杉山其日庵遺作浄瑠璃集

杉山其日庵先生 遺作浄瑠璃の解説を述べて庵主が浄曲界に於ける位置を偲ぶ

石割松太郎

 昭和十年七月十九日、杉山其日庵主人は逝かれた。明治維新動乱の直後に当りて、国家多事、国の患ひを以て、身の患とされた庵主の一面は、我等一学徒の知らざる処である。が、其日庵主人の浄曲に関する半面については、語るべき事が多い。又偲ぶべき多くもがある。この時、この際、庵主の浄曲に対する造詣を傾けて、指導を受けた、竹本素女が、庵主を偲ぶ一会を催して、在りし日の「浄曲道の庵主」を、指導を受けた、曲目によりて、衆と共に偲ばうといふ企てのある事を聞いて、この機会に庵主遺作の、浄瑠璃が刊行さるゝに就いて、その解説を述べておきたい。

 其日庵主人が、浄曲に対する態度は、消閑娯楽のそれではなくして、懸命の真剣さを持つてゐた。されば浄瑠璃の一字一句、節章の一点一画についても忽諸にはせないといふ行き方であつて、庵主にとりては国事の画策に当ると、芸を談ずるとに軒輊をおかない。こゝに芸術に対する敬虔の念と真剣味との溢るゝを聴く者に与へねば措かなかつた。庵主はこんな態度を、約五十年、浄曲に持ち続けられたのであるから、閑を偸んで自ら浄曲新作の筆を執つた。或時は小芝居の『実録先代萩』を一見した後、この黙阿彌の実録にヒントを得て、実録の浄曲化を企て、明治期における名人絃阿彌をして節章を成さしめた。或は柳営の御狂言師巴駒次なる一老媼の見た世間に作意と感興とを覚えて、『春雨草紙巴伊達紋』上中下の世話物の三段形式の新作となつた事は、こゝに録したその床本に誌したる庵主の識語を以て悉知されたい。或はいろは文庫の一作によりて、小山田庄左衛門の悲劇的の運命に一掬の涙を灑いで『いろは文庫』「重兵衛切腹の段」が成章した。小出田庄左の胸中に多感の同情を寄せた半面に国士の胸底、琴線に触るゝ風流韻事の高鳴るものを吾々は聴くべきではないかと思はれる。

今これら庵主の筆に成る浄曲及び、旧作の補綴を表に成して左に掲げておかう。

遺作の部

『いろは文庫』重兵衛切腹の段 名庭絃阿彌譜章

『春雨草紙巴伊達紋』上、中、下、三段全曲 大正五年十一月作 

   竹本摂津大掾・豊澤廣助 節章

『実録先代萩』淺岡忠義の段 大正十五年作 名庭絃阿彌譜章

『貞阿上人物語』 四国十三番建治寺由来 鶴澤司好譜章

補綴の部

『加賀海文治荒濤』安宅関所の段 竹本摂津大掾・鶴澤仲助譜章

『蘭奢待新田系図』三段目幸内住家の段・四段目盲恋の段    豊澤廣助譜章

『観音霊験記』成相寺の段

『加賀見山旧錦絵』お初上使の段

『小野道風青柳硯』卒緒婆の段

 右、旧作の庵主補綴の内、「安宅関所の段」は歌舞伎の『勧進帳』であって、この作を浄瑠璃に移したものに名人豊澤団平の節付があるが、文章の冗長がその欠点であつたから、庵主は、団平の節付を鶴澤仲助をして写さしめ、文章を謡曲のそれによってグット引締めたる上、竹本摂津大掾のイキとマとをよく聴いて、再現したるものが、庵主の『安宅』で、大正十五年二月復興曲と称する庵主が自信のある補綴である。幸ひ今度の素女会において上演さるゝから、今回の舞台の出來栄は、別問題としても、庵室がこの曲に致されたる苦心を、現在文楽座において行はるゝ『勧進帳』と比較して一聴すべきである。

 この庵主に形に影の如く添うてゐる鶴澤仲助といふ三味線は、元竹本大島太夫の合三味線の鶴澤寛三郎といつた人で、明治三十二年十二月に、後藤猛太郎氏の紹介で、初めて庵主に芝浦で逢ひ、爾来庵主のために、わざ/\大阪まで摂津大掾の稽古に通つた三味線で、庵主の肝煎で明治三十五年五代目鶴澤仲助を襲名した。

 処で、かういふ風に浄曲に造詣の深かつた其日庵が、初めて斯道に関心の持てたのは、一体何時頃からかと詮議してみると、明治廿二年爆弾が大隈伯を隻脚にした時に、奇禍を蒙って庵主は一時の嫌疑で入獄した。その時−−明治廿二年−−嶽中の一囚人にタヽキで義太夫節を教はつたのだとの事である。時に庵主廿六歳。

 この獄中の稽古に興味を覚えて、明治廿五年大阪に出で当時の越路太夫の紹介で、竹本呂太夫に就いて『忠六』の稽古をした。が、これは恐らくこの一段限りの稽古ではなかつたらうかと思はるゝ程、庵主のホントの稽古は、明治三十四年、右の鶴澤寛三郎を獲てからである。寛三郎が東京に居付いてからは、庵主一党の師匠として、築地柏家時代、向島時代、再び築地に斯道、キン党の梁山伯時代が現出さるゝに至つたが、庵主が斯道の蘊蓄を得たのは、摂津大掾と肝胆相照した事。摂津は亦庵主を浄瑠璃芸道の顧問とも頼み、常に浄曲の文章について教を乞ふたに拠つてである。が、庵主も古今に絶した達識活眼の国士、摂津大掾も一代の名人であつたが、その頃の時代の風潮に浚はれて、この両人の残されたる芸談逸事を観察すると、当時の思想は言ふに及ばず芸界を捲席した所謂「活歴」といふ「時の範疇」に跼蹐してゐるのを見るのは、「時」の偉大さを今更ならず感じさせられる。

 それはとにかく浄曲界において、其日庵主人を失うた事は、曉の明星を失つたやうなもので、斯道の損失は実に甚大である。歯に衣着せずして言へば、今後とても庵主だけの芸の持主は他にもあるだらう。又庵主の浄曲に関する芸的或は史的の知識は、今後とも努力によって獲得する事も出来ようが、庵主を失うて再びこの世に得る事の出来ないものが一つある。ソレは、

「浄瑠璃の曲はかうである」

と言切る千釣の重さのそれである。惜しい人を失つたものである。

昭和十年十一月十五日夜中認む。