平成18年9月東京国立小劇場公演メモ(12日第二・三部、13日第一部) 通し狂言『仮名手本忠臣蔵』 「大序」  希は前回の欠点を克服、龍爾は強く大きく立派。  靖はだいぶんこなれてきた、清公はまだ始まったばかり。  呂茂は今回良い千歳を手本にして大序は抜けた、寛太郎は拘泥無い弾き方が好ましい。  芳穂も前回とは長足の進歩で二抜け、龍聿は実直だが個性が欲しい、清丈はやはり図抜けていて卒業。 「恋歌」  清馗は清丈より一段上の存在、音はよし腕も強く曲も自分のものにしていた。  津国は色悪には至らぬが嫌みは効く。貴は年功。文字栄の突っ張り。 「松切」  松香喜一朗、本蔵は出来たが、若狭は短慮若輩意気地という詞章が描出されず、これならむしろ松切も必要ないのでは。  とはいえ話の筋が繋がればよいという劇場制作側の意向には叶っていよう。 「進物」  このやり方の非はhttp://www.oneg.zakkaz.ne.jp/~gara/ongyoku/jouhouX.htmを参照されたい  (ただ今回は「文使」も出ぬから是非もないが、もちろん床の責にあらず)。  呂勢団吾は難無くこなす。客席が伴内で受けていたから劇場は満足だろう。 「刃傷」  今回聞き物の一つ。伊達寛治だと彦六系で味ある一段に仕上がってよし。  清治が弾いて今回序切の格が定まった。師直が絶佳にまで至ったのも全体が引き締まったからである。 「裏門」  序切の跡は佳品が多い。「築地」もそうだが門外の場が多い。中でもここが随一である。  今回は新が選ばれたがお軽と段切の情趣が出ぬのは已むなしか。清志郎は適格。 「花籠」  英団七の分かった上でのこなれた床は嫌いではないが、この一段はピンと張り詰めたものがないと。  九太夫はよかったが。 「切腹」  十九大夫富助十分である。御台所の出より段切に至る哀切の情味もよかった。  が、前場の弛み如何ともし難く、切腹も凄絶さを欠いた。もちろん悲しみは伝わったが。 「明渡」  相子清馗、気合。 「出合」  始清丈は予想以上によかった。勘平が出来ていたのを特に評価する。  ただし弥五郎はもっと突っ張るべきで、最初の対面も緩かった。 「二玉」  三輪が清友に弾いてもらっての抜擢。与市兵衛は已む無しだが「アヽ申しそれは」が女になったのは何とも…。  定九郎は凄惨に至らず旗本奴の憎まれ子か、元家老の息なり。 「身売」  文字久宗助の位置で回りを見渡すとここしかない。儲かる一段を儲からぬ床だが、前半の健闘には驚いた。実力の証拠。  とはいえ眼目の愁嘆美は叶わぬのと、「こっち」と語るなり「戻りは知れまい」が事実報告に過ぎないなど、先は長い。無論正攻法は評価する。 「腹切」  忠六に名人無し、されど名演は存在する。  綱大夫清二郎は郷右衛門の詞から勘平の腹切そして母の茫然自失と、ぐいぐい聴く者の胸に迫り抉り、涙を堪えること叶わなかった。  ここで泣いたのは先代綱弥七と古靱清六など数えるほど。東上した甲斐があった。 「一力」  代役の面子でよかったと考える。  由良の千歳は当然映る以前の問題だが、頭抜きの口伝も酔醒の境も段切の吐露も出来、あとは深く広くそして肚。  おかるは呂勢の抜擢だが現陣容では当然とも言える。ゆったりうっとりとはいかなかったが、大きく高く美しくそして豊かさを心掛けていた。  久々の美声家誕生だが、この人には東風第一人者まで上り詰めてもらわなければならない。  平右衛門の文字久はこちらの方を本役としていい。大音強声にして太夫肚はやはり三段目語りだ。  実直誠実な平右衛門にも好感を持てたが、足軽の卑近さは未だ届かず。  総じて三人共自分の語りに精一杯で、調和や情愛の交感に欠け、バラバラになった印象は否めない。  だが何と言っても初役であり、12月でなく9月公演であるのが重要なのだ。  あと九太夫の松香は年功の余裕、伴内も健闘、三人侍はそれぞれの個性が見事に聞き取れて類無し、  力弥も清新で、望外の成功を収めたのは驚嘆に値しよう。 「道行」  寛治師の三味線に尽きる。飾り撥は一入見事であったが、そのスクイ撥なり左手の利きなりがとりわけ応えた。  こせつかぬ間と足取りの素晴らしさは、道行景事の魅力を描出し尽くしている。  津駒はようやく高音部の生硬さと二の音の薄さを脱しつつあるか。  三輪はやはり地が課題だがそれでも徐々に克服されつつあるか。  つばさ・睦は思ったより進歩が見えない、というよりここからが正念場だろう。大序は抜けたが序中に押し込め、果たしてどうか注視したい。  喜一朗は音に責任感が表れるようになった。 「雪転」  つくづくこの場は一筋縄ではいかないといつも思う。相生今なら松香クラスでないと過剰な期待は禁物だが、  清志郎に間足取り変化をマクラから聞き取りこれはと感じさせ、  咲甫も映らないにせよ肩衣から入る姿勢は確かにマクラにも現れていた。  無論「アヽ降つたる雪かな」「ヲイこれ/\こぶら返りぢや」の「アヽ」「ヲイ」に込められた感情の描出には届いていないが。 「山科」  先代綱大夫が、  ―この九段目は力量はもちろんのこと、自分が日本一の太夫(三味線)だと思ってでもいなければとても語れるものではない―  と言っていたが、  その意味でも住大夫師と錦糸以外には勤まらないだろう。「出来しやつたよなう」だけで泣かせ、尺八とともに極上の情緒を醸し出す。  以下ひが目であろうが書く。今回はお石がさらによくなっていた。一方戸無瀬は重すぎる、前半は夫の代理だからよいが、  釣り合わぬを石高だと考える町人出の本性  (これを納得できないのは「梅と桜」が出ないから。http://www.oneg.zakkaz.ne.jp/~gara/ongyoku/hokan1.htm参照)  が露見する辺りからはもっと砕けるべきだろう。  それと小浪のクドキ。心地よくノル所は浄瑠璃の流れに任せればよく、それでは情愛が上滑りするのなら至らぬということになるが…。  咲燕三だが、この脂の乗り切った床を後場だけに使うから、エネルギーが暴発して収拾つかなくなるのだ。  主題が「本蔵苦しさ打ち忘れ〜洩るるは涙ばかりなり」にあるとしたことは確かに伝わった。  が、娘への情愛、「所詮この世を去る人」の万感、段切の哀切と、拡散してしまった感は否めず。 「引揚」  大道具方へ苦言。「はなみずはし」とは何たること。仇討成就に「不見花」とは縁起でもない。  当然「はなみづはし」とあるべきだ。果たして幕内で指摘する人が存在したのであろうか…。 【人形】 ・玉男師―座頭として番付に名をとどめる偉大さ。 ・簑助師―人間的なあまりにも人間的な。現在であり写実である。 ・文雀師―風格と情愛と。「梅と桜」ではどういう遣い方になるのだろう。 ・紋寿―勘平はここのところ持ち役。今回は「六段目」の最期に鬼気たる執念が見えた。 ・紋豊―若狭助一役はもったいない。それも「二段目」は床の迫り方が…ご愁傷察し入る。 ・和生―判官には怨念が必要。お石「ご本望をとばかりにて」愛の集約とするには弱い。 ・勘十郎―お軽はもう少し色を出しても。由良助は七重の戸をも洩れる無念さに収斂した。 ・玉女―本蔵、彼のためにどう評せというのか。平右衛門、床で損をしたがもっと遣える。 ・玉也―九太夫は不敵さが出せていた。師直は中啓に頼らずよいが色悪の重みは未だし。 ・清之助―いつまで小浪一役なのだろう。清十郎師ありせば…早く襲名させて飛躍を。 ・玉輝―郷右衛門が映るようになったかと感慨。もちろん床に助けられたところも多い。 ・文司―三枚目遣いではないが伴内を慌てず騒がずに客席を笑わせたのはお手柄。 ・玉英―「六段目」の母が持ち役というのは尋常でない。是非とも立女形を見てみたい。 ・亀次―与市兵衛、確かに重要と言えば重要な役だが。もっと卑俗にを評言とするか。 ・簑二郎―力弥、彼なら「梅と桜」での色気が見てみたい。今回の由良助にしてこの力弥。 ・勘弥―顔世、この人もむしろ動かぬ人形の方がよい。愁いは利いたが一段の色気を。 ・勘緑―こちらは動いた方がよい。薬師寺なら相応で悪ノリの為所もなく端敵がよく映る。 ・玉志―石堂の善性は確かに表れていた。ニンなのだろう。ただ孔明は検非違使に見えた。 ・清三郎―弥五郎は三人侍でも一番若い。「五段目」分別がありすぎる。寄らば切るの心。 ・幸助―定九郎が回ってきたが当然だろう。いい男だ、型も良い。がその分凄惨さ今一歩。 ・三人侍、それぞれのカシラの性根をよく掴んでいたが、床の手柄であるとも言える。 ・直義の格、一文字屋の動、りんの俗、狩人仲間の朴とまずまず。 ・一力亭主は扇子使うのなら堂々と、あれでは忘年会の下手な隠し芸だ。