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【 安藤鶴夫 人形浄瑠璃雑記 】

(2023.01.19)
提供者:ね太郎
 太棹 131号 10ページ
人形浄瑠璃雑記
          安藤鶴夫
 古靱太夫が七月新橋演舞場での所演「菅原伝授手習鑑」寺子屋の段で、「詮議に及ばぬ連れうせう」を松王で語つてゐたのに対して、人形の玉幸の玄蕃が眉を動かして頭を振り、栄三の松王は黙つてゐるといふ人形演出の誤謬を指摘したところ、五日目の最終日に煙亭氏が「気をつけて見てゐると、驚くべし」「玉幸の玄蕃はニユーツと澄ましてゐて、栄三の松王が、きまり悪るさうに、ちよいと頭を振り肩を聳かして。睨む形をしたでは無いか」と酷く驚いてをられる。
 床の太夫が松王で語つてゐるにも拘らず、人形の玄蕃がこれを取つて動き、人形の松王がそれらしき動きもせずに黙つてゐる方が、私にとつてはそれこそ「驚くべ」き事で、従つてつまり太夫の演出に依つて、人形がその演出通り改めたといふ事は当然の事といはねばなりません。煙亭氏は人形演出の訂正を「都新聞と安藤鶴夫の権威(?)は大したものである」といはれてゐるが、太夫が甲の人物で演出してゐるものを、人形が乙の人物が演出してゐる誤ちを知つて、訂正する事は、なにも都新聞や安藤鶴夫の権威(?)でもなんでもなく全く当然の事であります。
 たゞこの際問題になるのは、もしもその誤謬の指摘が為されなかつたならば、煙亭氏の行かれた五日目の「寺子屋」にも亦、古靱太夫は「詮議に及ばぬ連れうせう」を松王で語つてゐるにも拘らず、人形は玄蕃がこゝを取つて、太夫と人形とが異つた演出をしたであらうといふ事であります。
 従来古靱太夫は屡々「寺子屋」を演じてをりますが、この誤つた人形の演出は煙亭氏の所謂「摂津大掾、大隅太夫の昔までに及ばず、貴田の越路や、先代の南部すら全然知らない連中」の中の一人の指摘がなかつたならば、今後も尚誤つた侭演出せられた事でありませう。
 摂津大掾、三代大隅、三代越路、三代南部を親しく聴かれた煙亭氏の目と耳が、古靱太夫の「寺子屋」を聴かれて、「詮議に及ばぬ連れうせう」が松王で語られてゐるにも拘らず、人形は玄蕃が動いてゐるのを発見されなかつたならば、それこそ我々若輩にとつては「驚くべ」き事であります。
「詮議に及ばぬ連れうせう」が松王か玄蕃かの問題は扨ておいて、太夫が甲の人物が演じてゐるものを、人形が甲の人物でなく乙の人物で演出し、甲の人物が黙つてゐたならば、この驚くべき誤謬は当然非難さるべきものであります。
 特に人形の語り分けの明瞭な古靱太夫のこの件を聴いたならば、津太夫とは違つて、これが玄蕃でなく松王で演出されてゐるといふ事は明治期の故人を「全然知らぬ連中」の一人である私にも明瞭に聴き取れたのであります。
 太夫の語つでゐる役々が、自分の遣つてゐる人形の役であるか、他の人形の役であるかも解らぬ人形遣のゐる今日の文楽座に、人形の演出者乃至はその昔の植村家の人々の如き監督者の必要は今更ら申上げる迄もありますまい。
 扨て「詮議に及ばぬ連れうせう」が古靱太夫演出の如く松王であるが、或は津太夫演出の如く玄蕃であるかに就いて、私の解釈を申上げたいと思ひます。
 拙評に(敢て本文を詮索する迄もなく、「首見る役は松王丸」で、玄蕃は現に一寸前「うぬらが伜の事迄身共が知つた事か」といつてをり、これは飽く迄贋首を掴まされまいため、松王のお目付け役としてのみ登場してゐる筈である)とあります通り、私も古靱太夫とおなじく、「詮議に及ばぬ連れうせう」は松王であると信じてをります。
 単純な玄蕃が、煙亭氏お説の如く「寺子の首実検をするなどはまだ思ひも付か」ず「うぬらが伜の事まで身共が知つたことか、勝手次第に連れ失せう」といふので、得たりと松王丸が「ヤレお待ちなされ暫く」と駕から出て、「彼等とて油断はならぬ、病中ながら拙者めが検分の役勤むるも、外に菅秀才の顔見知りし者なき故(中略)疎かには致されず、菅丞相の所縁の者この村に置くからは、百姓どももぐるになつて、銘々が忰に仕立て助けて帰る術もある事」と、自分の策を逆に自身で伝へておいて、さて百姓達に「一人づゝ呼出せ、面改めて戻してくりよ」といひます。
 (これは玄蕃に聞かせるやうにいふ人と言葉の表通り百姓に聞かせるやうにいふ人、または源蔵へ聞かせるやうに格子戸の方へ一寸思ひ入れをしていふ人とがあり、歌舞伎の場合五代目菊五郎などは後者の演出であつたといふ事を聞いてをりまずが)さて、松王以外の菅秀才の顔を見知つた者がないから、この役を承つて松王が登場したので、百姓の伜に仕立てゝ管秀才を助けるといふ方法もあるから、一人一人呼出して面を改めようといふのですから玄蕃には無論菅秀才だか涎くりだか干鮭[からざけ]だかは解らぬ筈であります。
 その玄蕃が、「一人づゝ呼出」して実検役の松王が「面改めて」ゐる際に、「詮議に及ばぬ連れうせう」といふやうな発言の権利のあらう筈はありますまい。
 後の首実検の件でも玄蕃はたゞ松王の顔をみてさへゐればいゝので、五段目「大内の段」で時平が「贋首喰うたうつそりめ」と肩骨を掴んで「不忠油断の見せしめ」とぽいと首を引き抜かれる玄蕃の役は、恐らく歌舞伎に移されてからもづつと近世に今日のやうな割にいゝ役どこに変つたもので、人形浄瑠璃の場合には、初演の延享三年八月竹本座に於ても勿論桐竹源十郎などといふさしていゝ位置でない人形遣が遣つてをり、江戸の歌舞伎で玄蕃に扮した一流俳優は、三代目菊五郎と時平を当り役とする初代男女蔵以来の化政度以後の事であります。
 歌舞伎の方では今日「詮議に及ばぬ連れうせう」は玄蕃がいつてをりますが、前記三代目菊五郎が松助当時玄蕃を勤めた文化八年七月中村座で三代目坂東彦三郎が五十八歳で江戸の舞台を退いた一世一代の引退披露に、「忠臣蔵」を一日替りに演じた「菅原」の台本では、「やア、かしましい蝿虫めら、うぬらが餓鬼の事まで身共が知つた事か、勝手次第に連れてうせう」から「すは身の上と源蔵も、妻の戸浪も胸を据え、待つ間程なく入り来る両人」で松王、玄蕃が家に入つて、「よき所へ住ひ、玄蕃思ひ入れあつて」「ヤア、源蔵、この玄蕃が目の前で、討つて渡さうと請合うた菅秀才が首、サア、受取らう」迄、全然玄蕃の台詞はなく、「詮議に及ばぬ連れうせう」といふ台詞は勿論松王となつてをり、(〽アツと答へて出て来るは、腕白顔に墨べつたり」ト奥より出て来るを、松王引つ捕へ検める事)といふト書迄あつて、「子ばかりよつて立帰る」の後のト書にも(ト此うち松王、始終改める事よろしくあつて、皆々花道へ入る)とあります。
 してみると、この実事和事の名人といはれた坂彦所演の文化八年七月の中村座に於ける「寺子屋」は、この件は全部松王がしてゐたもので、敢て津太夫その他今日の歌舞伎の演出と異つて古靱太夫のみが殊更ら松王で演出したものではなく、歌舞伎の場合にも亦この件は松王でやつてゐたといふ文献が残されてゐるわけであります。
 釈迦に説法、先輩煙亭氏に対して歌舞伎の例などを挙げて利いた風な傍證などするのはまことに失礼と存じましたが、恥を申上げれば私は最近迄「詮議に及ばぬ連れうせう」が玄蕃で演出されてゐる義太夫節並に歌舞伎に対して少しも疑問を持たずにをりましたもので、先年明治座に文楽の出開帳があつて津太夫が「寺子屋」を演じました際、玉松から玉蔵に改名して間もない現玉蔵が松王で、門造が玄蕃を遣ひました時に、玉蔵から私は次ぎのやうな質問を受けた事に依つて、今迄無関心であつたこの件を調べる機会が出来たのであります。
 学生時分私は門造の楽屋に行つて人形の話をいろ〳〵聞いてゐたところから、私の批評は門造から教はつて書くので、門造と仲の悪い人形遣は酷評されるといふので、一部の人形遣が門造に対して絶交すると迄いきまき、門造も悲観して自分は文楽座を退いて、人形遣を廃業しようかといふ処に迄発展した事件があつたのです。
つまらぬ私事を申上げて相済みませんが、これが玉蔵のよき質問にも関係のある話でもありますので、事の序に申上げますと、この事件は近頃の人形は芸の力ではなしに徒らに人形を大きく見せようとするところから、ぐんと人形拵へが大きくなり、人形の芸品が次第に低くなるといふ事を書いた私の一文が楽屋内で問題になり、門造が私を使嗾して書かせたのだと、恰度文楽座が東上中の事だつたので門造の宿へ人形遣某々が怒鳴り込んだのです。若輩の文楽評に偶々専門的な事が出てくると、あんな事は若い人間のいへるわけがない、あれは誰に教はつて書いてゐるんだといふ風にいはれるのは、私など今日尚蔭口でいはれてゐる事を知つてをります。
(義太夫の場合は都太夫、落語の場合可楽に聞いて書くといつた風に……。なんとくたびれる事ではありませんか。閑話休題)しかしただそれだけなら敢てどうかう逆ふ程の事もありませんが、微塵も私の書いた一文に関係のない門造が人形遣を廃業しようと迄思ふやうな事件に迄飛火したのですから、私は人形遣某々に対し門造の楽屋で逢ふ約束をして、或る夜明治座の楽屋へ出掛けたのであります。
 私は以来一切如何なる事があらうとも文楽座の楽屋へは出入しない決心を致しました。実のところ、文楽座の楽屋には私はその当時以前から最早や少しも興味を感じられなくなつてゐたのであります。事の序に申上げれば、人形には殆ど興味を失つてゐたのであります。といふよりは人形の場合に就で二三の人形遣以外にはといつた方がいゝかも旦知れません。
 そこで楽屋に行かなくなつた私を、珍しく、といふより玉蔵といふ人は殆ど劇場の表へ顔など見せた事のない人ですがその玉蔵が客席の私を訪ねてきて、明治座の喫茶室で私に次ぎのやうな質問をしたのであります。
『「詮議に及ばぬ連れうせう」を、津太夫さんは玄蕃でやつて門造さんの人形が動いてゐますが、あすこへくると、松王を遣つてゐる私は変な気持ちで堪まりません、あれは玄蕃のものでせうか』といふのであります。
 客席に出て来た事もないやうな玉蔵が、わざ〳〵私如き若輩を掴まへて、かうした疑問を提出したのですから、私は自分の迂喝を恥じると同時に、早速調べる事を約束しました。
 即日当の「寺子屋」の床を勤める津太夫に訊ねると、やゝ考へた後で玄蕃であると答へました。私は津太夫の先輩に当る故人の名を挙げてその人達も亦玄蕃で演出したかを問ひましたが、津太夫の答へは矢張り皆玄蕃であるとの事でした。玉蔵のこの疑問は私に一つ学問をさしてくれたのであります。
 私の松王説は前述の通りいつ迄いつても同じであります。津太夫その他現在歌舞伎でこの件を玄蕃で演出してゐる人が何人ゐようとそれは私にとつては問題ではありません。たゞ私は古靱太夫がこれを松王で演出するのは、芸術家の見識であると思ひます。古靱太夫の「寺子屋」は亡き三代目清六から血の出るやうな稽古をして貰つたと聞いてゐますが、私は私自身の持つてゐる松王説に加へて、この場合特に誰よりも古靱太夫を信じ、三代目清六の演出を信ずるものであります。
 今後文楽座その他の太夫、或は歌舞伎での演出が聊かの疑問もなしに、尚玄蕃で演出される事があればある程、私は古靱太夫の松王演出に対する芸術家として見識に深い尊敬を払ふ事でありませう。