平成十三年一月公演  

第一部

『寿式三番叟』

 景事として済ませるのであれば、別に書くことはない。大夫も三味線も人形も客席を堪能させるに十分の出来であった。故に、今からここに書こうとするのはまた別の話である。
 マクラがソナエで始まるのは、それこそ「本下」も同じであるのだが、これはまさしくソナエの名にふさわしいものであった。「式三番のその謂れ」を荘重にソナエたのである。まずシンの清治にその心あり、二枚目の英清友以下、津駒千歳に睦と相子、燕二郎喜一朗清志郎清丈と黄金の床。しかもその各人がすべて思いを共有しているということが、聴いていてよく伝わってくる。今回の奏演はこのままライヴ録音として販売してもよい。いや販売すべきだろう。その形態はもちろん映像入りで。何となれば、手摺がまた実にすばらしいものであったからである。
 至高の人形浄瑠璃というものは、そこにカタルシスを体験出来るのだが、それは、具体的に目の前にある耳に聞こえてくるものを越えた、抽象化された、精神的な、いわば普遍の真理とでも言うべきようなものを垣間見せてくれることの謂いなのである。(エクスタシーと表現してもよい。日常的statusをexすること。)文楽は庶民の芸術であるというのはよく言われることであるが、それが日常性に埋没していることの謂いであれば、そんな文楽についての評言を書く気など毛頭ない。大宇宙とシンクロしない小宇宙など、それは確かに一定の時間と空間において人間が存在する「スペース」であろうが、通時性はもとより共時性も持たない「その場」限りのものであるにすぎないのだから。今回描出された大宇宙の存在に気付いた人々は果たして幾人存在したのであろうか。
 太夫は音吐朗々はもとより、風格あり。英は品格あって清浄。津駒千歳は前に出る勢いがあり、三番叟という格式もふまえている。睦相子もよきユニゾンを形成していた。三味線陣はまさしく清治の指揮の下、副官清友佐官燕二郎よく助け、喜一朗清志郎清丈ともに手足となってよき仕事をした。ユニゾンはもとより、替え手も鮮やかに、また三重奏の如く響くところもあり、三味線アンサンブルとしてこれ以上は望めない出来であった。人形は清之助の千歳が理想的ともいうべき遣いぶり。若男かしら、鮮やかな紺地に配された梅花模様の、清新かつ馥郁たる香も漂ってくるかと見えた。三番叟の玉女と簑太郎はそれぞれ検非違使と又平かしらの映ること映ること。若々しく(日の本の神々はこの若さをこそ好ませ給う)充実した一杯の人形。加えて精神性の高さもあり、「鈴の段」での種蒔きの所作には、幸福の種を観客一人ひとりに蒔いていくとも感じられ、正月公演かつ襲名披露はもとより、21世紀の始まりに相応しいものであった。さて、文雀の翁は、神位というよりも、むしろ共同体の長老が似つかわしい。もちろんそれは翁の一側面でもあるのだが。それと面を外してからは孔明かしらに戻るのであるが、長老の面影が付いて回っているようでもあった。
 

『竹澤団六改め七代鶴澤寛治襲名披露口上』

 何故に団七以下の一門が並ばないのか。せめて団治以下の弟子達は並ぶはずであろうのに。いや、そういうことはないのであったのかしらん。ともあれ、これで喜左衛門とともに寛治も揃ったわけで、目出度いことである。越路師匠が四代を襲名されると決まったときに、先代寛治師が「わしが生きている間に越路大夫が出来たか」と言って大層喜んで下さったとのエピソードを、私自身も目を潤ませながら読んだ覚えがあるが、今その越路師匠の思いは如何様なものであろうか。

『本蔵下屋敷』

 マクラから段切りまで勤めて、さてどうかという代物である。もちろん端場を付けるのは坊主で出すわけにはいかないからであるが、どんな大名人でも難しかろうと思うものである。古靭清六のレコードでもマクラ一枚でどれほど神経を配ってこの一段を何とかまともな浄瑠璃に仕立て上げようとしていたか。
 その口は津国と清太郎(故相生紋の肩衣は追善か)。端場となった以上は語り込んではいけない。さすがに両者よく心得ている。ところがそうするとマクラ一枚の詞章が何とも無意味に虚ろに響くことになってしまった。が両者の対応が正しい。要するにそれだけの作品であるということだ。さて、伴左衛門はまず予想通り、本蔵が冴えないのは手摺にも影響するが是非もない。
 奥が伊達(朱塗りの見台で祝意を示す)と寛治。公演前半では今一つであったが、後半はこんな作品を見事に語り生かし弾き活かし、伊達大夫は切語りの実力を見せ、寛治は襲名もっともと思わせた。端場を付けたので三千歳姫の詞クドキから始まるというのは不幸としか言いようがない。それでもここは寛治の三味線を耳立てて聴けばいいのであって、伴左衛門が出てくれば伊達大夫の持ち場である。しかし今回特筆すべきは若狭之助であって、この一段は実際若狭之助がシテではないかと感じた。もちろん人形が玉男であったことの意味が大きいのではあるが、伊達の語りもやはり若狭之助が抜群であった。「あと言ひさして顔背け嘆かせ給ふ御有様、有難しとも嬉しとも申上ぐべき詞もなく」と書かれた地が真実として心に響き、深い感動を覚えたのである。箏曲になってからも、寛治の三味線に寛太郎の琴もよく和して、慈愛と悲哀とを底に秘めた美しい調べに、自然と目が潤んだのも当然であろう。ただ、それに付された歌詞の味わいは乏しく、難声ゆえやむなしとはいえ、物足りないものを感じたのもまた事実である。「送る素足の氷の楔、朝明の嵐に暮の雪と、浮れしことも、もはや迎の駕篭待つばかり」…尺八を吹く本蔵、聴き入る若狭之助。今キーボードを叩きながらも涙が浮かぶ歌詞である。もしこの詞章が語り活かされていれば、どれほどの更なる感動がもたらされたことか。そういう意味ではこの一段、なるほど存在理由もあるわけである。それはもちろん浄瑠璃作品としてであって、好劇家に受けた演目などという範疇ではない。もっともこの感動も、若狭之助(および本蔵)の存在が床手摺ともに描出されていればこそであって、そうでなければ単に耳目を際だたせるあざとい趣向、増補物の醜悪此処に極まれりとなることは明らかなのである。であるから、この一点だけからみても、今回の伊達寛治は実にすばらしい出来であったと称するに値するのである。
 人形は何と言っても玉男の若狭之助に尽きる。床もそうであったが、公演後半の方がより輝かしく見えた。次に玉也の伴左衛門。敵役といっても端敵程度の伴左衛門の遣い方として申し分なし。故師玉昇の面影もここかしこに見えて頼もしくもあった。三千歳姫の一暢はもとより映るが、どうという役所でもないからここまで。そして玉幸の本蔵であるが、雰囲気はあり、それらしくもあるのだが、やはりまだ内面の心理描写には至らない。存在感という点からも今一歩。例えば端場で一間の障子をそっと開けるところなども棒立ちで、ただ詞章を人形で見せたというに留まった。別にアオチ眉を遣えというのではないが、その出から存在感を表現する玉男師の域にはまだまだ届きそうもないのが現実である。厳しいようだが次の立役たるべき人ゆえの苦言である。

『新口村』

 口は御簾内で文字久と宗助。文字久はずいぶんとよくなった。浄瑠璃になってきたということだ。それは宗助の三味線であることも大きい。また従来は丁寧に語ろうとするあまり、往々にして端場が渋滞することがあったのだが、今回はそれもよし。師匠の厳しい稽古はみな我が芸のためと心得て、一層の精進を望むものである。呂勢がどうもぱっとしないということもあり、その差はほとんど無くなった。
 切場の綱清二郎。この床にはいつも感心する。というのも、ああここの節付けはこうなっているのかなど、浄瑠璃の構造を聴くことが可能だからである。難解な「風」についても理解する手がかりを与えてくれるのである。今回もまたマクラからすばらしく、ハルフシの丁寧さ、しかも節付けが派手になされていて、浮き気味に弾き進まれる(東風のごとく)ということもよくわかる。「冬枯れて」「世を忍ぶ」「人目を包む」という詞章に相反するのではということにもなろうが、実はそれが詞章の「隠せど色香梅川が」にリンクして集約されているという発見(語る大夫には自明のことだろうが、聴く側にとってみれば新発見)にまず感じ入ってしまった。要するにここで早くも梅川がシテであるということが聴き分けられるということになるのだ。マクラ一枚に浄瑠璃一段の正否が掛かるとはよくいったもので、綱清二郎の「新口村」はこれでまず保証されたのである。あと順に述べていくと、梅川および忠兵衛の述懐はさすがに苦しい。が、「ハア雪が降るさうな」から続く地の文は情感有り、足取りも間もすばらしい。そして遠目に孫右衛門を確認するところ、梅川忠兵衛それぞれの思いが迫ってきて、感動の一頂点を形成した。そのあとの梅川と孫右衛門との会話、とりわけ孫右衛門の述懐はむしろ抑え気味で、やはり今一つ物足りなかった。それは忠兵衛に対する心情吐露の部分にも及んでいて、忠兵衛が堪えかねて出ようとするところ、直前の「覚悟極めて名乗つて出おれ」の詞の強さにのみ押されて飛び出した感があって今一歩。孫右衛門の述懐を聴くうちに思いが徐々に高まって、そしてついに…というのではなかった。そのあともよく語るが涙には至らず。このあたり難声で詞が聞き取り難くなるのはやはり苦しい。最後、段切りの急転直下も出来、親子の別れに情感もあったが、「血の涙」との詞章には届かなかったのではと聞いた。しかし前述のように、浄瑠璃の要点をしっかり押さえてあるので、一段聴き終えたときに十分納得のいく仕上がりとなったのである。実はこの「新口村」は「綱太夫の風のやうに聞えて仕方がない」(『素人講釈』)とされてもいるのだが、そうだとすると先ほどの評言はすべて「此段では、忠兵衛も梅川も、已に死を決して出て来るので、云ふ事も為る事も、其心から出る愚痴と、世迷言斗りだすぜ、浄曲中に是程陰気な物は有まいと思ひ升」(同上)との団平の言葉と「心一杯に陰気に気を〆めて、腹の中で運んだ」(同上)とする摂津大掾の語りを踏まえたものということになる。綱大夫(清二郎)であれば十分に考えられることだが、情けないことに評者自身には聞き分けられなかったのである。これでは、美声に酔いしれてワーワー言うのと大差ないわけで、まだまだ修業が足りないと反省すること頻りである。
 さて、人形は紋寿の梅川に真情あり、自らについて述懐するクドキよりも、孫右衛門とのやりとりの方に一層の情愛が感じられた。和生の忠兵衛は完全にワキであるが、若男の未熟さ故の魅力をそれなりに描出できていたように思う。そして文吾の孫右衛門であるが、定の進かしらを十二分に遣って見せたというわけには行かず、舅かしらならば映ったかもしれないというところ。もう一つ捉えどころが無く、と言ってどこが悪いということもない。出から転ぶところも作り事ではなく、客席もはっとさせたし、恩愛の情も感じさせるのだが、床との関わりもあり、段切りで傘をすぼめる例の極まり型も今一つぐっと来るものに欠けていたように思う。要するにまだ老人(特に世話物の)は映らないということだろう。
 

第二部

『伽羅先代萩』

「竹の間」
 ここは何時の間にか掛合が定着してしまったが、今回はその掛合の悪い点が目立ち耳だち、散漫でバラバラの印象に終始してしまった。もとより話としてもガサガサしているから仕方ないと言えばそれまでなのだが、「本下」のように、床によっては面白く聴かせることも十分出来るわけで、今回はそこまでの力量がなかったと断言せざるをえまい。松香の政岡は喜左衛門とともにマクラ一枚がこたえない。一体何を表現しようとしているのか、腰の定まらない大夫三味線。南都の沖の井と貴の八汐はその出の描出では及第点か。どちらもまだまだ作為の跡が見え見えだが、それが人物像をまだしも呼び起こした分、八汐の方が得したというところ。始の鶴喜代君と咲甫の千松、鳥篭を持って出るところに愛らしさが感じられたのはよい。文字栄の小巻は何ともならないところからは脱却したか。相子はまだ故師の片鱗にも至らぬ平板さだが、ともかく声修行の段階。人形は後で述べるが、文吾の八汐は堅くていけない。とくに動かないときの八汐のかしらがまるで映らない。ニンではないのだ。

「御殿」
 ここはパンフレットの鑑賞ガイドが珍しくよく書けている。実によく書けているのだが、床と手摺が志したのは別の方向であった、というよりも、その域にまで達していなかった。嶋大夫清介はマクラからきちんと五十万石余の大大名の御殿と、その世継ぎの乳母が政岡であるということを示し、引き続いて千松の詞に至って観客の胸に感銘を催させた。「母は健気さいじらしさ目に持つ涙」とは正に真実。見事なもの、もはや押しも押されもせぬ切語りである。ところが次の「飯炊き」に至って、まず人形に肚が感じられず、「雀の子」に至るや床の方も解釈が行き届かなくなってしまった。もちろんそうなっても、嶋大夫の声と清介の音であり、舞台では幼子二人が懸命な言動を見せているのだから、表面的な部分では十分に満足して拍手喝采するということにはなるのだ。しかしこれは「御殿」ではない。せいぜいが一般家庭での母子の情愛のレベルに止まっているものである。では何がいけなかったのか。前述の通り、まず「飯炊き」である。ここは「米洗い」でも「笑い薬」でもあってはならない。要するにただ単に飯を茶道具で炊いて見せるものではないということだ。そんなことは三業なら百も承知の上であろうが、少しの油断から、諸道具の取扱と動作の連続性に神経を奪われたが最後、人形の見せ場として詞章を視覚的に説明する程度のものに平板化してしまうのである。詞章を繰り返し読めば、「千松に飲ます茶碗も楽ならで」であり、乳母政岡たる者の「お末が業を信楽や」なのであって、「流す涙の水こぼし」ともなるのだが、それらは「心も清き洗ひ米」の結果であって、総合すると「骨も砕くる思ひなり」ということなのである。この政岡の衷心衷情、真情誠心がにじみでて、舞台客席いっぱいに広がらなければならない。そうでなくては、ここは例の荒唐無稽の作事、拵え事に堕してしまうのである。残念ながら文雀の政岡は表面的であったと言わざるをえないだろう。床の方はまだその用意があったと聞いたのだが、それも「雀の子」にまでは至らなかった。この部分は小動物を出して観客の退屈というか鬱屈(ただ今回は前述の通り政岡の心情が伝わっていないから鬱屈などしていないのだが)を発散させる意味を持ってはいるが、眼目は政岡千松母子の象徴として扱われなければならない。もちろんここまでならある程度の三業(と観客)ならば当然ご存じのことなのだが、その上更に、というよりも、これが仙台藩伊達騒動の格であること、つまり、政岡が千松が鶴喜代君がこの社会共同体(他者関係)の中にあってどのように位置付けられている存在(自己)であるかということを踏まえなければ、この浄瑠璃一段は前述の如く、単なる幼児と母親(乳母)との情愛話で終わってしまうのである。ではその意味するところは何かと言えば、竹に雀は仙台藩の紋に他ならず、それは御殿の襖を見ても明らかだということである。つまり雀の象徴性、しかも二重構造をしっかりと捉まえねばならないということなのである。具体的に言えば「忠」「孝行」という語句が大切に扱われていなければならないということだ。もちろんこの二語を際だたせればよいなどということではなく、この地の部分全体においての重みということである。こう書くと、その忠や孝行は江戸の封建体制そして戦前の全体主義の中では重要だったかもしれないが、今の日本ではむしろ捨てて顧みないところであるから、母子の情愛を中心に据えればよいのだ、と言う人々が必ず存在する。しかしこの発言とそれを支持する人々が存在するからこそ、現代日本の荒廃した世も末の(新世紀にも関わらず)社会状況が現出しているのである。その理由はすでに述べた。他者関係の中にあってはじめて定まる自己という存在を理解できない、理解しようともしないということである。人間とは「じんかん」であり、もとより人と人の間に存在するもの、つまりは関係性の存在なのであるのだから。(ということは現代日本人の多くが「人間」ではないということでもあろう。)さて、そうなると今回の浅さは次の「雀の唄」をめぐるやりとりへも波及してくるわけで、床も手摺も、なぜ政岡が千松を叱り、そののちまた千松に唱和するのかということについて、何の心用意もないということになってしまう。前者は繰り返し述べる必要もないから省略するとして、後者についてはそれに続く地の文「竹の下葉を飛下て篭へ寄来る親鳥の」を捉えていれば当然理解されるというものである。とはいえ、さすがにこの一連の解釈は、住大夫クラスで玉男の人形でなければ描出できないものであるかもしれない。よって嶋清介文雀には敢闘賞を贈呈するということになるのである。ただそれは観客の程度にもよるので、この後の狆が出てくるところ、「あの狆になりたい」でどよめき笑いが起こるようでは、どうしようもない。「聞く悲しさを堪へかね」という地の文は全くの嘘言になってしまったのである。(もちろんそれも三業に責任があると言えば言えるのだが。)政岡が最後に流す涙の意味も、ずいぶんと安く見積もられたことであろう。この切場前半の仕込み如何は、そのまま後半政岡のクドキにまで影響を及ぼすことになるのである。なお、因果をきちんと「いんぐわ」と発音したのはよろしいが、「ハテ心得ぬ梶原の奥方とは」の詞が男声になってしまったのは、嶋大夫の現在の到達点を物語っているものであろう。

「政岡忠義」
 咲大夫は今回も綱大夫紋の朱塗りの見台を用いる。三味線は富助。全体としてあっさりと仕上げたという印象。もちろんこのコンビとしてはであるが…。まず「夫の権威に栄御前」という詞章がこたえない。「梶原平三景時の奥方」との地で、まずイヤな奴が来たという印象がない。続く詞も押し付けがましく増長した感が今一つ足りない。八汐も得意の意地悪さが抑え気味であった。逆に政岡のクドキはむしろゆったりと聞かせようとするのだが、ここまでの処理が今述べた通りであるから、弛れ気味に思われたのは僻目(耳)ではないように思う。とにかくカタルシスには至らなかった。だから段切りで千松に懐剣を持たせて八汐にとどめを刺させるというところも、形式的なものに終わってしまったのである。あと、お菓子の「くわ」音がどうも体ではなく頭で発せられているようで、それは、最初栄御前の詞では出来ていたものが、次の八汐および千松の詞では忘れられ、と思えば「懐剣」「慮外」ではしっかりとなされ、再び栄御前の詞「大切のお菓子」でも出来たかと思えば、直後の「大事の菓子を荒らした科」では忘れられと、何ともよく分からぬ、猫の目のように目まぐるしい語りであったことから明白である。しかしその心掛けは諒としたい。それと政岡のクドキ「誠に国の礎ぞや」で高音の突っ張りが利かないのは、声柄とはいえやはり不満が残った。勢い込んで畳み掛けなかったから尚更耳障りであった。ただ、バタバタと埃の立つ浄瑠璃にしなかったのは、御殿の格をよく踏まえているからで、流石ではあるのだが。富助の三味線も重み厚みに不足が感じられ、物足りなかった。
 人形であるが、文雀の政岡は見ていてよく分かる遣い振りであることは認めるのだが、どうも説明的で表面的ではなかったか。別に情愛が不足しているというのではないが、政岡の心奥から沸々と上がってくる思いというものは感じられなかった。もちろん破綻もないのだが、クドキの後振りは伸びと大きさに欠けていたようにも見えた。加齢ということもあるのだろう。人形頭取の地位にあり、識見にも富んだ人形遣いであるゆえに、大切に大事に舞台を勤めていただきたいものである。敢えて言えば、この政岡にせよ翁にせよ、それを遣い切ること以外に文雀の遣う人形の価値はいくらでも見いだせるということである。文吾の八汐は何とか動いてこの悪女を描こうと懸命なのだが、やはりこの人の持ち役ではない。「竹の間」で「ソリヤまた何故」と極まる型も段取り悪く、千松を刺し殺すところも形式的で、あそこはむしろ溜めるだけ溜めておいてぐっと突っ込む方が、何度も何度も軽々しく突き刺すよりも、遥かに残酷無惨となるのである。なぜならば、この文吾の遣い方では、千松は人形そのものの扱いになってしまうからである。本物の人間であれば、それこそモノのように人形のように扱うことで残忍となるのであるが、これは人形浄瑠璃であるという大前提を忘れてはならないのである。あと一暢の沖の井は「さすがに庄司為村が奥床しくぞ見へにけり」との詞章に恥じないと見えた。もっとも男なら孔明かしらという格だから、そこまでには至らないが。玉英の小巻はこの布陣にあって遜色はなかったし、典薬の妻という格もはみ出さなかったが、「毒薬却つて薬となる顔に似合わぬ配剤は」とある、しなやかな強靭さとでも言うべき姿には至らなかった。

『吃又』

 端場の呂勢大夫、肩衣は呂紋だが見台は真新しい抱柏紋。弥三郎の三味線とともに快調に語り進み弾き進み、修理之介名字認可の一段をきちんと勤めたが、どうも一本調子で詞と地の変化も面白からず、平板との印象は免れまい。もちろん端場の格を踏まえたものと言えば言えるのだが。ツメ人形に精彩を吹き込むには、やはり伊達大夫か故相生の力が必要かと、今更ながら嘆息したのである。
 切場は住大夫と錦糸(肩衣前述の抱柏紋)で、さすがに聴かせる。しかも簑助の遣うおとくと玉男の遣う又平とが紛うことなき正真の夫婦を描いて見せたから、この情愛の自然なる深み滋味の表現こそ至上のものとなり、まさしく実際の人間以上、人形浄瑠璃究極の地点に達した名演となったのである。これこそが歌舞伎などが逆立ちしても決して及ばぬ境地というものであり、人間国宝三人競演の看板に違わぬ至高の作品に仕上がったのである。いや、「仕上がる」などという人為的な所産ではない。「上出来」という言葉も慎まなければならぬ。そう、出来る出来ないなどというレベルを超えた、まさにそこに「ある」ものであったのだ。もちろんこの「ある」は数多の「する」が積み重ねられた結果であって、ただ単なる「ある」とは天地の開きがある。しかし観客のほとんどは、それを自らの日常的な「ある」と簡単に重複させるから、どこをみても感動の嵐という光景が現出することになるのである。いや、名人の至芸というものは、最終的にはそこに到達するものかもしれない。鼓腹撃壌、帝力何有於我哉とは此の如きを言うか。東洋の芸術的理想が実現された瞬間とも言えよう。
 さて、一方でこの浄瑠璃が「実に斯芸中の難物である」(『素人講釈』)と言われる所以はと問われれば、今回の床で即答することは難しい。「筋を素読するのが不思議に三味線に合ふ位のものである」(同上)というのはさすがに失礼だが、それでも故津大夫寛治の奏演テープを聴くと、なるほどと納得することが多いというのもまた事実である。そこで、これに関しては別に改めて論を設け、「補完計画」に掲載することにしたい。ともかく、近松の原作であるということ(諸紙には改作改作と連呼されているが、それは最後の吃音が直るとしたところのみであって、大頭の舞までは原作の踏襲である。この両者とも又平が扇をかざして踊ると見えるから、観客にはむしろそのまま原作とも感じられるのだが、今回玉男ははっきりと両者の違いを遣って見せてくれたのである。これについても別記する)、および、世話物ではなく時代物として(といっても同時代に非ざるが故に、必然的にそうなるというのではなく)、芸術家(近松もそうであることを忘れてはならない!)の存在理由、また芸術というものの意味を描いたということ、これらは今回玉男の又平(およびそのよき理解者であるおとくの簑助)によって確認されたのであり、住錦糸の床においてはその幾分かが納得されたということなのである。その床について列記しておくと、河内地という「風」はそよぎ程度、「茶でも呑んで立帰れ」の厳しさ、「理見えて不便なる」の哀感、雅楽之介注進は予想以上の上出来、又平の悲哀十分、哀切はまずまず(痛切には至らず)、「名は石塊に止まれ」の核心は突いていた、そして改作部分の面白さ、等々である。
 それにしても今回、「膝とも談合と申す」以下、又平必死の申し立て(則ちその吃音表現)の語り出しの部分で、客席からざわざわと笑いが起こった(故津寛治ならばどうであったろう…)のには、さすがに暗澹たる心境にならざるを得なかった。潜在的差別意識云々ということではない。このように受け取られるようでは、この作品も身体障害者に対しての配慮に欠けるものとして、上演が自粛されるようになっても仕方がないということである。演劇の正否の少なくとも半分は観客によるものである、この常套句の意味を改めて悲しく感じたのである。
 最後に人形について。玉松の将監は年功で見せたが、手水鉢を切ったあと舟底から屋台へ戻るときに、介添えが無理矢理師の右腕を引っ張り上げたのは、余りにも酷い。玉幸の注進雅楽之介は軽々だが、「詞も足も血気の若者後を慕うて走り行く」は詞章に似合わず、平板であった。玉輝の修理之介は若男が映るという人ではないが、その武士にあらぬ若き芸術家としての精神性を垣間見せたのは称賛に値する。勘寿の奥方は、これが本役になる人ではないはずで、この布陣の脇固めとしての配役だったと思いたい。

『二人禿』

 団七、このシンのみ。三輪、塩漬けにならねばよいが。文司、大師匠は玉五郎であったと思うべし。簑二郎、この役が付くようになったか。

 
 
 文楽劇場はもはやテーマパークと化しているようだ。そうである以上は、嬌声を上げて楽しむに如かず。いっそのこと周辺のホテル街を買収して、AMUSEMENT SQUARE -BUNRAKU- とでもすればどうか。江戸期の大坂の町を現出し、その中心に劇場を据えておくというわけ。絶対儲かる話なら、現代日本人は必ず乗って来るはずだ。(もちろん「本物」を望まれる方々向けに、断絶しているSP復刻CDの復活継続と、公演記録映画会フィルムのビデオ提供も、よろしくお願いしたい。)