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 新群書類従 例言 緒言 

(2022.11 .30 )
提供者:ね太郎
 
新群書類従 例言 第一 緒言(幸田露伴) 例言(水谷不倒)
 古典劇書解題 伝奇作書(渥美清太郎)
 
新群書類従
新群書類従 第一
  緒言
我が邦の叢書、塙氏の群書類従を以て其の魁とす。而して塙氏の期するところ、古を存し旧を徴するにあるを以て、其の収むるところの書、故を採り新を擱く。続群書類従に至つては、『料理物語』・『尤の草紙』等の近古の書を収むと雖も、猶連歌を収めて俳諧を収めず、管絃を収めて演劇を収めず、其の採録の遠きに厚くして近きに薄きや知る可きなり。『燕石十種』出づるに及びて、始めて専ら近古俚俗の書を集む。採録多からずと雖も、然も後の学者其の恵を荷ふこと少からず。蓋し徳川氏府を江戸に開きし以来、世運祥寧民庶和楽、足利氏末造大乱の後を受けたるの故を以て天地一新し、文芸もまた朝紳桑門の手を脱して、市民野人の手に移り、嶄然として面目を前代に異にし、煥乎として文華を一時に発す。今よりして之を論ずれば、徳川氏の世の文芸は、寧ろ前代に比して、其の重んずべきを見て、軽んずべきを見ず、卑近を以て之を鄙むが如きは、実に学者古を尚び近きを侮るの弊のみ。新群書類従は主として徳川氏の世の書冊の、或は伝ふること稀にして観ること罕なるもの、或は未だ刊せずして泯ぶに垂たるもの、或は叢脞断片漸く将に塵散灰滅せんとするものを集め刊して、之を今に頒ち後に貽らんとす。これ強ひて近きに厚くし遠きに薄くするに似たりと謂ふべし。熱りと雖も新といひ、古といふ、斉しく皆仮称なり。今にして徳川氏の前後を論ずるや、おのづから新の名あり古の名あり、今より後にして徳川氏の前後を論ずるや、今の所謂古はもとより古にして、今の所謂新もまた同じく古ならずんばあらじ。然らば則ち古も猶新の如く、新も猶古の如きなり。新群書類従を編する所以の意は、即ち是塙氏か群書類従を編する所以の意ならんのみ。
明治丙午初夏      幸田露伴識
 
 
  例言
一 本巻及び次巻に収むる所の西沢叢書は歌舞妓浄瑠璃の故実を知るには、他に多く類例を見ず、劇道の宝典と称せられし書なれども、伝本極めて稀にして、容易に手に入るゝことを得ず、たまたまこれあるも、『伝奇作書』『皇都午睡』中の一二編に止り、全本を所有する人殆どなく、中には書目のみを知れど、伝本の有無さへ確むる能はざるものありて、頗る遺憾としたるところなるが、大阪市に於ては、去る三十四年より、市史編纂に著手し、文学士幸田成友氏主任となりて、專ら史料蒐集中、同所の発達には殊に関係深き本書の散佚を惜み、各蔵書家に就て其の在本を尋ね、多年苦心の結果、『伝奇作書』の初編より六編まで十八巻、『脚色余録』『皇都午睡』の全部合せて十八巻、『讃仏乗』の全部六巻、通計四十二巻を同編纂係に蔵することを得、こゝに久しく散乱したる西沢文庫の主要部は、同所に蒐集せらるゝの運に際会したり。今其の原本と蔵書家諸氏の姓名とを挙ぐれば左の如し。
伝奇作書初編〔言狂作書〕三巻 東京饗庭篁村氏及び大阪鹿田静七氏異本二種
同   拾遺三巻       大阪小栗仁平氏
同   残編三巻       同殿村平右衛門氏
同   続編三巻       同平瀬亀之輔氏
同   付録三巻        饗庭篁村氏
同   後集三巻
皇都午睡 全九巻        平瀬亀之輔氏
脚色余録 全九巻
讃仏乗  全六巻
 以上の如く、東西五氏の文庫を漁り、漸く此の書の完備に近づきたるを見ても、いかに西沢文庫の稀本なるかを知るに足らん。唯『伝奇作書』追加の一編のみ未だ発見せられず、然れども西沢文庫中、類纂にかゝる書を除き、劇道の六韜三略と称せられたる随筆の殆ど全部か網羅されたるは、誠に慶ぶべし。刊行会に於ては、去歳大阪市及び同市史編纂係の承諾を得、且各原本所有諸氏の承諾をも経て、其の全部を謄写せしめ、今回これを刊行するに至りたり。
一 本書の著者西沢氏は、書肆より出て狂言作者となりたる人なれば。文才はあれども深く学問の素養あるにあらず。殊に狂言作者の常として、理に反したる事あれば狂言綺語と遁れ、外題等を定むるには濫りに新字を作り、登場人名には仮名を用ゆる等、殆ど習慣となり、正史伝記の区別立ず、破格、無文法、誤字、当字、仮名違ひ、てにはの誤り等若し文章の上の暇疵を数ふれば枚挙に遑あらず、又地方訛りあり、楽屋通言あり、普通の読者には頗る難解の箇所も少からず、殊に伝へ〳〵て誤写を生じ、義理の通ぜざる所もなきにあらず。原本には幸田氏が一々付箋して疑を存し訂正に便せられたるを、校訂者は更に考査し、其の全く誤謬の判明したるものはこれを訂正し、未だ決せざるものは、なほ疑を存し、義理明快ならざる所には傍らに「本ノマヽ」と断り。缺字には□を以て補へり。されど原文の保存を主とし、当字、仮名違ひの稍不穏当なるも、読下に差支なき限り敢て改訂を施さず。
一 本書のうち『伝奇作書』の初編(言狂作書)のみは、編纂係の蔵本に拠らず、直ちに鹿田氏の蔵本を謄写し、これを原本として、更に饗庭氏の蔵本に拠りて校訂を了したり。然るに此の二書異同甚しく、双方に増減あり、長きは十数行に亘れる脱文あり、到底伝写の誤りと見做すべからざるものあり。蓋し『言狂作書』は西沢文庫中最も世に流布したるものなれば、人々により増補省略を敢てし、こゝに至りたるものか頗る疑はし。若し一々是等二書の相違を記入する時は、毎頁挿註を以て埋めらるゝの奇観を呈すべし。依て二書の意義には何等障りなく、文の長短、詞形のみに相違あるもの、又伝写の誤りと思はるゝものは、其宜しきに従ひ訂正を加へ、義理全く反するもの、若しくは事実の原本に欠けたるものは、饗庭氏の蔵本に拠りてこれを補ひ、異本として本文中に挿入せり。
一 本書原本には諸所に挿絵あり。其の絵は概ね板行にありしものを、著者が素人筆に写しゝもの、伝写毎に少しづゝ誤りを生じ、後には殆ど原形を失ひしもあり。唯形を示すのみのものは差支なきも、原本の絵を見せしめんとするには用に立たざるあり。又殆ど無意味なる挿絵もあり。是等は已む事を得ず省くこととしたり。例へば『伝奇作書』中にある作者の画像の如き、肖像にもあらず、原図あるにもあらず、殆ど意義をなさゞるものゝ如き、雨夜の三盃機嫌の役者絵の如き、原図を写すにあらざれば趣味なきもの等是なり。
一 本書には又所々に重複の事実あり。例へば「謡曲作者目録」の如き『伝奇作書』付録にもあれば『讃仏乗』の初編にもあり。宝暦漂流談の如き亦然り。是等は其の一を存して他は削れり。但し同じき事実にても、其の間多少異なる消息を伝ふるものは、重複を厭はず存し置けり。又本書はもと筐中の秘書たりし性質上、時としては猥褻に亘るものなきにあらず、例へば『伝奇作書』拾遺中「奈河亀助が戯編」の如き、『皇都午睡』初編中「好色合戦」の如き、『讃仏乗』二編中「新道成寺縁起」の如きは刊行上遠慮すべき性質のものなれば、割愛して態と省きたるもあり。
一 本書原本には大概巻頭に目次、毎章には標題を設けたれども、中には目次あれど、標題を設けざるあり。標題あれども目次のなきあり。是等は体裁上及び索引上、一定の目次標題を付することゝしたり。又著者の署名の所或は編といひ著といふ「上の巻」「巻之上」など区々なるは、何れも体裁上一定の方針を取れり。
一 本書の刊行に就ては、幸田成友氏大阪市及各原本所有諸氏の間に立ちて、斡旋の労を取られたり。又饗庭篁村氏、鹿田静七氏は、其の蔵本を貸与せられたり。其の他大阪市、原本所有諸氏の好意に対し、感謝の意を表す。猶ほ本書は前述の如く通言、地方訛り又本書の特質ともいふべき破格の文体を保存する上に、寧ろ深き注意を要したれば特に其の校正を森岡格雄氏に委托し大過なきを得たりこゝに一言氏の本書刊行に尽されたる労を謝す。
 明治三十九年四月
         水谷不倒識
 
 新群書類従 第三 例言
 一 『伝奇作書追加』は、先きに「新群書類従」第一冊編輯の際欠本なりしを、今回幸田成友氏の尽力により、本巻に収むることを得、こゝに伝奇作書の完備を告ぐるに至れり。但し同書中「難波土産」及び「操年代記」の抜萃は、既に歌曲の部に、二書とも全本を収めたれば、ここにこれを省くことゝせり。
 

 
古典劇書解題 伝奇作書
       渥美清太郎
     日本演劇 1945.12.1発行 3巻8号 pp.44-47
 「伝奇作書」は、上方の狂言作者西沢一鳳が著した随筆集で、伝奇は戯曲を意味してゐる。
元禄から享保にかけ、浮世草子や浄瑠璃の作者として、また軟派物の書籍の発行元として名高かつた西沢一風は、一鳳の曽祖父にあたる。その稼業は一鳳の時代にまで引きつがれ、昔に増しての繁昌で、京坂でも一二を争ふ見世であつた。殊に芝居台帳の貸本屋まで兼営し、浄瑠璃正本の中で生れ、歌舞伎台帳の中を這ひ廻つてゐた一鳳が、長じて狂言作者となつたのは極めて自然、といふよりも寧ろ平凡な位であるが、只同じ作者の肩書をつけても、一鳳のは少しばかり意味が違つてゐた。天保弘化といへば、江戸は南北の死んだ後であり、上方は晴助を失つた後であり、東西ともに目ぼしい作者は皆無で、劇作の上から見れば闇黒と称すべき時代である。技倆のない作者に権威のあらう筈もなく、いづれも俳優にこびりついて、その御機嫌ばかりうかがつてゐた。殊に上方には梅玉歌右衛門といふ豪傑俳優があつて、作者の無力に憤慨し、自ら金沢龍玉と名乗つて脚本を執筆するといふ勢ひだつたから--尤もその作に満足な物は一つも無い--作者などは実以て哀れな位置にあつたが、その中に只ひとり一鳳だけは文学者といふ格で肩を聳かしてゐたこと、丁度一しきりの松竹に於ける松居松翁氏のやうな存在で、勿論俳優にお辞儀などはしない。そのくせ頼まれれば何でも書いたけれど書いてやるといふはうで、大いに威張つてゐた。俳優ばかりでなく、興行師なども一鳳には一目おいてゐたらしい。その家が芝居道に関係があつたのと、金持なので芝居へ行つても奇麗に金を投じた為とであらう。だから脚本を書いても初めは番付に名前を出さず、後によんどころなく出すやうになつても、大抵はスケといふ肩書を付けてゐた。作者は一鳳にとつて全くの道楽稼業だつたのである。
 その道楽稼業を二十年もつゞけてゐたのだから、誰だつて一鳳は名作家であつたらうと想像するが、脚本は実に拙いものだ。効能書は「伝奇作書」に随分大袈裟な吹聴をやつてゐるけれども、さてその脚本を読んでみると、がつかりするほどお下手である。五瓶や南北や黙阿弥やの足許には勿論、近松徳三や奈河七五三助の側へも寄りつけない。第一その作に独創性といふものが皆無で、殆んど全部が脚色や補修で終つてゐる。彼の作を研究する訳でないから深くは触れないが、一生の大作とも称すべき「花魁莟八総[はなのあにつぼみのやつふさ]」(八犬伝を脚色したもの。日本戯曲全集に収録)ですら、猶その初めに五瓶の「袖簿播州廻[そでにつきばんしうめくり]」といふ脚本を持つて来て無理に嵌め込み、ヤツと纏め上げてあるくらゐで、作者としての天分には頗る乏しい人だつたらしい。只そんな作者ですら当時の京坂劇壇には外にゐなかつたので、止を得ず用ゐられてゐたまでの事である。
 一鳳の道楽仕事が劇作だけで終つてゐたら、私たちも彼の名を覚えないで済んだであらうが、演劇辞典にその名が残されるやうになつたのは、劇作以外、大部の随筆を跡に残し、歌舞伎入門者を深切に導き教へてくれたからで、又その随筆の中で最も私たちの役に立つものが「伝奇作書」なのである。但しこれとても写で伝はつてゐたのだから、もし国書刊行会が「新群書類従」で活字にしてくれなかつたら、多くの入門者を裨益することは出来なかつた訳である。
 「伝奇作書」は七編二十一巻の長いもので、初編、拾遺、残編、付録、後集、追加の七つに分れて居り、初編には別に「言狂作書」の名をつけてゐる。言狂は間違ひだらうといふので、饗庭篁村氏がむかし朝日新聞にこの事を書いた時、校正係が狂言作書と直して篁村氏に恨まれた話は有名で、勿論これは元享釈書の洒落である。初編にそんな名をつけた事から考へても、他編の名のつけ方を見ても、彼は最初一編だけで終るつもりだつたらしいのだが、興に乗じて書き続けた。嘉永五年十二月二日に死んだが、恐らくこれだけは死ぬまで書き足してゐたやうに想像される。それほど力の入つた随筆である。彼も一生懸命に書いたやうである。
   ○
 では、その内容はどんなものかといふと、初編のいはゆる言狂作書には、近松西鶴を初めとして、浄瑠璃歌舞伎の作者の小伝と、それにまつはる逸話などが載せてあり、全部の中でこの編だけが一番まとまつてゐる。初めは小伝集で終るつもりだつたのかも知れないが、その小伝に洩れた人たちなどを次偏へ加へてゆくうちに、枝から葉が伸びて、だん〳〵といつの間にか大部になつてしまつたのであらう。上田秋成を生田伝八の子だといつて、後人を迷はせた話はこの編にある。拾遺から少し系統立たなくなり、初めに「芸鑑」の話が出るかと思ふと、五人斬やお半長右衛門の実説が現れる。狂言の種明しをするかと思ふと作者や俳優の逸話へ飛ぶ。とりとめが無い中に多少の連絡も発見されて、却つて面白いところもあるが、微笑まれるのは彼の自慢癖である。「扇屋熊谷」に五條条を追加したのと、「六弥太物語」の作とは彼の仕事なのであるが、その出来上るまでのいはれを語つて、これほどの成功は又とないやうに、頗る鼻を高くしてゐる。それでゐて六弥太物語のはうは海老蔵に頼まれた結果なので、忠度を傾城姿にして助けて置くなどとは馬鹿々々しいと呟きながら、自作の独吟「流しの枝」が流行つたことなどを語つて、得意然とした顔が目に見えるやうである。
 その自作自慢が残篇には殊に沢山出てくる。彼は三四年江戸にゐたことがあり、その間には別に作らしい作もしてゐないが、「絵入稗史蕣物語」といふ狂言には関係があつたと見えて番付に署名し、即ち伝奇作書で自慢してゐるのであるが、これは南北の「合邦衢」に、大阪狂言の「朝顔日記」を何の意味もなく混じ合せただけの代物で、当時も評判が悪く義理にも褒められさうはないものを、大いに威張つてゐるばかりか、草双紙のことで花笠文京をひどく罵つてゐる。可愛らしいやうな所もあるが、我れ〳〵がこの随筆の中から資料として探し出す種は、その自慢の中にも多く転がつてゐるので、馬鹿にして見遁す訳にはゆかない。
 続編には狂言の実説の話が多く出てくるが、ちよつと面白いのは「菜種御供狂言の話」といふ一くだりである。これは小説八犬伝の物語を、菅原伝授の世界に直して脚色しようとした彼の腹案の記録である。信乃を宿弥太郎、浜路を龍田、額蔵を奴宅内などに嵌めて、蟇六の内の騒ぎをそつくり道明寺へ持ちこみ、巧く当嵌めた手際など実に鮮かなものだ。古那屋では小文吾が梅王に、房八が松王になり、対牛楼で毛野を桜丸へ持ち込んだところなど、実に面白い考案で--つまり当時の作者が具備すべき技倆の一つだつた「書替へ」の手法なのであるが、それらの点の巧みさには敬服する。彼は斯うした考へに頗る長じてゐたやうだ。いはば企画家のはうであつたのだらう。伝奇作書には、実行されなかつた企画の話がかなり沢山に出てくる。脚本まで書きあがつて上演されず、其まゝこの書へ残したものも随分ある。企画だけのはうはみんな面白い。脚本になつたのを見ると詰まらない。作者としては参謀格の面に長所を持つてゐたのである。次の、付録、後集、追加とも、よく似たやうな記事はかりで、同じやうな一鳳の欠点がだん〳〵はつきり見えてくる。
 と云つてしまへば、どうやら伝奇作書といふ随筆も便りにならぬやうに思へるけれど、決してさうではない。頗る便りになる。歌舞伎入門者はどうしても一度この書の下を潜らなければならない。怪しい噂を真実らしく書いてゐる項も少くないから、いくらか予防線は張つて置く必要もあるけれど、先づ信用しても大して間違ひは起らぬ記事ばかりである。元より気まぐれに書きつらねた随筆だから、隅から隅まで役に立つ訳ではないが、歌舞伎、殊に京坂の歴史的資料はギツシリと詰まつてゐる。私たちはそれを片ツ端から掘り出してゆくのが実にたのしい。
 江戸の劇壇人の生活を偲ばせる書は相当あるが、上方のそれは皆無である。何百項かの折々に、それらを暗示するやうな記事の発見される事が先づ第一にたのしい。多くは作者対俳優の関係ではあるが、それらから上方劇壇の裏面や日常の状態が、霞を隔てたやうでも兎にかく想像ができて、資料に乏しい研究者を助けてくれる。劇書の中に埋まつてゐた人の著述だけあつて、引証の材料は可成り多方面だ。
 役に立つはうでの第一は、多くの狂言の種明かしをしてくれてゐる事である。よし時代は一鳳の動いてゐた僅かの間のことであつても、例へば「乳貰」の種が「仏法乗合噺」といふ本から発見されてゐるとか「椀久末松山」は「傾城禁短気」の一節から脱化してゐるとか、「朝顔日記」の原作は、司馬芝叟の演じた講談であるとかいふ記事は、京坂劇壇に於る作劇法の傾向や状態を稍明瞭にして、まだ全然未開拓のまゝ残されてゐる斯方面の研究者に、鍬やシヤベルを与へてくれるのである。種明しのみでなく、新作狂言の現れた動機に就ても豊富な話題を提供して居り、一つの世界にはこれだけ多種の同材狂言があるといふ実例を示した項目の多いことなども、歌舞伎戯曲の探求者にとつて他に類例の無い有難い指南車になつてくれるのである。
 重宝なはうでは第一は、いろ〳〵な狂言の実説を示してゐてくれることである。併しこれは一から十まで当にすると間違ふ時もある。私は罹災前、文政頃に京都で出版された「実事譚」といふ刷物を五十枚ほど持つてゐた。これは一枚々々に、一狂言の実説を記して画を加へたものであつた。明治になつて出版された兎屋版の「実事譚」も、これが材料らしいのだが、その刷物を伝奇作書の実説とくらべて見たら殆んど同じであつた。一鳳はこの刷物からとつて伝奇作書へ転載したのだらうと思ふのだが--或ひは又その刷物が一鳳の筆になつたのかも知れないから迂闊には云へないが、ともあれ相当の参考にはなる。がそれ以上に有難いのは、その実説が劇化されるまでの課程を、よく説明してくれてゐる事だ。一つの種が芝居の中へ飛び込んでしまふと、それが舞台へ出るまでは、一切不明といふのが歌舞伎世界の慣はしである。その経路を少しでも明かにすることは、これ又作劇状態の研究に与へられる灯火であつて、これだけでも伝奇作書の功績は充分称へられるべき価値がある。
巻中に多く挿まれた、一枚摺の年代記、浄瑠璃歌舞伎の外題番付、謡曲の名所競といつたやうな一種のリストや、役者芝居に対する官庁の申渡書、敵討の検分書といつた書類やが、非常な参考になることは云ふまでもないが、それだけではいつも止まらず、敵討なら必ずその劇化された脚本を説明し、番付などにもキツと批判を加へてあるのが一層の参考資料になる。とにかく、丹念で、物好きで、智識欲が旺盛な人だつたことは慥かである。例へば深川猿子橋の仇討の事を、京坂二座で競演した記事などは非常に面白い。更に円朝の「札所の実験」と併せ読むと可成り参考になる。
 随筆には違ひないが、中味が芝居の事項にかぎられてゐる上、相当な量があるため、盛られた記事は実に豊富であつて、以上はほんの摘出した二三の例に渦ぎない。無尽蔵といつては大袈裟だが、歌舞伎もそれ〴〵専門に分れた眼を以てこれに向へば、思ひ切つて沢山な資料を引き出すことが出来る。少くとも京坂の歌舞伎戯曲研究者にとつては、一種の辞書と称してもさしつかへないほどである。これだけ多く物を教へてくれる一鳳を、下手な作者などゝけなしては、実は勿体ない訳だ。
猶、「新群書類従」には、一鳳の随筆のうち、この外に「脚色余録」「綺語文章」「皇都午睡」「讃仏乗」の四種が加へられてゐる。「脚色余録」は「伝奇作善」と全く内容の等しい著であつて、その延長とも見るべきものだから、必ず併せて読まなければならない。これだけでも三編ある。「綺語文章」は紀行文だから大したこともないが、「皇都午睡」と「讃仏乗」の中には、歌舞伎と姉妹同士の三味線楽に於る資料が、一般風俗関係の記事に交つて、これ又相当ギツシリ埋まつて居り、掘出し物も充分にあるといふ次第で、歌舞伎研究者は矢張り見遁すことの出来ない好著である。