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【 鶴沢勝鳳 文楽座の思ひ出 】

(2023.03.13)
提供者:ね太郎
 
 文楽 芸談
 文楽座の思ひ出
   鶴沢勝鳳
  演劇 一巻四号 pp.152-154 1932年7月1日
 
 
 私は文楽を引退してもう二十三年になります。今春喜の字の祝ひを致しました様な老人で、古い事もあまり好く記憶して居りませんし、それに何一つお褒めを頂いた事もない、極く平凡に暮して参りました者で、別にお話し申上げる様な事もございませんが……
 私は十二の年から三味線を習ひ始め十四の年に、確か明治二年頃と記憶しますが、慶喜さんが大阪城を落延びるのと騒いで居りました頃でした。其頃文楽に入れて貰つて一生懸命に修業して居りました。其頃の修業は今とはお話にならないつらいもので、朝暗い内から小屋に行きまして、三味線弾きの方は鯨蝋燭の芯を切つたりお茶をついだりする事はありませんが、兎に角簾内で一日中聞いて居て上の人の弾き方を覚えるのです。その間は勿論お給金なんてありません。そうして二年なり三年なり修業して、やつと大序に入れて貰ふのですが、是も真が半分取つてしまふので、二十人近くの者が後半分を半枚づゝ位分けて貰ふのです。今では営業ですからすつかり、崩れてしまひましたが、昔は大序から通して全部やつたもので、其処に文楽の特徴がありました。で出語りするのは二、三、四段目の夫々口と切、打出しと、此七段目だけで、四の口の道行へつれで出して貰へるのは、余程の抜擢でした。其間に上の人に病人が出来た時が、出世の緒でした。俺が〳〵と先を争つて床に上つて、普段修業してゐた処を認めて貰ふ訳です。その間は座布団も敷けず、羽織も着られず足袋もはけないと云つたやかましさで、親達が気の毒がつて、柔か物でも着せやうものなら、そんな物着るのはまだ早いわ、芸でも身に入れろと叱られたものです。今なら忽ちストライキつて騒ぎですな。処が昔の文楽は営業ぢやなくて、芸の修業場で、今の学校見たいなものですから、金を儲けるのは一人前に名が出てかゝる事です。其代り「清二郎、あすこん処はいかん、こう弾かんきや」と上の人が注意して呉れましたが、今ぢやありません。色々の段を弾かせたり語らせて、誰は西風が向く、東風が巧いとか、世話がいゝとか三の切を語れる素質があるとか、その持場をきめて呉れるのです。
 やつとお給金を貰へる様にはなつたものゝ、それでは中々食へませんから内緒で寄席へ稼ぎに出ました。その頃大阪に三軒寄席があつて、大序が済むと、すぐ駆けつけて三軒廻るのですが乗物がないのですから中々大変です。それで前座が十日間で二分しか呉れません。一日今の三銭位です。中が一朱位、とりが二朱に一寸かける位です。尤も米が百匁で三升買へたんですが、これはお金の為ばかりでなく、一つの大さな修業になりました。それは文楽にゐては中々端場でも一段語る事は困難なので、修業したもののはけ場がありません。そこで太夫と相談して、一つ団平さんの寺小屋を写して見やうと云ふ訳で寄席へ出る訳ですが、それは団平さんと型は同じでも、性根はまるきり違ひます。性根が本当に表はせるまでが中々の修業です。上の人の弾くのを毎日聞いてゐるのですが、中々性根を表はす迄には行きません。よく「弾くのに凝るのでなく芸に凝れ」と叱られましたが、一生修業をしても之で終りと云ふ事はありません。
 一番偉いと感服して居りますのは、何と云つても団平さんです。芸事の話は巧いまづいと云つても聞いた方でなくては納得出来ない事で、団平さんのは、謂はゞ神通力みた様なもので、素晴しく手が切れる人で、非常な大きな音が出るので、針金でも張つてあるのかと思へる程で、その癖ぶらん〳〵の糸で、私共が弾たらてんで音が出ません。つまり、心の芸とでも云ふのでせう。兎に角素晴しい名人でした。