かと、わたしは今でもその時のことを思ひ出します。その時ほど相手の人形が−−実盛が二倍にも三倍にも大きく見えたことはありません。

 故人玉五郎さんなども、玉造さんが熊谷をつかつて 、「オイい、オイーい」と敦盛を呼び返すところや「いざ物語らん」[筑摩:「敦盛卿を討つたる次第、物語らんと座を構へ」]で、きつときまる、ところなどを見てゐると、何だか恐ろしい気がしたとつく/\感心してたことがあります。そりや大した名人でした。(栄)

 別してこの人は狐遣ひの名人で二十四孝の狐火や葛の葉の子別れ[筑摩:なし]玉藻前の金毛九尾の狐など、とても素晴らしいものでした、何でもこの人は舞台に狐の形を写すにはほんとうの狐の生活を知らなけりや、といふので毎晩冬の寒いのに難波の赤手拭の稲荷さんへ出かけて行つて、狐の戯れる姿態を見て帰つたといふ話です。(栄)

 この人は狐ばかりぢやない、猿も上手でしたし、虎から獅子、鼠何でもいけぬものはなかつた、それに宙吊りと早変りが得意で、明治十七年、松島文楽で五天竺の出た時、孫悟空を遣つて五色の雲美しい天上−−実は天井裏−−を縦横無尽に飛行して、見物の度胆をぬいたものやさうです。それが評判になつて、芝居は九十日も打ち続けた。「桟敷が落ちて、越路がぬけて五天竺まで鳴り渡る」−−確かそんな落首の立つたのもその時のことのやうに思ひます。(文)

 こんなこともありました。七夕さんで牽牛と織女とがいちやついてる。それを見て夜這星がりんきして織女のあとを追つかけてゆく−−といふ珍らしい狂言が出たことがあり、玉造さん自身夜這星になつて天井裏を飛び廻られたことがあつたが、そりや人間業とも思へぬほど見事でした。

 それからお染久松の七化けに、大きな玉になつて、空中飛行をされたこともあります。座摩さんのお祭りの夜、御神殿の観音開きの扉があくと、まんまるいお月さんのやうな玉が飛び出してする/\と空中に舞ひ上る、その玉がパツと割れると同時に目の覚めるやうな踊り子が下りてきて、住吉踊りを踊りながら消える。そいつを玉造さんがやつたのでしたが、そりや見事でした。(文)

 こんなやうな話、名人についての話ならいくらでもありますが、今度は少し方向をかへて、柔かい人形のお話をしませう。

 

 肩一つで恋と色のつかひわけ

 

 一寸これを抱いてごらんなさいませ。これ、安達ケ原の貞任ですが三貫目は優にあります。人形中で一等重たいのは一谷嫩軍記須磨浦の熊谷、甲胃に馬、合して五貫目近くもあるでせうか。その次は太十の光秀、御所桜の弁慶、夏祭の団七、日向島の景清など。女形で一等重たいのは白石噺の傾城宮城野、これは長いうちかけにきんきらきんの櫛笄が加はつて三貫目ぐらゐ、次いでは阿古屋、梅ケ枝など(同じ遊女でもお軽は軽い。)

 かうして抱いただけぢやさうもありませんが、なんせ、持ち重りのするものでして……そいつをぐつと左手にさゝげて、前こごみにならぬやう、足が変に曲らぬやう、裳がだらりと勾欄の下へ垂れ下らぬやうに遣ひこなすにはなかなか力がいります。お見かけ通り私は文五郎さんなんかよりズッとガラが小さい。しかも文五郎さんは女形遣ひ、わたしは立役づかひ。その小さいわたしが、光秀や熊谷のやうな大きい、自分の脊丈けほどもある人形を遣ふには何としても寸が足りない。で、それを補ふために高い下駄を履くのです。この下駄は一番から五番まであつて、一番が三尺、二番が二尺五寸、三番が二尺、四番が一尺、五番が五寸、大一番の舞台下駄を履くと、一寸石油箱を縦にして、その上に乗つかゝつてるやうな恰好です。

 それで組討ちから斬合ひ、立ち廻り何でもやらなけりやならぬのですから厄介ですよ。こゝに三人が立ち廻りをやるとすると、一つの人形に三人、都合九人の人形遣ひがその高い下駄を履いて、グルグル狭い舞台を立ち廻らなければならぬ。慣れぬうちはよく下駄と下駄とがカチ合つてスカタンをやります。殊に槍、薙刀なんて長いものを振り廻しての立廻り−−例へば鏡山の求女と又助、玉藻前の奥方と金藤次との斬り合ひなんかになると、自然間がのびてテキパキいかない。チヤンバラ役者見たいに抜くか抜かぬかに、早もう十人も二十人も斬つてるなんて芸当は人形ぢやとても出来ませんね。(栄)

 人形もいろ/\、カシラによつて、文七だの、団七だの、孔明だの、源太だの、けんびしだの、娘だの、新造だの、ふけおやまだの、幾通にも分れてゐて、なか/\やゝこしい。 眼と眉の動くのもあれば、口の動くのもある。眼が動いて眉の動かぬもの、眼も眉と口も動かぬ無表情なもの、いろ/\です。が、一体女は男に較べて顔の動きが少い。むろん中には鏡山の岩藤や、先代萩の八汐や、中将姫の岩根御前のやうに怒りもすれば笑ひもする、眼も「より目」といつて人間同様左右に動く人形もないことはないが、こんなのは悪役に限り、普通の女房ものは口も眉も動かぬ、眼もあけたりしめたりだけ、尻目も利かねば秋波もつかへない。

 若娘になると、更に眼も動かねば眉も口も動かず、全く無表情に近いのですが、それでゐて一等よく恋をし、色気を出さねばならぬのがこの娘役。こいつがなか/\むつかしいのです。(文)

 手の動くところに眼、眼の動くところに手、手と眼と一致させてつかふことは一等大切なことですが、ぢや、女の色気はどうして出すか−−

 秋波もつかへず、物もいへず、泣く涙さへ出せぬ女の人形にどうして色気を出させるか、第一に必要なのはその肩つかひです。この肩のくねらせやう一つで、柔かくもなれば硬くもなる。時代と世話と、娘と女房と、ばゝあといろ/\に遣ひ分けられる。初菊の恋、八重垣姫の恋、お染の恋、お七の恋、三勝の恋、阿古屋の恋、あらゆる恋と色とのつかひわけをこの肩つかひ一つできまる。同じ袖を振るにしても時代はゆつたりと、世話は小刻みにふる。

 惚れ方にも、心から惚れてるのと、うはべで惚れてるのとでは、つかひ方がちがつて来ますが、これは人形によつて御覧を願ふより外ありません。

 

 人形では女が惚れるが相場

 

 泣き方にもいろ/\あります。お姫さまや武家衆の奥方など、身分ある方の泣く時は、かう懐ろから紙を出して、左の手で右の袖口を軽く抑へ、右の手でそつと涙をふく、紙をつかわず、袖で涙をふく時は右手の拇指を袖口のうちらへ入れ、四本の指で袖口をもつてつゝましう拭く。田吾作娘や下司女の場合は紙もつかはず、両手でぶしつけに涙をふくといつた工合です。(文)

 総じて女は男に較べて身振りが多い。男が五へん動くところなら、女は八へんも十ぺん 動く。浄瑠璃では女から惚れて、女から口説くのがきまり、それも超特急のやうに大へん速度が早くそして直接説法式[筑摩:直説法式]です。(文)

 人形ぢや惚れるのが女、惚れられるのが男と、チヤンと相場がきまつてゝ、もし男が女に惚れてかゝるやうな場合は、十中十まで猛烈な肱鉄砲を喰ふ仕組みになつてゐます。こゝんところ、人形浄瑠璃なるものはもつと/\このごろの新しい女にもてゝいゝわけです。(栄)

 さわりの場合などよくクルツと後ろ向きになつて、いゝ恰好を見せるところがあります。あれは身振りに一つの変化をつけるためと、すらつとした立ち身の後ろ姿の美しさ−−肩から腰、裾にかけての柔い衣裳の線や、髪かたちや帯の色合の配合美を見せるためで、さわりの場合よくつかふ型。(この項桐竹紋十郎氏による)

 肩づかひは、立役にも必要です。例へぱ紙治の「魂抜けてとぼとぼ」のくだりなどこの肩のふり工合で非常に柔かい調子が出るわけですが、しなをし過ぎて女になつても困るし、といつて柔か味を出さねば、「魂ぬけてとぼとぼ」の浄瑠璃の文句の味が出ない。なか/\むつかしいもんです。それに人形ばかりいくらひとりでうまく使はうと思つても、浄瑠璃や三味線がうまく調子を合してくれなければ弱る。浄瑠璃や三味線の上手下手によつて、どれだけ人形のつかひ振りが拘束されるか知れません。(栄)

 今まで四十[筑摩:五十]何年間人形を遣つてて、私の一番太夫の語り口に感心したのは摂津大掾さんでした。明治四十三[筑摩:二]年、北焼けがあつて関東へ旅興行に出た時のこと、横浜で大掾さんが十八番の二十四孝を語つた。その時、桐竹紋十郎さんの代りに、わたしが、はじめて十種香の八重垣姫を、つかつたのですが、あの名高い名文句

 「如何にお顔が似たれぱとて、恋しと思ふ勝頼様、そも見紛うてあられうか、−−世にも人にも忍ぶなる」

のところで、摂津さんは「さあかう遣ひなはれや」といはんばかり、それは/\上手に語つてくれはりました、わたしはあの時ほど勇み立つて真実「世にも人にも忍ぶなる」勝頼様へのしほらしいお姫さまの恋心をわれとわが心に味はひながら力いつぱい、しかも楽々と遣つたことはありません。(栄)

 

 現実を離れ理窟抜きが妙味

 

 一体人形の面白みはそのとぼけたやうなところにあるのです。人形は人形、人間は人間、人形と人間とは所詮別物、人形が人間になり過ぎたら人形の面白みはなくなつてしまふ。今、文楽でつかつてゐる人形の代りに三越や高島屋のマネキン人形をもつて来てつかつてごらんなさい、とても変なものやらうと思ひます。

 歩き方一つだつて、人形ぢや片片同士いつしよに出す。右足を出す時に右手を、左足を出す時は左手左といつた工合で、手と足とをちぐはぐに出す人間の歩き方とは大変違つてる。ちがつてればこそ面白いのです。八百屋お七に振袖着せて、人間のやうな手足の出し方で、高い火見櫓に登らせてごらんなさい。無細工で見られた格好ぢやありませんよ。(この項桐竹紋十郎氏による)

 浄瑠璃だつてさうです。例へば先代萩御殿の場の政岡のさわりですが、あの名高い「七つ八つからかな山へ」から、「千年万年たつたとて」の節廻しを聞いてごらんなさいまし、陽気で、派手で、大浮かれに浮かれてるやうなところがあつて、三千世界にたつた一人の子を殺した母親の、泣くに泣かれぬ愁歎の場とは一寸思へないでせう。

 三味も浮かれ浄瑠璃も浮かれてゐる。勢ひ人形も負けぬ気で踊る。あの曲節ぢや踊らざるを得ないです。それを踊らずに、じいつと沈みこんでゐたらどうなります。それこそ場が死んでしまつて、芝居が芝居ぢやなくなつてしまふ。で、文句の悲痛なのに引きかへ、こゝでは浄瑠璃も人形も、大いに浮かれるといふことになつてるのです。

 また菅原寺子屋のいろは送りがさうです。「御台若君もろともに、しやくりあげたる御涙」から「いろは書く子をあへなくも、散りぬる命是非もなや、あす夜誰かは添寝せん」で、子の死を嘆きつゝ、「剣と死出の山けこえ、あさき夢見し心地して、あとは門火にゑひもせず」−−−門火を打つて子の亡骸を送り出す親心の切なさ。

 −−芝居ぢや亡骸を送り出したのち、松王が焼香するだけですが、人形では身振り袖ふり、いろんなしぐさを見せる。これだつて理窟からいや変なもんです。子の野辺送りにチンもツンもあつたもんぢやない。じいつとうなだれて合掌してればいゝぢやないか−−かう仰有る方もありませう。なるほど理窟はさうです。それに違ひありません。ですが、浄瑠璃は理窟ぢやない。浄瑠璃が、従つて人形が写実の芸術ぢやないといふのはこゝんところです。ほんとうの葬式が見たければ阿倍野へいらつしやればよろしい。

 浄瑠璃は、殊に人形は現実を離れたところに妙味があるのです。理窟で浄瑠璃を聞き、理窟で人形を見るこの節の人に、人形浄瑠璃の面白くないのはやむを得ません。浄瑠璃の亡びる、亡びないの問題は、もつとほかに原因があると思ひます。(栄)

 

 ふるい人形の世界に残る怪談

 

 役者が人形を真似る、芝居が人形の振りをいろ/\工夫してとり入れる、といふことは随分古くから行はれてゐますが、役によつてはどうしても人形振りでなければいかぬものがあります。例へぱ信長記−−正しくいへぱ祇園祭礼信仰記−−の雪姫爪先鼠の場がそれです。

 金閣寺、桜が咲いてる、散る。吹雪の下に美しい絵師の娘雪姫が縛られてる。花びらが吹雪のやうにふりかゝる、それを爪先で集めて鼠を書く。と、忽ちその鼠が動き出して雪姫の縛られてる縄をかみ切る。気の遠くなつてた雪姫がハツと正気にかへると同時に、鼠の姿はもとの花びらになつてパツと散つてしまふ。

かういふ場はどうしても人形振りに限るのです。役者では芝雀さん−−故雀右衛門−−が一番人形に熱心でよく研究に見えたものです。(文)

 

 芝居でもさうでせうが、古い人形の世界にはいろんな迷信があります。今でも佐倉宗五郎を出すと祟りがあるといふので、宗五郎をやる時にはいつもお祭りをします。人形を祭つて御燈明をあげて、役がすんで帰る時は、チヤンと縛られてござつしやる縄目を解いて帰る。でないと寝てゝもきつとうなされる。きまつて何か異変があるといふのです。

 人形遣ひの一番恐がるのは菅相丞、菅原の天神さま。何せ、神様におなりなさつた方だけに迂闊にや扱へません。殊に恐ろしいのは菅原四段目、寺子屋の前にある天拝山飛梅の場。

 菅相丞が時平公謀反の条々を聞かれて無念の形相物凄じく「形はこのまゝ鳴神の不思議を見せん」で面相一時に変つて雷になり天にのぼつておしまひになる。

 あのところは遣つても凄いところですが、そんな関係からか天神様の人形は格別大事にかけます。(文)

 

 昔は菊野殺し−−芝居でする五大力−−の早田八右衛門?が化けて出るなんて噂したものやそうです。文楽座ぢやありません。他の座ですが、座員が宿直してると、誰もゐないはずの二階からトン/\と段梯子を下りてくる足音がする。ヒヨツと見ると早田八右衛門です。二階の人形庫にあつた早田八右衛門が、血刀を提げ血相かへて、段梯子をかけ下りてるのです。アツといふなり、その男は腰を抜かしてしまつた。…なんて話がありました。

 つくり話でせうが、私はよほど以前、あの早田八右衛門をつかつたことがあります。血刀提げて下りてくると、先に殺した菊野の死骸が転がつてる、躓いた拍子に、腹の疵口へ足を踏み込む、ぬかうとするが抜けず、死骸が足について宙に浮き上る−−とても残酷な場ですが、そのころは芝居も新派全盛、写実大ばやりの時代でしたものですから、何でも写実本位にといふんで、足にべつたり血の附くところを見せるため、子供の赤い靴下を買つて来て人形の片足に履かせて遣つたりしたことさへあります。阿呆真似をしたものです(栄)。

 

人形の色恋にも時代の響き

 

 ですが時代ですな。この節は取締りが厳うなつて、そんな馬鹿な真似は許されません。残酷な場はいけず、第一姦通ものがいけない。大経師昔暦、これは浄瑠璃中の名作やそうですが、おさん茂兵衛の間男を取扱つたのがいけないとあつてきつい法度、槍権三重帷子、これも同じ理由から文句が多く、しんとろとろりと見惚れる男槍の権三の人形はあまり舞台へは出られないのです。

 何も彼も理窟の世の中、現実を離れた人形の世界、人形の画く色恋の世界にまで理窟が入つて来ます。抱きつく所作もいけないし、抱きつくといふ文句もよくない−−といふので御霊にゐたころ、二十四孝の勝頼、八重垣姫のいちやつきの場[描く恋の場]「あとは互に抱き付き」のところを「寄り添うて」と直されたことがあります。「濡れにぞ濡れし濡衣の」といふ文句もある濃艶な場面、それをたゞ「寄り添うて」としたんぢや、も一つ情が生きないんです。

 以前はこゝで勝頼、八重垣姫の二人が抱きあつて、そのあとのはづかしさをパツと扇子を開いて紛らかす、そりやとても色つぽい錦絵のやうな情熱の世界を見せたものでした。重次郎、初菊の場合も同様です。義経千本桜すしやの段ではお里と維盛との契りに、枕二つ並べるのはいかんとあつて、枕を一つ減らされました。これも以前は枕二つ「思はせぶりとお里は立寄り−−二世も三世も固めの枕、二つ並べた云々」といふところでお里がいろ/\こまかいしぐさを見せたものです。(栄)

 それから桂川連理柵、長右衞門がお半の許へ忍んでゆくとこなども、大胆な恰好をそのまゝ遣つたものでしたが、無論今日許されるはずはありません。

 人形の世界も色気緊縮で、だん/\世智辛くなつてまいりました。(文)[筑摩:なし]

 よく文楽は亡びる、亡びる、と申されます。年百年中、おんなじものを繰り返し、くり返しやつてゝ一つとして新しいものを出さぬやないか、あれぢやだん/\飽かれてしまふ、イヤもう飽かれてしまつてゐるのだ、もつと目先の変つた新作ものでも出して、ドシ/\時代を引張つて行かなけりや、と仰有る、御尤もな話で、新作にせよ何にせよ、よいものさへあれば、ドシ/\やつて行きたい、ゆかねばならぬとは、内部のものゝ誰しも異存ないところです。ですが、さう/\うまい工合によい台本が出来ませうか。問題はそこです。

 もう三十[筑摩:三十何]年も前ですが、やはりさういふ議論があつて、稲荷座で桃太郎の鬼ケ島征伐をやつたことがあります。浄瑠璃が先代大隅太夫さん、三味線が豊澤団平さん、吉田玉造さんが猿、私が桃太郎を遣つたことがあります。また新派全盛時代、堀江明楽座で西郷戦争や雪中行軍−−八甲田山中−−などをやつたことがあり雪中行軍では後藤伍長を遣ひましたが、その時真白な雪の背景に、兵隊の服が黒、それに人形遣ひの黒んぽぢや引き立たぬといふのであの時ばかり白装束で出たことを覚えてゐます。その後も日清談判や乃木大将や、文楽でも時に応じて際物をやりましたが、どういふものかうけず、別して「じやんぎりもの」は不評判でした。太夫にも人形遣ひにもぴつたり心もちが来ないんですもの大衆にウケやうはずがありません。

 しかし時代です。いつまでもいつまでもそんなことをいつてもゐられません。文楽も御霊時代と違つてかうして大阪の真中へ乗り出して来ましてからは、建物も新しうなり見物にも若い方がドン/\殖えてまゐります。それに時代が時代、新らしいものへ新しいものへと無条件に飛びついてゆく今の世の中です。この時代の波に逆ひながら、しかも三百年伝統の誇りを捨てずに、古い人形を盛り立てゝゆくには余程の苦心と努力がいるわけです。

 たゞ何を申しましてもわたしどもは過去の人物、願ふところはこれからの若いもの、後を継ぐものゝひたすらなる芸道への精進です。(栄)(をはり)=大阪朝日新聞=
 
 

提供者:山縣 元 様(2004.02.23)