大阪六月「文楽鑑賞教室」(17木・午後の部) 「火の見櫓」…シンは南都、頑張った。        三味線喜一朗も結構だが、三挺でのユニゾンが今一つ。        人形の清五郎はもっと派手でもいい。        とはいえ、人形のかしらを無理に振り回すように見えたのは如何。        客席、浅黄幕を切って落とすとオーッと歓声が上がる。        が、最後拍手がなかったのは、これで終わり?という感じか。        お七の詞が十分届いていないので、何のための行動かが不分明なのだろう。 「解説」…新大夫は堂々としていてよくわかる。大笑いもよく映ってウケていた。      三味線は弾いてなんぼだが、清志郎はもう少し面白い旋律を探して解説すれば…。      人形の勘市はポイントを押さえて落ち着いた運び方がすばらしい。 「寺入り」…咲甫と清馗だが、ほとほと感心した。       咲甫はまず千代の詞がすばらしい。跡追いのところで涙を催してしまうほど。       もちろん戸浪との語り分けも足取りや音の高低で明快。       持ち前の美声もこれまではこねくり回している感じだったのが、       音曲の司である浄瑠璃世界にこちらを引き込むところまでになっている。       私は早晩彼の語りの虜になるのだろうか…、とまで思わせたのである。       そこまで工夫して稽古した成果を認めての高望みをすると、       戸浪の詞の変化「ご推量なされて下さりませ。/シテ寺入りは…」       「気高いよいお子や。/折悪う今日は…」が鮮やかに決まれば。       あと逆に大事のところと持たせ振りが過ぎて決まらなかったのが、       千代の詞「大きな形して跡追ふの/か。」の「か」。       清馗の三味線はすっくりと胸に納まって一言もない。       今日は生徒さんで貸切状態のため右側座席だったのだが、       咲甫の語る姿は実に美しい。もともと端正な顔立ちだが、       浄瑠璃に真摯に取り組んでいる顔だ。作為がない。       浄められた瑠璃の輝きに向き合うがためのスタイリストなのだろう。       清馗とともに舞台写真に収めておきたいものであった。       たまたま隣に着席の上品な初老のご婦人は、       「今日はこの寺入りを聞きに来たのです。」と語っておられたが、       ああまさに宜なるかなと感心した次第である。 「寺子屋・前」…千歳・錦糸である。五月東京の成果をここに聴こうとしたのだが…。         千歳の語りは何だ。あれを工夫した浄瑠璃とは言わない。         なるほど詞章も節付もきちんとマスターしているが、         強弱をやたらと際立たせ、大仰な勿体ぶりに、作為の跡がありあり。         いや、跡ではなく、千歳は作為そのものを見せつけているのだ。         猫が鼠をさんざん弄んだ挙げ句最後は殺してしまうように、         あれだけフォルテやらピアノやら修飾を施しているにもかかわらず、         途中で睡魔を催してしまうのが千歳の浄瑠璃なのである。         あの語る姿も顔も、自己満足でどうだどうだと押し付けるように。         そのくせ高いところは苦しいからミが出てべっちゃりとした声になる。         思えば彼の「寺入り」を聴いて感に堪えたのはいつだったのだろう。         泉下の越路師匠はこの浄瑠璃を聞いてどうお感じになるであろうか…。         (例えば、「打守り居たりしが」のスヱテなど本当にどうかと思う。)         錦糸はもう風格さえ漂う三味線弾きである。他を圧する威がある。         ところが今の千歳と組むと、細密表現主義者同士の相克相殺、         素材の義太夫浄瑠璃が哲人自慢のソースで台無しになったフランス料理。         さあ、口直しは、やはり綱大夫弥七のライヴ録画にしようか。 「寺子屋・後」…呂勢・弥三郎が前場を喰ってしまったと言ってよいだろう。         まず千代で泣かされる。涙を指先で拭うこと二、三度ならず。         松王の泣き笑いもまた想像以上のすばらしさ、         「北嵯峨の御隠れ家…」以下の捌き方も見事、         天性の声質に厚みが加わり幅が出て大きさと強さも付いてきた。         「久しぶりに泣かされました。」とは前述のご婦人が聞き終えての開口一番。         「五月東京での雛鳥もそれはそれは結構でしたよ。」と恨めしいことまで。         もちろん、いろは送りなど、はた言ふべきにもあらず。         弥三郎はこうやって大きな持ち場を経験すれば一層腕が上がろう。         今回はまだどうも気負いというより気後れと緊張とで苦労していたようだ。                  人形は、松王の玉也、千代の清之助ともにまだ持ち慣れていない感じ。         いろは送りも、足拍子を含めて美しいとまでには先が長い。         源蔵玉志との立ち回りも、机文庫をさあどうぞで切るようではいけない。         戸浪の勘弥は納得、玄蕃の玉佳が一番よく映えていたのではないか。         客席は男子学生が後半の情緒までさすがに保たないようだ。         この「寺子屋」は鑑賞教室の演目としてはどうだろう。         年齢的には殺される小太郎に近い生徒さんたちである。         女子高生はまだしも母性本能から千代の思いは共感できようが、         源蔵夫婦と松王の限界状況における決断が胸に入っていないと…。         その限界状況をパンフレットの解説以外で感じさせる工夫が欲しいところである。         ちなみに、字幕はフェードインさせて目障りにならぬよう配慮があった。