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【 斉藤拳三 煙亭先生へ 】

(2023.01.19)
提供者:ね太郎
 太棹 129号 14ページ
煙亭先生へ
      斉藤拳三
 御手紙有難く拝読いたしました。拙稿拝読を給り、亦御賞めの御言葉を頂き、汗顔ながら厚く御礼申上ます。
 御手紙の文面では『塵外居放談』の寺子屋説の一部、都新聞の安藤鶴夫君の説と反対である、君(斉藤)の意見を太棹次号に発表しろとの御説で御座いました。四五年前、先生は、私に「君を富取君に紹介したのは私で、八王子にとぢこもつて居る君を、東京の義太夫界に引つ張り出したのは私だ、云はば君は東京の私の家へ「わらじ」をぬいだのだ、私の云ふ事はきけ」と、其れこそ真の塵外居放談で、先生はもう、とをに御忘れの様ですが、私ははつきりとおぼへて居ります。或は寡黙な先生が、一世一代の大見得だつたと思つて居ります。
 
 処で、あれはそも〳〵安藤君が私と初対面の時の私へ意見を徴した第一問でした、「詮議に及ばずつれうしよ」は松王の地か玄蕃の地かと云ふ一問と、歌舞伎はあの場合どうするかと云ふ第二問とでした。
 私は松王の地と答へました。
 でも少々心配だつたので、鶴沢清六師に質問した処、松王との答でした。
 歌舞伎の件は杉贋阿弥氏の舞台観察手引草を御覧なさいと云つたと思ひます。
 処が今度の議論の中心点は、其れより「睨み付けられ」にある様です、これは百姓の地でしやう。
 結論として私は、先生とも安藤君とも少々異なつて、院本の一つ一つの地合を余り細かに人形の一人一人の受持としない方がいゝと存じます。
 松王は眼を動かす位、太夫は「睨みつけられ」は松王の心持ちに語る位、玄蕃も相当動いてもいゝと存じます。
 大正八年六月歌舞伎座所演の「合邦」の「納戸ヘこそは入る」の件で、故段四郎の合邦は一度引込んで亦出て来て、歌右衛門の合邦と菊三郎のお徳と三人でからんで派手に引込みます。此れなど院本の意味から見ると一寸疑問でしやうが、演出法としたら、派手で最上のものだと存じます。
 
 先生の御手紙には安藤君支持の論でも何でもいゝから書けとありましたのは敬服の至りです。
 安藤君も感謝してるでしやう。総じて某誌の様に同人が皆賛成々々ばかりではいけません。
 先生は先生、安藤君は安藤君、私は私で、各人各説、勉強して行きたいと存じます。
 
 古靱太夫栄三紋下論は賛成です。先生の、栄三は最高の技芸士として紋下に据え、切符売りの名人には格を下にして秘密に給金を出せとのお説は卓見です。
 唯小生としては栄三には条件付きの紋下です。紋下になれば今の様に自分だけの芸を大切にして居ては駄目です。文楽の三人遣人形全体の技芸を守らなくてはいけません。栄三に欠けてるのは此の点です。紋下を過去の功労の賞とのみしてはいけません。将来の重責を負はせる為めの紋下でなければ意味が有りません。
 今まで栄三は筆を持つ人からは総力的な支持と贔屓を持つて居りますが、も少し感激性のある晩年を送るべきだと存じます。
 
 古靱太夫も身体が壮健で何よりです。
 私はふと越路太夫死後の紋下は一体誰が一番適任だつたかを考へました。あれは責任感と云ふ点から古靱太夫が第一だつたと結論します。少くも土佐太夫だつて津太夫よりはいゝ紋下だつたでしやう。
 其の点好々老爺の津太夫に支配人も付けずに紋下の重責を負はした事は、当人にも、人形芝居にも、文楽にも不幸でした。あれは津太夫、土佐太夫を補佐役として、古靱太夫を紋下としたら今より或る程度文楽の崩壊を阻止したかも知れません。
 一例が文楽座のチヨボ床出演の問題にしても、津太夫よりは古靱太夫、士佐太夫なら何か案があつたでしやう。
 何はともあれ、斯うなつたら一日も早く古靱太夫を紋下にする事が急務です。改名などの必要はないと存じます。不遇に横死した初代古靱が不思議にも、とんでもない人に継承されて紋下になるなど愉快じあありませんか。もつとも此れは古靱太夫が非常に綱太夫を崇拝して居て襲名すると云ふのなら亦別問題ですが。
 
 此の度の文楽の東上興行五回とも御来場の由、同座の大入同様嬉しく御礼申上ます。