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【 木谷蓬吟 浄瑠璃研究書 (抄) 】

(2015.11.14)
提供者:ね太郎
 
浄瑠璃研究書 全文PDF 
 
元祖竹本義太夫伝
p62
 墳墓は前記天王寺南門の南、土塔山超願寺に現存する。門内右手に南面し、竹本義太夫墓と刻し、その上部に竹の環内に九枚笹の紋がある。これは竹田出雲の紋所で義太夫の定紋は鞠挿みに九枚笹である。この墓碑も、もとは寺内の中央に東面してあつたので、文化十年、義太夫の末葉竹本喜義太夫なる人が、百年忌追福の為め建立又は修築したと云はれてゐる。其後、大破したを明治二十六年十二月同業者の寄附金によつて再建、同時に現在の場所に移した。同二十六日、盛大な建碑式が行はれ餅まき蜜柑まきあり、越路太夫(後に摂津大掾)弥太夫(五代目)大隅太夫(先代)豊澤龍助、同松太郎その他一同、立会ひし由、記録に見える。
 四天王寺境内、西門南側の引声堂裏にも、宝篋印式の筑後掾墓塔がある、門人豊竹若太夫の一個建立になるもので、師恩追慕の記念塔である。
 
巨匠竹本政太夫の業績
p74
 序に言ふ、政太夫の墓碑は前記の如く、遺子喜治及び門弟の建立した浮図、出雲の文碑、曲帯塚、扇塚の四種の外に、更に、政太夫の本家たる中紅屋の建立せる正碑を、図らずも天王寺口縄坂の上、天瑞寺の無縁墓中から発見した。それは大正五年十一月で、その前月十月には、生玉青蓮寺の無縁墓中から竹田出雲の墳墓を発見した悦びに駆られ、続いて探墓のうち、偶然にも政太夫一家の墓碑を見当てたのである。碑面には政太夫(乾外孤雲居士)と、その父母(春嶽宗栄居士、春宗守芳大姉)妻女(浄宝寺清大姉)らしい法名、其他五人の法名が刻まれてゐる。この墳墓はモト安住寺に建てられたが廃寺となり、国恩寺に移され、更に廃寺となり、当天瑞寺に転じたものである。現在は、山積みの無縁墓の中から救はれて、墓域の中央、安定の土に置かれてゐる。
 
p75
 以下は、参考資料として、各碑面の刻文を紹介して置く。但し石面磨滅汚損のため不明の文字や、誤字あて字などあるが、成る可く原文のままを載せた。
 (一) 竹本播磨少掾浮図
 大阪天王寺西門、短声堂の背後にある、碑の正面に「不聞院乾外孤雲居士」の法名、背面中央に「竹本播磨少掾浮図」とあり、その他の左右両面背後とも凡て左の刻文に埋められる。
 (右側面)
翁諱喜教字長右衛門幼名長四郎政太夫又号文正翁藤姓小原氏大阪人生有才情長嗜歌曲遊芸圃而師竹本氏廼所謂筑後掾立一家之曲者也
翁為其高弟究其閫:奥遂継其緒冒竹本氏襲号義太夫皆由於其遺云享保乙卯歳拝任播磨少掾英名盛行延伝
中華姑蘇人沈草亭氏寓長崎而遙聞翁之声誉藺慕不置手写其曲帖深嘆其妙伎亦謂小道
 (背面)
可観之比耶世之弄詞曲者率従翁以執矩穫及其門者不可勝計而親受口授者僅数十人各勤其名具干趺皆執弟子之礼愛敬親戴殆使視者感嗟其
  竹本播磨少掾浮図
制行非孚于人豈能然哉業伍扮戯而躬不屑与歯[足+禹]々涼々木訥自守剪徹黒摯s事粧飾相其貌則厖々然野人蓋天賦之所使然可以想見其為人也
 (左側面)
延享改元甲子年七月廿五日疾卒于家享年五十右四葬于安住寺之塋次継嗣喜治及門人等経紀喪事復就天王寺竟上択清潔之地建浮図以擬墓誌回系以銘曰
  執芸孔卑 如成名何
  維翁繭室 久而有華
 延享甲子年九月十四日
   穂積以貫伊助甫譔:
         孝子喜治
              建
         門弟子等
 
 (二) 文正翁曲帯塚
 同上天王寺、前記墳墓の附近にある、二世政太夫が故師十七回忌追善として建立、文正翁とは政太夫こと播磨少掾の雅号、曲帯とは舞台にて締める腹巻をいふ。碑の表面は「奉納大乗妙典」と記し、裏面には「故師播磨少掾、文正翁曲帯塚」と刻す。右側面には宿坊法憧院恩顧と傍書し、左側面には左の碑文がある。台石正面に「竹本政太夫」、その裏面の一隅に、石工炭屋町村田治兵衛とある。文中、拝主薩摩屋十兵衛とは二世政太夫のこと。
 僕成童ノ頃ヨリ翁ノ浄瑠璃音曲ノ奇ナルヲ慕ヒ門ニ入テ嗜メリ寛保癸亥ノ秋芸閣ニ入テ此曲ヲ続ンコトヲ示ス予微曲ナタト云ドモ師命辱ク其意ニ随ヒ且政太夫ノ曲名ヲ戴ク翌甲子ノ秋老師病間芸床ノ儘終焉ニ至マテ纏ヒシ肌帯ハ翁ノ沢物亡後ニ請テ紀念ト拝ス今ニ於テ師跡ニ止ルコト全此名帯ノ余誠ナリ今年翁ノ十七回遠忌ニ予寸悃ヲ発テ此霊場ニ大乗妙典ヲ奉脩シテ其追善ヲ仰ク又被綿帯ヲ附藏シ陰ニ翁ノ曲帯塚ト唱フ是師恩ノ厚キコトヲ後世ニ止メント欲スル而己
                 拝主  薩摩屋十兵衛
                        有保謹誌

参考(天王寺と浄瑠璃 上方3:289-291より)
義太夫節の始祖義太夫の生地である上に、寧ろ彼れ以上の巨匠だと信じてゐる二世義太夫こと竹本政太夫(後に播摩少椽になつた人)の曲帯塚の存することも、また天王寺名物の一つに数へたい。
 曲帯塚とは、文字の示す通り、政太夫の使用した舞台用の腹帯(音曲帯)を埋めた塚で、師恩追慕の記念として建立されたもの、伏見中書島にあつた同じく政太夫の扇塚(舞台用の拍子扇を埋めた追慕塔)と共に、政太夫の至芸と徳望を雄弁に語り伝へる遺蹟である。彼の大近松の芸術もこの人を得て愈々入神の妙に入つたものだと私は信じてゐる。
 曲帯塚の所在は、納骨堂の裏の小さな袋地の一隅にあつて(劇作者並木五瓶の墓もある)常は往来口を閉鎖されてある為め、知る人は極めて少い。殊に最近の寺田町行電車路の為め天王寺西南一角を削られ、曲帯塚は位置を変へられ、可なりの損傷を石身に受けて、見る目も痛々しい。塚の下には無論記念の曲帯が埋められてあつたものと思ふがそんな事に考慮もなく、また頓着もしないで、一意電車路の邪魔になると云ふ方針から、職業吏員や職業僧の手に移転された訳であらう。兎角に我が大阪では、当局に大阪人が無い故か郷土道徳に無関心な為めか浮草主義の崇りかは知らぬが、貴重な名勝遺跡を惜気もなしに破却する傾向がある。それが近來益々甚しい。暴力時代の現はれは独り帝国議会ばかりの名物では無さそうである。大阪精神文化の提婆、史的大阪の達多とも見られる。遺憾の極みである。
 この曲帯塚とは土壁一つ隔てた東隣の一区が、前に叙べた始祖義太夫の墳のある引声堂の裏側墓地になつて居る。其処にも政太夫の墓があり、東派の始祖豊竹若太夫その他二三名匠の墳が並んでゐる。

 (三) 文正翁句碑
 大阪道頓堀法善寺内にあつたこと、馬琴の『羈旅漫録』に図入にて示してゐるが、現在不明である。同書によると、碑の中央に「竹本播磨少掾喜教文正翁」とあり、その左右に左記竹田出雲こと千前軒の句文が見える。
 播州司馬喜教音曲一芸のほゐをとげてはりまのじやうに任ぜられ竹本二代の祖たり誉ある受領の国を上て一句を讃す
  浜千鳥あとを残すやふし墨譜
     甲子冬 竹田 千前
 (四)文正翁扇塚
 伏見中書島建久寺に、播磨が多年用ゐた舞台用の拍子扇を納めた記念の碑であるが、明治何年かの水害に流失したとのことである。
 
 (五) 正碑
 同上天王寺夕陽丘町天瑞寺にある、大正五年十一月、無縁墓の堆積中から発見した播磨屋一家の墳墓、碑面には播磨少掾こと法名乾外孤雲居士を冒頭に、父母妻女と推察されるもの、其他一族の人々合せて八名の法名と歿年月が刻されてある。建立者は、政太夫の息男紅屋長右衛門とあれど、年月なし。
  乾外孤雲居士  延享元甲子七月廿五日
  春嶽宗栄居士  元禄十二己卯正月四日
  春栄守芳大姉  享保二十乙卯三月二日
  浄室守清大姉  宝暦六丙子三月廿四日
  即道是空居士  寛政十三辛酉正月廿四日
  法嵒妙相禅定尼 寿山禅量居士 沙岳自恒信女
 
p111
竹田出雲一族の墓塔発見とその豪華生活
 大正五年十月、竹田出雲、並に一族六十数名の墓塔を発見した。
 竹田出雲は、近松門左衛門に次ぐ名作家で、忠臣藏、千本桜、菅原等の著名作のあることは誰れ知らぬものもあるまい。そして、彼が作家として優秀なだけでなく更に興行家としで天才的な傑物であつたことも、既に前に叙述したが、併しながらその生活内容に至つては寡聞にして何等の発表記録をも見聞しない。殊にその墳墓の如きも所在不明の有様であつた。私はこんな事を取纏めて、大正五年十月、出雲百六十年忌の記念講演会に話したが、それが動機となつて先づその墳墓の捜索に没頭する事になつた。
 さていろいろと手段を尽くすうち、南区(現在は天王寺区)生玉寺町に在る真言宗青蓮寺に、明治初年頃納所を勤めてゐたと云ふ老翁から「青蓮寺には道頓堀に深い関係のある竹田家といふ大きな無縁墓があつた筈」との一報に端緒を得て、調査を進めたところ、果して、生玉寺町最南端の青蓮寺に、出雲を始め一族の墓塔を見出しだ。
 この青蓮寺といふはさのみ古い寺でなく、出雲存生頃には此地には無かつた。本来竹田一家の墓はもと生玉神社の北出口に当る真言坂生玉十坊の内、遍照院と云ふのに在つたが、明治初年、神仏分離整理の際、それが排仏棄釈の傾向となつて現れ、十坊移転と共に廃絶しようとしたを、漸くにして今の青蓮寺の地に、墓石もろ共移入併合された訳である。聞く所によると、明治初年までは掃墓の人もあつたらしいが、その後全く弔ふ人もなく、爾来無縁の墓となつて放置され、この演劇史上の名家の霊も久しく中有に迷ふの状態であつた。
 最初、この墓塔を発見した時には、私は尚ほ直に出雲の墓とは信じ切れなかつた。と云ふのは、竹田氏とのみ彫つた大きな一つの台石の上に、東面四基、西面四基と、背中合せの八基の碑石が立つてゐる。法名の数は、八基合せて約六十余霊の多きに上つてゐる。それも法名ばかりで、俗名も歿年月も記載されてゐない。但だ大台石に竹田氏とあるばかりで、これが出雲一家のものとは推測さへ許されない。殊に墓塔が、堂々たる宝篋印塔であることも、劇界人にしては余りに懸隔のある立派さに、或は他の竹田氏と名乗る豪家の墓域ではあるまいかと疑うた。
 墓は一碑数法名の連記であるが、中に一基だけは一法名で、石も古く何となく由ありげな感じがした。これだけには珍しく年号と建立者の名が見えた。法名は願舟院観月江清居士、宝永元甲申年七月三日示寂とあり、側面には孝子竹田平助建之と刻まれてあつた。竹田平助とは、私の記憶では四代の竹田近江である。ここに一道の光りが見えた心地がして、愈〃調査に着手し始めた。(此碑は後の調べにより初代竹田近江と知れた。)
 当寺保存の過去帖は、寛政八年正月の調書になつてゐるが、幸ひにも慶長以降三百余年の記載が見られる。塵まぶれの柿色表紙の日月牌霊名誌の大冊三部、一枚一枚展げて行くたびに、蠧魚紙がパリパリと音立てて、幾十年振りかの此の世の風に触れて行く。終日かかつて拾ひ上げた結果によると、前に見た墓塔は、悉く竹田出雲一族のものであることが確実となつた。そして、当の竹田出雲の戒名が「文明院岑松立顕居士」となつてゐることも知られ、初代近江を始めとして、二代、三代、四代等歴代、竹田新四郎、同外記、同文吉等々の一族、妻子眷属の法名俗名など、歴然と登記されてゐるのを見た。
 過去帖を通覧するうちに、異様に感じたのは、三代竹田近江清英が、その妻女と同じ寛保二年九月二日に歿してゐることである、災厄の為めの死か、情死か、明かでない。それよりも、ここに一つの疑問が生れて出た。事は出雲の歿年月に就ての異変である。在来の諸記録を見ると、宝暦六年十月廿一日歿として殆ど定説になつてゐる。今、この過去帖に拠ると宝暦六年十一月四日と明記されて、定説とは十数日の齟齬を来たしてゐる。記録と過去帖と、孰れに信を置く可きか、墓碑に年号のないのが遺憾至極である。そこで、今一つの傍證を得る為め、位牌を見る必要が起って来た、位牌の歿年月は如何であらうか。
 寺に保存の古位牌は、数千本あつて本堂の天井にあると云ふので、寺僧雛僧の助勢を得て、天井裏に潜り込んで捜査に従事した。慶長以来の無数の位牌が、薄暗い中に塵を浴びて林立してゐる。その中から出雲の位牌を選り出さうと云ふのである。相当面倒な仕事である、少くも半日か一日は潰す覚悟でかかつたが、意外にも二時間と経ぬうちに、目的の出雲の位牌を探し当てた。さて、歿年月はと見ると、過去帖と同じく宝暦六年十一月四日となつてゐた。従来の定説十月廿一日を生んだ出拠を糺さねば断定は下されぬとしても、現にこの菩提寺の過去帖面に、十一月四日と明記されてゐる以上、正しくこれを信ず可きだと思うてゐる。
 出雲の位牌に続いて、その一族のが十数本選り出された、それも十分と時間を費さぬ隙のことであつた。それも其筈、いづれも丈の高い牌蓋のある立派なものばかりであつて。数千の中にも特に群を抜いてゐたからである。.
 斯う記して来て、さて省察すると、墓碑は凡て宝篋印塔の堂々たるものであり、位牌は又大名に劣らぬ立派さであり、男子の多くの戒名は居士号を用ひ、女や小児の法名にまで、院号を附してゐる。(例、初代近江の妻は乗台院如蓮清心尼、出雲の子は桂光院證知見明童子)この二三の事実その物が説明する如く、出雲その他の家格を超絶した豪華生活が、著るしく眼に映るではないか、四代竹田近江の如き、荘嚴なる観世並音像三十三体を、宝暦七年青蓮寺に奉納、今尚ほ現存されてゐゐし。その墓域には一門六十余名の宝塔が立派に打揃うて現存して居るのを見ても、華やかに枝葉を張つた竹田一族の面影が偲ばれる心地がする。
 尚ほ一つの事実は、宝暦十一年十二月、竹本座に『古戦場鐘掛松』興行中のこと。座主四代竹田近江は、高津新地四丁目の下屋敷へ、官人紳士を招待して盛宴を張り、得意の引き道具やからくり人形など利用して、座敷内に四季十二ヶ月の景物をしつらへ、更に雪月花と称する贅を尽くした趣向の下に、徹宵、大歓楽境を展開し世を驚かしたことがある。それが為め近江は捕へられて入牢の憂き目に遭うたが、一面、竹田一族の豪奢僭上ぶりが遺憾なく暴露されてゐる。
 この一門栄華の歴史も、明治大正に至つては、纔に青蓮寺内に無縁墓として残存、多年香花を手向ける者さへなかつたのである。大正五年、出雲百六十年忌に当つて、図らずも墳墓発見によつて世に知られたが、偶然にも此時、道頓堀浪花座(出雲が生涯活躍した竹本座の後身)に、彼の傑作『仮名手本忠臣蔵』が上演されてゐたから不思議である。そこで、新記録として現れた十一月四日の出雲歿去の日を期し、松竹社の発企により、忠臣蔵出演の鴈治郎、梅玉(先代)福助(梅玉)芝雀(雀右衛門)魁車、巌笑その他座員一同、及び文楽座の越路、津、南部、吉兵衛、友治郎、寛治郎外一座の人人が参集し、出雲墓前で大法会が厳修され、この劇界大恩人の精霊を慰めた。
 青蓮寺の『日月牌霊名誌』から竹田一家の人々の記録を、年代順に摘記して置く、後の研究者の為めに万一の参考ともなれば幸甚である。(括弧内は歿年月、戒名下の×は墓碑の存するもの)
竹田近江母(万治三年二月十九日)英月妙春禅尼
竹田近江妹(寛文元年十月廿一日)花屋蓮智禅尼
竹田近江父(寛文九年九月五日)芳樹院清林静休
竹田内室弟(寛文十年五月十六日)承宗禅門
竹田近江妻(延宝二年七月九日)明雲了好
竹田出雲子(延宝七年六月三日)露心童子
竹田出雲妻(延宝七年九月六日)秋峯了心×
竹田近江妹(天和二年九月廿二日)葉屋寿紅女
竹田内源太郎(貞享元年五月廿二日)賢光童子
竹田近江娘(貞享二年一月廿一日)智貞童女
竹田外記子(元禄四年九月廿日)正智童子
竹田近江娘(元禄八年三月廿四日)満葉童女
竹田外記娘(元禄八年十一月廿二日)智寒童女
竹田近江内室母(元禄十三年一月廿八日)慧照信女
竹田新四郎娘(宝永元年四月九日)如幻童女
竹田外記妻(宝永元年六月十二日)観修慧林信女×
竹田近江(初代)(宝永元年七月三日)願舟院観月江清居士×
竹田近江子(宝永五年十二月三日)幻仙童子
竹田出雲娘(宝永七年八月廿六日)自光童女
竹田近江子(正徳二年三月廿七日)慈法童子
竹田出雲子(正徳四年五月廿五日)嘨:蓮童子
竹田近江子(正徳四年八月六日)栄林童子
竹田近江妻(正徳四年十月九日)浄光智清信女
竹田外記(正徳五年八月八日)法船院潭月浄雲居士×
竹田了清母(享保四年五月十七日)但節栄林禅定尼
竹田新四郎子(享保七年六月廿六日)利仙童子
竹田新四郎娘(享保九年六月十二日)智淋童女
竹田新四郎娘(享保九年七月三日)善倫童女
竹田近江子(享保九年八月三日)秋雲慈月信士
竹田出雲妻(享保十一年八月廿一日)成正院光山利春信女×
竹田近江母儀(二代)(享保十一年九月十五日)乗台院如蓮清心尼×
竹田近江少掾(享保十四年九月十九日)正信院指月江帆居士×
竹田新四郎子(享保十四年九月廿八日)密乗暁阿信士
竹田新四郎孫娘(享保十五年九月廿二日)英雅童女
竹田出雲娘(享保十六年五月廿三日)秀室利貞信女
竹田了清父(享保十八年八月廿四日)授誉宗伯禅定門
竹田出雲子(元文元年十一月十九日)摂相如幻童子×
竹田新四郎(寛保元年九月廿五日)法真院臨月浄覚居士×
竹田近江清英(三代)(寛保二年九月二日)究寛院到彼覚岸居士×
竹田清英妻(寛保二年九月二日)観秋貞鏡信婦×
竹田新四郎妻(延享三年三月六日)貞寿院法室理元×
竹田外記(延享四年六月四日)諦相院濬哲奚疑居士×
竹田近江娘(延享五年五月廿七日)浮泡童女×
竹田近江妻(延享五年六月二日)観光明智信女×
竹田近江子(寛延三年五月七日)良夢童子×
竹田出雲母、奚疑要綱(宝暦二年四月三日)憲光院正温慈情信尼×
竹田出雲娘大(宝暦三年三月三日)普山光照信尼
竹田近江家来藤兵衛(宝暦三年七月廿日)常覚信士
竹田出雲事小出雲(宝暦三年七月廿一日)桂光院證如見明居士−-碑には童子とあり×
竹田出雲(宝暦六年十一月四日)文明院岑松立顕居士×
竹田近江子(宝暦七年七月廿七日)秀阿童子×
竹田近江?(宝暦十年六月十一日)良空貞祐禅尼
竹田近江母(宝暦十三年三月十九日)心浄院江月了清尼×
竹田新四郎母(安永七年十一月二日)心光院浄室理清信尼×
竹田文吉母(安永八年正月四日)栄光院梅山松樹大姉×
竹田新四郎妹(安永十年二月五日)春岳理明信女
竹田近江(天明六年九月廿九日)秋峯帰源信士
竹田近江大掾(天明八年十月六日)覚眼院道徳圭天居士×