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【 竹本土佐太夫 伝統を崩さずに 】

(2023.03.13)
提供者:ね太郎
 
 文楽 芸談
伝統を崩さずに
 竹本土佐太夫
  演劇 一巻四号 pp.147-149 1932年7月1日
 
 
 古い伝統を持つた音曲の中でも、最も永い歴史を持つてゐるのは、義太夫でございます。近頃は何事によらず新奇を求めますので、音曲界でも色々と動揺し、何か新奇な道を開拓かうともがいて居ますが、その中にあつて、義太夫だけは、決して新奇を求めず、昔からの伝統を飽くまで固く守つて居ります。尤も此度は『三勇士名誉肉弾』を新作上場は致して居りますが、然し何と申しても、義太夫の好い処は、永い伝統を持つた型を崩さない処にあると存じます。
 義太夫は古臭い、十年一日の如しぢやなぞと悪く云はれ、先年御霊の文楽座が焼失致しました時は、たつた一軒の人形浄瑠璃も、もう駄目になるのかと、一時は落胆致して居りました。一昨年四つ橋に文楽座が新築されました時なぞも、床なぞも取はずしが出来る様に造られ、何時でも芝居や活動の小屋に変へられる様になつて居りましたが、幸ひにして大変な大当りで、一年に十万五千人からのお客が参り、人形浄瑠璃も又昔の隆盛を盛返す事が出来て喜んで居ります。是は勿論御贔屓の方々の御後援にもよりますが、それよりか、元祖義太夫の始めた人形浄瑠璃の伝統を、決して崩さず守り続けて来た賜だと考へます。
 色々と音曲もあります中で、義太夫程喜怒哀楽の人情を穿つたものはございますまい。時代は変つても、土地は変つても、人情に変りのない限り、此後百年経たうと、義太夫は決して滅びるものではないと堅く信じて居ります。尤も衛御にはならないかも知れませんが、私共はこの尊い芸の中に生きて行けば、それだけで結構だと思つて居ります。
 「大阪上り江戸下り」と申しまして、昔は好く旅を致したものでございます。私がまだ若い頃、明治二十一年でしたが、師匠に随つて秋田に参りました時何しろずう〳〵弁で一向に通じませんので、物を頼んでも、宿の女中が違ふ品を持つて来ると云つた仕末で、ほと〳〵困却致しましたが、其時ふつと考へまして、どんな言葉の違ふ土地でも義太夫だけは分つて聴いて下さるのぢやから、一つ義太夫でやつて見ませうと申して、女中に義太夫の調子で物を頼みました処、早速通じて用が足りた事がございましたが、こうした一寸とした事から考へても、義太夫と云ふものが、いかに人情の機微に触れてゐるかよく分ると思ひます。
 昔は「悪い作を演生かすのが太夫の芸や」と申しましたが、やはり作が好くなくては、あきまへん。近松と云ふ作者は、一等偉い方やと感服致して居ります。唯あまり名文なので、どうも難しくてよう語れませんので、段々すたれて、『天の網島』は半二が、『冥途の飛脚』は菅専助が、夫々改作してやつて居りますが、その方が営業にはなりませうが、どうも感服出来ません。鴈治郞さんの封印切は、『恋飛脚大和往来』の方で演つてますが、あれですと派手でお芝居にはなつとりますが、人情には触れて居りません。近松の方で演りますと、八右衛門も腹からの悪人ではなく、友達の為を思つてわざと悪口する。外で聞いてる忠兵衛は、いとしい梅川がさぞつらからう、あゝ金さへあつたらと、思はず財布の中に手を入れる。とつおいつ悶える途端に、封が切れる。もう破れかぶれと金をまくと云つた、本当に人情の機微を掴んで居ります。それなればこそ、謂はゞ当時の三勇士劇みた様な際物なのに、何百年の生命があるのだと思ひます。
昔はサワリの処だけ奇麗に語れば、それでお客に受けたものですが、此頃ではお客様の方でも中々耳が肥えて、お園はお園、宗岸は宗岸と、それ〴〵人情をはつきりと語り分けねば承知なさいませんので、中々難しうございますが、それだけ又張合もあり、芸道の修業になりますので、大変喜んで居ります。
 サワリにさへなれば声をかけて下さるお客様は、楽なものです。何とも云はず、じつと聴入つてゐるお客様が一番恐しうございます。
 それにつけても芸事は一生の修業物だと思ひます。昔の名人の語り口をよく聴いて覚える事は大事な事でございますが、唯それを真似してゐるだけでは何にもなりません。昔からの型は決して崩しませんが、それをすつかり自分のものにしきつて本当に自分の魂から語ると云つた処まで行かなければならないと思ひます。
 鶯に啼声を覚えさせる時に、十羽なり二十羽なり拉べて、啼親の声を聴かせますと、じつと聴いてゐるのや、キヨロ〴〵してゐるのや、色々ありますが、啼親が啼き止みますと、ぱつたりとまり木から落ちるのがあります。処がその鶯が一番好く啼声を覚えてゐるのです。私共の芸事の修業も、其境地まで行きたいと思つて居ります。
 とにかく私はどこまでも芸の伝統を崩さずに自分の腹でよく解決して永く文楽を守つてゆきたいと思ひます(談)