人形浄瑠璃文楽 平成廿二年十一月公演 (初日・13日所見)

第一部

『嬢景清八嶋日記』
「花菱屋」
 マクラから千歳はうまいと感じる。唐国の故事を交えた序詞は時代物浄瑠璃ではごく当たり前であるが、その格を踏まえているのはまず第一。そしてそこから当作へと繋がる、「大ぬさや大磯小磯」と頭韻でハルフシにかかるところが抜群で、ブチッと切れずにパッと硬から柔へ変化するところなど、切語りと言っても問題ないほどだ。ただ、女房と長の造形(とりわけ長は、念仏者としての出から女房をすかす軽妙さ、そして「呑み込む腹は武蔵野や喉は鎌倉海道にまたあるまじき親仁なり」と収まる性根)が作り込んだ感を拭いきれないし糸滝も少々耳に付くのだが、この辺りは浄瑠璃義太夫節におけるコトバの難しさということになるのだろう。詞の多い一段を支えるのは糸滝のクドキだが、ここもまた困難なのは、しっとり情緒纏綿と語るわけにはいかないからである。十四の娘が身を売りに来たとっても、乳母に庇護された身は苦界についても理屈でのみ知るだけで、「たけくらべ」の美登里とはまったく異なる造形を必要とする。第一、そのクドキの文句の生硬さに加え、語りの音高はまた「白石噺」なら宮城野でなくおのぶに属するものであるし。そこは千歳も十分心得ているが、必死になると荒れて刺々しくなるのは耳障りとなってしまう。一途な直向きさは伝わったがやはり十分とは言えないだろう。かつて呂大夫を聴いてジワが来たあの感動は今回もまた更新されず保たれたままだったのである。三味線団七のリードはもちろん評価されなければならないが、もう一つ床のコンビとしてしっくりと来なかったのは、稽古の時間だけの問題であったのだろうか。

「日向嶋」
 景清は重盛の菩提を弔ってはいない。蓮生となった熊谷とは違う。世捨て人となって悟っているところなど微塵もなく、「草葉の蔭にて見給はば悲しうも無念にもおはすらん」などと位牌に語りかけては、泉下の重盛もおちおち眠りもできないに違いない。死後も臣下の礼を取り武士の気骨を失わない景清にとって、重盛の位牌は自らが侍として生き続けることの象徴なのである。もちろんそれは表面上には出ては来ない。それだけに鬱屈し内向し圧力が掛かったその心では、とても安らかに死(平家滅亡)を受け入れることは出来ない(すべてが修羅ならばあの世での成仏は黒白反転でむしろ容易である)。目を抉り取った闇のお陰でこの世を見ないで済むと語るのは、出家者の穏やかな表情ではなく、緊張感を持ち続ける勇士の強弁である。これが西風であれば、陰鬱に深刻に収斂していくのだが、立端場「花菱屋」での開放感と何よりも節付けが、客席を退っ引きならない淵へと沈潜させることをしない。これこそ若太夫に始まる東風の魅力であり、拡散という方向性であると一言で表現できるところでもある。
 さて、咲大夫は風をわきまえた稀少な存在であり、それは今回も確実に聴き取れた。一段の中心は景清と糸滝との父娘愛であるが、再対面で抱き合う場面から、眼前の闇が心の闇となるところ、そして口と心は裏表で形見の太刀を投げて睨むという極まで、真情衷情が涙と共に確かに伝わった。娘を苦界に沈めることになると知って取り乱す嘆きも本物で、自ら望んだ盲目の闇は天道に背いた没落平家ゆえの罰であり、無知の闇でもあると思い知らされての改心はもっともと感じさせた。三味線の燕三はもともと音が良い上に気合も十分で、プログラムのインタビューに恥じない出来であった。
 人形陣は、景清の玉女がもちろん故玉男師の遣い方で挑む。前半は力感有り後半は情愛溢れて、景清の姿をよく伝えた。ただ、葛藤というところまでには至っていないが、それがまた風に適合しているように見えるのだから面白いものである。お陰で、冒頭の出の背中に挿した梅花一枝の意味についても探ることができた。しかし、段切での位牌を海中に投ずる所作については一言も二言もある。まず、偶然を装って落とすなどということは決してありえない。偶然を装わなければならないとすれば、それは自らの意志だということを隠す必要があるからである。では誰から隠すのか。頼朝の大目付であった二人に対してであれば、むしろ隠さずに投じた方が「志を改め」たことが目に見えて明らかになる。それが二股武士と見えて嫌だというのなら、世間体を気にするから隠すことになるのだが、そんなものが景清の心の行き着いた先になるとは、笑止千万でありお話にならない。主君重盛に申し訳がないからというのも、そのような姑息な偽り事は「三世を見抜く日本の賢人」を愚弄すること以外の何ものでもない。それで自分を納得させようとする苦肉の策だというのも、景清を何と情けなく脆弱な者とする見方であろうか。当然のことながら、「思い切っても凡夫心」と見切る近松の筆などもここにない。別に頼朝は重盛の位牌を持っていようと、それを咎め立てるような狭量な人物ではない。咎め立てるのは景清自身である。重盛に対し事ここに至った子細と心中を語らなければならないから、位牌を取り出すわけである。万感の思いを断ち切って自ら海中に投じるとするのもよいし、文字通り偶然に心と舟の揺れによって取り落とすとするのもよい。床はもう調子が上がって華やかに段切をつけるだけであるから、詞章も何もなく人形の解釈によってのみ伝えられるものであるからだ。最低でも、景清の性根を見誤るというか晩節を汚すかのような、偶然を装うというぶち壊しをやらなければよい。今回の玉女はその点中途半端というか、景清の思いはほとんど伝わってこなかった。それならば位牌などは前半の小道具としてそのままにしておけばよいのである。実際、詞章にはその後一度も記述も指摘もなく、段切でもまったく触れていないのであるから。この所作は、ひょっとすると近代の人形遣いが考案した解釈かもしれない。「恵みの海に情けの船」に乗った以上、自己という小乗を捨てて大乗に身を任せればよい、その大乗とはまたすべての温かき人間の心に宿る、父娘の情という乗り物でもあるからである。次に糸滝、やはり床同様に表現が難しい。もともと清潔感のある清十郎だからそのままで大丈夫だろう思っていたら、肩の落とし方や身のねじり方に色気が付いていたのでこれはどうだったか。クドキの間の身振りは二回目見てよりよくなったと感じたが。佐治太夫は又平カシラが人当たりの良さを表現する真面目な人物像で好感が持てた、和生である。長と女房も活写していると思うが、段切でごちゃごちゃやるのは見苦しい。「なに言ふも皆長殿よかれおれよかれ」の詞章がちゃんと飲み込めている勘寿ならこんな遣い方はしなかったであろう。ちなみに、文昇はその勘寿よりもよっぽどの先輩で手練れであったことは言うまでもない。

『近頃河原達引』
「四条河原」
 掛合なのでそれなりに映る。が、勘蔵の詞は官左衛門とおなじ足取りではいけない。もっと口捌きよく。よくわかる丁寧草も蔓延るようでは刈り取るか除草剤を散布しなければなるまい。久八は「廻しの」と付く修飾詞への配慮がない。料理人喜助といい世話物には必ず登場する人物造形だということを呑み込んでいないように思われる。伝兵衛はさすがにシンであるが、段切の抒情味(詞章と節付で明らか)が届かないのは文字久の物足りないところである。もちろん、ここが出たお陰で伝兵衛はお俊が女の道を通すだけの男であると理解できるのは結構であるが。宗助の捌きは問題ない。

「堀川猿廻し」
 この人口に膾炙した一段は、通奏低音に貧困も悲壮感もない。貧乏ではあるが人の情けが流れている。マクラから寂しさはあるが陰気一辺倒となってはいけないのは母も同様である。それはそのまま鳥辺山に続いて行き、美しい悲哀とでも呼ぶべき趣を形作る。そこを、住師と錦糸はかつて耳にしたことがないほどの絶妙さでさらさらと進んでいく(ツレ弾きの龍爾も実によかった)。そして前半はお俊のクドキで山を迎えるのだが、それは他の作品と比べるとごく短いものなのである。そこに配された繁太夫節、これがまた得も言われぬ寂寥感に裏打ちされた美しさが滲み出て、お俊の境遇とそしてこの一段全体をとりまくしっとりとした情感までも描き出す。これまでともすれば詞の達人という印象を襲名後からずっと受けていたが、先夏のお辰といい女の情愛を自然に浮かび上がらせるに至っている。「沼津」のお米を今こそ聴いてみたいと思うほどである。ここが出来るから盆が廻る網戸ヲクリに至るお俊の地がしみじみと効くのであり、枕に伝う涙を今回ほど感じ取ったこともまたなかったのである。山城少掾が言う「堀川」の理想が一つの形となって現出したと言ってよいだろう。かつ、丸本に忠実で冒頭の母の詞に「会」(くわい)との発声を初めて聞いた今回、しかも多くの太夫がしゃくっては音高に到達する語りをしてしまっている中にあり、さらに、人間国宝認定第一号であった山城と先代住、この両者を確かに継承している住師は現代の文化勲章に値するのである。それにしても、巧緻な錦糸がかほどまで自然に響いて来るというのも、相三味線の極みと言わざるを得ない。ただ、与次郎の詞はあまりに丁寧で平板すれすれであり、これが正直一遍の造形だと言われればそれまでだが、「沼津」の十兵衛にもまた同様の感想を持ったことを思い出してしまった。
 後半はお俊のクドキも派手でかまわないし母の述懐も三味線に乗っていけばよい。段切の猿廻しがこれまた絶品で(ツレの寛太郎が息もピタリでよく弾いた)、これらはすべてまず寛治師の三味線によるものである。津駒がよく応えているのは賞讃に値するが、やはり全体として聞き苦しく感じられるのは難と言わざるを得ないところでもある。とはいえ、猿廻しでホロリとさせたのは実力者である証拠でもある。
 人形は、簑助師のお俊が夏のお辰同様に住師の浄瑠璃と相乗効果で見事としか言いようがない。与次郎は紋寿の人形の中でもベストの出来で、又平カシラらしい動きが前受けを狙う嫌らしさというアクもなくするすると展開した。もちろん、段切猿廻しで情感を滲ませたのが名人の域に達した証左である。人形らしく動いて人間を心まで描写する、これもまた文楽の極みに違いない。母の勘寿は渋い脇役で十全だが、目が不自由だと詞章になくとも自然にわかるほどではと感じた評者の目は節穴かも知れない。伝兵衛の勘十郎は立端場で性根を見せてあるから、そのまま切場では動かなくともよいのである。そこでの官左衛門も久八もよいが、やはり床の出来に左右される所も大きい。立ち回りは面白いのだが、夏の泥場での印象が強烈だったためもあり、二番煎じの感を持たざるを得なかった。これは制作担当者による狂言建て方の問題という観点から評すべきものではあるが。
 

第二部

『一谷嫩軍記』
「陣門」
 大正後期に若手の美声家としてSPレコードも飛ぶように売れ、古靱の有力なライバルとして将来を嘱望された竹本越登太夫がここを勤めた時、以下のように記されている(『浄瑠璃雑誌』大正一三年五月)。「○越登太夫一の谷陣門の段糸芳之助今度は京都行の褒美とかで大変によい役が付た当人に至極適当なもので十二分に技量を発揮させて居た、尤も美声にして近頃は声に幅も出来、技倆も非常に向上させた殆ど小南部の感がある否南部よりも小廻りが利き色気のある云々。」京都行とは大正一二年一一月に開場した新京極第二文楽座における興行のことで、文楽座の中堅以下の三業が出演していたものである。越登太夫も大正一三年一月から出座していたが、同年四月に『一谷嫩軍記』「組討」の中を勤めており、そこで好成績を収めた功により、番付の地位からすると道行や掛合のツレを勤めている越登太夫が、御霊文楽座の本公演において破格の語り場を勤めることになったのである。この「陣門」は『一谷嫩軍記』の二段目の冒頭に当たり、マクラで二段目の風格を定める(敦盛が固める陣所であるというところが重要である。ちなみにこの二段目後半の中心人物は忠度と菊の前である。心しなければならない。)とともに、熊谷直実の一子小次郎の初々しく颯爽とした先陣を描き、加えて敵役の平山武者所と立役の熊谷直実も登場して合戦の趣もありと、時代物の結構をつかむとともに優美にして伸びやかな語りも要求される一段である。美声と言われた越登太夫の声柄からして、小次郎や敦盛にかかる描出は文字通り至極当然であったろうが、十二分に技量を発揮させていたとの総評は、無骨なり重厚なる武士の描出も出来たことを暗示しており、それはとりもなおさず、声に幅が出来て技量も非常に向上したことの証左としてよいだろう。なお、語り口が瓜二つとされている南部とは三世竹本南部太夫のことで、南部はまた竹本摂津大掾にそっくりと言われる語りであった。
 ここまで長々と述べたのは要するに、この「陣門」は実によくできた(詞章も節付も舞台装置も)一段であり、語りこなすのもタダではいかないが、それだけに勤め甲斐もあり観客も楽しみな箇所であるということである。そこを掛合にするのだから、各人が十分役割を果たせば、一人で語り通すよりも負担は軽くなり、破綻の危険からもその分だけ免れうるはずであるが、現実はそうでないのだ。今回は詞章と三味線と人形とによって、その魅力がどのようなものであるかを知ることができた。至らなかったのはもちろん太夫(とりわけシンの)である。心して語っているのはわかるし、時代物として、またマクラの格も意識しているし、力感もあるのだが、如何せんこの段の眼目である抒情味が伝わってこなかった。その他、平山はカシラが違い、熊谷は猪武者で、軍兵は思いの外に聞けたがこれは褒め言葉にもならないだろう。ということで、今回は越登太夫がいかに有望な若手として人気実力ともに兼備していたかを、あらためて認識する手助けになった。なお、彼は大正の終焉と期を同じくして38歳で夭折する。これが、古靱(山城少掾)にとっての最大の不幸という認識さえなされていないことに、今日の斯界衰退の一大要因はあると確信しているのだが、これに関してはここで詳述する類のものではなかろう。

「須磨浦」
 ここは「組討」の口、立端場の端場で小揚げに相当する箇所であり、段書きするのは顔付けへの配慮というよりも、「組討」を切り離し単独で見せた方が一段の統一感もあるし、客席もあらたまるからである。ここを持たされて喜ぶ者はそういないが、小団七カシラのチャリがかった平山を活写できるのなら話は別である。とはいえ、玉織姫を無惨にも手に掛ける冷酷非道かつ卑怯未練そのままの性根であり、いがみの権太や平瓦治郎蔵など通常は備わる善意の欠片もないから、カシラとしては陀羅助でもよいところだ(それでは重みがないというのが理由だろうが)。ということで、咲甫と清志郎にすればむしろ呂勢と清治師による「組討」の小揚げとして取り組んだ姿勢が評価される。もっとも、初日はあまりにも遠慮が過ぎたから、二度目の面白く聞けた方を実力相応としてよいだろう。この床で「陣門」を聴きたかったと思ったのは当然のことと考える。

「組討」
 この一段は三重に囲まれる構造になっていて、父親が息子の首を刎ねるという陰惨さから客席を救うようにできている。一重目はもちろん「平家物語」熊谷と敦盛の写しというもの、それを二重目として謡ガカリがその両者の登場にかぶせかけてある。これらはいわばハード的なもので、三重目はそれらを抒情性というソフトの面から覆うことになっているのである。敦盛の謡ガカリから、浪の音を描写する三味線で「無官の太夫敦盛は」の高音からの語り出しゆったりとした足取りと間、再びの謡ガカリは熊谷で、直ちに先刻の調子に戻って馬上合戦の描写。その詞章が「蝶の羽がへし」「須磨の清風」「むら千鳥」であるから、「剣の稲妻」も殺傷の道具でなく天空からの光として顕現と輝く。夢現とはまさにこのことで、三段目「宝引」で歯抜けの与次郎は、首が落ちるまで呑気に弁当を食いながら見ていたというが、そのことが奇しくも観客側からの証言となっているのが興味深い。となると、この詞章を締め括る「虚々実々」という言葉も、計略や秘術の限りをつくして戦うさまの意を角張って語り武威を表しているとはいえ、虚実皮肉の謂いでもあると自然に納得されることになるのである。舞台演出も遠見の小人形としてあるのは、うまい工夫というよりも、この一段の意味と曲調を十分に理解していた人形遣いに我を折るばかり。それゆえに、敦盛の言葉では敢えて父母に言及し、とりわけ「必ず父へ送り給はれかし」と言わせてから自身は敦盛であると名乗らせるところ、小次郎のことを語っての熊谷が「順縁逆縁倶に菩提、未来は必ず一蓮托生」と唱えるように、囲われた覆いの中のホンモノはそこここに見せてもかまわないのである。そして手負いの玉織姫が登場し、真実の敦盛と微塵も疑わず絶命するに及んでは、虚実皮肉もその極となるわけで、事実関係などというものは無意味となり、ただ純化された悲哀が抒情味溢れる節付と詞章とによって、劇場空間を満たすことになる。下座による千鳥の音が誘う哀しみの情緒は、他に匹敵するものがない。「是非もなくなく」からの段切は、馬もその悲哀を知る、況や人に於いてをや。生きて死ぬのが生あるものの姿なのだから、一段の詩情はここに極まるのである。それは、収斂し凝縮するのでなく、空間に拡散して劇場舞台全体の空気となる。「檀特山の憂き別れ」に付せられたヒバリブシの旋律(九月東京「二月堂」「良弁杉と名に高き」の見上げるところにもあり)も、揚げひばりの印象そのものであるのだから、めったに聞かれない曲節の妙をここに感じ取るのである。
 このように書き連ねたのも、清治師と呂勢の奏演を耳にし、勘十郎の熊谷(敦盛の文司、玉織姫の簑二郎)を目にしたからである。清治師の主眼は熊谷にあった。その哀切は確実に伝わり涙を催させたし、もののふとしての通奏低音がまず確かなものとされていた。次の重点は玉織姫、ここは誰のを聞いても以前から冗長に感じていたところだったし、あの仙糸とつばめの録音でもカットされている。そもそも謡ガカリから聞き始めれば、ここで登場すること自体突然で奇異に感じるのは当然である。しかしそれゆえに、この玉織とりわけ「宵の管絃の笛の音に」からの地がすばらしいと、熊谷の嘆きが倍加いや階乗化されることとなる。今回初めて玉織の存在価値を実感とすることが出来た。敦盛については、そもそもが詩情溢れ抒情性抜群の節付となっているから、半分の出来でも何とかなるし、呂勢ならばその出来の七八分は保証されたも同然である。今回の番付が発表され、「組討」にまず大きな期待を持ったのもそのためであるが、それに関しては肩透かしに終わった感がある。しかし、床の狙いは熊谷の心情に焦点を当てることたと聞いたから、全段抒情味を通奏低音とする行き方は、寛治師の三味線にて弾いていただく時を待つことにしよう。清治師は呂勢を用いて自らの「組討」を奏演して聞かせたのである。「道心のおこりは花のつぼむ時」とは蕉風去来の付句であるが、蓮生道心の起こりは「順縁逆縁倶に菩提、未来は必ず一蓮托生」と唱える時だったのである。これは切場の段切を司るものであるから、立端場の意味としても完全完璧なものと仕上がっていたのである。最後に、呂勢はやはり美声家の資質がたいそう好ましいものであるから、それを潰すことなく更なる高みを目指して精進することを望む。かつて春子が陥った不幸にはもう二度とお目に掛かりたくもないし耳にしたくもないのであるから。

「熊谷桜」
 「組討」のあと、ただちに三段目の切場とは親切であるが、今回のように仕上がると一息つく隙が欲しい。だから25分の休憩が設定してあるというのはうまいようだが、これはもちろんお弁当タイムである。そのあと、すぐに「行く空も」と立派なマクラとなるが、今回はそれよりも、切場の人物関係を整理しておく文字通りの端場として、しかも冒頭のチャリと盆が廻る前の梶原が活写されていたので、正直よかったと感じた。もっとも、この桜と陣屋だけを出す場合は言うべきことが山程あるのだが。ということで、松香らしくあり、三味線は後者の場合も問題ない富助であった。それをツルサワとの口上間違いは、どうやらここだけではなかったようでもあるし、猛省を促したい。公演記録映画会で見る兵次がやるのとは、まったく質を異にするものである。

「熊谷陣屋」
 切場の前半がこれほど短くあっという間に終わってしまうものだったとは。その印象を持ったということは、物語に至るまでマクラからの難所が十分に語られていたからである。つまり、綱師と清二郎はさすがということになるわけだ。無論、当作自体がよくできているとうことは言うまでもないが。加えて、今回はやはり人形遣いにぴったりの床であったということが、後に述べる人形陣の総括で明らかになるところのものであった。
 後半は久しぶりに英の快打を聞いた。東京での逆櫓以来かも知れない。そこには、三味線が清介であったということも大いに関係があるだろう。盆が回って直後の笛の一件の抒情性からすめすめと引き込まれた。太夫は正攻法で堂々としかも面白く、「十六年もひと昔、夢であったなあ」も詞章そのまま、客席もまた涙の露をほろりとこぼしたのであった。段切も結構で満足のいく柝頭となったのである。それでも注文をつけると、詞はもっとツンでもらいたいし、熊谷相模御台所と畳み掛けるところの足取りも詰めて、弥陀六のタテ詞は事柄の説明に聞こえる隙を与えず浴びせ倒してもらいたかった。そうすれば、若大夫が目の前に立ち現れてくるはずである。それにしても、この後半は予想以上で儲けものであった。やはり劇場の椅子には実際に座ってみなければならないのである。
 人形陣は今回もまた床を(とりわけ太夫を)支えたと称讃してよいだろう。勘十郎の熊谷は、夏の団七同様に、一挙手一投足にまで心気が通い行き届くが、それが決して神経質にもせせこましくもならず、その時その時の熊谷の心境は如何なるものであろうかと、感情移入しては納得しながら、舞台に集中することを可能とした。この勘十郎が遣う人形は、故先代とも故玉男とも、そして簑助師とも異なった独自の印象を受けるもので、この点については、いずれ比較検討してみなければならないと考えている。つまり、それほどに一つの極へ到達した遣い方なのである。それについて考える際にも面白いのは、伝兵衛の場合は「堀川」でもむしろ後ろにあってこちらとの通電交流もさほどではなかったということで、やはり立役であるか時代物か一段の中心となるかによって、きっちり遣い分けられているということになる。その存在感の拠って来たるところはどこか、大いに興味をそそられる考察対象なのである。現状において一言すれば、浄瑠璃詞章と節付がその所作の裏打ちをしているという印象なのであり、これは夏の団七においてもそうであった。そしてそのことが、床と乖離して人形だけが動いているなどということは微塵もなく、作品解釈を深める方向に働いており、こちら側を人形に集中させるという不可思議な魅力を備えているのである。しかしまた、前述の伝兵衛のような立ち現れ方もするので、単独高峰でも喬木屹立でもないのであるが、その型の極まり方のすばらしさ美しさは比類がなく、何とも驚異的な人形遣いなのである。ともかく、「組討」での敦盛と関わる一連の所作、とりわけ段切では熊谷とともに心中は涙に満たされたし、「陣屋」でもまた相模への心の動きを第一として、出家姿での述懐の涙は真実心の現れそのものであり、観る者と同期して(接頭辞synを同じくするという意味での同情)、この熊谷物語の結末を胸に納めさせたのである。相模の和生は直実の妻として夫と対峙する姿が印象に残った。愛ゆえの不義ならば厭わぬ強さを考えれば、この遣い方は当然であるし、それがまた前半で藤の局を諫める立場からの逆転が鮮やかにも映った。その藤の局に回って舞台上で実際に愛弟子の指導を行った文雀師にはさすが品格があった。弥陀六は故師晩年の持ち役であり、この陣容では如何ともし難いとはいえ、老体の評価で玉女を判断したくはない。夏の義平次も同様である。もちろんこれ以上に遣う他者も見出せない出来であるのだが、それでも一言するなら、無念さの描出が至らなかったのではと感じた。義経は狂言回しで重要な役、勘寿で安定する。梶原はダブルキャストの双方ともに問題ないが、「すしや」の平三景時となると果たしてどうか、そちらを見てみたいもの。軍次はなかなか気の通る優秀な武家の家司であることがよくわかり、ダブルキャストのうち後半にそれがやや強く印象づけられた。
 今回も、夏同様に人形を観に来ていたという感覚が残ったことを、あらためて記しておきたい。

『伊達娘恋緋鹿子』
「八百屋」
 典型的な世話物である。主人は奉公人からの叩き上げで婿となったものの、今や店は金銭的に行き詰まり、性悪人に目をつけられるのは美しい一人娘ゆえでもある。彼女にはまた道ならぬほどに純度高く蒸留された恋があり、相手の優男は表の顔がのっぴきならない事態にあって曇りがちである。そこで二親が、義理も人情もわきまえながら、娘に婿取りをためつすがめつクドクこととなる。ここで娘は、「義理の柵、情の枷杭」に如何ともし難く、「アイ」と一旦は返事をするのだが、本作のお七は決して頷かない。ここが本作のツボである。「詰まらぬ理屈」「親心知らぬ娘」とまで書かれているのだし、「大方合点が行た」とは親の思い込みに過ぎない。お七が涙を流すのは、「可愛い男を腹切らし無間地獄へ落とすのが悲しい」からである。もちろん、一旦は祝言する段取りになるのだが、そこは吉三郎の述懐に隠されて見えないし、お杉が戻ってからはたちまち吉三郎のことで一杯になる。書置を読んでからは文字通り「狂乱」となり、そのまま火の見櫓となるのである。もう一つ注目したいのはお杉の存在で、姫の危急を機転の利く侍女が救うというのは、「落窪物語」からでも千年の歴史があるものだが、やはり造形がいきいきとして作者の筆の快走が如実に感じられるのである。丁稚の弥作も興味深いキャラクターだが、ここだけ切り取られての登場では、残念ながら中途半端な印象である。嶋大夫の語りは、この三人を活写して面白く、それ以前にまず親の意見は身に染みるのではあるが、前述の通り作自体がいささかステレオタイプに陥っているから、この点に関しては「質店」なり「野崎村」なりで聞いてみたいと思う。清友はよい女房に徹している。

「火の見櫓」
 マクラから櫓に登るまでが命。この後に、今回は切場の跡だから掛合の太夫にも役割が与えられるのだが、おかげで人数が捌けることになる、と言っては身も蓋もなく失礼であろう。こう書いたのも、前半の趣が後半のドタバタで帳消しになるのでは、そういう危惧があるからである。果たして然りか、杞憂に終わったのか。
 人形はお七に尽きるが、初日はその「アイ」とは言わない女とその狂気が今一つ足りないと思われたが、二度目には心されていた。あとお杉が、その重要性から言えば抜擢に値するとここに書き記すに至らせたことは、紋臣の手柄である。二親はやはりパターン化の印象を持たざるを得なかったし、吉三郎は、こういう場での若男の描出としては平板で、お七が火炙りになってもと思い詰めるまでの爽やかな色気がほしかった。跡場は予想通りのドタバタとなったが、これもまた世話物のパターンの一つだから若手人形遣いに罪はない。ともかく、あの梯子を登る工夫にはいつも感心させられるし、舞台情景がまたすばらしいので、人形美の極みを味わうことが出来た。
  正月は久しぶりに「油店」がかかる。床手摺の陣容とともに楽しみである。