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【 石割松太郎 文楽向上会 一人の天才なし 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
 文楽向上会 一人の天才なし
   石割松太郎
 サンデー毎日 昭和二年七月十日 6(31) p.15
 
 
◇……下積みの太夫や三味線弾連のための文楽若手向上会が恒例によつて今年も六月の本興行の後に弁天座で開かれる。いろんな不平や理窟もあらうがとにかく下積連中のための登龍門であることは確かだ、場なれがしないとか、稽古の暇がないとかいふ口叱言を聞くが、開かれた登龍門を大手を振つてお通りになる太夫も三味線もない、これは何といつても若手連中の無気力だ、これではふだんの不平もなるほどといはれない。
 
◇……或は鏡太夫の「陣屋」和泉太夫の「野崎」を今度の向上会の収穫だといふかも知れぬが、私はこんな収穫を得ようとは思つてゐない、鏡の腹は強からう、若い人としては規模も相当だらう。和泉の野崎はよく語つた、あの年功で久作をあれだけに消化したのは偉からうが、私の期したところは、若手連中にもつと〳〵覇気がほしかつた、もつときずだらけ欠点だらけでいゝ、素璞のやうな浄るりを望んだ、小さく大事をとつた小器用な浄るりを聞かうとは思はない、庵や紋下を小さくしたやうなその跡に追従しようとするやうな浄るりは、実はそれ以上にはなれないのだから望ましい事ではあるまい。野に遺賢の一人や二人、隠れたる天才の一人や半分はあつてもいゝと思ふが、さてないものだ。この調子で行くと、日本の浄るりも死んだ越路太夫が打止めか、との感が強く、若手の奮起が切に〳〵望ましい。
 
◇……ところで、今度の向上会での二立ての主なるものゝ比較をしてみると前の「菅原」は聞き落した。「一の谷」で「組打」はつばめ三味線猿太郎と、相生太夫に友右衛門だが、共に段切れしか聞かないから何ともいへないが、つばめ太夫の方をとりたいと思つた。「熊谷桜」は和泉に叶太郎、一つは陸路に友若、落ちついたところは和泉をよしとし、若々しいいふところの素璞の味は陸路にあるが、この璞もつと〳〵名工の手にかけて磨かぬとものにならぬ、然し厭味のない語りに、素直なのがいゝ。
 
◇……私は本興行の貴鳳がこゝを語つたときに、貴鳳を評価して「将来のない陸路太夫」だといつたが、偶然か皮肉か知らぬが陸路が貴鳳の語り場であつた「熊谷桜」を語つたのは興味があつた、そしていよ〳〵貴鳳が拙いといふことが如実に証拠立てることが出来た、貴鳳の素人臭い標本として相模の「今来て今の物語り」を私は摘出したが、陸路のこゝが立派に成功してゐる、又和泉太夫のも、本興行の貴鳳を凌駕してゐる。又貴鳳の場合で例にとつた「そんしよう菩提」の弥陀六に厭味と匠気とを難じたが、泉にも陸路にも厭味、当て気味はなかつた、浄るりの出来のよしあしは別として、これで以つて素質の善悪を見ると明かに貴鳳の如きは和泉、陸路の下風にある。
 
◇……「陣屋」は島太夫浅造に、一組は鏡太夫に綱右衛門だ、これは鏡が今度での収穫といはれる位だから団扇は勿論鏡に揚がる、島のぐづ〳〵した語り口は、「野崎」の前もさうだ、この人の反省を促したい。三味線は一長一短、綱にやはり団扇は揚がるも浅造もなか〳〵健闘した。
 
◇……「酒屋」は源路に玉勝、一つは越名に寛市、格段の異ひで越名に団扇を揚げる。奥は越名に友平、一つはつばめ、芳之助この勝負一寸面白かつたがやつぱり越名をよしとしたい、つばめの今度の成績は悪い方だ、が二太夫ともしんみりとした味のないのはどうしたものか、越名の如きは特にしつくりしたところがない、共に徒らに技巧に走りすぎたのが難点だ、浄るりの本質に突入せよ末技に促はれるなと、若手特にこゝらの若いところに注意したい
 
◇……「野崎」は鏡に綱右衛門、一つは島太夫に八造、島は前掲の如く鏡は「陣屋」の成功の足もとにも及ばない、奥が相生、友造組に、和泉、清二郎組、和泉のこの語り場はよかつた、わけて久作とそのばしとがよかつたのは、或は今度の向上会の第一の収穫ぢやあるまいか。三味線も清二郎の方をとる。