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【 三宅周太郎 才能者の発見-文楽の三頭目に- 】

(2023.01.19)
提供者:ね太郎
 太棹 3号 2ページ
才能者の発見-文楽の三頭目に-
                   三宅周太郎
 大阪の文楽は今風前の燈火の状態にゐる。そのためであらうか、私が自分の「文楽物語」の用で、津太夫土佐太夫古靭太夫などに会ふ時、三人共不思議に同じやうなことを云ふから面白い。即ち、一言にして云ふと何とかして斯道の隆盛、復活を計りたいとの希望なのである。この三頭目のはく言葉は決して口先きばかりでないと私は信じてゐる。立派に私はそこに誠意を感じてゐるのは事実である。
 で、もしこれが三頭目の誠心誠意であるなら、私はそこに何かの具体的成案を見たいと思ふ。俗に砕いて云ふなら何かの證拠を見せてほしいと思ふ。
 あの三元老が、唯何とかしたい、何とかして文楽をよくしたい、とかう云ってゐるばかりでは仕方がない。さう歎いてゐるばかりでは仕方がない。もしその言葉が、私が信じてゐる様に真実であるなら余命幾何もない樣な現状にゐる文楽の為に、この際ぜひ事実として救ひの道を講じてほしいと思ふのである。
 例へば、若い太夫の新な発見などはどうであらうか。今の文楽の若手と云ふと、全くつばめ太夫一人だ。下つて越名太夫位のものだ。これだけが文楽の「新進」「新時代」の全部であるなど、心ある者はぢつと落ついてゐられるわけがないと思ふ。そんな事で文楽の将来を黙して見てゐられるわけがないと思ふ。
 それはどんな方法でもいい。義太夫の天才などはめつたにあるものでない。そんな天才を捜し出さうなどの大変な理想を考へずに、せめていい素質の人程度に満足して、新に太夫の発見と養成とを心掛けたらどうかと思ふ。勿論犠牲者は出るだらう。が、大事の前のいけにえの小事は仕方のない話である。さう云ふ障害を排して、何とか新な才能ある人を見出す方法でも講じて、せめて若手から続々と有望な太夫を造つておきたいと思ふ。
 所謂素人の中からでもいゝだらう。年の若い人で比較的いい素質の人、有望な人、さう云ふ人で特志家を募るなどどうであらうか。三頭目が真面目にさう云ふ方法をとれば、一人で三人づつ発見しても、三人で九人の新しい人材が出来るわけだ。その中から一人いい人が出ても、何もしないで歎いてばかりゐる現状よりは、まだしも文楽を救ふ道を作ると云ふものである。その素人の才能者の発見は、所謂素人の連中の中から広く求めるのもいいだらう。又、三頭目が隠れて方々の連中の会位こつそりと聞いて歩いて、これを得る位の手数をかけてもいいだらう。兎に角大きな心で大局に目を注いで、一見愚劣と見える事でもやつて見る事である。その熱心と捧仕との中には、案外な才能者にぶつつかつたりするかも知れぬからである。これは一例にすぎない。又、人形の方面もこれに似たやり方で、栄三や文五郎玉次郎あたりも後進を求めておくことである。
 文楽の三頭目よ。御身達は既に功成り名を遂げた人々である。そして多分後世の浄瑠璃史に残る人々である。そう云ふ結構な身分でないか。外々の芸人と太夫とは根本に於て違ふべきである。その思想は高潔であるべきが本当である。なら此神聖な義太夫道の為に、せめて清き燈火を点じ給へ。(前年古靱太夫が、かうした案を出したと云ふがそれはどうしたかと思ふ。)ヒイキやパトロンの御機嫌とりも必要であらうが、かういふ方法も亦必要であらう。そして今の中に何とか人材を全然別途に求める事だと思ふ。今の文楽はその侭として、別に広い世間に熱愛を以て斯道の為に呼びかける事である。後年の天才初代竹本義太夫すら、最初は天王寺村の百姓でないか。理屈は大体に変らない。今の世でも、百姓や丁稚や米屋薪屋の中に、案外な才分豊な人が隠れてゐないとは誰が断言出来得るであらう。私はこれを先づ文楽の三頭目の誠意に訴へたいのである。(八月十六日。)