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【 石割松太郎 浄るり考 】

(2023.03.27)
提供者:ね太郎
 
浄るり考(一)~(四)
  石割松太郎
 東京朝日新聞 1932.12.16 - 19
 
 「浄瑠璃雑話」として『近世演劇雑考』収載時の四葉の写真の説明文
   竹本織太夫使用の床本『花雲佐倉曙』(識語は織太夫の自筆)(二代豊竹古靱太夫氏所蔵)
   六代竹本綱太夫(前名織太夫)使用の床本『花雲佐倉曙』の表紙と識語(綱太夫自筆)(二代豊竹古靱太夫氏所蔵)
     
   竹本織太夫が『佐倉曙』の牢屋を担保にしての借金証文 貸主の浅野常次郎は当時の金方
   大阪道頓堀竹田芝居で織太夫が『佐倉曙』の四段目牢屋敷の段を語つた時(明治六年九月)の番付
  なお、『近世演劇雑考』収載記事の末尾に(昭和七、一〇)とある。
 
 浄るり考(一) 昭和七年十二月十六日
 
 能楽・人形浄るり・歌舞伎と日本の芸能のもつとも発達したものを抽出して考へると、古色そう然たるだけに、内容はとにかく保存方法において能楽演出の形式だけは整つてゐる。後の二者に至つて時代色が新しいだけに、保存方法さへにも異論が多い。こゝでは歌舞伎において問はない。人形浄るりの場合は、純古典としての保存と、街頭に引だして今日の思想なり事件なりをこの古典の形式に盛らうとするのと二つの行方が主張さるゝがこの両派は共に自分の目安にのみ偏してゐるやうだ。手ツ取早い話が、単に「陶工」といつても台所用の茶わん、徳利の製作者も「陶工」なれば「工芸美術」に踏込んだ祥瑞でも木米でも乾山でも、蔵六でも、河井寛治郎でも「陶工」だ。「陶工」にもピンからキリまである如く「人形浄るり」にもピンからキリまであらうぢやないか。
 私どもは、今日唯一つ残存した大阪文楽座の人形浄るりだけを、「祥瑞」にでも「乾山」にでもしておきたい念願を持つてゐるが、「営業である以上は商品だ、お客の喜ぶ前受をして何が悪い」といふ心意気が、今の文楽座の内に、ばうはいとしてゐる。「滅亡」へ拍車をかけるものは、この「心持」だ。「お客の前受」は往々にして、仁清の「味」よりも、柿右衛門の「色」よりも、硬質陶器の「実用性」を喜ぶ庶民の鑑賞だ。--故に仁清よりも柿右衛門よりも「硬質陶器」が今日の工芸美術だといふ結論には導かれない。
   …………
    -----
 「時」の力は何んともならぬ「成るやう」になるのであらう。--とあきらめても、あきらめられぬものもある。例へばこの盆替りの文楽座にお定りの「酒屋」が出てゐる。
この語り場の番付に
   切 竹本錣太夫
     豊沢新左衛門
   後 豊竹呂太夫
     鶴沢叶
とある。浄るりにおいて「切」-即ち「切り場」の大せつな事はいふまでもない。が「後」(アト)と浄るり道の術語でいふと、一段のつゞまりのついた「後(アト)始末」の段といつた意で、古来番付面ではアトといひ、太夫、三味線仲間では「落合」とも別称してゐる。
 実例でいふと、素人にもよく「アト」といふ言葉の意味が判明する。即ち「廿四孝」の狐火がすんで、濡衣が殺さるゝ所。これが「廿四孝」の四段目のアトといふのである。「忠臣蔵」の城渡しが四段目判官切腹の段のアトである。「布引」の四段目でいふと紅葉山の条りがアトである。「鏡山」を例にとると、奥庭のお初が岩藤を殺す一件が「アト」で、この語り場を「アト」とも「落合」とも言慣はしてゐる。
   …………
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 然るに「酒屋」においては「アト」といふ語場を欠く語り物である。その「酒屋」にアトを豊竹呂太夫が叶の三味線で語るといふ右の番付面は、実は無意義に聞える。詳しくいふと「酒屋」とは俗称で「艶容女舞衣」上中下の三巻の院本であるが、その下の巻が、書卸しには、「口」「切の口」「詰」と分割した「上塩町の段」といふ語り場で、この書卸にいふ「詰」とは「心中の段」である。「上塩町の段」の分割した一部分ではない。下の巻の巻尾なる「心中の段」である。この上塩町の段が後には「半七の内」と呼ばれ更に「酒屋の段」と呼び名を変遷した事はその興行を重ぬるたびの各番付の示す所であるが、「上塩町」でも「半七内」でも「酒屋」でも「アト」といふ語り場があるはずがない。
 然るに九月の文楽座に「後」といふ紛らはしい形式を踏んでどこを語つてゐるかといふと、お園のサワリがすんで「乳飲まう」とお通の出からの以下を「後」と今度に限り号してゐる。手もなく『酒屋』を分割して「切」と「後」といふ紛らはしい言葉を用ゐたにすぎない。かういふ必要のない古格の破壊が行はるゝ事は考へものだ。
 
 
 浄るり考(二) 昭和七年十二月十七日
 
「お園のサハリ」と、私は右にいつたが、浄るりの「サワリ」とは何んぞや?--これは相当の問題だ。雑誌「演劇」の七月号で豊竹古靱太夫が「サハリ」とは節の名で、今日里俗にいふ「サハリ」は私共の方では「クドキ」といひますといふ意味の話をしてゐる。八月某日鶴沢友次郎がラヂオ放送で、サワリに関して同じ意味の事をいつてゐる。「サハリ」と「クドキ」とでは詞の意味が、いつの頃よりか混かうして通用され、今日まで何人も正しくハツキリと定義を下してゐないやうだ。が、当今文楽座において「研究家」と評していゝ古靱といひ友次郎といふ太夫と三味線との重鎮が断言してゐるのだから、俗用と正しき用語とに相異ある事に間違ひがないが、文献的にはどうかを、今調査してゐる。--とかうだ。
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 手近な一般の辞書(例へば「辞林」)などでは、「触り」のサード・ミイニングとして「義太夫節にて戯曲中述懐の場合などにおける流麗なる文句の所」とあるが、この説明は「クドキ」にもそのまゝ適用が出来る。また「クドキ」の項目を見ると、その説明がなくて「口説歌」に「そゝりぶしの一種、なげぶしに謡ふもの、昔吉原返りの遊客などよく鼻唄にて謡へり」とある。--「なげぶしに謡ふ」とある。「なげぶし」とは?「声を投捨つるが如くに節を軽くきりて永く引かざる事」とあり、「なげぶし」の専門的説明は別に知られてゐるからここにはいはぬが、結局義太夫節における「サワリ」と「クドキ」とは一般の辞書ではハツキリした区別がない。
    ◇
 「サハリ」が混かうして俗用されるに至つたのは元来性質の違ふものを同一線上において一つなみ に観察したからの誤用で、浄るりの上でいふ「クドキ」は、浄るりの「章」とか「節」とかの文章の内容に及んだ一条りを指していふ詞で「道行」などと同類項で「述懐」「傍白」「独白」などに用ひる。「サハリ」とは、内容に及ばない一個の「フシ」の名称である。竹本大和掾口伝【竹本千賀太夫(有観堂)筆記】の「音声巨細秘抄」には明かに「サハリ--歌がかりといふ如し」と説明してある。又「両節弁」には「浄るりの内少しにても外のふしにかゝるをさはりといふなり」とある。これを信ぴようするに足る「朱章」即ち豊竹麓太夫--彼の「太十」の書卸、節付者の手沢本なる「千本桜」の鮨屋で調べると、「サハリ」と朱章のあるのは
「女房顔していふて見る」
「神ならず仏ならねば」
「たとへこがれて死ねばとて」
などの一くさりで、この短句を今日語る実際が「歌がかり」の節回しであり、古来耳から口へとさう伝へられてゐる。
    ◇
 これを以て見ると、サハリとは「口浄るり」「そゝり浄るり」「歌がかりの浄るり」の意に用ひたのが、いつか、素人の間に「クドキ」に軽卒にも誤用されたものらしい。そして「サハリ」の語原は辞林などでいふ「触ル」から派生したものでなく「語る浄るり」に「唄ふ浄るり」がかつたといふ意味のサハリ。--即ち「響銅」といふ銅、鉛、すずの「合金」といふ語原から派生したものだと私は常に思つてゐるが、言語学者の専門的の詮が聞きたい。
 
 
 浄るり考(三) 昭和七年十二月十八日
 
 従つて「跡には園が憂思ひ……」はクドキであつて、サハリではない。「三つ違ひの兄さんと」もクドキである。此「酒屋」のクドキで人形からいふと、今の文五郎などは。浄るりの内容に相応せずに、足踏高らかに、誤つたる形式美だけで前受けを狙つてゐるが、これは決して昔からの型でなく、「人形」に魂がなくなつて堕落してからの様式である事を、人形遣ひもお客も、今日では忘れてしまつて、これでいゝ事にしてゐるのは、道のために歎しい事である。「お通を一目と延上り」の三勝は、人形も浄るりも踊つてはならぬと、ハツキリと故名人がいつてゐるが、近頃の太夫と人形とを御覧なさい。--浄るりは踊り、人形は跳ねてゐる。そしてそれは昔からだと思ひ込んでゐる。ソコに大きな誤りがある。
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 御霊で殺された初代の古靱太夫は、「酒屋」を得意としただけに、金に窮すると、「酒屋」を入質した。或は靱太夫は「質店」を質に入れたなどの逸話が残つてゐる。「酒屋」「質店」を典物にするといふ事は、その床本を担保とするのだが、その意は、請だすまで「酒屋」なり「質店」を断然語らないといふ事である。今日の眼から見ると、形式的には担保の性質を欠くが、太夫によつての「得意の語り物」が金銭に換算出来る財産でもあつた。私は昔の芸人の「芸」を入質した期間その「芸」を演じなかつたといふ徳義心よりも、担保の性質が生れる程の「ソノ人の芸」を、世間が認めた「時代」を羨ましく思ふのである。がこんな話は伝統的にのみ聞いてゐたので、おとぎ話のやうに私の文証癖書証癖で思ひなされてゐた。
    ◇
 ところが、頃日今の豊竹古靱太夫が求めた「花雲佐倉曙」のろう屋の段の床本の中に、三十両の証書が挿み残されてあつた事を発見した。このろう屋の段を入質してゐる文言。--「その許殿へ粗渡し候上者出語り及不申(原文のまゝ)床内にても決して語り間敷候」--とあつて、借主は竹本織太夫、貸主は浅野常次郎殿とある。織太夫は後に六代目竹本綱太夫になつた飛切美声の名人。浅野は太夫元である。この証文の行使されたのが、「申四月」とあるから、明治五年の事。そしてそのろう屋の床本には織太夫自筆の識語に、「嘉永五年に佐倉曙が三代長門太夫の新作で、ろう屋の段は豊竹湊太夫の語り場であつたのを十二歳で聞きながら毎日々々修業した」といふ意味を「辛未冬」の日付で認めてある。即ち辛未は明治四年で、この本を入質したのが、明治五年。翌六年には道頓堀竹田芝居で、ろう屋の段を織太夫が語つてゐる。此時のろう屋の段が古今の絶品で大当りだつたとの語り伝へである。床本の識語・床本入質の証文・六年九月の竹田の番付を机上においてみると織太夫の風格なり、その美声が自と耳に響くやうな心地がする。
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 織太夫は、左官の綱太夫と呼ばれた手首まで、全身刺青のした小イキな江戸ツ子で、楽屋入するにも職人風の半天姿の時もあれば、イキな扮装であつたりしたといふが、一日町の角庫を塗つてる左官をフフンと鼻でわらつた、笑はれた左官は織太夫といふ太夫は生意気な奴だ、可笑ければ手めえが塗つて見ろ。といつたのを小耳にした織太夫は、羽織を脱いでボンと投げ尻端折のコテの鮮やかさに、見る者を驚かしたさうだが、「左官の綱太夫」と呼ばれる如くその家業の出身、左官の息子だつたのだ。この織太夫は四十四歳で明治十六年に死んだが、その遺娘二人が東京の新橋と築地とに今も居る。
 
 
 浄るり考(四) 昭和七年十二月十九日
 
 この左官の綱太夫は、当時の太夫で恐れをなしてゐたのは初代の古靱太夫、唯一人であつた。後の摂津大掾のあの美音などは、問題にもしなかつた。古靱が御霊芝居(文楽座にあらず)で斬殺されたと東京で聞いて織太夫はホツと安心の吐息をついたといふ事が伝へられる。美声の織太夫が、美音無比と唄はるゝ越路の浄るりなど眼中になく、古靱の浄るりを眼の上のこぶとした織太夫のその心持は、やがては織太夫の浄るりの風を如実に物語り、その語り口をも暗示するものと見て可からうかと私は思つてゐる。
    ◇
 と、--書終つた時に、右の織太夫の証文のはさんであつた「牢屋」の床本を新たに買求めた今の古靱太夫が、織太夫が綱太夫となつてからの同じ「花雲佐倉曙」の四段目切の綱太夫自筆の朱人本を手にいれたと報告してくれた。その四段目床本に綱太夫の識語があつて、右の「牢屋」入質のその後の模様が認めてある。これでこの証文一らつの資料が古靱の手許にそろうた事になる。
    ◇
 綱太夫自ら認めてゐる如く、太夫元浅野から質受けして竹田芝居で、「牢屋」をだすと、素晴らしい人気であつたやうだ。この前人気が太夫元に映じてあればこそ、担保の性質も出来、又「牢屋」を語るといふので「給銀は二杯半」と綱太夫が自記してゐる。「二杯半」とは「給銀十五割増し」の意である。この人の「牢屋」の評価が察知される。綱太夫が、明治九年四月土佐高知ヘ旅に行つた時「お好み」とあつてこの「佐倉曙」の四段目を語るについて、「余賂として三十五両」受けたとしてゐる。「余賂」とは本給銀の外に特給の謝礼金の意であるが、「佐倉」一夜のヨナイが高知で当時三十五両だした事は、たま〳〵綱太夫の「佐倉曙」の入気を裏書する。そしてこの夜の木戸が十六銭であるに拘らず「佐倉」が出る出ないに拘らず、木戸二十銭、三十銭とプレミアムがついたと記してある。明治九年といふ時代、高知といふ南海の地方で十六銭の木戸が既に特種だ。「座席無之」でプレミアムがついて、お客をすしの如く押込んだのだ。綱太夫の芸と新作「佐倉」の人気とが回想される。
    ◇
 新作「佐倉曙」が、それほどの傑作だつたらうか?問題はこゝだ。此作は三代長門太夫の作者名佐久間松長軒と署名してゐるが、講談の宗五郎の浄るり化に過ぎない。然らば「空閑少佐」の新聞記事の浄るり化を非難する所以はないはずだが、事実はさうでない。「佐倉曙」は読んで傑作かといふにさうでもない。寧ろ凡作である事、「空閑少佐」の「其幻影血桜日記」と同架すべきだが、問題は作曲者にある。演者の芸にある。三代長門といふ中興の名人が節付をしてこその「佐倉」であり、新作である。
 浄るりをいふに机上で院本を読んでいゝも悪いもあるものでない。げんにかゝつての浄るりだ、人形だ。この点を忘れて昭和の今日浄るりの新作が斯道興隆の道だと一図に主張する、青畳の上の水泳の達人がゐるから、世の中の事は間違ふ。昭和の作曲家あつての新作可能である。その上に時代の音楽が、今日文楽座でやる如き新作を拒否してゐる事を忘れてはならぬ。嘉永の昔佐倉の出来た時と、昭和の今日とでは社会の耳が違つてゐる事をも算盤にお容れなさい。かういふ一切合財は天才の作曲者が生れて、凡てを解決してくれる。然しソレはもう今の人形操りではないはすだ。こゝに人形浄るりの保存の重点がなくばならぬ。長門新作の「佐倉曙」を語つた綱太夫の資料を得て、往時を顧み想ふ事いよ〳〵繁し。(をはり)