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【 草庵忍人 真木薫皇国の礎 】

(2023.03.19) 
提供者:ね太郎 
 太棹 103号 21ページ
 新作浄瑠璃 新義座上演
 真木薫皇国の礎
        草庵忍人 作
        野沢勝平 曲
 この新作浄瑠璃は皆様も御承知の通り、大楠公崇拝者として大楠公以来の勤王家と言はれた真木和泉守を主役として、維新の深刻な場面の一端を、忍人先生に書き下して戴き、未熟乍ら一座が去る二月十八、十九両日神港有志の絶大なる御後援の下に神戸花隈町神港倶楽部で初演をさせて戴いたものであります。
 国を挙げての非常時、出征第一線の方々も銃後の国民も各その立場より御奉公に徹し居られる時、私等も、やれてもやれなくてもやらねばならぬ覚悟を決して出演致しました次第で、来る五月上京の際には是非上演させて戴き皆様の御批判を仰ぎ度く存じます。
 国家的偉大なる人物の活躍を、私等の芸で、どこまで表現致し得るかと考えます時、たゞ責任の重い心のみこみあげて参ります。何卒私共懸命の微意を御くみとり下さいまして、此上共倒鞭撻の程偏に御願ひ申上ます。
     大阪文楽 新義座
 
  水田寓居の段
すめる世も濁れる世にも湊川絶えぬ流れの水や汲まゝし、さるほどに真木和泉守平保臣、心は遙か九重の、雲井の空に走れども、身に降りかゝる濡衣を晴らすよすがもなか〳〵に水田の渡り十余年、忍び慎みかこちける、今日しも五月二十五日、大楠公の命日に、志ばかりの手むけごと、銘千年と名づけたる、秘蔵の四絃とりあげて、さはさりの曲奏しける。折しも表に卑しからざる一人の武士「頼もう」と訪えば奥よりやさしき女の声「どうれ-」と立ち出でゝ、 私ことは当家大鳥居敬太の妻琴路に御ざりまする、と淑やかに迎ふれば、武士は慇懃に一礼なし、 某は筑前の処士、平野次郎国臣と申す者、真木先生の警咳に接したく、罷り出でゝござる、何卒お取次下され。と礼儀正しく来意を告ぐれば、琴路は聴いて気の毒顔。 義兄和泉守は、此程より、謹慎中に御ざりますれば、何方様にも御面会を避けて居りまする、折角の御入来なれど悪からず御承引下さりませ。 それは是非なきこと、されどまことに心残りと、矢立とり出しさら〳〵と一首を認め、 御内儀まことに恐れ入るが率爾ながらこれを先生におとりつぎ下さるまいか、 かしこまりました暫くお待ち下さりませ、と琴路は立つて離れに入り、和泉守に手をつかえ、 只今筑前の処士、平野次郎様と申される方義兄上に御意得たいとお越しなされましたれど、かねての御申付けにより、御断り申上げましたところ、これをとりつぎくれよとのことに御ざりまする、とさし出だせば、和泉守はうちながめ、 何、四つの緒の琴のしらべのねにめでゝきこえまほしくかねてしのびつ、和泉守は心にうなづき、 平野氏はかねてより聞及ぶ勤王の志士、粗忽なきようお通し申され、  かしこまりました、と琴路は表へ引返し、  何卒お通り下されませ。  そりや先生にはお会ひ下されまするか辱ない、然らば御免。とうち連れて小庭づたいに山杷の香り床しく清楚なる和泉の居室に通りける。 国臣は威儀を正し、 予て先生の御高名を拝聞致し、御高説を承りたく突然罷り出でしところ、早速の御引見辱のふ存じ申す。和泉守も礼を厚ふし、 御詞にて痛み入る、何分幽囚の身にて何事も心に任せず、只管謹慎罷在る、さて今日は大楠公の御命日なれば、心ばかりの祭事を営み居りしに、貴殿の如き勤王の士を御迎え申すは、これも偏に楠公の御引合せかと、保臣恐悦に存じ申すと言葉に礼をつくせども、平野の真意如何ぞと、を据えて観つむれば、国臣もジツト凝視し、こは聞きしに勝る大丈夫、共に国事に殉ずるは、かゝる偉傑ぞ頼母しき、如何にもして起たせんと、死を決て詰め寄れば、和泉守はそれと察し、息を凝しておしかへす、龍虎相打つ気魄の闘ひ、互の意気や通じけん燃る瞳は次第に潤るみ、何時か接する膝と膝、互に手と手を握しめ、  和泉守殿。  平野氏互に心うち溶けて照す至誠ぞ薫りける。  平野氏御来意は推察致した、拙者元より天朝に捧げし命、粉骨砕身以て国難に殉ずるは覚悟の上なれど、要は其方法で御ざる、御名案あられるか。と言はれて国臣声をひそめ、  某はこれより薩摩に参り、藩主を説いて奮起致させたく存じ申すが、この儀如何で御ざりましような。と謀れば、  薩摩は近頃外藩の武士の入国を厳しく禁じ居ると承るが何か好き手段にても御ざるか。 されば薩藩には西郷吉之助始め他に数多知人も御ざれば如何様とも相成ることゝ存じ申す。和泉守はしばし思案の体なりしが心を決し、 平野氏、拙者もお伴致さう。 そりや先生にも御同道下さりまするか。 されば平野氏拙者身に犯せし罪はなけれど藩命なればもだしがたく、今日迄謹慎罷りありしが、国難は日と共に深く、最早座視するに忍び申さぬ、時機を見て脱藩せんと覚悟致し、先頃愚弟敬太親子に建白書を持たせ、都へ発足致させ申した、幸貴殿の御来駕を機とし、この処を立ち退き申す。  承知仕る、之より一旦、肥後松村大成の宅へ参り後事は其処にて御相談致さう。  何分よしなに御願ひ申す。と言ひつゝ書状認めて手を打ならせば、嫁の琴路は手をつかえ、  御用で御ざりまするか。  フム吾はこれより平野氏と暫く他行致す、これに委細は認めあれば、伜菊四郎にこれを渡し、後より参れと伝えてくりやれ。  確に御渡し致しまする、それはマア急の御発足、この頃捕吏の者も目をつけて居りますようす、昼日中その御服装では。  イヤ〳〵夜は却つて面倒服装もこの方が目立たぬ、まさかの時は覚悟がある案じることはない、それより琴路どのあとのことを頼み申すぞ。  かしこまりました。  やがて世の春に匂はん梅の花片山里の一重なれども、と口すさみつゝにつこりと、  平野氏御待せ申した。  では御案内仕る。と泰然として表に立ち出で、肥後路をさして急ぎけり。あとに琴路はとりかたづけ。箒持つ手も右左夫を案じ子を思ひ、今又義兄の門出でに首尾や如何と女気の、降るみ降らずみ梅雨空は、  エヽうつとしいことではあるわいな。
  長州奥書院の段
天に一日明なれど時に暗雲光をとざす、国家順逆を誤れば政治乱れて威令行はれず、民その向ふところに迷ひ外に他国の軽侮を招く、されば防長二州の城主慶親公前代未聞の国難に、侍臣を遠ざけ。家老宍戸備前とたゞ二人、心を砕くその折から、若侍罷り出で、  只今真木和泉守殿御召によつて参上次ぎへ控へて居りまする。  アヽ左様か直に之へと申せ。  かしこまりました、と立て入る。案内に連て和泉守礼儀正く入来り、下手に座して一礼なし、  御召により保臣罷り出まして御ざりまする。  大儀である。ヅヽト進まれよ。  ハヽ-失礼仕りまする。と進み出で、三人鼎の座につけば、慶親公は徐に、  和泉守今日其方に登城を求めしは余の儀ではない、此度の国難に対し其方の所存が聴きたいのぢや、尤も大略は書面にて察し居るが、今日は余人も遠ざけあれば、隔意なく意見を述べてくれい。  コリヤ備前先づ其方の考を述べて見よ。  さればに御ざりまする、我が日の本は神武以来嘗て外夷に犯されしことなき国柄なるに幕府は綸旨を待たづして外国と開港条約をなし、朝廷より譴責あるも言を左右にして攘夷の実を致さず、此まゝに打過ぎなば国家の前途寒心に耐えませぬ、さりとて幕府は最早頼みになり申さねば、此上は勤王の士を奮起せしめ、直接攘夷の実を挙げるの一途あるのみかと愚察仕りまする。と決意を示せば、  フムして和泉守其方の所存は如何じや。  ハア憚りながら備前殿の御説一応御尤の様に御ごりますれど、攘夷は外にあらずして国内にあるかと存じまする。と言へば備前は意外の面持ち、 何と仰せらるゝ。  されば備前殿抑我が御国体は、一系一心、即ち一君万民、君民一体にして之天の法則で御ざる、外に軽侮を招くは、内乱れたるに因る保臣つら〳〵按ずるに、今日の国難は、其因遠く。七百年の昔に発す、畏くも我が国の政治は上御一入の臠せ給ふ物にして、宰相、諸卿、侯伯は、補弼の任に過ぎ申さぬ、然るに中古臣家の権力争闘に、武力を用ひしため、武家は思ひ上つて政治をも私致し遂に皇道を覆ひ、覇道を辿ること久しく、その間楠公の如き勤王の士出でまして、その然ざることを示されしも、時機到らずして止み、暗雲また天を扉す、これ天理に背く道理、如何でか天責なからんや、されば、我等は天に代つて、先づ討幕の実をあげ、兵馬の大権を天皇に奉帰せしめ、政を古に復帰致させねばなり申さぬ、これぞ我が国本来の面目、よつて攘夷は外にあらずして、内にありと申せし所以で御ざる。と朗々と説き来れば、備前尚も言葉を進め、 御高説一々感銘仕る、然るに討幕は言ふべくして中々容易のことに御ざらぬ、幕府漸く衰えたりといへども、水戸家は別として紀州、尾州侯を始め、普代の諸藩も数多あれば武力を以つて対するには、勢ひ薩長土の如き優藩を起しめねばならぬかと存ずる、其これに依つて事成就せし暁、第二の幕府出現致さゞるや、此儀聊か懸念に存ずる。と詰れば  成程殿上人は官位高くして力之に及ばす、また勤王の士は諸国に奮起致すと雖も、多は悲憤慷慨のみあつて智略乏しく、且つ兵砧の資伴はず、御説の通り優藩の力に依る可も、我等は天意を体しての蹶起なれば、現在の幕府とは其動機に於て天地の相違、決して御懸念無用に存ずる。  然らば目的達成の時、彼等も等しく天子の赤子、将軍以下諸侯幕吏は、如何処置なされる御所存なるや。  されば、彼等帰順の実な示さば、その罪を悪んでその人を悪まず、国民本然の姿に立ち帰らしめ、将軍以下能あるものは、それ相応に重用致して何の憚るところ御ざろふや、  成程国内はそれにて条理相立ち申さんが、今ふりかゝる外難は如何打開なされる御所存か これは末の問題なれど、序なれば申あげん、内に一系一心を確立し、護るに国力の充実こそ必要で御ざる、承るところによれば、外夷は兵は訓練に於て、また武器機械等ははるかに、彼、我に勝ると聞く、されば勉めて彼に接近し、その長を探り短を補ひ、進んで交易を開き、徳を樹て、以つて彼等を依らしめねばなり申さぬ、無意味の鎖国は国威を宣揚する所以で御ざらぬ。 備 然らば幕府の採りし開国手段を責めるは如何なる理由に因られるか。  第一は違勅の罪、第二に外夷を恐れ、その要求に応ぜしは耐えがたき国辱で御ざる国事の一切を至上に奉り、君民一体となり、而て後、我進んで彼を迎ふれば、決して外に軽侮を招くことなく、また恥辱にはなり申さぬ。  御説の通り開国致さば、数多の外人入り込み我国の美風を汚さんも計りがたく、この儀何となされるや。  それは心すべきことなれど、世に比類なき、万世一系を奉き、億兆心を一つにして、これを護れば、古仏教の到来によつて世の無常を知り、刹伐の気分を鎮め、また儒教の入り来れば忠孝の道理を究め武士道を確立し、その他芸術建築、器具、調理等、有ゆる文化を消化し尽し、これを国家の血となし肉とこそなせ、之によつて我が御国体の心髄は微動だも致さざるは、歴史の上に明かなれば、何とて恐れることの御ざろふや、進んでこれをとり入れ、以つて国威を宣揚し、世界万民をして、皇化に浴せしめること、これ畏くも太祖このかた、一貫せる大御心と拝察奉る、これぞ大和民族の使命で御ざる、また人生の快事では御ざらぬか。と全身燃て和泉守、一言一句火を吐くばかり、宍戸備前は両手をつき、 実にもつて恐れ入つたる御見識、備前慚愧に耐え申さぬと礼を尽ば、和泉守も嬉し気に、  御挨拶に痛み入る、先づ御手をあげさせられ、御納得あつて御同慶に存じ申す。とへりくだる、慶親公は始終の様子見てありしが、  アイや和泉守其方先頃南へ行きしと承つたが、薩摩の真相は如何であつたの。  ハヽ薩藩は公武合体論と見受けましたれば、私の考へとは。根本に於て相違致しまする、たゞ西郷吉之助に面談致すことの出来ざりしは、今以て残念に存じ居りまする、また土州は未だ藩論纏り居らざるやに聞き及び居りまする。 フームシテ其方以後の方法は如何致す所存じや。と問はれてハツト和泉守、こゝぞ成否の分れるところ心を鎮め威儀を改め、  この国難を双肩に負ひ、皇国のために起たれるは御当藩を置いて他に御ざりませぬと存じまする、天地神明も御照覧あれ、保臣身命を捧げ、此儀御願申上げ奉る、と声涙共に降る悲壮の直言、返答如何にと凝視る眼光親み易く浸し難く心から対人を畏服せしめる稀代の偉傑、慶親公も眼を潤ませ、  和泉守理解つた、防長二州は皇国の捨石じや、是より直に義軍を都へ上す、総監は和泉守国家のため其方の命は貰つたぞ。  ハヽ保臣が身の面目、有難く御請け仕りまする。  ヲヽ過分じや、コリヤ備前兵站の資、其他手落なきよう取り計らえ。  ハヽ-。三人は胸の雲晴れて交す心ぞ嬉しけれ。
 
   天王山の段
こゝに眞木和泉守保臣は、義軍を率い都へ上り。君側の奸を除かんと禁門へさしかゝる、時戦利あらずして、天王山の陣営に退き返す。向ふを見れば淀八幡麓は山崎高槻まで、数万の軍勢取り囲む、今を最後と和泉守、後につゞいて松山深蔵其他決死の十六勇士、和泉守は徐ろに、  義軍は遂に敗れ三将は己に此他を遁る、今僅少の残兵を以て徒らに要害を憑むも、これ石を抱いて淵に臨むの愚でござる、拙者は此度の巨魁として防長二州の藩士をはじめ諸国の志士を率ゐ、血を以つて禁門を濫せしのみならず、五卿及び長門宰相御父子には、更に罪を累ねし道理、その責は吾一ツ身にあり、故に此地を最後とし九泉の下より謝罪致す諸士は飽まで、尊王攘夷を貫徹し、一ツ敗以つて屯挫してはならぬ、弥々発奮精進して皇国のために尽して貰ひたい、躊躇するところでない、速かに此処をお引き揚げ下されい。と懇々と訓せば、松山深蔵進み出で、  総監の御教訓は御尤もなれど、吾等は他藩の者なれば、今総監を亡ひて長門へ下るも詮なきこと、この場を最後に御供致す。と動く気色も見えざれば、和泉守も詮方なく、然らば最後を共にせん、と盃交すその折から、麓の方に武者一騎、母の遺品と紅の小袖は萌ゆる緋縮緬花も恥ろふ艶姿、此方をさして登り来る。  お父上〳〵、ヲヽ父上これにおはせしか。  ヲヽ菊四郎存命なりしか、近ふ〳〵  八ヽア。  今汝に申付ける一大事あり、汝は是より長門へ下り諸卿を始め、慶親公へ此場の様子詳さに言上致し、また伝手を得て、薩州西郷吉之助殿に面会致し、薩長二州は従来のゆきがゝりを捨て協力一致以つて国難に処せられるよう御尽力御願申せ、これ父が最後の詞なり、委細はこの書面に認め置いた、この大役は汝の身にとりこの上もなき光栄なるぞ、必ず成就致さねばならぬ。  八ヽ父上の御言葉に御ごりますれど、この大役は余人をお選び下されませ、私は父上と最後を共に致しとう存じまする。  コレ死ぬばかりが忠義ではない、あれを見よ常々父が申聞かせし、楠公御父子訣別の場所は直この下の桜井の宿じや、吾等は大楠公に比すべくもないが、七生報国は貫かねばならぬ、偲べば大楠公は偉大であつた、汝の会得致さねばならぬのは此一事である、されば汝は直に長門に下り父の志を継いで、同志と共に再挙を謀れ、之ぞ子として汝のとるべき唯一の道じや、理解つたか、サア速くたて、と言はれて菊四郎、父の教訓は道理なれど流石親子の哀別に心を残し立ちあがれば、  コリヤその姿にては人目にたつ、衣服を更め間道より気どられぬよう気をつけて参れ。父の言葉に菊四郎、あとふりかへり〳〵木蔭に忍び落にけり。折しも寄せ手はざはめきたち三方よリ攻め登る、和泉守は莞爾として、  イデ方々用意よくば最後の一戦。と下知すれば勇士は各々部処につき、地物を楯に身をかくし、矢頃はよしと撃ち出せば不意を喰つて寄せ手は驚ろき、列を乱して逃げまどひ、麓の方へ退きけり。  アナ心地よき今の一戦、これにて思ひ置くことなし、方々最後の座に着かん、と静かに矢立とり出し、「大山の峰の岩間に埋めけり、わが年月の大和魂」と辞世を記して小枝につるし、髪とりあげ一同は容姿改め東に向ひ、  真木和泉守平保臣、つゞいて同志十六名只今自決仕る。と都の方を伏し拝み予て用意の枯枝に一同座して火を放ち、腹一文字に割き切れば、火は焔々と燃えあがる、凄惨極まる烈士の最後、相は灰と消えぬれど忠魂世々に留りて叡慮を安じ奉る礎とこそ、知られける。