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【 浄瑠璃素人講釈を読んで 古靱太夫師へ 】

(2023.01.25)
提供者:ね太郎
 文楽芸術 3号 pp. 24-27 1941.11
 浄瑠璃素人講釈を読んで 古靱太夫師へ
              斉藤拳三
 御送り下さいました浄瑠璃素人講釈、非常に面白くいつ気に読みきつてしまひました。そうして其日庵翁が大好きになつてしまひました。
 一体私は杉山翁を少々馬鹿にして居たのです。吾々とは非常に遠い処にある摂津大掾や三代目大隅太夫を贔屓にして其人に浄瑠璃の稽古をし語てつて見る、其れだけで、もう私は少々馬鹿にして居たのです。
 夫れは私の身近にある素人の方で余りにも義太夫節を安く見てゐる人の多いのから来た、私の先づ第一の浅見でした。
 義太夫人としての其日庵翁のニュースも今まで余りよく私へは入つて参りませんでした。で、其雄なるものは伊藤痴遊氏が第一でした。一体伊藤氏は杉山翁とはどうしてか一脈折り合はなかつたらしいやうです。
 痴遊氏はあれだけ美事な芸の持主でしたが、批評は非常に感情的な方で「典山と梅本香伯」と云ふ、私を一夜寝かさずに怒らした一論文でも知れてゐませう。即ち講釈には玄人中の玄人の痴遊氏が、素人丸出しの義太夫耳で香伯より典山の方がぐつと芸は下であるとの説ですから相手が私の死んだ後まで惚れて惚れぬいてゐる典山だけに治まりませんでした。私の知人での其日庵崇拝は安藤酒童でした。アノ感激しやすい安藤氏は常に杉山翁礼讃でした。
 私は貴台と初対面の節、真先に杉山さんの事を伺ひました「どうして中々よくお解りになりますし、亦よくお語りになります」との答へでした。妙声庵にかゝげてある翁の額もすぐ私の眼につきました。
 貴台は「私は四五年前まで浄瑠璃はお語りになる方でなければ解らないものと思つてゐましたが、其れは間違つてゐました。語るのと聴くのとは全く別のものです」との御説でした。誠に浄瑠璃を語らない私には知己のお言葉です。処が私は又反対に「語る人は大部分駄目だ」の方でした。是も亦少々ぐらついて参りました。
 第一に感激したのは翁の摂津大掾と大隅太夫に対する情熱です。私は杉山さんの様な偉い人でも私と同じ型の人があるのかと思ふと前途が明るくなつたやうな気がして来ました。落語の故人「しん生」でも講釈の典山でも私はほれてる芸人は殆んど全部の演出を聴いてしまひました。もう十五年前です。当時七十六歳の馬琴の家へ押しかけていつて質疑を質したりしたりした過古の寂しい自分を振り返つて其日庵翁が大隅を前にして無心に聴き入る姿を眼のあたり見るやうで、胸がわく〳〵致しました。先夜此話を「可楽会」の帰途安藤君に話しましたら「其日庵も芸鬼だから話しは合ふよ」と笑つて居ましたが、之れには一寸ヒヤリと一本参りました。酒童もあれでなか〳〵の芸鬼で其日庵式に私に油をかけて死んだ小さんや円右の噺なんかさせるのが上手です。大隅式に煽て上げられて時間も忘れて能書を並べ出す自分の姿など思ひ出しました。これこそ全く苦笑の三の切りです。……話が脱線しましたが、端的に云へ素人講釈の大半は摂津、大隅両巨匠の芸談集であると云つても過言ではありません。
 第二は三世大隅太夫の描写が美事に永年私の疑問の大隅を解決してくれた事です。
 大隅の義太夫人としての偉大を先づ私に教へてくれた人は故岡村柿紅氏と岡鬼太郎氏でした。然し夫れ以上に私を驚かしたのは斯道の玄人の大家と云ふ大家は揃つて全部が大隅崇拝だからです。先づ貴台の忘れもしない大隅論です。
 「彦山九ツ目は大嫌ひでしたが、大隅師匠のを聴いたら演りたくなりました」との話。
 「私が申しては甚だ生意気ですが、同じ合邦でも越路さんと大隅さんでは品物のケタが違ひます」とのお話。
 土佐太夫はかつて私に申しました「アンな無法な事を云ふ人はない。然しアレ程浄るりが甘かつたら、アノ位の無理を云つても仕方がないと思った」と。
 綴太夫は此う申しました。
 「あれ程隅々まで気のついた浄るりを語る師匠が、どうして斯ふ日常物がわからないのだらふ」と。
 私は大隅の甘さを裏書する事は出来ても大隅の甘い理由が解らなかつたのです。其解決を美事に与へてくれたのが其日庵の素人講釈でした。
 翁は芸道の事になると大隅は日常とは人間が丸で変ると云つて居ります。芸人の善さと、悪さは金太郎の善悪にあるとさへ云へるでしやう。吾々が芸談を伺ふ時、キンを云へば云ふ程面白くなる人と、又反対に度はずれのキンで逃げ出すより仕方のない人とあります。之れが芸の別れ目だと思ひます。
 大隅は剛頑自尊で一生を貫いた後半生と団平の一言一句を神の如く信じて、忍苦の修業をした前半生と、これだけ世間は伝へるに急でした。団平死後の晩年期の大隅が尚、善きもの、及ばざるものに対して素直に頭を下げる芸人としての純情を書いた人は翁一人です。翁程によき大隅の知己はなかつたでせう。
 竹本摂津大掾語るところの楠昔噺徳太夫内(大掾引退興行)を聞きに行く件は一番面白う御座いました。自分と大掾の語り方の一つ一つ違ふ点を膝を叩いて説明した大隅が唯の一箇所も違つてゐない事を知つて、自分以上の稽古を団平から取入れる大掾を率直に認めるあたり、同席の仲助が広作(後の絃阿弥)を認める大隅を見て驚嘆する当り、実に現場を見るやうな気が致しました。翁もこれが庵主と大隅の生き別れであると寂しく述懐して居られます。
 出入止めをした大隅の布四が聞きたくて、明治座へ頭巾付の外套で顔をかくしてコツソリ聴きにゆく件りも面白ふ御座いました。
 待ちにまつた翁の姿を見て汗の侭帽子と外套を抱へて杉山翁をめがけて駈け出して行く大隅も大隅なら、すぐ料理屋へ連れていつて夜明けまで稽古をする翁も翁で、実際両横綱の顔合せだと思ひました。私は用もないのに用ありげな電話で何度も引張り出された是沢九似氏の事を懐しく思ひ出しました。
 第三に翁の偉いのは贔屓にしてゐる芸人、即ち出て来る登場人物が皆名人級の者ばかりの事です。惚れて居ない芸人との交遊、之れ程無駄なものはありません。お互に百害あつて一利もありません。翁には其れが全くありません。翁程の人になれば門を叩く芸人は非常に多かつた事と思はれます。ともすれば出入する芸人が玉石混合になりたがるものです。之れは翁が東京在住の人だつたのも其一因でしやう。之れは吾々でも一年に一二度より土地では聴けぬ義太夫に対しては、阪地在住の人とは少々存在価値が違つてゐるやうです。然し翁程の人でも、全部が皆金科玉条ではありません。甚だ失礼ですが、作の善悪、節付けの良否などには翁も幼稚な点があります。然し、夫れは何にも一つ〳〵吾々後輩が指摘する必要もありません。結局私どもは翁から素人講釈の好き点だけを学べば夫れで結構なのですから……
 然しながら其れが一転して貴台に及ぼす影響の良否となると又少々、別の意味が生じて参ります。即ち弁慶上使の何時も私が感心して居る(鎌倉殿の難題を……)以下の貴台の独特の演出が翁の善き影響とすれば、堀川の「母に案じをかけさせぬ」の方は悪い方の影響ではないでせうか。やつばり芸は深遠なもので、翁を再認識しなければいけない部分が多少は存在することゝ存じます。貴台へ御礼の手紙の一文が又々交句になつてしまひました。私の悪いクセと御海容下さいませ。
 素人講釈のはしがきにもある翁の此書刊行上の善き主旨を充分貴台が受入れて、永年苦心研究の(吾々仲間では古靱文庫と呼んでる)蘊蓄と造詣とをかたむけて翁の知遇にむくひて少からず翁を喜ばして居る。今に変らぬ芸道愛は全く敬服の外ありません。其して此の翁の名著が、生聞きな、心なしの人に、知つたか振りの芸談として雑用的に放送されて居た数の多いのに私は今更ながら驚嘆いたしました。
 以上頂戴した素人講釈一読後の感想です。
 住吉神社の社庭にも秋やうやく深い事と存じます。御自愛を折ります。(昭和一六・九・三〇)