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【 石割松太郎 古靭太夫『堀川』の解釈 -五月の文楽座と狂言の立て方- 】

(2023.05.28)
提供者:ね太郎
 
古靭太夫『堀川』の解釈 -五月の文楽座と狂言の立て方-
  石割松太郎
 演芸月刊 第十二輯 昭和五年五月廿日 pp.1-9
 
 
 
 文楽座の狂言の立て方に就いて、述べたい事が大分あるが、それは後に述べるとして、今度の並べた狂言では、古靱太夫の「堀川」に、第一の興味が引かれる。私が「興味を引いた」といふ意味は、見物以前に番付面からは、この「堀川」には「又か」と何の興味もなかつた。却つて「神崎揚屋」を楽しみにした。が、聴くに及んで古靱の「堀川」に多大の興味を持つた。これを以て見ると、今更ならず語り物の珍しきよりは、語るものゝ工夫努力に俟つことが多い事を証拠立つる。聴き古したる「堀川」にして尚且つ然りである。
    ◇
 私が古靱の「堀川」に、興味を感じた第一には、根本的に、人々の語りつゞけた語り口と全く異つた「堀川」を聴かしてゐる事、第二には、浄るりの文句を、後世語り崩し語り勝手に原作を改竄したるものを原作に還元したる事。この二つが今度の古靱について論議さるべき主要点である
   ◇
 詳しくいへば、従来諸家の「堀川」を聴くと、与次郎といふ主要人物は、常識を通越した臆病者、うつけ者にしてあるが、この浄るり一篇を読んでみても分るやうに、与次郎を呆気者だとはどこにも書いてない、又呆気な事を言うてもゐない。然るに従来の語り口が、臆病者を誇張して阿呆にしてしまつた。これを原作に引き直して、地合にある「正直一辺」と母の詞なる「臆病者」の二言に解釈を還元して、誇張を去つて語ってゐる--与次郎の性根を尤らしい人間にしたのが、こん度の古靱の「堀川」である。この点が第一。
    ◇
 第二の点は、一例が今世間で語る「堀川」の冒頭の「琴三味線の指南屋も」の「の」を省く。「おつるさん嘸ぞ待遠うであらうな」の「嘸」をぬいてゐる。「上白米の仕途り」の「上」を抜く。「おしゆんが心根を思ひやり思はず知らず涙が」の「知らず」を省いてゐる。(これは大阪朝報の八木善一氏が引用の例に拠る)--悉細に聴いてゐると、八木氏の引用は極初めの一例にすぎない。もつとグン〳〵今日の五行本とは文句の改竄が古靱の「堀川」にはある。例へば「アヽイエ〳〵それではとんと声にしほれがないはいな」を古靱は「ない」とぶつ切ら棒に語つた。--が、八木氏はこれ等を「改善ならず改悪」だといつてるが、果して然るか?
    ◇
 試みに今日の「堀川」の五行本と丸本とを比較してみると、古靱の語るところは、尽く丸本に準拠してゐる。例へば冒頭のところを丸本で見ると、
  琴さみせんしなんやも
 とある。又
 〔詞〕イエ〳〵しほれがない【二上り歌】あのおもしろさを見る時は、あのおもしろさを見る時は〔詞〕よし〳〵
 とある。この件りなどは、今日の五行本では「アヽ……とんと……はいな……はと、かう諷ひなされ。アイ」の入れ文句がある。これで見ると、古靱の語るところは、改竄にあらずして、丸本への還元である。
    ◇
 こゝに注意を要すべきは、この「堀川」の浄るりの初演は私は知らない。天明二年といひ、三年といひ、もつと以前ともいふ。が、今日存在する丸本の「近頃河原達引」は天明五年九月九日に狂言作者の中村重助再撰の刊本であるこの天明五年以前の丸本が刊行されてゐないのであるから丸本に還元しようとすれば、この中村重助再撰本による外はない。古靱の今度の「堀川」は、古靱自らが改善も改悪もしてゐない、全く、丸本に引還した--長い年月の間に語り勝手のいゝやうにしたものを、昔に引戻して語つてゐるのが、古靱の「堀川」である。
    ◇
然らば問題は、語崩して丸本から遠ざかつて入文句をして来たのを語る方がいいか、丸本に準拠した方がいゝか何れかを選ぶべきかである。私はこの古靱の丸本に還元した事に大に賛成の意を表する。度々浄るりに付て述べた時に私が強調し来たやうに、物極まれば何んとしても「還元」しなければならぬ。世界の歴史はいつも、行詰るとまづ昔に還つてゐる。「自然に還れ」と叫んだ、近世文芸の叫びもそれだ。浄るりもこの埒を出ない。語り崩した今日の「堀川」はまづ「元へ還れ」といふのが正当なる取扱ひである。この意味において、耳遠い古靱の「堀川」はやわらかく聴えないが、まづ文句の還元は当然の事である。
    ◇
 ところで、文句を還元しても、従来のやうな語り口を、古靱が採つてゐるとするならば--即ち呆気な与次郎を、丸本への還元を行うて尚且つ、与次郎の性根を従来の如く語るとすれば、ソコに矛盾があつたらうが、古靱は内面的にも、与次郎の解釈を、丸本に準拠して、その性格を語らうとしてゐる。その結果は、曩きに私の挙げた第一点に帰着する。第一、第二とこの外形と内容との二点から「堀川」を--又かといはるゝ「堀川」を異つた立場から語つたのが、今度の古靱の「堀川」だ。との意味において私の興味と私の満足は、五月の文楽座中この「堀川」を第一等の出来だ。--少くとも「今日の堀川」を古靱が語つたことを大に推賞したい。--尤も古靱の「堀川」が完全なものとはいはない、欠点はあつたらうが、従来の「堀川」を辺革したといふ点で、古靱はその責を負ふ必要もなく、嗤はるる要もない。見識を樹立して「昭和の堀川」を語つたことを、私は少くとも、正月興行の「鬼界島」同様に、その努力に推賞の辞を憎むものでない。
    ◇
 嘗て、菊五郎の忠臣蔵の判官を見たときに思つた。あの菊五郎の判官の演出こそ「昭和の判官」だ。今日の判官だ「きのふの判官」ではないと私は度々今日までに何かの機会に書いて来たが、古靱の今度の「堀川」は、芸格においてこの判官と行き方を等しうしてゐるものだと思ふ。空論概論は止めて実例についていふと「アヽコレ母じや人ソリヤ何をいはんすぞいのふ其やうにひそやかるしんだいじやと思はしやるか……」の条りで、古靱の与次郎は、道化などは塵ほどもなく、血の出るやうな涙の浸むやうな心持で母じや人を慰めようとする。--その真実が聴者にヒシヒシと胸を打つた。この心持が従来の「堀川」とは異つてゐる。
    ◇
 尤もこの条りの人形の栄三が、また古靱が解釈する与次郎をよく形に見せた、「雲か花かと申すやうな白米のし送り」で栄三の与次郎は、チラと母の顔を見る、その人形の眼に涙が流れるを見たほどに、私は胸の迫るを覚えた。従来の「堀川」だと、このあたりは、浮々とし、人形にも軽薄なおどけたところが舞台に漂うてゐたに、その影さへも見せなかつたのは、古靱の丸本に還元した--五行本を去って丸本に還元した努力と、これに相応じた栄三の人形の魂がピタリと相合ふたればこそあの真剣な舞台が出来上つた。これなどは「堀川」を見、聴いて未だ嘗て私の見ないところであつた。--この意味において昭和の「堀川」更生した新文楽座の「堀川」だと、私のいふ所以は、この点にある。
    ◇
 つゞいて、「おしゆんがむねを思ひやり、思はずなみだが詞「ドレマアひをともそとたなのすみ」--の舞台の気をこゝで転換するうまさと「正直一辺」な律義で馬鹿でない与次郎が躍如として描かれた。この「ドレマア」のマアが五行本にはないのを丸本に拠り、古靱は克明に丸本通りに語つた。--こんな克明な例は引用する繁に堪へないほどである。
    ◇ 上述の如く、今度の「堀川」は、かういふ点から見て、五月興行の第一の出来であり、第一の興味を引いたと私はいふのであるが、古靱がこんな「堀川」を語つた動機は、或は外にあつたかも知れぬ。即ちハンナリした条るりは古靭の口にはない。「堀川」といふ条るりが或は古靱の語るに躊躇するところであつたらうか。されば自分の語り口をよく知つてゐる古靱は「今日までの堀川」を脱しようとして苦心した結果が、この「堀川」が出来たものと私は想像する。この動機から出た「堀川」に難とすべきは、浄るりに些のゆとりのない事、余りに合理的に語られるがためにビシ〳〵と攻かけられて「芸に遊ぶ」点がない。この一点が今後の古靱の「堀川」に考へらるべき重大な点である。
    ◇
 一体今日まで古靱は文楽において、「堀川」を幾度語つたかを調べてみると、其初演は、大正十年正月興行に、「忠臣蔵」が道行まであつて、その切、付物として初めて「堀川」を語つてゐる。此時の「堀川」を私の日記に見ると、正月の五日に見物して、「弥太夫の「殿中」を面白く聴いた、「堀川」は初役と聴くだけに不熟」云々と一筆評を記しただけで、今日どんなであつたか記憶もない。--それが初役とすると、第二回は、昭和二年十月弁天座の仮興行の時だつた。--この時の私の批評は、「サンデー毎日」、十月十六日発行の分に所載。--「臆病な律気な人としての解釈を加へてゐるのは尤もな演出」と評し、「生きた人間味の乏しい、語格の正しい文章でとぼけた面白味がない」と私は評してゐる大体において今度も同じ感じだが、「人間味に乏しい」と第二回の時に評した私は、今度の「堀川」にはこの一語を取消したい。ソレは古靱の第三回の今度の「堀川」がよく「人間味」を出したのか、昭和二年十月の私の耳が未だ至らなかつたのか、私自ら今日では何とも判断が出来ないが、今度の「堀川」に、立派な人間味を与次郎に聴いた事は確かだと言ひ切る事か出來る。
    ◇ この昭和二年の時にも、私が希望として云つたが、ばゝの「娘の手前面目ない」の条りで、私は泣きたいといふ事を今度も申述べたい。このばゞの飜然と人情の自然に帰る点に、「堀川」を聴いて泣きたい私の希望は、却々に達せられないのを憾とする。
    ◇
 これは余談だが、古靱の口には、はんなりとした、派手な語り口が欠如したのが古靱の浄るりの特色であり、短所でもある。この点を補はうとした苦心が、今度のやうな「堀川」を生んだのは、短所を長所に転換したのであると見られる。ところで、この正月に古靱が語つた「女護島」の如きは、徹頭徹尾古靱の長所を長所として語つていゝ作品である。--即ち内容的にははんなりした派手いつぱい浮々したところがなくて然るべき作品である。この古靱の「女護島」に対して、岡田翠雨氏が「浄るり月報」及びその他一二の同様地方の浄るり雑誌に「女護島は研究が足らぬ」といふ題の許に「モツト抑揚をつけろ」「変化のある節付をして陽気にきかせ」「こゝで客を泣かせもし喜ばせもしなければウソだ」といぴ、古格を破つて、近代的にせよといはれてゐるのを、今度の「堀川」の諸家の評を見て思ひだしたが、私が人形浄るりに対する考へ方とは、これらの評を聴くと直反対にあるがやうに思はれる。諸家の意見を尚精しく聴いてみないと、これだけで俄かに断定は出来ないが古靱の「鬼界島」の場合を例にしていふと、岡田氏は、もつとはんなりと語つて、素人でも口ずさみたいほどな節廻はしで語れよといふのが、その注文らしいが、私の反対はこの点にある。作品の内容を検せずして、顧みずして、場受けを節の華やかさに要求する帰結はこゝに至るのが当然である。今日では「古典」である人形浄るりに、「場受け」は一切禁物だ。俚事に入らうが入ろまいが、本質的に語らねばならぬのが、人形浄るりの進む道である。「鬼界島」の場合に就いていふと、その節か、その三味線の手が、仮令近松が創作当時のものでないにしろ、現在僅かに伝はれる節が符節を合するが如くであつたと聴く。--即ち、野沢会で嘗て今の野沢吉兵衛が、この「鬼界島」を弾いたのと、この正月に古靱が語つたそれが、豊沢松太郎によつて伝はれるものであるが、この豊沢と野沢の二流に伝はれる節章が、符節を合するが如きものであつたことは、この浄るりが、絶えて舞台に出ないがために語り崩されてゐないことを説明して余りある。その松太郎から伝へられた「鬼界島」を、岡田氏のいはるゝが如く、本格的なるを捨てゝ時流に投ずる語り方をしていゝものだらうか、私が岡田氏の「浄るり月報」所載の説に反対する所以は茲にある。斯道の大通岡田氏の教へを乞ひたいと思ふのはこゝだ。
    ◇
 恐らくこれは人形浄るりに関する根本の考へ方が違つてゐる故であると思ふ。--私の云ふのは死身になつて懸命になつて古来の人形浄るりの保存にある。恰も能楽のそれの如くに、然るに「素義」の構成分子を多分に抱く人々は現今の聴手に満足を要求してゐる。
 この相異が岡田氏の説かるゝ処と、私の考ふるところとの径程の差を来たすのであらう。--同じ事が、今度の古靱の「堀川」についていへる。八木氏は、五行本への還元を改竄だといひ、改悪だといふ。--この問題はさう軽々に付すべき問題でないと思ふ。お互ひに斯道のためにもつと〳〵考察を重ぬべきものだらうと思ふから、岡田氏の「鬼界ケ島」八木氏の「堀川」の各自の評に対して、御意見の発表を待ちたい。両大通の示教を私は切に乞ひたいのである。
    ◇
 「堀川」の人形では、栄三の与次郎が前に述べたが如く、古靱の語り口、古靱の解釈に伴うて呆気た与次郎を選ばないで、正直な律義な与次郎に解釈をとつてゐろのを当然だと褒める。猿廻はしの条りで、古靱の浄るりと人形が情意合致して立派な与次郎を見せた。昭和二年の時と人形も同じだが、扇太郎の伝兵衛は格段の進境を見せてゐるのを悦びたい。文五郎のおしゆんも形情至つて申分はない。栄三の与次郎がおしゆんの書置を書く問の科に寝そべつてゐるのを、この前の所演にも私は不調和だといつたが、今度も同じ事をいひたい。あの科はこの場の与次郎としては不調和である。
    ◇
 前狂言(?)は「日向島」で、花菱屋が錣太夫であつたいつもの錣の如く奔放でない慎ましやかで、出来は一通り人形では花菱屋の女房に小兵吉が久々の帰り新参。久しく文楽を離れてゐたこの人なり、王徳が帰つて来たことを私は喜びたい。今日の如く人形遣の人数の凋落した時に腕達者な小兵吉なわ王徳を失ふことは文楽のために損失であり、本人のためには、覇道を進むことが、人形芝居のために幾何の貢献を為しえるかは疑問だ。今後の文楽は人形の偏重時代が当然に来る。実はもう来つゝあるのだ 人形部屋の一致団結と舞台における精進を切に祈つておく。それについて悦ぶべき事は、前号に人形遣の黒子の紐が黒くなつた事を喜び述べたが、今度は人形の舞台の正面の襖の下が今日までは丸出しであつたために、道具裏を通る毛臑が無遠慮に見えてゐたのが、五月の舞台から黒の布が張られた何の手間暇いらぬ事だが、二階から見ても体裁がいゝ。些細な事だがこんな点にまで注意をしだした事を人形の舞台のために喜びたい。
    ◇
 「日向島」は、町太夫のみす内があつて、津太夫、友次郎が病気で、叶が合三味線を承つた。この段は今の処津太夫の得意の出し物だが、私が聴いた初日は、いつもの生彩を欠いた。「松門」の謡出しに崇重を欠き、今日まで聴いた津の「日向島」には語つて行くと、もつと〳〵活気が出たものを、小松内大臣の位牌を出してからも気勢の揚らないのはどうしたものか。佐治太夫を叱る条りも意気が欠ける。--弱々しい景清に堕した。が、然しその半面には娘を思ふ親の情がよく出た。剛を捨てゝ柔に片寄つた景清--情に脆い景清となつた。されば「娘やい--」の半狂乱の呼止めが弱々しい。それだけに丸本が要求する「景清」でなくて「盲目の好々爺」の呼止めになつたのは失敗だ。このところ、四橋文楽以来紋下会心の浄るりを聴くことを得ないのは物足りない。まだせめても「橋本」がよかつた部である。などから見て、津太夫の緊褌一番を希望する。
    ◇
 人形では栄三の景清がよい。この人の非力にしてこの人形をこれだけに遣つたことを褒める。近来の栄三に形よりも内面的の人形を遣はうとしてゐる傾向が弥々明かになつて来た。その半面に景清にも成功してゐるのであるから、今後の栄三の舞台は瞠目して待つものが多い。文五郎の糸瀧は一通り、政亀の佐治太夫は軽くて、この人の傑作の一つだらう。
    ◇
次の「重の井子別」で道中双六が大隅太夫で、「野崎」や「壷坂」と違うて面白く聴いた。近来の大隅では上乗の出来であつた。
    ◇
 「子別れ」が土佐太夫と吉兵衛。新文楽座が開場以来初めて土佐太夫らしい浄るりを聴いた。「御殿」から引つゞいて土佐の老境を惜んだが、今度の「重の井」で、土佐太夫が常道に復し、昔に返た心持がした。得意の語り物でもあり浄るりのツヤを賞美したい。只惜むらくは三吉が思ふやうに語れないのは、聴く身に、太夫の苦しさうなのがまづ感知されるためだらうと思ふ。
    ◇
 人形では文五郎の重の井が光る。とともに市松の三吉がなか〳〵よく遣つた。心憎いまでに遣つた事を褒めたい。
    ◇
 「ひらかな盛衰記」の神崎揚屋が、駒太夫の合三味線となつた新、鶴澤重造--浅造の改名--のために選ばれた。番付を見た時に、この段に心を引かれたが、駒太夫に生彩がない。もつと面白からう筈がつまらない。巧者な浄るり必ずしも面白くない。新、重造、達者によく弾いた。活殺の妙ありてその前途洋々たるものがある。これからがほんとの舞台になるのであらう。その自重と不断の研讃を望む。
    ◇
 人形では栄三が梅ヶ枝で、行く処として可ならざるなき腕を示してゐるが、出来は一通り。
    ◇
 切に「嫗山姥」を新、南部太夫(越名の改名)新長尾太夫(鶴尾太夫の改名)のために、選ばれた。新、南部太夫は声のいゝ人、故南部を偲ぶからの名前であらうか。この人のためには恰もの出し物であり、合三味線には吉弥が配されたのも当を得た撰択である。これで役が今後つくと、新、南部はグイグイと頭を擡げるだらう。向上会、大序会当時の越名に大きな期待を持つたが、中途で煮切らなくなつて三四年。今年の襲名を機縁に努力が肝要だ。そして相当な語り場を与へる事も必要である。それでこそ次の時代の太夫が生れる。改名興行を、興行的にやる場合ばかりでその興行がすむと、忘れられるのが今までの常例である。名を背負ひ切れぬほどの太夫ならばだか、新、南部太夫ではこれを機会に相当な役、相当な当り場を与へねばなるまい。それにして、現状の文楽座の当事者が為すところを見ると、次の太夫、次の三昧線に、何等の顧慮が費やされてゐないのは遺憾千万である。今日どういふ風の吹廻はしで新更の文楽座が大入を続けてゐるかの原因を探求して、今にして当事者が「明日」を考へねば、もうこの機会はズン〳〵と過去のものになつてしまはう。努力は今の時であるそれにして、若手中堅どこの太夫を今回の如きは「嫗山姥」に一片づけにして少しも顧みないのはどうあらう。つばめ太夫、鏡太夫、和泉太夫相生太夫あたりを、今日の如く一束にして使つてゐる「その月暮し」の文楽座に、果して成竹があるのか、成行きに任して顧みようとしないのか、私はいつもながらその心事を疑ふものである。
   ◇
 今日時間に左右されてどうとも出来ぬといふならば、私が年来主張してゐる語り場の分割を行うてはどうだ。これが第一の方法。これが出来ねばせめて夏七、八、九の三ケ月を津太夫、土佐太夫或は古靱を加へて三太夫が休場、休養して秋の舞台の研究に時間を与へ、一方大隅、錣を三四段目語り「夏季の紋下、庵」格に取扱うて、相生、つばめ鏡、南部、和泉、島太夫を十分に活躍せしめて、通し狂言を撰択し、第二次の陣容をとつて興行するのも一方法ぢやあるまいか。「通し狂言」の要は、各段の稽古を若手をして試みしむる一方である。然らずば、今日の如く、三段目、四段目の狂言の並べ方は、所謂みどりの興行は、遂には各場の語り口を若手に忘れしめ、或は見物に人形浄るりの本体を忘れしむるやうな事になりはすまいか。通し狂言を撰択する要は、こゝにあるので狂言の筋を知らしむるといふが為めの通し狂言ではない。
    ◇
 重ねていふ。--既成大家の三人に、興行時間の半ばを与ふる事は、決して文楽座--人形浄るり興隆の賢き方法ではない。老齢の太夫をして、その咽喉に応じ語り口を考へて一場を分割して語らしめよ。これを第一法とし、当面の対策としては老齢の大家を夏場三ケ月休場せしめて、新進中堅の太夫の活躍跳梁の壇上たらしめよ。加へて戒め述べておきたい事は、この夏場興行は飽くまで普通興行として興行し、決して向上会風なる出演太夫をして切符の押売組見の強請などを廃して、ほんとに三ケ月を新進の稽古芝居たらしめたいと私は希望する。今日文楽座の既成三大家が一致協力せばこれ位の事を、興行師をして行はしむるに難くはないと思ふが、それともそれ位の自信さへもないかどうあらうか。津太夫、土佐太夫、古靱太夫の三人は、浄るり道のため、文楽座のため、その配下のため、夏場興行のこの種の計画こそほんとの目下の緊急事であらうと思ふ
    ◇
こんな事は、実は三太夫がやるべき事でなく、松竹の当事者が揮つて為すべきであるが、彼等は「その月暮し」の「芸術的良心の欠如者」であるからその敢行は出来なからう故を以て、私は文楽座の重任を世間的に背負はねばならぬ上述三太夫にこの議をお勧めするものである。(初日見物)