FILE 63

【 竹本綱大夫 芸談 】

(2023.01.25)
提供者:ね太郎
 Iwanami Hall 10号 pp. 2-5 1969.2.1
 綱大夫 芸談
 竹本綱大夫は今年の1月,65才で世を去った.綱大夫は昨年の7月4日「伝統芸術の会」と共催された岩波ホールの企画「伝統芸術と現代」の一つのテーマとして「文楽における伝統と創造」の会に出席.武智鉄二氏の解説,竹沢弥七氏の三味線で,2時間半にわたって実演を入れた芸談をした.これはその時の話の前半をテープを基として整理しその大意を伝えたものである.勿論,文章では実演を含めた芸談をそのまま再現することは出来るはずもない,また,テープで聞きずらい所もあるので,ある程度筆を加えた.また,武智氏や竹沢氏の発言は割愛した.聴衆のほとんどが義太夫を初めて聞くといういわゆる素人であったために,極めて啓蒙的で,決して玄人向きの芸談とはいえないかもしれないが,義太夫の本質を語った綱大夫の最後の芸談として貴重なものである.2時間半の舞台を終えて楽屋にもどった太夫は,夫人の肩に頼よらなければ歩けないほど,つかれていた.それでもホールの者の御礼に深々と頭をさげたその姿が今も目に浮ぶ.(文責玉井乾介)
*
 いわゆる文楽の浄瑠璃はデンデンものとか太棹とか申しますが,一言にいってどういうところが違うかというと,まず,義太夫では一番大事な音として二の音ということをあげます.一般には,天地人といいますが,義太夫では天人地といいます.それは,御承知のように,人があっての天と地であるというわけで,天人地と,人と地を逆に申します.この人というところが,義太夫としては人間であるから大事であるということです.三味線の音にして,天は一,二は人,三は地です.ですから義太夫ではこの二の音を大切にして,二の音が冴えないといけません.まずこれが義太夫の根本です.
 
 良い音・悪い音
 出し物によりまして,あまり良い音をされるといい場合もあるが,また,悪い場合もあります.例えば,静かな曲でございますと,あまりにいい音はまあ,いい音ってのは可笑しいのですけれど,さわりのよくついているような,鳴りすぎるといいますか,そういう時はかえって大変邪魔になるんでございます.静かな,やっぱりどちらかというと沈んでいるような音がいい時と,また晴やかな場合には強くデーン,デーンとやってくれないとやれない時もあります.雰囲気と申しますか,その語り場によっていろいろ違うんです.そこに,三味線を弾く人の苦心があり,時によって,わざと音を殺す時もございます.そういうところに三味線弾きさんの女房役としての苦心がございます.
 
 義太夫は語るもの
 義太夫は語るもので唄ってはいけないと申しますが,その語るということは,節を通して語るという問題と,その節を語るという問題との両方あると思うんでございます.ただ,お客様にわかるように語るということが第一条件でございますし,また,その,いわゆる情景を出すということが一番肝心でございます.それですから,語るというわけで,決して,唄うとはいいません.
 語るには,美声,声の好し悪しということは非常に関係がございますが,ただ,いい声,きれいな声だけが美声とは申されません.さきほども申しましたように,義太夫では,天人地の人の声,すなわち,二の音の冴えている声のいい人,それから,高い「アー」という声のいい人,いろいろございますが,特に二の声というものを大事に致します.一つの条件として,耳うつりのいい発声ということが大事でございまして,ただ,いかに,太い声がいいといっても,浪花節語りには失礼ですけれど,俗にいう浪花節みたいな,つぶれた声は義太夫ではいい声といえません.また,いい声というのでもただ高い声を「エー」と出しては,これは奇声と申しまして,聞いている方には,非常に不愉快で,いい声であるけれども耳の痛いというような声は義太夫としては戒められております.感じのいい声,聞きよい声,耳移りのいい声というのが第一条件だと思います.
 よく舞台で,最初に三味線弾きさんと太夫が出て,なにか,ウーウーと唸っているのをおくりと申します.初めて文楽などをお聞きになられた方なんかですと,おくりの間,何をいっているんだか解らない.あんなものは早くやめてしまって,早く本題に入ってほしい.まあ,極端にいうと,早く「今頃は半七さん……」をやれという方もあります.ところが,あの,おくりということは大変われわれには大事なことでございまして,まあ,極端に申しますと,この語り出しの間に,太夫と,三味線弾きがその日のコンディションを考えております.いわゆる相撲でいいますと仕切っている訳でございます.この間に色々と自分の体制といいますか,体の調子を考えておりますし,この間に,あるいは「ひとまえ」といって何んだか解からないことを云っております.この枕の語り出し「ひとまえ」の間が満足にいえる時は調子がいいんでございます.自分の調子で低い調子ですけれどこの間に息を整えております.
 これが本当に私どもよく病気がちでよく声を痛めますが,本当に声の痛んでいる時は「ひとまえ」ということが云えないんです.「ひとまえ」の「え」のところが,ええ,と詰ってしまいます.それによって,その日はひよっとしたら代役が出るかもしれません.うちの師匠でも,よくお休みになる時に,私が代役としてひかえておりまして,じーつとうかがっておりますと「ひとまえー」という所が満足にすーつといった時には,今日は大丈夫だという風にわかるんです.
 この間にもしも調子の悪い時は「ひとまえー」がいえません.おくりの時から声が出ないんです.この時はとっても調子が悪いんです.最悪の場合です.この時はそうら代りが出るぞと覚悟をきめているわけです.こういう所におくりとは関係のない皆さんは御退屈でしょうけれど,ここで調子を整えているのですから,よろしくお願いします.これは三味線弾きさんにしても同じなんです.
 
 節づけ
 義太夫の節づけというものは,まあ昔からあるものを今われわれは,やらして貰って踏襲して,先輩の名人方の残されたものをわれわれが受けついでやっているんでございます.けれども,新作でなく昔の義太夫でございますと,例えば近松門左衛門とか近松半二とかいう作者の書いたものは,一冊の本が出来てまいりますと,この本をご覧になったその当時の太夫さんがそれを見て,これは地合の部であるとか,これは言葉の部であるかということをまず区別するわけでございます.決して作者の方から御注文なさいません.太夫と三味線と相談の上でございます.大体,まあ,現在におきましては,ほとんど作曲は,--義太夫では節づけと申しますが--この場合,大体,三味線弾きさんが多くなさいます.太夫が微力でございまして三味線弾きさんに責任を持たせていますが,大昔はそうじゃございません.太夫が作曲したんでございます.しかし節の細かい所は太夫ですから解かりません.ですから太夫がここは地合とする,ここは節の所である,これは言葉の場所であると,--つまり心理的な表現の方についた所は地合いであって,直接,人間にふれた会話とかいうところは言葉ですが--大ざっぱに区別して,そして私なり弥七さん(竹沢弥七氏)にいつも相談します.しかし曲のものは別で,所作事とかいうものは太夫では出来ませんから,三味線の合の手の多いようなものは三味線弾ぎさんに全部まかせます.
 
 地いろ・いろ
 それからいろという場面は言葉と地合いとの間のつなぎでございまして,例えば,つまり心理的なものを,ただ,言葉ばかりでいったらお客さんは御退屈もなさいますし,曲としても,音曲としても形を成しません.その場合,言葉に模様をつけたものがいろで,地いろと申します.そういう所は,半分地合であって半分言葉のようなものでございます.こういう所を特に地いろと申しまして,大へん難かしゅうございまして,節ばかりでもいけないし,言葉ばかりでもいけない.言葉の表現のところにチョイチョイと三味線をあしらいます.「口ではいえて心には……」というような所は,単に節を語るだけではいえますまい.極端に申しますと,地いろは,もう毎日変ります.太夫のその日その日の感情に合わせて,ある時は早く,ある時はゆっくりと三味線弾さんがあしらってくれなければいけないので,地いろの間が弾けないような三味線弾きは駄目です.そこに女房役の大変な,いわゆるリードと申しますか,協力がいるわけです。 いろというのは大概ある言葉の前にございます.言葉の予告と申しますか,言葉にかかる前には必ずこのいろというものがございます.これから言葉ですよという予言です.たとえば言葉の前にある「声高に『……』」という,この「声高に」がいろです.同じ「声高に」でも語り方で,ただの言葉になり,地合になってしまいます.
 ここで三味線弾きが,下手に弾いたら台なしです.三味線弾きとして大変な責任ある場合です.たとえば,このいろは一段のうち20あれば20とも違うのです.いろが弾けないうちは三味線弾きは一人前といえません.
 
 言葉・歌舞伎の台詞との違い
 言葉というものは太夫として生命だろうと思います.勿論,地合いのところも,節のところもその情景の雰囲気を出す大切な所でございますが,太夫によりまして大変に地合いの苦手な方もございまして,地合いは下手でも言葉が巧いという方がございます.そういう方は自分の得意の所を発揮するために言葉に重点を置きますから,あの人は地合いはあんまり巧くないけれど言葉は巧いなどといわれます.太夫が人を一番感動させるのは,情景を現わす地合いの所も大事ですが,やはり,言葉が第一だと思います.言葉が下手ではいけません.節は巧いけれども言葉を聞いているとちっとも面白くない,実感が出てない,その人(登場人物)のような気がしない,などといわれるのは芸が至らないからでございます.言葉というものはとても難かしゅうございまして.
 歌舞伎の台詞とはよく似ているんでございますが,同じ言葉でもアクセントはまるで違うようです.歌舞伎流に発音しますと義太夫では叱られます.声色を使ってはいけないといわれます.歌舞伎のように節の上げ下げをせず,言葉を写実的と申しますか,日常の言葉のようにします.声を作らないので,自然に言葉を表現する.しかも,ほとんど抑揚をつけないでツラ,ツラ,ツラとやっていって,それでいて,しかも情のあるということが一番大事なんですけれども,そうはいえません.私どもは未熟ですから何かこう抑揚をこしらえてやります.本当は,こしらえたら怒られます.何もこしらえずに,こうトッ,トッ,トッと,すーと素読みのようにして,それでちゃんとその人がしゃべっているように聞えなければいけません.「声を似せるということはいけない」「まず精神から入れ」といわれます.人間の気持から入って行けば,それに聞えるものです.例えば,極端にいうと,悪声であっても,娘役に聞えるし,「桂川連理柵」のお半の声をきれいに写して「これ長右衛門様」といっても情がなかったら,何にもならない.ですから逆に昔の名人で,しゃがれ声で娘役をやっても,実に初々しく可愛らしく聞えた人もおられました.ですから「精神では写実的に言葉では一本調子」ということが理想になりましようか.
 
 たてことば
 たてことばについては俳優さんの場合は大変に同情申上げるんですけれど,衣裳を着ていられるんだから,そんなにつらつらと義太夫が語るように言葉はいえないと思います.これはお断り申し上げておきますが,俳優さんは義太夫を語っているんではございません.台詞を語っているんでございますから,勿論,根本的に違います.このたて言葉は言葉の運び方と申しますか,テンポと申しますか,それが大事で,言葉を休んではいけないといわれております.たとえば,「鎌倉三代記」大詰の三浦之助の「……サア,驚きは理り,去年来佐々木高綱時節を考へつけ狙へど,なかなか討つ事能はず,武運に強き北条どの,佐々木が力に叶はねば,この討手は日本に御身ならで外なし.迎ひの来るは究竟の時姫招きに応じて立ち帰り,父につき油断を見て只一刃,直ぐにその場で我が咽喉へ差し貫いて自害せば,これ全く親を討つにあらず,頼みと云ふはこれ一つ,親につくか,夫につくか,落ちつく道はただ一つ,返答はなんと」というのを一気に語り,途中で休むと大変叱られます.その日のコンディションで,これをやりますと大変息づかいが荒くなります.一息で語るのが一番です.もちろん世話物で,壷坂のお里の,有名な「観音様に願込めて……」の条りなどは,泣いているところですが,これも泣く気持で,一気に語ります.それから裲襠物の「一谷嫩軍記」大詰の相模,「……香の煙りに姿を顕はし,実方は死して再び都へ還りしも,一念のなす所,あるまい事にはあらねども,訝かしき障子の影.殊に親子は一世と申せば,御対面遊ばさば,お姿は消え失せん」という所がありますが,これを本当に一息で語った大昔の太夫がございます.
 高野山の僧侶だった豊竹三光斉という人です.この方はどういう御修業なさったのか,何しろこれを一息で云えるのは人間技ではこざいません.名庭絃阿弥となったお師匠さんの所へ御稽古に行って,途中で息を入れると「卑怯だ,卑怯だ一息でやれ!」「そんなこというと私ども死んでしまいます」「死んでしまえ」そして最後には「死ぬとこまで行け,死ねへん,行け,行け」という具合になります.これは今の今だに,いかなるどんな名人方に伺っても,三代目越路大夫であろうが私の師匠であろうが--ことに師匠は体力的には息の短かい方でしたから,息を見せないように苦心して,五つ切るところを二つに切るというようなことはございますが,一息ではとても無理でした.一息で語るなどということはとても人間技ではありません.
 
 間・息づかい
 次に間というものにもいろいろございまして,定間,半間,悪間とかがあります.半間とはほその方(太棹に対して)はこけ間といいます.こけ間というのは間をくずして語るわけです.つまり常識の間をはずしてあることをいいます.義太夫では「悪い三味線弾きやな,半間ばっかりやな」と,こういうんですが,半間が全部悪いのではありません.定間とは,定まった間で,静かに,こうきまった間へ入って行くものです.この定間と半間を使いわけて語るわけです.例えば,御承知の「忠臣蔵」六段目で不破数右衛門と千崎弥五郎が早野勘平を不意に訪ねてきた所で「御意得たしと訪へば折悪しけれど勘平は」という文句がありますが,この「訪へば…」という所は,勘平の精神的動揺を現わさねばなりません.それでここは定間ではなく半間でやるわけです.ある名人が,ここの「訪へば…」の所がどうしてもうまく行きせんといったら,その名人の師匠が「そこはワル間や,ワル間でやれ」とおっしゃったそうです.そこは悪い間でやるんだ.定まらない間でやるんだという意味です.それによって勘平の気持も出てまいります.定間はそれにくらべて,ゆったりとテンポに合せていいわけです.
 呼吸は口でひく場合と鼻でひく場合がございまして,まあ息を整えて静かにひいて,お客樣にひいている所を見せないようにするのが,大体の建前です.口で息を引くなとも申します.しかし,口で息を引いた方がいい所もあります.たとえば「何が何で何でやら」と口を大きく息を引くと,さぞかし力が入っているんだろうとお客さんは思います.これは私たちのデモでございます.しかし,口ばかりあけていますと「あいつはアップ,アップと鯉が水を飲んでいるようだ」などといわれます.わたしは,「鼻と口で息引かんと目で息を引け」といわれたことがあります.たとえば「じろりと見て…」のみとてをうまくやれば,ここで何となく自然に息が引けてくるわけです.目で息が引けてくるわけです.また,「耳で息をひけ」といわれたこともあります.「心中天網島」の河庄の場で,治兵衛が小春に会にきて,客の噂話にきき耳を立てる所,「覗く格子の奥の間は,客は頭布のおとがいの,動くばかりに声聞へず」の「声聞へず」で,耳で息を引きます.太夫は目でも耳でも息が引けます.太夫は片輪でございます.