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【 安藤鶴夫 「日向嶋」うらおもて 】

(2023.03.01)
提供者:ね太郎
 
「日向嶋」うらおもて
  驚くべき藝術感覚の一致 
        安藤鶴夫(談)(文責・本誌) 幕間14(6):66-67 1959.6
 
 「嬢景清八嶋日記」の三段目、「日向嶋」を、従来の歌舞伎的なやり方でなく、厳密に文楽の本行に準拠して上演しようという、幸四郎、綱大夫、弥七の今度の試みが、いわゆる丸本物の上演史上、画期的な意義をもつことは、今さら改めていうまでもない。そしてこの試演会の成果は、これに対する当事者の非常な熱意や、進行中の稽古情況から見て僕たちが大体予想していた通り、いやむしろそれを裕に上廻るものであったことも、またここに改めていう必要はないであろう。
 この成功の原因はいろいろ数えられるが、その中で一ばん大きいものは、幸四郎、綱大夫、弥七という絶好のスタッフがこれに当ったことと、試演会の前に、充分時間を使って、極めて慎重な準備と、熱心な稽古を積むことができたこととにあると思う。
 元来この企画は一昨年、幸四郎が文学座と福田恒存氏の「明智光秀」を共演した時、綱大夫との間で持ち出されたのが始めで、去年の春さらにこの二人が会った時から具体化の一歩を踏み出したのだが、僕にも相談に乗るよう話があった時、僕はこの性質からみて、これは秋の芸術祭参加作品にするのがいいと考えたが、充分な準備をして、最善のコンディンョンの下でやりたいということから、芸術祭参加などには全然こだわらずにやるということになったのである。幸四郎のこの純粋さは、僕には嬉しかった。しかしこの気持は綱大夫、弥七にしても同じだった。二人が幸四郎と東西土地を離れて住んでいる以上、少くとも公演前一ヵ月間は休んで上京し、稽古に入らなければならない。それには相当早くから手配して身辺の整理をしてかからねばならないということで、ようやく四月の末になって実現をみたのである。この試演会に対する三人の意気組みと慎重ぶりとは、この一事によっても充分に説明できると思う。
 事実、稽古は綿密で、慎重そのものだった。先ず「日向嶋」全段を綱大夫、弥七が吹込んだテープを、大阪から送ってもらって、それを何本にも複製し、各出演者に配って各自で研究することにした。それからみんなで集って稽古に入ったのである。こうして綱大夫、弥七の上京までに、一応立稽古まで済ましていた。しかしこれは稽古の第一段階にすぎない。本格的な稽古は、文楽の二人の上京後に始まったのである。今度はテープでなく、綱大夫の生まの義大夫でやり、丸稽古を十回やった他、綱大夫にセリフの言い方を直してもらうセリフの稽古までやった。古典物の上演にこれだけの稽古を積んだことは珍らしいと思う。
 幸、綱、弥七のトリオの、芸術上のイキがぴったり合っていたことは僕たちにも全く驚きで、それについては次のようなエピソードがある。
 今度の試演会は丸本そのものを台本にしたのであるから、大夫と俳優との間に、丸本本文の「詞」を配分しなければならない。それをどのように配分するかについては、各当事者の間に意見の不一致を来す可能性が多分にあることは、容易に予測される。だから僕自身、演出スタッフの一人として、これを如何に調整するかが、最大の難関になるのでないかと思っていた。ところが上京して来た綱大夫、弥七と、幸四郎とが会って、これについて双方の案を持ち出した時、この問題は一瞬にして吹っ飛んでしまった。双方が別々に作ったプランを比べてみると、ここはセリフでしゃべる、ここは義大夫で語る、という区切りが、まるで符節を合わせるように、実に一字一句もちがわずピッタリ一致していたのである。これには驚いてしまった。ここまで三人の芸術的な感覚が一致している以上は、今度の試みの成功は疑いないと思った。全くそれは、奇蹟的ともいうべき暗合であった。
 義大夫の世界には、「丸本を百通読、め、そうすればおのずから語れるようになる」という教訓がある。丸本をよく読んで消化すれば、誰でも行き着く処は一つなのであろう。この三人に丸本の深い研究があったからこそ、この暗合も生れたのだと思う。
 この意味からいえば、共演した各優にしても、その成功不成功は、その俳優が、公演前に何回テープを聞いたかによって決まったといえるかも知れない。つまり義大夫を尊敬したかしないかが勝負の分れ道だったわけだ。
 演出スタッフの一人としての僕の仕事は、一と口にいうなら、「全体の纒め役」であった。いわば観客代表といった立場から、全体のバランスを考え、アンサンブルをつける役である。そしてこの方面での千谷道雄氏の共力も是非挙げておきたい。
 演出といっても、もともと僕のような技術的には素人の人間は、技術者を技術面で指導しようとするのは行き過ぎだと思う。殊に今度は、義大夫には。綱大夫、三味線には弥七、演技には幸四郎と、それぞれ専門家がいるのである。その上、形や動きについては桐竹紋十郎がいて、吉田多為蔵の型を実演して見せて、指導してくれた。だからなおさらその必要はないわけだ。
 技術のことは技術者に委せるべきで、事実、今度の稽古でも、綱大夫の上京前、里人の役の万之助が、全然、義大夫調のセリフが言えなかった。僕には少しは義大夫節の心得があるので、見るに見兼ねて教えてみたが、どうしても言えない。ところが綱大夫が来て教えると、僅か一日の稽古でそれがスウーッと言えるようになった。技術者はやっぱり、そういう指導の急所をちゃんと心得ているのである。これでこそ技術者といえる。
 それから、千鳥の鳴かせ方であるが、普通はピー、ピーピーピーと、いつも決まった鳴き方を、ただカンでやっていたようだが、今度は芸のイキを考えてピ、ピ、ピピ、と短かく切ることにし、しかもそれを入れる箇所を、浄るりのどこ、三味線のどこと厳密に指定した。担当者には非常に厄介な注文で、係りの秀十郎も、こんなことは始めてです、と言っていたが、これは非常に効果があったと思う。
 もう一つ、波音も、撥を入れる「間」を同様に細かく指定した。しかしこれは残念ながら僕の思ったようには実現されず、在来の慣習的な打ち方になってしまったようだ。
 しかし、今度の場合に限らず、古典物の上演に演出者をつけることは、ほんとうに必要だと思う。過去には、そういう役目を座頭が引受けていたのであろうが、現在ではそういう人はいないから個々の演技者は何れも、自分のパートに関する限りチャンとしたことをしていても、アンサンブルが駄目になる。往々にして見かけるこの弊を救うために、どうしても演出者が必要だというのは僕の持論であるが、今度の試演会は、この問題についても、一つの重要なテスト・ケースになったのではないか。「太十」を、「寺子屋」を、もう一度考えてやり直すことだ。
 この試演会の全体的な成果について問われるなら、僕は、丸本狂言の在来のやり方は、今度のような本行の「間」に直して再検討すべきだという、僕の以前からの確信を、一層強めてくれたことを言いたい。丸本物の芝居が観客に往々にして退屈を感じさせる根本の原因は、チョボの義太夫が本行より「間」が伸びていて、その間伸びのしたテンポで芝居が行われているからである。これを義大夫節本来の「間」に引き戻すなら、今度の「日向嶋」の舞台のように、舞台が引き締って来る筈である。だから、どの丸本狂言にしろ、本行の「間」をもっと研究してかからねばならない。このことは、今度の実験ではっきり分ったと思う。
 最後に、今度の綱大夫、弥七の出演を、在来のチョボ出演と同一視する文楽因協会側からの異論についてであるが、これが単なるチョボ出演でないことは、試演が終った今日、すでに議論の余地はない。それよりも僕は、この試演が、文楽本行の優秀さを、一般観客の前にはっきりと実証したことを重視する。観客は、義大夫節の真価を、これによって新しく認識したと思う。だから、権威の失墜どころか、逆にこれを高め、文楽の芸を認識させた意味で、大きいプラスになったと思う。