人形浄瑠璃文楽 平成十九年十一月公演 (3日、17日所見)

第一部

『近江源氏先陣館』

「和田兵衛上使」
 マクラの大きさ強さそして厳しさで武士の世界を提示した後、小三郎初陣の手柄にわく盛綱陣屋を描写する。この詞章を語り活かし弾き活かすのは並大抵ではないが、次代の座頭であり実質切語りとその相三味線である咲大夫と燕三の実力はやはり本物である。早瀬(この浄瑠璃作者による命名をおろそかにしてはならない。性根を見事に表現しているではないか。一方の篝火と入れ替えてみればより明確である。それ故にまた、詞章中での縁語・掛詞として景情一致の機能を発揮することにもなるのである)の配慮を打ち消す微妙だが、ここに愁嘆を含ませる過ち―例えば人形が早瀬の詞に顔を伏せてみたり、アヽコレを沈んで聞かせたり―を犯すことがなかったことにまず気づく。盛綱の帰館そして和田兵衛の出からはもう他言を要するまでもなく、時代物浄瑠璃の面白味を堪能させてくれた。
 人形、和田兵衛の玉輝は型通り手順通りで安定というより面白くない。外への広がりが感じられず、玉也の方を買いたい。早瀬の玉英が生き生きとしていたのがすばらしい。婆が遣える上に今回老け女形もとなると、この人いよいよ大器晩成の域に入ったか。盛綱はここではどうということもないが、気色ばんだのが「和田殿御苦労」でカワルなどまだまだ痒いところに手が届かない憾みがある。
 なお、マクラと段切りに配された近江八景の意味論ついては、前回の公演評において分析したところであるので、そちらを参照されたい。

「盛綱陣屋」
 長丁場であるがまったく退屈しない切場である。こう書くと、そもそも切場でそんなことを口にする時点で義太夫浄瑠璃というものを語る資格はない、などと非難されるであろうが、「浄瑠璃は褒むるが実はしんどいなり」との川柳にもある通り、例えば「渡海屋」の典侍局と安徳帝の件をいつも十全に堪能できるかというと、よほどの力量の床でなければ自身の体験に照らしてもそうあるものではない。ところが、この「近八」は切場に入ると一層変化に富んだ場面構成と節付けになっているから、その音曲に身を任せ手摺に目を預ければ、実に面白い90分があっという間に過ぎていくのである。そして今回もそのはずであったのだが・・・、それは後半部までお預けになってしまったのである。
 まず、盛綱の詞が応えない。「現在の甥が命」からの三味線富助も切迫感に欠ける。これでは微妙も納得しないだろう。その後のノリ間も十分肚に入っていないから表面を流れる。篝火のクドキは美しさが不足し、緋色の陣羽織を着した篝火という入魂の設定が無化される。早瀬の詞「こヽは処も」から魅力あるカカリも面白くなく、小四郎の地「そろりそろり」の変化も本来なら飛び上がるほどのはず、続く微妙の愁嘆は琴線に響かず。篝火の地「我子は殺さぬ」からも苦しく魅力に欠け、交替前の落シも利かぬとなると、一体全体どうしたのかと訝りたくもなるというものだ。フト目を脇にやればそこはまた例の如し…。目覚めよ! 嗚呼、已んぬる哉。
 盆が回って千歳に清治師。おそらく、太夫には無理があり苦しく、大きさ強さは汚くがなり立てられることで置き換えられ、と予想していたのだが、まず感動が先に立ったこと、驚きの一言に尽きる。清治師人間国宝指定は今回の三味線―それ自体はもちろんのこと、太夫をここまで語らせたこと―で全きものとなったのである。とにかく大曲を堪能したという充実感と満足感と、時代物三段目切場を聴くことの幸福感に包まれるとは思ってもみない僥倖であった。大笑いなども、声量や太さ豊かさなど前場を勤めていた太夫に及ぶべくもないはずが、客席からわき起こったあの拍手は文句なく千歳とその指導者清治師の決定的勝利を物語っていた。しかも、小四郎の追い腹と述懐に涙がこぼれたのは、ここが「小四郎恩愛」の段と呼ばれる真意がはっきり伝わったということでもある。また、三味線の鋭さは言うまでもないが、小四郎の地「後は得云はず舌こはゞり〜無常の鐘に散りて行く」ここの情感の得も云われなかったこと、天下に清治より柔弱なるは莫しとまで言わしめるものであった。これで千歳の声が荒れず、その上に篝火のクドキなどが美しく響いたならば、平成の名人誕生の瞬間に立ち会ったと、躊躇なく叫びもしたであろう。しかし課題は残る、山積の宿題を抱えた千歳を、清治師はいかに導くか。正月公演が「楼門」なら大いに期待したいところだ。無論清治師の言う切っ先を聴くならば「碁立て」なのだが。
 人形。盛綱の玉女は確かに故師の後継を意識しているが、そうなるとやはり質さねばならぬ点がある。例えば、マクラ「思案の扇からりと捨て」の詞章と異なる仕草はどういう解釈なのか。前場で和田兵衛が小四郎の返還を申し込んだのは、もちろん策略で、小四郎の存在がいかに名将知将高綱のアキレス腱となっているかとの認識を搦め手から補強するためである。ならばなおのこと、小四郎は切腹させるしかない、その苦衷は後に盛綱が述懐する通りだが、結論はそれしかない、後は心を決めるだけである。だからして、盛綱のその決心が「思案の扇」を「からりと捨て」ることによって表現されているのである。それを、扇が膝からからりと外れることをきっかけに意を決するに至るとするのは、受動に過ぎるのではないか。それこそ近代人の軟弱な精神性の描出に他ならないであろう。まさか、盛綱がその拍子に小四郎切腹に思い至ったなどと言うのではあるまい。確かに盛綱は仁将でありカシラも検非違使である。しかしながら、扇によって目覚めさせられるというのは、あまりにも不動に過ぎるのである。それは思慮深いというよりも、羅生門の下で雨やみを待つ下人と同じだと言わざるを得ないだろう。学ぶとはなるほど「まねぶ」ことではある。しかしそれは、師匠よりもまず詞章を何度も何度も読み込むことで無ければなるまい。昭和の名人玉男がまさにそうであったように。首実検にしても、どの段階で高綱父子の策略と見抜いたのか、そう考えると今回の遣い方はその引目の方角についても解釈が定まっていたのかどうか。ここは「寺子屋」ではない。松王はその首桶の中が我が子だと知って開ける、が盛綱は?それとも一旦奥へ引っ込んだ時に小四郎へ真意を確認していたとするのか。さて、全体として玉女の盛綱は狂言回しであった。これは褒め言葉である。無駄に動かない。それがとりもなおさず肚で遣うことに一致すれば、故師の域である。とはいえこの「近八」の多彩な魅力を伝え得たというところに、意味があったということだ。とにもかくにも本読み百回、故師の遣い方が焼き付いている身体と、自ら考えて得た解釈がすべて一致することはないはずだ。それがきちんと自分の芸として体系化された時、二代玉男は誕生するのである。篝火の紋寿、悲しみの濡衣を見事に遣って以来、涙を湛えた女形はこの人のものになった。この篝火も登場から悲哀に包まれている。後のクドキからもわかるように、この切腹は親子3人納得済の策略、篝火が陣屋へ向かったのはやはり贋首の計略を成立させ見届けるためである。が、冷静にいられるはずもなく、混乱するのも当然である。それを抑制された遣い方で見せたのが紋寿であり、それが篝火の真の姿と見えたのである。ただ、早瀬と比較して一段の存在感を示すことが出来ればとも感じられた。次に「寺子屋」が出れば千代をお願いしたいものだ。さて、時政はと言えば幸助がすばらしく、例えばその歩行そして上半身の傾度にカシラの角度など、老獪なる存在を活写した。やはりこの人、勘十郎とともに天性並々ならぬものがある。一方の玉志は玉輝と同断であった。決して悪いというものではないのだが。小四郎(玉勢)は立派であった。
 というように、戦前までは通称であった「小四郎恩愛」に今回一段が収斂されたことは、義太夫節の復権としてよいであろう。それはひとえに後場の清治師と千歳による。

「酒屋」『艶姿女舞衣』
 初日は「盛綱陣屋」後半が強烈すぎたか、するすると段切りまで聞き終えてしまった。もちろんそれは心地よいと言うことであったのだが、二回目じっくり聴いて驚き入ってしまった。
 端場が呂勢と喜一朗だが、よく勉強をしているし、それが実際の床で成果として現れている。例えばカワリ「余念他愛も納戸より」、ここは義太夫節ツボの一つ掛詞がきちんと飲み込めているということでもある。それで言うと「こゝらが宿老の分別どころ」を「フーム」と分別に掛けたのは今回始めて聴いて大いに感心した。もちろんこれは文字面のことではない。「長太に持たせ」ここで情味を含ませ哀感を表現できたのは三味線ともにすばらしく、三勝を遣った清之助としても大いに力となったに違いない。そして今回、「酒屋」の端場で最も恐れ入ったのが宿老の描出である。カシラが釣船でどことなくユーモラスでもあり、端役として軽いものでもあったのが、人情味ある年輪を感じさせる人格にまで感じさせたのは、仰天と言うほかはなかった。「理に入つたかして酔ひも出ぬ」がしみじみ、「その子について異論妨げ」云々はこれまで大仰な面白みとだけ思っていたものが、隣近所助け合いの善良な庶民の姿が髣髴として、心温まるものがあった。五人組というと、自由を束縛する封建時代の悪制だと言われるが、近代個人主義がブラックホールに陥っている現在、人間は関係性の存在であるというその根本原理を支える善意と想像力とを当たり前のように持ったいたかつての日本人を、床の表現に感じ取ったのである。そして盆が回る前、「何やらものを云ひたげにふり向く宿老目でとゞめ」ここの情味(もちろんカワリも含めて)が得も言われぬ余韻を残し、切場へのヲクリとなったのである。
 切場。お園のクドキを美声で聞かせることが主眼ではない、この真意がよくわかった。嶋大夫は一時の辛い苦しさを通り越した円熟の域に達していた。配するに宗助とは抜擢だが、確かにここらで育て上げておく必要がある人材だ。初日は清介でないことをやはり恨みもしたが、二度目に聴いて、これはと感じさせる芸に成長していた。音に幅が出て豊かになったことに加え、足取り、間、カワリと、嶋大夫の指導の下ここまで弾けるまでになたことに感心した。これでまた一枚三味線陣は分厚くなった。改名前後の注目株が長らく低迷していたが、やはり素材は本物であったのだ。宗岸で泣いた、この体験はそうあるものではない。「これまで泣かぬ宗岸が」泣いて客席も涙で包まれたのは、親の情愛以外の何物でもない。「真実心に子を思ふ親の誠と知れば」そして「愚痴なと人が笑はうがおりや可愛い」、それはまたここまでの仕込みが完全であるからだ。第一人形の勘十郎がその出からして異なる。「子故に暗む黄昏時」の詞章そのままに、娘への情愛がそこここに始終感じられた。カシラは定之進だが、これまでの遣い手だと軽妙な部分が強調されて白太夫と紛れもしたのだが、今回は「世間構わぬ十徳に丸いあたまの光」が象徴する仁者であり大きさも幅も町の旦那としての度量が描出されていた。小柄で痩せ気味の老体という既成観念が打ち破られたこと一つをとっても、画期的な宗岸であった。なお、半兵衛は床人形(玉輝)ともに一段の厳しさがほしい、女房は人形の紋豊が床もろとも卑近に傾くことなく遣ったのが称賛に値する。その三人が「奥へ泣きに行く」跡に残ったお園ひとり、ここは当然耳目に心地よくカタルシスをもたらす場となるわけだ。ここはやはり人形、簑助師はあまりにも艶やかで美しく、これでなぜ半七がと思わせるほどのもの。もう少し生硬でもと感じさせるまでのすばらしい魅力でにあふれていた。段切は半七の人形に切迫感を欠いたのが惜しまれるが、三勝は端場で仕込みがしてあったこともあり、持ち役の清之助に一段の存在感が見えたことも収穫であった。

「面売り」
 今回初めて作曲者松之輔の天才を感じさせられた。それというのも三味線シンの清介が完璧に弾きこなしたからである。三下り、二上り、本調子と自由奔放に変転する流麗な旋律が、しかも唄でない地合の部分からも展開されるという手法は、他の景事からは聞き取ることができないものである。確か以前は「新曲面売り」と記載していたような記憶がある。譜面上の転調ではなく、三絃を繰っての調整がこの頻繁さであるのだから大変である。現に二度目見た時は二枚目が床で往生していたくらいだ。その上足取りの変化もあり当然替え手も多彩で、鮮烈な印象を与える節付けとなっているのである。さらに、人形も面売りの簑二郎が様々の面を取っ替え引っ替えての所作、これが面白くもまた愛らしく、曲の主張を手摺上で見事に変換して見せていた。この「面売り」、『新曲曾根崎』の偉業を脇から補強するものであったのだ。これは正直、劇場側に一本取られてしまったのである。
 

第二部

『源平布引滝』

「音羽山」
 マクラから四段目の鷹揚とした風を英と団七が丁寧に聴かせる。ただ、検校と行綱「心詞もよどみなく摂津源氏の棟梁のその骨柄ぞゆゆしけれ」や段切りに物足りなさを感じたのもまた事実である。

「松波琵琶」
 三重、マクラの音の落とし方、ユリナガシ、そしてスヱテ。これは、と耳にとどめた特徴的なところを床本にチェックしあらためて照合してみると、『素人講釈』の記述に一つ一つ指摘があるではないか。そして二度目はその記述から奏演に耳を傾ける。いつ聴いても、綱大夫と清二郎の浄瑠璃義太夫節は、三百年の伝統の直系正統であると実感できる。父娘の対面から三人仕丁、ここのカワリも見事、眼目の琵琶は技巧も上手いがそれ以上に衷心衷情、聴く者の心に染み入って、眼前の責めを非人道的封建的と嫌悪する単細胞の出現を阻止したのであった。段切りの三重まではそのスピード感と突っ込みがすばらしく、ここにも第一人者たる証左があった。

「紅葉山」
 アトは重要。しかも『源平布引滝』の由来が語られるとなると尚更である。ただ、増補物ゆえか通しでないのが残念であるが。ここを見ると、行綱が貞任に比類すべき存在であることが理解される。とすると松香には一段の大きさがほしかった。一方の重盛は動かないでよく、南都の初日はいかにも力みすぎだが、二度目は品格を第一に心掛けたと聞こえた。津国はこの難波だけという人ではないと思うが。三味線は納得の団吾。
 人形陣、和生は検校として振る舞っている分には相応だが、この立端場からアトまでという出し方ではいかにも物足りない、がこれはニンではないから、というよりも今日の陣容を考えての建て方ではなかったということであろう。制作側の責である。小桜は一輔が体で覚えている遣い方、この人も大切に育てたい。仕丁は三人ともよく、とりわけ平次の玉也に大きさとふてぶてしさが出ていたのがうれしく、文司も玉志もともにいつの日か立役を勤めるようになればと、その未来を現在として過去を振り返った鳥羽離宮の庭にいる心地がしたのである。実は難波越中上総となる三人なのであるから。ただその割にアト場の勢揃いは力感に欠けたが、それは行綱があの行綱であるから相応言うべきだろう。重盛の清之助には次は是非義経も遣っていただきたいものだ。久吉・東吉にも興味が持てる、そんな遣い振りであった。

『曽根崎心中』
 プログラムにおいても全力を挙げて支援する。しかし、「著作権法」を持ち出して近松は対象外だが松之輔には存続とまで言い立てたのはいかにも卑しい。そうまでして援護射撃しなければならないとは、冷ややかな侮蔑と不快感が心に生まれても当然ではなかろうか。

―グローバリゼーションの波の強さのなかで、やはりもっとも強力なのは、
 西洋近代の考えを拡張した形で生きているアメリカ文化であるだろう。
 それは確固とした「個」をつくりあげ、科学技術で武装し、
 その考えの「普遍性」を主張してくるだろう。
 それが、既に述べたようにキリスト教の倫理観によって抑制されているうちはまだよいが、
 それも弱くなると、それは無制限に拡大してくるだろう。
 もちろん、彼らに言わせるなら、それは無理やりにではなく、
 「法律」を守って公正になされるだろう。
 しかし、「法律」の恐ろしさについて、
 あるアメリカ先住民が言った次の言葉は印象的である。
 「白人は法律によって罰せられない限り、自分を正しいと思っている」。
 つまり、法律の網の目をうまく逃げ抜けることのできた人間は、
 「正しい」人間として力をもつのだ。
 その正しさによって、アメリカ先住民は実に多くのものを奪われてしまった。―
                         (「ナバホへの旅―たましいの風景―」河合隼雄)

「生玉社前」
 あの時当然切語りとして認可されるべきであった(従って当劇評では今後切語りとして処遇する)伊達大夫と相性の良い清友の床。この一段、際立って徳兵衛の若さ、あらゆる意味での若さを余す所なく活写した両人によって、血の通った魅力的な仕上がりとなった。さすがに松之輔の節付けは唯一無二である。

「天満屋」
 住大夫師の枯淡、錦糸はやはりグレン・グールドなのだろうか。私的にはあの綱大夫弥七の奏演が至上であり最も優れた解釈を持ちかつカタルシスをもたらしてくれる。最晩年の衰えが痛々しいほどであるにもかかわらずである。一度敢えて美声家によって勤めてもらいたいとも思っている。

「天神森」
 寛治師の音の存在感。津駒は安定してきたし文字久もよく咲甫も丁寧、ところがぐっと身を乗り出して引き込まれることがなかったのはなぜだろう。二枚目の清志郎ももちろんよいのだし。
 人形、簑助師が九平次として次世代への伝承を見届ける。お初は勘十郎、どこがどう不足だと言うことはないのだが、みずみずしさと初々しさとそれ故の強さと、そういうものが感じ取れなかった。それにもまして緩く思われたのが徳兵衛の玉女。「生玉社前」軽口なのを悩み考えて遣うとは「心の憂き苦労」をまともに取ってしまったか。床に助けられたとはいえ、怒りも無念さも実感に乏しかった。「天満屋」は床下での反応が鈍く、もとより色気にはほど遠い。男が足首を取って喉笛を撫で、女が目を閉じて天を仰ぐ時、それは心中の意思確認としか今回は感じられなかった。玉男師と簑助師の時には、明らかに官能性が脊髄を走るものであった。「天神森」道行…、未来は一つ蓮…。情死とはとても思われず、徳兵衛の人形にお初への愛情が足りなかったと総括しておく。
 『曽根崎』はあらゆる意味でボジョレー・ヌーヴォーである。毎回鮮烈な印象がなければ、未熟な蒸留酒でしかない。なお、世間ではこの酒を高級ワインと勘違いしている者も多いとか。とりわけコマーシャリズムに踊らされているからである。そういえば、料亭というものも創作懐石で台頭した新参者であるのに、老舗と信じ込む人の多さよ。創業者の苦心を商業主義に変換し拝金に走った末路はご存じの通りである。今回、劇場側は『曽根崎』が新曲義太夫節新作人形浄瑠璃であると高らかに宣言した。これは賞賛されるべき勇気ある姿勢である。学者先生からの攻撃を封じるためでもなく、観客をシンパとして取り込むためでもなく、これは技芸員に対して日々新たな思いを持って更新し続けよということであろう。それでこそ、「吉田玉男一周忌追善狂言」と冠した意味があるのだから。

 
 「音曲の司」はYahooからの登録を削除した。それについては、当管理人も頻繁にアクセスしているHPの、次の項目を参考にご覧いただければと思う。
 確かにこの十年で何かがまた崩れ落ちていくのを痛感している。
 http://www.yung.jp/hp/php/yahoo_1.php