FILE 108

【 黒顔子(田中煙亭) 稽古見台 】

(2025.04.28)
提供者:ね太郎
 
 『太棹』 37号~52号
  豊沢団市  豊沢芳太郎  豊沢猿造  豊沢猿平  鶴沢燕作  竹本巴津昇
  野沢道之助  鶴沢司好  豊沢猿三郎 10 竹本津賀太夫 11 12 豊沢猿之助
 『太棹』は公益財団法人三康文化研究所附属三康図書館の蔵書を使用した。
 
 参考:田中基臣・田中塵外・田中煙亭 資料
 
  稽古見台(1) 太棹 37:20-22 1932.5.25
血の出るやうな猛練習◇……豊沢団市さんの片肌脱ぎ
 
  神田明神前で電車を降りた湯島五丁目、交番の横町を曲ると直ぐ『豊沢団市』の表札と並べて稍や大きな『団の字会事務所』の看板。
  『御免下さい』……『や、これは、ようこそさ、どうぞお上り』と、師匠は今しお稽古の間と見えて、下のお座敷に横になつて、何やらの物の本、刎ね起きた傍には奥方の針仕事『飛んだ御邪魔……』とヌツとはいる、床には癖三酔の俳書に
  沈丁花蕾のひかる青い魚の肌と達筆の賛。右手の雲板には不折大人の例の六朝勇健の筆。悪い道楽に閑を潰す代りに、我々仲間もチト俳句でもひねつてはといふ師匠平生の心意気がほの見える。
  二階へ上る。通し椽の六畳と四畳半。六畳の方は御連中の溜り場、真中に紫檀の角机、隅の衣桁には中形の浴衣と真田の帯が二三人分、下には乱れ箱もおいてある。狭い方のお部屋、一間の押入を背に
  稽古見台、斜に三味線が乗せかけてあつて書棚には御連中の大本小本、高い処に二尺ばかりの肖像画、品の好い年輩の……『へい、師匠です、二代目の団平です、好い男でしたな』と団市師、更らに一方の楣間を指して『この手紙は師匠が呉れましたのですが、例の地震の時、この写真と一緒に引かゝえて持出しましたのです』見れば最初に何やら節付けの細かい音譜、続いての消息もお弟子の飯代の事など無造作に書かれた末の宛名に『団平殿、師より』とある。『あはてたものですな、団市と書く所を団平と自分の名を書いてしまつて、下に拠なく師よりとその侭にされた処など師匠らしいですよ』と、何にしても団市さんにとつては好個の記念である。
  団市師は更らに師匠に就ていろ〳〵の想ひ出話をする。下から細君がお茶を持て来られる『この手紙の時分、恰ど私が家内を貰つた時で、それから二三年、お前も子供が出来んで困るなと、言うてをられましたが、師匠が歿くなつてから直ぐに赤ン坊が出来ましてね……』など。
  井上泉さんが見えた。同席の富取さんと、新潟行の話がはづむ。松宝さん、三幸さん達が香伯老を誘ひ、竹沢龍造の身振狂言を持つて競馬を序でに北陸興行の相談が始まつてゐるらしい。此の処天下は太平である。
  竹沢龍造の身振芝居の話しから団市さんは自説の青年俳優養成説を一席『大阪で近松座が立派にやつてをりました時分、この首振り養成を企てゝやつた事がありましたが、私は確かに達者な立派な役者が出来るとおもひまんね。映画を見に行きましても、どうも中々確つかりしてをるなと思ふと、あの柳サク子なども、竹沢さんの身振芝居から出た人ださうですな。この太棹で、ウンと叩き込んだ腕は動きませんわ、イヤ女はイケません、寿命が短かいのでナ、十五六から二十歳位までの男優養成です、これは私は、たしかに東京でやつて見てもよいものだとおもうてます。』といつたやうな工合。
  団の字会の由来に就て『お蔭で会毎に盛んになつて参ります、これは最初××××さんが納会を賑やかにしやうとおもうての相談から始まつたもので、年に四回位のつもりだつたのですが、此の頃はちよい〳〵催ほされまして……』と匠師の話しの中に、吉川浪補さんのデツプリした姿がヌーツとばかりに現はれる。筆者は初対面の挨拶をして、さて愈よ師匠のお稽古が聴かれるとゐずまゐを直すと吉川さんは、犬養首相遭難の大政変に就て、非常の関心を持たれるらしく、やをら懐ろから当日の株式日報を取出して机の上にくり拡げ、やがて昨日から、さる占者の筮竹によつて少ばかり儲けられたお話があつて、我等の眼の玉をぐらつせる。
  浪補さんは更らに『この国家非常の場合……義太夫なぞ語つちやアゐられまいとおもうがね、しかし趣味だから、好きなものなら、まアお稽古だけは仕かたも無いだらうが、公会の演奏は見合はせた方が可からうなア、どうですか』とおつしやる。お稽古は仕方が無いとあれは『では何か聞かせて下さい』と咽まで出たやつを呑み込んでジツト謹聴する。
  師匠は立つて稽古台の前へ腰を落してドツカと坐り、三味線の調子を合はせる。トン、トトン。『どうも煙草を廃めたので、今日が四日目、とても我慢のならん所ですよ』『ほう、それは豪い』と我が身に引きくらべて感心する『どうも胃腸を悪うしたもんやさかい、お粥腹です、煙草もその為めにな、こんなですからな……』とベロリと舌を見して見せる。
  吉川さんが無言で見台の前へ直ると、師匠が本を出したのが『堀川』今二タ丁場目と見えて中ほどから『……かくす硯の海山と、重なる思ひのべ紙に、筆の立てどの跡や先、涙に墨のにじみがちなる胸の中、書き残すとは露知らぬ、与次郎は傍から……』と師匠の声と撥とが次第に調子づいて来て、お粥腹のやうでもない。
  『いふ声寝耳に与次郎が恟り、起るとあくる門の口……』あたりから更らに馬力が懸り、師匠のコメカミから玉の汗がポタリ〳〵と落ちる。もうこの辺でキレルかと思つて聴いてゐると、また〳〵続く。伝兵衛が読む書置の条り、例のおしゆんのサワリの前まで行つて今日はまアそこまで〳〵となる。一辺ではあるが随分長丁場のお稽古、われらではとても覚えられぬとおもつて感心する。『少し長過ぎますがな』と瀧と流れる汗をぬぐふ。無言で次の間へ戻つて来た浪補さん、殆んど無言で「左様なら」である、恰かも株の事でも考へてゐるやうであつた。
  お神さんがお茶を淹れて上つて来る、お煎の菓子鉢を持添えて……。泉さんも富取さんも黙々と眼をつむつて聴いてゐる。そこへ元気さうな広瀬いろはさんが見える。あしたの晩、浅草の音女会に混つて十八番の『毛谷村』を聴かせやうとあつてのおさらひである。
  『さア来い』とばかりに師匠は左りの片肌脱ぎになつて三味せんを斜に構へる。浴衣一枚になつたいろはさんは、腹帯をグツと下ヘウンと気張つて大本をパラリと開く。
  『あとには不審とつ置いつ……』から本気になつての猛練習である『おゝ、其の返答して聞けんと、ずツと入るより替筒に……』あたりから、いろはさんの浴衣は汗でグツシヨリいつの間にか大肌脱ぎになつての大馬力『二十三日は母じや人の四十九日、杉坂の墓所をもどりがけ、泥坊めらが二三人……』一言一句、やりとりの詞も唯だではすませず、イキ使ひ音づかひ、思入れの節々をいと入念のお稽古は聴いてゐても血の出るやうな。
  充分手に入つてゐる筈のいろはさんの『毛谷村』が、殆んど完膚なきまでに訂される『すりや八重垣流の達人、音に聞こえた六助様かえゝと呆れて取り落す……』のあたり、師匠は幾度も三味センの手を止めて言うて見る。腹にはいるまで丁寧反覆、悪い処は充分にコキ下す、グツたりとなつたやうないろはさんが、汗を拭きはじめると、師匠は更らに前にしるしを付けておいた個所々々に就て練習を繰返してやつと了つた。
  『中々烈しいものですね』といふと『やア、今日はまだこれでも軽い方で……』とニツコリする。師匠も充分に大汗をかいたので、一ト先づ休憩となつて『あツ煙草がすへんのや』と手持無沙汰に煎餅なポリ〳〵。
  清昇といふ人が見えて、これが『忠六』を一段、イキバツて帰つてゆく。日が暮れて来た。そこへ大塚の小塩潮さんの洋服姿が現はれる。今日から「沓掛」のお稽古をしやうとする人である『何か一つ聞かして下さい』といふと、師匠も『あとで沓掛はお聴かせしますから、何ぞおやりい』とあつて、潮さんはやがて洋服を脱ぎにかゝつた。
  『熊谷陣屋』恐ろしい大物である。軍次までこれも亦汗びつしよりと『しばらく休んだので、どうも充分に語れません』や何かで、それから師匠は新らしい「沓掛」の本を拡げて約半段、いつの間にか泉さんも清昇さんも帰つて了つて聴き人は富取さんと拙者。もう誰れも見えさうもなく、新らしくお茶を貰つて話し好きの潮さんと師匠はやゝ暫し芸談に時を移して切りが無い。
  潮さんは文楽の話から芝居の話。義太夫は端場がおもしろいといふ説、師匠は此間『古靱さんの酒屋と土佐さんの酒屋との比較論を聴かれたには困りましたが、私としては芸の巧い拙いは申されませんが、古靱さんの酒屋は今ま、坂を上つて行かうとしてゐる熱心な研究中のもの、土佐さんの酒屋はもう上り切つて、完成されてゐるものといふだけの事は申上げられますと答へました』といふやうな話でおもしろく、恐ろしく長時間のお邪魔をした事に気がついて、富取さんと二人顔見合はしお暇ました。(黒顔子)
 

  稽古見台(2)38:27-28 1932.8.1
  丸本あさりの堀出しもの
  ◇…豊沢芳太郎さんの研究好き
 
  カキガラ町の御宅、だるまの横町をはいつた小路、すぐに知れる。デンデーンといふ好きなものには堪らぬ音〆が聴こえて来る。
  さつぱりと気の置けぬ愛嬌の好い細君『サどうぞ』とばかり二階へ上る。お稽古は今、『朝顔』の宿屋、もう露の干ぬ間もすみ、身の上話しのはや中程、見台の前のは辰寿さん、大層巧者な語り口、師匠が眼顔の挨拶を受けて横の肱掛け窓の方へ陣取つて謹聴する。そこには、眼なふさいで凝つと聴入る年輩のお客が一人。
  『深雪は何か気にかゝり、又た立帰る……』から『降る雨の……』大井川へとお稽古は続いてゆく。これは又た大層おとなしい師匠とお弟子『やアどうも……』と、さすがに額ぎわの汗を拭いた辰寿さんは、コクリと一つお辞儀をして、衣桁の絽の羽織をひつかけて帰つてゆく。
  『どうも失礼』と芳太郎氏は稽古台を離れての御挨拶。話は直ぐにこの間の、白木屋の豊沢会、古曲『忠臣一力祇園曙』になり、引続き赤坂連の催した猿之助師の『うつぼ猿』に移る。名人松太郎師を父に持たれる御兄弟のしあはせ、余所目にも嬉しい芸術への精進である。
  『赤坂の兄さんと二人で、お父さんの所へ挨拶にゆきましたが、あの道行春の富士も、それからあのうつぼ猿も、恰ど今から五十五年前、京都の友次郎さんから習うたもの、それを今月同時に兄弟が舞台へかけるといふのは不思議な事やといふとりました、五十五年前といふのは、恰ど兄さんが生れた年だつたから覚えてゐるといふ話です』と、これで猿之助師のお年が五十五歳といふことになるが、そうは見えない高座振り、さてもお若い事である。
  『うつぼ猿』は踊りがあつたのでおもしろおしたな、どうも素では前が少し淋しいやうですから……』と芳太郎さんの話。いろ〳〵の話の中に、ふと傍のお客様、後に伺がつたが松浦中将閣下であつた漫声さんに気が付いて『何ぞ一つ聴かして頂けませんか』と水を向けると『イヤ、僕は自分が演るより聴く方が好きで……どこへでも聴きにゆきますよ』とある。
  温顔に微笑を湛えた芳太郎さんは、立つて床の間から五六冊の丸本を取出して来る、新らしい製本の、表紙に『大岡美政誠忠録』とある『へーえ、これは?』と訊ぬるまでもなく、師匠は又た別の薄い横綴ぢの小本を持出して『これですが、これは私が日本橋の夜店で、ふと見当つて、たしか、三十銭かそこらで買つて来たものです。お父さんに見せたらふうむ、これは珍らしいものだ、東京で出来たもので、何やら判らぬやうになつてはゐるが、ちやアんと節付まではいつとる、と申しまして、それから丹念に清書をして、私共にもわかるやうに残らず朱を入れて、この十二段つゞきの丸本を完成してくりやはりました。』『へえい、それは大変なお骨折ですな』と小本の方を拝見すると、それは、明治七戌年九月新作とあつて「松旭斎琴山著作、曲節付絃手付鶴沢国平』とあり、更らに朱印で「鶴沢勇糸」と捺してある。段々開いて奥の方を見ると、当時其筋へ上演許可の願書があり、この新作者、曲節者共に同一人であることも明らかで、又たそれが許可になつて外神田代地の結城座で大入叶、五十一日間打続けたといふ記録まで付いてゐる。これを語つた太夫三絃の名もすつかり書いてあつて、綾瀬太夫、清八、岡太夫、語助、相生太夫、弥三郎、和国太夫、松花、和泉太夫、松雨斎など当時知名の大家連が名を連ねてゐるのである。内容は例の歌舞伎には時折出る天一坊の大岡さばきなのである。
  『斯うしかし、全部が立派に節付まで出来上つて見ると、一ぺん舞台にかけたくなりますね、どうです此次の豊沢会へ一つ持出して見るのですね』と云ふと、最前からしきりに、その本を見てをられた松浦さんは『いやこれはおもしろい、この場割がおもしろいではありませんか、ね、この三段目、宝沢師を毒殺し逃去る段、老女お三切殺しの段、逃去る段などはおもしろいね』といふ。芳太郎さんも共に笑ひながら『ま一ぺん、よく読んで見て、おもしろい処があつたら、一つ演つて見ませうか』
  もうお稽古の方も見えさうにない。松浦さんもどりやとばかりに帰つてゆかれる。ふと床の間を見ると、唐木造りの大さな見台がある。おゝ、横綱大錦事細川卯一郎氏が稽古に来るとは予て富取さんに聴いてゐた。これがさうかと、師匠に訊ねる。師匠はこれを前へ持つて来て『どうです大きなものでせう。これは如何です。』と例の尻しきを出して見せる、それが我々の曲彔ほどある、大げさに言へば椅子の代りになる。成るほどお関取のお道具である。『此頃、見えますか、一度大錦関のお稽古なるものを聴きたいものですね』『どうもいつお出でになるか、詰めて見える時には五日も一週間も続いて見えますがね。浜町のお父さんの処で稽古をして私の処では、それを浚へたり、古いものなお浚へになつたりするのです』『よつぽど沢山上げてますか』『イヤ、四五段のものでせう。すしやだとか、陣屋だとか……いえ、高座ではまだあんまり語られません。もつと出来てから、といつて……』『よく方々へ聴きにはゆかれるやうですね』「さうでせう、何分御商売もあつてね、細川旅館の御主人ですからね』『ふうむ……是非、其内お稽古を伺ひに来ませう』『どうそ……何時でもお閑の節……あ、並木倶楽部の浄瑠璃研究会へ頼まれましてね、二十二日です、どうぞお閑でしたらお遊びに、へい朝見太夫の日吉を弾きます』『朝見といふ人はまだ若いやうですね』『えゝ、朝太夫さんのお弟子で、小供の時からの太夫です』『どうも大層長いことお邪魔を致しました。』『いえ、何のお愛想もなくて……今日は閑ですから、何ぞ一つお聴かせ下さいませんか、どうです一つ、何ぞ……』『いや、どうも……』『ね、如何です?』『どうも、それは困ります……』
  この問答やゝしばらくあつて、傍から富取さんが又た盛んにヤレ〳〵とケシかける。昔二三段稽古したものゝ、すつかり忘れてゐるが、さて斯ういはれると、一つ怒鳴つて見たくもなつて来る。思ひ切つて羽織を脱いだ。『大功記十段目』
  あゝ、好い恥さらし約三十分、大汗をかいて匆々に引上げる。(黒顔子)
 

  稽古見台(3)39:18-20 1932.9.25
  震災前から居据つて
   ◇豊沢猿蔵さんの御稽古大勉強
 
  九月のある日。図らずも主幹の芳河士さんを訪ねて雑談の末、猿蔵さんを襲はうかといふ話になり、出懸ける途中、日本橋の湯原清司さんのお店へ寄ると、恰度、これから猿蔵の処へ行く処だとあつて、では御一緒にといふ事になり、カキガラ町のお稽古所ヘタクシーを飛ばしたのであつた。
  格子をはいると左り手の三畳、置床には何やら品の好い白い花が形よく活けられて、奥六畳との楣間には、名人松太郎師の「橋弁慶」の歌詞に、朱の節付をその侭額に、そこには大嘉津さんが、浴衣に着替えてキチンとお稽古の順番を待つてゐられる。
  二階では冴えた撥音で、美声のお稽古、富取さんが「箕浦其甫」といふドクトルだと教へて呉れる。清司さんは『どうもお稽古も毎日やりたいが閑が無いのでね、ちよツと位は繰合はせの時間の無い事はないが、此処へ来て、もう二三人待つと二時間やそこらは直ぐに潰れてしまうので困る、箕浦さんだつて、お医者さんだから、この長い時間を潰しては困るだらう。』と自身に引くらべて、お医者様に同情される。素義の御連中にお医者様はかなり沢山あるやうだ。患者の往診を遅らしてゆツくりしたお稽古は気が気であるまい事はよく解る。
  済んだらしい。洋服姿の箕浦さんが二階から降りて来る、浴衣がけのお師匠さんが後から降りて来る「やア好うお出でゞ………先日は……」と御挨拶。「その侭でお稽古でしたか」と清司さんが箕浦さんに。「えゝ」とカラの廻りをちよツとハンケチで拭く。
  お次、大嘉津さんの番を清司さんに譲る。最前の待つ間の閑潰しといふ愚痴話が利いたのか。護り合つた末「では……」と清司さん着替へるのも面倒と脊広の侭で二階へ上る。箕浦さんは黒い革嚢をさげて帰つてゆく。
  夕景になつて来た。
  一日の仕事を付けて、ゆるりとやつて来た稽古熱心の大嘉津さんは、尋ねに応じていろ〳〵と研究の苦心を語る。
  「此処へ来るまで、今、伊豆の下田に行つてゐる松市郎といふ人に手ほどきをして貰ひました。どうも上るりは難かしいものですねさうです。昨年の春からですからまだ一年と少しにしかなりません。新まいです。此処の師匠は随分八かましいですよ、人にもよるでせうが、私などは何遍も何遍も直されて、それがどうしても出来ないで苦しんでゐます。大抵一順して仕舞うと師匠は三味線を置いてしまうのですが、私の時は、前の方のその箇所々々を何遍でもやり直しです。可いですねその方が。今「弁慶」です。いつも弁慶のやうですが、漸く近頃奥の段切りまで上つたものですから、今月の「松屋」で又出さして貰ひました。殆んど近頃は一日も休まず参ります。」
  二階では、清司さんの「忠六」が初まつたやうである。これも身振入り東都義太夫会の二日目の出し物になつてゐて、前の『母はあとを見送り〳〵』から猟人どもの『立ち帰る』までを、久し振りに語る筈なのでのお浚ひとある。大嘉津さんは。「本下」を稽古して「太棹」の「うろ覚え」にあつた解説を読み返しては研究的にやつてゐるなどゝ話される下田へ行つた先師松市郎氏の思はしくなく、又東京へ引上げてくるかもしれぬといふ消息など雑談に移つてゐる中に、約三回ほど繰返して、汗だくになつた清司さんが二階から降りて来た。
  『どうも、こんな事なら浴衣に着替へればよかつた、ワイシヤツがグツシヨリだ」と大苦しみ、忠六でこんなにいぢめられやうとは思はなかつたのであらう。これから「松屋」の身振りに出す「先代」の御殿を浚ひに、どこかへ行かねばならぬと、お道楽も大抵の事では無い。
  この間にちよツとと、二階のお稽古場へ推参する。見台、三味台、型の如く、風通しのよい六畳の間、次の間の三畳を一畳だけ板の間にして明け放しての九畳を忌んだそこには「豊沢猿蔵さんへ」と大きく三尺の壁一ぱいの、楽屋暖簾が掲つてゐる。師匠の後ろ楣間には葉室伯爵が猿蔵師に贈る所の達筆の額面「いやどうも、ようお出で下さいました。へい、大正の初めからですから彼是、二十年になります。震災でやられまして師匠の処へ逃げ出しまして、又この元の古巣へ、へい、どうも御連中さんの御馴染で代られません。狭い所へ、何せ明き地のない場所、此の上は三階建にせねばなりません。へい、午前中からお稽古に見えます。商売人の方もありますがイヤ中々骨の折れます事で………。
  「大分世の中が違つて参りましてな、私等も若い時分、稽古をして貰ひます折は、立派な三味線弾にならにやいかん、稽古屋商売に落ちたらならん、とよう師匠に言はれましたものですがね、それが師匠はじめ稽古屋ですからな、どうも拠どころございません。左様十四五年、二十年前の、お素人の中には、立派なお上手な方がありはありましたが、何人と数へるほどで、以下はどうもほんのお道楽にさわりでもやらうかアといふ人が多かつたやうですが、当節では中々、皆さん熱心にお稽古をなさいますので、立派な方の数が非常に多くなつたやうに思ひます、稽古屋の師匠連も数がふえてをりますから、御連中の数もふえてゐる道理ですね」
  と、それから文楽の新作上るりの話や、何かいろ〳〵あつて、お稽古のお邪魔と気がつき、そこ〳〵にしてすべり出ると愛想の好い師匠は下まで送つて来られる。日がとつぷりと暮れて、下には電燈が輝き、そこには須賀一鳳さんが、十二日の松屋ホールで「赤垣」を聴かせる下稽古とあつて浴衣姿に、お陽気な話がはづんでゐた。
  「唯今ツ」と十ばかりの坊ちやんが裏口から帰つて来る。この坊ちやん猿蔵師の秘蔵ツ児いさむさんといひ、尋常三年のいたづら盛り、ゆく〳〵は大きな太夫さんにならう、仕やうと、もう此頃ではお師匠さんが、ぼつぼつと見台の前へ据らせて、手ほどきが始まつてゐるといふ。
  「いや、とてもまだ芸の欲なんてありませんから、それに学校がありますし、又自分の宅ではお稽古は出来ません。いづれ、も少し経つたら、どこぞ外へ稽古にやらうとおもつて居ります。お稽古ですか、へい、まア端物からとおもひまして、いえまだ、二つばかりやらして見ました。寺子屋の「寺入」と太功記の「夕顔棚」いやどうも物になりますかどうですか、別に本人が好きとか嫌ひとかいふ腹にはなつとりません。十銭貰つて自働菓子器へかけ出すんですからね」
  と、本人はキヤラメルか何か持つてニヤニヤ笑つてゐる。
  清司さんはいつの間にやら姿を消して、大嘉津さんと一鳳さんが御酒の御噂、ウ井スキーの角瓶を生地で一本明けて足腰が立たなくなつた話や、六合入のビールのジヨツカーを二十個平らげて酒場を驚ろかしたといふやうな、そら恐ろしい話に、カラ下戸の拙者、唯驚ろきの眼をみはりながら、富取さんを促がして退却した。(黒顔子)
 

  稽古見台(4)40:21-22 1932.10.25
  豊沢猿平師を囲んで
  五十義会を前に賑はう一夜
 
  水天宮でバスを乗すて、富取さんに案内されて、蠣殻町の師匠のお宅。ゆかしいデーンといふ音〆が聞えるので直ぐ判る。
  物慣れた細君のお愛憎の好い、二三の催ほしで拙者も見知り越しの方『先日は失礼』とばかり、二階へ上る。見台の向ふで、今、新口を美音で浚つてゐられるのは、御年輩の、それは秋山ゆたかさん、聞く所によれば、猿平師匠の可愛い御子息、民之助の松亮さんな眼の中へ入れても好いといふお祖父さん。
  お稽古の六畳から二畳の一間を隔てた四畳半、唐木の卓を囲んで富取さんと拝聴する。見上る楣間、浜町の老師匠松太郎さんと、赤坂のお師匠さん猿之助氏の引延ばした写真の額面、お稽古本を幾十冊と入れた書棚の上には大きなキユーピーさんを真中に、可愛らしい虎や、黒猫やの飾りおもちや、置物、掛軸品よく、整然としたたゝずまゐ。
  『新口』が切れると、今度は本を探して『日吉』の三。「散る花の」から「胸の底意を」まで恰ど二十分程度、お政のさはりは勿論、五郎助のかげ腹など結構なお稽古と思ふ中、下から細君が上つて来て「新口の方が好いわ」とおつしやる。『さア、日吉の方が楽ぢやがなア」「新口にしなはれや」など師匠と三ツ巴の御相談。これは誠に、今度の五十義会御出演の出し物撰定と直ぐに解る。どうやらゆたか老の出し物は『新口』に決つたらしい。
  その少し前、中道素鶴さんが見えて『今日は風邪気でお稽古は休むが……』と来てゐられる。素鶴さんは人も知る五十義会の重鎮、西の大関の地位を占めて、先日の並木の会でも、「忠九」を大切りに語られて定評ある人。『いやどうも忠九などトテも出来んわ、先達而の太棹の並木の会で二日ともとツくり聴きましたが、自分の力以上の重い語り物を語つた人の功果は皆な良うないわ、誰れの何がとは言はれんが、軽いものをやるに限るとつく〴〵考へさせられました』との述懐。
  稽古台をはなれて師匠がやつて来る『忠九の評判は如何でした』『評判て別に聞かん』『イヤ、お友達の……』『友達の評判なぞ、皆なお愛憎の、お世辞やからあかんわ、ほんの批評を聴かしてくれる人は無いからな』『それもさうですかな』素鶴さんはとにかく、大関の地位を維持すべく、今度の五十義会出演に就て出し物の忠九に就て、非常に神経を悩ましてゐられる事である。
  叶太夫、角太夫など日本一の審査員を態々大阪から迎へての曠れの本場所、次の番付編成といふ一件だから、地位があればあるだけその心配も一通りで無い事はうなづかれる。ノホヽンではゐられないのである。それに問題は時間制限の一事である。素鶴さんの場合にしても、忠九を二十分以内で何が語れますか、何が聴かされますか、とそれは真剣に、向きになつてこの心配である。御尤な事である。
  そこへ、五十議会の常務理事として、番組の編成その他で今日も理事会を開いてゐたといふ近藤すみれさんと、青山翠谷さんがドヤ〳〵とやつて来られた。そして、そこで、先づ素鶴さんの忠九時間制限問題で一論議が持上る。三十分はやらねば、といふ素鶴さんと役員として会の規約を破る事は絶対にやらされぬ、といふすみれさんの強硬な純理論、師匠も中へはいつて、ニヤ〳〵とこれはこまつた形ちの、又た双方の意見を納まる所まで納まらせやうといふ意見で、とかうの意見も吐かずに聴いてゐる。双方は時に、大声になつて論争する。はじめてこんな場合に出会つた拙者は、唯だもう呆気に取られて聴いてゐる
  三味線屋が、張り替のお道具を持つて来る師匠は稽古台の方へ立つて、駒をしらべて調子を試みる。拙者もちよつとその方へすべつて、床がけ、額面など拝見をして、坐り込む。下から御曹司松亮さんも御自身の三味線を抱へて上つてこられる。音色の調べは中々大変なものである。
  あちらの部屋では、尚ほ双方相譲らず、同じ事をくり返しての論戦火花を散らしてゐる「あの向うの湯屋の角からも聞えますよ」と松亮さんが笑ふ。細君も上つて来て、何やら時々御口を出される。ゆたか老人も上つたり下りたり、坐つたり立つたり、にこ〳〵とこれは至極の温和派。
  床の間に大弓のお道具一揃へ『師匠、弓をおやりですか』『いえ、せがれが身体が弱いので、少しやらせたりしてをります。へい、恰ど二十歳です。』『さうですか、はア……』論争尚ほ止まず。調子合せも容易に片付かず、少し手持不沙汰になつて来る。富取さんは、その論争の渦の中に、興味ありげに不動の姿勢を取つてゐる。
  調子がほゞ合つて三味線屋さんも帰つてゆく。どうなりゆくかと思つた時間制限論議も少しく静まつた形ち、二十分以上やれぬとあれば、おれはプロだけ出して当日出演せず、といきまいてゐた素鶴さんも、どうやらおとなしくなつたやうです。
  「先生、驚かんでもよろしいのです。あれで唯の話しなんですからね、大きな声を出すもんで………」と師匠は笑ひながらいふ。「青山さんがちよつとお稽古ですつて」と細君の声に、師匠は三味せんを取り直した。
  論議ケリが付いて翠谷さん、洋服を脱ぎすてゝ浴衣に着替へ、五十義会当日の出し物、伊賀越五つ目『饅頭娘』のお浚ひ、堂々たるものである。約二十分。二三ケ所肝腎のイキを直される。やり直し結構、納得がいつて満足及第と拙者も自分の事のやうに謹聴し了つた。
  「お師匠さん、忠九を二十分でやるには、どうしたら可いだらう」と素鶴さんまだしきりに神経を悩ましてゐる。師匠は本を出して、いろ〳〵と工夫する。すみれさんと翠谷さんは、尚ほ会の出演者勧誘及び出し物決定の為め奔走すべく、伴れ立つて帰つてゆく、見台を挟んで師匠と素鶴さんが『九段目』の本をひろげての研究開始。富取さんを促して我れ等もやがて腰を上げた--。(黒頭子)
 

  稽古見台(5)41:12-13 1932.11.25
  横浜への出稽古
  ◇……鶴沢燕作さんのお忙がしさ
 
  ふらりと、燕作師の御新居を訪づれる。神田鍋町の大木五臓円本舗の裏通り、下駄や靴が幾つか揃へられてゐて、二階にはデンともツンとも言はない。
  『サ、どうぞ』と美くしいお神さんの案内で通つた控への間、紫檀の角机を囲んで、高座では先刻承知の西田可松さん、佐藤和洲さん、丸い瀬戸火鉢に寄りかゝるやうにして話し込んでゐるのは、これも先頃長局か柳かを拝聴した御年輩の御婦人横浜の三木子さんである。稽古台の方に師匠の姿は見えない。
  可松さん首筋の繃帯を取つてベツタリと貼つた真黒な膏薬『まだどうも痛んでならぬ、当分は高座もお休み』といふ、今夏北海道へ遊びに行つて旭川から何里とかの山奥に紅葉見物に行つた自動車でグワンとやられた遭難事件を一くさり、その物語りの最中に、階子段に人声がして上つて来たのは燕作師匠と洋服姿の本城冠之さん。何かの御相談……軽い挨拶の、直ぐに見台へかゝつて絃の調子。
  『では一つ……』可松さんが押し直つて開いた本。先づお稽古が一つ聴かれると居住ゐ直して謹聴す。「……人の出入は止むれど、秋を告げ来る風の声……」ハテ何だらうとおもふ中「すだく虫さへ物凄き、我が本城へ我ながら、心おく露踏分けて・・…」あゝ八陣だなと持つたる煙草に火を点ける。
  こと〴〵くの美声、語り進んで御約束の「其お心とは露しらず、都でお別れ申してより」のさはりの一節『好い声だね』『うーむ』と冠之さんと和洲さん、詞などもしツかりと結構なもの、正清が現はれる、鞠川が出る。『忍びに名を得し鞠川よな、首引ぬくは安けれど』と正清の大音声、お稽古だけに気組だけ入れての中音、それも可しなどおもつてゐる中『離れ難なき女気は哀れにも又……』でおしまひになる。
  『さアお次……』と師匠の呼ぶ声、和洲さんは『わしやけふはやめる、あんたどうや』と冠之さんへ『僕は四時に約束がある、もう遅いわ、けふはやめとかう』とこれも時計を出して見る。可松さんは繃帯を巻きに下へ、三木子さんも下へ行つてお神さんとお話し中
  師匠は立つてこツちへ来る。楣間にかゝつてゐる額面は冠之さんの寄付になる義太夫お浚ひの戯画、落語の「寝床」そのまゝの……おもしろいもの、話は昨日並木倶楽部の評などに入つて桔梗氏の「沓掛」の好かつた事。『ちよいとあんだけに語る人おまへんな』『さよ〳〵』など上方弁の可松さんと和洲さん。師匠も星野氏に就て話される『とにかくあの方は寺子屋とか河庄とかお得意のものを別にして、沓掛程度のものなら、何でも語られます、六七十段もありませう、それがちよつと真似人がありませんな、ついにそれが合はせること無しにやつて退けるのですから豪いものです、それでも此間電話があつて、一度行くよ、何せ十何年もやらんものだからと、あの沓掛は一度合はせに来られました』と。
  僕も星野さんとは新富町の猿屋時代、二十年も前からのお馴染なので、桔梗氏と文士劇との関係などしばらくは話が続いた。冠之さんはもじ〳〵と、最前からの御相談のケリをつけねばならぬらしい。それは燕作師の師匠勝鳳さんの七十七のお祝ひの件であつた。此の際年末、殊に納会月ではある事とて催しは預かる事にして、同門で心ばかりの祝意を表さうといふ燕作師の発意から、段々と話がこぐらかつて来たらしく、今はちよつと見合はせうかとまでなつてゐるらしい。太棹誌へ勝鳳師の写真を出して貰はうといふ富取さんへの話しも今少し待つて貰ひたいといふやうな話になる。冠之さんは此の事に就て諸方へ斡旋の労を執つてゐられるらしく、まア〳〵も一度話し直して見やうと、アタフタとその日は立つて帰られる。
  可松さんも帰る、和洲さんもいつの間にか消える。二階には師匠と僕と富取さんの三人ぎりになり、雑談から雑談へ、燕作師は生粋の江戸ツ児で、本所生れといふ事から、話は震災の時に移つて、例の被服廠へ逃げ込んでの命拾ひの一段、今度此の鍋町へ引越したのは一つは今までの処の近所がゴミ〳〵しておもしろくなくなつたのと、横浜へ出稽古に行くについて神田駅の近いので便利な為めとであるといふ。
  『つい、此処から電車へ乗りますと一時間ばかり、睡眠不足補ひの為めの居ねむりが出来ます。それから又たあちらの電車でこれも二十分も磯子園まではかゝりますので、よく眠られます』とある。
  『この横浜行きがありますので、此頃はこちらのお稽古は皆さん早くなりました、帰りますのは大体終電車です、ですから寝ますのは二時三時になる事がまゝあるので、どうも大変です……』と。そこへ下から三木子さんが上つて来られて、横浜ゆきの御催促です。『や、おまたせしました、そんなら御一緒に参りませう……』と我等も恰ど潮時で『さらばお暇』『師匠の好い男に撮れた写真を一つお借りしたいが……』とそれから下へ行つてお神さんが探し出したのがカツトにした燕作師匠!
  『大分古いやつですが、此の頃は大層売れたものですよ』
  『といふと今はサツパリ売れないやうですね』
  『もう今はどうも……』
  割烹着も丸髷もよく似合つた若い美くしいお神さんは、唯だにや〳〵とほゝゑまれる。
      (黒顔子)
 

  稽古見台(6)42:13-14 1932.12.25
  花輪を飾つて納まつた巴津昇さん
   ◇…宝蔵寺天昇君独占の師女匠
 
  本社主催、松屋の十二月身振入の義太夫会に、口の永楽さんと切りの天昇さんを弾きまくつた竹本巴津昇師を、四谷三光町のお宅に驚かさうと、同行二人、社の芳河士君と一人は拙者黒顔子。
  内弟子の姐さんに案内されて通つた南向きの御座敷、紫檀の大机を前に、床の間を後に天昇氏『見えるといふから昼頃から待つてゐた』と先づ歓迎、三つ重ねの箪笥の両側に、造花の大花輪を二つ飾つてその前に巴津昇師『さア火鉢の方へ』と大きな瀬戸の火鉢、煉炭をいけて大やかんにお湯もたぎつてゐる。
  話は先づ松屋ホールの事から始まつて『あの晩君、猿蔵や猿三郎や四五人で呑みに行つてね……』と天昇氏の御旺ンな事一くさり、永楽老人に就て『あの人は今日帰つてしまつたよ(八王子の在から時たまお稽古に出て来るといふ)何しろ八十何歳の年寄、十六の時から義太夫を初めたといふから六十年もやつてゐるんだから豪いよ、とにかく好きなんだね、義太夫さへ語つてゐれば嬉しいんだ、もう、孫や曽孫もあつて……』
  『時々出て来ると、宅に泊めて上げて浚つて上げるんですがね、とても喜んで帰るんですよ』とお二人の話『どうも八十幾つになつて日吉でしたかね、あれだけしつかりやるのは豪いですね』『さアそれだ、彼の人の健康なのも、この義太夫の徳なのだね、要するに義太夫は思想善導は勿論、健康上最も好い娯楽の一つだよ、今時はやる変な新らしいものは、直きに廃つてしまうよ、この伝統的な芸術を保存、向上させる事は実に必要だとおもふよ僕は最近始めたのだが、今度九州の郷里に帰つて、空前絶後だといはれた両親の追善義太夫の盛況など、僕は斯道にカンフル注射をして来たと思つてゐる、事実、俄かに稽古所が出来たといふほどの騒ぎでね。』と今秋氏の帰郷談がしばらく続いた(口絵並に記事参照)『お師匠さん、私はけふ、お稽古を聴かうと思つて伺つたんですがね……』『妾、お稽古は今止めてゐるんですよ』『あゝさうですか、表にも義太夫稽古所といふ看板も出てゐるし、……へえ--』『君、僕と、寿昇さんと永楽……まアほんの已むを得ないものばかりやつてゐるんだよ、その代り君、僕が……』『天昇さん、あなたはいつ頃からお始めになつたんですか』『いや、まだ君、今年の二月からだ』『二月、今年の……へえ』『弁慶と玉三と、瀧と、今寺子屋をはじめてゐる』『やどうも驚くべき急スピードなんですね』『その代り君、人の三年や五年やつたのと同じ勉強だよ、一日に三時間も、どうかすると、五時間もぶつ続けに稽古するんだ、此間なぞも君、どつちが先へまゐるかつてやつたら、師匠の方がへたつちまつた位、僕はもう、一度聴くと直ぐ声を出して了う、それから直して行くといふやり方なんだ』『へえ、どうも驚ろいたなア』『舞台度胸だね』『大胆不敵なんですな』『左様大胆なんだ、直ぐ高座へ上げて了うんだ、此間も、もう寺子屋を駕籠まで高座へかけたよ、桔梗氏の後だらうが三芳さんの次だらうが、何糞つてんだからね、来年は五十義会へ出やうと思つてる、審査員も先輩も眼中に無いんだから平気でやれるよ、呑んでかゝるのだからね』『成るほどね、大した勢ひですね』拙者は勿論、芳河士君もその怪気焔に大分当てられる。巴津昇さんは、慣れたものらしくニヤニヤと、五寸に七寸位の刺繍のお手すさび、一富士、二たか、三なすびの図案、誰の紙入の表になるか、針の運びの鮮やかさ。
  また春永にゆるりと、その猛練習のお稽古振をうかゞはうと、二人は退散『君、年賀の広告ね、一頁だ、上へ謹賀新年として「巴津天会」と横に、下へ宝蔵寺天昇と竹本巴津昇と並べて、ワキへ事務所を小さく…頼む』…
  芳河士氏唯々として『左様なら』
         (黒顔子)
 

  稽古見台(7)43:25-26 1933.1.15
  アルバムを引合つて最近の舞台写真
    野沢道之助さんのお稽古場
 
  浅草の松屋のホールで芳河士氏を待合はせ公園裏の道之助師を訪れたのは、もう彼是四時がらみであつた。
  『ちよいとそこまで出ました、直ぐに戻ります、どうぞ二階へ……』と愛想の好いお神さん。そこには平常着の可愛らしい芸妓衆、キヤツキヤとはしやいで、ドヤ〳〵と一緒に上る。
  長四畳と奥は六畳のお稽古場、真中に見台を据えて、大型の座布団が向ふ前にキチンとある。床には紙装ながら美事な筆蹟に、万葉仮名の三十一文字。
  三味線を胸にてひけよ手にひくな、ひけよひくなよ心すなほに
    七代目野沢吉之助とある。先代吉兵衛の高足で、今神戸にゐる道之助師のお師匠さんの筆といふ。
  お師匠さんが帰つて来た。話はすぐに、暮の宮戸座の忘年演芸会となつて、先づアルバムに貼り込まれた舞台の扮装写真を拝見に及ぶのであつた。拙者もその三日間の楽の日に見せて貰つたのであつたが、何を申せ「山姥」「鈴ケ森」「陣屋」「河内山」「実盛」「黒手組」以下、見どりに十二幕といふ盛沢山なので、無論全部拝見は出来なかつたが、道之助師を中心に、太棹御連中の平井栄さん、細川清さん、それから浅草芸妓のかきつ、筆助、綾春、八重吉なんど、音女会の一騎当千組出演とあつて、大層な景気であつた。
  この御連中当日の演し物は、菅原の四段目安達の三、野崎村と何れも得意のデン〳〵物「野崎」では今売出しの女義越道さんが団龍の絃で出語り、道之助師の久作が大層な評判あとは女優ばかりで好い心持さう、平井さんが駕やにつき合つたりして大愛嬌、「安達」では綾春さんの袖萩にお君は師匠の愛嬢すみ子さん、八重吉姐さんの貞任に、筆助さんの謙杖、かきつさんの浜夕などの腕揃ひに、平井さんが宗任を、道之助師が八幡太郎で真ツ白に塗つて納つたりな。師匠は愛嬢の前記すみ子さんの外に、弓子さん、ゑつ子さんなど三人の女の子をメンバーに入れて出演させるといふ大騒ぎ「とても全たく大騒ぎでしたわ」と神さんのやゝ思ひ入れもあつての述懐、イヤ御盛んなお道楽ではある。
  拙者も拝見したが、中にもおもしろかつたのは「寺子屋」であつた。三日目千秋楽の日幕が明かうといふ間隙まで、待てども〳〵源蔵になる細川清さんが顔を見せない、それこそ楽屋中は大騒ぎ、どこを問ひ合はせても源蔵の行衛不明である。誰か代りをといふすツたもんだの噂さを聴きながら正面で見てゐると、やがて柝がはいつて幕があいた。直ぐ源蔵戻りである、好いかつぷく『習〳〵』の調子もよく、戸浪が出る、セリフは少々ヨタもあつたが、総てイタについ大出来、素人芝居に急代役をこれほどに演れるのは豪気なものと感心して、あとで聞けば、それもその筈、後見に頼まれて来てゐた本職の役者某。
  『師匠の玄蕃が、引込みに家来まゐれか何かで七三で止まつての例のキマツて大鼓がはいらないからおや〳〵と思つてゐる中に、何やら変テコな三味線のお囃子で、すツてんすツてん見たいな踊りの引込みは、ありやア三日とも演つたんですか』
  『イヤ、どうしまして、殊に当日は相手の源蔵が商売人やさかい、こちらも一生懸命に馬力をかけてな、ヤ、バタリとキマルとお約束の大鼓が打込まれませんや、アレと思ふとると、あの囃子でせう、ヱヽ糞ツと、アンな巫山けたまねを仕てしまいましたんや、何でも楽屋の連中が道之助を困らしてやれと徒党を組んで前から相談しとッたんやさうで……』『さうですか、それはおもしろかつた』と話しはそれからそれと芝居のおもひでゞ尽きない。そこヘフラリとお稽古とも遊びともつかずにやつて来たのは、その日の戸浪をつとめた筆助姐さんである。また話しの蒸返しになつてしまう。
  『細川さんの相手より本職だけに戸浪の三日目は芝居が演り好かつたでせう』
  『いゝえ、それがね、やツぱり細川さん相手でお稽古をしたんでせう、ですからキマリ〳〵が違ふんで妾、困ツちまつてよそれにセリフなんかも受渡しが違ふんでせう、夫婦は突ツ立ちのあすこだつて、けふに限つて寺入りしたは、彼の児の業かツてへのを彼の児の因果かツて言ツちまうんでせう、妾、母御の業かとも言へずね、やつぱり母御の因果か、で因果が重つちまうでせう……』
  『さう〳〵、僕もアヽと思つて観てゐたんだが……』
  と、斯んな話が又たしばらく続く。アルバムを引くり返して古い処を見ると、十九歳とか十八歳とか記して道之助師の若い頃の舞台写真が出て来る。
  『大層古くからお芝居をやつたんですね』
  『へえ、そのすしやの婆アは、そりや大阪の堀江座で、今の米太夫の権太で、それからその時分、それそこにある袖萩もやりましたよ。それから、これは四五年前市村座で。……すしやの梶原、好い顔に出来てますな…』
  『なアるほど師匠は東京へはいつ頃から』
  『へえ、震災後……大正の末でしたかな、御連中さんに呼ばれましてな、ずつと、この浅草にをります。』
  『さうですか……今日は師匠、お稽古を伺はうとおもつて来たのですが……』
  『どうも、春はな、まだ御連中があまり見えません。おゝ一つ御免蒙つてやらうか』
  『えい』
  と立つたのは、私達が伺がつた時から遊んでゐた可愛い芸妓衆、○○やのさくらさんとか『新口』の本と撥を持つて見台の向ふにいそ〳〵と座る。師匠は軽く調子を合はせて直ぐに『落人の為めかや今は冬がれて……』から浚ふのである『ふるさとの新口村に着きけるが…』まで、ほんの紙なら一枚あまり『あたゝめられつあたゝめつ』のくだり二三回返して直される、それでおしまひ、筆助さんは『けふは妾、お稽古やめ……』と、なほもアルバムの写真に見入る。
  かきつさんとは拙者古い顔馴染、シカモ先年舞台で僕の源蔵に戸浪をして呉れた人、今日は見えぬので心淋しいが「よろしく」と筆助さんに頼んで、どうやら日も暮れてゐる。下には既に夕餉の仕度、芳河士氏を促がして匇惶として帰途に就いた。(黒顔子)
 

  稽古見台(8)44・45:33-34 1933.3.1
  超然として鶴沢司好師
   ◇お稽古のひま、話しは尽きず
 
  法施大学の三階をお濠の向うに見て、轟々と省線中央線と市電の騒音を聴きつゝ、我が鶴沢司好師は新見付外のお宅、十畳の間に稽古見台を控へて端座する。
  塞喧の辞義一通り、お稽古も途絶えて、四方八方の芸談に時を移した。
  『春はとかく御連中のお出でが少なうございます。まア二月一ぱいはお稽古屋大ひまです』
  時折は松屋の身振りにも出演される安藤どくろさんも、此春はスキー熱にかゝつてズツとお見えにならず。筆者が予て懇意な鈴木一信君も忙がしいやらとんと見えませんとの事『左様どくろさんは中々御勉強なのですが、いやそれでも私共にお出でになつて彼是五六年にもなりますが、やつと二つほど新規なものが出来たばかりです。最近には志度寺が漸くまとまりかゝつてをります。今度の松屋には多分志度寺が出ることになりませうか…』
  『師匠はいつ頃から東京でお稽古を…?』
  『私?へえ、明治二十二三年頃からで……少しは席へも出てをりましたが、まアずつとお稽古の方ばかりでした。しかし、私は最初から御承知の杉山先生(茂丸)の御連中に特別の御縁で……従つてお仲間のお付合ひはあまり致さなかつたのです……杉山先生の方の会が彼アいふ風に中絶しましたので、此頃は時々皆さん方とお付合をして諸方へ出るやうになりましたので……』
  『杉山さんも、どうも大分身体の工合がね…』
  『さア、困つた事で、でも御年の割には……もう七十ですからね……元気な方で、あの眼の方も其中療治をして癒すのだといつてゐられますが、昨年の暮れでしたか、久し振りに語つて見やうかと私が弾きまして一段お語りになりました。』
  『ほう、さうでしたか、僕も先生のは、もう大分前の事だが築地の聖路加病院で、福島行信さんや何かと一緒に伺がつた事がありましたが……』
  『左様々々、聖路加ではよう催しがありました、私が弾いてをりました。此頃平山蘆江さんはおやめになつたのですかね。』
  『あゝ、平山君?平山君は僕も懇意にしてゐるが近頃はどうしましたかね、良造さんで…』
  『へえ、良造さんで、いつやら杉山先生と一緒に語られましたが、あの位の方でも、杉山先生の前では堅くなると見えまして、大層弱つてゐられました、杉山さんも、君、さう堅くなつては可かんなと言はれまして、平山さんもどうも大抵図々しいのだが、杉山先生の前では困つた〳〵と大笑ひな事がありましたよ』
  『はゝア、それはおもしろかつたですね』
  『よく、文士方でも義太夫をおやりになる方がありますね、あの三宅さんは近頃やはりお忙がしいのですかね。』
  『周太郎君ですか、あ、あの人は私の知つてる時代に『合邦』なぞを稽古してゐたが、こちらへお稽古に来てゐましたね、四谷の時分に……』
  『へえ、でもほんの半年位でしたかな、お忙がしいと見えて……忠臣蔵の四段目をお稽古しましたが、半歳経つて、とう〳〵一度も声を出さずにしまはれました……』
  『あゝさうですか、イヤ、それが本当かもしれません、あの、直ぐ声を出して、それから直して貰うお稽古の仕方と、十分に聴いて腹にはいつた処で演つて見るといふやり方、どつちが好いですかね、僕なども昔、ちよつと稽古をした事がありますが一段上げるのにどうしても一年はかゝりましたが……』
  『イヤ、充分腹に入れてから声を出す方が好いととおもひます、まだ覚えきらぬ中から声を出して、それから直すやつは、どうも、さう一句一言、あアでもない、さうではないと直し切れるものではありません、ですからついまア〳〵といふので、其のまゝ通してしまひますと、もう、それで固まつてしまひますから困ります』
  『さうでせうね、よく二タ月に一段上げたの三月もかゝらなかつたといふのがありますが中々さう覚えられるものではありませんからね……』
  『イヤ、しかし、覚えのよい方は随分早い方があります。宅へお出での一信さんなどは、早くよく覚えられる方です、あの兄さんの一朝さんは又たお早い方でした……』
  『一朝さんは大層お上手だといふ事ですが、ついに一度も伺ひませんが……』
  『近頃ズツとおやめになつてゐますが、また其中にお始めになりませう』
  『さうですか……杉山先生の力を入れてゐられる素女さんが、こちらへお稽古に見えるさうですね』
  『へえ、素女さん、時折見えます』
  『やつぱり浚ひに来る訳ですか』
  『イヤ、新規なものもこしらへられます、感心な人ですよ』
  『はア、昨年でしたね、飛行館で、あの御所桜の四段目などの封切りがありましたね。』
  『えゝ、アレも私共でこしらへましたもので熱心な人ですからね、杉山さんは熱心は人なら可愛がられるのですね、素女さんの贔屓になるのも、アノ熱心からなのでせう』
  『成るほど、さうでせう』
  話はそれからそれへと限りもないやうに続いた。そこにあつた文楽座二月興行の番付から又た古靱太夫をはなれた清六の事なども出て、見上ぐる楣間に、山水の額『翕堂生』とあるは、司好師のお連中の一人が近年始められた筆のすさびとか、どうも上るりよりも絵の方がといふ評判もあつて、御当人は納まるまいとおもふとをかしい。額については尚ほ稽古本を書く近頃の銘筆かつら氏が細字で太功記十段目を丸一段、一枚に書き上げて朱まで入れた立派な金表装の大額があり、それの由来に関するいろ〳〵の話があつて、けふは遂に肝心のお稽古が聴かれずしまひ。
  『ある一定の時間、斯うしてお宅にゐられるのは、聊か御退屈な事でせう』と同情すると
  『さア、此の間に、何か調へ物でもすればよいのですが、中々そんな事も出来ませんで……』と苦笑の体。
  『どうです。その間に絵のお稽古でもしては……』『さやう……』
  こんな話で日もとつぷりと暮れ切つたのでお暇まをする。(黒顔子)
 

  稽古見台(9)46・47:29-30 1933.5.15
   商売繁昌の猿三郎師
  ◇保々長平さんの『岸姫』を拝聴
 
  或る日の午後、ふらりと京橋の猿三郎さんを訪れる。
  『やアこれは……』と迎ヘて呉れた師は上の坊ツちやんを膝から下ろして『恰ど今帰つた処でした』
  『それは……どこへ?』
  『今日は歌舞伎座へね、若柳吉蔵さんの三番を巌さんの……』
  『おゝ、舞踊大会ですね、あゝなるほど(番組を一見に及んで)猿蔵さんと二人で、初ツぱなですね』
  『えゝ、早い処で……長平さんが見える筈だもんですから帰つて来ました』
  『さうですか、景気は?』
  『大した入りです、をどりなんてへものは大層盛んなものですね。』
  『赤ちやんは丈夫ですか』
  『へい、お陰さまで……』おとなしいお神さんは、いつもニコ〳〵してお出をすゝめられる。
  『二人とも達者ですね』
  『えゝ、お乳がないもんですから、相変らずしなびてますわ』
  『さうですか……』
  『今日は又、何と思うてようお出で……』
  『あはゝゝ、いつやらは新潟行でしたね、誰々でしたツケね。』
  『港さん、猿平さん、都さん、仙十郎さん、東太夫に私、岬太夫に松亮さん、それだけでした。』
  『やッぱり花柳界が働らいて呉れたでせう』
  『えゝ、大分骨を折つて呉れたらしいです』
  『お土産話を一つ聴かうとおもつてね』
  『いやどうも……』
  お神さんが『何でも一人で取仕切つて来たらしいのよ』と口を入れる。ちよつと話しが途切れた処へ表から、長平さんが……忙がしさうに、直ぐと二階の稽古場へ上つてゆく。°ふと、そこにあつたプロを見ると、翌二十九日の夜、松尾倶楽部で米翁師と猿三郎師との催しがあつて、長平さんは『岸姫』を、巴仙さんが『盛綱陣屋』を語られる、その練習であつたのだ。
  『一つ伺はしてもらひませう』と火鉢を抱へて二階へ上り、次の間の三畳に丸くなつて拝聴する。
  『あとに藤巻……』から段切りまで、何の故障も無く、充分にやつて退けられる。この頃ちよい〳〵聴く素義の先輩方では、数に於て桔梗氏の多いのに次では恐らくこの長平さんであらう、聴く度毎にだしものが変つてゐる
  長平さんは語り了ると、匇惶として降りてゆく。あとに河野義昇さんが見える筈のがまだ見えない』
  稽古場へはいつて見る、と見台の向うに厚手な玻璃板が宙からブラ下つて、それが恰ど師匠の鼻の先き、語り手にも鼻の先きになつてゐる。
  『これは珍らしい趣向ですね』
  『へい、充分に演つて頂くのに、唾が刎ねたり何かするので、遠慮をされる方がありますので、これで私が斯う後ろへ下つて弾きますと、恰ど好いのです』
  『成るほど〳〵これは好い。しかし長平さん位数の多い人は少ないでせうね』
  『へい、実際数がおありです。三四十はありませう、津賀さんの所と私の処とお出です。左様、私の処へも、もう十二三年になりますかね、今の岸姫も津賀さんで、出来たものです』
  『さうですか、はア』
  見廻す床、額、何れも従三位葉室伯爵の手になつた達筆。
  『芳河士画伯にはすみませんが、私は絵の方はあまり好きませんので、書ばかりです』と笑ひながらいふ。それからやゝしばらく、芝居の話なぞで時を移して下へ降りると、そこには『やア』と猿蔵師が見えてゐる。床世話のシウさんがゐて、何やら番組の編成中である。
  『催しですか』
  『へい三十日に深川の常磐に、兄弟聯合会で…』
  やがて義昇さんの演物が「堀川」に極つて秋さんの端書の原稿が出来る、一つは都新聞へ、一つは活版屋へ……と忙がしい事である『どうも電気が暗いやうだね』と猿三郎師は台所から雑布を持つて来て玉と笠とを綺麗に拭きながら『新聞にありましたよ、この玉と笠を毎日拭けツて、五十燭と四十燭との違ひがあるといふ事です』と、猿蔵さんも、秋さんも、僕も感心してこれを聴いたり見たりしてゐる。
  それから又しばらく、雑談が続く、猿三郎師の御近所とはいひながら、夜の銀座に於ける智識の豊富さる快談に耳を喜ばしてお暇にする。(黒顔子)
 

  稽古見台(10)48:17-18 1933.6.30
  津賀太夫師のお稽古場
  ◇…御連中押すな〳〵の大繁昌
 
  六月のある日。
  京橋は大根河岸の菊屋倶楽部、そこの二階が、米翁竹本津賀太夫師のお稽古場と聞いてふらりと突然に押しかけた。
  案内もせず梯子を上る、はやデンデーンといふ撥の音。倶楽部の広間には、床世話の秋さんがゐた、何やらペンを走らしてゐる。催しのプロ編成でがなあらう。
  二タ間ぶちぬいた稽古場、正面奥に見台を据えて、師匠は遠目にチラリ、まだお馴染も薄い拙者の顔、ハテ誰やらんといふ表情、後ろ向きにお稽古中なのは、高座ではお馴染の語幸さん『千本のすしや』『ツイコチ〳〵がよござる』の処、叮嚀にちよい〳〵小返しがあつて今出来かゝつてゐる処らしい。
  お稽古のすんだらしい一人、語幸さんのお連かや、お茶番を控えたお神さんが愛想よく見知らぬ拙者へもお茶を下さる。そこヘドカ〳〵と例の宝蔵寺天昇さん、巴津昇さん御同伴でやつて見える。
  『大層御勉強のよ 承る』と水を向けると
  『イヤどうも、毎月一段づゝ上げるといふ願望を抱いてのスピード稽古、今月は二十日の松屋、太棹社の身振りに間に合はせるといふ訳で今志度寺の猛練習さ、先月から四十五日あるとおもつて、ウツカリ仕てゐたらまだ奥の方が堅まらない。何しろ君、三味線と両方一度に仕入れるのぢやからなア、是が非でもこしらへ上げやうとおもうとるが、万一出来なかつたら玉三か何か古いやつで今月は胡魔化すが、どうも我輩の(毎月一段)といふ金看板を下すのは癪だからな……この志度寺の奥の方の難かしいのには驚いたよ』とある。天昇さんにも難かしい義太夫があると見ゆる。
  長平さんが見えた。と殆んど同時に語幸さんの「すしや」が『さすが小松のちやく子とて……』のあたりで終つた。先着とあつて天昇さんはすぐに見台前に押し直る。少し下つて傍らに巴津昇さんが同じく「志度寺」の稽古本を拡げて鉛筆片手に身構へる。お辻のくどき言あたりから始まつて、中々にテコい語り場。
  一片通り師匠についていふ天昇さんは大汗である。二十分……三十分、まだ中々に果てさうもない『何しろ此の人は大変な騒ぎですもの、あれで又た家で三時間も五時間も稽古をするといふのだから……』と長平さんは、浴衣に着換えて、もう少し待ち遠いといふ風に、拙者へしきりと芸談をして下さる。
  『いや、今新規なものはやつてゐませんが、来月にはいつたら吉田屋を稽古して見やうとおもつてゐます。此処の師匠も数へて見ると今毎日来る連中が十人ほどあつて、こんな風に骨の折れる長い稽古を十人続けてやると、その晩にもし催しでもあつたら、もう腕も腹も疲れて碌な……満足な三味せんは弾かれまいとおもうが……何しろ六十九、来年は七十ですからね。』
  見台の方では漸く、段切近くなつて来て『それ〳〵用意と内記が下知、菅の谷心得坊太郎に、用意の襷凜々しくも……』の処、この用意の襷りゝしくもなど中々難しさうである。
  『一眼二早足、上段、下段』なども(間)がテコいらしい『嵐にさそふ乳母桜、はかなかりける……』と愈よ終つてから、更らに前の方の小返しがはじまつた。
  他の新入の御連中と用談らしく長平さんが広間の方へ行つてゐる中に、天昇さんの稽古はをはつたが、更に巴津昇さんが三味線を抱えて入れ換る。師匠の精力驚くべくも、要所々々を熱心に、幾辺ともなく繰り返しての絃のお稽古。
  別室から戻つて来た長平さんは、何とおもつてか浴衣を脱いで帰り仕度『もう直ぐですから、さらつてゐらつしやいな』とお神さんも止める風、そこへ据つて、十四日に中野で催される津賀会に出し物の相談が始まつた。
  巴津昇さんのお稽古が漸く済んだ。そこへ同じく中野の会に出演の巴仙さんが見える。少しばかりお師匠さんもくつろいで会の時間や出し物の話しとなる。長平さんはその会の三枚目とやらに「長局」を出す事になり、巴仙さんは「寺子屋」ときまる。
  『さア』とばかりに疲れも見せぬ米翁師は又た三味せんの調子を合はせて『長局』の地合だけを中音で、長平さんの咽喉しらべ。天昇さん、巴津昇さんも坐りこんで聴いてゐる。そこへ『今日は』とはいつて来たのは金川文楽といふ新上るりの先生「日本精神宣揚」といふ肩書付で売込まうとあつて、お稽古場はやがて満員の光景となる。
  あまりの長座に、シビレも切れた。斯う忙がしくては、ゆる〳〵師匠の芸談など思ひも寄らず、又の機会を心に決めて、遂に一言も師匠と言葉をかはさずに退却する、いつそサバ〳〵として、銀座の夕景をぶら〳〵と。
        (黒顔子)
 

  稽古見台(11)51:13-14 1934.1.25
  春閑散!
  赤坂のお芸古場
  =本社の身振劇出演の福勝さん
  =猿之助師の轟く如き撥音
 
  お正月の十六日。藪入デーと知つたやうな知らぬやうなその日の午後、フラリと赤坂へ足が向いた。月の家のお稽古場、格子を開けると、轟くやうな太棹の音『〆めたつ、御在宿!』
  けふが二度目の訪問、此の前は昨年の夏、浜町の大師匠松太郎翁喜寿の賀会の豊沢会にその猛練習の『逆櫓』と『油屋』を聞かして貰つた事であつた。刺を通ずると『今お稽古中ですから』と何ぞ用談と思はれてのお取次が向上『イヤ、そのお稽古を伺ひに上りましたもの、どうぞよろしく』と押し返へすと『少々お待ち』と姐さんが二階へ……
  二階では今、伊賀越五ツ目『饅頭娘』の、もう終りに近く、三味も烈しければ、声も大きく、懸命にお稽古らしく、玄関に立つてゐてよく聞こえる。杜切れては更に小返しのヤリ直し、僕の名刺をさし出すスキも無いと見える。
  やがて、そのお稽古が切れたらしく『おゝどうぞお上り』といふ師匠の声もハツキリ聞える。漸くお稽古揚へ通されて見ると、見台の前には堂々たる体躯の持主、あの堂々たる音声の持主、三河屋の福勝さんが額ぎはの汗を拭うて、外には誰れも居られぬらしい。
  三ツ巴になつて新年の御挨拶一わたりよろしくあつて『お催しのお浚ひですか』と訊ねると『いや、この二十六日に白木屋で太棹社の身振りへ出られますお得意の志度寺のお浚ひが済んで。アトで今の饅頭娘をお浚へになつてたんです』と、師匠の詞『イヤ、それは〳〵』と暫時にして福勝さんは帰つてゆかれた。福勝さんの『志度寺』は実に堂々たるもので、昨年これもたしか太棹杜の催しの時拝聴した事のあつたを想ひ出した。
  少しく雑談を交へてゐたが『宅の子供を一人分稽古しますが聞いて下さいますか』『結構です』と、やがて下から呼び上げられたのは、この方では、もう立派な語り手になつてゐる杵子さんであつた。お稽古は『堀川』奥からお俊を呼び出して親子三人が縁切りの相談からドキ状を書く一くさりである。
  そのお稽古の厳格さ、かな一文字の音の上げ下げ、呼吸の接ぎ方、間拍手の撥の一ト手、くり返し言ひ直し、毫もゆるがせにされないのである。杵子さん又たよく之を体して立派に言ひ直しやり直されるのである。約三十分で終り杵子さんは下へ立つて去つた。
  『大層厳重なものですが、御連中方のお稽古はアヽまではやらないでせうな』と先づ訊いて見る。これに対する猿之助師のお答は大要次の如くであつた。
  『イヤ先生、そんな事したとて、どうして判りやアしません。けれど、又その方の力量や、器用不器用や、質次第で、大づかみには申上げます、そして大体お判りになれば、私の方も非常に愉快になるのです。通り一遍のお稽古でなく、少し込入つたお稽古を致しまして、そのお方が、翌日になつて、前日私が申上げたやうな所をちやんと覚えてお演りになりますと、全く御本人も好いお気持ちらしく、私にしましても、さういふ教へ方が少しも面倒でもなく、嫌でもなく愉快になりますので、それは無論、商売人に教へますのとは違ひますが、その心持ちだけでも、受入れてやつて下されば、又たそのやうに聞えるものでございます。それを思ひますと、やつぱり自分がよほど芸が好きなのですな、どうでお楽しみにおやりになる旦那衆の事ですけれど芸に変りはございませんからな、つい最近にも寛三郎さんといふ師匠がございまして、其方の御連中の○○さん大分御修行が積んで見えましたので、その寛三郎さんからの紹介もありまして、私の処へお稽古に見えるやうになりましたが、本来余所の御連中はお稽古をお断り申してをるのでございますけれど、さういふ風にその師匠からの口添えで、もつと確かり稽古をしやうといふやうなお方は、喜んで及ばずながらお弾き申すことに致してをります。唯今の杵子も、漸くまア何かと判つて来たやうですから、私も楽しみにして教へてをります。外に近頃私の処へ参ります女の商売人では、猿幸、駒若などいふのがございますが、皆熱心に稽古を励んで呉れますので………
  と、そこへ菓子やコーヒーが運ばれたので話も杜切れ、もうお稽古の方も見えず、見台を離れて師匠も話し込むといふ風、僕もそれならと又暫らくお邪魔をする気になつて腰を落付けた。(つゞく)  (黒顔子)
 

  稽古見台(12))52:12 1934.3.20
  猿之助さんの話はつゞく
  浜町の大師匠松太郎さん益々元気
 
  話はちよつと杜切れて、お茶とお菓子を頂いた。--『因会の役員が此の春また改選されたやうでしたね。』
  『へい、どうも彼の会も中々六かしいのでなア……』
  『お師匠さんは、此の頃更に表面にお出になりませんね。』
  『へい、私は…もう蔭に引込んでをります。私の方からはまア猿蔵が出てゐて呉れますので……。いゝえ、私の出ないのは別に意味がある訳ではございません。まア将来また何か勤めなければならぬかも知れませんが……今の処、彼の顔触れでやツて貰はうとおもうとります。』
  『あの、日本とか大日本とか、名称の事でやかましいやうでしたね。港太夫さんがどうしたとか、かうしたとか……。』
  『へい、あの事もな面倒なもんで、実はつまらん訳でな……。因講といつてました昔からとにかくうるさい事ばかりでなア、港さんが何も、あの事でやめるとかやめんとか、私たちは要らん事ぢやとおもいますがなア……。港さんは先代からの関係でせう。大阪の方に籍があるやらして、尤もあの大日本とつけた時には、港さんは関係は無かつたとおもひますが……どうもはや……。』
  『会の名称などで、もめてゐる時ではないやうですね。東京の職業的義太夫は少し不振過ぎますね。』
  『全くで、……第一太夫払底も今日のやうな時代はありません。大体不勉強なもので、大阪でも顔付などを見ましても、太夫より三味線の方が多く、又勉強もしてゐるやうでございます。東京はもう論外といふてもよい位です。若手のものなど、もツと〳〵勉強せんことにはアキません。それには勉強の道場が必要なのですけれど……。』『さうですな。いやそれで、おもひ出しますのはあなた方のあの豊沢会は盛んなもので……また、そろ〳〵春の準備でせうな。』
  『へい、まだ別に特別に、春の豊沢会の寄り合ひもしてゐませんが、また浜町のおやぢさんを引ツ張り出さうとおもうとります。』『ほう、それは、是非、相変らず御元気でせうな。』
  『へい、誠に元気なもので、私共も喜んでをります。昨年の「喜びの会」でいろ〳〵お世話になりましたが、当人も非常に喜んで、また出てもよいといふやうな事を申しとりますし、私は是非、此の春の会にも引ツ張り出して弾いて貰はうと思ふとります。私には浜町を引ツ張り出す自信がござります。唯だ、どうも眼が悪いので、外出は中々難かしいやうですが、必ずいかな日でも、毎日三味線を出して自分はさらへを致してをります。これはとても私共にも真似も出来ないやうに思ひます。どうぞ又、その節はよろしう。』
  『あ、さうですか。イヤおめでたい事です。それは此の春も楽しみが一つ出来たといふものです。』
  いつの間にか日が暮れかけて来た。話の途切れる下から賑やかな声が聞えて、月のやの女将が現はれた。『いや、大変永いことお邪魔を致しました。ではお暇を……。』 -(黒顔子)