平成十七年一月公演(前半:5日、後半:22日)  

第一部

『七福神宝の入舩』

 大阪では久しぶりであった。そうも感じさせないのは、その程度の演目であるということと、東京で勘十郎襲名に際しタマちゃんを見た強烈な印象があるためだろう。人形陣がそれぞれ面白可笑しく見せようとしているのだが、やるのなら堂々と明瞭に。内輪受けあるいは中途半端な遣い方をした人物に厳重注意をしておく。誰とは明記しなくても、本人の胸にはグサリと来ているはずだ。それと、人形のカシラは七種に識別するためにあるのではない。それぞれの性根に合わせてある。その点、定の進カシラの寿老人を遣った紋豊が、さすがによく心得ていた。鳳凰の船首を見せたのは酉年なのだからだろうが、全員集合全速前進の偉容は、ギリシャ神話か秘宝探しの海賊船を思わせた。太夫陣、松香は風格ある、貴は味があり、津国面白く、新はよく映り、咲甫も聞こえた。つばさ・睦も洋々。南都は掛合で女を任されることが多いのだが、制作側の選択は果たして正しいのか?今回も努力工夫が空回りして作為に傾き、しかも高音部は裏へ回ってしまっている…。さて、肝心の芸尽くしだが、いずれも公演後半には手慣れていた。団七、琵琶などもっと派手に弾いてよい、宗助もったいない、団吾聞ける、清馗の曲弾き面白いのに観客は気付かず、この2、30年で耳はヨレヨレになってしまったのだろう、ならば鑑賞ガイド等で事前に周知しておかねばなるまい。清丈の琴、龍爾の胡弓、なかなかの腕だがともに西洋楽器の音になる。金髪津軽三味線(これ自体は否定しないが)をこんなところで真似る必要はない。今回の七福神、全室フローリングのベッドルームで見る初夢だった。
 

『伊賀越道中双六』「沼津」

 故燕三の三味線で聴いた時は涙とどまらずであったが、今回も涙で潤むことになったのは大慶である。住大夫現錦糸の傑作の一つとして、記憶に残しておくべきもの。前回は錦糸の名前替えということもあって、三味線がとくに感心しなかったが、この公演は弾出しからオヤと思わせ、語り出しては引き込まれそのまま平作内へ。屋内の会話はやはり芝居に傾く、「胸にこたゆる十兵衛」以下今一歩、これは全体に十兵衛の表現が気取り過ぎているからでもあるのだが、この源太カシラがどうも浮いた感じになる(「熊谷陣屋」の義経など)のは住大夫の癖である。お米のクドキは心に迫るが、美しさが不足している。クドキでノリが今一つなのも特徴(これは声質のためではない、津・友次郎を聞くとあの難声で快感が響いてくる。もっともこれは三味線の力量にもよろうが。古靱・清六はまたとんでもないので触れない)。千本松原、三重そしてマクラだが、「武士に劣らぬ丈夫の魂」とある詞章を明確に活かしたい。これは十兵衛の性根であると同時に、ここでの十兵衛は金と書付そして印籠にすべての思いを込めて思い切り、立ち去った姿(玉男「心に一物荷物は先へ」で涙飲み込むという遣い方でも明らか)であるのだ。気取りはここでこそありたい。また、平作が追いかけてきた理由を十兵衛は当然直ちに気付くわけで、もうこの時点で「心の掛籠一重明けぬ」ことに決しているのである。「親子一世の逢ひ初めの逢ひ納め」からは一言もない。この十兵衛いや平三郎の詞は心に沁みる。平作は無論。住大夫の平作として長く心に留められることになろう。錦糸の三味線は匠の跡も消え、天晴れの相三味線である。このコンビもまた歴史に名を残すこととなった。ツレの喜一朗、胡弓の龍聿ともに自然。
 人形、玉男の十兵衛、「目の鞘抜けし商人」の爽快、「武士に劣らぬ丈夫の魂」の度量、そして何よりも平三郎としての人間味、深い情愛に感涙溢れた。簑助のお米、お染を遣えば天下一の人、それがまたお米をしっとりと遣うのだから、恐れ入る。「お米は一人もの思ひ」以下クドキへ至る衷心衷情、感に堪えぬばかりである。文吾が遣う平作には、嫌らしさも卑屈さもない、貧しいが純朴な武氏カシラの好ましいこと。「蔭に巣を張り待ちかける」との詞章は東海道の往来繁盛ゆえの猥雑さ(今風に言えば、アジアンストリート)の表現であって、必ずしも平作に掛ける必要はない。愚かではなく日常生活の智恵を持つ正直者。年の功とはまさにこれを言う。それがとりわけ千本松原で光彩を放ち、心の探り合いから絶命まで、中でも親子が名乗り合って抱き合うところ、文吾の人情溢れる遣い方そのままに、あの一瞬で涙がボロボロとこぼれ落ちたのである。さて、ここで疑問が一点、池添孫八の人形、平作の自害が十兵衛の口から知らされ、立ち聞いていたお米が驚くところ、「声に手当てる池添が泣く音とどむる轡虫」と詞章にあるのだが、池添は自ら驚いて自ら耐えるばかりなのである。ここは、当然お米の口に手を当てて(轡をして)嗚咽を堪えさせなければならない。そして口を塞がれたお米(轡虫)は、「草に喰ひつき泣くばかり」なのである。これをどうやら池添自身のことと人形遣いは考えたようだ。父親の言いつけを守り、出ること叶わずどうなることかと聞き耳を立てているお米にとって、突然の自害は衝撃以外の何物でもない。それを浄瑠璃作者は、抒情的に表現しているのである。言ってみれば第三者の池添にこの詞章が用意されるはずもなかろう。これでお米の嘆きは通り一遍のものに見えてしまった。このクラスの人形遣いが一段上を目指すためには、やはり詞章の読み込みがまず第一に要求されるのである。勘十郎や玉女にこのようなことは決してないのであるから。
 なお、今回80分かかっている。芝居としては至極上々吉であるから、是非とも人形入りで鑑賞すべきであろう。
 

『恋娘昔八丈』

「城木屋」
 切場の前半を伊達大夫と喜左衛門が勤める。何とも贅沢な話である、のではなく、失礼この上ないことだ。丸々一段語って当然なのは、実際ここを聴いた誰もが首肯するところ、いや、初めから分かっていたことである。結局それは狂言建てに問題があるからだ。なるほど、一部の中堅陣には手厚い割り振りだが、木を見て森を見ず。豊かな恵みの源を粗雑に扱っておいて、いくら喬木を育てようとしても、気が付けばその土壌は痩せ細り、その根から栄養カプセル注入して倒木を防ぐという、本末転倒の事態になりかねないであろう。しかしこの前場は見事なものであった。極上の練り物を食すが如しで、これを口にしたならば、和風テイストなどというゴマカシやイカサマの浅薄さが、たちまちに洗い出されるというものである。マクラ、江戸繁盛の描写、主人庄兵衛の病、お駒の情は声質に関わらず、そして番頭丈八。このまま段切まで聴いていたいのに、盆が回ってしまう。喜左衛門や寛治が伊達と組んだ時のすばらしさ、やはり同じ空気を吸ってきた床は、その雰囲気をも現出できるものなのか。甚だ感じ入った次第である。
 切場次は綱大夫清二郎。西の正横綱が勤める一段ではない(先代住大夫勝太郎で聞いたが実に面白かった)。先程の「沼津」一段丸々の扱いとは随分な違いである。さて、庄兵衛の詞で聞かせるのはそうだろうとは思うが、それにしても不完全燃焼だった。もっとも、轟々と燃やす一段でないのは前述の通り。才三郎、お駒、丈八、喜蔵、…。床、観客、そして制作側、…。今回は三方一両損であろう。
 人形は、簑助の丈八が底意地の悪い嫌らしさを通奏低音にして、その上にチャリを派手に演じるというスタイルが見事。公演後半の方がより開放的に遣っていた。お駒の紋寿は恋故に物思う姿、そして「鈴ヶ森」での覚悟のクドキが切々と響いて結構。とはいえ、派手な黄八丈を着、夫を毒殺するという、その名も「駒」という娘にしてはおとなしかった。才三郎を玉女が遣うが、色男ぶりはまずまず。元々侍という凛としたところもある。下手からの出でハッとさせる、公演後半には出来たように見えた。お駒の婿入りに拗ねてみせるところ、色男の怒りも仕上げてきたが、「河庄」の治兵衛を任せるにはもう少し時間が必要かもしれない。「鈴ヶ森」の姿は、さすが家老尾花の子息という立派なものであった。庄兵衛は玉也で、作十郎の後継老け役も板に付いてきたが、自然と情感を出すまでには至らず。とはいえ、武氏カシラが卑賤に落ちなかったのは手柄である。喜蔵の玉輝、扇で三度顔を覆うところはあの簑太郎の工夫を心得たもので、よく勉強しているといえよう。今回、丈八とばったり出くわし慌てふためいて取り繕うところが秀逸で、このあたり、やはり玉輝の本領は実直さにありと思わせた。

「鈴ヶ森」
 聞き所はもちろん二上リ祭文で、これがまたすばらしかった。寛治の三味線に津駒の美声がねらい通りに嵌って、うっとりとさせられた。マクラの描出も出来た。「お憎しみもあろけれど」のカカリも聞かせる。が、クドキが繊細に過ぎ、両親を見ての叫びも弱かった。前半爺婆二人のクドキも物足りず(なかなかいい節付けがしてある)、このあたりが今後追い出し付け物など、切場の浄瑠璃を語っていくためには、深みとコクを出して分厚いものになるかがカギであろう。嶋そして亡き小松の後継としては、そこにまだ隔壁が横たわっているのだ。ツメ人形の扱いも同断、聞いていて肩が凝る。
 市中引き回し、磔柱、七字題目、等々、歴史的資料としても価値のある一段である。品川の海も美しかった。大道具方お手柄。
 
 

第二部

『苅萱桑門筑紫[車+榮]』「守宮酒」

 文字久と清志郎で端場を勤めるが、努力し工夫もあり、よく意を用いてしっかりと聞かせて上々。マクラも公演後半見事に仕上げてきたのは、いよいよ文字大夫襲名間近かとも思わせた。が、そこに至るまでには越えなければならない事柄がある。まず、何と言っても安心してその浄瑠璃に身を任せられないこと。たとえば、本フシや長地、カカリなど、喉から唇に至る口の部分だけで処理せずに語れるかどうか。120%努力し工夫したものを、8割強の力で語って自然に聞かせられるかどうか。今回もヲクリ「伴アー、いイー」と語ったがそれでよいのかどうか、そう教わったのならそれはどこまで遡及できる正当性を持つのか。古典芸能として歌舞伎と並列し、人形芝居として演劇と比較するのではなく、大夫として「音曲の司」の意味をどうとらえているのか。あと数年で答を出していただきたい。清志郎については、今はビンビン鳴ってもよいと思うが、鋭さ、柔らかさ、ハッとさせるところまで来てもらいたいものである。いずれも難題であろうが、先のある二人ゆえの注文である。
 切場富助。東風三段目、理想的な床。足取りが出来ているから、ぴたりと東風に嵌って段切まで、すばらしいの一言。マクラゆうしでの出からうっとりと極上で、橋立のカワリも見事に冴えた。新洞左衛門鬼一カシラの性根、名玉を真っ二つに切っての大見得、大きく手強くよく映えた。十分満足のいく出来であったが、二度聞いてみると、新洞左衛門・ゆうしでの情愛が、血を吐く思いとともにもっと溢れ出ていれば…、と感じさせた。とはいえ、これが出来ればもう伝説の摂津広助の域であるのだ。ともかく「守宮酒」が素敵な浄瑠璃であるということを聴かせてくれた、このことに大きく讃辞を呈したい。義太夫浄瑠璃を聴く耳を持っているかどうかは、今回この一段を面白く感じたかどうかということによって明らかになろう。そんな試金石となった今回の床であった。
 人形、文吾の新洞左衛門、鬼一カシラの情愛はこの人に尽きる。贅言無用。ゆうしでの和生、娘としては上々、女としては…。守宮酒はゆうしでの五臓に沁み渡った、それと同じように、一命を賭した女心の告白は聞く人々の胸中に沁み込むのである。そこが今一歩。女之助へ「夫婦と言ふて下され」とクドく、ここに収斂されるかどうかなのだ。その女之助の勘十郎は前半の優男ぶり、後半の凛とした若侍の姿、と納得される遣い方。段切がより颯爽とすれば、というのは床の奏演ともどもである。監物太郎は孔明だが、検非違使ならあれでよかろう。橋立、動いている時はまずまず面白かったが、控えている時の姿が甚だ疑問。女之助がゆうしでに守宮酒を飲ませる時、一間から再び両人が出てきた時、いずれも策略の成否を怜悧に見守っているはずが、首をやや傾けて顔を伏せ気味に座しているだけ。要するに何の心持ちも感じられなかったのだ。ずっと以前、「合邦」の浅香姫という良い役が付いた時、玉手自害を上手でやはりただ座して見ていたことがあり、劇評中にも厳しく指摘しておいたのだ。文昇、一暢と上が空いて役が順に上がるのかは知らないが、このままで行けるということでもなかろう。もちろん、動けばよい細工をすればよいというものでもないのだが…。牧の方とダブルキャストでよかったのでは。
 

『天網島時雨炬燵』「紙屋内」

 中、咲燕二郎。絶品。余人無し。天晴れの面目躍如。例えば伝界坊、悪巧みの底を持つ卑しさの上に面白可笑しくなければならず、しかし悪のりして客席を不愉快にしてはならぬ、このように難物極まりない代物を、軽々とやってのける。また、太兵衛とのクドキのパロディー等、用意された節付けの妙を見事に語り弾いて聞かせるのは、元の地やフシをきっちり語り弾く力量が備わっているからである。カンカンにならず余技として勤められる、これはもう切の字が付いて当然であろう。
 切場嶋大夫清介。二度聴いてより深く感じ入った(声はしんどかったにもかかわらず)。これは最高傑作である。将来嶋大夫全集に収録されるべきものである。マクラで、ああすばらしいと聞き入って、そのまま浄瑠璃世界に引き込まれ、という、究極の形である。おさんが抜群で、五左衛門が語れて、治兵衛も二度目にはちゃんと出来ていて、三味線も艶あり深みあり響きありで、これほど心地よい体験は、劇場では近年まれになっていただけに、喜びも一入である。自然と情愛に絡まれて、これぞ義太夫浄瑠璃世話物の極上品。改作なら改作の真価を見事に発揮して、本公演第一の聞き物であった。
 後は千歳清治。千歳は自らのスタイルを確立するために悪戦苦闘中なのだろう。だから、前公演の「花籠」のように、やかましい一段の方が、その難所をクリアーしていく力量が如実に発揮されるのだが、今回のように、無手勝流、あざとくやりたい放題の自由型となると、忽ちにその普請中の不完全型がもろに見えてしまうのである。懸命なのは言わずもがな、上手く聞かせようなどとも思っていないし、しっかり詞章を伝えようとしていることも分かるのだが、語り込めば語り込むほど、客席は床から遠のいて白々と(文字通り阿呆らしくなり)傍観してしまうのである。不快寸前の箇所もあった。とりあえずもうたくさんである。勘弁していただきたい。酒肴膳部付きの招待でもご遠慮申し上げる。もちろん、派手に前受けするように改作してあるのだから、誰が語ってもそうなる、との意見もあろう。しかし、ゴリゴリギシギシと押し付けて来なくてもよいのではないか。こうなると、高らかに改作嫌い宣言をしなければならなくなる。まあそれで済めば安いものだ、千歳はどうかしてしまったのか、と絶句するに至るよりも。
 人形、文雀のおさん、首肯首肯。治兵衛は玉女、映ることは映る。玉也の舅五左衛門は原作ならどうだろう。玉輝の孫右衛門は検非違使ならば。小春の清之助は「河庄」で遣わせたい。太兵衛の文司はこのあたりが遣えるようになると次が楽しみだ。伝界坊の幸助はうまいもの、次の次で立役に至るかどうか。才兵衛も親方に見えた。
 

『戻駕色相肩』「廓噺」

 正月公演の追い出しだからこのようなものが付くのだろう。作について云々するつもりもない。床、英と呂勢、もったいない限りである(三輪の詞も)。清友ともども、実力を磨いて雄飛する日を待つというところ。今そこここで自滅の芽も出始めていることであるし。人形、文雀はご馳走で、そのための床の布陣なのだろう。勘十郎がやはり段違いの実力。出た途端に検非違使カシラの性根まざまざ、これは久吉だなと遣わずして分かる。頬杖の付き方などもあまりに見事で感心するばかり。いつも言うことだが、勘十郎は人形というものを心身の奥底で知っているに違いない。一方の和生は文七カシラのはずだが、映らない力不足。そういえば、今回この座頭格のカシラを見るのはこのたわいない役だけか。奇妙奇妙。