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【 斉藤拳三 土佐太夫の思ひ出 】

(2023.01.19)
提供者:ね太郎
 太棹 127号 9ページ
 土佐太夫の思ひ出
        斉藤拳三
 竹本土佐太夫が四月二日、天下茶屋の自宅で安かな大往生をとげてからもう百ケ日になる、死の前日は急逝した駒太夫の代役をする伊達太夫に三時間もみつしり新口村の稽古をし、夜は相三味線吉兵衛とBKの義太夫名曲選に語る大文字屋の稽古をする日を打ち合せ、其の翌日は恩師の臨終とも知らずに稽古に來た伊達に其の一二時間前まで新口村の孫右衛門の役の性根を話して聴かせて居たのだから、全く芸だけに生きて居た土佐太夫らしくつて、私は涙の中にも義太夫節の末期が生んだ巨匠め臨終に溜飲の下る思ひがした。
 井上伊三郎氏も東劇の玄関で逢つた時「立派な大往生でした」と云つて居たから、土佐贔屓としてはおそらく思いは同じであらう。
 土佐太夫とは義兄弟の伊原青々園氏は家事上の私用で土佐太夫と会見しても大抵最初の一日は義太夫の話でおしまひで、二日目でなくては用がたりなかつたそうだ、其れ程土佐太夫は芸談好きであつた。
 筆者などは自分では土佐贔屓のつもりだが、何だか贔屓にされた様な感じがして居る、でポツ〳〵憶ひ出すがままに書いて見やう。
 土佐太夫がかつて私に不気嫌になつた事が唯の一度有る。其れは「なぜ私に義太夫を語らないか」との質問だつた。私は「義太夫は素人がいくら勉強しても自分自身満足のいく様に語れぬから」と云ふと、彼は大層不満足な顔をした。これは常に素人の中から有望な太夫を捜し出そうとして決して希望を捨てなかつた土佐太夫として充分うなすける話であつた。
 彼はこうした、筆者などからは絶望的に見へる義太夫道に常に明るい希望を持つて居た。土佐太夫は常に大衆から賢しこ過る策師の様に見誤られてゐたが、伊達と云つた壮年時代は知らず、私の知つてる土佐太夫になつてからの晩年は非常に親しみ安い好々爺であつた。
 或る時彼はこんな質問をした、東京のお素人の人で立派な太夫になる素質の人はゐませんかと熱心に聞くのである、翁は三四年前に此他に現れた化物をまだ東京に求めて居るのであつた、私が「士佐会のお方は知らないが楽しみに語るお稽古をしてる旦那芸に今時其の様な人はないだらう」と云ふと「でも都太夫の息子は大変いゝと米太夫が云つて居た」と云ふのである。これには私は少なからず驚いた、其れは当の相手が私の最も心がかりな、落語講談や人形浄瑠璃の様な次第に衰滅して行きそうな芸界に、哀れな自分自身の後事を托すべく成長と完成を念じて居る安藤鶴夫なのだからまごつかざるを得なかった。
 でも言下に私は「都太夫は御師匠さんと同じく息子は芸人にしない為、大学を卒業させたのだから駄目です」と答へると「大学を出てはもう斯の道へは入らんかなあ」と云ふのである。
 杉本英氏も誰かの御注進に依つて土佐太夫のお見出しに預つた一人であつた、家へ来て語ちてくれと云はれて年少気鋭の氏は新左衛門の糸で鰻谷を一段語つたのだ、土佐氏は紋服で門口まで出向へて、吉兵衛、錣太夫一門がずらり居ならんで居てふるへたと云はれて居る、一段が終ると別席に膳部の用意が丁寧にしてあつたが味も解らなかつたと氏は謙遜して語られた。
 以上の事から見て土佐太夫の隠退は少々悲劇であつた、翁は浄曲協会の大成を過大に空想したのが一因になつて居た事と思ふ、好事家是沢九似氏あたりが無謀な拍手と声援を贈つたのも一理あつて此れも是沢小百合太夫らしかつた。
 私は芸人の隠退はどの角度から見ても悪いと思つて居るが其の内では土佐太夫が一番罪が軽いと思ふ。
 斯道かくの如く衰へれば大家の晩年は皆寂しい、土佐も一般からは楽隠居して悠悠自適風流三昧に暮して居たかの如く報ぜられたが、決してそうで無かつた事は筆まめな翁が筆者にあてた百九十通の通信が物語つて居た。
「此の頃は毎日団司が京都から桜時雨を習ひに来るので一日愉快だ」とか「伊達太夫と雛昇に毎日稽古をして居るから退屈しない」とか、やはり彼の晩年も義太夫と四つに組んでる時が一番楽しかつたのである。
 「中沢巴氏が下阪するから共に土佐会を聴きに来い」と私に下阪をうながす事も再再であつた、特に面白かつたのはBKから芸談を放送するから、放送局へ同行する様にと云つてBKからの招待状を郵送して来た事があつた、其の時間がすぐ夜行で八王子を出発しても間に合はない時間だつたのには唖然とした。
 隠退後の師が先年松竹から若手一座の助演に上置として東京へ一度臨時出演しないかとの交渉を受けた事があつた、此の時毅然として、一笑に付してしまつたのは彼の知己真鍋博士と、愛弟子竹本伊達子であつた、翁は伊原博士とか安部豊氏とか所々の知己へ相談したらしかつたが、一番うるさ型の筆者には最後に意見を出したらしく、十数人の賛否が書いてあつたのは非常に親しみを感じて嬉しかつた。
 土佐太夫の手紙は小供の時紙屋に奉公した事の有る人だけあつて実に結構な色々の土佐の和紙を吟味して使つたものだつた。青、赤、黄、緑等の和紙へ毛筆で達筆に認めてあつて時々一枚の大きな紙へ書いて其れを器用にたたんで其の折り畳の表紙が宛名になるたたみ方であつた。
 どんな面倒な芸の質問をしても必ず四五日目には返事が来た、筆者が故野沢金造の墓標の揮毫を依頼した時などは一日に四通の返事が来て少々驚かされた。
 翁は亦いくら長文の手紙でも二銭切手を二枚きり張らないので末納料を取られる事は毎回であつた、筆者の家庭では「亦御気に入りから罰金手紙が来た」と大喜び、大笑ひであつた。
 其の芸鬼土佐太夫も鶴沢友次郎が一度隠退後再出演して僅か二度の芝居務めただけで再起不能?となつたのを見て以来、すつかり高座を断念してしまつた。筆者が自宅で語つてくれれば即日下阪するからと云つても自分は晩年を遊ぶつもりだが吉兵衛はそうでないからとの理由でキツパリ断つた、然し教へる事は死ぬまで出来る「知つてる事は何でも教へるから質問してくれ」と其の終りに丁寧に書き添へてあつた。
 聡明なる芸愚!私は不再出の芸人、と限りなき愛着をおぽえるのである、彼が相三味線吉兵衛を賞讃する事は非常なものだつ1た。
 現今の三弦では吉兵衛が群を抜いてゐる、吉兵衛なら引合せなしにどう工夫して語つても安心である、人物も立派な男だから会つて御覧と云ふのが常であつた。
 筆者如きが縷説するまでもない三絃は夫婦よりむしろ君臣とも極言すべき犠牲的精心を芸の根幹とすべきである。
 土佐太夫吉兵衛は、古靱太夫清六と共に相三味線の最後を飾るべきものであらう。
 土佐太夫の芸は晩年程よかつた、特に隠退興行に語つた四種の世話物は大正、昭和に於ける世話浄瑠璃の最高峰であつたが、彼の大成が壮年時代より血と涙の修業を続けた三代目大隅の影響よりもかへつて晩年文楽入座以来受けた、外様大名扱ひ、--四面楚歌の継子扱ひの忍苦と摂津大掾の影響を受けてるのが私には興味深い。芸談と云へば何事も卒直端的な翁が一度事師匠大隅の事になると話すのをいやがる傾向が見へた、一方摂津大掾の話になると彼は愉快そうに絶讃するのが常であつた。
 義太夫人と云へば余りにも排他的である中に大掾が四面皆敵である。新加入の大隅の芸を認めて居る床しぎ紋下の態度に驚異の眼を見張つて其の人格に真の師を見出した事を私は容易に想像する事が出来る、翁は云つた『自分より下の太夫の芸を立聴して参考とするなんて、其んな偉い人は始めてです』と。
 彼の芸風が益々上品になつていつたのは全く大掾の影響であらう、然し彼が青年期よりの難行苦行の練磨を経て修得した大隅一流の写実的芸風はやはり根強くも、無意識に心の奥に生い繁つて六世土佐太夫風とも云ふべき言葉語りの妙を完成したのである。
 寡黙な古靱太夫は或る時私に云つた。
 「語葉尻りを締めて泣く処だけは故大隅師匠に似て居ます」と、
 ここに翁は明治期の両巨匠の長所を遇然にも自家薬籠中のものとして一流得自の芸風を完成したものと思ふ。
 あへて筆者は彼を六代弥太夫或は津太夫以上の太夫と結論すゐ所以で有る。
 大正八年越路太夫最後の東上素浄瑠璃評に岡鬼太郎氏は言葉では伊達の方が一足お先に卒業したと評した、筆者も全く此の点は同感である。
 翁の至芸は全一段としてはレコードにさへも残つて居ないのである、一種の言葉語りであつたからサワリ位を一二枚吹き込んだものは全く片鱗さへも窺ひ知る事が出来ないのである、隠退直後或る贔屓から十段だけ録音すると云ふ企画があつて筆者は極力此れを勧めたが何かの理由で実現を見なかつたのである。
 東京には土佐太夫を賞讃すると義太夫通で無い様に思はれそうな傾向さへうかがはれて筆者には不思議でならないのである。土佐師の事はまだ書きたい事が沢山ある、いずれ亦其の機がある事と思ふ。