人形浄瑠璃 平成廿三年四月公演(3日:初日・中日後二日所見)  


 大震災に際し、古典芸能は何をすることができるのか。これは阪神・淡路大震災の時も言われたことである。歌舞音曲の停止に関わっては、先帝崩御の際にも指示が出されたところである。しかしいずれにせよ、日常が平穏無事であっての公演実施という前提に立てば、その解答もまた自ずと見えてくる。となれば、大戦最終期に爆撃機の音を聞きながら、客も床もそこに命を掛けていたという山城少掾の談話は、何を物語っているのか。古典芸能は国威発揚の道具として軍国体制に取り込まれていたからだ、などとという虚妄はもはや冗談にもならない。もちろん、金を回さないと被災地のため国家のためになりませんよと、卑しい叫びを上げながら買いだめ需要にニヤつくような輩は、いざとなれば西へと用意周到なわけであって、自らは決して劇場の椅子に座ることなどはしないのである。
 

第一部

『源平布引滝』
「竹生島遊覧」
 掛合にしては統一感があったのは、清治師の三味線によるものだ。マクラは靖も三輪も聞けるレベルで、前者は素材の良さをうまく伸ばしているし、後者はこれまで詞に比べてもう一つだった地がよくなっていたので、やはり指導力というのは大きい。ここ一段だけというのはあまりにも失礼な話だが、襲名披露口上前のご馳走役として、織大夫時代の恩に報いた形なのだろう。松香はシテとして安心だし、呂勢はもとより安定感があるが、小まん必死の心情も届いた。芳穂もここへ並んで違和感なかった。人形陣はどれもきっちりと遣って問題なかったが、実盛に関しては初日だからか仕草(例えば櫂を捧げ持って投げ入れるところは自らも龍神に女の無事を祈るのか中途半端)に、意味が明確に伝わらないところが見られた。座頭役だけにそこは注視されて当然であるから、解釈を定めておかなければならないだろう。

「襲名披露口上」
 住大夫師が挨拶のみならず口上を述べるというのは、さすがに源大夫師が第一人者であるから。もちろん血筋の縁ということもあろうが、それは斯界では歌舞伎と異なり重要ではないはずだ。寛治師の挨拶は、「七世源太夫の『琴唄』は源太夫節ともてはやされて市中こぞってまねをした」という、往年の全盛期を紹介していただく貴重なものであった(5月東京公演中まで、Webページ「輝ける義太夫の星」の協力により、以下のリンクから実際に聴くことが可能。http://www.kagayakerugidayunohoshi.com/0002h.html)。清治師は公私ともに親しい兄者源大夫という感が、文雀師は早く舞台をともにしたいという思いが、それぞれ胸を打つものであった。最後に住大夫師が、震災への募金の呼び掛けを行い、形式的でなく内実を伴う支援活動に取り組んでいることを明言した。いろいろな意味で派手さはない襲名披露となったが、源大夫の名跡復活と、藤蔵の名実ともに二代目の誕生を、心より喜ぶものである。なお、事前のつどいにおいて、両者による「実盛物語」のサワリ奏演が行われたことと、七世源太夫の音源紹介で「楼門」(三味線仙糸)のマクラの部分が流されたことについては、劇場側にその意味を質したい。

「糸つむぎ」
 次段に住大夫師がこれまたご馳走役として控えてられるから、通常より短くまさに「口」程度の扱いとなっている(通常は「ほつと溜息吐くばかり」で交代する「中」のレベル)。今回は咲甫と清馗、「中」で勤めさせて実力を聞き取りたかったところだが、襲名披露狂言で前後を人間国宝が勤めるのだから、それだけで名誉とすべき場割であるのだ。冒頭の二上り唄からハルフシとマクラができて、婆の足取りもなかなかよい。仁惣太はもう少し動いてもと思い、同じ詞内でも「打ち撒いて聞かそう」と「義賢が女房」以降では明確な変化が欲しいとも思ったが、それも初日のことで中日過ぎに聞いたらきっちりと仕上げていて、実力の程は確かに感じ取れた。

「瀬尾十郎詮議」
 今回は端場が切場を食うとは言わないものなのだが、冒頭葵御前のウレイからまさに切場そのもので、実力とは恐ろしいと感心もし嘆息もした。盆が回ってすぐその心情へと聴く者を引き込むというのは出来るはずのないことである。ここも本来なら前述の通り、婆と仁惣太の一件で場を整えてほぐした後で、さあ高貴な女性の憂愁へと主眼が設定されるわけで、そこをヲクリから「世に連れて」以下のマクラ50字程度ですべてを用意してしまったのだから、文化勲章受章格である住大夫師と錦糸の床は空恐ろしいと言わざるを得ないのである。九郎助と女房は何をか言わんや、瀬尾は口に合い実盛も格で聞かせ、懐胎(くわいたい)も正当とあって、次回勤める床への手本そのものの義太夫節浄瑠璃であった。このお陰で、切場の代役が何の心配もなく(もっとも切場が聞けなくなってしまうという最大最強の恐怖は厳として存在する)、自らの使命を全うすることを可能としたわけで、紋下櫓下たる責任を果たすとはこういうことだとの見本でもあった。それでも敢えて言うならば、重厚であるが故に端場なりの軽やかさが恋しくもなるということである。

「実盛物語」
 近年ここが丸々一段通しで勤められることはなかった(四半世紀前の津大夫以来)。それを今回は襲名披露ということで、源大夫と藤蔵が一世一代と言っていい気迫で臨むのだが、太夫にドクターストップが掛かっては如何ともし難く、代役ということになったわけである。そういえば、織大夫時代に三代目喜左衛門襲名披露の「尼ヶ崎」を休演して呂大夫が代役を勤めたことを思い出したが、よくよく縁のないことと思わざるを得ない。とはいえ、正直なところ源大夫という隠居名(他意はない)では、半段以上の無理をすることは太夫生命に直結するから、結果的によかったと言っても失礼には当たらないだろうとも思える。さて、この大曲一善を英が引き受けるのだが、まあ無難に語るのだろうけれど面白くはないだろうなと予想を立てていた。繰り返しになるが、一段丸々語って無事でいられるかどうかはわからないのであるから(現に津大夫最晩年休演時の代役は前後二分割している)、それなりに済んでもやむを得ないと考えていたのである。ところが、聞いて驚いた。面白かった。大したものである。本役の切語りとしてよい出来であり、英自身の襲名披露かと思ったほどであった(もちろんそれは東風元祖の曲を選択するであろうけれど)。確かに、二の音が苦しく浴びせ倒しもない語りは時代物三段目としては不十分と感じられることは事実である。しかし、この一段の結構が掴まえられていて、いわゆる義太夫節浄瑠璃の自然な流れを体得していたから、些かの退屈も眠気もなく聞き入ることができたのである。現在聞くことができる範囲では、先代綱・弥七のものはさすがに大看板であるが、越路・喜左衛門のには勝るとも劣らぬ出来だったと言ってよいだろう。西風三段目として実に立派であった。マクラから物語までの仕込み、物語はノリ間の足取り申し分なく、肘を継ぎ合わす件の情感・情愛、葵の出産からの動きに、瀬尾のモドリと衷情、ハリキリから「不憫さ故」もきちんと届かせて節付けの真意を再現できたからこそ、最期も酷くはなく武士としてまた人の親としての万感迫る思いが、舞台そして客席に充ち満ちたのである。太夫をストーリーテラーましてやナレーターなどととらえていては、義太夫節浄瑠璃は理解できないということでもある(もっとも人形劇の進行役という理解なら話は別であるが)。受難曲の福音史家を聞いても、その妄言具合がわかるはずである。さて、音が上がっての段切も悠揚として迫らずそれでいて颯爽としてたからこそ、仁惣太の場面もグロテスクにならず痛快に思えるわけで、すべては英が作品を語り活かしたことの証左であった。これほどまでの絶賛は、もちろん三味線の藤蔵が見事だったからでもある。雄渾にして華麗で心持ちの良い三味線、この初代の芸は確かに二代目へとすでに継承されている。それに何と言っても義太夫節浄瑠璃が生まれながらにして体に染み込んでいることである。義太夫節が巷のそこここに聞き取れた戦前までと違い、今日においては血筋の縁というものもまたそれなりに(文字通りそれなりにであるが)意味を持っている。自然な―SP時代から今に至る奏演を聞き込んで感じる自然さ―流れが出来ていることの重要さ。これは実は英にも言えることなのであって、今回突発的に発生したこのコンビが、義太夫節浄瑠璃を体得し、それを再現できるという究極のところで、幸せな共通項を持っていたということなのである。床が出しゃばらず、詞章と節付とによる作品自体が前面に押し出され、そこに情感が乗っかっているということ。柝頭とともに大当たりの掛け声が飛んだのは、今回に関してはもっともなことであった。
 人形陣。実盛の玉女は、端場同様やや疑問が残る。物語が済むところで九郎助夫婦へ引目を遣ったがその意味は。死骸は夫婦が娘の小まんだとはすでに知れており、その心情を「思ひやつて」物語るわけであるから、例えば「陣屋」で敦盛最期を藤の方へ聞かせながら、実は一子小次郎の首を討った真実を悟られまいと妻の相模を意識するのとはまったく異なる。ここで引目を遣う理由、まさか実盛が娘の仇と斬りつけられないかと気を配るとか、まして瀬尾が現れないかと気を回すなどは詞章の先読みに過ぎないし、理解に苦しむ。いや、そんな論理的に解釈しても窮屈で面白みがないというのなら、それはもちろんその通りであり、ならば故師の理知的な遣い方から離れて、もっと動いて見せればよいのである。二代の玉男は芸風継承者の証という拘りがある以上は、これからも細密を以て評していかなくてはなるまい。初日故のバタバタはさすがに中日過ぎて再見の際にはなくなっており、乗馬や小道具の処理から型の極まり等々も、一段のシテとしての貫目とともに出来ていたので、総体として悪くない実盛ではあった。もちろん、故師は魅力的で男も惚れる立役を遣うレベルにあったことを、まざまざと思い出すことにもなったのであるが。九郎助の和生と女房の文司は、夫婦仲の年輪が滲み出て好演。瀬尾を担ぐところや娘小まんへの情愛そして段切のノリまで、文字通り自然で無理もなくそれでいてよく映る人形であった。鍛えられてきた証拠である。小まんの勘寿は男勝りの女という、硬さ強さが描出されていたが、「矢橋」を付けて立ち回りから見てみたかった。葵御前は清十郎で、登場時の愁いと不安、出産後は源氏の次代を築く義仲の母たる貫禄もあり、今この風格を少ない動きで出せるのは、国宝陣以外では筆頭である。12月の東京なら乳母政岡を遣って見せて欲しいものだ。仁惣太の清五郎は目立とうとしないのがよく、太郎吉も腕白とはいえ木曽四天王の一人となる将来を、ちょこまかと鬱陶しく遣わずに、無邪気ながらも芯の強さを見せることで表現し、段切綿繰馬の見栄まですばらしく、若手有望株簑紫郎としての位置付けをもっともなことと思わせた。瀬尾は勘十郎で亡父からの家の芸とも呼ぶべきだろうが、あのカシラに髪型髭面そして衣装等々から滲み出る面白さはむしろ控え目で、前半は無慈悲な一徹さは相応で、後半はモドリで娘と孫への情愛に目頭を熱くさせた。娘の死骸を足蹴にするところは無論だが、金刺を見つめるところが何とも言えぬ感慨に溢れていて、この辺りの詞章の読み込みと解釈が他に抜きん出ている。「最期はさすが健気なる」これが十全であった例は亡父以来であった。これに「悪に名高きそのひとり」が端場でずんと応えたならば鬼に金棒である。
 襲名披露というハレの場が、図らずも代役という形になったのを、三業揃って盛り立て一級品に仕上げたことこそ、源大夫へのまたとない祝意なのであった。文楽末法論を吹き飛ばす力を示したとも言えよう。

『艶容女舞衣』
「酒屋」
 文字久にすると今更の感だろうし、千歳と津駒の端場を勤めるというのもどうかと思うが、道行のシンもあるので顔は立ててある。とはいえ、ここへ来てここまでに体現されてきたものの違いが、この差になってた現れたと言ってよいだろう。喜一朗とともに別段どうこうもなく、人形に目が行って終わったのは、耳に障ることがなかったと肯定的評価を下してよいだろう。ずいぶんと持って回った言い方になってしまったが、まあそういうことなのである。いつまでも、ああ師匠に猛稽古をつけてもらっていた方ね、で済まされないことは、本人も重々承知しているところであろうけれど、義太夫節シャワーの浴び方がまだまだ足りないように思う。気になったのが、半兵衛が捨て子だと言い「捨て子とは何を証拠」と五人組が返すところ。人形は宿老が動いたが文字久は他のツメで語っていたと聞こえた。これは、打ち合わせというよりも床で手摺が自然に動けるという形になっていないということではないかと、それこそ「宿老の投げ首なんとやら」であった。ここで、長太の人形について書いておく。いわゆる阿呆役ではあるが、俗曲に興味を示すませたガキでもある。だからチョコマカ動いても悪くはないのだが、それが無意味だったり無理解から来たもの(泣いて戻るのにノリ間だからと浮かれて踊り出す等)だったりすると、途端に醜悪で臭味芬々たるものに堕してしまうことになる。だから、「金殿」の官女は認めても「寺子屋」の涎繰りは不快にしか映らないわけだ。今回は、二度目に見たら冒頭の居眠りの件も納得がいく解釈がなされ、ノリ間の処理も、床に任せ放って置いてよいものだとは思うが、最低限の動きで処理したのは、それなりに勉強している証拠であろう。師匠が紋寿だから、控えめに遣えとか動かずに表現してみろとは言わない。ただ、師匠の見せる芸の本質が何処にあるのかを、しっかりと捉えてもらいたいと強く望むものである。
 次、切場前半を千歳が宗助と勤める。マクラの描写から父娘の心情を浮かび上がらせ、園の述懐もすばらしく、半兵衛の衷心衷情は咳の工夫の見事さと相俟って見事に伝わり、さすがに中堅から看板へと登りつつある実力者の床であることは間違いない。にもかかわらず、満足に至らなかったのは、宗岸が鬼門であったからである。「酒屋」は美声家が振り回せばそれで済む一段ではない、とは芸談で言われ続けたことである。日本音楽に対する聴く耳を失い、ストーリーと心情を追うことが文楽鑑賞の正道だと思われている(「情を語る」が絶対的スローガンとなった)現代にあっては、むしろこのことは俗耳にも届きやすい(これらがオペラを鑑賞してどういう感想を漏らすかを聞いてみたいものである)。しかし、ヒロイン園に代表される節付を耳にすれば、そして義太夫節が身に染みている人々からすれば、この説は悪声家の皮肉か負け惜しみと聞こえて当然なのである。だからこそ、その芸談が真実であったと気付く時に、義太夫節浄瑠璃の奥深さに愕然とし、芸力というものの恐ろしさに慄然とするのだ。今回はまさにその瞬間であった。もちろん、千歳も宗助もそのことは十分承知しているし、宗岸の、父親として半兵衛と共振する子への情愛を、一段の核としていることも伝わる。が、宗岸は半兵衛と異なり、その造形を拵えることが不可能なのである。半兵衛は剛毅一徹で強く行けばよい(当然そこに至るには相応の力量が必要)、宗岸はそれに比して柔弱とすると婆との変化がつかなくなる(現に今回がそれであった)。町人の軽妙さで通すと肝心の情愛が逃げてしまうし、述懐に力点がかかるとその部分だけが浮いてしまう。要するに、万策は尽きるわけであり、自然体というまさしく年齢も経験も相応の床が勤めるよりほか、どうしようもないというところに落ち着くのである。駒太夫が才治と吹き込んだSP盤がCD復刻されているが、後半書き置きの件まで飽きさせず聴けるのは、やはり宗岸の造形がピタリと嵌っていたからだ。当然、その節付を美声で十全に再現していることは言うまでもないが。千歳ももう五十代前半である。それでいて宗岸がまだ映らないというのは、現代日本のいわゆる「大人」不在社会の一端を図らずも垣間見た気もするのである。もとよりこれは、かく記す評者自身にもそのままはね返る物言いなのであり、その意味からも、千歳や呂勢そして文字久等には特別の思い入れをもって生涯付き合っていくことになるだろうと自覚しているところである。
 後半は津駒と寛治師の持ち場である。眼目はクドキであるが、三味線の妙味にしばし時間を忘れる。何だかんだ言ってもこのクドキが不成功だと、前述の芸談も負け犬の遠吠えに聞こえるが、津駒はその三味線の助けによって、彼なりに語り進む。しっとりした情感や伸びやかな快感には至らないのは残念なところ。書き置きのところは語り分けに留意し、間に挟まる地歌へのカワリもうまいが、書き置き最後の宗岸の読みなどは追い込み不足だし、書き置きの取り合いがバタ付いた感は否めない。こうなると、「酒屋」後半は蛇足だとする説にも一理ありとなるわけで、しかも、今回は三勝半七の道行がオマケに付いているから、この後半が蛇足になると道行などはその存在理由すらなくなってしまうという、難しい局面に実は立たされているのであった(それゆえに、寛治師の三味線で津駒が勤める理由もあるということなのだが)。したがって、本公演の出来は津駒として及第点とは言えないが、そこは三味線の一徳で(実質は十徳でもあろうけれど)、大過なく果せたというところであろう。こういう、どうでもいい評をだらだらと書いているという時点で、やはり今回の「酒屋」一段は、幹部候補生の力演も届かなかったものと知られるのである。
 人形陣も、どうしても床の出来に左右されるし、最近の勘十郎のように、床を引っ張っていくというところでもないから、取り立てて書く言葉が見つからない。文雀師の園が永久保存版であることは衆目の一致するところだが、あとは皆それぞれに難無く(無難と書くと評点が下がるので)遣っていたと記しておく。婆の亀次が映るのはどうなのだろう、ここへ来て亀松の味わいが出てきたとするならば、ようやく楽しみが出てきたと次回にも期待が掛かるところである。

「道行霜夜千日」
 グリコのオマケをどう評価するか。文字通りオマケだからあってもなくても意に介さないとするのは当たり前だが、もっとマシなものを付けろというのはやはり筋違いだろう。ここは「酒屋」のオマケ。しかも「曽根崎心中」のように、オマケを目当てに菓子を逆に箱買いするというほどのものでもない。となれば、このオマケ(ちなみにここを勤めた三業をもオマケだと言うつもりはない)のお楽しみはどこにあるのかというと、舞台が千日前の獄門場であるということである。晒し首の実態にしろ清めの井戸にせよ、道具立て自体が歴史的資料でもあるし、心中する二人の最期は決して美しいものではないということが目前如実になるのもよい(その無惨な最期を永遠の愛ゆえと昇華できるかが観客に迫られることも含めて)。こう書くのは、二人に感情移入して心中場を迎えることが大層困難であるからだ。もっとマシなものをと叫ばざるを得ないのは、切場「酒屋」の後半で、娘を捨て子の形にして預けるしかなかった二人の心情に、自ら共鳴することが出来なかった証拠である。とはいうものの、これは観客の側よりもむしろ演者の方いや作者の方にあるわけで、あの書き置きの取り合いの中で、半七と三勝の思いを主題とし、段切の血の涙を真実のものにせよと言うのは、何とも高度な要求なのである。だから、無邪気な娘をあやすしかない老夫婦と嫁親子の立場から、死にに行く二人を想像する形で切場を止め置くこととし、心中場をオマケだと割り切るのが一番マシというわけだ。近松心中物はもちろんのこと、お半長とも決定的に異なるこの道行、二度の劇場通いのうち一度しか見なかったのも許されると思う。よって三業陣についての評も特にない。実際に椅子に座ってみて、上記の印象を確たるものにしたのであるから。もちろん、芸が至っていなければそれには言及するはずである。
 

第二部

『碁太平記白石噺』
「浅草雷門」
 もう「逆井村」が出されることはないのだろう。あの一段を語り活かせる太夫がいないというのと、それ以上にストーリー展開上あらすじに記しておけば済むと判断されているからである。国立劇場開場当時の通し狂言原則論は、昭和とともに遥か彼方へと姿を消し、見事平と成って現在に至ったわけである。それは観客の嗜好とも合致するものだ、と当局は言うであろう。しかし、現在の観客をそのようにしたのも、大局的に見れば当局側の責任である。観客を育てるということ、それは欧州の歌劇場等では自然になされてきたことである。そして、その観客がまた演者側を育てる。その関係は、少なくとも戦前いや昭和40年代までは文楽でもそうだったのである。生活様式(とその背景にある思考形式)の米国化に伴うやむを得ない変化、そう捉えて済ませられるのなら、ここには敢えて言及しないのであるけれど。
 始をちょっと楽しみにして来てみたら休演で芳穂が代役。とはいえ、彼もしっかり語るし、寛太郎はしっかりきっちりに素地として祖父の三味線が染み込んでいるから、将来が楽しみということで奥へぶん廻し。両者とも丁寧にかつ基礎固めができていて好感が持てた。
 奥は一言で言えば儲かるところ。人形のどじょうと観九?も同様だが、調子に乗りすぎて鼻に付くようだと逆に不快感をもたらす。今回は勘緑と幸助のダブルキャストで、甲乙付けがたい好演であった。敢えて言えば、後半戦の方がより映っていたのではないか。床の方は呂勢が清志郎と組んで、これも実力と格からしてここは妥当なところ。「嬉しうござる伯父サアと観九?を伏し拝めばつばで紛らすどんぐり目玉出ぬ涙より惣六が不憫と思ふ目の内に泣かぬ涙のしのぶ摺り娘引き連れ立ち帰る」この変化と足取りに間の具合も最難関の箇所が出来ていたので、流石だと感心した。しかし何かが物足りない。ここは伊達路(敢えて伊達ではなく)大夫や咲大夫で聞き慣れた一段で(直近の千歳は聞いていない)、その際満足していたのとは違和感がある。前二者の絡むチャリ場としての面白さかとも思ったが、これに関してはニンでないとはいえ無理な作為もなくよかったのだ。結局、この場ではチョイ役の惣六の詞がしっくりこなかったのである。このことは、切場への仕込みとして(立)端場があるというごく当たり前の事柄を再認識させてくれた。切場の後半を知っているからそう感じたのではない。惣六という男が狂言廻しとして重要な位置を占めるとピンと来るからである。そして、こういう役こそが一段の出来を左右してしまうのである。その点、「酒屋」のシテである宗岸とは異なるが、しかし看板となる中堅が苦しむ鬼門となったということでは、両者に共通するものでもある。花形では如何ともし難く、ベテラン陣(十全たる横綱が存在する番付においての三役格)でなければ勤まらない一段、それが図らずも昼夜ともに存在したという結果となった。なお、「酒屋」はどうしようもないが、呂勢と清志郎には12月公演ならば切場「新吉原揚屋」を聴いてみたいと感じたものでもあり、今回が不十分で至らないということでは決してないことを附言しておく。

「新吉原揚屋」
 南部大夫もよかったし、春子大夫も(レコードでの松大夫・清六)よかった。ここのところは嶋大夫の持ち場で、当代の美声家にして詞にも燻し銀の味が出てきているから悪いはずがない。現に不満なく劇場を後にしている。劇評を書くに際しては、床本に書き込んだメモをもとに頭の中へ再現しているので、今回もメモを見るのだが、ほとんど記載がない。遠国隔つた姉サアからの詞に「人形○」、宮城野のクドキに「ノリ間?快感に至らず哀感の一歩手前」、何と違うたものか以下の詞に「人形三者○」、惣六の詞に「玉也襲名可」、段切に「三味線?」、そして全体の印象を「のっぺりべったり」とあるのみ。要するに今回はこういうことになる。簑助師が遣うのぶは愛らしく純真無垢で、手本として他の人形遣いは必ず記憶に留めておくべきもの。宮城野の清十郎はしっとりと情感があり愁いも利くが吉原随一の重みにはまだ風格が足りないか。惣六の玉也は検非違使のカシラが映り深みがあり男気のある造形で準立役とでも呼ぶべきところへ来ている。この三者が鏡台を前にするところが実に見事で、凝り固まって思い詰めた姉妹の心が惣六の捌きによっほぐされて再び結束するに至る契機となった、心地よく清々しくそして美しい場面であった。こういうところを写真家は見逃さないはずだ。来年のカレンダーが今から楽しみでもある。太夫の嶋大夫は惣六の詞に一日の長があり、妹は卑近さが姉は貫禄が感じられ、新造も下世話で面白かったが、一段全体の雰囲気に余裕というか清爽感とでも呼ぶべき流れがあればと思われたが、それは三味線の団七にもそのまま当てはまるものであったから、コンビの問題かもしれない。前者が清友と後者が英と組んでいた床はそれぞれが特筆すべきものであったからだ。ベテラン同士だからうまく行くものでもない。ここにもまた難しい問題が存在してたのである。 

『女殺油地獄』
 近松物であり、上・中の巻は例のごとく西亭による改作物。しかし、「鑓の権三」ほどひどくはなく、近松の鋭い人間観察眼による一段のキーとなる詞章はまずそのままであることに加え、作品自体がすこぶる現代的にとらえられることもあって、ほとんど気にはならなかった。また、往々にして下の巻の心中場や妻敵討の改悪がひどく、雰囲気だけのステレオタイプで終わらせる場合も多いが、これは先代綱と弥七による、詞章はそのままで節付も近松時代をふまえたものであるから、最後で引き締められるということも大きかった。今回は、近松世話物の面白さそして偉大さを感じる結果となり、劇場側の思惑通りとも言いたい所だったが、客席からはこんな酷いものをとか与兵衛は不快だとかの声も聞かれ(もっともこれらの声こそが近松作品の恐ろしさを如実に反映している証拠なのだが)、客足を伸ばすには今一つだったのは皮肉なものである(近松ならこの現状にもまた会心の笑みを漏らすであろうけれど)。

「徳庵堤」
 明らかに詞章が端折ってあるが、西亭の作曲が軽快で調子がいいので、与兵衛ならずともふわと乗ってしまう。与兵衛の三輪はもはやベテランで詞は言わずもがな地も安定してきた。女房吉は南都でこの人も早中堅の落ち着きが出てきた。森右衛門の津国は一徹武士が合うものの慈悲を聞かせる所はもう一歩。七左衛門の相子は難無し。文字栄も亭主と悪達が語れない人ではない。田舎侍の靖は声柄以上によく人物の性根をつかんでいた(今回の足取りは奥州者故だろう)。希は語り分けができてよいが花車の年輪はまだまだ。咲寿は真っ直ぐで飾らないのが上士に嵌る。それをまとめる三味線の団吾は余裕が出て掛合には慣れた感じ。以上、それぞれに張り切ってなかなか面白く聞かせてもらった。

「河内屋内」
 三者三様に、与兵衛の性根と妹かちの不可解な病状について種を蒔く。まさに典型的な端場。睦と龍爾の実力にはうまく合致したようであった。
 奥を英が本役で清介と。英は代役が西風三段目切場丸々一段であったから、この奥は多少目を瞑ってもと思っていたのだが、代役の本領とはこういうところを指すので、英にはそれをまざまざと見せてもらった。これでこそかつての秘蔵の弟子たる人の十一代目を襲名する資格があるというものである。地味ながら滋味深い一段に仕上がって、各人の性情も明らかにとりわけ老夫婦の与兵衛ゆえに傷つく心と深い情愛を真摯に表現し、近松物の持つ清潔(高潔)さを失わず聴く者に感銘を与えた(初日は徳兵衛、中日後は沢が出色。これが公演中共にであれば名人列伝中の太夫となろう)ことは、すばらしいの一語に尽きる。段切の詞章「余所の絵幟の影に隠れて」に、家を継がせる跡取り息子の現前/不在を象徴的に表現する近松の筆の冴えを聞き取ることが出来たのも、今回の床なればこそであったろう。当然のことながら、三味線の清介にも触れなければならないが、女房役というのはかくあるという手本のごとく、当時本来は踏まえながらも天性で作曲をした西亭の節付を着実に奏演し、変化と間そして足取りと、近松物に命を吹き込んだ手腕は、あまりにも自然でどこがどうと指摘する隙さえ与えられなかった。至芸の基準を評が及ばぬところとして線引きするならば、今回の床は明らかに切場のそれであった。おそらく、「河内屋内」も原作のまま綱・弥七の手に委ねられていたならば、この中の巻こそが切場として扱われていたことであろう。そう確認させる出来であった。
 ここまでで、もう今回の近松物は名で釣るのではなく、実で感動させるものだと確定した。そしてそれを一段と高めたのが、下の巻だったのである。

「豊島屋油店」
 マクラからは端午の節句に女ばかりの商家の日常を描きつつ、ならばこそ男不在の事実と次々と起こる不吉な現象を綴っていく。与兵衛の登場は油樽に脇差とまさに豊島屋に狙いを付けていた体である。しかし口入れ屋を登場させ与兵衛の真情に触れさせると、見込みが変わる。取り立ては所詮親に行くのだから、前段までの与兵衛なら返す算段をするはずもない。それが、茶屋の払いはうっちゃっても親の判の二百匁を抜き差しならぬと語る与兵衛。その心が明かされるのは最終「逮夜」だがそれは今回出されない。痛恨はこの一点。本公演が最高の出来だっただけに惜しんでも余りあるところだ。もちろん、それを知ったらより以上に与兵衛の不可解さに観客はゾッとするであろうけれど。彼の唯一の自負たる道理は彼以外のすべてにとっては不条理としか映らないのであるから。さて、次の徳兵衛と沢の登場はその衷心衷情が吉はもちろん観客の胸にもひしひしと伝わるが、前段でその表と裏とを簡潔かつ印象的に見せられているから、いささか冗長に感じられてしまう。しかもそのたっぷりの心情が象徴する銭八百は、次の瞬間には与兵衛によって一蹴されてしまうという、天才近松の仕掛けの道具ともなっているわけで、すべては作者の術中なのである。続く与兵衛の心情吐露はどう聞いても真実そのものだが、狼少年となった(であった、に非ず)以上はどうしようもない。後は凄惨な殺人現場で幕となるのである。
 吉が殺される道理はないが、筋道はちゃんと用意してある。吉は周りが見えない女であり、しかも何かしら常に動いていなければ気が済まず、かつ自らは経験上正しいと思い込み理屈を吐いたつもりでいる人間である。占い師なら、あなたは乙女座のB型ですねとでも言い当てていることであろう。結論から言うと、殺されるべくして殺されたのである。与兵衛は吉を自分の支援者だと思っている。徳庵堤では女自慢の話題に乗せてくれるし、下向には命の危機まで救ってくれる。節季の夜で金は貯まっているからには、たかが二百匁を貸さないはずはない。心底残らず打ち明ける覚悟も出来ているのだ。しかしそれでも、支援者が肉親と違うところは、本能的な愛情がないところで、最後は自分を捨ててでも与兵衛のためにと動いてくれた(ただし肝心の銭が足らなかったが)父母と同じでないのなら、万が一にはこちらも刃物三昧で行くより他はないのである。自分が可愛い、自分を利するためには親兄弟をも利用する、というより、肉親は盲目の愛で許してくれるのであるから、それは善悪の判断を超越したものだ。そして吉は、与兵衛の姉(隣家の油屋に嫁いだ)的な存在として、父母兄妹という家族構成の中にすっぽりと当てはまる存在に他ならない。七左衛門が「若い女が若い男の帯解いて」と怒るのはもっともであるが、姉弟ならそうではなくなる。吉は自らその立ち位置を選択した、つまり、盲目の愛を以ての許容者となったのである。しかも吉という女は、自分で乗せておきながらただちに説教をして振り落とす。夫が掛取で遅れると承知ながら、子供の空腹を目前にするとどこで何をしていたと詰問する。金を貸す気はないのに二百匁の飢狼与兵衛に、上銀五百匁が戸棚にあるとひけらかす。節句過ぎれば絶望との言葉を、間の抜けた後に明日以降夫相談してと間に合いを言う。等々。最晩年の作『心中宵庚申』でも近松は、妹娘千代がなぜあれほど嫁ぎ先と縁がないのかを、性格悲劇の一面からも見事に描写して見せたが、この『女殺油地獄』でもそれはそのまま当て嵌まり、鋭い人間観察者としての手腕を残しているのである。なお、「過去の業病逃れ得ぬ」とはもちろん仏教思想に基づく因縁の話だが、ここではそれもまた、自らは正しいと信じて撒き散らしてきた過去の言行の因果が今眼前にという意味ともなり、近松は近代を見越していた天才作者であると位置付けできるのである。
 以上長々と書いたのは、咲大夫と燕三の義太夫節を聴き、勘十郎の与兵衛を始めとする人形を観たからである。テキスト読解はいわば同時進行そして後付なのである。すぐれた舞台は、これほどにまでに鑑賞者を高めてくれる。この事実一つを取ってみても、今回の上演がいかにすばらしいものであったかが証明されているのである。敢えて具体例を一点記すと、両親が吉に後を託して帰る「また泣き出だすふた親の〜父母の帰るを見て心一つに打頷き」の、寂寥・悲哀から合を挟みながら鋭いが暗い決意へと変化するところ、この絶妙な語りと三味線を耳にするだけでよい。先代綱・弥七の節付もさすがであるが、これを見事に再現した咲大夫は、燕三という良き女房役を受け、亡父の跡を襲う資格はすでに十分である。その時はまた、人形浄瑠璃文楽にとっての長い戦後が終わりを告げる時でもあると確信するものである。
 人形陣は、実母である沢を紋寿が活写、徳兵衛は玉女の武氏カシラが想像以上によく、吉の和生も安定、以下どれもよく役が映っていた。しかし、これらはやはり三業一体ならではで、床の成績により手摺は左右されるものだとあらためて感じた。その中で、勘十郎の与兵衛については特筆しておかなければならない。人形の表情は一定である。これは能面にも言えることであるが、だからこそ上下左右のちょっとした角度が非常に重要になる。逆に、能面とは異なる仕掛けを利用して文楽の世界を作り出そうとするのも当然であるが、無闇に使うと浅薄で意味不明なものになってしまうのは、戦後の芸談でも知られたことである(もちろん、人形は回してナンボという遣い方も当然あるわけで、その場合は戦後の理知的心理主義とは決別したところに立脚しなければならない)。今回書き留めておくのは、文字通り詳細でありながらちょっとしたところに、しかも真剣に与兵衛の人物像やその思考・行動の拠点を知りたいと舞台に集中している観客には如実にわかるように、詞章を読み抜き床の奏演をふまえた上で工夫されたカシラの遣い方についてである。「河内屋」では、母が兄から野崎での不始末を聞いたと暴露したところ、甘い義父から初めて打たれたところ、その言葉の最後が千日前の獄門首に触れたところ、それぞれに我が儘小心者の反応が的確かつ無駄なく描き出された。「豊島屋」は、二百匁の見当を家の中に付けるところ(周囲を見渡すのは付け足しでよい)、南無阿弥陀仏と自分のために(恨んで化けず成仏せよ、自分は悪くない)唱えるところ等々、詞章の行間を読んでの遣い方は座頭と呼んでよい天晴れな仕込みでもある。その他、詞章と合致しての所作(敢えてこう記す)は言わずもがなであり、ここは誰の目にも止まったから、最初に述べた感想や反応が客席から聞かれたわけで、勘十郎としても満足に思ったに違いない。なお、「徳庵堤」で泥を掛けるところを、中日後見ると泥団子を投げ付けるように変えたのは、小川も舞台上にはなく状況把握がし難い観客への配慮として納得できるものである。ただし、この程度ならかつての観客は耳からの浄瑠璃により想像力で補うことが可能であったのだが。最後に、全体として源太カシラがこれほど恐ろしく凄惨に見えたことがあったろうか。二枚目であっても若男のように甘くはなく、世間を知った年齢相応の悩みが刻まれた表情が、激しい動きを伴って最後に発散の方向を示す。この源太カシラ王道の性根の一変奏形式として、勘十郎の使った与兵衛は記憶に残り続けるものとなったのである。
 これで約一万五千字、原稿用紙三十七枚強。連休最終日までずれ込んだ言い訳にさせていただく。駄文にお付き合いもここまで来ると苦痛であろうとお詫びしながら。