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【 筑豊故事 】

[2004.09.07]
提供者:ね太郎
 
日本庶民文化史料集成本、浄瑠璃研究文献集成本、霞亭文庫本を参照した。
フリかなは[ ]内に、左訓は〔 〕内に示した。
 
竹豊故事[ちくほうこじ]序
 
時津風浪静[なミしづか]成難波[なにハ]の浜[はま]、昔しの京と名に高き高津[たかつ]の宮の高台[たかきや]に登[のぼ]りて見れハ煙[けぶり]立茶屋ハいろはの四十八、櫓[やぐら]は八ッの定芝居[ぢやうじバゐ]、爰[こゝ]繁栄[はんゑい]の大湊[ミなと]、深[ふか]き恵[めぐミ]や道広[ひろ]き道頓堀の片辺[かたほとり]ニ住居[すまい]する老人有。年壮[としわか]き砌[ミぎ]りより竹本豊竹の浄瑠璃[じやうるり]を好[このミ]て、語[かた]る事ハ不得手なれど聞事[きくこと]ハ好者[すけべい]也。幾年[いくとし]か東西の浄るり[1オ]操[あやつり]の替りを見放[ミはづ]したる事もなし。住家より程近けれは芝居の木戸口へ成共毎日通ひ、外題[げだい]看板[かんばん]にても見て帰[かへ]らねは気分勝[すぐ]れす、余[あま]り此道を好[すけ]る故、知れる友達異名[いミやう]して筑後越前の頭字[かしらじ]を取筑越翁[ちくえつをう]と称[せう]しける。独[ひと]り住身の気散[きさん]しと、欠天目[かけてんもく]に徳利[とくり]引寄[ひきよ]せ、一杯[はい]の酒[さけ]に酔[ゑひ]を催[もよふ]す。酒呑童子[しゆでんどうし]の道行、月に分れて月に行、実哉[げにや]盧生[ろせい]が見し夢[ゆめ]の栄花[ゑいくハ]の[1ウ]程ハ五十年、仮[かり]の浮身の楽[たの]しミと、雪[ゆき]の段[だん]を副臥[そひふし]とし一睡[すい]するそ豊[ゆた]かなれ。時まだ東雲[しのゝめ]の比成に、若き者共数十人入来り、先生[せんせい]ハ御内に在ますかと案内す。主じハ空[むく]と起[お]きて戸を開[ひら]き、是ハ〳〵未[いま]た夜も明ざるニ各〃打連立ての御越[こし]ハ芝居行と推[すい]したり。初まる迄ハ余程[よほど]間も有ぬらん、先ッ烟草[たばこ]ニても参り、緩〃[ゆる〳〵]と御出あれ。して各〃方ハ筑後へか越前へかと尋[たづ]ぬれバ、大勢の中より親父分[おやぢぶん]進[すゝ]ミ出、否[いや]此人数の中にも[2オ]豊竹へ参[まい]る者も有、又竹本を見ニ参る人も候か、斯[かく]同道して宿元ハ出ましたれど、西贔屓[びいき]の、東連[れん]中のと、二組[くミ]ニ別れて動[やゝ]もすれば喧嘩[けんくハ]を仕出し姦[かしま]しい事てこさります。先生ニハ此道の御手+卒[ごすい]方故、芝居の訳[わけ]を能御存の義なれは、若い者共か片意地成贔屓論[ろん]を致さす、納得[なつとく]仕る御示[しめ]しを頼ミ申す。然れハ先ッ今日ハ芝居行を追ての事ニ致し、幸[さいハ]ひ能次でなれば、浄瑠璃操の由来[ゆらい]物語か聞まし度存ます。若い衆何れも何[2ウ]と〳〵と尋ぬれハ、皆〃聞て、是ハ一段と能思ひ付、御苦労[くらう]ながら御咄[はなし]を頼ミ上まする。筑越翁聞て、同気[どうき]相求[もと]むる御所望[しよもう]、幸[さいハい]某も徒然[つれ〴〵]の慰[なぐさ]ミ、然らハ物語致すへしと、大字七行の稽古[けいこ]本二・三札と巻物[まきもの]一軸[ぢく]とを手持[たづさへ]て座上ニ居[すハ]り、此来歴[らいれき]の義ハ余程年経[ふ]りし事と云、又物覚薄[うす]きハ老人の習[なら]ひ、伝へ聞しに違[たが]し品も忘[わす]れたる事も繁[おゝ]からん。併[しか]し所斑[まだ]らに咄し申さん、聞給へと、破[やぶ]れ扇子を叉[しや]に構[かま]へて、声繕[こハづくろ]ひし、東西〳〵東ヲ、西イ。
宝暦第六丙子の年 浪速散人一楽[3オ]
 
[4オ]・[3ウ]
 
引用書目
諸社神詫記  古今集 和歌雑題 和名集
増補鉄槌  下学集 羅山文集 南嶺子
指南 枯[木+兀]集 孟子 史記正義
同殷本記 顔氏家訓 周易略註 爾雅
老子経 周礼註 毛詩註 文選註
事類全書 風俗通 書言故事 紀原
小補韻会 調音秘決 名談集 首楞厳経
法界次弟 円機活法 白氏文集 世事談[4ウ]
竹豊故事巻之上目録
○南都[なんと]薪能[たきゞのう]事
○芝居濫膓[らんしやう]之事
○浄瑠璃来由[らいゆ]之事
○太夫受領[しゆれう]之事
〇三ヶ津浄瑠璃流布[るふ]之事
○古流之太夫盛衰[せいすい]之[の]事
○井上播磨掾之事[5オ]
○清水理兵衛之事
○竹本筑後掾来歴[らいれき]之事
〇同播磨掾之事
 
竹豊故事巻之中目録
○豊竹越前掾来歴之事
○同江戸肥前掾之事
○竹本豊竹東西之流義芝居繁昌[はんしやう]之事
○故人之太夫達評之事[5ウ]
○名人上手下手三品之事
○名人之太夫達教訓[けうくん]之事
〇五段続[つゝき]語[かた]り場[ば]役柄[やくがら]之事
○音曲[をんきよく]狂言[けうげん]綺語[きぎよ]之事
○呂律[りよりつ]五音[ごゐん]十二調子[てうし]之事
 
竹豊故事巻之下目録
○浄瑠璃作者[さくしや]之事
○近松氏之事[6オ]
〇三味線来由[らいゆ]同寸法故実[こじつ]之事
○同芸者[げいしや]苗字[めうじ]ニ沢之字を付ル事
○操[あやつり]人形之故事[こじ]
○同古今達人[たつじん]之事
○浄瑠璃古今[こきん]之[の]序[じよ]
○同当時[とうじ]太夫名人之評
○両座[りやうざ]中[ちう]見立之事
○両座繁栄[はんゑい]並逃助[てうすけ]之[の]字義[じぎの]事[6ウ]
 
竹豊故事 巻之上
 
芝居濫觴[らんしやう]並 薪[たきゞ]之能付 櫓[やぐら]木戸等之事
 
○抑[そも〳〵]芝居と云名目の起[おこ]りハ、人皇五十一代平城[へいせい]天皇大同[とう]三年戊子[つちのへね]の二月、南都[なんと]猿沢[さるさハ]の池の辺り成地面[じめん]に大き成土穴[つちあな]出来て其[その]うちより黒煙[くろけぶり]夥敷[おびたゝしく]立登り隣国[りんこく]に覆[おほ]ふ。其毒気[どくき]に触[ふれ]たる老若[らうにやく]男女[なんによ]悉[こと〴〵]く疫癘[ゑきれい]に侵[をか]されける。依レ之[これによつて]時の博士[はかせ]を禁庭[きんてい]に召さる。占者[ぼくしや]考[かんか]へ奏[さう]しけるハ、此穴より出る所の煙[けぶり]ハ地中の陰火[ゐんくハ]也。陰火亢[たか]ぶり逆上[ぎやくじやう]する則[とき]ハ万民悩[なや]むの理[り]に候ヘハ、陽火[やうくハ]を以て是を制[せい]し除[のぞ]かせ給ふへき由を奏聞[さうもん]しける故、却[すなハち]ち彼[かの]穴の上に薪[たきゞ]を積[つん]て焼立[やきたて][7オ]ける。此術[じゆつ]に因[よつ]て煙[けふり]も立止[やミ]、諸人[しよにん]の病悩[びやうなう]も平愈[へいゆ]せしとかや。猶又興福寺[かうふくじ]の南大門の前[まへ]なる芝[しバ]の上[うへ]にて翁[をきな]・三番叟[ばんさう]を舞[まハ]ハせ、其邪気[じやき]を祓[はら]ひ退[しりぞ]け給ひけり。今の代[よ]に至りても其故実[こじつ]に任[まか]せ、薪[たきゞ]の能[のう]と号[がう]し、芝の上に居[い]て執行[しゆぎやう]せり。其遺風[ゆひふう]を以て其後[のち]ハ猿楽[さるがく]・田楽[てんかく]・能[のう]・相撲[すまふ]・舞[まい]・哥舞妓[かぶき]・上[じやう]るり・操[あやつり]を勤[つとむ]る場処[ばしよ]を何[いづ]れも芝居[しバい]と号[がう]するハ此所縁[ゆへん]也。御免[ごめん]を蒙[かうふ]りて興行[こうげう]するにハ櫓[やぐら]を揚[あぐ]る。櫓も桟敷[さじき]もなきは場多[ハた]芝居と云也。櫓と云城戸[きど]と云ハ城郭[じやうくハく]に順[じゆん]じて大切成名目[めうもく]也。後世[こうせい]城の字[じ]を恐[をそ]れ木戸[きど]と称[しやう]す。又見物人の木札を改[あらた]め取、一人宛[づゝ]〆入[しめい]る体[てい]、鼠[ねすミ]の小[ちいさ]き穴[あな]を潜[くゞ]るに似[に][7ウ]たる故俗[そく]に鼠木戸[ねすミきど]と云習[なら]ハせり。櫓の上に梵天[ぼんでん]・帝釈[たいしやく]を勧請[くワんじやう]し障碍[しやうげ]災難[さいなん]を払[はら]ふ祈[いの]りとす。鑓[やり]を並[なら]ぶるハ非常[ひじやう]を禁[いま]しむる道具[だうぐ]也。慶長[けいちやう]の末[すえ]に哥舞妓[かぶき]芝居始り、寛永[くハんゑい]十二年に嶋田万吉と云名代にて、京都の北野・祇園[ぎおん]・四条・五条に於て浄瑠璃又哥舞妓をも興行[かうぎやう]し、廿日卅日程宛[つゝ]勤[つとめ]ける由、「山城[さんじやう]名跡志[めいせきし]」に見へたり。其後承応[しやうおう]三年甲午[きのえむま]の年よりも京・江戸・大坂三ヶの津共に定[でう]芝居を御免[こめん]有し也。
 
浄瑠璃[じやうるり]操[あやつり]之来由[らいゆ]並太夫受領[じゆれう]之事
○扨浄瑠璃の濫膓[らんしやう]ハ、永禄[ゑいろく]年中の比、織田信長公[をだのぶながこう]の侍女[つかへをんな]に小野[おのゝ]の小通[おつう]と云し秀才[しうさい]の艶女[やさをんな]有。古[いにし]への小野小町[おのゝこまち]をも欺[あざむ]く[8オ]斗の美[び]女成しとかや。信長公御生害[しようがい]の後ハ大閤[かう]秀吉公[ひでよしこう]の御簾中[ごれんちう]に召出され近仕[きんし]し侍[はんべ]りぬ。昔[むかし]、紫式部[むらさきしきぶ]「源氏物語[けんじものがたり]」を作[つく]り給へる例[れい]に習[なら]ひて草紙[さうし]を作[つく]り出せり。其趣向[しゆかう]ハ、往昔[そのかミ]左馬頭[さまのかミ]義朝[よしとも]の末子[ばつし]牛若丸[うしわかまる]、幼年[ようねん]の間ハ鞍馬[くらま]山に在ませしが、御父君の仇敵[あたがたき]平家を討亡[うちほろ]ぼさんと、密[ひそか]に彼[かの]山を忍[しの]び出、金商人[こがねあきんど]橘次[きちじ]信高[のぶたか]と云し者を語[かた]らひ、奥州[おうしう]伊達[だて]の秀衡[ひでひら]を頼[たの]ミ彼[かの]方に下向し給ふ折節、三河の国矢作[やはぎ]の長者が亭[もと]に宿[やど]り給ふ。彼[かの]舘[たち]の娘[むすめ]浄瑠璃御前[じやうるりごぜん]と忍[しの]びて契[ちぎ]り給ひし旧事[ふること]を彼[かの]小野の小通草紙[さうし]物語に作[つく]り畢ぬ。此矢矧[やはぎ]の長者に子の無ことを歎[なげ]き、同国[どうこく]碧海郡[あをミこほり]峯[みね]の薬師如来[やくしによらい][8ウ]に立願して儲[もふ]けたる娘成故浄瑠璃御前と名付[なつけ]、薬師瑠璃光如来[やくしるりくハうによらい]十二神将の縁[ゑん]を質[かたど]り十二段の草紙[さうし]を作り「浄瑠璃物語」と号[ごう]せし也。後鳥羽院[ごとばのいん]の御宇ニ信濃前司[しなのゝぜんし]行長[ゆきなが]入道と云し人、「平家物語」を作り、生仏[せうぶつ]と云盲眼法師[めくらほうし]ニ此物語りを教[をし]へ、節[ふし]を付、琵琶[びわ]ニ合せて語らせけり。彼[かの]生仏が生れ質[つき]の声[こへ]の風を今の琵琶法師[びわほうし]は学[まな]びたる由、「徒然草[つれ〳〵ぐさ]」ニ見へたり。是ニ例して岩舟[いハふね]検校[けんげう]と云し琵琶法師、音曲[おんぎよく]に達せし名人なるが、此「十二段」に節[ふし]を付たり。又滝野[たきの]検校[けんげう]・角沢[つのざわ]検校[けんぎやう]の両法師、三味線[さみせん]に合せて曲節[きよくせつ]を語[かた]り弘[ひろめ]ける。天正年中の末[すへ]、薩摩[さつま]治郎右衛門と云し者、角沢検校より[9オ]節[ふし]を習[なら]ひ伝[つた]へて、摂州[せつしう]西の宮の傀儡師[くハいらいし]を語らひ、木偶[にんぎやう]に仕形[しかた]をさせ「十二段」を語[かた]り始[はじ]めける。永禄[ゑいろく]年中に六字[ろくじ]南無[なむ]右衛門と云し女太夫、京四条川原に於て浄瑠璃操芝居を興行せり。夫より次第に弘[ひろ]まり、珍敷[めつらしき]慰[なくさミ]成とて、大名高家[かうけ]の奥方[おくかた]所〃ヘ召出され、後にハ大閤[こう]秀吉公の御上覧[らん]にも入、剰[あまつ]さへ慶長[けいちやう]年中にハ 禁庭[きんてい]へ召出され 叡覧[えいらん]に及[をよ]びしより、浄瑠璃太夫に受領[じゆりやう]を勅免[ちよくめん]成し也。
 
三ヶ津浄瑠璃流布[るふ]並古流[こりう]盛衰[せいすい]之事
○慶長年中の末より江戸に浄瑠璃繁昌[はんじやう]して、油屋茂兵衛・鳥屋治郎吉・四郎・与吉等の太夫有。別[べつ]して泉州[せんしう][9ウ]堺[さかい]の住[ぢう]薩摩[さつま]次郎右衛門、江戸に立越[こへ]大に名誉[めいよ]を顕[あら]ハし繁栄[はんゑい]し、後に法躰[ほつたい]して浄雲[じやううん]と云り。是浄瑠璃太夫の根元[こんげん]也。此浄雲の子も又薩摩[さつま]治郎右衛門と号し相続[つゞ]きて名人也。浄雲[しやううん]弟子丹後太夫・丹波太夫・源太夫・長門太夫、右の四人何れも虎[とら]屋と号せり。正保[ほ]慶安[けいあん]の比、四天王と称美[せうび]せし名人也。次に近江太夫、法躰して語斎[ごさい]と号す。江戸肥前[ひせん]・同外記[げき]・同土佐・虎屋永閑[ゑいかん]・江戸半太夫、剃髪[ていはつ]して坂本梁雲[りやううん]と号す。此人大薩摩[さつま]以来江戸近世の名人にして其名高し。河東[かとう]流[りう]と云も此末[すへ]也。
 
○京都に昔[むかし]ハ浄瑠璃葉流[はやら]す、説経[せつきやう]与八郎・哥念仏[うたねぶつ]日暮[ひぐらし][10オ]林清[りんせい]・同弟子林故[こ]・林達[たつ]等を翫[もてあそ]べり。寛[くハん]文年中ニ江戸虎屋源太夫上京有てより浄瑠璃繁昌[はんじやう]し、常[じやう]芝居も出来たり。源太夫弟子同喜太夫・同相摸[さがみ]太夫・越後[ゑちご]太夫続[つゞひ]て勤[つとめ]らる。源太夫弟子山本角太夫、延宝天和の比一流を語り出し大に繁昌し、山本土佐掾[とさのせう]藤原房正[ふさまさ]と受領[じゆれう]せり。角太夫弟子山本長太夫・治太夫・八太夫等名高かりし中にも、治太夫一流を工夫[くふう]し芝居を興行し、松本治太夫と一派[いつは]立られたり。是貞享[ていきやう]元禄[げんろく]の始め比の事也。
○虎屋源太夫門弟伊勢島[いせじま]宮内一流[りう]を語り出し、其弟子佐太夫相続[さうぞく]し、北野ニ於て常芝居を興行[かうぎやう]し、後ニ剃髪[ていはつ]して節斎[せつさい]と号[がう]す。[10ウ]
○伊勢島宮内の弟子に嘉太夫と云人ハ紀州[きしう]和歌[ワか]山の生れ也。元来[くハんらい]謡[うたひ]に達[たつ]したる上に伊勢島の風義を学ひ一流を建[たて]られたり。天和貞享の比より芝居を興行し、次第に繁昌[はんじやう]し、宇治[うじ]加賀掾藤原の好澄[よしずミ]と受領[じゆりやう]せられ、益〃[ます〳〵]宇治の一流を葉流[はやら]し、新作の浄瑠璃を作[つく]らせ稽古[けいこ]本大字八行の正本を始[はしめ]て板行[はんかう]させ、謡[うたひ]本のごとく節章[ふししやう]をさし初[はじめ]しハ此加賀掾根元[こんけん]なり。此人謡の音節[おんせつ]を和[やワ]らけ語[かた]られし故、呂律[りよりつ]甲乙[かんおつ]連続[れんぞく]して今の世迄も其遺風[ゆひふう]残[のこ]れり。
中比ハ大坂へも下られ、始終[しじう]卅年余[よ]京にて宇治の一流を葉流[はやら]せ、宝永八年卯の正月廿一日ニ死去[しきよ]せられぬ。法名ハ自証院[じせういん]本浄道融[ほんじやうたうゆう]居士[こじ][11オ]と称じ行年七十七才也。子息[そく]宮内[くない]相続[つゝい]て芝居を勤られぬ。門人数多[あまた]の中、野田[のだ]若狭[ワかさ]・富松[とミまつ]薩摩[さつま]・立花河内・宇治相模[さがミ]等、何[いづ]れも誉[ほま]れ有し也。別[へつ]して富松氏師匠[ししやう]の跡[あと]を相続[さうぞく]在[あり]て芝居繁昌せり。是宝永正徳享保[きやうほう]の始め比の事也。併[しか]し当時ハ此流を語る人もなく絶果[たへはて]たる同前、残念[ざんねん]の至[いた]り也。
○都太夫一中と云し人ハ、元来本願寺[ほんぐハんじ]派[は]京都或[ある]道場[だうじやう]の住職[ぢうしよく]成し由、若年[しやくねん]の比より浄瑠璃を好[この]ミ、山本土佐掾・松本治太夫等の流儀[りうぎ]を和[やわ]らげ一流を語り出し、終[つい]に相伝[さうでん]の寺を退[しりぞ]き浄瑠璃太夫と成、宝永正徳の比、一中節[ぶし]とて他国[たこく]迄[まで]も賞翫[しやうくハん]せしなり。乱髪[らんはつ]にて紋紗[もんしや]の十徳[じつとく]を着[ちやく]し、白練[しろねり]の長袴[ながばかま]少刀[ちいさかたな]を[11ウ]指[さし]て出語りを勤められし也。子息[しそく]も都和泉掾一中と号[がう]したり。
○都古路[みやこじ]国太夫ハ一中の弟子成故、始の名半中と云たり。後ニ国太夫又豊後[ぶんこ]と号せり。是一中節[ぶし]を又〃取直[とりなを]し一流を語り出し、三ヶの津ハ勿論[もちろん]、諸国[しよこく]の隅[すミ]〳〵迄流布[るふ]したり。併[しか]し他[た]の流と違[ちが]ひ、新作[しんさく]の五段物時代[しだい]事抔[など]ハ語られず、世話[せわ]事を専[もつ]ハら語[かた]られし也。門弟数多[あまた]在し内、可内[かない]・弁中[べんちう]等何れも名を顕[あら]ハされし。
○大坂表[おもて]にハ前〃[まへ〳〵]虎屋源太夫・表具[ひやうぐ]又四郎・道具[たうぐ]屋吉左衛門等の太夫達[たち]語[かた]られしか共、指[さし]て繁昌[はんじやう]と云程の事もなかりしに、元禄年中の比、京都山本土佐掾の門人岡本文弥、伊藤[12オ]出羽掾芝居にて一流[りう]を語[かた]り弘[ひろ]められ、大坂中文弥節[ぶし]とて持流[もてはや]しぬ。殊更山本飛騨掾[ひだのせう]、手妻人形の所作事[しよさこと]・繰[からくり]抔[など]取雑[とりまじ]へ見せられし故、其時代[じたい]の見物衆大に悦ひ繁昌し、大坂中ハ云に及ハす、遠国[ゑんごく]迄も名誉[めいよ]を顕[あら]ハされたり。其門弟岡本阿波太夫も相続[あいつゞい]て世[よ]に鳴[な]られし也。此人声柄[こへから]と云甲乙[かんおつ]共に揃[そろ]ひ上手成しか共、時移[うつ]り年変[かハ]りて一向[いつかう]当時[とうじ]ハ用[もち]ひず、惜[おし]き芸[けい]を埋[うづ]もれ仕廻[しまい]ニ終[をハ]られたり。此外江戸京の古流皆〃絶果[たへはて]、当時ハ両竹氏の流義諸国に弘[ひろ]まり繁昌す。尤江戸の半太夫・京都の国太夫等の流義[りうぎ]斗り残[のこ]るとハ云共、是等ハ座舗[ざしき]の一興[けう]又ハ哥舞妓[かぶき]の所作[しよさ][12ウ]事、或ひハ舞子の地、道行等の会訳[あしらい]に而已[のミ]語[かた]りて、段物・操[あやつり]芝居等にハ曾て用ひず。
 
井上播磨[はりま]掾並清水[しミづ]理兵衛之事
○寛文[くハんぶん]年中、大坂に井上市郎兵衛と云人有、生得[しやうとく]音声[をんせい]強敷[たくましく]、古流[こりう]の節譜[ふしはかせ]に心を付、浄瑠璃の道に工夫[くふう]を凝[こら]し、風与[ふと]江戸万歳[まんざい]の音[おん]に意[こゝろ]を付て躰[たい]となし、自然[しぜん]と珍敷[めづらしき]一流を語り出し、終[つい]に芝居を興行[こうぎやう]し、程無[ほどなく]受領[じゆりやう]して井上播磨掾藤原の要栄[あきひさ]と号[がう]し名誉[めいよ]を顕[あら]ハし、世ニ播磨流と称美[しやうび]せり。此人色〃に音声[おんせい]を遣ひ分[わけ]、品〃の節[ふし]を編[あミ]出されし遺風[ゆひふう]今の代に伝[つたハ]り、竹本・豊竹共に此流を用ひられし上、[13オ]其流[なかれ]を汲[くむ]太夫達、井上氏の節事を稽古[けいこ]せずと云事なし。其景[けい]事数多[あまた]有中に、掛[かけ]物揃[そろへ]・歌仙[かせん]の段[だん]・宮島八景[けい]・塩釜[しほかま]の段・晴明[せいめい]神颪[かミおろし]・跡目論[あとめろん]の馬の段・屏風八景[けい]・七夕祭[まつり]・五天竺[ぢく]・長生殿[でん]四季[しき]の段、是等の類[たぐ]ひ員[かぞ]ふるに暇[いとま]なし。此芝居の繁昌を浦山敷[うらやましく]思ひ、京都の銀主[ぎんしゆ]井上氏の一座を買切[かいきり]、四条の芝居を勤め居られし内、風与[ふと]病気付、五十四歳にて死去し都の土と成られぬ。貞享[ぢやうけう]二年丑[うし]の五月十九日、法名ハ夏月了音日弘[かげつりやうおんにちくハう]とかや伝[つた]へ聞し。
○播磨掾門人多き中、別[べつ]して井上市郎太夫・清水の理兵衛等ハ芝居をも興行し名高き太夫也。就中[なかんつく]理兵衛と云し人ハ[13ウ]安居天神の辺[ほとり]に住居[ぢうきよ]せる料[りやう]理茶屋成しか此道に執心[しうしん]深[ふか]く、声柄[こへから]能[よく]然[しか]も功者[こうしや]に能語られ、井上氏の奥義[おうぎ]を能呑込[のミこま]れし故、播磨掾死後に花香[はなか]失[うせ]ず、諸人今播磨とそ持流[もてはや]しける。後[のち]に剃髪[ていはつ]して伴西[はんせい]と号せり。
 
竹本筑後掾来歴[らいれき]並同播磨掾之事
○摂州[せつしう]東成[ひがしなり]の郡[こほり]天王寺村に五郎兵衛といへる農夫[ひやくしやう]有、生得[しやうとく]浄瑠璃を好[この]ミ、然[しか]も声柄[こへから]大音[おん]ニして清潔[さハや]かに甲乙[かんおつ]地[ぢ]合自然[しぜん]と兼備[けんび]せし大丈夫の生質[むまれつき]也。井上氏存命[ぞんめい]の間[あいだ]の浄るりを能[よく]学[まな]び、次に清水の理兵衛に彼流[かのりう]の奥義[おうぎ]を習[なら]ひ伝[つた]へ、且亦[かつまた]其比京都に名誉[めいよ]を顕[あら]ハされし達人[たつじん]宇治加賀[14オ]掾に立入て音節[おんせつ]の秘術[ひじゆつ]を受[うけ]て執行[しゆぎやう]し、古風[こふう]を仰[あふき]て心の師範[しはん]となし、肺肝[はいかん]を砕[くだ]き鍛錬[たんれん]を尽[つく]し、終[つい]に一流を語り出し、名を改めて竹本義太夫と号し、貞享二年乙丑の年、道頓堀ニ芝居を興行し、鞠□[手+卒][まりばさミ]の内に篠[さゝ]の丸を付たる櫓幕[やくらまく]の紋所、是竹本氏出世の始めなり。其上近松門左衛門新作を編[あミ]出し追[おひ]〃面白き趣向[しゆかう]と云、義太夫の語り盛[さかり]、見聞人此太夫ならてハと持葉流[もてはや]しぬ。殊更竹本筑後掾藤原の博教[ひろのり]と受領を申請、繁栄[はんゑい]の誉[ほま]れ四方[よも]に輝[かゝや]けり。元禄年中の末[すへ]、竹田出雲[いつも]掾竹本氏の座本となられ、人形操[あやつり]道具建[だて]に至る迄美[び]を尽[つく]さるゝにより[14ウ]益〃[ます〳〵]繁栄して流義弘[ひろ]まりぬ。併[しか]し定命[ちやうめう]限[かぎ]り有て正徳[とく]四年午九月十日、行年六十四才を一期[ご]とし終[つい]に死去[しきよ]せられぬ。法名ハ釈[しやく]の道喜[どうき]とそ称[せう]じける。一生涯[がい]の中其名高く、死後に至つて名誉[めいよ]を四方に顕[あら]ハし、世[よ]挙[こぞ]つて義太夫節[ぶし]と称美し、諸国一円[ゑん]に此流を学[まな]ひ繁茂[はんも]せり。又
○竹本政太夫と云人ハ大坂の出産、中紅[ちうもミ]屋長四郎とて未[いまだ]前髪[まへがミ]立の比より浄るりを好[この]ミ、竹本・豊竹の流義ニ執心[しうしん]厚[あつ]く、満間[まんま]と芸[げい]に仕負[しおゝ]せ、若竹政太夫と号し、始めて豊竹座を弐年勤[つと]めらるゝ内、節謡[ふしはかせ]に心を付て工夫せられ、段〃と浄瑠璃に実[ミ]のり、三年目に竹本座へ住[すん]て立物と成、筑後[15オ]掾の跡替[あとかハ]りを勤らるゝハ、兼[かね]て心懸の深[ふか]き故と衆人の称美[しやうび]浅[あさ]からす。夫より次第ニ立身在て竹本義太夫と変[へん]名し、相続[あいつゝい]て播磨掾[はりまのせう]藤原の喜教[よしのり]と受領せられしが、不幸[ふかう]にして延享[ゑんきやう]二年乙丑[きのとのうし]の七月廿五日に行年[きやうねん]五十四才にて死去せられ、不聞院[ふもんいん]乾外[けんぐハい]孤雲[こうん]居士[こじ]と称[せう]し、冥途[めいど]の太夫となられしハ扨〃残念[ざんねん]〳〵。又大和太夫と云し大音[をん]の名人有、若年[じやくねん]の砌[ミぎり]より竹本座を勤め、故[こ]政太夫と肩[かた]を並[なら]べられし大立物成しが、惜哉[おしや]芸盛[げいざかり]りに此世[よ]を去られて是非[ぜひ]もなし。此外陸奥茂[みちのくも]太夫・多川源太夫・竹本頼母[たのも]・幾世太夫・内匠理太夫・和泉太夫・河内太夫其余[よ]上手分の語[かた]り手在しか共、何れも故[こ]人となられ無念[むねん]残念[ざんねん]。
巻之上終[15ウ]
 
 
竹豊故事巻之中
 
 豊竹越前掾来歴[らいれき] 並江戸同肥前掾之事
○豊竹氏ハ大坂南船場[せんば]の出産、若年の時より井上・竹本の流義を学び、家業を打捨浄瑠璃に心を籠[こ]めて工夫を凝[こら]し、終に達人の名を世上に顕[あら]ハされぬ。世に冠[くハん]たる器量[きりやう]の験[しる]しにや、音声[おんせい]天然[てんねん]と格別[かくべつ]に生れ質[つか]れし上、衆人ニ秀[ひい]でたる器量[きりやう]備ハり、十八歳の比より竹本采女[うねめ]と号して芝居を勤められ、程なく豊竹若[わか]太夫と変[へん]名し、暫時[ざんし]ハ竹本氏と一所に務[つと]められしか共、壮若[さうじやく]の時より別に芝居を興行して段〃と立身有、豊竹上野掾より再転[さいてん]して[1オ]越前少掾藤原の重泰[しげやす]と受領[じゆれう]し、益[ます]〃名誉[めいよ]を世上ニ暉[かゝやか]し、晩年[ばんねん]に至[いた]り功成[こうなり]名遂[なとげ]て隠居[ゐんきよ]せられし後[のち]も、芝居の繁栄[はんえい]町中の贔屓[ひいき]弥[いや]増[まさ]れり。年齢[ねんれい]八十歳に近けれど長寿[じゆ]の上堅固[けんご]也。斯[かく]入納[いりまい]の連続[れんぞく]したる果報[くハほう]人ハ当道ニ於て古今例[ためし]なし。
○江戸の豊竹肥前掾ハ元来大坂の出生也。若年の比より此道ニ立入、昼夜の修行[しゆぎやう]怠[をこ]たらず、越前掾ニ随従[ずいじう]し新太夫と号して勤[つと]め居[い]られしか、享保年中お江戸ニ立越、程無芝居を興行有て繁昌[はんじやう]し、次第〳〵に町中の贔屓[ひいき]強[つよ]く、豊竹肥前掾と受領[じゆれう]し剰[あまつ]さへ芝居迄求[もとめ]られし由、大き成御立身、猶又定[でう]芝居の浄瑠璃薩摩座・辰[たつ]松座ハ休[やすミ]の時も[1ウ]有ぬれど、豊竹座斗ハ絶[たへ]せぬ繁昌にて相続[さうぞく]せらるゝハ徳の顕[あら]ハれし所也。三ヶ津に古来より名人の太夫衆数多[あまた]在しなれど、芝居主[ぬし]と座本と太夫との三つを兼備[けんひ]せられしハ、京都に宇治加賀掾、大坂に豊竹越前掾、江戸にハ豊竹肥前掾との三人斗との噂[うハさ]、先以目出度そんし参らせ候。
 
竹豊東西之流芝居繁昌之事
○竹本豊竹の流義ハ時に合ひし浄るりと云つへし。其証拠[せうこ]ハ古代ニ流布[るふ]せし江戸の薩摩。土佐。外記。半太夫等の流、京都の山本。宇治。都一中。抔[など]の節、大坂にハ伊藤出羽掾座の文弥節ハ諸国の浦〃[うら〳〵]隅〃[すミ〳〵]迄も葉流[はやり]遠国[をんごく]辺土[へんど]の[2オ]西国順礼[しゆんれい]の衆中、京都にてハ御内裏様[おだいりさま]、大坂へ来てハ出羽[でわ]様の芝居を見て帰[かへ]らねハ西国したる甲斐[かひ]もなく、死[しん]てハ焔魔[ゑんま]大王の前[まへ]にて言訳[いゝわけ]の無様に有難[ありがた]かつて持賞[もてはや]しけるに、今にてハ其名代さへ無成ぬ。勿論[もちろん]、冷泉[れいせい]・網戸[あミど]・平家[へいけ]・説経[せつきやう]・哥念仏[うたねぶつ]・哥祭文[うたさいもん]抔[など]云物ハ聞知りたる人も稀[まれ]〳〵にて、只両竹氏の流義而已[のミ]諸国一円[ゑん]に流布[るふ]せるハ当流の大き成矩摸[きぼ]と謂[いゝ]つべし。猶又古来[こらい]の浄瑠璃ハ文句短[ミじか]く只有辺[ありべ]懸り成事にて、左而已[さのミ]切替つたる趣向[しゆかう]もなし。操[あやつり]道具も麁末[そまつ]成仕方にて、大方ハ黒幕[くろまく]と山簾[すだれ]とにて仕舞[しまひ]ぬ。人形の衣裳[いしやう]ハ鍮泥[ちうでい]の摺込[すりこミ]模様[もよう]、女人形[2ウ]ハ紅[もミ]の表[おもて]ニ浅黄裏[あさぎうら]抔にて事足りぬ。元来足付人形抔は曾[かつ]てなかりし事也。其後次第に操芝居繁昌せるに付、道具建[たて]・衣裳[いしやう]等漸〃[せん〳〵]に向上[かうじやう]に成、別して竹本豊竹両座と成てより、東ハ西に負[まけ]まじ、西ハ東ニ勝[まさ]らんと、互[たか]ひに励[はげ]ミ出来、益〃[ます〳〵]芝居繁栄し、浄瑠璃の作者ハ種[しゆ]〃様〃の趣向を工[たく]ミ出し、道具建[だうぐたて]にも金銀を惜[おし]ます、金襖[ふすま]にて舞台[ぶたい]を暉[かゝや]かし、或ハ数寄屋[すきや]懸[かゝ]りの[手+卒][すい]成思ひ付に智恵[ちへ]袋の底[そこ]を振[ふる]ひ、人形の衣裳[いしやう]にハ縮緬[ちりめん]・緞子[とんす]・繻子[しゆす]・金襴[きんらん]等にて美麗[びれい]を尽[つく]し、詰[つめ]人形の外ハ皆〃足付と成、出遣ひの外ハ介錯[かいしやく]・足遣ひ・立懸り、哥舞妓役者の所作[しよさ]より増[まさ]りて[3オ]
 
[4オ]・[3ウ]
 
 
天晴[あつはれ]見物事也。併[しか]し西か東か一座斗ニてハ斯[かく]繁昌もせまじ。当時ハ町中の若い衆、豊竹講の竹本講[こう]のと号[がう]し、毎月掛銭[かけせん]を集[あつ]め置、替[かハ]り浄るりの節[せつ]、進物[しんもつ]の入用に仕[し]給ふとかや、扨〃奇特[きどく]千万成御心中、益〃[ます〳〵]信仰[しんこう]なさるべし。
 
名人上手下手三品評判之事
○猶又次でながら故人達[こじんたち]の名言[めいごん]共を思ひ出る儘[まゝ]に咄[はな]し申さん。故[こ]陸奥[みちのく]茂太夫・多川源太夫・豊竹幾世太夫・竹本播磨掾・同頼母・大和太夫・和泉太夫・河内太夫以下其時代に名人と呼[よバ]れし太夫衆も、筑後掾・越前掾の両元祖[ぐハんそ]に及ふ音声[おんせい]ハ壱人も有へしとハ思ハれす。両祖師ハ天性[てんせい]自然[しぜん][4ウ]の達人成故に卻句[けつく]甲乙[かんをん]偏頗[へんば]の輩[ともから]の師範[しはん]にハ成難かるべきか、其故如何となれバ、斯[かゝ]る衆中の師伝を受[うけ]得ても音声[おんせい]不都合[ふつがう]の輩[ともから]ハ其流[りう]を直写[すぐうつ]しに語る人ハ稀[まれ]成べし。喩[たと]ヘハ麁相[そさう]成木地の道具を上手成塗師[ぬし]か塗[ぬり]上たると、又島桐[きり]・さつま杉抔の木工目[もくめ]能[よき]木地道具との違ひ有がごとく成べし。両元祖ハ木地道具のごとし、其外の上手分と呼ハるゝ衆ハ皆下手を塗[ぬり]上げて能[よく]仕立たる上手成べし。夫故に今の世に誉[ほま]れ有衆中ハ皆下手を塗直[ぬりなを]して能芸[よきげい]にする筋を懇鍛[こんたん]しての上[うへ]、素人[しろうと]の弟子中に教[おし]へらるゝ故に、此理[り]を以て考[かんがふ]れハ、ケ様の太夫衆を師匠[ししやう]と頼み稽古[けいこ]せられハ利方能[よ]からんと存せらる。故竹本[5オ]播磨掾・当時の豊竹筑前掾。豊竹駒太夫。竹本錦太夫等ハ音声[をんせい]兼備[けんび]の達[たつ]人と云にハ非され共、切瑳琢磨[せつさたくま]の功を積[つミ]て名人の誉[ほま]れを取られしと存る。菟角[とかく]上手分と呼[よバ]るゝ太夫衆ハ何分にも生質[むまれつき]の器量[きりやう]薄[うす]くてハ名ハ揚[あけ]られまじ。又都べての芸者[げいしや]に名人と上手と下手の三品有。先ッ名人と言ハ其一道に生れ付ねハ達[たつ]人名人抔といふ場[ば]にハ行届[とゞ]き難かるべし。下手にても骨髄[こつずい]に徹[てつ]して其芸に執[しう]心深く修行[しゆぎやう]の功[こう]積[つも]りなハ上手と云迄にハ成べき也。名人に成べき浄るりハ未[いま]だ功も無[なき]内[うち]より程拍子[ほどひやうし]の間合[まあひ]能[よく]、開語[かいご]訳能[わけよく]聞[きこ]へ清潔[あさやか]なる音声なる上、序破急[じよはきう]の気転[きてん]取[と]り[5ウ]廻[まハ]し能[よく]語らる人ハ名人になるべき器量[きりやう]兼[かね]て見へ透[すく]物也。然れ共其名人と成べき仕出しの浄瑠璃なれ共稽古[けいこ]修[しゆ]行に情[せい]の入ざるハ悪□[イ+曲][わるこじけ]に成、上手分と云場[いふば]迄も行届かず終[をハ]る太夫衆も有し也。又硬付[こじつけ]て当[あた]りを取らんと而已[のミ]思ひ語[かたる]衆中ハ大方下手分の為業[しわざ]也。「顔氏家訓[がんしかきん]」に曰[いハく]、上智[ち]ハ教[をし]へずして成[なる]、下愚[かぐ]ハ教[をし]ふと云共益[えき]なし、中庸[よう]の人ハ教へざれハ知らずと有、此語[ご]実[まこと]に宜[むべ]成かな。所詮[しよせん]名人と云ハ、芸の道堪能[かんのう]にして、其為[な]す業[わざ]自然[しぜん]と至極[しごく]の場[ば]に至り、感応[かんをう]見物の心魂[しんこん]に的[てき]するを云成べし。故[こ]竹本筑後掾・同播磨掾・隠居[いんきよ]豊竹越前掾・三味線[ミせん]故[ご]鶴沢[つるさハ]友次郎・人形当時の吉田文三郎等の類[6オ]ハ神化[しんくハ]不測[ふしき]の名達人と称[せう]じて誰[たれ]か非言[ひごん]有らん哉。次に上手と云ハ夫〃の業[わさ]を能なすを言也。併[しか]し上手なれとも名誉[めいよ]の少き人も前〃に在し。故[こ]陸奥茂太夫・竹本頼母。和泉太夫等也。又上手の至[いた]る所にて名誉在しハ故河内太夫・当時の竹本大和掾・同政太夫等成べし。又上手分の中にて大丈夫成声柄ハ見物の讚[ほむ]る掛声[かけごへ]も多く、是等の衆ハ時に合たる名物[めいぶつ]と云べし。故竹本大和太夫・当時の豊竹若太夫等を云べきか、何分上手と呼[よハ]るゝ太夫衆ハ数無[すくなく]こそ。
 
 名人之太夫達弟子中江教訓之事
○井上播磨掾、清水の理兵衛に示[しめ]されて曰、浄[じやう]るりの一[6ウ]躰、秋ハ随分[ずいふん]声花[はなやか]に語るべし。是人の陰気[らんき]を引立んが為也。春ハ引〆[ひきしめ]て和[やハ]らかに語るへし。人の気浮立[うきたつ]時なれハ引〆ざれハ人の情[せい]寄[よ]らず。時の気に乗[じやう]じて和[やハ]らかならざれば人の情[こゝろ]に応[こた]へ難[かた]しと教訓[けうくん]せられし由、是に依て思ふに、「増補[ぞうほ]鉄槌[てつつい]」に北[きた]村季吟[きぎん]の曰、呂[りよ]ハ凡[すべ]て和[やハら]か成音[おん]也、律[りつ]ハ立て硬[こハ]き音也、唐土の音声[をんせい]ハ和[やハ]らか過[すぎ]て聞分かたし、日本の言語[げんぎよ]ハ清濁[せいだく]分明[ふんめう]鮮然[あざやか]にして剛[つよ]く聞ゆる。唐土[もろこし]ハ呂[りよ]の国也、日本ハ律[りつ]の国也。是和漢[わかん]呂律[りよりつ]の不同、呂ハ陰、律は陽也。和朝[わてう]にハ呂ハ春に用ひ律ハ秋に用ゆ、唐土ハ是に反[へん]すと云云。依之[これニよつて]見る則[とき]ハ井上氏も此理[り]ニ達[たつ]せられし名人と覚[おぼゆ]。[7オ]
○宇治加賀掾、門弟に教訓せられて曰、浄瑠璃を稽古するに面白気なく高き声有、美敷[うつくし]けれ共生得[しやうとく]低[ひく]き声有。大音にて下手なるハ執行[しゆぎやう]すれハ上手に成べし。一躰[たい]小音にて紋切[あやきれ]のせぬ音声[おんせい]ハ何程心懸ても其甲斐[かひ]なかるべし。又如何様成上手成共、我芸に自慢[じまん]の心か有て語られハ浄るり竦縮[すくミ]て声花[はなやか]ならぬ者也と示[しめ]されし。
○竹本筑後掾へ陸奥茂太夫初心の砌[ミぎり]、問[とふ]て曰、女の詞ハ如何心得て語り可申や。筑後掾答[こたへ]て曰、第一に傾城[けいせい]の詞を能[よく]合点[がてん]して語らるへし、漂[べた]〃と語れハ懦弱[だじやく]に聞へて下品也。只挨止[あとめ]なく蓬然[ぼんじやく]と柔従[うらやか]成言葉を能〃考へ[7ウ]らるへし、是さへ語り胝□[女+廷][こなさ]るれハ外〃の事共ハ皆語り易[やす]かるべし。其故如何となれハ、語る処の者元来[くハんらい]男成故□[イ+吉][きつ]としたる事ハ生質[むまれつき]に持て居る故也。次に心得へきハ高位[かうゐ]成御方の詞をハ能[よく]勘弁[かんべん]せらるへし。貴[たつと]き御方の詞成とて位[くらゐ]を取過て語れば至才[しさい]らしく成て聞ぐるし。此段稽古に工夫せらるへしと教訓[けうくん]有しとかや。
○豊竹越前掾、門弟和泉太夫・河内太夫等に示[しめ]されて曰、芸に精[せい]を入[いる]ると云ハ、我役割[やくわり]の場[ば]を能工夫して稽古に飽[あく]迄精を出し、扨床[ゆか]へ上りてハ心を安らかに思ひて語るへし。稽古に精を入てさへ置ぬれハ易[やす]らかに語りても少も間抜[まぬけ][8オ]ハせぬ者也。兼ての工夫に心を尽[つく]さず、床にて斗精を入るれば、力身立[りきみたち]、行詰[ゆきつま]りたる様に聞へて賎[いや]し。其上操への移[うつ]り、人形の働[はたら]き迄が不都合[ふつかう]に成と教[をし]へられし由、伝へ聞たり。
○加賀掾門人宇治甚太夫・伊太夫寄会談せしハ、師匠[ししやう]の語らるゝ節[ふし]所ハ見物衆極[きハめ]て讚[ほめ]ざると云事なし。我〃ハ随分[すいふん]精を入大事に語りても見物衆の懸声[かけこへ]なきハ合点[かてん]行すと咄[はな]し合けるを、加賀掾聞て曰、皆の衆ハ語り出すと否[いなや]や讚[ほめ]られんと而已思ひ、始終[ししう]面白様に語る故要[かなめ]の場[は]に至つて声[こへ]疼[いた]ミ聞ゆる故、讚[ほめ]度ても声の懸られぬ様に成也。某[それが]しハ唯[たゞ]何となく安らかに語り、節所要の場処に至りて[8ウ]精を入語る也。始終共見物衆の掛声を取らんと而已心得ハ肝心[かんしん]の場[は]当るべからずと云云。斯る示[しめ]しを伝へ聞れしにや、又自分の発明[はつめい]成や、故竹本播磨掾・当時の豊竹筑前掾等ハ此教訓[きやうくん]の理[り]に合[かな]ひし語り方の様に聞ゆるなり。
○岡本文弥の曰、荒[あら]事を語る時ハ上るりの文句相応に強[つよ]ミを引張[はり]て語るへし。上辺斗を語り並へても人形の働きと相応せず、心と形[かた]ちと二ッに成故当り目なしと云れし由、尤成理也。併し事ハ一図[づ]ニ斗了解[りやうげ]すへからず。或太夫、酒の酔[ゑひ]の場[は]を受取て語られしに、床[ゆか]へ上る時に臨んて茶碗酒を二三盃[はい]呑[のん]て語られしに、一段と見物の請能[うけよく]出来晴[できばへ]せし[9オ]とかや。ケ様の人に若[も]し手負[てをひ]の場[ハ]抔を語らさハ、床へ上る時毎日肩先[かたさき]にても二三寸斗切られて後[のち]に語らるや、一笑[しやう]〳〵、何様[いかさま]の場[バ]成共只一心の工夫ニ有へき也。
 
浄瑠璃語り方心得之事
 
○芝居を勤め給ふ太夫衆ハ文句の清濁[すミにご]り・節[ふし]付等にも心を付給ひて麁相[そさう]の無様に心得給へかし。物置[おき]・納屋[なや]の連子[れんし]ハ破[やぶ]れても人目に立ず、座敷[ざしき]の障子紙[せうじかミ]ハ少の破[やぶ]れにても見苦[ミぐる]しゝ。元禄年中に岡本文弥の語られし上るりに老[らう]女の恋慕[れんぼ]せる段の文句[く]に、しらかミすじに油付と云所を、岡本氏ハ、白髪[しらが]三筋[すじ]に油付との開語[かいご]に語[かた][9ウ]られし也。虎屋源太夫此所を難[なん]じて曰、此文句作者の心にハ白髪筋[しらかミすじ]に油付にて有べし、如何なれハ三筋や五筋の髪[かミ]の毛[け]にハ油を付る事ハ成まじ。勿論[もちろん]三筋斗の白髪[しらが]ハ目にも見へず手にも懸るまし。併[しか]し文弥ハ天性の妙音[めうおん]にて何事も声[こへ]にて押[お]せハ是非[ぜひ]に及ハず。一声[こへ]二節[ふし]と云なれば文盲[もんもう]にても時の誉[ほま]れを取し人也と云〃。故実[こじつ]を知り顔[がほ]に自慢[じまん]せられても声柄の甲斐[かひ]なき人を喩[たと]へて云ハ、智恵[ちえ]有人の貧乏[びんぼう]成に同じ。不都合[ふつがう]にても声の能語り手ハ有徳[うとく]成人の阿房[あほう]に同じ。賢[かしこ]くて金持たらんハ猶以て好[この]ましかるべし。然れハ声の能を頼ミにして[10オ]執行の薄[うす]き太夫衆ハ名人と云にハ成難かるべし。
○芸者[けいしや]の身の上斗にも限[かきら]ざる事なれど、運[うん]の能と悪敷と有。先運[うん]悪敷人ハ至極[しごく]の上手なれ共時に合ずして用ひられぬ身の上も有、或ハ自分の器量[きりやう]を顧[かへり]ミず、古実[こしつ]を守るが能と斗心得、筑後・越前両元祖の語られし通を直写[すくうつ]しにせんと而已思ひ語らるハ了解[りやうけ]違[ちが]ひと云成べし。斯[かゝ]る人を喩[たと]へて云ハ学問[がくもん]に能[よく]達[たつ]したる僧[そう]の談義[だんぎ]の下手成と同意也。仏の本意斗説[とき]て方便[ほうべん]説[せつ]を雑[まし]へざれハ聴衆[ちやうしゆ]眠気[ねむけ]出[いで]、次第に参詣[さんけい]も薄[うす]らく者也。而[しか]れバ何を以て衆生に済度[さいど]利益[りやく]を施[ほどこ]さん[10ウ]哉。機[き]に因[よつ]て法を説[とく]と云なれハ此段浄瑠璃に引当工夫有べし。併し芝居を見、浄るりを聞ハ欝気[うつき]を晴[はら]さんが為の慰[なぐさ]ミ事なれば、菟角[とかく]して成共見物衆を悦ハさんと、名誉[よ]有し太夫達の真似[まね]をし、又ハ哥舞妓[かぶき]役者[やくしや]の詞色[こハいろ]を似[に]せ、或ひハ放広[おどけ]にて当りを取らるゝハ本道の当りとハ云難し。道外[どうけ]がましき語り方ハ場[ば]の見物衆への当りハ有べけれど、桟敷[さんじき]に居らるゝ衆の耳[ミヽ]にハ悦ハれまじ。何とやら此近年ニ及びてハ両元祖の語り弘[ひろ]められし遺風[ゆいふう]ハ薄[うす]らぎし様に聞ゆる也。
 
五段続 語り場役柄之事
 
○連中問[とう]て曰、浄るり五段続拾壱弐幕[まく]の内、何れの場[11オ]か大切に候哉 筑越翁答て曰、是を五段ニ綴[つゞ]るハ能の番組[ばんくミ]ニ同じ。初段ハ脇能[わきのう]、弐ハ修羅[しゆら]、三ハ葛事[かつらこと]、四ハ脇所作[わきしよさ]、第五ハ祝言[しうけん]也。大躰[てい]是ニ表[へう]せる物也。其内第一太夫の重[おも]んする所の役[やく]と謂[いつ]ハ大序[じよ]と三段目の切。第二ハ四段目の切と道行、第三ハ二段目の切と三段目の口也。第四ハ初段の切と四段目の口也。
又出語りハ三段目の詰と同敷大切成役也。其外作趣向[さくしゆかう]に依[より]て景[けい]事抔[など]に限[かぎ]らず、此余[よ]の所にも要[かなめ]とする能場所有べし。古来より両元祖大概[かい]此意[こゝろ]を以[もつ]て勤[つと]め役割[やくわり]をもせられたり。右に談[だん]するごとく、大序ハ一座の立物太夫の勤めらるへき第一の大役也。先ッハ其日の祝儀[しうき]と云、次にハ見物[11ウ]衆への一礼の為也。尤一部[ぶ]の始成ハ末〃の軽[かろ]き衆にハ語らせ間敷場也。「爾雅[じが]」の釈語[しやくご]に曰、序[じよ]ハ叙[ぢよ]也緒[しよ]也と。然る則は其綱要[かうよう]を挙[あぐ]る事蠶[かいこ]の糸[いと]を抽[ぬきん]づるが如しと云云。序と云字を糸口[いとくち]と訓[よむ]也。其糸の口乱[ミだ]れなバ始終[しじう]の乱[ミだれ]と成なん物を、而るに此近年良[やゝ]共すれハ軽[かろ]き太夫衆の大序を語らるハ歎[なげ]かハ敷事に非ずや。併し今時の太夫達ハ両元祖程ニ大丈夫に有ざる故、三段め四段めの本役を大事と思ハるゝから、未だ見物も入揃[そろ]ハさる間の役故、此大役を未熟[みじゆく]成衆中に勤めさゝると推量[すいりやう]せり。故[ご]筑後掾存命の節ハ今時程浄るりも永[なが]からず、越前掾時代に至り[12オ]てハ五段続[つゞき]も次第に永く成しか共、大序・三段・四段めの切ハ勿論[もちろん]、五段目ニ景[けい]事の有しか共、要[かなめ]の場ハ越前掾壱人して勤められし也。「老子経[らうしけう]」ニ曰、天下の難事[なんじ]ハ必[かなら]ず易[やす]きより作[おこ]る、天下の大事ハ必ず細[こま]か成より作[をこ]ると云云。然れハ大序ハ勿論[もちろん]其外の役儀を緩[ゆる]かせにし給ふべからず。又末〃[すへ〳〵]の太夫衆、初段の中。五段目落合等の軽[かろ]き場を受取給ふ共。其役儀を大切ニ存られ工夫を付て勤め給ハヽ次第ニ立身し給ふべし。指[さ]せる場にあらずとて捨鞭[すてむち]を打給ふことなかれ。
 
音曲[をんぎよく]狂言綺語[きやうげんきぎよ]並呂律[りよりつ]五音[ごゐん]十二調子[てうし]之事[12ウ]
○惣じての音曲を「名談集[めいたんしう]」にハ郢曲[ゑいきよく]共俳優[はいゆう]共戯遊[けゆう]共云なり、何れも狂言[きやうげん]綺語[きぎよ]の戯[たハむ]れ事也と云云。狂言とハ物狂[くる]ハ敷詞[ことハ]也。「法界[ほうかい]次第」に曰、綺[き]ハ側[かたハ]ら也、語[ぎよ]ハ辞[こと]バ也と言。心ハ道理に卒[そむく]を綺語と名づくと云云。「周礼[しうらい]」の「註[ちう]」に曰、発端[ほつたん]を言[けん]と云、答[こた]へ述[のぶ]るを語[ぎよ]と云と云云。「毛詩[もうし]」の「註[ちう]」に曰、直[すぐ]に言[いふ]を言と云、論難[ろんなん]するを語[ぎよ]と云と云云。然れハ狂言綺語と云ハ堅[かた]き事を和[やハ]らげ、或ひハ方便[ほうへん]の為に戯[たハ]むれ言[ごと]をなして愚[おろ]か成人を善道に導引[みちびく]謀計[はかりこと]の誡[いま]しめ也。白楽天[はくらくてん]の「洛中集[らくちうしう]」の記[き]に曰、願[ねがハ]くハ今生[こんじやう]世俗[せぞく]文字の業[ごう]、狂言[けうげん]綺語[きぎよ]の誤[あやま]りを以て翻[ひる]がへして当[とう]来世〃讃仏乗[せんぶつぜう]の因[ゐん]、転法輪[てんほうりん]の縁[ゑん]となし給へと云云。[13オ]此文に依[よつ]て観[ミ]る則[とき]ハ諸法[しよほう]実相[じつそう]の理[り]顕然[げんぜん]たり。峯[ミね]の嵐[あらし]・谷[たに]の響[ひゞ]き・鴉鳴[あミやう]鵠躁[しやくさう][からすなきかさゝぎさハぐ]皆仏法と観[くハん]ず。況哉此浄瑠璃の文句趣向[しゆかう]、表[をもて]にハ世間の戯相[けさう]を顕ハすといへ共勧善[くハんぜん]懲悪[ちやうあく]の深理[しんり]を含[ふく]ミ、詞にハ当世の人気を察[さつ]して作文をなせり。神祇(じんぎ)・釈教[しやくきやう]・幽玄[ゆうげん]・恋慕[れんぼ]・哀傷[あいしやう]・兵戈[ひやうくハ]・君臣[くんしん]・父子・夫婦・兄弟・朋友[ほういう]等の五倫[りん]の道を正[たゞ]し、世の為人の為専一[もつはら]賞翫[しやうくハん]すべき道也。信[しん]すべし、見物すべし、聞へし、心を止[とどめ]て語[かた]るべし。
 
○夫[それ]若以[おもんみれバ]、謡[うたひ]・浄瑠璃等の郢曲[ゑいきよく]の譜[しらべ]ハ狂言綺語[きぎよ]の嬉遊言[たハむれごと]成とハいへ共、其態[わざ]堪能[かんのふ]に達する則ハ、音義[をんぎ]正しく、大鐘[たいしやう]。大族[たいそく]。姑洗[こせん]。[X]賓[すいひん]。夷則[いそく]。無射[ふゆき]等の六律[りつ]に通[つう]じ、大呂[りよ]。夾鐘[かうしやう]・[13ウ]仲呂。林鐘[りんしやう]・南呂[なんりよ]・応鐘[おうしやう]等の六呂[りくりよ]にも達す。「史記[しき]」の「正義」に曰、律[りつ]ハ気を統[すべ]て物を類[るい]す、呂ハ陽[やう]を統[すべ]て気を宣[の]ふと云云。呂律調和[ちやうわ]すれハ化来[おのつから]宮[きう]・商[しやう]・角[かく]・徴[ち]・羽[う]の五音[いん]ニ達せる故、衆人の六根[こん]に徹[てつ]して心耳[しんに]を清[すま]させ、六塵[ちん]六情[せい]の偏欲[へんよく]を厭離[ゑんり]なさしめ、神魂[しんこん]を清浄[しやうぜう]になさしむる也。「調音[ちやうおん]秘決[ひけつ]」に曰、○甲[かん]ハ声[こへ]の始[はし]め也。其音上つて天の五薀[うん]と成、寒[かん]・暑[しよ]・燥[さう]・湿[しつ]・風[ふう]なり。呼息[ひくいき]則[すな]ハち天也、陽[やう]也。一調[てう]子高きを甲の音とす。○乙[おつ]ハ声の終[をハ]り也。其音下[くだ]つて地[ち]の五立[りう]と成、金[きん]・水[すい]・木[もく]・火[くハ]・土[と]たり。吸息[ひくいき]則[すな]ハち地也。三調子[てうし]下[さが]るを乙の音[おん]とす。○呂[りよ]ハ悦ひの音也、陽也。双調[さうてう]・黄鐘[わうしき]・一越[いちこつ][14オ]調[てう]等ハ呂の音也。是天を司どる。天上にハ楽しミ多き故に此調子を悦の音と云也。○律[りつ]ハ悲[かな]しミの音也。平調[へうてう]・盤渉[はんしき]ハ律の音なり、陰也。是地を司[つかさ]どる。下界[かい]にハ苦[くる]しミ多き故に歎[なけ]き憂[うれ]ふるの音とす。○角[かく]の調子ハ肝[かん]の臓[ざう]より出る。和調[わてう]にして直[すな]をなり。是双調[さうてう]なり。○徴[ち]の調子ハ心の臓より出る。和調にして長し。是黄鐘[わうしき]調也。○宮[きう]の調子ハ脾[ひ]の臓より出る。大きに充[ミち]て和[やハ]らかに緩[ゆる]し。是一越[いちこつ]調也。○商[しやう]の調子ハ肺[はい]の臓より出る。軽[かろ]く少[ちいさ]けれども勁[はげ]しゝ。是平調也。○羽[う]の調子ハ腎[じん]の臓より出る。沈[しづミ]て深[ふか]し。是盤渉[はんしき]調なり。○壱越[いちこつ]。断[たん]金。平調。勝絶[しやうぜつ]。下無[しもむ]。双調[さうてう]。鳬鐘[ふしやう]・黄鐘[わうしき]。鸞鐘[らんしやう]。[14ウ]盤渉[はんしき]・神仙[しんせん]・上無[かミむ]、是を十二調子[てうし]共十二律[りつ]共云也。
○熟[つら〳〵]思ふに筑後・越前ハ天性の達人にて、音声の開語[かいご]自然[しぜん]と五調子十二律に合[かな]ひし浄瑠璃一道の聖[せい]也。「孟子[もうし]」ニ曰、大に而[して]之を化[くハ]するを聖[せい]と云と云云。生得[むまれながら]にして事の理に達するを聖と云也と註[ちう]す。而[しか]れば両元祖の当道に達せられし所を以て見る則[とき]ハ聖[せい]といふに何ぞ憚[はゞか]る処のあらん哉。「周易[しうゑき]」の「略注[りやくちう]」に曰、聖人の道ハ天地の万物を育[そだ]つかごとしと注せられしハ尤宜[むべ]なるかな。竹本・豊竹の両氏当道を世に弘められし徳に依て今当流の浄瑠璃世上専[もつ]ハらに流布[るふ]し、是を産業[すぎハい]として[15オ]世を渡[わた]る人諸国の中に幾[いく]千万人といふ数をしるへからず。是天地の万物を育[はぐ]くミ養[やしな]ひ給ふ理[り]に違[たが]ふべからず。其功[こう]大ひならずや。
巻之中終[15ウ]
 
竹豊故事巻之下
 
浄瑠璃作者並近松氏之事
○浄瑠璃の作者[さくしや]と極[きハ]まりたる人昔古[いにしへ]ハなし。俳諧師[はいかいし]或ひハ遊人[ゆうじん]抔[など]の慰[ぐさ]ミに作れり。中昔[なかむかし]、「暦[こよミ]」と云浄るりは西鶴翁[さいかくをう]の作也とかや。是を産業[すぎわひ]となせる人ハ近松門左衛門に始る。此人博学[はくがく]碩才[せきさい]にしてしかも当世の人気を察[さつ]し、世間の世話[せわ]を能[よく]呑込[のミこミ]て、百余番の浄るりを作[つく]られり。其文句言妙[ごんめう]不思議[ふしぎ]を綴る。元来ハ京都の産[うまれ]にて去る堂上[とうしやう]の御家に仕へ、本姓[ほんせう]ハ杉森[すきもり]氏ニして由緒[ゆひしよ]正敷人成しが、故[ゆへ]有て浪[らう]人と成、元禄年中の始め、哥舞妓[かぶき]芝居[1オ]都万太夫座の狂言作者と成、又宇治加賀掾の浄瑠璃をも作られたり。此人世上作者の元祖也。其後大坂に立越[こへ]、竹本筑後掾の作者とならる。享保九年辰十一月廿二日、七十余歳にて死去せられぬ。平安堂[へいあんだう]・菓林子[くハりんし]と号ず。法名ハ阿耨院[あのくいん]穆矣旦[ぼくいたん]。具足[ぐそく]居士[こじ]と称ぜり。近松氏過行れしか共猶余光[よくハう]失[うせ]ず、相続き数多の作者出来りて趣向[しゆかう]作文をなすといへ共、元来近松程の器量[きりやう]無故か、古語の取誤[あやま]り・古実[こじつ]の相違[さうい]・有職[ゆうしよく]の違[たが]ひ等間〃有て見聞苦敷[くるしき]品も多ければ、畢竟[ひつきやう]ハ狂言綺語成と了簡せねハならず。併し機転[きてん]発明[はつめい]の作意劣[をと]らぬ所も有[1ウ]、又ハ希有[けう]の趣向等も出さるゝ故大当りを取らるゝ段、是又何れも達人と云ハんに強[しい]て難有べからす。其外作者と名を揚[あげ]られし人〃にハ、錦[にしき]文流[ふんりう]。村上嘉助。紀[き]の海音[かいをん]。西沢一風・筑後の座本。竹田故[こ]出雲。松田和吉。長谷川千四。並[なミ]木宗輔[すけ]・同丈輔。安田蛙文[あぶん]。為永[ためなが]太郎兵衛。江戸にてハ北条[ほうでう]宮[く]内。塚原[つかはら]市左衛門。岡[をか]清兵衛。等此外にも有しかど換骨[くハんこつ]の余情[よせい]薄[うす]く名高き衆ならねハ略[りやく]し畢[おハんぬ]。併し是等ハ何れも故[こ]人と成れしも多し。当時東西の座共に名誉を顕ハされし作者達ハ人〃の知れる事なれハ談[だん]するに及ばず。[2オ]
 
三味線来由 並 寸法三筋糸 付 沢之字苗字[めうじ]ニ付る事
○連中問て曰、三味線の縁起[ゑんぎ]をも御物語下されば忝じけなからんと望ミける 筑越翁聞て、御所望ニ任せ咄して聞せ申さん。抑〃[そも〳〵]三味線の来由[らいゆう]と謂[いつ]ハ、元来琉球国[りうきうごく]の弄[もてあ]そび物成故琉球絃[りうきうげん]と号す。琴瑟[こと]・琵琶[びわ]・和琴[わこん]等の音を[莫/手][うつ]したる物也。日本に是を伝来せし始めハ、人皇[わう]百七代の帝 正親町[おゝきまち]の院[いん]の御宇、永禄[ろく]五年壬戌[ミつのへいぬ]の春[はる]、琉球より泉州[せんしう]堺[さかい]の津[つ]に渡り来り、其比の武将織田[をだ]信長[のぶなが]公下知[ぢ]有て是を朝庭[てうてい]に献[けん]し奏覧[さうらん]ニ入奉らる。時に 帝[みかと]、久我[こが]右大将通興[ミちおき]卿[けう]を以て、其比音曲[おんぎよく]に名誉[めいよ]を顕ハ[2ウ]せし琵琶法師[びわほうし]滝野検校[たきのけんぎやう]を内裏[たいり]ニ召出され是を弾[ひか]せて 叡聞[ゑいぶん]在ませしニ、其郢曲[ゑいきよく]甚[ハな]ハだ妙音[めうおん]成しを叡感[ゑいかん]ましましぬ。其砌[ミぎり]、京都に名を得し琴[こと]・琵琶[びわ]の細工[さいく]人亀[かめ]屋市郎左衛門石村と云し者、此三絃を摸[うつ]し作り出せり。琉球[りうきう]にハ三絃の胴[どう]を蛇[じや]の皮[かハ]を以て張ると云共、我朝ニ斯る大き成蛇皮[しやひ]なし。依て猫[ねこ]の皮[かハ]ニ替て是を張たり。此三絃の形[かた]ち大体琵琶[びわ]ニ同し。惣尺[そうだけ]三尺ハ天地人の三極[きよく]を表[ひやう]じ、棹長[さほだけ]弐尺余ハ陰陽[ゐんやう]の二気[き]、海老尾[かいらうび]の五寸ハ天の五星[ごせい]、胴幅[どうはゞ]六寸ハ地[り]の六合[りくかう]、同長サ六寸余ハ地の六種[しゆ]、震動[しんどう]厚[あつ]さ三寸ハ高下平の三形[きやう]を象[かたど]れり。転手[てんじゆ][絃手又天柱共書也][3オ]是天の象[かた]ちを表[ひやう]し、反首[はんしゆ]ニ半月の形ち有。海老尾[かいらうび]の糸巻[いとまき]に三台[たい]の星[ほし]を象[かた]どる。一の糸ハ虚精[きよせい]と云、二の糸ハ陸淳[りくじゆん]と云、三の糸を曲順[きよくじゆん]と号す。十二調子[てうし]の内、壱越[いちこつ]・断金[たんきん]・平調[へうでう]・勝絶[せうせつ]の四ッを一の糸の中に兼備[かねそな]ふ。下無[しもむ]・双調[さうしやう]・鳬鐘[ふしやう]・黄鐘[わうしき]の四つを二の糸ニ兼備[かねそな]へ、鸞鐘[らんしやう]・盤渉[はんしき]・神仙[しんせん]・上無[かミむ]等の四調子[てうし]を三の糸ニ兼備ふ。「首楞厳経[じゆりやうこんきやう]」に曰、譬[たと]ヘハ琴瑟[きんしつ]・琵琶[びわ]の妙音有といへ共、若妙手[めうしゆ]無んハ終[つい]に発[はつ]する事能[あた]ハずとの仏説[ふつせつ]のごとく、堪能[かんのふ]の達人此三絃を鼓[ひく]則[とき]ハ衆人の神魂[しんこん]に徹[てつ]して邪念[じやねん]を退[しり]ぞく。而[しか]れば自然[しぜん]と六根[こん]を清浄[しやう〳〵]ならしめ神明仏陀[ぶつた]の加護[かご]に預るべし。亦懦弱[だじやく][3ウ]好色の意[こころ]を欲[ほつ]して弾[ひく]則ハ聞人婬欲[いんよく]惑乱[わくらん]の念を発[をこ]す。尤欽[つゝし]まざるべけん哉。然るを傾城[けいせい]・遊[ゆう]女・芸子[げいこ]・野郎[やらう]等の業[わざ]に翫[もてあび]物となせるハ歎[なげ]かハ敷[しき]事ならずや。当世の三絃ハ其形少し異ニして、惣長三尺一寸五分、海老尾五寸二分、棹長サ二尺五分、胴幅六寸、同長サ六寸六分、天手三寸五分也。○「世事談[だん]」に曰、三絃ハ永禄年中琉球より渡る。或人泉州堺の津の盲人[もうじん]中小路と云法師[ほうし]に取らせたり。其後虎[とら]沢と云盲人本手端手[はで]の術[じゆつ]を引始む。慶[けい]長の比、角沢[つのさハ]と云法師、琵琶[びわ]の名人成しが、三絃を手錬[しゆれん]して小歌に乗[のす]る。其比又浄瑠璃節[ぶし]出来たり。此浄るりに乗せ[4オ]弾[ひく]ハ角沢[つのさハ]が始め也。其後大坂に城秀[じやうひで]と加賀市[かゝいち]との両法師此術[じゆつ]を得たり。後に江戸に立越、加賀市ハ柳川検校[やなかハけんけう]と成、城秀ハ八橋[やつはし]検校と成[なれ]り。当時八橋流・柳川流と称[せう]するハ此両人か術[じゆつ]也。是を三絃と号せるハ三ッの糸筋有故也。然れハ浄瑠璃三味線ハ角沢検校を元祖とす。角沢の沢の字の縁を取て、後世浄るり三絃を産業[すぎわひ]とする衆中、竹沢・野沢・鶴[つる]沢・富[とミ]沢等と云成べし。大坂に中古[ちうこ]達人と呼[よハ]ハれし人〃ハ竹沢権右衛門・同弥七・野沢喜八郎・富沢哥仙[かせん]・竹沢善四郎・鶴[つる]沢友次郎・同三二、此衆中[しうぢう]ハ故[こ]人と成られり。野沢後の喜八ハ此近年休息、是も残念。[4ウ]
 
操人形之故事並名人之遣手付古今達人之事
○連中問て曰、操人形の始りを承り度候。筑越翁答て曰、「匀会[いんゑ]」に曰、機関[きくハん]木偶[もくぐう]〔あやつりにんきやう〕ハ人に象[かた]どる。肢[し]〔てあし〕と躰[たい]〔からた〕と聚[あつ]め集まる謂也と云云。「活法傀儡[くハつほうくハいらい]」の詩[し]に曰、糸[いと]を穿[うが]ち木[き]を割[きざ]ミて功[たく]ミ神[しん]のごとく限[かぎ]り無[な]し。機関[きくハん]此身[このミ]に在[あり]と云云。「文撰[もんぜん]」の「註[ちう]」に曰、手[て]の伎[わざ]を技[し]と云、体[たい]の才[さい]をば芸[げい]と謂と云云。「事類[じるい]全書」ニ曰、木偶[もくぐう]ハ人形也。本来ハ喪家[さうか]〔うれひ〕の楽[がく]なり。漢[かん]に至て始めて喜会[きくハい]〔よろこび〕に用ゆと云云。傀儡子[くハいらいし]、又ハ郭禿[くハいらいし] 共書[かく]也。委[くハしく]ハ「風俗通[ふうそくつう]」「紀原[きげん]」「書言故事[しよげんこじ]」「顔氏家訓[かんしかきん]」等の書に出たれバ、唐土[もろこし]にも古来[こらい]より翫[もてあ]そび来る哉。[5オ]順[したがふ]の「和名集[わめうしう]」に、傀儡子[くハいらいし]・でくつかひ・でくゞつ共訓[よミ]を付られたり。「指南[しなん]」ニ曰、木偶[もくくう]を弄[もてあ]そぶ者を屈×子[くつらいし]と云へり。本朝[てう]摂州[せつしう]西の宮より出る。俚俗[りぞく]是を名づけて筥出狂坊[はこでくるぼう]と云と云云。「史記[しき]」殷[いん]の本紀[き]の「正義[しやうぎ]」に曰、土木[ともく]を以て人形を対象[たいじやう]すと云云。此説[せつ]を以て人形と号する者成べし。「南領[なんれい]子」に曰、傀儡[くハいらい]ハ木偶[くう]の戯[たハ]むれ也と。註[ちう]に曰、今云人形舞[まハ]し也と云云。然るに「和歌雑題[わかざつだい]」にハ傀儡と云てくぐつと訓[よミ]て遊[ゆう]女の事とす。傀儡何ぞ遊女に限[かぎ]らんや。惣[すべ]て人形舞しの事成べきを遊女の事に限る様ニ成しぞと思ふに、摂州西の宮より人形舞し世間を廻[めぐ]りて、始て遊女の[5ウ]人形を第一番に立て遣ふ。これより転[てん]じ来れりと見へたり。「下学集[かがくしう]」に曰、日本の俗[ぞく]遊女を呼[よん]て傀儡と謂と云云。是等の本文に依[よ]るときはおやま人形が根本也や。操芝居の表付[ひやうづけ]にもおやま人形遣ひを立物札に書来れり。「枯木+兀[こごつ]集」ニ曰、傀儡師とハ出狂坊[でくるほ]舞しの事也。是を「詩[し]」の「註[ちう]」にハ滑稽[こつけい]優人[ゆうじん]といへり。滑稽[こつけい]とハ嬉游[たハむれ]言[こと]を云て人を笑[わら]ハする也。優人[ゆうじん]とハ猿楽[さるがく]の事にて狂言[きやうけん]をする者成。是皆傀儡子の類ひ也と云云。「諸社[しよしや]神詫[しんたく]」の「紀[き]」ニ曰、西の宮恵美須[ゑびす]太神御詫宣[ごたくせん]ニ年[とし]の始尓[はじめに]諸〃[もろ〳〵]の民[たミ]尓[に]笑於[わらひを]催左世[もよほさせ]勇勢而[いさませて]富貴於[ふうきを]護牟[まもらん]と云云。此神詫[しんたく]に[6オ]依て、往古より此所の民、春の初めニ女人形に呉服[くれは]の所作事を舞す也。是を紗[しや]の〳〵衣[ころも]と号せり。其外異様成人形を舞し、京都を始め国〃を廻り、獣[けだもの]の皮[かハ]を終[はて]に出して悪[わる]ひ事した者ハ山猫[ねこ]ニかまそふと威[をと]す。是上代の勧善[くハんぜん]懲悪[てうあく]の誡[いまし]め、質素[しつそ]正直[しやうぢき]の神教[をし]への遺風[ゆいふう]、出狂坊[でくるほう]を舞して笑[わら]ひを進[すゝ]む。此故ニ此傀儡子を「神道秘要[ひよう]」にハ恵美須賀質[ゑミすかぎ]〔よろこぶかたち〕と号する也。
○寛[くハん]文の比、江戸ニ小平太と云人形遣ひの名人有。「羅山[らさん]文集[ぶんしう]」に曰、鼓吹[くすい]蛮琴[はんきん]有て木偶[でく]の動[うご]くに応[おふ]じ曲節[きよくせつ]有。且[かつ]是[これ]を操[あやつ]り是を引、板[いた]を踏[ふ]んで呼者[よぶもの]と木偶[でく]の相[6ウ]得たる事殆[ほとん]ど生[いけ]るが如[こと]し。今日の為[なす]所の者、江都[こうと]第一の偃[く]師小平太と号す。近世[きんせい]傀儡[くゞつ]の巧手[こうしゆ]たりと云云。此小平太、おやま・男人形共ニ能遣ひし名人のよし伝へ聞たり。相続[つゝい]ておやま次郎三郎此道の達人也。近世にハ辰松八郎兵衛名誉[めいよ]を顕ハされたり。京都にハ貞享[ちやうきやう]元禄[ろく]の比、おやま五郎兵衛。同五郎右衛門。大蔵善右衛門。正徳享保の比、三升平四郎・宇治久五郎・三十郎・与八郎等何れも名を得し上手の遣ひ手也。大坂にハ辰松氏・藤井小三郎・桐竹三右衛門等のおやまの名人有し也。当時立役[たちやく]人形吉田文三郎ハ古今無双[ぶさう]の名人也。相次て若竹東工郎誉[ほま]れ高し。おやま[7オ]ハ今藤井氏、男人形にハ桐竹・吉田豊松。若竹氏の中に上手分多し。
○手妻[てづま]人形ハ山本弥三五郎飛騨掾[ひだのぜう]に始まる。南京[なんきん]糸操[いとあやつり]ハ寛文延宝の比より遣ひ始めし由、京都山本角太夫芝居ニ専[もつ]ハら遣ひし也。又其比に江戸和泉太夫座ニ野呂松[のろまつ]勘兵衛と云し人形遣ひ有。頭[かしら]平[ひら]めにして青黒[あをぐろ]き顔色[かほいろ]の賎気[いやしげ]成人形を遣ひて是をのろま人形と云、のろまハ野呂松の略語[りやくご]也。又鎌斎[けんさい]佐兵衛と云ハ賢[かしこ]き質[かたち]の人形を遣ひ、相共に賢[かしこ]きと愚[をろか]成との体[てい]を狂言[きやうげん]ニ仕始めし也。其比の人、愚[をろ]かに鈍[にぶ]き者を賎[いや]しめ、のろまと云異名[いミやう]を[7ウ]付[つけ]痴漢[あほう]ニ比[ひ]したり。此野呂松[のろまつ]氏を祖[そ]とし、京大坂の操芝居ニ野呂間[のろま]・麁呂間[そろま]・麁呂七[そろしち]・麦間[むぎま]等と名を付、道外[だうけ]たる詞色[こハいろ]をなし、浄るり段物の間の狂言[きやうげん]をなしたり。近来ハケ様成事ハ捨[すた]り、知れる人も稀[まれ]ニ成し也。出遣[でづか]ひハ辰松八郎兵衛ニ始る。此人古今の達[たつ]人にて、手摺[てすり]を放[はな]れ無量[むりやう]の手段[しゆだん]を遣[つか]ふニ全身[せんしん]少しも乱[ミた]るゝ事なし。京大坂にて誉[ほま]れを取、後に江都[ゑど]ニ来つて益〃[ます〳〵]其名高く成、剰[あまつ]さへ御免[ごめん]操[あやつり]の櫓幕[やぐらまく]を上[あげ]、芝居[しハい]を興行[かうぎやう]せり。是を辰松座[さ]と号[ごう]せし也。
○筑越翁の曰、扨〃何れも打揃ひ、此道に執心[しうしん]の厚[あつ]き[8オ]段、愚老[ぐらう]も大悦是に過す。次手なから各〃ヘ御目に懸る物有と、巻[まき]物一軸[ぢく]取出し、忝も此書[しよ]の義ハ去年節分[せつぶん]の夜、不思議[ふしぎ]なる霊夢[れいむ]を蒙[かう]むれり。先年死去[しきよ]有し近松門左衛門の霊魂[れいこん]来られ、夢[む]中に某[それ]がしに与へられし処の一巻也。是にて読上[よミあげ]申さん間、各〃謹[つゝし]んで拝聴[はいちやう]有べしと、三度推[をし]戴[いたゞ]きて紐[ひも]を解[とき]、高[たか]らかにこそ読上ける。
 
浄瑠璃古今之序[こきんのじよ]
    並当時之太夫名人之評[8ウ]
夫[それ]浄瑠璃ハ人の心を種[たね]として万[よろ]つの趣向[しゆかう]とハなれりける。世の中に在[ある]人事[こと]業繁[わざしげ]き物なれば、心に思ふ事を見る物聞物に付て作り出せる也。色に愛[めつ]る世話事、義理[ぎり]に清[すめ]る時[じ]代事を見れハ幾[いく]年生[いけ]る者何れか此道を好まさりける。力[ちから]をも入ずして人の情[こころ]を感[かん]せしめ、嫁[よめ]を悪[にく]む姑[しうとめ]にも哀[あハれ]と思ハせ、男女[おとこをんな]の中をも和[やハ]らげ、悋[しハ]き親父[おやち]の意[こころ]をも慰[なくさ]むるハ此道也。過し時世の竹本筑後掾なん浄瑠璃の聖[せい]也。又豊竹越前掾といへる人在けり。浄瑠璃に奇敷[あやしく]妙[たへ]也けり。頼光[らいくハう]山入の道行ハ竹本氏の一節[ふし]に綾錦[あやにしき]のごとく[9オ]語[かた]り、雪[ゆき]の段の出語りハ豊竹氏の音声[おんせい]に雲[くも]井迄も響[ひゞ]きなんと思ハる。越前ハ筑後の上に立む事難[かた]く、又豊竹ハ竹本の下に立む事難くなん在ける。此人〃を置[をき]て呉[くれ]竹の世〃に蔓茂[はひしげ]り多き門弟達の中に、竹本播磨掾なん世に知られし名人なりしかと、惜哉[おしや]不幸[ふかう]にして短命[たんめい]也。爰[こゝ]に往古[いにしへ]の事をも此道の意[こゝろ]を得[え]たる人、当時ハ僅[わつか]に五六人なりき。而[しか]ハあれ共彼是[かれこれ]得[え]たる所、得ぬ所なん有れり。
一 豊竹若太夫ハ哥仙[かせん]第一、僧正[そうじやう]遍照[へんじやう]の哥の意[こゝろ]に同し。浄瑠璃の様ハ得たれ共其言葉[ことば]花にして実[ミ]少[すくな]し。[9ウ]譬[たと]ヘハ図[ゑ]に画[かけ]る女を見て徒[いたつら]ニ情[こころ]を動[うご]かすがごとし。
一 豊竹筑前掾ハ哥仙第弐、在原[ありハら]の業平[なりひら]の哥の意に同し。其[その]情[こころ]余[あま]りて調子[てうし]下[ひく]し。譬[たと]ヘハ盛[さか]り過[すぎ]たる花の色ハ少[すくな]しといへども而[しか]も薫香[かほり]有がことし。
一 竹本政太夫ハ哥仙第三、文屋の康秀[やすひで]の哥の意に同し。浄瑠璃ハ功者[こうしゃ]にして其体[てい]俗[ぞく]に近[ちか]し。譬[たと]ヘハ商人[あきひと]の能衣[よききぬ]着[き]たるがごとし。
一 豊竹駒太夫ハ哥仙第四、喜撰法師[きせんほうし]の歌[うた]の意[こゝろ]に同し。詞[ことば]幽[かす]か成様なれと始[はじ]め終[をハ]り正[たゞ]しく喩[たと]ヘハ雲[くも]隠[かく]れせし秋の月の暁[あかつき]の風に晴[はる]るがごとし。[10オ]
一 竹本大和掾ハ哥仙第五、小野小町の哥の意ニ同し。古への竹本頼母[たのも]の風也。音声[おんせい]艶敷[やさしく]して気力[きりよく]なし。喩[たと]へて謂[い]ハヽ能[よき]女の悩[なや]める所有に似[に]たり。
一 竹本錦[にしき]太夫ハ哥仙第六、大伴[とも]の黒主[くろぬし]の哥の心ニ同し。頗[すこぶる]逸興[いつけう]有、然共[しかれども]少し野鄙[やひ]也。譬[たとへ]ハ薪[たきゞ]を負[をへ]る山人の花の蔭[かげ]ニ休[やす]めるかごとし。
此外の太夫達、其名聞ゆる野辺[のべ]に生[おふ]る葛[かづら]の栄[はへ]曠[ひろ]ごり、林[はやし]ニ繁[しげ]き木[こ]の葉[は]のごとくに多[おゝ]かれど、未[いま]だ浄瑠璃の奥義[おうぎ]ニハ至[いた]らざるべし。竹本の流[なかれ]絶[たへ]せす、豊竹の節[ふし]細[こま]やかニして、正木[まさき]の藤[かつら]永[なが]く伝[つた]ハり、鳥[とり]の跡[あと]久敷止[とゞ]まらハ、程拍子[ほどひやうし]をも知り、事の意[こころ]を得[え]たらん語[かた]り人[て]達[たち]ハ、大空[おゝそら]の月を見るが如くニ上代[いにしへ]を仰[あをぎ]て今[いま]を希望[こひ]ざらめかも。[10ウ]
 
○名代竹本筑後掾 座本竹田出雲掾座当時出勤之衆
 
○太夫 至功[しいこう]美麗[びれい]音節無双  竹本大和掾藤原宗貫[むねつら]
成[せい]功甚深[ぢんじん]琢磨[たくま]無類 竹本政太夫
風雅[ふうが]名誉[めいよ]独歩[どつほ]無格[むかく] 竹本錦太夫
恬然[くはつぜん]優美[ゆうび] 竹本春太夫 声花[せいくハ]秀術[しうじゆつ] 竹本紋太夫
功術[こうじゆつ]珍重 同 友太夫 同土佐太夫 同長門太夫
寛闊[くハんくハつ] 同桐太夫 同染太夫 同組太夫
対揚[たいやう] 同沢太夫 折太夫 家太夫 森太夫 仲太夫
〇三味線 妙術 明廉[めいれん]〔イサギヨシ〕大西藤蔵
晏如[あんぢよ]〔ヤスラカ〕竹沢甚三郎 鶴沢文蔵徳三郎 竹沢佐の七 宗吉[11オ]
 
○人形 おやま立役 真至極抜群[ばつくん]操宗匠 吉田文三郎
おやま 風流美躰 田中小八 最媚[さいび]〔イトナマメク〕小松文十郎
立役 起居[ききよ]壮健[さうけん] 桐竹門三郎
同 箕裘[ききうの]業[ごう] 吉田文伍
挙動[きよどう]尋常[じんじやう] 吉田彦三郎 術功[じゆつこう] 竹川七郎次
若[じやく]術 吉田藤五郎 同貫蔵 浅田太四郎 桐竹源十郎
土佐幸助 同三津八 松嶋又三郎 吉田嶋八 同源八
笠井茂十郎 桐竹定七 吉田平治 太田源五郎
田中平次郎 京都出勤之衆中ハ除之[のぞく]
巻軸功老錬磨[れんま] 桐竹助三郎[11ウ]
 
○名代座本 豊竹越前少掾座当時出勤之衆
○太夫 積功[しやくこう]至道[しいたう]錬磨[れんま]〔ネリミガク〕無双[ぶさう] 豊竹筑前少掾藤原為政
優[ゆう]〔ユタカ〕艶[ゑん]妙絶[めうせつ]音声[おんせい]無類 豊竹若太夫
幽玄[ゆうげん]至妙潤色[じゆんしよく]〔ウルホウ〕無比[むび]〔タグヒ〕 豊竹駒太夫
至要[しいやう]表珍[ひやうちん] 豊竹鐘太夫 功労[こうらう]天晴[てんせい]〔アッハレ〕 豊竹新太夫
適時[てきじ]〔トキニカナフ〕強健[きやうけん]〔タクマシ〕 豊竹時太夫 丈夫 同十七太夫
功術[こうじゆつ] 豊竹伊豆太夫 丁寧[ていねい] 同式太夫 若術 同鰭太夫
〇三味線 妙手[めうしゆ] 野沢文五郎 淳朴[すなを] 鶴沢重次郎
功若 富沢正五郎 同伊八郎 鶴沢亀次郎
新参 竹沢幸助 野沢文蔵 鶴沢喜太郎[12オ]
 
○人形おやま嬋娟[せんけん]〔タヲヤカ〕当中美艶[びゑん]〔ウツクシ〕無上 藤井小八郎
同 綵飾[さいしよく]〔イロドル〕芬芳[ぶんほう]〔ニホヤカ〕美壮[びさう]藤井小三郎
立役人形 莫[はく]大挙[きよ]〔アグル〕動[どう]〔ウゴク〕発明[はつめい]無類 若竹東工郎
粉骨[ぶんこつ]時明[じめい]〔トキメク〕 若竹伊三郎 度量的中[どりやうてきちう] 豊松弥三郎
老積[らうじゆく]功 中村勘四郎 若発[じやくはつ] 豊松祐二郎 同門三郎
若竹清五郎 若竹友五郎 豊松元五郎 同彦七郎
豊松藤四郎 同勘三郎 同源三郎 福島市之丞
柏井伝三郎 若竹三十郎 同清次郎 浅井徳二郎 笠井乙五郎
おやま 美若 藤井八十八 同新十郎
 
人形巻軸 積術模範[しやくしゆつもはん]逞[てい]〔タクマシ〕賑[しん]〔ニギハシ〕 豊松藤五郎[12ウ]
 
○此一軸[ぢく]の意[こゝろ]ハ紀[き]の貫之[つらゆき]の撰[ゑら]ミ給ひし古今集[こきんしう]の序[じよ]に例[なぞ]らへ、当時二名誉[めいよ]を顕[あら]ハせられし太夫衆の芸[けい]の品[しな]を察[さつ]し、六歌仙の列[れつ]に准[じゆん]して位次[いし]に構[かゝ]ハらず、近松先生未来記[ミらいき]ニ認[したゝ]め置[をか]れし書[しよ]なり。初心[しよしん]の衆中[しゆぢう]たり共浄るり修[しゆ]行[きやう]の旁[かた]〳〵ハ此意[い]を熟得[じゆくどく]有て稽古したまひて然[しか]るべし。
 
両座繁栄[はんえい]並逃助[てうすけ]之字義[じぎの]事
 
○花奢[きやしや]優艶[ゆうゑん]ハ京都、繁栄[はんえい]の勇[いさ]ま敷[しき]ハ江都[えど]、北浜[きたばま]の景気[けいき]と浄るり芝居の繁昌ハ大坂に並[なら]ぶ所ハ有まし。上に伸[の]ぶる所の先代の役者衆[やくしやしう]ニ名人達[たち]多[をゝ]かりしと[13オ]いへとも、古代[こだい]と当時[たうじ]と競[くら]べなハ当代の衆ハ皆〃術[じゆつ]を尽[つく]したる名人衆数多[あまた]有べし。就中[なかんづく]京都にハ加賀掾の門弟中の以後定芝居の操[あやつり]ハなし。
近来竹本氏の太夫衆折〃上京在て語[かた]らるれば大体[てい]程も知れたり。然れば操浄瑠璃の芝居ハ大坂を第一とし諸国の水上[ミなかミ]と存ぜらるべき也。各[をの〳〵]や我等[われら]斯[かゝ]る土地[とち]に生[むま]れ住居[すまい]して大切成芝居を心安く見物致すハ大き成果報[くハはう]と悦[よろこ]び給ふべし。然[しか]るに、てう助やら云人ハ札銭・場銭も払[はら]ハずして見物致さるゝよし、近比卒忽[そこつ]千万成仕方[い しかた]と存る。逃助[てうすけ]のてうの字[じ]ハのかるゝと訓[よミ]、助の字ハたす[13ウ]かると読[よむ]と承[うけたま]ハれば、札場銭共に逃[のが]れ助[たす]からるゝと云義理ニて逃助と呼[よび]来[きた]りしと伝[つた]へ聞ました。猶又贔屓[ひいき]の二字ハ力[ちから]を副[そふ]ると云字心[じこゝろ]なれば、自然、作[さく]・趣向[しゆかう]の悪敷[あしき]時成共、悪しき所ハ能[よく]取[とり]なし、能物ハ益〃[ます〳〵]評判[ひやうばん]能[よく]なさるゝか肝要[かんよう]と存る。惣[さう]じて贔屓といふ物ハ己[をの]が心の依[よる]所、酒[さけ]呑[のミ]有[あれ]ば餅[もち]喰[くひ]有、砂糖[さとう]好[この]ミと唐辛子[たうからし]好[すき]ハ大き成違[ちが]ひなれど夫〃の口中に味ハひて心の欲[ほつ]し楽[たのし]むニ二つハなし。鶴[つる]のX[はし]が永いとて切ても捨[すて]られず、鴨[かも]の足[あし]が短[みじか]ひ迚[とて]継足[つきあし]もしられず、柳[やなぎ]ハ緑[ミどり]に景気[けいき]を顕[あら]ハし、花ハ紅[くれな]ひニ咲[さき]て[14オ]人の目を悦[よろこ]バしむ。我等[われ〳〵]ハ年来竹本・豊竹の両芝居共ニ贔屓[ひいき]ニ存し見物致すれハ贔屓といふ名[な]も有てなし。唯[たゞ]好者[すきしや]と申す成べし。各〃方にも其意[こゝろ]にて見物し給ふべし。猶又此席[せき]へ出座[しゆざ]なき若[わか]い衆中ヘハ各御宿処[しゆくしよ]へ御帰りの節[せつ]宜敷[よろしふ]評判[ひやうばん]頼[たの]ミますぞ。評判〳〵。
 
宝暦六丙子九月吉辰
 
           八幡筋南綿町
             増田屋源兵衛
      浪華書林
           心斎橋南詰
             丹波屋半兵衛
巻之下 大尾[14ウ]
 
竹豊故事後篇
         東西評林 全一冊
右は両座中細評追而出申候
浪花東都軒