平成十五年七・八公演20日、27日−二・三部のみ−所見)

第一部

「瓜子姫とあまんじゃく」
 前回に比してまず際だったのが、アマンジャクの「おそれ」に重点を置いた行き方であるということだ。嶋大夫の語りも「手に負えないいたずらものであった」で、コミカルな存在としてではなく、人間の日常世界とは異なる世界の住人であることを、強く押して語ったのである。とはいえ、ことさらに恐怖心を駆り立てるというのではなく、不可思議な存在であるということを強調するものである。この「いたずらもの」というのはもちろん人間界の日常からすると「悪戯」に見えるわけで、アマンジャクにとっては、この何でもまねをして言い返すというのが自分の存在そのものであるのだ。子どもたちはこの「まねっこ」に笑い声を立てるのだが、それはその異世界の存在を理解している証拠に他ならない。なぜならば、笑いとは日常性(これを正常性と決めつける時、そこから生じる笑いは悪意の嘲笑となる)との落差から生じるものであるからだ(自らをその日常から落としめると、それは苦笑なり自嘲となる)。そのアマンジャクが山父であるというところへ来ると、清介をシンとする三味線の合も「畏怖」を感じさせるものとなり、人形も木の精霊(自然界の象徴)として表されたのは、作品の主題をよくとらえたものと評価できる(なお、山父が言う「人間は時々思ってもよらんことをやりよる」にはいろいろな解釈が可能であるが、人間自身を滅亡させることになる自然破壊という行為を想起してもよいだろう)。さて、いよいよアマンジャクがやってくるところは客席にも緊張感が漂う。瓜子姫は一心に目の前の布を織るよりほか仕方がなかったとは、人間自体もまた何らかの意味づけや関係性の中においてしか存在しえないものということでもあろう。人間は絶対的存在ではなく実に不安定なもので、常に自分の位置を模索しているものなのである(ここまで来ると、われわれはこの作品があの宮崎アニメ「千と千尋」とも多くの共通項を持つものであることに思い至るはすだ。カオナシという存在、千の自分探し、等々)。アマンジャクの「怖ろしさ」とはものまねをするところにある。しかし考えてみればものまねはあくまでも本物の真似であって本物ではない。その分には本物の自分が泰然として構えていればいいはずなのだが、ものまねをされ続けるとだんたんと不愉快になってくる。それは自分というものが自分以外の他者とは異なる存在であるということによってのみ存在しているからで、その他者であるはずの相手アマンジャクが自分なのであるから、自分の存在基盤が揺さぶられていることに気付くことになるのだ。そうなるともはや本物も真似もないわけで、瓜子姫がアマンジャクに取って代わられることの「怖ろしさ」も感じられるはずである。もちろん客席の子どもたちにとっては、嶋大夫の巧みな「だがやアえ」が印象付けられ、芝居が終わったあとでまさにその「だがやアえ」の口まねをするということになるのだが、それだけでも今回この上演が成功したと言ってよいのである。幸い瓜子姫は、にわとりやからすやとんびと、そして何よりもじっさやばっさとの関係の中に自分の存在が位置付けられていた。それに比して他者を丸写しすることによってしか存在できないアマンジャク(人間はそうではないと言えるであろうか…)は、文字通り尻尾を顕してしまうことになったのである。段切で瓜子姫はアマンジャクという存在に「クスリと笑って」機を織り続ける。それは、日常世界のほんのとなりにある非日常の住人を、恐怖の対象として排除するのではなく、一種の畏怖の感情を持ちながらその違い異なりを認識するということである。昭和30年代のいわゆる新作としてのこの作品が、現代日本においてあらためてその価値付けがなされたことは、嶋大夫と清介以下の三味線陣の奏演と、人形遣いそれぞれの工夫の賜物であろう。おもしろいお話だった、とは洋画好きの小学校高学年女子の発言である。

「解説 文楽はおもしろい」
 幸助の解説。昨年度同様滑らかだが、無駄や無意味な場当たり的なものもあり、客席がダレてざわついたことも事実である。アバレンジャーに変わったのなら、今年用の新鮮なネタを探し出さなければなるまい。慣れによる狎れかとも思われて残念だった。 

『西遊記えぴそーど1』
 えぴそーどとは異国物の称なのであろうが、年齢層からするとスターウォーズにはまだ早い。それに昨今の日本語ブーム(NHK教育TV日本語であそぼう等。むろんこのブームには随分と胡散臭い面はあるのだが)を考え併せれば、もっとうまい命名があるだろう(ちなみに、同アニメ忍たま乱太郎では各編を「〜の段」と称している。原作者が近松ゆかりの尼崎出身ということもあるのだろう)。例えば、天の巻、地の巻とすれば、上下巻ということでもあるし、それこそお釈迦様の天界から次回は地上での冒険ということにもなるだろう。制作担当者は中途半端でなく子どもたちに人気のTV番組やゲームのリサーチをしていただきたい。正直言ってスターウォーズは2〜30代のロマンである。あと、各段が細切れで続いていくため、それぞれの登場人物とその位置付けが不鮮明。子どもたちはそれを詞章=太夫の語りから聞き取らなければならないのだが、これが詞章の文語体が未整理であるのと、地として(音楽として)聞き分ける必要があるのとで、困難を極める。結果として床本に目を落とすのだが漢語が多く難しい。そこで、これはやはりプログラムの1ページを割いて、各段の主要人物の首と名前と位置付け(何をするどのような人物)とを相関図的に示しておけば、随分と助けになったのではないかと思われる。次年度までに一考を願いたい。ちなみに床の楽器群に対しても質問があった。三味線と琴はともかく、胡弓やまして八雲琴など説明できたであろうか。これもプログラムに解説を掲載してもらいたい。

「水簾洞」
 五色の滝の大道具が美しく(ちなみにこの西遊記は前述の少女に言わせると、場面がいろいろ変化して楽しかったしきれいだった、とのこと。ストーリー自体は大したこともなかったようだ)、効果音も異世界を思わせた。が呂勢(と咲甫)の語りが不分明で、私自身面食らったほどである(これは文章にも問題がある。正当な浄瑠璃義太夫作品ならば詞章に流れがあるので、むしろ地に乗せれば聞こえてくるのだが)。悟空の英と玉女は明快。もう少し悪ふざけしてもよかったろう。シン団七の節付けも自然であった。 

「閻魔王宮」
 「三の字に竪の二筋書き加え」五十二にする、これも耳だけて判別せよではなく、子どもたちにわかるよう悟空の人形が書いて見せるべきであろう。ちなみに、閻魔はちゃんと笏持ってたで、とはTVアニメおじゃる丸を見ている小学生の談である。

「桃薗より釜煮」
 「油断大敵躓く木の根」悟空の所作が不分明で、なぜ捕まったん、との疑問の声が聞かれた。小道具の如意棒はよく出来ている。宙乗りはさすがにウケる。

「雲上」
 「観世音はったと睨ませ給い」からの叱責が不十分。となると金輪の意味も弱くなる。

「五行山麓」
 石詰めの猿は面白い。三蔵法師の御供して天竺へで終われば、今回はまったくの前説、あらすじ巡りである。その分場面転換も多く視覚的聴覚的に工夫したということであろう。次回はいよいよ面白い各話が続く。物語自体としてどれだけ惹き付けることができるか、楽しみである。

 第一部全体として、子どもたちにはまずまず満足のいくものであったようだ。事後のリサーチもしっかりとり、次年度はより一層充実したものになるように願う。


第二部

源平布引滝』
「矢橋」
 新喜一朗、溌剌と前へ出る語り口に三味線。「朧月影浜伝ひ追駆け来たる侍は」のカワリも出来。もう端場の口は任せても安心だろう。人形、紋寿の小まんも「百人にも千人にも勝つて万と付けられて」「男勝りに働けど」の通り鮮やかな動きを見せる。ツメ人形を投げ飛ばすのも面白いが、そのために邪魔な刀は差させない。ところがそうなると「大勢に切立てられ」た小まんが「もう叶わぬと覚悟を極め」るところがまるで現実味がない。懐剣では大刀数本をあしらいかねるから、湖へ飛び込むのである。詞章をないがしろにしているとも思われる人形の所作が、四月『妹背山』「小松原」久我之助雛鳥出逢いの場面でも見られた。「人形遣いは、義太夫節の詞章、曲節をよく知っていなければなりません。大夫が何を語り、三味線の節づけがどうなり、それが何を表現しようとしているか、それを知って、人形を遣わないと、人形だけが浮きあがってしまいます。」とは玉男師の言葉である。院本を読んで舞台へのぞむ人形遣いが現在何人いるであろうか。かといって体に叩き込むというやり方でもなかろうに。

「竹生島遊覧」
 小まんの三輪「ヘエエ口惜しや〜わが子に逢ひたや顔見たや」の地など、やはり今以て首をかしげざるを得ない。左衛門の始は大音強声だが冒頭「石山の月御上覧と云々」の地は浄瑠璃に聞こえるのか…。その持てる才を活かすべく努力と稽古とを切望する。あと左衛門の人形が、動いては行儀よく座に直り、また動いてはかしこまりという所作を繰り返したこと。動いていればいいというものではないが、ツメ人形とは異なり首が首であるから目立ってしかたがなかった。出番でない時の控え方にも工夫がほしいところだ。

「九郎助住家」
 中、千歳清治。二上り唄から九郎助住家の描写そして眼前の綿繰りへと、マクラの三転から流石である。「落人の御身の上ぞいたはしき」が身に沁み、肘の不思議が応えるとなればただ者ではない。仁惣太と小よしの絡みで片付けるのが普通だから。

 次、伊達燕二郎。予想はしていたがそれを上回る伊達の面白さ。ぐいぐい引き込まれ堪能堪能。瀬尾はピタリで九郎助と小よしとの絡みがこれまた申し分なく、実盛にも品格が出るという、実にすばらしいものだ。燕二郎は初め今一つ力感や足取り間に伊達との空隙を感じたが、二度目聞いた時には問題なく克服していた。

 切、「物語」を綱大夫清二郎。頭の中には先代綱弥七の奏演が何度となく繰り返し聴いているので自然に浮かんでくる。この西風三段目の切場、同じ物語でも熊谷の派手さはなく、引き締めた間と足取りの変化で聴く者をとらえる。小まんが生き返り引き続く愁嘆場、ここがもう一歩届かなかったのと、若君誕生(白旗の威徳とともに)の気高さが物足りなかったのではないか。「綿繰馬」は富助。切場後半のカタルシスがあり、「老武者の悲しさ」も心に染みたから上々。

 人形は何と言っても玉男師の実盛。この立役肚が余人ではいかぬのだ。首の角度、向き、胴体の姿勢、これらがすべて極まってこそ、この思慮深い文七かしらの実盛という造形となる。経験工夫、そして神業である。そして次代座頭格文吾の瀬尾、「詮議」での遣い方はすばらしいもの。大舅のかしらではあるが師直や時政とは異なる、金藤次や新洞左衛門も持つどことなくユーモラスな感じをうまく出していた。それだけにモドリではむしろ動きを抑えて大きく深く情愛を出す方がよかったのではないか。同じように遣ってもそれがこちょこちょと見えてしまうというのが、浄瑠璃の詞章や語りあっての人形ということの証左であろう。全体を通して脇の人形陣がすばらしく、小まん紋寿の働き、九郎助玉也の軽妙、女房紋豊の滋味、葵和生の品位、そして太郎吉も腕白者を活写した。玉也は作十郎の、紋豊・和生は文昇の、それぞれ立派にその地位にいる。「綿繰馬」の玉女は、最初いかにも人形を遣っていますというのが丸分かりで(それだけ玉男師の偉大さがよくわかったのだが)、これでは実盛が別人に見えてしまったのだが、それを省みてよく努力工夫し、たちまち修正して見せたのは、次次代座頭候補たるべき姿であった。これなら床の助けがあれば立派に実盛となったろう。


第三部

『女殺油地獄』
「徳庵堤」
 復活上演に際し、詞章を刈ったためであろうが、冒頭の三下り唄が「野崎参りの屋形船」まで続くのはいけない。「卯月半ば」からはどうみても情景描写の地の本文であり、「しつとんとん」でナオスそしてハルフシでとあるべきところだろう。次回での訂補を望む。掛合津駒のお吉は、意見のところをより強く、段切は自分を棚に上げ、そして与兵衛をもはやまったく眼中になく夫へ語る二ヶ所の詞を、もう少し突き放して語ればと聴いた。始めに与兵衛を乗せたのが自分であることなど、何とも思っていないお吉である。呂勢の与兵衛は調子者の雰囲気は出たが、底にある断絶された自我の闇の恐怖を強くちらりと響かせればと思われた(その点で文字久を聞いてみたかったのだ)。新の田舎客、咲甫の小菊は各々雰囲気をよく出して、実力を見せる。始の小栗も馬上の殿。南都の花車と七左衛門との語り分けの工夫努力は買うが、これが自然に聞こえれば掛合担当卒業なのである。

「河内屋」
 中の津国弥三郎は硬質だが、それがこの冒頭の一場面に真言と山上講を配した近松の筆の冴えを感じさせることとなった。
 奥は咲の持ち場ともいえるが、今回は寛治師の三味線がよく引き締め、状況を鮮明に映し出す。例えば「稲荷法印お見舞申す」の手を聞くだけで人物像が立ち現れてくるのだから恐ろしい。まして主人公の三者は言うまでもない。咲もチャリは得意、与兵衛の他者が全く眼中にない勝手(それはまた社会的自己が確立していないことの恐怖)、徳兵衛の衷情、お沢の真情(紋寿より他なし)、おかちの真率(和生ぴたり)、そして太兵衛はまさに兄なり。この太兵衛は文吾がその出からすぐ存在感が感じられるようにまでなったことに驚いた。人々の愁嘆、観客すべての人々の心にしみじみとそして鋭く伝わった。ただ一人伝わらないのは与兵衛である。

「豊島屋」
 世話物の雄は住大夫、また近松復曲物や増補外伝物は無二。錦糸もまた音の造形にいつもながら感心頻り。綿屋小兵衛と会話する与兵衛、ここにはまた別の顔が聞き取れる。「これが親達の合力か」ズバと語る意味、「不義になつて貸して下され」ゾッとさせる。「なければ是非もなしある銀たつた二百匁」まさに本心である。「南無阿弥陀仏」お吉のためでなく自分の犯した罪業消滅のための念仏。お吉も「いつぞやの野崎参り」以下、夫に言われればそのまま何の反省もなく自分に着せ替える、これもまた他者との関係における自分が見えていない。それゆえの「ならぬと言うてはきつうならぬ」と「それは互ひの商ひうち」の変化。「過去の業病遁れ得ぬ」とは、徳庵堤からここまで客席に座っていれば、まさにそうだと首肯されよう。またそう遣う簑助と文雀、完璧であった。それでも敢えて言えば、二親の愁嘆場が観客にはどうも長く感じられていたようだし、殺し場が凄絶とまでは行かなかったようにも感じられた。