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【 田中煙亭 浄曲うろ覚え 】
(2025.04.03)
提供者:ね太郎
「浄曲うろ覚え」は太棹21号(1931.1)から66号(1935.6)まで掲載された。
『太棹』は公益財団法人三康文化研究所附属三康図書館の蔵書を使用した。
1 三勝半七酒屋の段, 2 尼ケ崎の段 上, 3 尼ケ崎の段 下, 5 平太郎住家の段 下, 6 道春館の段 上, 7 道春館の段 下, 8 本蔵下やしきの段, 9 宿屋の段 上, 10 宿屋の段 下, 11 合邦内の段, 12 塩谷館の段 上, 13 塩谷館の段 下, 14 勘平切腹の段 上, 15 勘平切腹の段 下, 16 沼津の段 上, 17 沼津の段 中, 18 沼津の段 下, 19 寺子屋の段 上, 20 寺子屋の段 中, 21 寺子屋の段 下, 22 すし屋の段 上, 23 すし屋の段 下, 24 御殿の段 上, 25 御殿の段 下, 26 堀川の段 上, 27 堀川の段 下, 28 十種香の段, 29 十種香の段 下, 30 政清本城の段, 32 紙屋内の段上, 33 紙屋内下 4,31欠
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太棹21 18-20
浄曲うろ覚え(一)
昔の聞き覚えやら、先輩や玄人に問ひ訂した事やらを、うろ覚えのはしり書、今流行の語り物に就いて、少しづゝ記し留めておき度いと思ふ。然し忘れた処、間違つた処もあろだらうから、そこは大やうの御見物、何卒御赦しを願ひたいものである。((煙生))
艶姿女舞衣
=三勝半七酒屋の段
元禄八年の十二月、大阪で起つた情死事件を、寛永の六年秋、豊竹座の興行にかけた浄瑠璃が「笠屋三勝廿五回忌」といつて頗る評判を取つたので、安永元年十二月、竹本三郎兵衛、豊竹応律、八民半七の三人合作「艶容女舞衣」といふ外題で、笠屋を美濃屋に改めて上中下三巻物として上演されたのがこの酒屋である。上の巻は生玉の段、島の内茶屋の段、中の巻は新町橋の段、長町の段、下の巻は今宮戎の段、上塩町の段、その上塩町の切が即ち「酒屋」の段である。
この「酒屋」の段は綱太夫風に語るのださうで、昔の五行本には竹本綱太夫と表紙に書いてありましたが、これは明治初年の綱太夫のその先代なのです。初めのおくりに「こそは入相の鐘に…・・・」とあります。此処を、世話物だからといふので、さら〳〵と語る人がありますが「入相」も「鐘」も上るりでは時代の文句になつてゐますから、時代に弾いて時代に語る方がよろしいと思ひます。古人の「世話に時代あり、時代に世話あり」といつたのも、これ等を申したのでありませう。それから、黄昏時ではありますが、宗岸には出会がしらで、顔を突き合せますから直ぐ宗岸と判りますが、「そちらにゐやるはお園ぢやないか」は宗岸の後ろに、隠れるやうに小さくなつてゐるので、ちよツと誰やら判らず唯だ格好でお園らしいと覗いて見る心持を現はしたい「奥底もなき」で、「奥」で切つて「底もなき」と語る人もあるやうですが「奥」で切ると、その間に何か思惑でもあるやうで、他意のない、この母親の心持の意味になりません。半兵衛は初めの中は、なるべく意地悪く語りたいと思ひます。お園を戻して、若後家の巣守にさせたくないので、これはどこまでも「針持つ詞」にいふのです。宗岸は、初めから泣いて語る人があるやうですが、これは無論、成るべく泣かないで、わづかに愁ひを持たせるだけにして欲しい。謝まりに来た。詑を言ひに来たといふ心持を忘れてはなりません。それで「謝まり入つたる」で、あやまアり、と伸ばして語りますが、「ま」の字を伸ばすと時代らしくなります。時代は伸ばして語らないと、其の間に人形の仕草が出来ないからです。世話は何も持つてをらず、別にその間に仕草もないといふ事を知る必要があります。扇を持ち直したり、衣紋を直したり、或は刀を動かしたりの仕事があるので、時代の節廻しは伸ばさねばなりません。「思ひも寄らぬ宗岸が」も同じく伸しては困ります。「取付き歎けば宗岸が」で泣くのはをかしいです。愁ひのイロに語つて欲しい。三味線も勿論イロを弾いて貰ひたいのです。「聞くより二人は又恟くり」も聞くよウりと伸ばさぬ方がよろしいと思ふ。「宗岸涙の目をしばたゝき」で泣くのも、前の「宗岸が」で泣くのと同じく詞と地合との見分けのつかぬ人のする事で、地の文章で泣く時は、別に息をしてハアとか、何とか文句を入れなければ泣けない筈です。地の文句の侭で泣くのを聞くと笑ひ出したくなります。「これまで泣かぬ宗岸が」も、これまアでと「ま」の字を伸ばすと時代になり、宗岸に刀でも差させたくなり、上下でも着せたくなります。「あとは詞もないじやくり」でウ・・・・・・拍子扇を入れたり伸び上つたりして語ると、聴く人は喜びますが、踊つたり刎ねたりする文章ではありませんから困ります。古人は聴衆[きゝて]から手を叩かれたり、賞め声をかけられたりすると、其処を非常に苦心して研究したものださうです。それから「待ツてました」のさわりですが、これは成るべくふツくり柔らかく丸く語つてほしいものです。拍子を取て早めに語ると、お園が踊り出さねばなりません。美声は素より結構ですが声に気を取られて、大事の愁ひを忘れ文意を忘れてゐる人が多いやうです。「この園が」でもヲヽヽはお三どんがしやもじを持つて踊つてゐる様です。なるべくしツとりと、耳に障らないやうに語つて欲しい。此のさわり全部を愁ひで丸く、角だゝず、しとやかに語りたいと思ひます。奥にも言ひたいこともないでもありませんが、先づ酒屋はこゝまでと致して筆をさし置きませう
太棹22 13-17
浄曲うろ覚え(二)
昔の聞き覚え、先輩や大家に問ひ訂した事やらを、うろ覚えのはしり書き。知つたか振りの間違ひも、無いとは申さず、大やうの御判読を((けむり))
絵本太功記〔上〕 尼ケ崎の段
「絵本太功記」は俗に「太十」といつて通るもの、これを十段目と申しますが、本来は『十冊目』といふもので冊数は十二冊、もと〳〵浄るりは段物なれば五段が普通、巻物なれば上、中下の三段、例へば「合邦」を下の巻といふやうに、それで、この「尼ケ崎」は十冊目で段物にすれば四段目に当ります。七ツ目に「杉ノ森孫市切腹」といふのがあつて、これが三段目になるのです。ある昔の義太夫の師匠の処で稽古をしてゐた人が、あらゆる段数を上げて、さて今度は何のお稽古をしたら…・・・と相談するし、師匠はさア『太功記』をやりませうか、と言つたといふ話があります。今ではのツけから太十を一つといふお稽古が盛んなやうで太十を知らない人は無い位になつてゐますが、これは「中ギン物」といつて大層むづかしい物になつてゐます。総て坪が上へはづれて語るべきものと言はれてゐます。中ギンのむづかしい事は言ふまでもなく、坪をはづれてゐてはづれないといふ至難の芸になるのです。さて、本文にはいりますが、最初の十次郎の出ですが、文章の意味の通り、賑やかに語り、花やかに弾いては困ります。出来るだけ淋しく出来るだけ淋しく語るべきでせう。何しろ『残る蕾の花一つ水上げ兼ねし風情』なのですから、花もたつた一輪、それがまだ咲いてもゐない蕾です、そしてこれが水上げかねしといふのだから、この位、淋しい風情は無いのです。「やう〳〵涙おしとゞめ」は涙で切つて、おしとゞめと語らねばなりません「十八年がその間」と「御恩は海山かへがたし」と、次の「討死するはものゝふの」とこの三つは同じ節付けになつてゐるのは、此の浄るりの節付の妙所の一つでせう。序ですがこの、御恩は海、で切つて、山、と、音遣ひも替えて別に語りたいと思ひます。「さこそなげかん不便や』のこの不便やを非常に派手に語る人があるやうですが、あれはじツとしめて浮かせないやうに語りたいものです「孝と恋との思ひの海」も、孝と、と、恋と、を是非心持をかへて語つてもらいたい。「声が高い初菊どの、さては様子を」から、どうも十次郎がイカツク成り易いやうですが、前の端場に「以後はきつとたしなむほどに……など初菊と十次郎がうだ〳〵する所などがありますから、この辺……「こなたも武士の娘ぢやないか』あたりまでは、もつと十次郎に柔か味を持たせねばなりません『えゝ、聞き分けない』で初めて少し強味をつけるやうにしたいのです。「いとしい夫の討死の」は討で切らずに死にと続けていふ方がよいやうです「門出のものゝぐつけるのがどう、急がるゝものぞいのふ」は芝居ではいろ〳〵動きがあり、人形もいろ〳〵の型があるやうですが、急がるゝで初菊は膝で軽く突きいて外され、「ものぞいのふ」で袖をくはえて後ろ向きになつて泣く処、文章の意味から言つても、十分、うらめしい心持ちを出したいとおもひます。それから次の「祝言さへもすぎぬ中」でツンと弾かして「討死とは曲がない」と続けて語る方がよろしい。十次郎が緋威の鎧になつての二度目の出になり「結ぶは親とこてすねあて」は親子といふカケ言葉になつてゐるので、結ぶは親、で切つて、こてすねあて、と語ります。唯だちよつと切るだけで決してこゝで呼吸をしてはいけません。息をすると文章の意味まで切れてしまいます。「猪首に着なす」から「さはやかなりしその骨柄」までは、血気の若武者が討死の首途で頗るキン張してゐますから、非常に勇ましく語つて欲しいものです。盃の条になつて婆の「目出度い、目出度い嫁御寮」の二度目の目出度いは、言ふまでもなく憂ひを充分に持たせねばなりません、十次郎が去つてしまつてから婆が心のせつなさ、といふ詞の通り、此の場合じツと堪えてゐる老母の何とも言へぬ感情が含まれねばならぬ所でありませう。「あはれを爰に吹送る……」になつて「攻太鼓」になります。これは舞台ですと、ドンヂヤンと遠寄せの陣鉦太鼓を打込む処ですからウンと張つて大きく語らなければなりません。気を取り直した十次郎「いづれも、去らば」ですが、これはいづれも、で切ツて十分に憂ひを持ち、一分二分、穴を明けてもかまはず泣いてゐて、さらばと思ひ切つて駆け出すやうにありたいのです。「嫁ン女、かはいやあツたらものゝふを」からの婆の愁歎ですが、何といつても廿四孝の越路、近八の微妙、菅原の覚寿、この所謂三婆アに亜ぐ皐月です。豪傑武智光秀を叱り飛ばすほどのシツかりした婆さんで、それが「はじめてあかす老母の節義」といひ「婆が心のせつなさを」といふ大悲劇、こゝをサラツと演る人もあるやうですが、この婆の一番の語りどころとして、思ひ切つて泣いて語つた方が可いと思ひます。「襖おし明け何げなう………」で出て来る旅僧「コレ〳〵かみさん」となる。これはあまり軽く安直な坊さんに語りたく無いものです、どこかに久吉である処を持たせるやうに考へたい「年よりにサラ湯は毒、あとは」で、とまつて一座を見廻し「若い女子共」といふ意味をもたせねばなりません。それから「奥の一間と湯殿口」になりますが、この湯殿口の口は別に語つて「入るや月もるゝ……」へ続く文章の意味にそぐふやうにしたいのです。久吉が湯殿へはいつては大変です、湯殿、といつて、その入口をそれて外へ姿を消すのです。そして月が湯殿口へさし込んでゐる訳です。続いて光秀の出になります。入るや月もる片びさし、こゝに苅取る真紫垣」この光秀の出は玄人の方でいふウキ音に、浮小ワリともいふさうで、特に六ケしい処です。亡くつた越路太夫が嘗てこの「太十」を出した時、ある新聞の評者が、越路ともあらうものが、十八番の太十を語つてあの光秀の出が何といふ小さいものだ、と書いたのを見た事がありますが、あれは小さいのではなく、忍んで出る光秀のこのウキ音といふ語り口を知らなかつた為めの迷評だとおもひます。「たけち光秀」は充分に大きく語つてよいのです。本にもこゝにハルと印してある。真当にこのウキ小ワリが語り得れば、素人耳には小さく聴こえるかも知れませんが、凄く聴こえるのです。名人と言はれた組太夫がこゝを語ると、ゾツと背中へ水でもかけられるやうに凄かつたさうです。楽屋にゐる仲間の連中が、全体どういふ音づかひ、息づかひをすれば、アヽ凄く聞えるものだらうかと、向うに廻つて聴いたといふほどだツたさうです。それから次のひツそぎ鎗」ですが、鎗イイイイイと、ひどく抑揚をつけて語る人がありますが、これはジツと締めて語るのがよいと思ひます。次の「小田の蛙」は元来岐阜の長良川の付近にある小さな藪にゐる蛙で、そこだけしかこの蛙は居らぬといふ事だが小田春永の小田とこの小田をかけた作者のはたらきで、この山崎にもつて来たものだらう「啼く音をば、とゞめて敵に」で切つて「さとられじと」と語ります「たゞぼう然たるばかりなり」はクルのぼう、オヽ、オヽ、オヽ、オヽ、然ンたアるツと息をして切つて語ります。それで人形は後退りをしたり前へのめつたり、大きく芝居が出来る訳なのです。操や初菊がまろび出て、婆の「ヤレ嘆くまい〳〵」は、泣くよりもウンと強く語りたいのです。いふまでもなく、この一節は、婆の当て処で、忠義礼智信、五常の道を説いて光秀を諭す眼目で、大功記のこの前半では婆は一番好い役になつてゐるから、充分に気を入れて語るわけです。この前半の最後は妻は涙にむせかへり」からの、いはゆる、クドキですが、これは普通のクドキでなく、前にも奥にもクドキがありまして、こゝのクドキは「大和地」といふのださうで、普通の点は足取りも語り方も大に違つてをりゆツたりやつて憂ひを持たせて十分に謡つてよい所であります。此処をこの大和地にしたのは節付けの面白い所であるといはれてゐます。「操のかゞみ曇りなき涙に……」で前半を了ります。(つゞく)
太棹23 7-9 1931.3.20
浄曲うろ覚え(二[三])
絵本大功記(下)
尼ケ崎の段
操の鑑みで半段として女太夫其他は切つてしまうのですが、文章や筋としては、直ぐあとの『光秀は声荒らげ…・・・』へ続けなければ意味を無さないと思ひます。「取付く島も無かりけり」で切ればまだしもですが……さてこの、光秀の声あらゝげから「すさりをらう」までの間は、光秀の太十中での一番の山だらうとおもひます。一天万乗の君の御為め、下は万民の為めに暴悪無道の春永を討つたといふ理由を述べ「女童への知る事ならず」と大威張りに威張る処ですから、無論これは思ひ切つて大きく語らねばなりません。さすがの婆も屏息します。女房の操はにらみ付けられて、取り付く島も無いことになるのです。ト、突然ドンヂヤンになつて「あはやと見やる表口」で重次郎の二度目の出になるのです。前にも申しました通り、血気の若武者が、シカモ死物狂ひになつて帰つて来るのですから、トテモ勢ひよく、強く弾き強く語る方が宜しいとおもひます。--「言ふも苦しき断末魔」は何の事もなくサラ〳〵と語るのを聴きますが、これは矢張り、大に苦しさうに、充分に力を入れて語りたいものです、光秀の「不覚なり重次郎」はあまり威張つてはこまるのです。咽をしめて叱るイキですから、是非其の心得がありたいとおもひます。又「仔細は何と」で穴をあけておいて更らに「様子は如何に」で又、穴を明けて語るのです。仔細は何とと訊いても何にも答へないので不審に思つて今度は「様子は如何に」と尋ねる、それにも重次郎の答へがないので、初めて気を失なつてゐるといふ事を知り、人形ですとこゝで薬を服ませ脾腹を押して活を入れ「つぶさに語れーー」になるのです。で、その「仔細は何と」で、穴を明け息を詰めてゐて「様子は如何に」も同じく、この二つの詞は、同じ音で、同じ調子でなければならぬのです。無論気が抜けてはなりません。重次郎が気が付いたら、背中を軍扇で打て「具さに語れ」となるのです。此処は中々力の足らぬ人には語れません。が、其の心持ちで語れば自然と詞の上に現はれて来ます。それから重次郎の物語りですが、これは前と同じやうに勇ましく手負らしく、又た成るべく詞で語るのをよろしいとしてあります。然し「しら浪の」とか、「縦横無尽に」とかいふ処は、無論地合でなければ語れませんから、よく文章と節付けに気をつけて語りたいのです。「逆賊」は大きく言つて切り「武智が小わツぱども」と語るのです、逆賊で切りますと、その瞬間に舞台の何れもが思ひ入れが出来るのです、ちよいと思ひ入れをさせねばイケません。それから「聞くに老母はせき兼て」になりますが、これからの姿には大した八釜しい処もない様ですが「ヤイ光秀」だけは思ひ切つて強く、叱るのです。子よりも可愛い孫が孝行に引くらべ、非道な光秀が一倍憎くなる心持ちを此の一言で聴かせたいと思ひます。重次郎の「もう眼が見えぬ」で先づ父の居る方へ向き「父上」と呼び、母の居る方へ向き直つて「母様」と呼び、それから自分を介抱してゐて呉れる最愛の妻の初菊の手を取つて「初菊どの」とやさしく名残惜しげにいふのですが、無論此の詞の間には息をしてはいけません「いぢらしさ」までは、ゆつたりと愁ひを持て語ります。それから気をかへて「母は涙」と調子も替ります、是からは普通のクドキになるのです。光秀の「堪え兼てはら〳〵〳〵」で泣く人が少ないやうですが、遉が勇気の光秀も茲で初めて泣くのです。又はら〳〵〳〵〳〵〳〵〳〵と沢山いふ人がありますが「はら〳〵」を売りにでも来た様で、泣くどころか笑ひたくなります、此処ははーらはーら。と本文通り三度が宜しいと思ひます「又も聞こゆる」で呼出しの三味線を弾きますが、同じドンヂヤンでもこれは前の重次郎の手負ひの出とは全然違つた弾き方になります。「アノ物音は敵か」で切りて同じ音で「味方か」と言ひます「眼下の村手をキツトと見下し」と和田の岬の左手よりといふ例の光秀の詞は所謂「タテコトバ」といふので、遠方を見る心持は無論の事、一ト言毎に同じ音で、詞と詞の間、髪の毛一筋入れる隙間もない様に、物凄く語らねばなりません。それから「ヤア〳〵武智光秀暫らく待て」と強く呼びかけて、気を替えて「真柴筑前守」となるのです、ちよつとした事だが非常に難かしいと思ひます。それから「京」と切つて「洛中」と語る方がよく判ります「地子を許すも母への追善」は無論、少し愁ひを含ませて語るのです。京都の市中の者へ地租の免除をして母の追善にしたいといふ心持です「互の運は天王山」は互の運で切りて「は天」で又切り、「王山」と語るのですが、此れは運は天に任せてといふのと天王山とのかけ詞を生かす語り方でせう。然し、無論其切つた時息をしては文章も文意も切れてしまひます。惣じて斯ういふ処は息をせぬものです「何サ〳〵」といふ久吉の詞でノリ地を弾きますが、所謂大ノリを弾いたのを聞いた事がありますがそれは間違つてゐませう。茲はギンノリといふのを弾かなければなりません大ノリでは大威張りになります。ギンノリはせゝら笑ふ処に用ゐられるノリです「大磐石」は極めて大きく力を入れて語り「たちまち」と気を替えたいのです。(完)
太棹25
浄曲うろ覚え(四)欠
太棹26 8-10
浄曲うろ覚え(五)
田中煙亭
卅三間堂棟由来((下))
=平太郎住家の段=
『引かるゝ心執着の、又も姿をあらはす有様--』になりますが、執着の、からは太十の時に申した浮コハリです。此の浮小割の発音も、一つ出来れば、何処にあつても、きつと語れるのです。此の段では出来るが、他の浄瑠璃では出来ないといふのは、それは、本当に覚えてゐないからです。義太夫節の、極つた節とか、名高い節とかいふものは、一つでも本筋に覚えるのは非常に困難な事です。
これは余談ですが、数年前に亡くなつた薩摩太夫といふ人の「鳴戸」を聴いた事がありますが、此の人の御詠歌の巧いのには驚かされました。単に巧いばかりではないので、私の感心したのは、薩摩太夫のは子供の順礼唄で、それが全然、子供の声の御詠歌になつてゐるのです。殆んど此の人より外には子供の御詠歌らしいのを聴いた事がありません。斯様に一つの節でも、一つの御詠歌の発者でも、真にそれらしく聴かすまでには、並大抵の苦心では出来ないものだと思ひます。
さて本街道に戻りまして、今の『又も姿を現はす有様』ですが、これを早く弾かせて早く語る人もあるやうですが、幽露なぞといふものは、さう勢ひよく駆け出して来るものではありません、といつても私も本当の幽霊を見た訳ではありませんけれど、芝居にしても、人形にしても、ドロ〳〵でボーツと現はれますから、緩つくりぼんやりと語らなければ可けないと思ひます。それではじめて幽霊気分が出るのです。又た此処からのお柳は、前の詞と多少工合が違ひます。即ちお化けの弱はつた詞になるのです。或る人は、お化けの手負に語つたと聴いてをります。ですから、此次の詞は猶更、六つかしくなるのです。
『信田の古栖』こゝも声が届かなければ致し方は無いけれど、上から出る方が宣しいと思ひます。『それは野干の』も上から出ます『離れがたなや可愛いやな』で十分に泣きたいのです。又た爰の合の手も斧の谺ですから、やはり木を切る音にして貰ひたいのです。どうかするとチリ〳〵〳〵〳〵〳〵〳〵と早く弾く人もあり、又或は紙屑籠でも掻き廻はすかのやうに、カサ〳〵〳〵〳〵と弾く人がありますが、これは早く弾いてしまつて胡麻化すつもりかもしれない、それを聴いて、後には何にも知らぬ人が紙屑籠式になつたのかとも思はれます。イヤ飛んだ悪る口になつて恐縮ですが、今の若い人の中には、早く弾いて、手がまはるといふ事を自慢してゐるかのやうにも見えます。素人から咎めるのも気の毒ですけれど、玄人が此の谺位の事を知らずに高座で一人前の顔をして居るに至つては、驚かざるを得ません。
『深山がくれの山寺に……』こゝも緩つくりと、いかにも寂しく語りたい、即ち深山の山寺らしく。尤も三味せんも緩つくり淋しく弾いて貰いたい。これは時代の文章でもあり、こゝから平太郎が鶏目になりますから、足元で探る心持を現はす為めです。前半のをはり、『たどりゆく……』の前に送りの合の手を弾きますが、此の『合』は普通の合でなく、片輪節の合を弾かねばならぬと聞いてをります。これまでで、先づ六つかしい処は終りました。
これから和田四郎の出になるのですが、大きく強く語りたいのです『うかゞひ足……』は例の浮小ワリですから御注意を願つて置きます。こゝも踊り出すやうに語つたのを聴いた事がありますから、能く考へて語つて頂きたいものです。それで和田四郎の間は別にお話するほどの事もありませんが『コレとゝさま、のゝさんへとぼした行燈が落ちてある』は緑丸が非常に驚いていふ詞です。続いて平太郎も驚いた心持を現はさねばなりません。老母が生き返りからは手負の詞で宜しいでせう。老母のくどきは、緩つくり語つてほしい、年寄りの手負のくどきらしくです、それから『悔みの涙はら〳〵〳〵』はこれも太十の大落しと同じに、三度がよろしいです、即ちは……らは……らは……らアハ〳〵〳〵〳〵と泣くべきでせう。平太郎は眼が見えて来れば、盲詞はやめて普通の侍詞になるのです、これまでは平太郎は丸腰です。丸腰は町人ですから其の心得が必要です、如何に大きな武士でも丸腰は世話にくだけて語り、町人でも大小を差せば武士詞に語らなければならぬものです、こんなことは解り切つた事ですが……。それから『影かあらぬか緑が母……』こゝの詞はツブのお化け詞で、俗にうはがれ声になるのです。
愈よ、待つてましたの木やりですが、初めの『和歌の浦には』の分は、勇ましく賑やかに語るのですが、しかし、此頃変つた語り方をする女太夫なぞもあるやうです。例へば『ターマアヽツーシイマ』と道化て語るのを聴きましたが、今日出来る流行唄ならば、其の時々の人気に適するやうに唄うのも宜しいしのですけれど、此の時代を現はすには、矢張り、昔風でなければならぬと思はれます。又た、三味せんも替つた弾方を度々聴きますが、感心出来ないと思ひます。此の柳の「上」で先月話しましたやうに、節付けには非常な苦心した上に、名人上手が工夫に工夫を重ねて出来上つたのです。それを無学無考な我々が、前受けがよいとか、面白いとか位で、勝手に替えるといふのは、言語に絶えた事と言はねばなりません。
『さてこそ此の木の動かぬは……』は平太郎が立派な侍ことばにならねばなりません。こゝで一言注意して置きたい事は、如何なる浄るりでも大落しからは足取りが早くなるのです。ツマリ聴者を飽きさせぬ為めですから、其の心得で語つて貰いたいのです『むざんなる哉……』の第二の木やりは平太郎の音頭で、申すまでもなく、充分愁ひをもつて、自然ゆつくりと語ります。それで妻の別れ母の別れ、即ち愛別離苦を現はすのです。
それからこれは余談ですが、或人が冬の季節に、柳の葉が散らずにゐるのはをかしいといつた事がありますけれど、四国の地方では、冬でも葉の落ちない柳があるといふ事です。東京地方の柳とは、葉も少しちがふと聞いた事があります。これも思ひ出した侭を記しておきます。(をはり)
太棹27・28 20-22
浄曲うろ覚え(六)
田中煙亭
玉藻前曦袂((上))
=道春館の段=
『入相時--』の三重。俗に玉三とさへ言はれる玉藻前三段目でありますが、これを四段目と同じやうに弾きもし語る人が多い。ツマリ三段目物と四段目物との区別が解らないので、これを弾きわけ、語りわける事が出来れば無論一人前の人なのです。紙半枚の置き上るり『早や夕陽の』から白書院までゝす。ちよつと言つときますが、この白書院の白をシロといふ人とシラといふ人があります。これはどちらが本当か故実家に聞きたいと思ひます。尤も五行の本にはラのおくり仮名が見えますからしらしよゐんが本当かもしれません。大時代の所謂金襖物ですからかなり品位を保つた大時代に、落ついて語らねばなりませぬ。大抵のおしらうとは大時代にと言へば、盛んに咽ばかりビリ〳〵息んでしまうので困ります。腹へ一パイ力を入れて息を吸ひ込んでドツシリと語るものです。徒らにイキンでしまつては何にも成りませぬ。そこでその置きの中に『いとゞ淋しき黄昏や』の『淋しき』をさびしきーイと語り弾く人がありますが、それでは字の定間が足りません『淋しきーイーイ』とならなければなりません。それから『間毎をてらす』の間ごとはギン送りといひ、下で語るべきものです、三味線につれて上で語るのを聴いた事がありますが、三味線はウラを弾いて語りは低い処の表でゆかねばならぬと聞いてゐます。
それから愈々金藤次の出ですが、これをどうかすると、芝居の呼びのやうに語るのを聞きますが困ります。鷲塚金藤次でチンと弾かせるからさうなるので、あれはテンで普通に大きく語つた方がよろしいと思ひます。中には『わしづか』で切つて金藤次と語るのがありますが、なほ悪い、それでは品威といふものか無くなると思ひます。で、金藤次の詞ですが、ノツケの『上意の次第余の儀にあらず』から強くしたい為めに極悪人のねじけ者に聞えるのがありますが、それはイケません。何に致せ、右大臣道春の館に皇子の上使として乗込んだ金藤次ですから、先づ第一に品位と威光を保つ語り口でなければ可けません。それらは無論大きく語らうとする為めに脱線して賎しくなるものだと思ひます。『アヽイヤ、そりやならぬ』これからは相当意地の悪い本心を出してもよからうと思ひます。『以ての外御憤り』これは毎に大きく押して語りたい、これで皇子の威光を見せて置いて『剣がなくば桂姫、首にしてお渡しなされ』といふ次の詞に移るのです。
萩の方、御台は『とても手詰になる上は……』からグツと詞に憂ひをもつて語ります。それから御台の『一ト通り聞いてたべ』で、このたべを泣きに弾く人があるは、これはイロに弾きイロに語るべきものです。無論相当に憂ひはもつことです。『涙を払ひ』も同様です。『殺さにやならぬ品となり……』の次『せめて夫がましませば』とある本文を『我か夫このよにましませば』と直して語るのは、今はもう普通になつてゐるやうで、それで結構です。『勝り劣りはなけれども……』も泣きに弾いたり語つては困るといふのは品位を落す虞れがあるからです。泣くべき処は充分に泣くのですが……それから今一つ注意したいのは、御台の詞の調子ですが、グツと高く早口にならぬやう品位をつけて語らねばなりません。といふのは、この上るりは地合が大体に低いものですから、詞を高くしないと、滅入つてしまうことになるからです。故に結局、やかましく言へば初心の人には、本当に此の上るりは語れぬことになるのです。力が無ければ語れないことになるのです。
金藤次の『言はせも果てず声あらゝげ』これから鷲塚が愈よ本心のカタキ役の性根をあらはすのです。これまでは剣の詮義が眼目で来たのですが、内心は姉の桂姫の首にあるのだから、これから更らに強くなつて行かねばなりません。『無益の問答聴く耳もたぬ、サ、唯今ツ』の唯今ツはウンと突ツ張つて語り、鼻で息を呑み『と詰寄つて』と語るのです。
御台の『いやのふ御上使……』これからの御台の詞はウンと憂ひが利かねばなりませぬ。もうそろ〳〵一生懸命になる瀬戸際です。
鷲塚の『が、勝負のつくが、すぐに寂滅』の詞は詞尻に憂ひを充分にもたせたいのです。これは御台の最前の物語(姉娘の拾ひ子であること)を聞いたあとですから、双六をさせて、自分の捨てた娘の顔を一目見て、それから切つてやらうと。此の時に、彼れは自分自身の肚をきめたのです。斯ういふ心地に語つてゐる人があるか無いか……尤もこの劇の底を割るやうに泣いても困りますが……。
太棹29 17-19
浄曲うろ覚え(七)
田中煙亭
玉藻前曦袂((下))
=道春館の段=
いよ〳〵サワリに移る前です。御台の『娘、娘と呼び出す……』になります。この『娘、娘』は無論、上下の別々の部屋にゐる姉妹を違えて呼ぶ心を忘れてはなりません。こゝで少し専門的になつて、筆者もよくは判らぬ事ですが、さる黒人の人に聞いた話しによると、こゝの『最期の座にぞおし直る』といふ節と直ぐ次の『とかういらへも涙なる』といふ二つの文句の節を取違つて弾き、語つてゐる人がある。それはこの前の『最期の……』を行義節に語り、後の『とかういらへ』を三つ入りに弾いてゐるといふのであります。行義節といふのは、頭を下げるとか、又は得心するとかいふ時に用ゐられる節で、今、呼び出した二人の娘が、此の場の様子を早くも覚つて、白の死装束で現はれたのを見た萩の方は『先のとられて今更らに、とかういらへ…』となるのですから、御台が自づと頭を下げる事になる、ので……これへ行義節を用ゐるのが本当である、といふのであります。
いよ〳〵サワリですが、厳格にいふと実に六かしいさはりで、これは成るべく中音で緩つくり語り、節廻しも丸く、ゆつくりと語りたいものですが、どうもザラに聞くどの高座でも、品が無くて賎しくなつて困ります。折角の白の振袖の扱ひやうもないばかりに駆け足の始末です。そして無暗と踊り出して困るのです。この娘は二人とも双六盤の前に座つたきりで、殆んど動かない人形ですから、踊り出したり駆け出したりしては全く困りものです。しかし、どうもおつとりと語つたり弾いたりしてゐられないものと見えて、皆な走り馬になつてしまうやうです。要するに六つかしい浄るりなのです。
さて、双六になる前、御台の『御上使への御馳走に、日頃手練の双六をお目にかきや』云々の言葉は、ウンと愁ひを以て泣かねばなりません。これを前の詞と同じやうに、すら〳〵と語つてしまう人が多いやうです。泣くといてもアハアハと無闇に泣くのではありません、十分に愁ひを含むのが六づかしいのです。双六の間は、何とも此処で解説の仕やうもありません。愁ひも聞かせねばならず、又た一生懸命の調子に語らねばならぬ処もある訳です。
『勝負は見えた観念ツ』は充分に金藤次に愁ひを有たせねばなりません。御台の『上使のそばに詰寄つて』から『やアうろたへたか金藤次』以下の詞は一層高く、強く、懸命の調子になるのです。『上見ぬ鷲塚せゝら笑ひ』の笑ひは、いくら笑つても、むしろ沢山ほどよいのです。これからは、浄るりが総て派手になりますから、ウンと突つ張つて、金藤次も毒々しく、語り好くなるのです。
『首を傍へに鷲塚が、秘術をつくす上段下段』のこの合の手を、よく詞のノリに弾く人があるやうですが、これは必らず地合のノリに弾かなければならぬと思ひます。それは次の『運の極めか金藤次』といふのが、詞でなく地合だからです。それから『ゑぐる腕首しつかと押へ、ヤレ待て采女(ツン)早まるな、言ひ残す仔細あり……』この間に手負の三味をつかつてダアーと息をする人もありますが、これは成るべくせき込んでトン〳〵といつた方がよろしいのです。『今しばしとをしとゞめ……』はウンと押して派手に語つて可いのです。『かほど邪見の心にも、忘れがたきは恩愛の、捨てし娘はいづこぞと……』 いふ地合に移つて、憂ひを忘れてしまはないやうに語らなければなりませんが、どうも忘れたがるやうです。これは地合は地合ですが、詞とおもつて語つてゐると愁ひが出るものです。『焼野の雉子、夜の鶴……』この辺は、ウンと派手に大きく儲ける処がありますが、別に此処にいふ事もありません。
それから飛んで『血筋の別れ恩愛の鬼をあざむく両眼に、たばしる涙はら〳〵〳〵』はやつぱり三つはーらはーらーはーらがよろしいのでせう。次で本文の勅使の条りですが、普通抜いて語り、近頃は芝居などでも、この勅使は出ないやうになつてゐますが、こゝは舞台が大層派手に美しくなり、初花姫が入内して、後に例の、本題の玉藻前になる処なのです。最後に采女之助がノリ地で『御剣を奪ひかへし奉らん、はや、おさらばア』といふ処がありますが、このおさらばが語りやうによつて、早やお、で切れて、さらばとなり、アクセントの工合でひどく変に聞える事を注意します。これに限らず、よく、文句が切り処によつて、又たアクセントによつて変になる事は気を付けたいと思ひます。(をはり)
太棹30・31 18-23
浄曲うろ覚え(八)
田中煙亭
増補忠臣蔵
=本蔵下やしきの段=
此の浄瑠璃は、作の年月も作者の名もよく判りません。地体大した作でないばかりでなく、忠臣蔵九段目の趣向の底を割つて、甚だ怪しからん浄瑠璃です。だが、どういふものか、芝居でもちよい〳〵上演されるし、又た義太夫としてもなか〳〵流行つてゐるやうである。地合の割に少ない、詞で聴かせる浄瑠璃で、本当に考へて、心得て語ると、相当面白い所が無いでも無い浄瑠璃であります。
それからこれは余談ですが、桃井若狭之介は、忠臣蔵の本文にもあります通り少身者ですから、その家来の本蔵が、今でいふ別荘のやうな下やしきなど持てるる筈が無いといふ議論があるといふ事ですが、五百石の知行を取つてゐれば、その他に御家老といふ格で特別収入も少しはあつたものと見なして、小さい下やしき、隠居所の一つ位はあつてもよからうと、まア肩を持て置きますが、若狭之介は一体どの位の石高を取つてゐた人だらうか、本文の中に桃井播摩守の弟といふ文句がありますから、部屋住でもなからうし御分家といふ格で、一万石以上の人と見て可からうともおもひます。元来これは左京亮伊達宗春を書いたもので、本蔵は、御広屋敷用人梶川与三兵衛といふ事になつてゐて何れも実在の人物であらうが、主従の関係は無い訳です。イヤ、実は、本当に詮索しないのですから、この下やしき有無事件は、まア此の位にしておきませう。
さて、例によつて本文に入り、聞いた風な事を順に書いて御笑ひ草と致します。
『人知れぬ思ひこそのみ侘しけれ』から『三世の縁も深草の』までは、重々しく『片原町に』から足どりをかへて軽く語る事になつてゐます。
井浪番左衛門の出ですが『家来引連れあたりを見廻し』のあたりなども、どうかすると世話になりたがります。とにかく伊達上下を着て、家来を連れて出て来るのですから、時代にならねば可けません。その番左衛門の詞も、ノツケから三枚目に語りたがるやうですが、若狭之介の御近習です、相当品位を有つて然るべきです。
『時節は待たねばならぬものだ。アハヽヽヽ』をスラ〳〵と何でも無くやつてしまう人が多いやうですが、これは、意味ありげに、詞に笑みを含んでやつて貰いたいものです。それから一人になつて『台子の釜の』になつて『元の如くに直しおき』でハヽヽヽと笑ふのですが、これは盗み笑ひといふやつです。次の『列をならべて鏖殺し』の笑は、思はず大きな笑声を出して、ハツと自分で気が付き、小さく笑ふといふ寸法です。
三千歳姫の出になります。このさはりは別にいふ事もありませんが、唯だしとやかに、お姫様らしくなるかならぬかにあるのです『泣くはかもめか百千鳥』のかの字を『かアアアア』と唄う人がありますが、あれは、か、と一字だけ離して別にいふ方が可いとおもひます。
『囲ゐをそツと……』で番左衛門の二度目の出になりますが、こゝでも非常に砕けて語る人があるが、私は飽くまで、イヤ相当に時代に、侍らしくあつて欲しいとおもひます。「お前さまが恋ひこがれてござる縫之助殿は……から……ならぬ恋路にこがれうより』あたりまでは、年のゆかぬお姫様を諭す心もちであり『男にもつて何不足の無いこの番左衛門』はいふまでもなく、そり身になつて豪らさうにいふのです。
この口説きから追ひ廻すまで、同じ間で運んでゆきますが、二人が中を加古川と……『知らず抱きつく番左衛門』から足取りが変ります。
本蔵の『姫君様、斯やうな人非人にお構ひなく』人非人は、グツと強く番左衛門を睨み付けて語らねばなりません。
『さては、と気づく番左衛門』から番左衛門が大きくなります。そして、『某を人非人だとサミせらるゝこなたが非から改めよ』と、こゝに鸚鵡返しの人非人が出て来ますから、前の人非人を聴衆のあたまに印象づけておかねばならないのです。
本蔵の『サヽヽヽ其落度ゆゑに先達てより……』の詞は、番左衛門に逆らはぬやうに、そして何の番左衛門位、相手にしないといふ心で語るわけでせう。本蔵の一番の山ともいふべきは『一命は主人へ捧るが臣の習ひ、御直の成敗少しも厭はぬ、イヤモずんど恐れ申さぬ』云々の詞でせう。キツとなつて確つかりと、これも後に番左衛門が鸚鵡に返す言葉ですから、聴衆の耳へヤキ付けなければなりません。番左衛門の『わりや最前何といふた、一命は主人へ捧ぐるが臣のならひ、といつたぞよ』といふ詞が、『どうも前の本蔵自身の声と同じになつて困ります。これはどこまでも番左衛門の声でなければイケません。唯だ本蔵の調子を強いて番左衛門か真似をして皮肉にキメツケるのですから、工夫しなければなりません。
ちよいと前へ戻りますが、番左衛門が本蔵にギユーと言はされて、本文の『消気り入つてぞ閉口す』とある処へ下部が出て主人の命を伝へるので、遽かに救け舟にあつたやうな訳で『大小もぎとり早縄うち……』といふことになり直ぐ『さア本蔵モウかなはぬ』といふ、この言葉は頗る狼狽の体で、早縄うちイーの筒尻の絃のしまるのを待たないで、即ちそれに冠せてさア本蔵と出なければなりません。さうしないと、次の『何もあはてる事は無いぞ』といふ詞が無駄になります。此の時、本蔵は実は覚悟も定まつてゐて、少しもあはてゝはゐないのです。番左衛門自身が大狼狽にあはてゝゐるのです。この辺を考へて語ると、この浄瑠璃もちょつとおもしろい浄瑠璃です。『どうと蹴飛ばし引張はれば』までが番左衛門で『手先しまりて喰入る縄』から本蔵の地合になるので『おもへば足もたど〳〵と』までグツと〆めて語り『主人の賢慮はかり兼ね……』から足取りが変つて『奥庭へこそ』と、所謂中三重になるのです。
『ゆく水の、上へ流るゝためしなく……』と舞台はカラで、置浄瑠璃のやうでありますが、幕明きの普通のおきと違つて、中三重の、かうした舞台では、さしてゆつくりとは語らない事になつてゐます。『人はそれともしら洲なる……』は中音で語る人もありますがギンで語るべきでせう。それは、総て神仏、又は主君の前などへ出ます場合はギンになる事になつてゐます。それから続いて『御前へこそは引かれくる』も。所謂ゆりながしで語るのを聴きますが、これも君前といふ心で『行儀ぶし』でなければ可けますまい。
『斯くと知らせに若狭介』この若狭之介は、疳癖の強い、血気の殿様ですから、自然、疳声になり、ハツキリした急調でありたいのです。『先祖より家老職を勤めさせ、知行五百石をあて行ふ』こゝで一文章の切れ目ですから、ちよつと詞を押しておいて『然るにそれがし』と変つてゆきます。それから『イヤモ存外の詫言』も又た文章の切れで押して『コハ心得ず』と調子を変へます。『師直は打洩らしたり』で又た調子を変へて『然る処』となるのです。『そちや某をたばかつたナ』は一番肝腎の押し方で、憤りを現はすのです。
本蔵は、始終頭を下げてゐますのでそれで声が向うへ通らねばなりませんから、この調節が六かしいのです。対等で話をしてゐるやうに聴える人が多いと思ひます。工夫すべきでせう。
松の木の件で、若狭之介の『ふむ、すりや松の木扁を』云々といふのがありますが、次に直ぐ又『ふむ、然らば受けし恥辱はいかに』といふのがあつて、この『ふーむ』は可なり違ひます。即ち前のは多少考へるといふ余裕を聴かせまして、後のはセキ込んで詰問するのです。
『こは存じ寄らざる御仰せ、君恥かしめらるゝ時は、臣死すと申す』は本蔵がちよつと狼狽の体を見せての詞、細心の注意を要します。そこで若狭之介が『黙れ本蔵!』と鋭どく出て来るのです。
若狭之介は『それでも武士か、イヤサ家老といふか』と、グツとキメ付けておいて『既に番左衛門申すには………』とガラリ調子をかへて、こゝで番左衛門に油断をさせる、若狭之介が思慮ある処を現はす、まア肝腎の処とも申されませう。
『但し、異存ばしあるかい』と主人の言葉、本蔵は『はゝア恐れ入りたる御仰せ、不忠不義の本蔵……』とこれからグツと愁ひを含んで語るのです。『おゝよき覚悟、しかし、予を恨むであらうな』は慈悲をふくんでシツトリといふ。本蔵は『こは勿体なき御詞……』と感涙にむせんで『さりながら、唯だ一言申上げたきは……』と番左衛門の薬の件に移るのです。
番左衛門は愈よ『殿を卑怯者にしなし、大忠臣の某を人非人の、イや不義者などゝ吐かした、その天罰で今此のざま……』と最後の御詫をついて大きく笑ひ『今こそ最期、観念と、振上ぐる手を……と語つて『振返し』から足どりが変つて『水もたまらず打落せば』のその節尻を破つて冠ぶせるやうに、本蔵驚きといはねばなりません。
『しづ〳〵座に着き詞を正し……』とこれからの若狭介は、今までと全然変つて情深い若狭介になります『この若狭介が為めには身代り同然の判官………』から充分愁ひを含んで語りますが、三味線の方は泣きを弾いては可けないと思ひます。続いて『未来で、未来で忠義を尽して呉れよ』も非常に泣いては困ります。唯だ充分に声に愁ひを持たせる事にしたい。ツマリ若狭之介が小さくなるからです。泣くのは次の大落しで、地合に充分『袖や袴に雨車軸、流れて外へ……』とありますから、それで充分だと思ひます。
これから本蔵は気を代へて台子の釜を取寄せます。別にいふ事もありませんが、彼の餞別の条になつて、若狭之介の詞に『ナニ本蔵、この袈裟尺八は汝へ餞別……』といふのがありますがよく無意識に『袈裟尺八』とスラ〳〵続けていふやうですが、これは、袈裟と尺八とをちよつと切つて言つて貰ひたいとおもひます。
三千歳姫の弾する琴と、尺八とを合せますが、別に何もありません。最後の『我れ二十五年の春秋を、朝には教訓の霧を払ひ』云々の詞は、ウンと愁ひを持たして、しつとりと聴かせねばなりません。(をはり)
太棹32 21-24
浄曲うろ覚え(九)
田中煙亭
増補生写朝顔話
=宿屋の段=(上)
此の浄瑠璃は天保三年正月、大阪の稲荷境内竹本愛太夫座で上演した『生写朝顔日記』の四段目で、この切りは竹本重太夫に書下されたものです。作者は近松徳叟が山田案山子の別号で、彼の熊沢蕃山の作と伝へられてゐる『露の干ぬ間』といふ朝顔の小唄を元に想を構えたものであるが六字外題が縁起が悪いといふ所から後に(嘉永三年)増補として『日記』を『話』と七字に改題したのが、今日語り伝へられてゐるものであります。作者の山田と、書下しの重太夫の重を取つて、此の上るりの段切の文句に『早や明け渡る鶏の声山田の恵み弥や勝り、重れる朝顔物語末の世までも……』とあるなど、しやれたものです。
さて、例によつて何かうろ覚えの聞いた風を並べる事に致しませう。何を申せ、この『何国にも暫しは旅とつゝりけん』と出て『夜の襖の透洩りて風にまたゝく燈火の、影も淋しき奥の間へ』と来るのですから、誠に物淋しく寂寥を極めた舞台面です。キバツて大きく語り出す訳にゆきません。甚だ淋しく陰気な場面を現はさねばならぬので、中々語りにくいものと言はなければなりません。
『ハテ心得ぬ、此の貼交せの地紙の歌は先年山城の宇治にて……』云々といふ駒沢の独り言ですが、極くサラ〳〵と、所謂独り言のやうに言はねばならぬのと、又た之が世話になつて了はぬやうに心掛けねばならぬので、頗る難かしい訳なのです。『詠め入ツたる時もあれ、襖押開け徳右衛門……』で宿屋の亭主がはいつて来ますのが、ヅブの世話でなければ可けません為に、駒沢が世話になつてゐると甚だ困るのです。しつかりと、立ち役に語らなければならないのです。こゝの対照が難かしいといふばかりでなく、岩代の出て来るまでといふものは、誠に取立てゝ何も無いので、本当をいふと、非常に力のある人でなければ巧く持てない位、語りにくい上るりだとおもひます。
更らに少しく委しく申しますと、此の徳右衛門の話など随分難かしいものだとおもひます。それは、彼の麻痺薬の話をして『えゝ憎さも憎し、直ぐに申上げう、とは存じたれど』のあたり他聞を憚かるべき内緒話でなければ可けないので、声を秘そめてしまうと、見物に聞えない事になる。充分に聞えるやうに、やはり普通の詞になつてゐて、それが内緒話をしてゐるやうにならなければ可けぬのです。どうも大抵は内緒話らしく聞えないやうにおもひます。斯ういふ例はいくらもあつて、彼の『沓掛』などもその一つで、婆と八蔵のやりとりは、隣りの部屋にとめてある座頭に聞えないやうにする内緒話でなければならないのです。その心持、そのイキで語れば、さう聞えるものと思ひます。
『ホヽ其儀は某も疾く承知致した、まそれは格別……』と駒沢が『此の衝立にある朝顔の唱歌は……』とこれからは表向きの語気になるのです。徳右衛門の『えゝ夫れでござりますか』は何だこんなものを、といふイキで『それに就ては、哀れな話しが……』とちよつと鼻声になつて、それから朝顔の物語を致しますが、これは又た普通、通り一片といふ風になり、又た話をする中に、可愛想なといふ心で、愁ひになり『何とまア不仕合せな者もあるものでござります』と『涙片手の物語』となるのですから、この間の徳右衛門の詞は確かに難物といはなければなりません。
『若し言交はせし我妻かと、轟く胸をおし鎮め……』で駒沢のとゞろく胸はグツと時代に、ゆつくりと気を入れて語らねばなりません。よく、スラ〳〵と普通にやつてしまうのを聞きますが人形の思ひ入れを考へなければ困ります。そして、直ぐそのあとの「むゝ、夫は扨哀れな話、身も今宵は何とやら物淋しい……云々』の詞は、ワザと何気ない風になるべきでせう『いふは仔細のあるぞとも、知らぬ仏気徳右衛門尻軽にこそ立つてゆく』のこゝまでが前にも申した非常に語りにくい処で、『跡へ相役岩代多喜太』が出て来れば全く助け船といふ位なもので、総てが楽になつて来るのです。
此の岩代は何かにつけて駒沢に突つかゝるのです。前の端場で萩野祐仙といふ怪しい医者にしびれ薬を以て駒沢を毒殺させやうとするほどの男、この又祐仙は深雪を我がものにしやうとして拒絶され駒沢を恨むでゐるしれものです。『先刻身共が知音たる萩野祐仙、同席如何といはれた貴殿……』と岩代の言葉に、駒沢は『ハテ高の知れた盲目女、万更怪しい、ナソレ、茶箱も持参致すまい』とこれはしツぺい返しですからグツと強く言ツてもよいと思ひます。岩代はまた、飽くまで意地持つ執拗者ですから、ウンと敵役になつてよろしいのです。
朝顔の出になり、別に何もありませんが、『召しましたは此の御座敷でござりますか……』の盲目詞の難かしい事は申すまでもありません。どうもこの盲目言葉を巧く聞かして呉れる太夫さんに、あまり出ツ会はしませんが、これに就て、私の聞かぢりですが、ズツと以前、組太夫といふ名人が壼坂を語つて沢市の盲目詞が滅法巧く、大層の評判だつたのですが、その折、楽屋内にゐたある三味線引が、師匠どうしてあアいふ風に語れるものでせうと尋ねました時、組太夫は、お前達には中々判る筈もないが、この盲人の言葉を語るには、口や咽で語つては駄目ぢやアレは耳で語るのだといつたといふ話があります、耳で語るといふのは何と難かしい事でせう。即ち、全神経を自分の耳に集中して声を出すのです。無論自分のその声を自分の耳で聞き入るのです。まア試めしに耳で語ツて御覧なさい。
『おはもじ様やと会釈する、顔も深雪の成れの果……』この『顔も深雪の』ですが、これは駒沢の地合になつてゐてついスラ〳〵と語つては困り者で、何しろ深雪は、庭先きに手を突いてお辞儀をしてゐるのです。スラ〳〵と語つては向き合つてゐるやうです。お辞儀をしてゐる深雪の横顔から物ごし恰好を上からじツと見下ろして、ハツといふ駒沢には思ひ入れをする間の必要もある筈です。これをこの『顔も』で切つてテンと絃を入れさせて『深雪の』と思深く語らねばならぬと思ひます。それから岩代の毒舌をあしらつて『サヽ、早う歌うて聞かせい』と『望む心は千万無量』です。この千万無量も、どうかすると、スラ〳〵とした地合になりたがります。
太棹33 12-15
浄曲うろ覚え(一〇)
田中煙亭
増補生写朝顔話
=宿屋の段=(下)
『焦るゝ夫のあるぞとも、知らぬ盲の探り手に……』と愈よ、朝顔の小唄にかゝりますが、この『さぐり手に……』は片輪節、めくら節といつて、御承知の少し調子の外れたやうな音を出すのです。
『露の干ぬ間の朝顔』の唄ですが、この唄の中にも彼の片輪節になる処があります『はら〳〵と降れかし』の処に合の手などもありますが、或は略されて弾かれる方が多いらしい。これは知らずに弾かないのかも知れないと、ある人が言つてゐました。元来、この『露の干ぬ間』の唄は、前段、明石の舟別れの段で、深雪が船の中で唄うのですが、この宿屋で唄う時は、前のと違つて唄うのが多いさうで、これは昔は甚く八釜しく言はれたものといふ事です。同じ深雪が、死ぬほど焦れてゐる阿曽次郎の作詞を節付けしたのですから、前のと違う理窟は無い筈ですが、前の舟別れの段などは、文楽でゞも通しに出す以外、床に持出されないものですから、違はうが違うまいが、宿屋だけお稽古した人に判らう訳もなく、聴衆にも判らないのですからまア致方もありません。
唄に引き入れられ、真に感涙--イヤ追臆の涙に咽んだ駒沢が『むゝ夫を慕ふ音律の、我々が身にも思ひやられて……』と思はず真剣に言つて、ふと岩代に気がつき『のう岩代殿』と、これはテレ隠しの気味になるのです。岩代の方は、そんな事とは夢にも知りませんので無頓着に『如何様、琴といひ器量といひ………』ときはめて漠然たるもので『身共が傍で今一曲』といふ事になるのです。
身の上話を所望されて、これからが例の美声の語り場所、所謂サワリ(なげき)になるのです。そこで此の「嘆き」「さはり」も、美音にまかせて諷ひまくり、人形が踊り出さぬやうに語りたいものです。文句を見ても『あはれみ玉へとばかりにて、声を忍びて歎きける』とあります。それから其中に、ちよつと気付きました事は『こひしこひしと目を泣き潰し、物のあいろも水どりの、陸にさまよふ悲しさは』とあるその水どりを『水とり』と澄んで語る人をよく聞きますが、これは本にもちやんと指定してあります通り『水どり』と濁つてもらひたいのです。
駒沢は『若し其の夫が聞くならば、嘸ぞ満足に思ふであらう』と衷心からグツと愁ひをもつて言ひ、又た『のう岩代殿』とテレ隠しに振り向きます。『虫が知らすか何とやら……』と朝顔は『名残をしさに泣く〳〵も、心はあとにさぐりゆく』で、このさぐりゆくも例の片輪節に、音の調子を少し外して語ります。若侍が出る、岩代がお先きにまゐると『立ち上りしが胸に一物、心をあとに奥の間へ………』ですが、この胸に一物、が近頃(ずつと前から)語るのでは、五行本にもその通りで何が一物だか判らぬ事になつてゐます。これは明治時代人形の方では時折見せたものですが、此処に一人の刺客が現はれるのです。
この『胸に一物』で下手に顔を出す刺客笆(わせ)久蔵に岩代が目配せを致します。久蔵は心得て、床の下へかくれます。駒沢が手を鳴らして下女を呼び徳右衛門に来てくれと言ひ例の『何か書き付け用意の金子、薬の包み、取り認むるほどもなく。』になります。此処で本文によりますと、次のやうな一場面があるのです。
『……目の先きへ、畳を貫ぬく白刀のきツさき、気転の駒沢在り合ふぬるみ(茶)刀にそゝげば下には血汐と心得て、してやつたりと畳刎ね上げ現はれ出でたるわせ久蔵、駒沢覚悟と切りつくる、刃をいとはぬ烟管のあしらひ、廊下伝ひに来かゝる亭主(これは今の稽古本にもある)こは何者とためらふ中、苦もなく刀打落し、とるなり斬るなり途端のへうし、首は遙かに飛び散つたり、はゝア遖れのお手の中、コリヤ、ハヽヽヽ出来ました。………』
これで徳右衛門が障子の中にはいつて手をつかへ『唯今召しましたは何の御用でござります』になり、例の金や薬を朝顔に届けてくれといふ段になるのです。少しお芝居過ぎる処からでもやめたのでせうが、岩代は何とかして、此の道中の途中で駒沢を亡きものにしやうと、最前は毒薬の手で失敗し、今又た刺客を用ゐて又もやしくじるのがよく判るとおもひます。特に人形では賑やかになつて、場面の変化を救ける訳でもありませう。
『時計の七つ』で岩代と連れ立つて出立する。あと、深雪が戻つて来ます。品々を徳右衛門が渡します。深雪は扇を手にして『が申し旦那様』で、嘗て自分が持つてゐた扇の事ですから、手ざわりで直ぐ不審を抱きます、その心地があつて『此の扇に何ぞ書いてはござりませぬか』と尋ねる。徳右衛門は開いて見て『金地に一輪朝顔、露の干ぬ間………』とこれは絵を見るのですから、裏の『宮城阿曽次郎事、駒沢次郎左衛門』と字を拾ひ読むのとは、格別に違つた言ひ方をせねばなりません。どうかすると、此の絵を見て、同じやうに、字を読むやうにいふ人が無いでもありません『ハツとばかりに俄の仰天』で朝顔が駆け出します。そして『突退け刎ね退け、杖を力に降る雨………』ですが、『突退け』と『刎退け』の語り方、人形の仕草を考へると直ぐ判りますが、つきのけ、刎ねのけにならない人があるやうです。それから『杖をちから』もち、か、ら、と一字づゝ切つて、盲が一生懸命に駆けゆく光景をさながらに現出させたいとおもひます。
大井川になりますが『追うてゆくーー』の所謂追つかけ三重は、三味せんは普通のシャン〳〵〳〵で、調子だけはウンと高い所でゆかなければなりません。『夫をしたふ念力………』はグツと強く『言ふ声さへも息切れの………』は、無論息を切つてかけて来たやうすを現はさねばなりません。川止めと聞いて愕然と『力も落ちて伏転び………』で調子を替へ『又た起き直りて見えぬ目に、空を睨んで………』もチヽンと例の如くめくら節になり、調子を外して押してゆく肝腎の語り場です『天道様、えゝ聞えませぬ〳〵〳〵』は実際天道様を睨んで語るやうにと言ひ伝へられてゐる位です『川止めとは、川止めとは、えゝ何事ぞいのう』は、声のある人なら、地合にして充分に振つて大泣きに泣いて可いでせう。
『おもへば此の身は先きの世で……』になつては、もうガツカリと力を落して、断念した心持で語る方がよいでせう。それから例の『ひれふる山』になり、又た一時昂奮し『拳を握り身を震はし』がすみ『やゝあつて起直り……』から又た平静にかへつて死に仕度をするといふ事になります。関助が出る、徳右衛門が出る。徳右衛門の腹切りはもつと前にする方が、舞台がダレずに持てると思ひます。それに女房が出る様になつてゐますが、これも不用の様にもあり、その辺は太夫の考へ次第、丁場の長短問題にも関係しますから、よろしきやうに、とこれで此の段の覚え書をおはります。
太棹34・35 16-20
浄曲うろ覚え(一一)
田中煙亭
摂州合邦辻
=合邦内の段=
この合邦ケ辻といふ上るりは謡曲の『弱法師』から採つた案で、安永二年菅専助、若竹笛躬の合作であります。上下二巻物で、上の巻は、住吉で玉手御前が俊徳丸に毒酒を侑める処、高安館の偽勅使、俊徳丸の家出、綸旨取戻し。下の巻は、天王寺西門閻魔王建立滑稽勧化、合邦の内となつてゐますが殆んどその内容事件の全部は、この下の巻の合邦内で明瞭になつてをりまして、芝居でも上るりでも近頃は、此の場だけが保存上演されてゐるといふ訳です。
さて、この曲は、普通世話物の中に入れられてをりますが、無論前半段は大体世話で、奥の半段は大方時代に語らるべきものゝやうに思はれます。他の曲に就て前にも度々申述べた事ですが、世話物でも時代の文章は時代に語られ、又時代物でも、如何な大きな時代物でも、世話の文章人物が出てまゐりますから、そのやうに心をつけねばならぬもので、曲の文意には能く〳〵注意を要するとおもひます。で、
この曲の出の文句〽しんたる夜の道……』ですが、これはクラサワ節とかいふ節で、時代の節なのです。『酒屋』の段の時も申したやうに、例へ、世話物でも、暗いとか忍ぶとか、探るとかいふ文章は時代に語るのを原則と致してありまして、玉手御前といふ時代の人物が忍んで来るのですから、これはどうしても時代でなければ可けますまい。それで、この玉手が本名のつじといふ時には、それが世話になるべきであります。それからこの『しんたる夜の道』を普通のオクリと同し節に語る人がありますが、大間違ひでせう。況して「しん〳〵たる」としんを重ねて語るに致つては論外です。去る有名な書店から出てゐます全集物にも、この書き出しが『しん〳〵たる……』となつてゐましたが、校訂をした先生の不注意と思ひます。
『恋の道には暗からねども……』のこの『恋』の字を派手に発音するのはいけません。此の恋はほんとの色恋の恋ではなく、百人一首なぞの沢山の恋歌でも、大抵色恋の恋でなく、父の恋、母の恋、子の恋、師の恋といふのが多く、此の玉手御前の恋も、義理の子である俊徳丸に対する一種の恋で、俊徳丸の命を助ける為めに癩病にして家出をさせ、あとから自分の命を捨てゝ其の病気を癒さうと、俊徳丸を探しまはつてゐる恋ですから、玉手ひとりの場合には決して派手な恋ではない。ですから、これも断然時代に語るのが正しいとおもひます。それですから、そのあとの『気はうば玉の玉手御前、俊徳丸の御行衛、たづね……』までを時代で語り『かねつゝ人目をも……』から世話になります。それから入平が出て来て、奥方の姿を見て『姿見るより様子もと、戸脇に厚き藪畳……』とこれが又た時代になるのです。
それから『細き声』から世話になりますのは、玉手がおつじになつて『かゝさん〳〵』と呼ぶ世話詞に釣合が悪いからです。合邦の『やア、わりやまだ死なぬか云々』の詞は大きくてはいけません、世話調子で小さく、其の上に驚く意味に語るのは無論です『立上りし』は前の詞のつゞきで、自然に立上るのですから、わりやまだから立上りしまでは立テ詞といふ心持で語り、『が、心付き』と世話坊主になり女房が気もつかずに念仏を唱へてゐるので「これ幸ひ」と小さく女房に覚られぬやうに語るのです。二度目にかゝさん〳〵と呼ばれて女房が『何とぞいふてか』と自然に出る世話詞『合点のゆかぬ』も不思議だなといふ味が出なければなりませんが、大抵の人がこの不思議の心持ちが現はれません、研究すべきでせう。
『やア、戻つたとは夢ではないか、マメであつたか嬉しや」は嬉しさの余り、思はず立上るのですから、其の心持を充分に現はさねばなりません。又合邦か『やい〳〵〳〵狼狽者、肌はふれても云々』のこれも時代にならぬやう、女房にさとすといふ意味がよろしいとおもひます。この詞なぞも、大きく女房を叱り飛ばすやうに語る人があります。が、考へちがひとおもひます。合邦といふ坊主になつてゐるものが、仔細も云はず怒るのは無茶でせう。それで狐か狸だといひ紛らして『必らず門の戸明けまいぞ』と開けさせぬやうにするのです。この『あけまいぞ』は謎で、奥には俊徳丸がゐるし、高安殿への義理といふものを強く考へてゐる合邦です。この意味を現はすのは至難ですが、この心を以て語りたいものです。その謎を解[げ]せずに女房は、眼をまはしてもよい、と又立上るのを『悪い合点』と又止めるのです。これから合邦は、詞に愁ひを持つて、右の謎の真意を説明するのです。『それがいやさに止めるのじや』と、此の詞も泣いては面白くありません、愁をもツた音でとめるのじや』と、すげなくいふのが宜しいと思ひます。親子の情は此の文章に十分籠つてをりますから、爰では合邦が泣くのでなく、母と娘が泣くべき所です、そこで『心のへだて泣き寄りの、真身の誠ぞあはれなる』となるのです。此の『あはれなる』も節尻は捨撥を弾かせずに、破ツて『娘は涙』と語りたいのです。即ち忘れな娘といふ意味で、つじの身の上は哀れな可愛さうな、気の毒な身の上といふ事ですから、文章を続けさせたいのです。
此のあたりまでは、非常に難かしい上るりであるとおもひます。とても初心の人には語りこなせないほどの上るりだとおもひます。
それから、玉手は、言訳もあるが人目を忍ぶから開けて呉れと頼みますので、母親は逢ひたい一図で涙ながら『あれ聴いてか合邦殿』となり『聞いてやつて下さんせ』と泣声で頼む、合邦は高安へ義理を立てゝカブリを振るゆゑ、『ハテ娘とおもへば……』と冠ぶせて語り、幽霊なら遠慮はなからうといふ。その詞に気を替へて『いかさまのう』と語り『可愛や立寄る所はなし』と合邦も涙声になるのです『母は喜び』から足取りが替つて、娘を内へ入れ『ひよつと夢ではあるまいかと抱しめ抱しめ』となりますが、此の抱きしめは、力を入れて押付けるやうに発音するといかにも抱きしめるやうに聞へませう。母は漸く心をしづめ』からの詞は、娘に逢つた嬉しさを充分現はして、語り『そなたに限り、よもや、よもや』のこのよもやは一度切つて、ちよつと考へて、疑ひの意味を現はします『嘘であらう、ホヽヽ嘘か……』とこゝへ笑ひを入れると、疑がつたが悪かつたといふ意味が出るかとおもひます。
これから『おもはゆげなる玉手御前…』とおめあてのさわりに移ります。
『おもはゆげなる玉手御前……』此の地合は、時代の文章ですから、いかにも玉手御前らしく、柔らかな品位を持つて語ります『打つけに……』は文章が、かなり露骨にキタナク書いてありますから、これは稍やキタナク語つてもよく『いやまさる』は愁を持ちます。惣体俗にサワリといふやうな所には色々の意味を含んでをりますゆゑ、よく文章を考へて語るべきです。
『父はとかうの詞なく納戸の中より……』『ヤイ畜生め』は合邦が憤然として怒り出し、これから長い立詞になります『われがやうな、女ゴの道も人の道も……』此の詞は、是非同しやうに並べませんと意味をなしません『女の道も』と『人の道も』と詞に高下があつたり、又長短があつたりしては折角の文章が泣き出します。それからずつと行つて『親への義理に助けおかつしやるを、エヽ有難い、恥かしいと……』の有難い、恥かしいも同じく並べ文句ですから同しやうに並べて語つてぼしいのです。母の『殺して義理が、サ立ますか、ハテ此の上は』云々も、義理が立ちますか迄は立詞です。それで、一徹な合邦が又た斬りかけるので『ハテ』と冠せて又留めて涙になり『此の上は随分と』と泣くのです。
『聞きやる通りの様子なれば……』の母親の詞も、泣いて娘に頼む意味を失なはぬやう『娘は飛び退き顔色かへ』この玉手……つじの詞は呆れたといふ心持の、蓮葉の発言を研究されたい。 『いやぢや、いやぢや、いやでござんす』女形によくある仕草でビヽヽヽヒーとやるあの意味がよいのです『折角艶ようすき込んだ此の髪が……』これは髪へ両の手を上げて撫でつける心持ちで語ると、其意味が現はれませう『今までの屋敷風……』は時代の文章『これからは色時☆風』は世話の文章ですから語り分けて欲しいのです『俊徳様にあふたらば……』と色つぽく語り『尼の坊主のと……』と刎ね付け、成るべく合邦に殺されるやうに仕向けるのです。殺されて早く、義務を果したい心持ちを忘れられますまい。合邦は其手に乗せられて、斬り付けやうとするのを、母親はまだ未練があつて、一生懸命に、あちらこちらとなだめすかし『オヽ道理でござんす……』云々のこれも立詞で、合邦に斬りつける隙を与へぬやうに、息もつかせぬやうに語るのです『夫婦になつて長の年月』と涙になつて頼むのです『母はいぢはる……むりやりに』と爰も押付けてゴツ〳〵と語りますと、いぢばるやう、むりやりのやうに聞こへます。
『納戸に入る月の……』此の入月のは、節尻に語る人と、中吟に語る人とありますが、月とある以上、神仏日月星は、吟にて語るといふ原則がありますから、吟の方がよろしいと思ひます。爰で、余談ですが、仏法で月は母を意味するさうです、月の影さへ見えぬとは、母の恩が見えぬ、即ち玉手の腹の中が見えぬ盲目な俊徳丸といふ意味を現はした文章、浅香姫はそれとも知らず、浅はかな考へといふ事を現はした文章だといふ事です。さて、
『影さへ見えぬ……忍び出て…』までは無論時代の文章ですが、余り時代過ぎますと、爰で眠くなる虞れがあります。総べて中ほどの、番台替りはゆつくり過ぎぬやう、足早やに時代で語り『忍び出て』は探り足に出て来るやう、片輪節の意を忘れてはなりません『我が業満てず母上に……』爰は俊徳丸の品位を保たなくてはなりません。又『愛着心は切れもやせん』と此の詞は盲の発音『のうなつかしや俊徳様……』玉手の地合になりますが、前の色町風の約束もありますから十分色ツぽく語る方がよろしいと思ひます『チエ情けない母上様』こゝは俊徳丸が十分怒つてほしいのです。玉手の『をろかな事を』云々の爰でもホヽ……と笑を入れて『愚かな事を』と語りますと色ツぽく聞えます『此の鮑で進めた酒は、秘法の毒酒』は、我身ながら身の毛もよだつ文章ですから、其の当時の、恐ろしかった事を思ひ出して、意味深く語るべきで『私が呑んだは常の酒』は気を替えて色つぽく『お前のお顔を醜うして、浅香姫に……』云々は憎々しく『我身の恋を』は又色つぽく、何とかして殺されやうと仕向けるのです。『いつか鮑の……』あたりは色ツぽく書いてありますが、此の中には種々の意味が含まれてあるのですから、よく〳〵注意して語りたいものです。
『姫はいつそ涙の出です』此の姫詞は強く思ひ切つて語るべきで、「恨みあまつてはしたなく」とあり、地位も身分も忘れてしまつてよろしいのです。『玉手はすつくと立上り』から嫉妬になりますが、強いのは勿論ですが、発音も上がれ声といふのになります。余りの乱行に、合邦が馳出て突く事になりまして、もう合邦は怒り絶頂に達して大きく『何吠えるのぢや、女房共』と大泣きに此の辺からは文章も単純になり、六かしい文章も無いやうです。唯だ手負ひの間、ダレぬやうに心掛ければよろしいのです。大抵の人は、手負ひになると、武士でも町人でもダレたがります。三味センの方も太夫の語れる限り、高い所で受けてダレさせぬ様にしたいのです。
委細の物語が済んで『出かした〳〵娘』から合邦は、もう泣くばかりです『左りに盃』で合の手がありますが、此はタヽキといふ節で、初めは百万遍の珠数を広げる音を三味せんで聴かせ、其の音が終つてタヽキの節になるのださうですから、初めからチヤ〳〵〳〵〳〵と弾くのではないと聞いてをります。此の念仏から段切の地蔵経(東門中心)までは別に語る方は大した事はないやうです。唯だ愁ひを忘れぬやう三味せんに乗せられて、能い心持になり、うたふやうになつてしまつてはいけません。取分け、此の段切は、三味せんの方に重きを置いてあるやうですから、此位に筆を止めておきます。
太棹 36 7-9
浄曲うろ覚え(一二)
田中煙亭
仮名手本忠臣蔵
=四段目塩谷舘の段=(上)
今更『忠臣蔵』の解説でもありますまいが、此の上るりは寛延元年八月、大阪竹本座に上演されたもので、竹田出雲、三好松洛、並木千柳などの合作です。で此の四段目は、史実として元禄十四年三月十一日夜、浅野内匠頭(塩谷判官)が江戸芝愛宕下の田村右京太夫の邸(鎌倉扇ケ谷)で切腹仰せ付けられ、検使として大目付荘田下総守(薬師寺)副使として目付多門伝八郎、大久保権右衛門(この二人を一人にして石堂)が田村邸へ赴き、夕七つ時滞りなく相済み、死骸は弟大学が受取つて芝泉岳寺に葬つたといふ件を前半とし、同年四月十八日播州赤穂で脇坂淡路守(石堂)、木下肥後守(薬師寺)の二人が城明け渡しに出張した件と江戸の凶変が本邸に伝はつて大石(大星)を初め、家中の銘々が数回に亘つて大評定を遂げたといふ事実を、一日の中に搗き交ぜて脚色したものです。書下し初演は有名な竹本政太夫が語つたといふことです。
いづれ難かしくない上るりもありませんが、此の四段目など又取別けて厄介なものでせう。荘重に品よく、総て音づかひのやかましい事、講釈を聞くだけでガツカリする位のものです。先づ「浮世なれ……」のオクリがあつて「塩谷判官閉居によつて扇ケ谷の上屋敷」この語り出しから、大変なものです。「塩谷判官」の四文字の最初の「塩」の字一字とアトの「谷判官」の三字とを等分に……五寸ヅヽの寸法に延ばして語り、更に「閉居によつて扇ケ谷の上やしき」まで一ト息に語らねばならぬといふ定めださうです。これが中々一息に言へるものではありません。ところでこれは一ト息に語つたやうに聴えて、息をする秘伝(?)といふほどの事もないですが、「閉居によツて」のツとての間で、鼻から息を吸ひ込むのです。
『大竹にて門戸を閉ぢ、家中の外は出入をとゞめ、事厳重に見えにけり』これだけかマクラであつて、此の音づかひが難しい。「扇ケ谷」の六もじで塩屋判官の位を聴かせ、そのあとが、世話になつて九太夫の出る事も判り「家中の外は……」で美しい女の出る事もおのづと判るやうに、又「厳重に」でて五万三千石の舞台を髣髴させるべく品威をもつて凛々しく聴かせたいものです。此のマクラ三四行で、此の一段の間見物に咳一つさせないやうに、といはれる位なものです。
『かゝる折にも華やかに、奥はなまめく女中の遊び……』
になつてガラリ足取りが替つて、所謂「花籠」の段にはいるのです。ノリ間といふやつで「なまめく」は声をギンに使つて顔世御前、続いて「お傍には大星力弥」これだけは足取りを代えて力弥らしく「殿の御気を慰めんと……」から「鎌倉山の」まで又ノリ間になります「色々桜花籠に生けらるゝ花よりも生ける人こそ花もみぢ」これは力弥の事をいふので、花もみぢは力弥の地合でなければなりませんから、派手になりすぎて、女の人が生けてゐるやうに聞へては困るのです。
「柳の間の廊下を伝ひ(テーン)諸士頭原郷右衛門」の出になりますが、このテンが大変なテンだといふ話です。強くていけず弱くていけないので、シカモ五万三千石の舞台一パイに響かなければイケないといふのです。元来テンにも三十六通りの弾き方があるといふ位のもので、築地にゐた仲助といふ人が嘗て名人の団平に、この四段目の稽古をして貰つた時、この「廊下をつたひ……テン」だけで凡そ三十日も通はされて、どうしても師匠の気に入るやうに弾けなかつたといふ話があります。
「あとに続いて……」と時代に出て、「斧九太夫」は侍の世話調子に語ります。「それは御奇特千万と郷右衛門」とこの郷右衛門を大時代に言つて「両手をつき」とこれだけちよいと世話になります。「今日殿の御機嫌ないかー」で頭を下げ「がお渡り遊ばさる」と申します。かほよ御前の「……築山の花盛り御覧じて(チン)御機嫌のよいお顔ばせ」このあたり中吟に外して、奥方の品威を見せる処です。
それからの郷右衛門の詞「花は開くものなれば、御門も開き、閉門をお赦さるゝ吉事の御趣向、拙者も、何、が、な、と存すれど、かやうな事の思ひ付きは、無調法なる郷右衛門……」といかにも無調法らしく、一字々々句切つて言ひ、それから気をかへ「や、肝心の事申上げん、今日御上使のお出と承りしが、定めて、殿の、御閉門を、お赦さるゝ御上使ならん」と彼としては実に精一パイのお世辞(?)を言つたので、ちよつとテレて「何と九太夫殿」と九太夫の方へ水を向けるのです。中々面白い気味合です。
一方九太夫の方は苦々しいといふ心で「へヽ、ハヽ、へヽ、ハヽハヽ、コレサ郷右衛門殿……」とひやかすといふかあざ笑ふといふか「人の心を悦ばさうとして、武士に似合はぬ、ぬらりくらりと、あとから剥げる正月詞」と、これから二人の争ひになりますが、「軽うて流罪、重うて切腹」と同じ調子で重ねて言ひ「じたい又、師直公に敵たうは殿の不覚」と言ひたいまゝの九太夫更に「言葉を飾らず真実を申すのぢや元を言へば郷右衛門殿、こなたの吝嗇しはさから起つた事……」と前の郷右衛門の言葉に反感を持つて言ひ出します。こゝでちよつと申し度いのは、この九太夫の詞の「吝嗇しはさから」といふ、しはさは五行本にもしはざとさに濁点が打つてあり、はつきり「しはざ」と語る人もあるやうですが、これは濁らずに「しはさ」といふのが本当と思ひます。即ち字を当てれば吝さとなつて吝嗇の意味を強く重ねことばにしたものです。
『おのが心に引当てゝ(テン)欲面打ち消す郷右衛門……』
とこのテンは思ひ切つて強くテンとゆき度いのです。「人に媚びへつらうは侍でない、武士でない、のう力弥殿」と今度は力弥の方へ持てゆきます。この詞など前の郷右衛門の言つた事と照応して、実に考へて聴いてゐると頗る面白いもので、作者の周到な才筆に感心させられます。
御台の詞になり「いつぞや鶴ケ岡で饗応の折から、道知らずの師直……」で鶴ケ岡の方をグツと睨んで憤りに燃え、やがて涙になつて次の「ぬしのある自らに、無体な恋をいひかけ……」となります。それから「判官様に悪口……」で又憤怒となり「元より短気なお生れつき……」でまた涙になるのです。そして其の憤りも涙も、御台所の品位をよく保たねばならぬ事は勿論です。
『……語り給へば、郷右衛門、力弥も共に御主君の……』
この三人の地合が皆な替らねばなりませんが、どうもゴツチヤになつてしまうやうです。「御憤りを案じ入り…イイ……」とこれは上の方へ外して語るのださうです。「心外……」と思ひ切つて強く、これは聴衆が驚くほど強く語つて「面てに……」と元のギンに戻つて品よく、あらはせりとなるべきでせう。これで『花籠』の条りを了りまして「はや御上使の御出でと……」になるのです。(つゞく)
太棹37 11-14
浄曲うろ覚え(一三)
田中煙亭
仮名手本忠臣蔵
=四段目塩谷舘の段=(下)
『早や御上使の御出でと……』は若侍が、揚幕からの『呼び』で、玄関広間犇めけば…から判官の地合になつて品よく威光を持ち『石堂右馬之丞』は『位』といふ節で、殆んど判官と違はぬほどの品を持たせたく『師直が昵近…』からの薬師寺は例の赤つ面です。『一間の内より塩谷判官…と塩谷の出ですがこれは、開幕のまくらにある『扇ケ谷』と同じ音づかひで『しづ〳〵と…』はギンになり少し下へはづれて充分に品位とおちつきを持たせます。
『御上使とあつて石堂殿、御苦労千万…』とこの御苦労千万を重くいふ人と稍やワザと安値にいふ人とありますがこれは上使とはいひ条、自分は大名であつて、石堂よりは上の人といふ心でこゝでは先づ安値にやつておくのでせう。次の『お盃の用意せよ』は膝元の者力弥に対して命ずるのだが、それがどうも、前後の地合と離れて、此の一句だけ膝元にいふのは難かしいと見えて中々さう聴えませぬ。薬師寺の『酒も喉へは通るまい』の冷笑も難かしい。懐中より御書取り出し…になり『其の文言』で石堂の読上げになりますが、これが、世話物に多くある書置などゝ違つて中々読んでるやうに聴かすのは至難です。最後の『切腹申付くるものなり』はちよつと上使ながら石堂は暗涙を呑んで読みたい所です『並ゐる諸士も顔見合せ、アキレ果てたる……』アキレ節といふやつ、またちよつと難かしいとおもひます。
『判官動ずる気色もなく…』グツと落ついた態度を示し、薬師寺が『だまり召され…』の暴言『当世様の長羽織ぞべら〳〵と…』腮をしやくつて充分に嘲弄的に。判官は『酒興もせぬ…』で笑ひを含み『血迷もせぬ』で薬師寺を睨み、気をかへて『今日上使と聞くよりも…』から石堂に向つて言ひ、『予ての覚悟見すべし』は薬師寺へかけて言ひます。右馬之丞の御心底察し入る…とちよつと気をつかつて『即ち拙者検使の役』は上使言葉になつて改まり、次の『心静かに御覚悟』は特に判官に言ひます。だから判官は『アヽ御深切忝なし』といひ、こゝでは充分に石堂に頭を下げる事になります『恨むらくは館にて』で鶴ケ岡の方を睨み『加古川本蔵に抱き止められ』から『無念骨髄に徹して忘れ難し』と充分に憤怒します『最後の一念によつて生を引くといツし如く、生きかはり死にかはり、欝憤を晴さん…』と物凄き形相を現はさねばなりません。
『家中の声々聞こゆれば、郷右衛門…を時代に『御前に向ひ』はちよつと世話になります。判官は『由良之助が参るまで…』で切つてちよつと考へ『無用、無用』と捨てるのです。郷右衛門は『聞かるゝ通りの御意なれば、一ツち人も叶はぬ…と憂ひになります『諸士は返へす言葉もなく(憂ひ)一ト間もひツそ(はギンで語り)としづまりける』と品よく極く静かに語ります。それから判官の切腹にかゝりますが、総て心しづかにギンにかゝるのです『座をくつろげ…』で御検使お見届けの前に、本にはありませんが、一度『力弥、々々、由良之助は』を入れるのです。力弥の『未だ参上仕りませぬ』で『ふうむ』と『三方引寄せ九寸五分押戴き』になり、二度目の『力弥、々々』を少し強く言ひます。今度は力弥が立つて行つて向うを見込んで、戻つて来て『未だ参上』でふるえ『つかまつりませぬ』といふこの間が中々持てないものだらうとおもひます。
判官は『存生に対面せで残念、ハテ残り多やな…』まで押して、気を代へ『是非に及ばぬこれまでと』とすてるのです『御台二タ目と見もやらず…御台らしく取乱さぬ悲痛な語り方も難かしく、由良之助が駆付ける『ヤレ由良之助、待兼ねたはやい』になりますが、この待兼ねたは、人に聴えぬやうに、といつて見物に聞こえぬでは勿論困ります。思はず苦痛の肺肝からほとばしり出づる言葉です。芝居で言へば花道の七三に由良之助はゐます。この『待ち兼ねた』で歌舞伎では大抵石堂が床几を離れて『苦しうない近う〳〵』と云ひますが本文にそれはありません。この『待ち兼ねた』一つで由良之助が舞台に進みますが、往昔某名優が由良之助をして、判官は数枚下タの役者が演つた時、初日に由良之助がどうしても舞台に来ません、判官の困つた事は申すまでもありません、一幕殆んど滅茶々々にして後に部屋へ行つて恐る〳〵伺つたが、其何故であるかを判ツきりと教へて呉れません、二日目も一生懸命に演りましたが、まだ気に入らぬと見えて由良之助は舞台へ進んで来て呉れません、三日目も…?これは私の記臆違ひでせうか、其判官役者は他の某名優の所へ行て事情を哀訴して教へを乞ひ其灸所を初めて聴き、今日可けなければ由良之助役者を叩き斬つて逐電する覚悟で舞台へ出たが、漸く由良之助が型の如く初めて舞台へ来て呉れたといふ逸話があります。その位な骨の折れる処なのです。難かしいとおもへば実に恐ろしい位な難かしい場所でせう。
由良之助が舞台へ来ました。判官の『定めて仔細聞いたであらう、聞いたか、聞いたか(とかすかに)エヽツ無念口惜しいはやい…』と充分に持つて意味を含めて語らねばなりません。それで由良之助の『委細承知仕る』ですが委細承…といつて三膝ほど膝り寄つて判官の耳許へ『…知…』といつて、又下つて『仕つると』頭を下げ『此の期に及び………尋常を願はしう存じまする』と平伏します『言ふにや及ぶ』で判官の『ぐうツ〳〵と引廻し…』になりますが、これも申すまでも無く、突込んだ九寸五分を引廻はすやうに語り『苦しき息を、ホツとつき…』のホツとは、声のホツとでなく、息でホツと語ります。それから『此の九寸五分は汝へか、た、み…と切つて言ひ『我が欝憤を晴らさせよ』は息の無い処で、頗る凄惨に、前の湊川にて楠正成、最後の一念の処に照応させねばなりません。
『由良之助にじり寄り』…から憂ひで由良之助の地合になり『うち守り〳〵』の繰上げ『拳を握り無念の涙はら〳〵〳〵…』と必らずこれは三度だけに…『根ざしはかくと…』となるのです、薬師寺の雑言を耳にもかけず石堂の『イヤナニ方々、葬送の儀式取まかなひー』これは由良之助に心を籠めて言ひ『此の石堂は検使の役目、切腹を見届けたれば、此の旨を言上せん』は上使言葉になり『並居る諸士に目礼し』はサラリと『悠々…』と品位を保つて立帰ります。薬師寺の又もや暴言『俄浪人にまげられな』と由良之助から一順諸士の顔を憎態にねめまはしてはいります。それから本文では『御台はわツと声を上げ…』ですが、実は奥から此時出て来るのですから、皆『御台は一間を立出てゝ…』と語ります。これより葬送の采領で『御菩提所へと急ぎゆく』で、アトの評定から門外は太夫が代りまして、今はこゝまでしか語りません。
太棹38 9-12
浄曲うろ覚え(一四)
田中煙亭
仮名手本忠臣蔵
六段目勘平切腹の段(上)
お軽身売り一節があつて太夫も代ります『娘は駕籠にしがみつき、泣くをしらさじ聞かさじと、声をも立てず咽せかへる、情なくも駕籠舁き上げ、道を早めて……』からの語り場です。
『急ぎゆくー-母はあとを見送りみおくり……』からで『ある由ない事言うて娘もさぞ悲しかろ』と婆は独りごちながら、そこに勘平の突ツ伏してゐるのを見て、もうすツかり涙をおさめた様子で、今まで泣いてゐたか笑つてゐたかも判らぬといふ風に気を代へて次の『おゝこゝな人わいの、親の身でさへ思切りがよいのに、女房の事ぐつぐつおもうて……』と勘平の悲歎に暮れてゐる態をなだめる心持に言ひます。
何分、一段を『身売』と『切腹』とに分けて語るのでまくらも何もなく、直ぐにこんな詞になるので、語り出しにくさうなものです。それから又た一つ気をかへて『この親父どのはまだ戻らしやれぬ事かいのう』と戸外を見る心持で独り言の中にフト勘平が最前会うたといふ話を想ひ出して『どこらで逢はしやツて、何処へ別れて行かしやツた』と訊ねます。『成るほど』と急所を突かれた勘平は狼狽して『それは別れた其の所は……』と婆が何げなく訊く、その何気ないほど勘平の方で更らに狼狽して『烏羽、伏見、淀、竹田……』と『口から出次第滅法弥八……』となるのです。
この時の勘平は丸腰ですから詞は総て世話の心を忘れないやうにしたいもので、刀を差せばもとのさむらゐ、これがちよツとよく間違ひます『引窓』の南方十字兵衛のやうになつてゐると又たハツキリと判りますが、勘平の方は、どうかすると、侍でやツてゐる人が多いやうですが注意します。
猟師どもの出はいりは唯だドヤ〳〵とかなり騒々しく語つてもよろしいでせう『笑止々々と折連れて皆々我家へ立帰る……母は涙の隙よりも……と此処から語る人もあるやうです。直ぐに例のよもや〳〵になるのですが、これは本には『よもや〳〵〳〵〳〵』と四つになつてゐますが、大抵三つでせう。よもや--と一つ言ツて考へてよもや--で又た切り、それから更に思ひ直してもどうも疑はしいといふ心で、『よもやとは思へども合点がいかぬ』と続けます。もうこの時婆は泣いてはゐません、勘平がおやぢを殺したのだなと疑ふ心もちの方が強くなツてゐるのです『金受取りはさツしやれぬか』といひ『親父殿は何と言はれた』間をもツて『サア言はツしやれ』又間をもツて『サア何と……』じいツと勘平を見つめながら『どうも返事はあるまいがな』と、もう此の時は彼の財布に気がついてゐて『無い証拠はこれコヽに……』と悲しく、けはしくなるのです。
勘平が『イヤそれは』といふのに冠せて『それはとは、エヽ和御寮はなう』と切つて、モ一つ『わごれよはなう』と返して茲で泣き、あとの詞を畳みかけて『……皆やるまいと思うて、コリや殺して取つたのぢやなア』と泣きます。それから『 欺されたが腹が立つ、わい、やい』と三つほど勘平を打つのです『あんまり呆れて涙さへ、出ぬわいやい』と、中々あきれたやうに言はないものです。それから『のういとしや与一兵衛どの……』からは地合になるのですが、この与一兵衛どのを『与一兵衛節』といふさうです『畜生のやうな聟とは知らず……』から『京三界をかけあるき』『……却つてこなたの身の仇となつたるか』までの、殊に最初の『年寄ツて』までは殆んど詞にしてあとも、成るべく唄はないやうに語りませんと、婆が若くなつて困ります。『五体に熱湯の汗を流し、畳に喰ひ付き天罰と、おもひ……』と勘平の悔恨は懸命の苦悶を現はすこと勿論です。深編笠の侍二人ですが『原郷右衛門、千崎弥五郎』の名乗りをフケと若役の二人にして別々にいふのは芝居から来たもので、実は郷右衛門一人で『御意得たし』までいふのが本当ではないでせうか。『折わるけれども勘平は……』咄嗟の間非常に狼狽した心持を現はしたいものです。『腰ふさぎ脇挾んで…』で初めて勘平が武士に返ツて時代の地合、言葉になるのですが『出で迎ひ』は定石で世話にゆきます。郷右衛門の『見れば家内に取込、もあるさうな』は取込で切ツて続ます、勘平の『イヤもう些細な内証事……』は其場を言ひくるめる心持をあらはしたい。続いて『づツと通り座に着けば、二人が前に両手をつき』と、この二人が前には時代で、両手をつきは世話になる事、すべて定石と思ひます。
勘平の『御両所の御執なし、ひとへに頼み奉つると、身をへりくだり述べけれは……』は玉三の解説の時もちよツと書きましたが、行儀節といふやつです。続いて郷右衛門の詞になりますが『多くの金子、御石碑料に調進せられし段、由良之助甚だ感じ入られしが……』とこの由良之助が非常に喜はれたといふ意味を明瞭にする為め、入られし、で切ツて、がといふのがよいとおもひます。それから次の『御尊霊の御心にも叶うまじ、とあつて』とこれも切る方がよろしい。
弥五郎が金を出して前に置く『ハツとばかりに気も転倒、母は涙ともろともに……』で涙といふ字がある為めか、こゝで泣く人がありますが、これは詞でなく地合ですから、泣かぬ事にして憂ひだけに止めておけば可いとおもひます『コリヤ爰なふ悪人づら、今といふ今親の罰思ひ知つたか……』とソレ見た事かと勘平に憎々しげに叱言を浴せ今度は二人の方に向つて口説くのですから、此処に『はい』と一言、本にはありませんが入れます、そして『皆様も聞いて下され』と、これからは涙片手の話になるのです『お前方の手にかけて、なぶり殺しにして下され、わしや腹が立つわいのと……』の、下されまでは詞で、わしやから地合になるのですが、なぶり殺しにして下されわしや……』と言つてしまつて、更らに地合で『わしや腹が……』と重ねていふのと、一つだけで地合に取るのと両様ありますが、これはどちらでもよく、三味線の方には別にさはりもなさゝうですから、語り好い方を取るべしです。それから婆の『身を投げふして、泣きゐたる』になるのですが、この伏しては長く引いて語らずに、いはゆるステルといふ風にやつた方がよいかも知れません。このステルやつは大抵悪声の人がやるものらしいが、此の場合など結局ステた方が、婆が女らしくならなくて却つて好いかもしれません。
太棹39 10-12
浄曲うろ覚え(一五)
田中煙亭
仮名手本忠臣蔵
=六段目勘平切腹の段(下)
ダラ〳〵と大変長くなつてしまひましたが、これから愈々本題の勘平切腹の段取となるのです。舅を殺して金を取つた、といふ老婆の訴へを聞いた郷右衛門、弥五郎の二人は事の意外に驚きました。中にも血気の千崎は赫然として怒ります『ヤイ勘平。非義、非道の金取つて身の科の詫せよとは言はぬぞよ……大身槍の田業刺、拙者の手料理振舞はん』といきまきます。この時の弥五郎は、前段山崎街道で勘平に会つた時の弥五郎とは極端に変つて、疳癪玉を一ぺんに破裂させるのですから実に、ウンと思ひ切つて強く語らなければなりません。それからその詞の中にある非義、非道は是非切ツて語つて貰ひたいと思ひます。次の郷右衛門の詞の不忠、不義も同じく切ツて言つた方がよろしいのです。
郷右衛門は端然とおちついて一膝前へ出て例の『渇しても盗泉の水を飲まず云々』の長ゼリフになるのだが『ハツ情なきは此の事世上に流布あつて……』から愁ひを持たせるは勿論で『亡君の御恥辱と知らざるかうつけ者』まではそれでもまだ勘平を叱咤する息組ですが、ちよつと気をかへて『左ほどの事の弁なき汝にてはなかりしが、如何なる天魔の魅入りしと』は充分に愁ひ声になりて語りたい、それから汝にては無かしが、は、無かツしがと詰めて言ひます。又た『塩冶判官の家来早野勘平、非義、非道を行ひしと、言はゞ』の次ぎへ『コリヤ』と入れて『汝ばかりの恥ならず』とすること、前の婆の『はい』と同じく本にはありませんが入れるやうに致します。それから、『事をわけ、理を責むればツン……と此の次の『たまり兼ねて勘平……』との間ですが、充分に太夫と三味センとの息を合はせ、この一段のクライマツクスを言外に現はしたいものとおもひます。
グツと突立てた勘平『あゝ何れもの手前面目もなき仕合セ、拙者が望叶はぬ時は切腹』と切ツて、モ一つ重ねて『切腹と予ての覚悟、我が舅を殺せし事、亡君の御恥辱とあれば、一通り申開かん……』と、この詞は、非常に早口に語ります。いくら早くてもよいのですが、前から息ばつてゐますから中々早くハツキリとは語れないらしい。『一通り申し開かん。両人共に………(こゝへ)先づ〳〵〳〵〳〵と入れて『聞いて給べーー』ダアーとなります物語の『夜前弥五郎殿の御目にかゝり……とこれからの詞は、いよ〳〵本当の時代詞になるのです。『くらまぎれ……』でメリヤスになり『山越す猪に出合ひ……』は地合で、その時勘平はあらためて昨夜猪を、親父を打つた時の光景を想ひ出して、彼の山崎街道をみつめ、にらみつめるといふ心持で語りたいのです『二ツ玉にて打留め』の二ツ玉はつと言はずに詰めて呑んでふたツ玉といひます『天より我れに与ふる金と』の天は、高く、遠い、遙かの天を見上ぐる心で--『打止めたるは我がしうと、金は』この金は、を一度続けて詞で言ひ、さらに地合で『金は女房を売つた金』といふ人があります。
弥五郎が与一兵衛の死骸を改ため、『エヽ勘平早まりしと、いふに手負も見てびツくり……』は少しウキ音になります。与一兵衛を殺したは定九郎と判つたので、婆の『そんならアノ親父殿を殺したは、外の者でござりますかへ』の詞は難かしいと思ひます。今の今まで勘平の仕業と信じ切つてゐた婆は、この意外とも何とも、思ひも寄らぬ事に、唯だ呆れに呆れて出る詞でなくてはなりません『はアはツと母は……』からは年寄の愚痴で、もうたわいも無く泣くばかりです。『必らず死んで下さるなと、泣き詑ぶれば顔ふり上げ……』この顔ふり上げ、をよく、断末魔のタアーの調子で語る人がありますが、これは普通の地合に語つてアト続いてダアーと息を入れるがよいとおもひます。
郷右衛門が連判を取出す段になりまして『さら〳〵と押ひらき、此の度亡君のかたき』で急に思入れをして声をひそめるのが普通のやうですが、これは古来随分議論のあつと処と聞いてゐます。その前に『密かに見する物ありと』の処で、弥五郎に目くばせをする弥五郎は立つて木戸の外を見廻はすしぐさなどがありますから、特別に、かたき、といふ処で声をひそめるのは、郷右衛門ほどの人としては、あまりに小刀細工ではあるまいかとおもひます。その心ではじめから音でひそやかに語れさうなものともおもはれます。
『シテその姓名は誰々なるぞや』からの勘平の詞は、疳ばしツて息づかひも変つて来ます。勘平血判!でウオーツと一言入れて『心得たりと』になり『サア血判仕つた』といふ勘平のこれからの詞は、更らに弱つて上嗄れ声になつてしまひます、何しろ、いかに強い人でも、腹を十文字に切つて、おまけに臓腑をつかみ出した後です。もう普通人間の声は出ない筈です。力といふものは全然無くなつて、息を出してしまつた所で語らなければならぬといふ難物です、トテモ難物です。それからこの辺でよく女義などでは『のるな〳〵』などの入れ事をするやうですがこれは武士の最期に対して甚だしい侮辱といふものです、町人百姓ならいざ知らず、侍は決して後ろにはのらないものとしてあります、判官の落入りでも『どうと伏して息絶ゆれば』とあつて、侍は必らず前へ仆れて絶命する事になつてゐます。
次の『アヽ忝なや有がたや……以下の詞は、愈々全然呼吸の無い声でいふべきですが、一生懸命と、それから工夫とによれば必らず見物にはよく声えるものです。詞尻の最後の一字、即ち『母人歎いて下さるな』のなの字『舅の最期ものもの字『女房の奉公も』のもの字など声に出さずとも、見物にはチヤーンと聞えます。それから『反古にはならぬ此の金』のにはなども反古にやと言ひます、総て口を開く音は斯うなると言へないものです。こんな事は決して他の浄るりものにはありません、これが義太夫の難かしい処であつて、又たおもしろい尊とい処の一つでせうか。
婆の『勘平殿の魂の入つた此の財布……』以下は地合ですが、なるべく詞風に演つて三味せんはあしらいでやつた方が可いとおもひます。郷右衛門金取り納めのアト『おもへは〳〵』も『思へば』と一つ詞でいつてテンと入れ『おもへば此の金は』と語ります。『縞の財布の紫磨黄金』は財布の縞と紫磨とカケてあるはいふ迄もありませんが、紫磨といふのは黄金の最も美くしいもので、仏語の方で、九品蓮台などゝ同意義で、極楽往生、仏果を得て成仏するといふ場合に用ゐられるものです。勘平の『死なぬ〳〵、魂魄此の土に止つて』の魂と魄とを切るのがよろしい。それから、最後の婆のクドキ『さても〳〵世の中に……もやはり成るべく詞に語る方がよく『縋り付いては伏沈み、あちらでは泣き、こちらでは泣き……』とある後の泣きは大抵省いて『ワツと許りに』と語るやうです。郷右衛門の『聟と舅の七七日』を東京の人に限るかどうか知りませんが、七なのかと聞えるのが多い、これはなぬかでなくてはをかしい。『あと懇ろにとむらはれよ』は所謂『字不足といふので、六字しかありませんから、あとへ『を』か『の』かをつけて語ります。段切の『さらば、さらば、おさらば』は第一が郷右衛門次のさらばが千崎、おさらばは婆の分として語り分けて頂きたい。(完)
太棹40 8-10
浄曲うろ覚え(一六)
田中煙亭
伊賀越道中双六
◇…沼津の段(上)
天明四年の春竹本座に上場されたのが最初で、作者は近松半二、近松加作の二人「乗掛合羽」の改作といつてよろしいものです。所謂日本三大仇討の一つで、沼津はその六ツ目になつてゐます。前が「奉書試合」とも又た「饅頭娘」ともいふ段、次に新関、例の「遠眼鏡」の段があつて、その次が七ツ目「岡崎」です。先づ伊賀越ではこの沼津とまんじゆう娘と岡崎の三段が語り場所でせう。
語り出しは--俗に、こあげといひ『東路に爰も名高き沼津の里』の前に昔は『いさみゆく』といふ三重のおくりをつけたものだつたさうですが、今では前弾きがあります。それは東海道五十三次の道中の心もちを現はす事が中々難かしく、この前弾きは、今の浜町の師匠豊沢松太郎さんの作曲だといふ事です。
こゝも名高きはウキ吟で、三下りになつて、その名高きの『き』の一字に五十三次を現はすといふ節付けになつてゐると申します。『富士見白酒名物を………から。『蜘蛛のならひと知られたり』あたりまでツレ弾がはいりましてちよつと賑やかな三下りです。
十兵衛の出になつて『草の種かや人目には、荷物もしやんと供廻り……』の此のしやんがどうも多くはだらしがなくシヤンとゆかぬやうにおもひます。十兵衛といふ男は後に『町人なれど十兵衛は武士も及ばぬ』と文句にある通り、侍十人に匹敵する人物なのですから、しツかりと語り出さねばならぬものとおもひます。
『もうし旦那様、どうぞ持たして下さりませ、今朝から一文も銭の顔を見ませぬ……』と平作の出になりますがこの平作の詞は、唯だなるべく軽く語りたい、無理に年寄りじみて聞かせやうとする人がありますが、却つて困ります。何事もないやうに語る方がよろしい。
十兵衛の『サヽそんならやらしやれ』は平作に言つて『年寄のよしにせいでのう』は独り言です『ヤツと任かせは声ばかり』はヤツ、と一つモ一つヤツとと言つて三度目に漸く腰が切れるのです『一肩いては立留り』は三味線でその立どまりのフラ〳〵な処を聴かせ『今日は結構な天気ぢやなア』になります。次のヤツトも三つ目に腰を切つて『まかせトナ』とつけます。二肩いては息を継ぐ』で『名物のどぜう汁』の詞になり、そんなお追従のやうな事を言つて三度目のヤツトマカセになりますが、この三度目のヤツトは二度にする人があります。で、これには『ヤツトまかせの八兵衛トナア』と入れます。
それから『杖する度に追従口……』から岡崎といふ節になりまして又たツレ弾がはいります。メリヤスで続いて『小ずまふの一番もとりました』これを『一番もひねりましたもの』と言ふ人があります、四度目のヤツトまかせになつてドツコイ〳〵〳〵しよ』でつまづく事になるのです。用意の薬取出し付けると其侭、何とどうじや痛みがとまらうがのう』『はい』と入れて『これは結構なお薬……』となるのですが、これで想ひ出すのは、今の仁左衛門の平作です。痛みは止まらうが』といふ十兵衛の詞で『ハイ』と言つて下から十兵衛の顔を見上げ、テモ不思議とばかり、呆れた刹那の思入れて『結構なお薬……』と言ふセリフになりますその巧さは、今でも眼と耳に刻まれてゐます。
十兵衛が荷を受取つて『咄しもつてゆきませう、サア〳〵ござれと先きに立つ』で三下りになり『平作は千鳥足……』となつて芝居ならば花道から舞台にかゝるのです。この処『みだれ』といふ節付になつて十兵衛の後の詞の『その足取りを狂言師に見せたいわいの、乱れなどゝ言ふて伝授事に成りさうな事』とある通り、実際コヽの節も三味線も『みだれ』といふ伝授物であるといふ事です。
お米が出て来ます『踏み分けて来る道草に、菊の折草持ち添えて……』とこれは御承知の通り、傾城瀬川の後身で美くしい名花です、悪声で有名だつた名人組太夫が此処を語ると濃艶無類いつも聴く人をして恍惚とせしめたと伝へられてゐる処です。『もう爰がわたしの内、暫らくお休み遊ばせと』で本文通り、昔の残る風俗も、で時代に、そして全盛たつた花魁の品位も持たせねばなりませぬ。ともなひ入るや西日影で送り三重を弾きます。
『門の柱にしるしの笠、おかけなさるりや庭一ぱい』の『笠』は所謂節尻になつてゐるのですが、文句が次へのカケ言葉ですから、節もそれを破つてしめずに語ります『親仁が馳走娘の愛前垂の藍薄くとも……』のあたり、こぼれかゝりし、とある愛矯の、充分に美くしく艶に語りたいものです。親仁が娘の自慢を言ひ出す中に『何が身に構はず賃仕事、貧乏は苦にもせず………』あたり少し愁ひを持つて、『あんまりあれがいぢらしさで』ほろりとなります。
お米の詞になつて『父さんの命の親一日や二日でお礼は言ひも尽されず』云々、此の『命の親』などゝいふセリフは、ほんの足の爪のはがれたを直してもらつた位で出る文句ではありません。それが即ち、以前傾城であつたお米の性格を現はし、且つは此の時既に不思議ともいふべき金瘡の妙薬を欲しいといふ一念が燃えてゐる処から、ほた〳〵と斯ういふ仰山なものゝ言ひやうをするのであつて『今宵はこゝに御逗留遊ばして……』とこの辺は、余り世話に砕けずに、むしろ、時代に語るべきでせう。
『上手な娘のもてなしに、ころりとなればお枕と』と十兵衛が横になるのですが、この『ころり』が大抵コロリと鞠でも転がすやうに早口にやツつけられるやうです。何しろ人間が一人、坐つてゐたのが横になるのですから、そこに人形の気が無いと全く困りものになつてしまひます。万事此の注意が肝腎だらうと思ひます。
やがて荷持の安兵衛が笠を目じるしに帰つて来て、追ひやられ『鍵屋をさして急ぎゆく』と往つてしまう、そのあとに、本文にはカケ取がやつて来て平作、お米を術ながらせる、十兵衛が二朱ほどの金を宿賃だといつてカケ取をいなせる件が、五行本なら四枚ばかりありますが、今は誰れも語りません飛んで直ぐに『あと見送つて、十兵衛は』になります。平作の打明け話『尋ねて行つて箸かたし貰うては人間の道が済みませぬ』は教訓の詞、これは大切に語りたい。
『さては産の親父様、血を分けた我が妹が貧苦の有様、有合はせた路用の金』と、十兵衛が思案、煩悶の間ですから、この『金』といふを充分に引いて、時代にウンと張つて語ります。でそのあと『なま仲親子と名乗つては……』から世話調子になります。
十兵衛が『わしやこなさんに惚れたわいのと、じなつきければ』も節尻を破つて『ついと退き』と語ります。『父さん、あのお人もう去なして下さんせ』から打つてかはりし腹立顔』までツンケンと怒つていひます。平作にたしなめられて『ほんにまア在所者をおなぶりなさるを真受けにして』と、気をかへてもとの優しいお米に返ります。
『咄しに紛れてずツぷりと日のくれてあるに気が付かなんだと-戸外を見て-アレ三日月様が上つてござる』になり、例の『旦那様はお堅いけれど、時のはづみでは、主のある池へふんごみなさりよも知れぬ云々』の詞はお米にいふのだけれども、一方前の事もあり十兵衛へもアテこすりになつてゐます難かしい詞です『追風もて来る鐘の声いとしん〳〵と聞えける』と、こゝまでが、一口にいふ小あげ、の一段、これから六ツ目の切、『お米は一人物思ひ……』になるのです。
太棹41 8-11
浄曲うろ覚え(一七)
田中煙亭
伊賀越道中双六
◇-『沼津』の段(中)
『お米はひとり物思ひ』はあまり派手にならぬやうに、しんみりと出たいものです『仏だんの灯もほそ〳〵と嵐にふツと……』のこのふツとは、三味せんで風の為めに灯が消える音を聴かして貰ひますが、どうかすると、ふツと、と強く息を吹いて、恰かも口で吹き消すやうにきかせる太夫さんがあるのは驚きます。これは申すまでもなく唯だふツと気がついたといふ程度のふツとです。
『気のつく娘、奇妙に治つたとゝさんのあの疵……』の「娘」でヂヤンと〆めて貰つて、奇妙にの詞にかゝるのですが、それは彼の『酒屋』のさはりの『今頃は半七さん』と同じイキです『心でうなづき胸を据ゑ』から少し強めて来て『灯の消えたるは天の与へ、夫の為めと……まで強く語つて、ぬき足さし足しとウキ音のさぐりになるのです。
『起上つても真つ暗がり……』で真つ暗がアアアアリとやつて、太十の光秀のヒツソギやアアアアアリーもそれと同じにゆくのは、これは忍び、さぐり、かくれる、といふ定石のウキコワリを解さぬ人の仕事で、私は断じて間違つてゐるものと思ひます。アアアアと延ばしてもウキ音でゆかねばしのびの意味になりません。
『付木にうつし顔見合はせ……』は三味せんの撥数を少なく、カスメて弾いて貰ひます、でないと『娘ぢやないか、旦那様か……』と平作の驚く意外さが現はし難く『何故に此の有様、ヱヽ、何の因果で此のやうな……』といふ詞が出て来ません。平作はお米が貧苦の為めに十兵衛の財布でも盗んだのではないかといふ憤りが、そこにあつて、その取ツたものが印籠であると知つて、はじめて平作はハヽアさうか、と怒りの中にも悲しい、いぢらしいといふ情が出て泣き出すのです。
『問はれてお米は、顔を上げ……』は恥かしさと、父の憤りとに、おもはゆげに顔を上げるのですから、あアアアアげエーといふ節がついてゐますが、こゝは「顔を」で切つて「あアアアアげエ」となるとよいとおもひます。
さて物語りになりますが『わたし故に騒動起り、その場に立ち合ひ……』で、彼の愛人数馬が怪我をした当時を想ひ出す風情と心もちをそこに現はして欲しい。このさはりは別にこれといつて言ふ処もありませんが、とにかく以前が傾城であつたといふ心を失はずに、しとやかに、艶に語りたいものとおもひます。その末『どうぞお慈悲に御諒簡と』など、唯だ一句ですが随分難かしいとおもます。
十兵衛の『そんならこなさんは、江戸の吉原で、全盛の、松葉屋の瀬川殿ぢやの』に対してお米の『ハイ、テモよう御存じ』は息を呑んで驚きの意を表はします。十兵衛の『心の目算、思案を極め……』は思案の、と時代に考へる余地を見せて『極はめ』と世話になつて『イヤコレ太夫どの』と世話調子に語ります『わしも又恩ノ受けた』で切ツてハツと思ひ直す事あり『サ、其の恩を受けた人の為め……』と丸ツきり、意外の石塔寄進談に移るのですが、これは河合股五郎ではなく城五郎といふ人で、股五郎はそれに続かる筋の人なのです。『石塔一つ寄進が仕たいが、何と世話して下さるまいか』とこの「が」は切ツて、むしろ下へつけていふのです。
平作の『進むる功徳、共に成仏、とやら……』ですが、これには仏教の話があります。余談のやうですが、ちよいと書き添えたいとおもひます。成仏といふに就て、世尊のお弟子に目蓮尊者といふのがありまして、その尊者が六神通を得られた時、母親が餓饑道に落ちて苦んでゐました、尊者は涙ながらに託鉢に行きますと、食物が火になつてしまひます。尊者の悲嘆は一通りではありません。目蓮は遂に釈迦牟仁仏の処へ参りましてこの母親を救ふの法を尋ねます。世尊のおつしやるには到底汝の力にては助け難い。故に、四月十五日から七月十四日まで九十日間説教も休み、各自に行(ぎやう)を為し十五日に帰つて来い(これは夏安居と申します)その時に衆僧、羅漢千二百五十人(何れも五百人以上の弟子を持つたもの)に施行をせよ、そして経文を読め、さすれば七月の十五日には母が餓饑道をのがれて天道に生する、といふのです。これが勧むる功徳、共に成仏の仏説なのであります。
それで、平作は「是非お世話致します」となるのです。
十兵衛は帰りがけに『随分無事に……』と憂ひを含んで『親仁どん』とガラリと気をかへます『姉御さらば…』の処へ入れ事をする人もあります『心に一物』は時代に『荷物は先きへ』は世話にかへつていひます。
印籠を見てお米の『ハテ合点のゆかぬ』は息をすつて『金取出しよく見れば、金子三十両で』ビツクリして『此の書付は……』と思案げに読みます。『母の名はおとよ……』と本にありますが、これは「お」をとつて唯だ「とよ」といひます。それから、この書付ですが、中々読んでゐるように聞こえる人が少ないやうです。
『こりや待て娘、コリヤどこへ…』からは言へるだけ早く言はねばなりません。ツマリ口を早く、心をゆツくりと語れといふ事になつてゐます。平作の『どのやうな事があつても必らず出なよ』といふのは自殺の伏線です.『本海道は廻り道、三枚橋の浜伝ひ……』は、実際の地理では間違つてゐるらしいのですが、これは仏法の極意を現はしたものだといふ説もありまして、ツマリ表と裏の『勝手覚えし抜道を…』と真理をつかむといふやうな作者苦心の文句といはれてゐます『子故にまよふ三悪道』(餓饑、畜生、修羅の三悪道)など、昔しの作者は、殊にこの謡曲や浄瑠璃は仏学者が筆を執つたのが多くしきりに仏説がとり入れてあります。『折から来かゝる池添孫八……瀬川様か--とこゝへ『おゝ』と一ト言入れて『孫八とん』といひます。このお米は始終そは〳〵〳〵〳〵として『瀬川につゞく池添も、足にまかせ(で人形が前後に入れ代り)てツで(見得を切り)三重になつて「したひゆく」で舞台面が松原にかはるのです。
太棹42 6-8
浄曲うろ覚え(一八)
田中煙亭
伊賀越道中双六
◇…『沼津』の段(下)
舞台は千本松原に変りました。『げに人心さま〴〵に……』から『千本松にさしかゝる』までは所謂、置上るりでこれは相当時代に語られます、即ち十兵衛の人格、武士も及ばぬ丈夫のたましゐを説明する訳です。序ですが、この『武士も及ばぬ』をあまり豪らすぎるとでも思つてか『武士に劣らぬ』とかへて語る人があるさうですが、これはやはり原文の武士も及ばぬの方がよいとおもひます、武士に劣らぬでは当然な話になつて、特に十兵衛の豪さを表はす上るりの文句にならないでせう。
おーい〳〵の呼びがあつて、平作は息すた〳〵……ヤレ〳〵お早い足元、になり、気はせいても詞はしどろに息を切る呼吸、三十両の金を出して『これをお返し申します代りに、あなたにお頼みがござります-……』十兵衛の『……様子に寄て頼まれまいものでも無い、といふ闇の声しるべ……』とこのいふ闇はカケ言葉で、本に夕闇とあるが、もう夜明けにも間もない頃、これはカナで書いて貰ひたいものですね『あとより窺ふ池添、瀬川……』これは是非池添と瀬川を切つて音をかへて二人に聞こえるやうにせねばなりますまい『かたづを呑んで、聞きゐたる』は例のウキ節になります。
十兵衛の『シテ、其の頼みの様子は』に冠せて『はい、おつしやつて下さりませ』のあとに『いへとは何を』といふやうな入レ事をする人もあるやうですが。本来なら十兵衛の不審顔に対して直ぐ平作が『此の印籠の主のありかを』といふべきですが、上るりではちよつと『サアー』を冠せるやうに入れて『此の印籠のぬし』とゆく方が意味を解らせてよいかとおもひます。それから、この辺から平作の詞は、うれひを持たせねばなりません。
『七十になつてくも助が、こに叶はぬ重荷を持ち……』とあるそのこにとは何であるか、稽古本には仮名になつてゐますが、ある活字本には『魂に叶はぬ』といふアテ字が入れてありましたが、意味が判りません、尚ほ考へませう。それから『願ひを叶へて下さりませ』はつぎ節といふのです『血筋と義理の道分石』のみちわけいしは六字ですから、石イと一音加へて語ります。『分けて血の緒の三界に、踏み迷ふうこそ道理なれ』の三界は過去、現在未来の三界です。でこの『道理なれ』は中落しといふ所ですが、こゝではヂヤンと〆めずに節を破つて次の『親の心を察しやり』になるのです。
二人のやりとりがあつて、十兵衛の『恩の受けてはまさかの時、切先がなまらうぞやツ』は充分に押して語ります。そして時代になつてゐた十兵衛の詞が『やつぱり拾うた薬にして…』から世話に砕けます。『旦那様おさらば』から『脇差抜きとり腹ヘグツと……で、突立つるを語らずにチヽヽヽヽヽとメリヤスで継ぎ,その間に『これおやぢどん、危いぞや、何んとした』など入れまして、本文の『ヤア〳〵何んとした〳〵、コリヤ自害か、何故に……』となります。『平作苦しき目を開き……』でひらきイーツと苦悶する人が多いやうですが、これは私しのかういふ場合に対する考へで、開きで切つて、別にウアーツと苦悶する方にしたいと思うのです。
『どうした縁やら我子のやうに思ふもの、何んのこなたに引け取らすやうなこと、この親』といひかけて、『イヤ親ぢやない〳〵、この親仁が致しませうぞ』といひます、この辺中々難かしく、巧拙のわかるゝ所でせう。それから『子故の闇も二道に、分けて命を塵あくた』までは平作で『須弥大海』から十兵衛の地合です。『どこに誰れが聞いてゐまいものでも』あたりから十兵衛も十分憂ひを含みます。『今端の耳によう聞かしやれや』と押します。
『股五郎が落つく先は九州相良、道中筋は参州の吉田で逢うたと人の噂』とお約束の処ですが、ちよいとこの場所は実際どこの事かわかりません、前回も申したやうに本街道は廻り道、三枚橋の浜伝ひ』が実際の地理とはむしろ反対の場所でめる如く、この九州の相良も、三州の吉田も実際どこの事か判りません。これも前回申述べた通り謡曲や浄るりは仏学者の執筆に係るものであつて、殊にこの伊賀越の沼津などは、仏法の奥義を説いてあるとさへ申されてゐまして、九州相良は『九品蓮台』であつて、三州(参州ではない)の吉田は真如の月を見る悟道であり、十兵衛は善知識であつて平作はその他力によつて悟りを開き、こゝに成仏得脱するといふ事を説いてあるのださうです。故に平作はこれを聞いて『夫で成仏しますわいの、〳〵、名僧智識の引導より』と言つてゐます。尚ほこの仏説に就てはくわしく説明の要があるとも思ひますが、聞きかぢりのうろ覚えで間違つてゞもしまうと却つて不都合ですから略させて貰ひます。因に前号三悪道のワリ註は『地獄、饑鬼、畜生』でなければなりませんでしたのを後に発見しました。
このうろ覚えもこれで本街道へ戻りますが、九州相良といふのを一度は平作の耳へ、一度は立聴してゐる二人へ聞えるやうに申します。平作の、忝ない〳〵〳〵アレ聞いたかあたりからはもう段々と弱つていつて、息の無い所で声を出すやうにせねばなりません、これは前にたしか忠六の勘平のくだりで申述べたやうに思ひますが、イキの無い所の声は研究ものですが、結構聴衆に聴えるやうにいへるものです。『早う苦痛を』あたりはもう完全にそのイキです。十兵衛もこれからオロ〳〵声です『親仁様、幼少にお別れ申した平三郎でござります、ごゆるされて下さりませ』『おゝ兄、顔が見たい〳〵〳〵顔が一目……』『御尤でござります、ごゆるされて下さりませい〳〵』と彼のステゼリフといふ風になり、二人の御念仏になります『最早御臨終』といつて二人の方へ『今親仁様の御臨終一一』といひ、南無阿みだ〳〵〳〵〳〵仏ツと泣き落すやうに『こたへかねたる悲歎の涙』になり『小石拾うて白刃の金』とこれが即ちおくり火といふ訳でこの一曲が終ります。
(お詫び)。前号『起き上つても真暗がり……』の解説にアアアーと延ばしてとありますが、これは誤りで『暗がアー』と唯だ引くだけでないと忍びの意味にならぬと御承知を願ひます。
太棹43 8-12
浄曲うろ覚え(一九)
田中煙亭
菅原伝授手習鑑
◇…寺子屋の段(上)
四段目です、菅原道真公の飛梅の故事梅は飛びの歌を骨子として作られたもの竹田出雲、並木千柳、三好松洛、竹田小出雲の合作で、この寺子屋は出雲の筆で名作名文の称高いものであります。延享三年、竹本座の操芝居で大入を続け、江戸でこれが歌舞伎に移されたのは延享四年の夏といふ事です。
一字千金二千金、三千世界の宝ぞと-と置きがありまして口は、所謂『寺入り』で松王の女房千代が一子小太郎を連れて弟子入りに参ります。例のよだれくりなどの活躍があり、千代が隣り村へと『下部引連れいそぎゆく』…で床が代るので、普通「寺子屋」と申しますと、即ち、此の引つれをオクリにしまして、どりやこちの子と…から語り出されるのであります。以下例によつて聞きかぢり、うろ覚え、を並べる事に致します。
『…近付きにと、若君のそばへ…』で少し持ちます、そして「寄せ」と語りますのは、人形の仕草の「間」を見ますので『いろ青ざめ…』源蔵の屈托顔を現はしたいもので『子供をー』で又た間を持たせ『見廻し』と続けます『えゝ、氏より育ちといふに…』云々の詞は、苦心惨憺として帰つて来て一順弟子共の顔を見廻しての独り言で、『世話甲斐もなき、役に立たず』は、腹の中で憤慨焦燥の言葉でせう。女房の『いつに無い顔色もわるし』は夫の顔を見て頗る不審さうに『にくて口』はちよいと力を入れ、気をかへて『殊に今日は…』となります。『約束の子が寺入してをりまする』とある本文を『寺入、母御がつれて見えました』と多く語りますのは、後に源蔵が『そのつれて来たお袋はいつくに』の詞があるからです。
『さし、うつむいて、思案の体-』は充分にゆつくりと、間を持つて語りたいものです。『いたいけに』はギンを使つて『手をつかへ』を小供の言葉で語る人がありますが、あれは可けないとおもひます。『と、いふに思はずふり、あをのき、キツと見るより…』はいふまでもなく、ガラリ変つて強く、はつきりと『テサテ器量勝れて気高い生れつき…』いさんで『公家、高家』と切ります『テサテそなたは…』まで勇みの立言葉で語つてアハヽヽヽヽと笑ひを入れ『よい子ぢやのう』と非常に機嫌よくなつて語ります。
『よいとも〳〵上々吉、シテ其の連れて来たお袋はいづくに』もいさんで申します。戸浪が『いてこといふて』を聞いて『ウム?』とちよツと疑問的に直ぐ、うゝうゝうと呑み込んで『おゝそれもよし、〳〵大極上』と押して、気をかへ『先づ子供と奥へやり』と、これはもう普込の機嫌の好い言葉になり、源蔵は茲に身代りの首も出来て腹もすツかり決まツたのです。それにつれて女房も機嫌よくなりますが、未だ不安な不可解な心もちが残つてゐて『最前の顔色は常ならぬ血相』云々になるのです。『合点のゆかぬ』でちよつと切つて間をおき『とおもふた所に、今又あの子を見て』といひます『どうしやう……』のどうは少し持ツて語り『気づかひな、聞かして』までは不思議の音があらはれてゐねばいけません。
そこで源蔵の『ホヽウ気遣ひな筈』の長ゼリフになるのですが、この詞が肝腎な語り場で、殆んどこの総てが、タテ言葉であつて、句切々々に一分の隙きがあつても困るし、イキを吸ふ所も無い位のものです、しかも、これが実をいふと内緒ばなしなのですから、大きくなつてもいけませず、といつて力がぬけてゐては困りますし、皮肉な頗る六ケしい所なので、これ等が商売人の苦しい所であり且つはその価うちなのでありませう。憤りを含んで『のツぴきならぬ手詰』あたりまでは、イヤ大抵な方のを伺つて見ますとスキが出来たリイキが抜けてゐて、タテ言葉にならぬのが多いやうです。
『春藤玄蕃』と『松王丸ツ』とはウンと憎々しく『こいつツ』と充分に押して『数百人にておツとりまき』と大きく『はゝツ是非に及はず、首打つて渡さう』で切ツて『と請合うた』といひます。でこの『請合うた心はナ』と、これからちよいとやはらかに女房への話しになるのです『思うて帰る途すがら……』をちよつと持つのは考へる意味をあらはしますので、あれか、これかと切ツテそしてその音をかへなければなりません『玉簾の中の御誕生』と御の字を入れて、頭を下げる心で言ひ『菰垂の中で育つたとは』と、最前の山家育ちを思ひ出してサモにく〳〵しく語りたい。『所詮御運の末なるか』は勿論うれひを持つて『いたわしや、浅ましや』はかゝりといふ節で語るのと、詞で語る人とあります『屠所のあゆみ』はゆツくりと『アノ寺入の子を見れば……』から又たタテ詞になつて『鷺とも言はれぬ器量』でトンと絃がはいりますが、以下タテ詞のイキで地合ですが、三味線の有無にかゝはらず、又た三味線を眼中におかず、かまはずしツかりと語ります。女房の『待た、んせ、や』でその松王といふ奴は……もタテ詞のイキです『そこが一、かばちか』は切つた方が可いでせう『生顔と』で切つて、音をかへて『死顔と』と語り『よもや贋』で切つて『とは思ふまじ--ツ』とツメます『よし又それと』で又たタテ詞にかへり『松王奴を真ツ二ツ』は真ツを張つて、ぷたツをツメ所謂四分六といふ大上段です。
『胸をすゑた』までが前のタテ詞のイキで『が一つの難義』とじツとなります。それから、それと同じ音で『今にも小太郎が母親……』とゆつくり『此の難義』まで続けます。と、又たタテ詞にもどつて『イヤその事は気づかひあるな』になり『アヽイヤ』と源蔵はこれを制して『その手ではゆくまい--ツ』と押して考へながら『大事は小事よりあらはるゝ、事によつたらツ』と持つて『母もろとも』と力を入れてツメて語るのを可いとしませう。女房がさすがに『ヒエー』と驚くのに冠せて『こりややい、若君には--とこゝらは奥に子供等もゐるので、極めて内緒のイキでたしなめるわけです。気を兼ねながら『お主の為めをわきまへよ』と言ひます。
『互に顔を見合はせて』で憂ひになりますが、この夫婦のワリゼリフから以下、内緒の心もちを忘れずに、同じ泣くのでもウォワーツと大声にならぬやうに注意ものでせう『妻がなげゝば、夫も目もすり……』の一くさり、これといろは送りだけが四段目物らしい聴かせ場です。
で、この『源蔵戻り』は太夫も六ケしく苦しいものでありますが、三味せんの方も、なか〳〵本当に弾くのは大変です、これが満足に弾ければ一人前だといはれてゐる位な所です。それといふのも、じたい、修羅場を内緒に語るのですから、此の位難かしいものは少ないと思ひます、本当をいふと、押すにも張るにも内証の音にならければ可けないのですから……先代の大隅太夫が旅興行に出て、団平さんがゐないので、誰れか聞き洩しましたが、他の三味せんで、この寺子屋を出した所、源蔵戻りが、どうにもイキが合はず苦しくつて語れなかツた、といふ話を嘗て聞いた事があります。全く芸といふものは限りの無いものです。序でながらよくプロなどに寺小屋を小の字を書いたのを見受けるが大ベラボーです、寺の小屋で物を教へたのではない、新聞のラヂオ版などにもよく間違つてゐます、ちょつと思ひついまゝ……
太棹44・45 18-21
浄曲うろ覚え(二〇)
田中煙亭
菅原傳授手習鑑
◇…寺子屋の段(中)
『かゝる処へ春藤玄蕃』です。唐突のやうにウンと強く先づ張て、それから『首見る役は松王丸……』をおツとりと落付いて--これはよし仮病にせよ、病人を乗せてゐる駕です、このゆツくりと落付いた調子に語るのは、それが立役の松王の出であるが為めではなく、今の、病人といふことにあたまをおく為めです。
『やア姦ましい蝿虫めら……』強く『うぬらがガキの……』本には伜(せがれ)とありますが、皆ガキといひます。充分に例の権柄的に怒鳴ります。松王の出、刀を杖。これもゆツくりと語りますのは、第一駕を出る間が無くても困るし、病人の有様を充分に見せておきます、出て来て非常に大儀であるといふ息づかひをします、この息切れのする息の終りに『憚りながら』だけをつけて語ります。そして又た息をついて『彼等とても油断ナならぬ…』と言ひ『菅秀才の顔見知りしもの無き故』は屋台の中の源蔵へ、よそながら聞えるやうにいふ心構へをとります。歌舞伎では源蔵も戸浪も此の時は一間へちよつと隠れますが、そこに居る方が本文ですから、この、自分より外に菅秀才の顔は知らぬといふ大切な言葉は松王として源蔵に聴かせておきたいのです。それから『今日の役目、仕やうすれは……』仕おうすればを仕やうすればと語ります『ありがたき御意のおもむき』でちよつと頭を下げて『おろそかには』……で頭を上げて咳きを入れ、息を切つて『いたアされエず』と納まるのです。
『百姓どもゝぐるになつて』と百姓の方をちよつと腮でさして言ひ『めい、めいがせがれに仕立て』と銘々を切つて言ひます『こりやヤイ』と百姓の方へ『ざわ〳〵とぬかさずと』はサモうるさい奴等だといふ風に『一人づゝ呼ンだせ』はひとりづゝと一チ人ンづゝと両様に語られますが、どちらでもよろしいでせう。
『打てば響けの内には夫婦』から源蔵の地合になりますから、足も早く世話調子になるのですが、こゝの『胸とゞろかすばかりなり』までを唄つてゐる人がありますが、それは絶対に間違ひで、一生懸命に語らるべきは勿論、唄ひ気味になるなど飛んでもない事で又た『胸とゞろかす』が大きく威張るやうに聞えるのも困ります、実際心臓の鼓動を高めて、夫婦懸命の場合に向う意味のあらはれるやうに聴かしたいものです。
『おもてはそれともしら髪のおやぢ』で、これからいはゆる小供の呼出しにうつるのですが、この『呼出し』には、広助さん(松葉屋)の手と、後に団平さんの改められた手と二通りあつて、今多くはこの二通りが半々位に用ゐられてゐるといふ事です。無論大した違ひはないので、例へば例の『いのちの花落ちのがれしと』を節をつけて唄うのと、ほんの地合といふだけでずーツとやるのとの違ひとが、又た後の『猫なで親がくはえゆく』の節など少し違ふやうにおもひます。
先づ最初がわんぱく顔ですが、これは飽くまでわんぱく小僧が出てくるやうに、次の岩まの木みしり茄子が、いかにもいぢけて、秋茄子--一口茄子のやうな子供に聴えるやうに、秋茄子の木みしり茄子といつたので、諺にいふ嫁にも食はさぬといふ文句が出るのだが、これは非常に美味だから食はさぬといふ説と、一口茄子には種がないから嫁に食はさぬとの説がありますが序ながら記します。それから例のよだれくりです『抱かれてンのと』あたり充分に甘ツ垂れ調子に、次の『おゝ泣くな、抱いてやらう』は文句通り親父の猫なで声でやつて貰ひたい、どうもこの甘ツたれと猫なで声が、そうでなく、何の変哲のないものになりたがります。次の『私がせがれは器量よし』は小供の顔がなまツちろいばかりでなく、この親仁もぬき衣紋の心もちで語りたいものです、いはゆる声イロといふのに語るのです。
『スハ身の上』になります『入り来る両人』で、直ぐに玄蕃の強い『早く渡せと手詰の催促』に対してちツとも臆せぬ源蔵の『かりそめならぬ右大臣の若君……のセリフは、充分に緊張してしツかりと語ります。松王は『やアその手は喰はぬ』で先づ大きく押します『逃げ支度致しても--これは多く致いてもと語りますが、大きくなり時代になるからです--『裏道には数百人ンノつけおきは向ふへ言ひます、ツマリ遠くへではなく腮で向ふへいふのです『蟻の這ひ出る処もない』と又た大きく押しておいて、そして、それへ冠せて『が又た』と入れ言をして『生顔と』『死顔と』と切つて言ひ『相好がかはる--』と源蔵の顔を覗き込むでいひ『などゝ』と続け『身代りのにせ首--』と又覗き込んで言ひ「イヤモ」と入れて『それもたアベぬ--』と又大きく押します。
源蔵の『ヤア入らざる馬鹿念ツ』は一生懸命です。検使だとおもつて多少奉つツてゐたが、この松王の無礼至極の雑言を聴いた源蔵は『紛れもなき菅秀才の御首、おツつけ見せう!』まで我慢に我慢した肝癪玉を破裂させての気込みです。一方松王の方では、更らに『その舌の根の干かぬ内』とか何とか飽くまで……寧ろ無理に、憎らしく〳〵言ひますのは、一つには、万一、彼の小太郎が自分の子だと現はれても源蔵を怒らしてその子を斬らせねばならぬといふ風に仕向ける苦衷がそこにあるのです。おもしろい作意の対照です。玄蕃に怒鳴りつけられた源蔵は、いよ〳〵『胸をすゑてぞ入りにける』で、その時の心境を完全に現はすには最も骨の折れる処で、同じ節付でも、こゝは絃につく必要もなく、唯だ熱で語つてのける処だとおもひます。
戸浪の『茲ぞ大事と心も空』は又た一生懸命ですが、此の場の成りゆき、どうなる事かとハラ〳〵してゐる有様を現はしたいのは勿論で『検使は四方--をちよッと延ばして--八方に、眼をくばる中にも松王』になり『以上』で心の中に指を折つて『八人』といひ『その伜はどこにをるぞツ』と叱り付ける風に語ります。戸浪のドキマギする寺参りのせりふ『何馬鹿ナ』と松王が冠せて叱るので『おゝ、それ〳〵』と大詰りに詰ツてやツと想ひ出して、『これが即ち管秀才のお机、文庫』となるのです。『木地をかくしたぬり机』これはギンでゆツくり威と品を持たせて貰ひたいのです。
『ヤア何にもせよ、ひま取らすが油断のもとと』の詞は『玄蕃諸とも突ツ立上り』とありますから、松王の詞にする方がよいと思ひますが、両人一緒の地合的詞にしてもよいでせう。『ハツと女房胸を抱き、踏ン込む足も』をウンと押して『けしとむ』を大きく語ります。更らに大事件展開の場合です。歌舞伎などではツケを入れて松王の大ニラミとなる処です。源蔵が出ます、『首桶乗せてしづ--で十分に持つて--しづ出で』となり『目通りに』は大時代に語り『さしおき』と頭を下げます『首実験』の格式を此の場合にもちよツと用ゐねばなりません。それから『菅秀才の御首打ち--でちよツと頭を上けて松王を見て『たてまつる』で又た頭を下げるのです。一応儀式的に言ツてしまツてから『言はゝ大切ない御首』からは言葉が強く、そして早くなり『しツかりと見分せよ』と押します。松王が手をかけさうにするので源蔵はこれを払ひ退ける心になつて斜に見構へ、刀を後ろへ引つけて松王を睨む一生懸命です。『しのびの鍔元くつろげて』はウキコワリでウンと凄く聴こえねばなりません。
『堅唾を呑んンンでツ扣えゐ……る』と肩で息をしてゐる節廻し、それへ直ぐに冠せて松王は笑ひ、気を抜かずに『何ンのこれしきに性根どころ--とウンと押しておいて、又た、この「性根」を充分に繰ツて--『かハ……』と大きく笑つてのけるのです。これが殆んと一ト息で、前に堅唾を呑んで力を入れてゐる処へ、この松王の大きな笑ひです。生まやさしいものではありません、津太夫さん位の腹力のある人でなければ完全にはやり切れません。かういふ処へくると今の津太夫といふ人は天下一品の人です。その代りどんな長丁場の浄るりでも奥の方へ行ツて、足を早あて見物を飽まさせないやうにするのが、津太夫氏には出来ない、どこまで行つても同じ足どりて大きくやつてゐるので、物によると飽きて来て聴いてゐられなくなるやうな難があります。イヤ余談になりました
それから、鉄札か、金札かと切ツて--これは勿論、松王の詞です、歌舞伎の方で、こゝを玄蕃と割りゼリフにするのは、本当をいふと飛んでもない事です。『地獄、極楽の境』もさうですこの『境』は『さアかアいイ』と大きく押して言ひます『家来衆』と腮でいひます。さ、これから『捕手の人数十手ふツて立かゝる……』から『茲ぞ絶対絶命と……』『戸浪は祈願、天道様、仏神様』まで、およそ紙一枚ほどは、総てイロと詞で、息もつかぬやうに語られねばなりません、地合だといふので唄はれた日にはお話しになりませんそこで『あはれみー』と高い処ではじめて唄うので、太夫さんはやツと楽が出来るといふものでせう。松王の、『ためつ、すウがアめつ、うかゞひ見て』は押したり大きくは語りません。『ウム、コリヤ、菅秀才の首打ツ、たわ』でちよいとうれひの気味を持たせませう『まがひなし、相違なし』と大きく『といふにびツくり源蔵夫婦……』は又た難かしく、張つめた肩も腰も一ぺんに力がぬけてしまひます『あたりきよろ〳〵』が、どうかすると阿呆のやうに、恰かも紙治の三五郎でも出て来たやうにチヤリがゝツてしまうのがありますから注意ものです、やはり一生懸命に力を入れて、唯だ呆れに呆れた意味を現はさねばなりません。
玄蕃の『でかした〳〵』になりまして『褒美には隠くまつた科ゆるしてくれる』は勿論、源蔵にいふのですが、どうかすると松王にいふやうに聴こえるのは困ります、波瀾重畳、肝心の首実験がすんだので、もう木を入れない為めに、さうなるのでせうが、松王の『いかさま、ひまどツてはお咎めもいかゝ』云々から松王が又た病人になります『おゝ、役目はすんだ勝手にせよ』から玄蕃は館へまで例の権柄で大威張りに威張つて引ツ込みます。『松王はかごに……』と、病人らしく『ゆられて……』と半段ならば爰でチヨンです。
思はず長談議になつて、奥をもう一回説かねばならなくなりました。次は短かく片付けませう。
太棹46・47 13-15
浄曲うろ覚え(二一)
田中煙亭
菅原伝授手習鑑
▲…寺子屋の段(下)
玄蕃と松王が帰つてゆきます。『夫婦は門の戸ぴツしやり締め………と例の『五色のいき。』になりますが、もとより大緊張で『吻ツと吹き出すばかりなり、も気のぬけぬやう。『胸撫でおろし源蔵は天ンの拝し地を拝し、で天地を拝する仕草に合せたい『凡人ならぬ我君の』云々も大切です、御寿命は万々年と本にありますが、大抵は万々歳と語ります、どちらでもよろしいでせう女房の『いやもう〳〵〳〵』と、これは三つ重ねていひ、これも一生懸命で『首が黄金仏では』のうれし涙もむつかしい処です。
小太郎の母が来ます『門の戸たゝき』からせい〳〵と『今よう〳〵帰りました』まで息を切らして語りたい『一つのがれて又一つ』です『最前いふたはこゝの事』云々は外へ聞えぬやう、女房を内証でたしなめる心を用ゐねばなりません。千代の『これはまア〳〵お師匠様でござりますか』あたりはわざと愛想よく云ひます。それは、何げなく、といふ意味ばかりでなく、作者は前の寺入で、この千代の性格を、極めて愛想の好い『愛に愛持つ女同士、来た女房は猶ほ笑顔……」と指定してをるのです『どこに居やるぞお邪魔であろ……』と見廻し探すのにコヱイロを出すのです『奥に子供と遊んでゐます』は極くあつさりと何げない体にいひます。真顔で言へば、ふうむと千代は、ちよつと考へておいて、又た、事によつたら此処で斬つて来るナ位までは考へを廻らして『おゝそんなら連れて帰りましよ』と軽く言ひます。
『ずツと通るをうしろより』はウキ音で凄味を出します。この斬り付けから、源蔵の『すゝみかねてぞ見えにける』まではウント早く語りますが、又た成るべく、源蔵の地合と千代の地合とを分けて語りたいとおもひます『小太郎が母……』と直ぐに冠せて出ます『涙ながら……』でよく泣く人がありますが、これは詞でなく、作者の形容文句ですからこゝでは泣いては可けないでせう。単に愁ひだけにしておきたい。『若君菅秀才のお身代り』を強く言ひながらちよつと泣いて、モ一度、小さい声で『若君菅秀才のお身代り』と返して言ひます。源蔵の『シテ〳〵それは得心か』を押していひますと、それへ冠せて千代が『サア……』と入れてこゝで泣きます、こゝで泣きますのは、楽も出来ますし、情もうつゝて来て可いのです『六字の幡……』でちよつと泣いてよし、又たうれひだけでもよろしい『シテ、其元は--そこもと--何人の御内証』は不審の意味をコヱイロに現はします。
それから『梅は飛び』の歌になりますが、これを大きくいふ人があり、又た独り言に語る人がありますが、独り言の方がよいかとおもひます。無論この源蔵は世話調子を要します。『女房喜べ、せがれはお役に立ツたぞ』の松王は、ちよいと愁ひを含ませる詞でせう前半首実検の松王とはこしらへと共にガラリと変つた松王です、従つて総て詞も早めに世話気味になります。総じて上るりは、奥へはいりますと、地合も詞も早めに語るのを定石とするので散々語り込んで来てゐますから、それでないとダレて来るし、見物にアキが来ます、さういふ風に節付も出来てゐる筈です。文楽の紋下となつてゐる津太夫氏の如き大家ですが、あの人はこの早めに語るといふ事の出来ない人でどこまで行つてもダラ〳〵と押して行つて、ともすれば飽きが来るのです。殊にこの菅四などを聴きますと、いつもこの感じがして困るのです。
さてこの松王がはいつて来ます『見るに夫婦は二度ビツクリ……あきれて……』となり、威儀を正し、とあります位『一礼は先づあとの事』の詞はキツと早めにだら〳〵とならぬやうに言はねばなりません。松王の『情なや此の松王』はちよつと愁ひを含んで早めに『御恩請けたる』と本にはありますが『御恩ヌうけたる』と言ひ『此身の因果』はグツと押します『よもや貴殿が打ちはせまい』で切つて『なれども』と冠せます。『こゝぞ--と力を入れて--御恩ノ報ずる時と、女房千代と言ひ合せ、二人の中の伜をば……『先きへ廻して』は地合に……『我子は来たか、と心のめど……松はつれない〳〵と……』あたりからウンと泣きます。『世上の口にかゝる口惜しさ』はもうたもち兼ねた悲痛の涙です。
千代の『叱かツた時の〳〵〳〵〳〵のその悲しさ』は充分に泣きます。そして『どうまア内へ』を二度返して、『いなるゝ物ぞ』の次ぎへ『いなア』と入れます『ま一度見たさに』コレと入れまして『未練と』といつて、地合で更らに『未練と笑うて』と語ります『何の因果に痘瘡まで、しまうたことぢやとせき上げて、かツぱとふして、泣きければ……』の落しですが、これは元来文弥おとしといふのになつてゐるのですが、それでは女の落しにならぬといふ所から団平さんが直して語らせられてゐるとか聞き及んでゐます。
『ともに悲しむ戸浪は立寄り』からの『他人のわしさへ骨身が砕ける云々』のあたり、充分に泣いて可いのであるが、大抵はノホヽンで、けろりかんと向うを見て口先きばかり骨身が砕けてゐるやうです。千代の歎きに対しては松王が『家で存分ホヱたでないか』と叱つておいて『御夫婦の手前もあるわい』とじツと、深く愁ひを内訌させるそれから『いやなに、源蔵どの』と気をかへます。これに対して源蔵は『いさぎよう首さしのべ』と小太郎を打つた最前の場面を思ひうかべて、これはウンと泣き声にならなければ不人情です。前の戸浪の時も言ひました通り、こゝへ来ると源蔵も大に泣かなければ可けません、歌舞伎なぞでケロリとしてゐるのが多いやうで、多分はシンの役者の邪魔をしない為めといふ理屈かもしれませんが、我が子を殺してゐる松王を泣かせずに、源蔵夫婦が泣くといふ二重の大悲劇を見せねばなりますまいとおもひます。松王がつり込まれるやうに『あの、遁げかくれも致さずに……』は泣いては可けません。泣かないから源蔵が『にツこりと笑うて』と又た大泣きに言ひます、殆んどこの詞を泣かないやうですが、実は不思議で堪らない位です。そこで堪らなくなつた、例の松王の泣き笑ひになる段取りです。『出かしをりました、利口なやつ、立派なやつ……』を先づ愁ひを持つて言ひ、これでほんとうの武士気質を現はします。『ツマリ前の家で存分……の詞と対照するのです。それからやがて桜丸をおもひ出して大泣きに泣く処に、松王が生きて来るのでせう。
もう此の辺に来ますと、地合の節尻など、丁寧に語らずに、むしろ、粗さうに語る方が飽きが来なくツてよろしいのです。菅秀才の出からは、もう別段何もありません。唯だサラ〳〵と語るやうにしたいのです『申付けた用意の乗物』は遠方へいふ心を失はず『コリヤ〳〵女房、小太郎が死骸、あの乗
物にうつし入れ……』はやゝ憂ひを帯びていひます。『御台若君』からお約束の調子が上つて、所謂四段目の段切りになるいろは送りです。総て愁嘆物ほど段切へ来て調子を上げるものになつてゐます。このいろは四十七文字は御承知の如く仏法を大衆的に解らせる弘法大師の名文で『諸行無常、是生滅法生滅滅為、寂滅為楽』の四句の偈から出てゐまして仏法の悟道を示されたもので、この大悲劇の結末として、又た稀有の名文句だとおもひます。
(をはり)
太棹48 10-12
浄曲うろ覚え(二二)
田中煙亭
義経千本桜 三段目の切
◇--すし屋の段(上)
『すしや』は延享四年十一月、竹田出雲、三好松洛、並木千柳の三名が合作して竹本座に上場された五段物義経千本桜の三段目の切で初演は竹本此太夫がその切り場を受け持つて古今の大当りを取つたといふ記録があります。口の椎木場は島太夫が語つてゐました。
『立帰る』といふ三重のオクリが本にもあり、昔はやつたものですが、今は賑やかな前弾きをつけて、この立帰るをやらなくなつてゐます。それから、本には「歌二上り」と指定されてゐるやうですが、次の「春は来ねとも花咲かす云々』の処、いつの頃からか三下りで演る事になりました『娘が漬けた鮨なれば、馴れがよかろと買ひに来る』で三下りを本調子に直して『風味もよし野下市に』と語ります、これから稽古本一枚の末『釣瓶鮨とは珍らしゝ』まで、無論、世話で語らなければ可けないのですが、どうかすると女の人など、これが時代がゝつて、侍の宅の玄関先のやうに聴こえるのがあります。こゝは肝心の、お里が甲斐々々しく立働らいてゐるすしやの店先の情景を出したいものです。「締木に栓を」はやはり栓ンノと発音上読ませます『桶片付けエーて、もうしかゝさん』と世話調子。それから、こゝのお里の詞の「女夫になれとおツしやツたが……日が暮れてもお帰りないは嘘かいなア』は、ちよツと音をかへて、お里の心のさみしさを聴かせます。次の母の詞で『親父殿を呼びに来て思はぬひま入り』の次に(あツ)と入れて『迎ひにやるにも人はなし』と戸外を見やつていふ心もち。
『噂なかばに明桶荷ひ、戻る男の取なりも……』は世話で、かなり派手に語ります。派手に語ればいかにも好い男のやうに聴えるものです。お里の『アレ弥助さんの戻らんした』など随分高い調子で、さも嬉しげに語ります『もしやどこぞに寄つてかと、気がまはつた案じたと……』はちよつと恥かしいやうな、女房顔のりんきらしい心持を見せます『さすがすしやの』はゆツたりと柔かく語りますと、こゝに品の好いお里が出来上ります。そしてあとの『娘とて』から又たほんとの世話になります。
弥助もずツと世話調子です。母親の詞のあとの方『殴付けさして下されと……』の次『げに夫をば大切に』だけを、ちよつと時代めかして語り『思ふ掟を幸ひに』から又た世話になります。
権太の出になります。この権太はちよつと時代がゝります。時代のくせとでもいふのでせうか『釜の下の灰までおれがものぢや』の次を『はアい』と誰れでも延ばして言ふやうです『親父の毛虫が役所へ行たと聞いたによつてちと母者人に』のちとを本には「少」の宇を書いて「すこし」と仮名がふつてありますが、やはり誰れも(ちと)と言ってゐるやうです。
此辺からの地合が総じて、普通の上るりの節とは違ツて、ちよつと麓風を崩したといふやうなものになつてゐると聴きつたへてゐます。音づかひも同様、大部分は所謂麓風といふのらしい『直ぐではゆかぬといがみの権』と本にはありますが、ちよつと切つて『太』とつけます。此処の権太の詞は一風変つてゐます。まア癖とでもいふものでせうか、例へば『私は遠い処へ』といふその「わ、た、く、し』などもそれでせう。
母の『根問ひは親の……』も麓崩しの節廻しです。『目をしばたゝき』も『大盗人にイーー』も『情ない目に会ひました』も同様です。
母親の『災難に合ふも親の罰』の次へ「コリヤ」と入れて『よう思ひ知れよ』といひます『どうで死なねばなりますまい』など大泣き声を、間のぬけた調子でやります。『常のおのれが性根ゆゑ、これもかたりかしらぬ共』はこれもかたり、で切つて、しらねどもと探り詞です。『親も盗みをする母の、あまい錠さへあけかぬる』は『母のあまい』を極く柔らかく、それこそ極くあまく語ります。金を出してから母の『何ぞに包んでやりたいが』の何ぞを『なアんぞに』と節を延ばして、そこらを見まはす間を聴かせます。
弥左衛門の出になります。『苦いてゝ親弥左衛門、これも庇持つ足の裏』と途中で小金吾の首を切つてこれをお身がはりにとの心ですから、疵持つ足の『あたふたとして』とある本文通り、うろたえ〳〵駆けて来る心持を充分に顕はしたいとおもひます。『南無三親父と内には転倒』とそれから『ともにならべて親子はひそ〳〵』とこの転倒とひそ〳〵、狼狽から静寂に変り『息を詰めてぞ入りにける』まで、ちよつと語りわける処が苦心です。
『奥より弥助、走り出て戸を明くる』は例の麓風で、音つかひも違うやうです『すし桶を提げたり明けたりぐわツたぐわた』この中に弥左衛門は持つて来た首を桶の中にかくすのです。歌舞伎では弥助に茶を持つて来させる間に見物に見えるやうに首の始末をするやうです。
『イヤ只今奥へ、呼びましよと行く弥助を引留め』とこの「引とゞめ」から時代に変ります。弥左衛門の詞『思ふ折から熊野浦にて出合』とありますかこれは「お出合」と(お)の字を入れます『人目を憚かる下部の奉公』と『心は娘をお宮仕へ』それから『弥よ助くるといふ文字の縁起』『油断は(ナ)怪我のもと』などは押して語ります。この油断はの前に(サア)と入れます。
『申し上ぐれば維盛卿』と、これからの維盛の詞は、いはゆる殿様言葉といふのです。それから弥左衛門が、我が身の上を語り『今日を安楽に暮らせとも』の次『伜権太郎めが盗みかたり』とうれいの詞になります。『語るにつけて維盛も』の次『栄華の昔父の事』の地合に、本には(表具)としるしがありますが、これも麓風に語るのです。この弥左衛門が弥助を呼び止めてからの地合は総体、ヅブに麓風になつてゐます。
『娘お里は今宵待つ、月の桂の殿もうけ』から、ガラツと又た世話に砕けてしまうのですが『維盛卿はつく〴〵と身の上又は都の空、若葉の内侍や若君のことのみ思ひ出されて』など又、半麓風なのでせう。お里の『おゝ辛気、何うぶな案じてぞ』の次へ(コレ)と入れて『二世も三世も』になります。
『維盛枕によりそひ玉ひ』から、ちよつと又維盛になり節も麓崩しになります。それから『解けたやうでも何処やらに、親御の気風残りけり』からの合の手も普通のものとは、ちよつと違うやうにおもひます。これから『神ならず仏ならねば』と内侍六代の出になるのですが、女義太夫などでは冒頭の紙一枚、即ち前に言つた「春は来ねども……釣瓶鮨とは珍らしゝ』を語つて直ぐこの『神ならす』へ飛んで、サワリ沢山に綺麗な声を聴かせるやうにするのです。
「すしや」の伝説と千本桜のあら筋
元暦の昔、三位中将惟盛は、従者と共に熊野に入り、清水清左衛門の家に居たが、そこの一人娘の聟になりといふ伝説があるそして元亀年中には其末孫に兄弟あつて、弟は小松弥助と名乗り後に名を成したといふ。又た延享の頃大和五条に鮓屋があつてその亭主を弥助といひ、其の妻をお里といつたとある物の本に見える。又た寛保三年中河内の在方に権太といふ悪漢があつて父の留守に母を欺まして金を取らうとして父に発見され、父を打つたので代官所に引かれたといふ事実もある。で、この『千本桜』の筋は、川越太郎が堀川御所で義経に対し詰問に来る、義経は言ひ開きをしたが、弁慶が鎌倉方と衝突して遂に頼朝義経不和となる。それからこの鮓屋の前、椎の木の場となつて、次ぎが吉野山の道行、四段目が狐忠信、それから彼の渡海屋で、碇知盛になるのである。この千本桜が江戸で芝居として上場されたのは延享の五年五月中村座であつた。
太棹49・50 22-25
浄曲うろ覚え(二三)
田中煙亭
義経千本桜 三段目の切
◇…すし屋の段(下)
『神ならず仏ならねば夫ぞとも……』と若葉の内侍、六代君の出になります内侍の詞の『いや申し、稚きを連れた旅の女……』を旅の「おうな」といふ人がありますが、これは普通「おんな」といふやうです、どちらでもよろしいでせう。弥助の『ことはりいふて帰へさんと』からは、少しダレる処ですから、成るべくサラ〳〵と語りたいと思ひます。
『なうなつかしやと取縋り、詞はなくて三人は、泣くより外の……』はちツと持つて語ります。麓風だけに音づかひも派手に、節も多い事になつてゐるやうです。『高野とやらんにおはすると』や『心ざす道追手に出合ひ』など皆此の麓風の大特徴です。それから『袖のない此の羽おりに』の次ぎへ「コレ」を入れて『此のおつむりは』といふやうです。
それからズーツと何にもいふ事もなく、お里のさはりになりますが、これもいはゆる麓風です。その前に弥助の詞『女は嫉妬に大事を洩らすと』をちよツと押して語ります。
お里のさはりになつて『私は里と申して此の家の娘、いたづら者、憎いやつ……』とそこへ(チン)と入れさせて『……とおぼし召されん申訳け』と破ツて出る方が器用でせう『女の浅い心から、可愛らしい』を詞でなく地合でかはいらしく、そして次の『いとしらしいと』は詞でかはいらしく語ります。で例の雲井に近い云々の儲け所などあつて『一生連れ添ふ殿御ぢやと』から足取りを早めます『身を振るはして泣きければ』は、九ツユリといふ節ださうですが、この(ゆり)といふのは一つゆりから九つゆりまであつて、又た一つヅヽユリ流しといふ節もあると聴いてをります。
村の役人が来て梶原が来るとの知らせに『人々ハット泣く目もはれ』から三味線が忙がしくなるやうですが、これは極くサラ〳〵と弾いて貰はぬと、語る方が骨が折れて困るやうです。内侍の『これこの若の』だけをユツタリと声を聴かせまして『いたいけ盛り』から又た早めます。
『様子を聞いたかイガミの権--と充分に持ツてゐて--太アと強くウンと力を入れ、それから又た早くなります。先達ての古靱のこゝは非常に結構でした。お里の『のう父さん、かゝさん〳〵〳〵〳〵〳〵』は思ひきつて何辺も言ひます。それから、その続きの詞の中で『討取るか生け捕ツて、褒美にすると』の次ぎへ『それ〳〵〳〵〳〵』と入れて『たツた今追ツかけて』と語ります。此のあたり、心持ちをゆツくリ、口だけ早く、と昔の名人も言ひ残してゐる、それでないと捲くれてしまひます。
梶原の出になりますが、これまで息をはづませて追込んで来てゐますので『はい〳〵〳〵と矢筈の提灯梶原平三景時--』の呼びなど、いかにも太夫の苦しい処でせう。先達而も文楽の古靱太夫のを聴きましたが、いかにも苦しさうで、為めに存外小さい梶原になつてアノ七尺ゆたかの人形の梶原にそぐはない感じがありました、それにつけても、こんなものになると、例の津太夫の腹の強い、大きなのには唯だ声嘆させられると思ひ出ました。
『家来数多に十手持たせ、道を塞いで……』の「道を」を充分にゆツくりと張つて語らないと時代になりません。
『鮓桶提さげ弥左衛門』から『女房かけよりチヤツと押へ』のこの爺と婆とのやりとりが、大抵の人のを聴いて、皆なノロクて困るやうです。双方、大狼狽の心持ちが出兼ねるのです。これは前で太夫さん大いに疲れ切ツた為めだらうと思ひます。
『維盛夫婦がきめまで、いがみの権太が生捕ツたり、討取ツたり』と遠方から呼びかける心を失はぬやうに注意する。それから『と呼はる声』でウンと穴をあけて、ツンと弾いて貰ツて『ハツとばかりに弥左衛門』になるのですが、こゝは三味せんも太夫も力が無いと、この穴が中々あけてゐられないらしいです。
権太の『首に致して持参』のアトへ『イザ』と入れて『御実検と差出す』と語ります。梶原の『先達て言はぬは、弥左衛門メに思ひ違ひをさそう為め……『出かいた』と一つ言ツてアハヽヽヽと大きく笑つて『出かいた』と押します。
権太の『ハテあのわろの命はあのわろと相対、私にはとかくお、か、ね』と三つに割つて言ひます。それから『金銀と釣替囑托の合紋と、聞くより頂き出来た〳〵』の次ぎへ、ハアハヽヽヽと笑ひます。梶原の『弥左衛門一家の奴等暫らく汝に頂くる』の次へ「ぞ」といれて、尚ほ「イヤモ」と入れて権太は『お気つかひなされますな』と言ひます。この辺からさらに又足取りが早められます。
『縄付引ツ立て立帰る』と梶原がはいりますと『あゝコレ〳〵其のついでに褒美のかね忘れまいぞ』は足をつま立てゝ見送る遠くへいふ音づかひを忘れまいぞです。
弥左衛門がぐツと突込みます『母は思はず駈け寄ツて--ヘコリヤ--と入れて『天命しれや不孝の罪』となります。弥左衛門は『内侍様や若君を、よう鎌倉へ渡したな』と押します。それから『もう〳〵〳〵〳〵』と入れて『腹が立って〳〵』になり『砕くるばかりに握り詰め、ゑぐりかけるも』まで強く語りまして『心は涙』とヘタルのです。こゝなぞは大事な処でせう。
『いがみにいがみし権太郎、刃物押さへて--で「イヤノ〳〵」とゑぐられる処を二度、それから『ウー〳〵〳〵』と三つイキをして『コレ親父殿」となります。『手負は顔を打詠め』の手負はハル節になつてゐますが、大廻しといふ節でこゝへ来たので、早く語ります『了簡ちがひの危ない処』と押します『ハツと思へどこれ幸ひ』も押します『此の権太郎の女房、せがれ』は泣き声で押します。
『逢はせませう、〳〵』と二度言ひます。『袖より出す一文笛』から、フウフウ〳〵と息を吹いて『吹き立つれば』で又たフウ〳〵〳〵と吹きます、息の無い処で吹くのは勿論です。
『ヤレそのお悔み』と本にはありますが『その悔み事、無用〳〵』と言ふやうです。『手を廻すればせがれめも』とこれから大に泣きます『不びんや女房もワツと一声その時に、チ、チ、血を吐きました』と二度ほどチ、チと言ひます。
力みかへつて弥左衛門『聞えぬぞよ権太郎』でアヽ……とこれから泣きます。弥左衛門これまで怒つてばかりゐるのですが『孫といふのもアイツ一人ぢや』を入れて、遂に大泣きに泣くのです。
これからは、維盛卿の着換のくだりなど地合で、トン〳〵と早く、段切りまで唯だサラ〳〵と語り込むのです。
(完)
太棹51 5-9
浄曲うろ覚え(二四)
田中煙亭
伽羅先代萩
◇……御殿の段(上)
天明五年の正月、松貫四、高橋武兵衛、吉田角丸の合作で、全部九段物に出来上り、それによると六段目に当るが、普通浄るりの方では四段目の切になつて、前の竹の間は四段目の口としてある。名題は伽羅と書いて「めいぼく」と読ませ、先代は仙台、萩は宮城野の名物、それから御殿の段又は政岡忠義の段ともいふ。伊達家の御家騒動(万治年間に起つた)を仕組んだもので、政岡は浅岡、鶴千代は亀千代、仁木は原田甲斐などであることは解り切つてゐるが、梶原平三は時の大老酒井雅楽守の事である。
オクリは前の竹の間の段切り『押あけ入りにけり』で『あと見送りて政岡が』になるのですが、これは『あアと』永く引いて切らずに『見送りて政岡が』まで一ト息に語ります。あと、で切つてチンとかテンとか撥を入れてはイケないとされてゐます。でないと、あとが竹の間の方についてしまひ、見送りてと縁が離れる虞れがあるからです。この『あと見送りて……といふ節まはしは、どこにあつても一定してゐるものです。
『まさなき事も身にかゝる』から『心一つの憂き思ひ』までは、時代に、しツとりと語ります、これは政岡の地合で、次の『物案じなる母親』からは千松と若君の地合になります。これをやつぱり政岡で語つてゐるのがありはしませんか。それから『もう何いふても大事ないかや』の次に、本には、アイ〳〵とありますが、これはハイと語ります。そして初めのハイはウツカリ何気なく言つて、二度目のハイはハアイと頭を下げるのです。
『外に』で切つて奥と口を見まはす間『誰れも居りませず』となり『なんなりとも御意遊ばせ』と誰れもをらぬのに安心した心で頭を下げます。『ほんにさツきに』から調子をかへて、小供達をあやす風の言葉遣ひになるので時代の中にもやさしく、打解けるといふ様子を忘れてゐるのを時折は聴くやうです。その情合を詞のコヱイロに現はして語りたいものです『お出かしなされた、天晴れなと』までゞすが、前段から引続いて政岡は怖い目をして若君を睨みつけながら、心で泣いてゐたのだから、今、誰れもゐない、唯だ我が若君と、息子と三人になつて、少しは心も朗らかに、おだて上げるやうに賞めそやしたり何かするのです。これ等はこの政岡の上るりを語つておもしろい所でせう。これを先づ、ノツケに充分語りこなしてこそ、御殿を語るといふのでせう。
ちよツと余事のやうですが、『ほんにさツきに沖の井殿、若へ御膳を上げた時』とありますが、この「若」といふのを五行本、稽古本などによると『君』といふ字に擬らはしく書いてあるのです。その為めもあつてか、若君とか若殿様とかいふべきを、唯だ若とのみいふのはイケヌ、これは君と言ふ方が正しい、といふ解釈で、故人になつた越路太夫なども、一時は君と語つてゐたといひ、大分議論があるのです。だが私共は、これはやはり前にいツた唯だ三人切りの水入らず、といふ見地から平生は言ひ慣れてゞもゐるか、単に「若」といつたものと、作者は特に、爰だけ「若」と書いたものとおもふ。直ぐそのあとに『それでこそ此の乳母がお育て申した若殿様』ともあります。或は大事な事かも知れませんから、識者の御教示を待つ事に仕ませう。
それから、此の場合、ちよつと言つて置きたいのは、一段中鶴千代君の言葉は、少し中音にしておいて、千松の詞をモウ一つ高い処で語るやうにしなければならぬといふ事です。
若君の『おれは言はねどさつきにから……』あたりから、うれい声になつて、いぢらしく言ひます。政岡の『おゝお道理でござります』も憂ひを含んで『あなた様にも嚥ぞお待兼』から『千松もよう辛抱しやツた』になる、それが双方へ唯だ首だけ動かしたのでは何にもなりません、コヱイロを変へなければなりません。
『此処にあるこの膳を食べるのは、わるいかや』『あゝイヤ』は慌てゝ止める調子、それから『申し』と頭を下げて『其御膳を上げるほどなれば』と続けます『さし上げられたその御膳。疑ひ……』で止まつて『は無けれども』となります『疑ひ』などゝ言つて好いか悪いかと、ちよつと考へるのです。
『油断のならぬ此の時節』で時節-ツと押して四辺を充分に見廻し誰れも居ないと確めた上『これ、よふお聞遊ばせやーツ』とこれも少し押し『今御館には悪人はびこり』から、端坐してキツとなり、物語風になるのです。『御近習、小姓、膳番まで』と一つ宛切ります『ちつとも心は許されずーツ』とこれも押します。それから『忠臣の勇之助は』でイキを変へて、少し憂いを利かします。
『若し毒』で切つて四辺を見廻し『毒薬の巧みもと』多少声をひそめて言ひ『みぢんも心は許されずーツ』と又た押します『空腹なもお道理ながら』から憂ひになり『コレ千松』で、今までとは声も軽く、少し詞も早めになり『おゝ賢い、強い〳〵』としきりに千松をおだてます。
千松は『それまでは、あすまでも、いつまでも……』からちよつと憂ひになり、ヘコ〳〵な腹を抱へてゐるので如何にも力の無い声に聴かせます。『おゝさうぢや〳〵、強者ぢや、千松はいかう強うなりやつた』と若君へ当てる心持もあつてヱラクおだてます。そこで、若君は少し我慢が出来なくなつて『いゝや千松よりおれが強い』となります。おもしろいですな。
政岡は『これは又けうとい事なう』と、これはサモ仰山にいひ、そして今度は又た若殿を大におだてます。『どれ』とこれから愈よ『飯焚』になるのです。『まゝ焚き』の条りは節で、別にどうも説明のしやうに困りますが『いつ水さしを炊き桶、流す……』で泣きます『骨も砕くるおもひなり』は、文字通り、ウンと力を入れてコチ〳〵に語るべきです。
『お気に入りの雀の子、もう……』とおもてを見て『親鳥が来る時分』となります。千松が鳥籠を持つて『立ち脳み、あゆむ姿もたよ〳〵と』でヒヨロ〳〵とよろける有様も、節ばかりでなく、声イロに現はさねばなりません『そりやもう飯ちやと喜ぶ子』で『コレ千松』は叱る心でやゝ強く、そしてうれひを含んで言ひます。
雀の唄になつて、千松の『一羽の雀が言ふ事にや〳〵』の次きへ『アヽコレ』と入れて政岡の『夕べ呼んだ花嫁御〳〵』になるのですが、これは千松の二度目の『言ふ事にや』の声も節も崩れて消えかゝるやうなので、政岡が堪り兼ねて『アヽコレ』と止めて自分で後を唱うのです。
『竹の下葉を飛びおりて、籠へ寄りくる親鳥の餌ばみをすれば子雀の……』は雀の地合になるので、ちよつとサラ〳〵と早めに語ります。若君の『おれもあのやうに、早うまゝが……』は憂ひを含んでせがむのです『小鳥をうらやむ御心根、おゝお道理ぢや、といひたさを………』お道理ぢやは詞で、あとはイロに語ります。『紛らす声も、振るはれて』はふるへ声になります。千松が泣声になるので又た『ヱヽコレ千松』と叱ります。『かゝ様、飯はまだかいの』とせがむので、又た行儀の悪いと叱ります。
千松が『ほろり〳〵とお泣きやるが〳〵』と二度目のお泣きやるが、でアーハア…と泣き伏しますので、隠してつれる母親が、とある通り、政岡が今度は『何が不足でお泣きやるぞ、〳〵』で泣くのです。『涙はお乳が胸の内、子故の闇ぞやるせなき』であとチンが来る条から、更らに政岡の愁嘆に移るのですが、時間に制限があつたり、女太夫などは、多くコヽから直ぐに栄御前の出に飛ぶやうです。(つゞく)
太棹52 4-6
浄曲うろ覚え(二五)
田中煙亭
伽羅先代萩
▽…御殿の段(下)
『子故の闇ぞやるせなき』これから例のチンの件になるのです『おすはりの此の御膳、殿様の御機嫌を直した御褒美』の下へ『ソーレ』と入れて『いたゞけと』となります。
『聞く悲しさをこらへ兼ね、おゝ、お道理ぢや〳〵』で政岡はウンと泣く事になります。『日本国の其中に』は強く張つて語るのですが、中には、日本国どころか、一ケ国にもならないのもあるやうですね。『おもひがけなき御辛抱』でまた泣きます『……いふに言はれぬ御身の因果テヽン雀や』とカンで出べきらしい処をギンで下から出させるやうになつてゐますが、これは節付の当時、市中に雀やの爺がゐて、その売声の高い調子に似てくるので、特にギンに下げて語らせる事になつたものだといふ話が残つてゐます。
『宮仕して忠義ぢやと、云はれうものかと喰ひしばり』が間に乗つて踊り弾まないやうに心がけたいものです。『奥をはゞかる忍び泣き』は『はゞか』で止まつて奥を見やる心地を出し『るしのびなき』と出るのですが、これは往年摂津大掾が団平の絃でこの御殿を語つた時、どうしたものかこの奥を憚かる処でちよつと支へてあはれ気味に『る忍び泣き』とつけたのを、団平は平気で普通に弾ひ終り、さて床を済まして楽屋へ来て、イヤ今の奥を憚かるは大層よかつた、あの意気で、これからやらう。とそれからはこの『誤ちの功名』といふ一つの型になつたといふ話を聴いてゐます。名人の逸話には中々おもしろいものがあります。
『稚なけれども天然に、太守の心備はりて』は大時代に大切に語り、殊にこの『太守の心』はギンの声を出します。『おれがたべても、乳母がたべずに死にやつたら悪いなア千松』は是非『なア千松』と続けて、なア、を千松につけなければ可けません『死にやつたらわるいなア』と切つて『千松』といふ人がどうかするとあります。『はいはい〳〵〳〵、ようおつしやつてつかはされます。あ、あ、難有うござります』とこれを二つ重ねていつてウンと泣くのです。そしてこれをちよつと泣仕舞ひにして、次の『乳母が今泣いたのは』から涙をかくしてしまひます。『もう涙はない、ナ、御らうじませ、ホヽ、ホ……』は泣笑ひになります。『手を出し給へば、まア〳〵お待ち』で切つて『遊ばせや』と押します『先づお毒味と千松が、顔をながめて……』でゆつくり間をとり『む、気づかひない』といひ、それから手をついて『さア〳〵御前、御心静かに召しませと』と大時代になるのです。それでガラツと変つて『いふにいそ〳〵』と足取りも早めます。これで栄御前の出になります。
『テ、心得ぬ』はキツとなつていひ『梶原の奥方とは』で考へる間を持ちます『何にせよお通し申せ』と腰元に言ひつけるコヱイロが変らねばなりません。で『コレ千松、そなたは次へ、常々母が云ひし事、必らず〳〵忘れまいぞ、サ、早う〳〵〳〵』は早めに、しつかりした声を要します。
栄御前の『自から今日来りしは右大将の御上使』はいはゆる上使詞で改まり『夫にかはるこの栄』--つと押します『義綱隠居の其後』から『ありがたく頂戴あれ』までは更らにキマツて言ひます。八汐の『テモマア、見事、結構な此のお菓子』は仰山に、サモ甘まさう言ひ廻します。政岡の『あゝ申し、御前様』はアヽ申しと手を出すのを止めて、それから『御前様』で上眼で鶴千代を睨むのですから、そのつもりで。
『ヤア頼朝公より下さるゝ御菓子』の栄御前の詞は、いはゆる権柄調子で『背いても苦しうないか』大きく、さア〳〵〳〵の文字通り権柄押しです。『奥より走つて千松が』はガラリと変ります『小さいガキでも』はサモ憎々しく語り『痛いかいのう』といひ、返して『痛いかいやい』と充分に憎げにいひます『他人のわしさへ』で切つてアヽと声を入れて、おもひ出したやうに『涙がこぼれる』と言ひます。
『何のまア、お上に対して慮外せし』千松』と、この政岡は、キツとなつて決して憂ひになつては可けません、一生懸命の場合です。栄の『さすが渡会銀兵衛が妻ほどある』はワダラヱとたの字を濁るのが本当とか聞いてゐます栄の詞の中『沖の井、八汐両人は』とある、この二人の名は必らず切つて語ります。それから序ながら『栄御前』のゴゼンのゴは半濁音を出したいのです
栄御前の『そなたの願望成就してさぞ悦び』に政岡が『ヱヽ、何とおつしやる』といふこのヱヽは、ほんとに思ひも寄らぬ、我が耳を疑ふといふ不審の『ヱヽ』で、未だビツクリしたり泣いたりしては可けないヱヽでせう。続いて栄御前の『鶴千代が身に恙なう、義綱の誠の伜、千松が此の最期、さぞ本望であらうのう』で『えゝツ』といひます、この『えゝ』は始めて思ひ切つて驚くのです。栄は益す〳〵本当を誤り信じて『おう〳〵』と好い気になり、言ひ当てたとおもふ気持で、語つて行かなければ、おもしろくありません『そなたの顔色変らぬは、とりかへ子に相違はない』と押してキメ込みます『先づ今日ツタ立帰り、病気の様子申上げん』と、これは上使詞にかへりして『必らず〳〵』は又た政岡と対談の心もちです。
『あとには一人』になりますが。このあとにはを非常に長く語る人がありますけれど、昔からの口伝にもある通り、中のハル節は早く語れ、と、ツメて語る方がよろしいとおもひます。それから『政岡が奥、口』と切つて語ります。
『出かした〳〵』で、最後に『出かしたなア』と大泣きに泣きます。これからは、人目が無いので、ウンと泣いてよろしいのです『御武運ンノ守らせ玉ふか、ハアハアハア』は神仏ををがむ心ですからその積りで、あとの『難有や〳〵』は又た泣きになります。後の『出かしやつた〳〵』も最後に『出かしやつたよなア』といひます。
『礎ぞや』のあとの所謂クドキは大和地といふので割合にゆつくり語ります、太十の操のクドキと同じ風で……『素性賎しい銀兵衛が、女房づれの刃にかゝり』はいはゆる西風に『なぶり殺しを現在に』からは派手に東風にといふ訳です。(をはり)
太棹53 4-6
浄曲うろ覚え(二六)
田中煙亭
近頃河原達引
▽堀川の段(上)
この『堀川』といふ浄瑠璃は、とにかく非常に淋しい舞台面で、第一、やつし姿の婆さんは盲人であり、与二郎もひどく汚な細工の人物であり、総て背景が淋しい、薄汚ない場面、そこへ出るおしゆんが駈落して来た遊女ですからクツキリと美くしく眼のさめるやうに浮上つて見える、それも作者の技巧です、さういふ訳で非常に淋しい舞台でありますから、此の浄瑠璃の作曲いはゆる節付が反対に非常に派手に作られてゐるのです。ですから、相当に哀れな悲しい文句であるに拘はらず、此の浄瑠璃は不見識に、聴いてゐて悲しく無く、涙を催させる処が少ないのです、どんな悲しい文句で人形は泣いてゐても見物を泣かせるといふ処は、殆んど無いといつても可い位です。さらに、心中物の情緒を出す伏線ともいへてノツケに、例の鳥辺山心中の唄が入れてあつて、淋しい薄汚ない人物から派手な音曲を聴かせるやうに出来てをります。
普通のやうにオクリは無く、この曲には前弾きがあります。それは「鹿をどり」といふ三味線ださうです、此の前びきも、結局は派手になるやうに弾いて、ツマリ舞台の光景を現はす心もち弾かねばならぬものでせうが、やゝもすれば、これはある専門家に聴いた事でありますが。この前弾きの足取りを、尤もらしく、いはゆるスネて弾き、片輪節といふやうな風に弾くのがあるが、それはどうかと思ひます、ツマリ太夫の語り出す心もちをコワス虞れがあります。是非、むしろ、派手に賑やかにサラ〳〵と。昔の名人が苦心した曲をみだりに改めないやうにした方がよいかと思ひます。「すしや」や「沼津」なども同じくだとおもひます。先づ「おなじ都も」といふ語り出しに相応した前弾きの手がついてゐるのですそれから『田舎がましの薄煙……』といふこの「まし」を稽古本に「増」といふ字にましとカナがついてゐますが、それで或は「田舎が勝しの」といふ意味で続けて語る人があるやうですが、これは「増」の字が例の本書きのあやまりで、実は「田舎がましい」で恰も田舎のやうな薄煙を立てゝゐる貧家といふ心、即ち「田舎」で切つて「がましの」と語る方が本当だらうとおもひます。亡くなつた越路太夫などはハツキリとさう語つてゐたとおもひます『堀川辺に住ゐして後家の操も立つ月日』とあるこのまくらはともすれば時代めかして語つてしまう人があるやうですが、これは是非サラ〳〵と世話でゆかねばなりません、そして『眼さへ不自由な』は例の外れた調子で盲人の音づかひを必要とします。『そして何やらの浚へであつた』云々といふ婆の詞が盲人に聞える人がどうも少ないとおもひます。「会にでも弾くのなら」の会を『カイ』といふ人が多い、これは是非気をつけて「クワイ」といつて貰ひます。それから『おしげさんは男の方』を例の『おしげさんナ』と言はずに特に文字通り『おしげさんは』といふのなども、時代にならぬ要心なのであります。
これから二上りの唄になります。この鳥辺山の地唄は婆さんとおつるがカケ合で唄うのですが、一般に一人でやつてやるやうにしか聴えません、それはまア已むを得ないと致して次に二人の--男女の--区別をおめにかけませう。
女『女肌には白無垢や上に紫藤の紋、中着緋ざやに黒繻子の帯、年は十七はつ花の雨にしほるゝ立姿
男『男も肌は白小袖にて、黒き綸子に色あさぎ裏。廿一期の色ざかりをば
女『恋といふ字に身を捨小舟
男『どこへ取付く島とても無し
二人『鳥辺の山はそなたぞと、死に行く身のうしろがみ
男『弾く三味せんは祇園町
女『茶屋のやま衆が色酒に
男『みだれて遊ぶ騒ぎ合ひ
女『あのおもしろさを見る時は……
此処でおつるの唄うのを婆さんが直すのですが、殆んど節なしに言はせまして、次に婆さんは三味線を弾かずにやつて聴かせるやうです。それからおつるがアイ〳〵で演り直す時には、三味線を、いはゆる押バチといふので子供らしく弾いて唄ひます。それでオツトよい〳〵で、
男『染どのそなたと某が
女『去年の初秋たなばたの座敷をどりをかこつけて
男『忍びあうた事思ひ出す
この二人のやりとりが、どうかするとアベコベになる事は無いでせうか。お稽古がすみ『今日はまアそこまでそこまで』で『聞いて笑顔の片をなみ「お師匠さま」と入れて『また明日』とおつるは立つて……』の此の文章についてちよいと通をいはせて貰ひます。それは古歌に『和歌の浦汐満くれば片男波、芦辺をさして田鶴鳴き渡る』とあるのから取つたツマリ此の子供の名が鶴ですからの美文です。
前書きのやうなものが大層長くなりました。これから漸く与二郎の出になります。ガラリ足取りが変ります『肩にのせたる猿まはし』などは、コチコチと一字づゝ、汚なげに語るやうにします『母ぢや人今戻つた』といふのは門の外にゐて大声に云ひます。母親は奥の自分の部屋にゐますから遠くに向つて呼ぶのです。『おゝ徳よ、今戻つたかよ』は婆も笑を含んでいひ『ちやツと傍へやつてやりや』は与二郎へ言ふ詞です『イヤノウ与二郎』からしんみりとなつて哀れげに『つかれの上になほつかれる』などは力の無い、サモ永病ひに悩んでゐる音づかひで……『おもへば薬も毒となる、母では無うて子供のた(為)には苛責の鬼と思はるゝ』の地合は、随分皆が派手に艶々しく唄はれるやうです、勿論節付は派手に出来てゐますが、どうもこれは充分憂ひで語らぬと、アトの『身を悔みたるむせび泣、あはれにも又たいぢらし』の文章と合はないとおもひます。心すべきでせう。孝心な与二郎、あゝ又た母の……と、この述懐を打消すにこれ努めます。例の羊羹饅頭生魚の辺、これは是非大派手にやりますがどうかすると、それがひどく分別臭くなるおそれがあり、又た反対に派手に語るといふ意味を取違へて全然チヤリになつてしまうのも困ります。歌舞伎でもこの問題がいつも起つて--中々難かしい役です。『それにまだ〳〵〳〵〳〵』なども、大チヤリになり易いのですが、この「まだ〳〵〳〵」は踊り上るまだ〳〵では無く、まだ外に何か母親を慰さめ、喜ばせる事は無いか、と考へる心もちもあるまだ〳〵〳〵といふ解釈の方を取りたいとおもひます『贅八百さへ一貫に……』は贅沢のありたけといふ意味です。そこで気休めの嘘とは知つても母親は、安心したやうな嬉しさうな朗らかな調子になります。と同時に、それはさうとして、これから当面の一家の大間題であるお俊の事に--本戯曲の主題にはいるのです。
〔弥生氏へ〕御質問書正に落手致しました。拙文うろ覚え御愛読くだされた事を先以て感謝します。さて「先代萩」御殿についての三件(一)政岡の詞の『お聞き訳遊ばして』が丸本に御聞入れとあつて其方がよいといふ御説ですが、とにかく稽古本にはお聞き訳とある為め、皆さう語つてをるもので、これはいつ頃からさうなつたか多忙でもあり浅学でもあり調べが届きません唯だどちらでも大した相違はないと思ひますし、又、文字はお聞き分け」と分の字でなければ可けないと思ひます。(二)同じく政岡の詞『あなた様にも』は『様には』の方がよいといふ御説ですが、これは次の『千松も』とあり、これに対する「も」ですからさし支は無いとおもひます。御意見のやうに「も」とあれば別に上の人があるやうな、とは思はれません(三)八汐が千松を突いて、これでもか〳〵といふ時、千松が苦しむ声を聴かせぬは不都合、といふ御説一応は御尤ですが、これは何人もアーといふ苦声は発しないやうです、あの場合、子供の叫声を入れると八汐の方の気がぬけますし、又事実語れないと思ひます。歌舞伎では下で千松が一々苦悶の声を発しますが義太夫では決してやりません、その為めでせう、後の「嬲り殺しに千松が苦しむ声」の節付けが特別に工夫して難かしく出来てゐると思ひます、甚だ不備ですがお答へまで。(煙生記)
太棹54 4-7
浄曲うろ覚え(二七)
田中煙亭
近頃河原達引
▽-堀川の段(下)
母親がしんみりとした述懐に、与次郎は『さアわしもその入訳を聞いたゆゑ、おしゆんが心根をおもひやり、思はず知らず涙が……を『おもはずしらずなみ……位まで憂ひをもつていひ、急に気がついたやうに気をかへて『ドレ、灯をともそと棚の隅』になり、お俊を奥から呼び出します。
『こて〳〵取出す行燈の』まではよいが『灯かげも洩るゝ暖簾越し』を美くしい声で、まるでおしゆんの地合と取り違へて語る人があるやうですが、これはまだ与次郎の領分で『おしゆんコレおしゆん』と続く与次郎の詞ですこのおしゆんを呼ぶのが、最初の『おしゆん』は暖簾越しに遠く呼ぶ心で、二度目の『コレおしゆん』は暖簾を押分けてちよいと奥を覗いて呼ぶ発音になるべきです。ですから二度目の方をしづかに、ひそやかに呼んでよいのでせう。
お俊の出です。美くしい艶なおしゆんが現はれるので、貧家のうちくすんだ夕闇がパツト明るくなります。『まア〳〵こゝへと小声になり、門の戸は……』で戸口をふりかへツて見る心で発音し『かけてある、見る人も聞く人もない』と低音になります。そこでちよつと言ひたいのは、この小声といふのは特に声を小さくせずと、小さい声に聴こえるやうに語る事なのです。これは此処に限らず『沓掛』の親子の内緒話、すぐ次の間には座頭が寝てゐるのですから、大きな声は出せないのですが、小さな声では御見物に聴こえません。発音の難かしい所で、何千人といふお客に通るやうな内緒話、ツマリ声をひそめるのです。ひそやかに通るやうに語るのです。
『此の間の河原の喧嘩、殺し人は……サヽ殺し人は』と二度重ねますが、最初の殺し人は与次郎の普通の声になつてしまつたものですから、二度目を例のひそやかな発声に言ひ直すのですですから、前のも別に大きな声でいつては困ります。与次郎の地声で言へばよいのです。思はず地声を出したものですから、驚いて訂正する心もちの発音です。中々難かしい訳です。で『天命のがれず』は節になります。それから『伝兵衛の行方も知れず、其の相方の女郎はおしゆん……』と言つて、そこにおしゆんを見たものですから、急に『アヽ可愛さうに』といふ心もちでワキを向き『おしゆんといふ事をお上にもよう御存じ』といひます。
『親方の方へもいろ〳〵と御詮議あれど、これも行方が知れませぬ。といひ切つて』といふ処の此「行方が知れませぬ」を親方が役人に対していふ口上の口真似風にいふのですが、これも例のチヤリになつてしまうのが多くて甚だ不真面目になるので困ります。ブチコワシです『とり〴〵の噂、ひよ、ひよ、評判……』もそれで、その次に『おりやモウ聞く度ごとにびく〳〵する』と、これは憂ひをもちます。
それから『聴くほどせまる』からのおしゆんの述懐の地合『どこにどうしてござるやら……』は唯だぼうーツとどこといふあてもなく空間を見て語ります。母親の『刃物三昧でも仕やせまいかと、四五日は、夜の目もろくに……』は充分うれひをもちます。これから紙二三枚はどうかすると飛ばす事があります。お俊のさはりがちよつとあつて、重太夫節?で陰気な為めかお素人などは大抵抜いて語られるやうです派手な与次郎、地味なおしゆん、とよく出来てゐるとも言へませう。とにかく親子三人が額を鳩めて、此の事件をどうかして円満に解決したいと、しんみりといろ〳〵相談し合ふといふくだり、そこで退状を書いたらといふ知慧が出て来たのです。
与次郎の『おゝ切るとも〳〵』も大抵チヤリに語つてゐるやうですが困るとおもひます『兄、硯箱とツてやりや』『さア〳〵早う』と母親がいひ、続けて『早う』と与次郎かいひ『と母と兄』となります。おしゆんが手紙を書いてゐる傍から与次郎が『そのやうに長たらしう書かずとも、ついど、き、ます』と一字づゝ切つて語る人が多いやうですが、中には『どき、ます』と二つに切つていふのがあります。これはあまり細かい言ひ草ですが、私は『どき、ます』と、二つに切る後の方が、サモ無筆文盲を現はすに適した言ひ方だと思ひます。どちらかといへばこの方を取りませう。
『此状さへあれば、千人力ぢや』を喜び勇む詞として二度も三度もいふやうです。さらに笑ひをつけて大きく言ひます。『母者人も落つかしやれ』の次へ『や』と一字入れて『とやかくいふ中九つ前』となります。『兄もそなたもそこに寝や』といふ母親の『そこに寝や』だけをぼんやりした地合に語りますと、この盲目のあはれな老母が出て来ます。
徳兵衛の出になります『頃しも師走十五夜の……』ハル節でギンを使ひます。前にも申したと覚えますが、総て神仏日月星、といふやうな場合はどこにあつても、ギン若くはカンの音を使うのです……此処では『月はさゆれど』です。
『忍ぶ姿のしよんぼりと、たゝずむ軒は目覚えの、たしかにコヽと門の戸へ、さはる相図の咳払ひ……』の中『たしかにコヽ』だけは必らず『詞』で語ります『起きると明ける門の口』から『無理に引込み取違ひ、戸口を内からぴつしやり』までは一ト息一ト口に言ひまくります。苦しさうですな『そオりやこそ突きに来をつたぞ』も亦たチヤリになつて困ります。唯だ大業に思はす地声を張上げて、震へながらいふ言葉ですから、こゝの詞は全部『がた〳〵胴震ひ』の文句である事を承知したいのです『その声色おいてくれ!』震へます。どこまでも真面目に語りたいと思ひます『懐ろより一通取出し、怖々ながら……と、本にある『傍に寄り』を抜いてしまつてメリヤスの三味せんになります。呉々も申しますがチヤリにならずに馬鹿正直に与次郎を髣髴させやうではありませんか。
『ヤア、何ぢや、書置ぢや、コレ〳〵兄、正直な』と母親は笑ひを含んで言ひます。斯うなると母親はもうシツカリします。書置がすみます『親子はうろ〳〵、えゝ気遣ひな、コレ兄や』は大に気をせいて言ひます『与次郎も戸口を明くれば走アしり寄る……』は『走りゆく』でなくては可けぬといふ説があります。それは与次郎が戸を明けると、そこにおろ〳〵して立つてゐたおしゆんが無意識?に向うへ逃げ出すのです。それを与次郎が追ひかけて無理に内へ引込むからなのです『妹を無理に四人が』の文句もありますし、人形や舞台のしぐさでも逃げる事に段取りがついてゐます。
『何と詞も伝兵衛、泣く目を拭ひ……』からの伝兵衛の詞は、デレ〳〵と緩ツくり、普通の二枚目調子で語る人がありますが、これは早や口に、しツかりした調子を望みます『思ひ廻せば廻すほど』からの地合も、おしゆんだか伝兵衛だか判らないやうに、ネバツてデレ〳〵と語る人があるやうですが、サラ〳〵とゆきたいものといつもさう思ひます。それからお約束のおしゆんのサワリ『そりや聞えませぬ伝兵衛さん』に移りますが、これはまア艶の声ドウスルの拍手を買う処ですから、まア緩ツくり持つて、聴かせるのです。しかし『そも逢ひかゝる初めより』からは、ヤハリ、サラ〳〵と寧ろ駈け足になつて語る方が可いとおもひます。
与次郎の『まア〳〵待ちをれやい〳〵〳〵』は大泣きに泣いて語ります前を例のチヤリにやり過ぎてしまひますと、これからの与次郎が変るものになつてしまひます。母親の『おゝ、さうぢや〳〵』からのクドキも早く、三味線と追ツかけツこをしてゆきます。さうして、やれるだけ詞になつて語り込みます、唄つては困ります。それから『たとへ鳥類畜類でも、子の可愛さに変りはないもの……』の次『おしゆん伝兵衛と言はす気か』の前へ『あすは浮名の草双紙』と入れてゐるやうです。
与次郎が、伝兵衛に対して言ひ、又おしゆんに向つて言ふ詞では、コヱイロが変らないと判らなくなります『合点がいたか、得心してくれたか』はちよつと繰返して言ひます『京の町を離れるまで』に『おゝ』と入れて『此のあみ笠』と、見廻して笠を発見した心持を現はして言ひます。又たこの『おゝ』を入れた方が語りよいのでせう。『お猿はめでたや〳〵な』は有田歌とかいつて又『めでたやねえーー』といふ人もあります。この猿廻しの三味センにも広助師と団平師の二タ通りあるさうです。漸く段切り、アトは三味せんに引渡します。
〔追記〕此の堀川の作者は近松半二だといふ説がありますが確かでないのです。天明年間に歌舞伎で演した「猿廻し」の狂言を二三年の後、為川宗輔、筒井半二、奈河七五之助が浄瑠璃に書き替へたものだとの説もあります。竹本八重太夫が天明年間に江戸に下つてこの「堀川」を語つて非常の評判を取つたといふ事です。又た此の作の材料に就ては種々の説がありまして元文三年十一月京都の聖護院の森で呉服商井筒屋伝兵衛(二十二三)と先斗町近江屋の抱娼妓お俊(十九)とが情死したが、その死体は伝兵衛の菩提所日蓮宗要法寺に合葬したが、それが鳥辺山のお染半九郎の墓と間違へる向きもあるらしい。又たその頃京都に呼売の乞食で与次郎といふものがあり、又親孝行で御褒美を貰つた丹後屋佐吉といふ猿廻しがあつたのを、一緒にして猿廻しの与次郎が出来上つたのらしい、それに又その頃四条の顔見世の戻りに喧嘩があつて所司代の下郎が殺されたといふニユースを持込んだもの、直ぐその月に竹本河内太夫が際物としてこれを語つた所から『近頃』の二字があるといふ。
太棹55 6-8
浄曲うろ覚え(二八)
田中煙亭
本朝廿四孝
▲…十種香の段
〔解説〕近松半二、三好松洛、竹田小出雲などの合作で明和三年の正月竹本座の初興行で大当りを取つたものです。此十種香の段は四段目で、二十四孝といふ題名は三段目に見える慈悲蔵(後に越後の直江山城になる)が母の為めに捨子をしたり、雪の中に筍を掘つたりするのが支那の昔の二十四孝の故事に似てゐる所から取つたもので、シカもこれは所謂一つの挿話で、本筋は武田上杉の確執で、将軍義晴を鉄砲で討つた美濃の斉藤道三の天下を狙ふ大野心を書いたもので、この道三は後に花作りの関兵衛となつて謙信の屋敷へ入り込んでゐる。そこへ勝頼が簑作と称して花作りの職人になつて住込んだもの、そしてアノ濡衣は道三の娘なのです。それから勝頼と八重垣姫を許嫁にしたのは上杉武田の両家和睦の為めに、将軍義晴の未亡人手弱女御前が媒介をしたのでその条りが序幕になつてゐます。とにかく複雑混乱した筋立、趣向は合作の一弊であるとも言へます。
およそ浄るりは、大体大序が春、二段目が夏、三段目が秋、四段目が冬として四季に分けられたもので、この一流家の丸本に、別に『道行』又は『景事』と称するものが一段あつて事実は四段ですが、暮は五つになるのです。これを四季に言ひますと道行或は景事は土用といふ事になるので、その土用が大序に付くのもある、三段目につくのもあります。それから大序の春は口伝であつて『恋慕』二段目の夏は『家伝』とあつてゝ『喧嘩』又は修羅場と言ひ、秋が『秘伝』で『愁歎』冬が『相伝』で道行、五段目といふのが『明伝』問答といふ古い言ひ伝へがあります。この五段目は締めくゝりといふものでほんのちよいとした一部の大尾を語つたもの、鬼一法眼では『菊畑』が四段目で五条橋が五段目となり、菅原で言へば佐太村が三段目で寺子屋が四段目五段目は天拝山でせうか。
で、四段目は春の芽ざしをもつて、どこぞに賑やかな処がある。ですからどうしても花やかなものになります。この八重垣姫なども春の陽気を含んでゐますから、悲しい詞や文句がありますが それが別に大して悲しくはないのです。語るにも極く陰気な中に、陽気な声をつかふのです。しかし、全然それが春の声では可けないのです。
大層前口上が長くなりましたがサテ本文に移つて、この『ふしどへ行く水の』といふオクリも普通のオクリとは少し違ふやうです。『流れと』はハル節で声をなるべく派手に使ひます。それで『流れと』の『と』で一度切つて、あとをオーと語りますのは下の陰気な声から出してゆく、これを大体四段目の声づかひでゆきます。
『人の蓑作が』は切らずに続けて言ひます。カケ文句である為めに、ハル節は中音に落ちるにきまつてゐて、普通切らねばならぬ節であるが、それを切らずに語ります。『悠々として』は金襖物の主人公らしく品位もあり荘重に語りたいものです。『一間を立出て』と一ト口に語る人がありますが、これは『一ト間を』とゆつくり延ばして『立ち出で』とイロに語つて貰ひたいと思ひます。でないと、前の二行ほどの語り口と別物のやうに、木に竹をついだやうになつてしまう虞れがあります。尻つぼまりになつて、軽々しくなりますからです。
勝頼の詞、これはいはゆる大将詞です『それを悟つて抱へしや』で止まつて穴を明けておいて、息を一つ呑んでハテとなるのです。その穴の間に、ゆつくり考へる猶予を与へるのです。この『幼君』といふのは解説に述べた斎藤道三に討たれた将軍美晴の若君なのです。
『思案にふさがる……』は陰気な声づかひでゐて陽気に聞えるやうに語るので、といふとちよつと難かしい注文のやうですが、ツマリゆつたりといきたいのです『一間には』からカラツと気をかへて『館の娘』はハル節ですが前のハル節とは違つたものです。八重垣姫の花やかな地合になるのですが、やはり四段目のギンの声は離す事は出来ません。この四段目の音づかひについてはずつと前、太十を書いた時でしたか、大体うろ覚えを説明したやうに覚えてゐますが,要するに壼を外れた音を出すのです。
『こゝに絵姿かけ巻くも』も例のカケ言葉ですが、この『かけ巻くも』はイロに語ります。『こなたも同じ松虫の』から濡衣の地合ですが、濡衣は腰元にはなつてゐますが、唯だの腰元ではなく、武田方の廻し者といふ大望あり野心ある女間諜(斎藤道三の娘)ですから八重垣姫と同じにならぬ程度に相当の品位はもたせねばならず、この言葉つかひは難かしいとおもひます。
次に八重垣姫の『見れば、見るほど美くしい』は真に絵姿に見とれて言ふやうな、艶な声づかいを要します。『身は姫御前の果報ぞと』はカヽリといふ節ださうですが、普通だと高い所から声を出すべきだが、これは四段目なるがゆえに、中音を使つて語ります。『月にも』まで非常にゆつくり語つて『花にも』から早間に、ノリ間になりますこれをどうかするとダラ〳〵と語る人もあるやうですが、なんぼ四段目でも或る程度まではサラ〳〵と早目になりませんとダレてしまつて聞いてゐられません『回向せうとて』になると、なほゆつくり、声を聞かせやうとする人がありますが、私は断じてイケないとおもひます。是非スラ〳〵と語られたいと思ひます。余りにも有名な聞かせ場所ですけれども、事実少し早目に願ひたいとおもひます。『流涕こがれ』は中節となつてゐますが、外の二段目三段目の中節とは違つて、声つかひに注意を要します。
そこでこの『回向せうとてお姿を……』の一節は、非常に色つぽい文句になつてをるやうでありますが、実は少しも色つぽいものでは無いのです。総じて上るりの作は主として趣向を史実に藉りて、仏法の因縁因果を説いたもので、殆んど何れの丸本を見ましてもその本体で無ければ、その挿話に、その一節に必らず仏法を説いてゐるのです。明らさまに説かれてゐないものにも、必らずその陰には仏法の真義が隠されてゐる。この廿四孝もまづその如くで、八重垣姫が許嫁の勝頼の絵像をかけ、香華即ち反魂香を焚き、灯を点し回向をするのですが、これは真は阿弥陀様の尊像を拝んでゐる訳で、魂返へす反魂香は、決して死んだものに生返つて呉れといふのではなく、他力本願の信心を獲得するといふ事になるので、自分を仏にして欲しい。善哉々々といふ弥陀の一言を、可愛とたつた一言を聴きたいといふ義であつて、女は分けて嫉妬心なぞの強い、汚れたものであるから、その穢れを払ふ為めに香--十種香--を焚いて、仏に救ひを求めてゐる。といふ一節であつて、実に広大無辺の名文句である云々と、じゆん〳〵として仏法の講義をして呉れた篤学家がありましたから、序ながらその一端をこゝと書添えておきます。
太棹56 8-10
浄曲うろ覚え(二九)
田中煙亭
本朝廿四孝
◇…十種香の段(下)
さて本文に戻ります。
『あの泣声は……』は本には泣き声とありますが、これは泣ク声と語るやうです『弔ふ姫ととむらふ濡衣、ふびんともいぢらしとも、言はん方なき二人が心と、そゞろ涙にくれけるが…』は地合ですが、決して、少しも持たずに、サラ〳〵と語ります。
『後ろにしよんぼり濡衣が』は皆がかなり苦心されるシヨンボリで、中々しよんぼりになりません、力を入れては語れません、無心に『しよんぼり』を現はす事は至難のやうです『はからずも謙信に抱へられたる衣服』で切ツて『大小』といひます、これは『衣服』でちよつと身のまはりを見て『大小』といふのです『似たとはをろか、やつぱりそのまゝ』は勝頼を見惚れて、腹の中から真剣に出る詞を声に現すので難かしい所です。
『よみしは別れをかなしむ歌』は六字の字足らずですから、一字ふやす必要があつて『かなしむうたア』とアをつけて、三味線もそのつもり弾いて貰ひます。此の地合もやはりサラ〳〵と語ります。『見るにつけても忘られぬ』で少し持つて『わたしや輪廻に迷うたさうな』といふ詞を哀れに憂ひを以て語ります。
『泣く声洩れて……』をまたハル節ですが、これも普通のと違ってザツとしたものださうです『一ト間には不審立聴く八重垣姫』と、この『不審』は無論、いぶかる心で、ちよつと持つて語ります『又たのぞいては絵姿に、見くらべるほど生きうつ』はい、き、う、つ、しと一つ宛『似、は、せ、で……』まで切つてゆつくりと語り『やつぱり』から足を早めます。
『若しやそれかと心の煩悩チン二人の手前シヤン恥かしながら……』のこのシヤンで、昔、文造といふ三味せん弾が、常に非常に苦心して、出来の好かつた時は大変に機嫌がよかつたといふ話が残つてゐます、三勝の『今頃は半七さん』のシヤンもこれも同じで、三味せんの方ではかなり八釜しいシヤンだと聞いてゐます。
『そなたはとうから近かづきか』で本には『エイ』とありますが、アイ、といつて、それから直ぐにこれを打消すやうにイヽヱといひます、それから『忍ぶ恋路といふやうなチン可愛らしい仲かいのと』三味せんなしに地合にして可愛らしく聴かせるのです『夕日まばゆく』を夕日ま、ばゆくといふ風に『ま』で切るやうに聞える節廻しを用ゆる人がありますが、これはどうしても『夕日』で切つて『まばゆく』と聴こえるやうに語らぬと文章を為しません、此の種のあやまりは各所にあるやうで、文章に注意されたいと常に思ひます。
『サア、何もかもわたしが呑み込んでナ』とあるこのナをよく間違つた意味に聞かせる人があるやうですが、このナは勝頼に目くばせして心配するなといふ意味ですから、そのつもりで、ゆつくり、そしてはつきりと語らねばなりません、それで気を変へて、今度は八重垣姫に『呑み込んで』と又た重ねていふのです。
『勤めする身はいざしらず』から、長い間、サラ〳〵と地合を語つてゐたものを、こゝへ来てゆつくりと語るやうになるのです『殿御に惚れたといふ事が、うそ、偽はりにいはれうか』といふこの地合の最後の『か』の一字だけは詞です、ところが、この地合から離れて、一字だけの『か』が、中々お姫様の詞にならないで、非常に苦心する処だと聴いてゐます。
『諏訪法性の御兜、それが盗んで貰いたい』の、この『それが盗んで』の詞は、強く、大きく、断乎としてお姫様を圧倒する概を以て、驚かすほどに言つて退けるのです『ヤア何といやる』このヤアは実に、姫としては思ひがけもない、驚くべき事なので、仰山にヤアーといつてよろしいのです、それから続く八重垣姫の詞『諏訪法性の御兜を、盗み出だせといやるのは……』といふ所は、ゆつくり力を抜いて語るとサテはこれが勝頼様か、といふ姫が不審ながらもい考慮する所の心もちを持たせるのです。直ぐと『さては、あなたが勝顔様か』は高く、強く言ひます、これがどうも高く強く語る人が少ないやうに思はれます、これが高く強くないと、勝頼の『言ふ口をさへて』が言へない訳です『ハテ滅ツさうな勝頼呼はり』も強く、キツとなつて言ひます
八重垣姫の『いふ顔つれ〳〵打守り……』から、又たゆつくりと語りますこゝがほんとの此の一段のサワリですが、大抵の人は、少し早めになるやうに思はれます、私はこのサワリは、充分に、人形も踊る所で、太夫も、充分に聞かせてよい所だと思ひます『明かして得心させてたべ』までゝす『それも叶はぬ』から又た足を早めて語るのでせう『そこ退き玉へと突放せば』はどうかすると、お姫様が飛んで行きさうになります『御推量に違はず、あれがまことの勝頼様』の次へ、サ、と入れて、ちやつとお逢ひなされませ、になります。
謙信が出て、蓑作が『ハツと領承、文箱携へ、塩尻さして急ぎ行く』は何しろ、長上下を着てゐますから、さうシテコイナといふ風に急いでははいれませんので、かなりゆつくりで宜しいのです、総て人形との関係を考へて注意すべきです『謙信ナトを』と音便でアトと言はないやうです『油断して不覚を取るな』の次ヘハツハツハツと入れて、本文のハヽアとなります。
『そんなら今の討手の者は、勝頼様を殺さん為か、ハアはつとばかりにどうと伏し』から、再び逢ふはうどんげのくだりを、八重垣姫のクドキだからといふつもりでせうか、ゆつくり語る人がありますが、これは、サラ〳〵と語りさらなければなりますまい『奥へうせうと小がいな取り』の小がいなとりも六字ですから、一字ふやして語ります。
『帳台深く入りたまふ』と、これから調子が上つて『狐火の段』になり、人形と、三味せんと琴のつれ引になります、そして、ドンジヤンになるしまひは語りません。(完)
太棹58 8-12
浄曲うろ覚え(三〇)
田中煙亭
八陣守護城
▼…政清本城の段
【解説】文化四年の九月に作られた曲で、作者は中村魚眼、佐川藤太、「守護城」と書いて「しゆごのほんじやう」と読ませます。この本城は八冊目の切です。言ふまでもなく加藤清正が、徳川家康に毒殺されるといふ件を主題としてあつて、曲中の人名は、例に依つて全部変名になつてゐます。即ち家康が時政、清正は政清、池田三左衛門が森三左衛門、後藤又兵衛基次が児島政次、真田幸村が佐々木高綱、島津が大内加藤忠広が主計之助清卿、淀君がお通の方といふ風になつてゐます、これが芝居になつたのは文化七年正月江戸の森田座が初演で、今でも中車や吉右衛門によつて時に上演される事があります。
此の政清本城の段は八冊目の切りですが、即ち四段目であります。そしてこれには普通のオクリが無く、三重、ハル節の大廻しといふ節で『行く先は…』と出ます。『二重に建てし…』の節付けが、稽古本には中ギンとなつてゐますが、これはギンで、次の『思惟の間』で中に落ちるのが本当だといふ事です。思惟の間といふのは、静かに物を考へる……思索に耽る部屋といふ意味です。
『秋を告げくる風の声 庭の木草におとづれて……』の最初の『秋を』はウキギンでなければイケないのですがこれをトル節に語つてゐる人が多いといふ事です。次の『庭の』をトル節に語るのが本来で、これは書き本やの、所謂クロ章の間違ひだと申します。
『すだく虫さへ』のあとに合の手がありますが、これは虫の音を聞かせるべき訳でありますが、それを間違つてどうかすると大層派手に弾く人があるやうです。『物凄き』となるウキ節で無論凄味に聴かせるやうにしたく、そして、これまでは是非大時代に語らなければなりません。
次の『我が本城へ我ながら』からガラリと足が変つてノリ間になります。父や母に逢ひたく、殊には大切な使命を帯びて来る主計之介が、心を躍らせながら来る場面ですから、ノリ間を使ふ訳です。しかし、それもあまり派手になつてはイケません『心置く露』や『うかゞひ来る』などの文句がある以上、よほど注意すべきノリ間でせう。それから『窺ひ来たる主計之助』といふ一句は、ウキ音になり(忍ぶといふ意味から)『隔ての垣に』からハル節になつて忍ぶといふ心を取つて可いのでせう。
『引けばすゞむしそれぞとも、予て松虫雛絹が』と、これからほんとに四段目らしい派手な音づかひになるのです、ノリ間でサラ〳〵と語つて行つてその中に非常にゆツたりとした節使ひがあるのが、一口に四段目風といふので『思ひがけなき主計之助』となるその主計之助などもゆツたりとした節付になつてゐます『あとは詞も泣くばかり…』で充分に『愁ひ』を持たせます。
主計之助の詞で『余人を遠ざけお身一人、おそば仕へ有りと聞く、物忌みなりとは心得ず』は、その不思議立てする意味を、声音に現はして語ります『コレ、様子聞かして下され』と雛絹の顔をのぞき込む風に、物やさしく言ひます、即ち『すかしなだめて尋ぬれど』とある通り、この音づかひに工夫を要します。
雛絹の『あゝコレ申し』の次に、本にはありませんが、多く『清郷様』と入れるやうです、これから雛絹のお約束のサワリになります『都でお別れ申してより、勿体ない事ながら……』とこの『勿体ない』を『もつ、たい』と切つて語る人があるやうですが、息を呑まずに続けてやりたいと思ひます。次の主計之助の詞『ホヽ尤もながらそれは内証、今日国へ帰りしは、我のみならず母御も同船』と、この母御の前に『そなたの』と入れて語ります。又た『湊口より魁けせしは』の前へ『又某一人』と入れる人もあります。続いて『父の安否を尋ねん為』といふこれが、語り出しのノリ間になつて勇み来れる原因の一つなのです。それから『コレ御病気に相違あるまいがの』も、亦た雛絹の顔をのぞき込んで、すかしながら訊ねるといふ心持でありたく、決してこれを詰問的に語つてはならぬと思ひます。
雛絹が政清の様子を話しましたのを聞いて『ムヽそれにこそ仔細ぞあらん母上お聞きなされたか』と物蔭にゐる母親に話しかけます、母親は『おゝ』と入れて『委細はこれで聞きました』と言つて現はれます『都の御所より上使として主計之助参上と』のアト『取次ぐ母の詞より外に……』の語りやうが、本の黒章によると、少し派手になる弊があるやうで、これは凄味のある地味な語り口の方がよいとおもひます人によつて両方あるやうですがどうでせう。
これから、例の鼠が出る件です。『コハいぶかしと三人が』はイロに語つて次の『間もなく』は例の六文字ですからウーと一字分だけ引いて加へる訳ですが、しかし、実は、これは三味線だけ増しておいて言はない方がよいかと思ひます『俄かに人声はげしき音』の次の『スハ一大事と駆け寄る障子』は主計之助のイロでゆきます、ツマリ地合と詞の間をゆくのです。続いて『蹴はなす別間はともし火も消えてわからぬ真ツくらがり』までは、主計之助の地合ですが、どうしても、この『駆け寄る障子』は所謂イロに語らねばなりません。そして『真暗がり……』はウキ音で、例の、踊らないやうに、殊に三味せんが踊るやうに弾くのは困るとおもひます、是非荘重に、押へて弾き且つ語りたいと思ひます。
『数輩を相手』から政清の地合になるのですから、ガラリ声を変て政清の声にならねばなりません。政清の『あたるを幸ひ人つぶて、投げ出す庭先』のあとの主計之助得たりと仕留る早足の働き』も、これも是非、イロで語るべきです、それから『政清やらぬ』だけが玄蕃の詞で『としツかと組む』と地合になります。
政清の『膝にひツしき大音上』と、本にオクリ仮名が無い為めか『大音じやう』といふ人がありますが、これはやはり『大音上げ』の方が可いでせう『じやう』なら『声』といふ字を書きます、尤も稽古本の字なぞアテ字が多いから、何だか分りませんがね。
『忍びに名を得し鞠川よな』は、ウンと押して語ります『宙ににぎツてヱイやツと』と、続けて平凡に語る人が多いやうですが『ヱイーツ』とキバツて、濠の外を見込んで『やツと』と投げ出さなければならないでせう。それから『鼠となつて逃げさりけり』を、前からの続きで、大きくキバツて、こゝまで語り去る人がどうかするとありますが、実は鼠になつてチヨロ〳〵と燈の如く消え去るのですから、そのつもりで、むしろ世話調子……といつては語弊があるかも知れませんが、スーツと語り去る方がよろしいのでせう。
『御教書御披見下され』と主計之助がいふと『開きもやらず高笑ひ、ムハゝゝゝ此の書面取るに及ばず』と政清のこの大笑ひは、充分に大きく笑ひます『ヤイ丁児め』とありますが、これは大抵省いて『あざとき計略』から直ぐ『おのれ生年十七歳』といひ、続いて『忠、孝、信、義のぜひをも分たず』と一字づゝ切つて言ふのが可いでせう。『女に迷ふ大馬鹿者ツ』と押して『御教書などゝは穢はし』となります。
『思案を極め主計之助、座を立上つて実に誠、親子兄弟鉾楯となるも』のこの実に誠からの詞は、充分にキツとなつて言ひます『母上御無事、とかけ出すを』のアトに『袖に縋つて』と入れて『アヽコレ〳〵其の一言が』になります。それから、主計之助の『御身の上気づかはしく、立帰りしは変ある時、此の本城を守らん為』はグツと押します。
『ハヽヽ何さ〳〵、譬へいかなる変あるとも。』からの政清の詞、これは詞ノリといふ事になりまして『四海を守護する我が精神』までゞす、それから『忠義を立つる心を見せよ、親子の対面これ限り』はちよつと愁ひを含みます。
主計之助の『……跡にて披見致させよ、母上様おさらば、と言捨てこそかけり行く、ノウコレ待つてと雛絹が夫を慕ふ娘気に、よへど詮方泣倒れ、伏沈みたるばかりなり、泣声聞いて母柵』と本にありますが、これを次のやうに直して語られてゐるやうです。
『母上様おさらばと立上る、ノヲコレ待つてと雛絹が取付縋るを振り切つて見返りもせずかけてゆく、跡は正体泣き崩れ前後不覚に伏しづむ、始終聞きゐる母柵』と
『涙ながらに押ひらき』と雛絹が主計之助が残して去つた書置きを読みます『ナニ〳〵父の仇たる時政の……』と、これがどうも、かきおきを読むやうには聴こえぬのが多いやうです。どうしても語つてしまうやう聞えます。雛絹が懐剣を咽喉に突立てる。『ヤレ早まつた何事と、抱き起して介抱に……』で泣く人がありますが、困ると思ひます。これは次の『ノフ早まつたとは愚の仰せ』で泣いて貰ひたいのです三味せんもそういふ風に願ひたいのです。前にも申しましたが、総てこの形容の文句、即ち地合で、ともすれば泣く人がありますが、私は絶対にこれはイカぬと思ひます。この『顔を上げ』なども、決して泣いてはイケない。次の『愚かのあふせ』で初めて涙が出て来るのです。先達而の文楽でも、土佐太夫氏が『鳴門』でこの弊に陥つてゐた所を聴きました。三味せんも、拠ろなく泣きの三味せんを弾いてゐたやうでしたが、困つたものと思ひました。
『とりなし頼み上げますると、今死ぬる身の際までも……』を『死ぬる今はのきはまでも』と直して語るやうですが、これはどちらでもよく、多分、節付、手の付け工合が好いからでありませう。それから『胸一ぱいにせき上げて、とかうの詞泣き倒れ、心も乱るゝばかりなり』の次へ『洩れてやあなたに声高く』と入れて、政清の『ホヽウ雛絹が最期の願ひ、加藤主計之助清郷』となります。此処の政清の長い詞は『時政の恩を請けまじと』から愁ひをもつて語ります『南無妙法と閉る目に、不便の涙はら〳〵〳〵』の次の『唱ふる経も口の内』を省いて直ぐに『手負の耳に通じけん』となります。
『はア悲しやと柵、葉末』とこれから二人の母親のクドキになりますが、先づ『生れて此のかた二親の手もと放れぬ此の娘、よく〳〵思ひしたへばこそ、百里二百里此の国へ、勇み進んで唯だ一人、来た心根がいぢらしい』が柵、そこへ『さいなア』と入れて『夫婦となつたその日から、国と都へ引別れ、死ぬる今まで一夜さも添ぶしもせぬ薄い縁、むすんだ神も恨めしい』が葉末、それから『そればかりかは夫にもおくれ、残る一人のいとし子の、自害するのを見ようとて、はる〴〵来たは何事』かしがらみと、斯う二人の母の区別をつけて語つて頂きたいものですが、サテそれは難かしい事です。
『涙々は漲りて、満くる汐の荒岬、浪打寄する如くなり』が大落しで先づ大方はこゝで切つて了ふやうになつてゐます。
それから灘右衛門の児島元兵衛政次や大内義弘が現はれまして、悲壮な政清の最期となる段切りまでは尚ほ十五分や二十分を要するでせう。
太棹62
浄曲うろ覚え(三一) 欠
太棹65 4-5
浄曲うろ覚え(卅二)
田中煙亭
時雨の炬燵
◇--紙屋内の段〔上〕
お馴染の紙治です、文豪近松巣林子の作を改竄したといふので、大層悪評を浴せられてゐるものですが、上るりとしては、かなりの魅力を以ていはゆるビラの利く語り物になつてゐます。
先づこの種の上るりは、真世話物だからといふのであまりサラ〳〵と、ステヽ語つてしまつては、或は『情』は語れても『音曲』といふ立場から見てどうかとおもひます。で、地合は艶も色もつける注意を要する。で、せう。即ち相当な師匠に就て、研究すべきものであらうと思ひます。
さて…
オクリの『直ぐに仏なり』を節切りにしてしまう人がありますが、これは『ひろひ』といふ節で、次のウキオクリ『門送りさへ』へ続き『門送り』で切つて、そこまで言つてしまうのが、よいと申します。
『まだ曽根崎を忘れずか』の『か』だけは詞でいひます。それから『おさんナあきれ……』をえらく唄はれては困ります。『顔うちまもり』でひよいと内へ引いて重ねた『うちまもり』となりますが、この節尻をジヤンと締めるのと、次の『えゝ、あんまりぢやぞえ』とは一緒に出るのです。このおさんの詞は、充分ウレイを含んでつゞけます。
治兵衛の『子中までなした中に』へ冠せて『イヱ〳〵〳〵憎いさうな〳〵〳〵』になりますが、この三度目の『憎いさうな』で、堪り兼ねてワアヽヽヽヽと泣きます。それから『女房の懐ろには、鬼が住むか、蛇が住むか』の、この二つの『か』も詞にするのです。
『それほど心残りなら……』は、それほど、で切つて、又た心で。切つてよろしいのでせう『泣かしやんせ』のアトの合の手の間を泣いて、二度目の『泣かしやんせ』になります。
彼の『おとゝしの十月、中の亥の子に』から『二人の子供はお前何とも無いかいな、と心の限りくどき立て、恨み歎くぞ誠なる』までの、おさんのクドキは、無論誰れもがキカセドコロにするのですが、唯だ綺麗な声ばかり聞かせやうとおもつてゐるやうに、その多くが聴えるのですが、これは出来るだけ情を、切ない情を聴かせて貰ひたいものです。いふまでも無い事ですが……。
それから、治兵衛の『おゝ、尤じや、あやまつた』以下の詞は、最も大事なキカセ場のやうにおもひます。唯だ文字通り、スカ〳〵とでなく……即ち『悲しい涙は眼より出で』はさも悲しげに、又た『無念な涙は』はいかにも残念さうに、想ひをこめたいのです。それから次の『小春めがぶ心中』は充分に怒気を含んで……。『アノ太兵衛めが』から『小春めは心残らねど』までの如き、さも憎々しくが事噛んでホキ出すやうにいひます。更らに『得知れぬやつらが口の端に』と、くやしさうに『残念な、口惜しい』のこの二タ言の如きは、ウンと力を入れて言ひ放つのですが、『とおもはず涙をこぼしたわいのふ』で、ハツと自分ながら気がついて、サラリと打とけておさんに話をするやうに、言ふのです。
おさんの『えゝ、そんならほんまに小春さんは、お前に愛想づかしをいふて……』云々の詞は、実際に、真におさんが驚いて、ビツクリしたやうに頓狂な声になつて言ふので、治兵衛の『ハアテ、きよと〳〵しいその声わいのふ』になるのです。といはれてもおさんは何か大いに自信がある風に『おゝ、そんなら小春さんは生きてゐる気じや無いわいな、〳〵、死なしやんす、〳〵死なしやんすわいなア』とアキレたまゝのおさんが今度は泣き出します。
それを聴いて、治兵衛はアハヽヽヽと思はず笑つて『ハテさて、何ぼ発明でもさすがは町の女房ぢや』になり『アノ不心中ものが何の死なうぞ』と、今度は怒気を含んで、否定するのです。このあたり、充分情を以て語ると、語る自分の楽しみは又格別だとおもひます。
『いえ〳〵、そうぢやござんせぬ……』と、おさんが、これから、前段、茶屋場の小春へ対し、いとしい治兵衛の為めにおもひ切つてくれと頼んでやつたイキサツを涙片手に物語るので、今度は、治兵衛が驚いて『ムヽそんならアノ不心中と見せたのは--ウンと内へート息引いて--そなたの頼みか?』となるのです。『アイナア』おさんのこの息づまる返事は千万無量の想ひがこめられなければなりません。治兵衛の『さうとは知らず今までも、義理知らずの、畜生のと……』の「義理知らず」と「畜生の」だけは地合で無く詞に語りたいとおもひます。おさんの『どうぞ殺さぬやうにして進ぜて下さんせいな』に続いて、治兵衛の『小春が命助けるは百五十両』云々で『何をいふても、金の工面につきたこの身……』は、いかにも打しほれていふのです。
おさんの『仰山な、それですむならやすい事と、立つてたんすの小引出し、あけて取だすないまぜの』は『ない』で切つて『まぜの紐付く帛紗押開き』になりますが、本には紐付き帛紗とありますが、これは紐付くがよろしいといふ事です。『こりやこれ小判五十両、どうしてまアそなたが』に対して『サア此金の出所……』になり『小春さんの方は急な事、ソレその小判五十両と、残りはわしがとかい立つて……』ですが、この『残りはわしが』は是非詞に語るやうにします。『ひツた鹿の子もをしげなく、小供のものも、かい集め、内端に見ても……』になりますが、内端は(ウチバ)の方がよく、この「見ても」でちよいと止つて、考へる間をもち『二十両』になるとよいでせう『無いものまでもある顔』と本には『ありかほ』となつてゐますが、これは『ある顔』でせう。(つづく)
太棹66 22-23
浄曲うろ覚え(卅三)
田中煙亭
時雨の炬燵
◇-紙屋内の段〔下〕
『夫の情と我が義理を一つに包む風呂敷の内に情ぞこもりける……から、おさんの『私や子供は何着いでもとかく男は世間が大事、身請してアノ太兵衛めに一分立てゝ下さんせ』は、いかにも口惜しさうに、憎さげにいひます。
治兵衛の『過分なぞや』の次ぎへ『女房どん』とか或は『忝けない』とか入れて大いに泣きます、それから『内に入れるにしてからが、そなたは何とといひさして……』は非常に言ひ憎くさうにいふのは勿論です。『面倒ながら真実の妹、妹』のおさんのこの二度目の妹など、充分に泣いてよろしいのです。『傍で見る目もいぢらしき』カンのつぎ節と称します。治兵衛の『コレ女房ども、親の罰、天の罰、仏神の罰は当らずとも……』など、凄いほど悲痛に泣くのです。『女房の罰が恐ろしい』の次『ゆるしてたも』を詞に言つて、泣き声をくり返してよろしいのです。『伏し拝む手を……』で、アヽコレ『旦那殿』を入れて『勿体ないわいな〳〵』から『手足の爪をはがしても』になります。
『治兵衛殿お宿にか』で五左衛門の出になります。治兵衛はひどく狼狽します。『夫婦はうぢ〳〵』です。五左衛門も『又質屋へうせるのか』は『ひツちやへ』とよみます『こつちへおこせとひツたくられ』は口早やに。
三五郎が奥へかけ入つたあと『舅はなほも図に乗つて』と入れて『大方かうであらうとおもうた』になります。
スツと飛んで小春の出『おもひは同じうき思ひ、身の言訳にきのくにや』はなるべくサラツと語ります『様子ありげに内の体、逢うてはいかが』で切つて『と用水の……』とつゞけます。
それから五左衛門の『何もいふ事聞く事ないわい『おさん戻せば事は済む』ですが、この『おさん戻せば』で故人になつた越路太夫が、非常に泣いたの聴いた事がありましたが、おやツとおもひながら、非常に好いとおもつた事があります。その情愛はツマリ後に解るのですが、この一言を、前を充分にお約束の強く語つておいて、このおさん戻せば事はすむの一言にホロリとした泣き声を聴かせるのは、随分難かしい語り方だが、おもしろいとおもひます。その後、気をつけてゐますが、誰れもそれを聴きません、一つやつて見たらどうでせう?
一悶着あつて『治兵衛とつくと心を定め』になり『コレ舅殿、此の五十両は女房おさんが……』の詞は、かなり、怒気を含んでよろしい『不足にはあらうが、もつてござれ』で五左衛門の『ヱヽ』と、不審と驚き例の『さうはかいやい』になり『イや又どういうても大身代ぢや』でアハヽヽヽヽと大きく笑ひます。
おさんの『桑山の丸子』を重ねていひ『呑まして下さんせ、おゝ気遣ひしやんな』と治兵衛も『そんならしばらく別れてゐやう』あたりまで、充分に泣きます。なほ治兵衛は『舅殿も娘の事、まんざらむがうも……』は五左衛門の顔を睨むやうに見て、憎々しげに投げ出すやうにいひます。『つい戻りやる』を二度返し『やうになろぞいの』も泣き声で、言ひ切れぬ心で重ねていふ方がよろしいでせう。『子を捨る籔に夫婦の二股竹』とおさんが五左衛門に聴かれて立さります、後から駆けこむやうに来る小春『慕ふ子を見るに二人はいとゞ猶、おもひくずをれ抱き〆め、透せはすや〳〵稚子を、いぶりながらのくどき言』ですがこれはメリヤスで守り唄の調子で語ります。
『そなたもおれも』『そりやこなさんも覚悟極めてヱヽ忝ふござんすと抱きしめたる泣いじやくり胸と胸とにいはせけり』は、グツとしづめて抱き〆めたやうに語ります。突如として『高砂や』と三五郎がでます。三五郎の言葉、殊に後の『アヽコレ泣かんすないの〳〵』や『きり〳〵呑んでさゝんせいのふ』や『さらばお酌を申さうかい』など、何れもこれは狂言調といつて、能の狂言に用ふる調づかひです。全然阿呆になつてしまつては困ります。お末が墨染衣、白無垢で戻って来ます、『おさんが筆のちらし書』でこれを二人して読み合ひます。『立て見ゐて見うろ〳〵と訳も涙にくれゐたる』の次へ『治兵衛又も取上げて』と入れまして『ナニ〳〵舅五左衛門申入候』となり、そこにはいろ〳〵の入れ事がありませう。『小春殿を請出し』と読んで改めて小春の名を呼び……喜び合ふ気味になる処で『娘さん事お末もろとも今日尼に致し』とあるので、ハツと治兵衛は、以下凄味を帯びて声も次第に上がつて来ます。善六太兵衛が出て来てからの治兵衛の詞は、さらに上がつて、もう殆んど声を出しません、『コリヤ三五郎〳〵、お末を連れて奥へ行け』のあたりは、上げるのを通り越して、声がかすれて、出ないやうになる方がよろしいのです。
意味を充分尽さす又細目を略しまして大体以上の通りで止めておきます。
塵外帖
えむ・てい
時雨の炬燵定木枕に治衛の頬を、つたふ涙やいくしづく
○
恋も悋気もぬし可愛さに、我身一つをすて坊主