人形浄瑠璃文楽 平成二十五年十一月公演(初日・16日所見)  

通し狂言『伊賀越道中双六』

第一部

「鶴が岡」
  志津馬が諸悪の根源だと言うのは簡単だが、色と酒に耽るのをそう責められる聖人賢者も多くはいないはずだ。罪無き者石を擲て。開幕時は「威儀厳重に守り居る」のである。股五郎と実内の仕込みは是非もなく、友達を選べと言うのも同輩ではあるし、徳兵衛に対する九平次にしろ、土壇場の悪巧みは通常の付き合いでは見抜けないのも当然である。その上、小団七首というのは悪知恵の働きが実に鮮やかである。瀬川も沼津以後とは違って松葉屋の遊女であるから、色仕掛けを怠らず(もちろんこれも、志津馬が色男であるから。後の岡崎ではそれで関所を通過できてもいる)。こう取り巻かれてみると若い志津馬では如何とも仕様が無い。瀬川との酔態も笑止ではあるが、酒が入った新橋のサラリーマンとそう変わるものでもない。丹右衛門は検非違使首を絵に描いたような人物で、それゆえに序切の最期が暗示されてもいる。と、人形はなかなかよく遣っていたが、志津馬は乱れるまでもう少しキリリとしないと源太首には見えず、丹右衛門も存在感を示すところまでは行かなかった。御簾内の三味線は龍爾が頭一つ抜けていた。太夫陣は、やはり靖が大序を抜けていて唯一浄瑠璃義太夫節として聞けた。希は安心というより平板と言わねばならない。咲寿は逆に不安一杯だが面白く化けられれば。亘は今のところ浄瑠璃が身に備わろうとしていて期待。小住は実直な上に公演後半は地色詞がきっちり出来ていて飛躍の可能性がある。全体的に、もう一調子上げてキンキンにならないと大序を聞いたという感じがしなかったのも事実だが、それは忠臣蔵と菅原にしかもはや望めなくなっているのだろう。とはいえ、大阪でここを出した(開演を十時半にして)というのは評価できるし、千本松原まで聞いても疲労感はまったくなかったから、通し狂言の建て方として大成功と言ってよいのではないか。

「和田行家屋敷」
  序中。この程度の口でも、マクラに腰元の下世話そして柴垣の出と三変する。そこに気が行っていたのは小住の方。しかし丁寧すぎる。もっと口捌き良くタタッと進まなければ、浄瑠璃義太夫節の復権はなく、ずっと歌舞伎の風下に立ち続けることになろう。
  奥は男二人の駆け引きが眼目で、松香と清友の経験が活かされる。また、始めて出語りとなる実力がありありとわかるというのも流石である。こういうところをわざと作って聞かされると、事件の発端が台無しになってしまい通し狂言の禍根となる。正宗の刀の話を聞いた行家の詞が変化する、受け流された股五郎が弱みを見つけて付け入る詞から性根が露出など上々。その先、股五郎による行家殺害のところまでスッと入ってこなかったのは、床の責任ではなく詞章のカットによるもの。わずかの切り接ぎに見えるが、最初に床下から刀を突き出すという第三者の介入も弱くなる。どうやら、黒幕の城五郎を序切まで伏せておくという改変のようだが、その成否は次段冒頭で明らかになる。

「円覚寺」
  墨絵の雲龍を描いた襖を前に、諸士が居並ぶ光景は渋いが圧巻である。とりわけ上手の文七首は存在感威圧感があり、それが事件の黒幕すなわち城五郎であると股五郎の台詞でようやく判明するのだが、ここまで謎解きで引っ張る必要はなく、むしろ前段行家殺害時に名前を印象付けておく方が、本段冒頭でその巨悪ぶりが寸分違わぬもの(そうなるかはもちろん人形遣いと床の力量による)と確認され、より強烈な刻印を残すことになる。これは、伊賀越仇討ちの全容を示すという意味において最も重要であり、城五郎が弱ければこの事件は、大序における未熟者の志津馬と若い股五郎が原因のちっぽけなくだらないものとなり、各段の苦労も実に馬鹿馬鹿しいものとなってしまうのである。浄瑠璃五段構成における序切の重要性が、この点からも明確に帰納されよう。今回、戸惑いは隠せなかったものの、床の靖と清丈ならびに簑二郎の人形がよく健闘したため、城五郎の人物像がうまく表現されたことは幸いであった。床は、股五郎も勢いあり諸士の血気に逸る描写もよく、十兵衛の性根を決定する詞とフシ落ちもしっかりと出来ていた。将来の三段目語りを一瞬彷彿とさせたのは、斯界のためにも有り難いことである。ヲクリまで強烈な印象を与えて盆が回る。
  序切は文字久と今回は三味線を藤蔵が弾くこともあり期待が高まる。一言で評するならば、予想通りであった。第一人者を師匠に持つ一番弟子としても、丁寧でわかりやすく実直な語りにより、人形芝居を成立させているという点は評価されるものではあるが、この人に決定的に欠けているのは面白さである。それはチャリ云々ということではなく、浄瑠璃義太夫節を聴く快感がまるで起こらないということ。早い話が、将来CD等の音源が発売された時、手に取ろうとはとても思えないのである(ただし、DVDならば人形入りなので考えるが、それでも購入はせず公共図書館等で借用するだろう)。その原因はどこにあるのか。抽象的なことを言っても始まらないので、具体的に列挙してみる。まず、マクラに緊張感がなく間延びする。それが事もあろうに詞章の捉え方の問題というのは根が深い。「謀もや」の後、「あらんと」と語られたから違和感を覚える。「あるらんと」か「あらんかと」が正常に反応できる詞章のはすだが。近松物でもないし、しかもマクラで字余りはあるはずもないことだからである。加えて、語り込んで勢いのままということなら取り立てて書くには及ばないのだが、ヲクリ直後の冒頭でのこれには明らかに別の理由がある。床本には「有らん」と書かれているのである。その文字情報をしかも浄瑠璃本ではなく読むと「あらん」と語ることになるのだ。丸本でも五行本でも、「有」の活用語尾は表記されることはない。正確にはカタカナ小字でラリルレと送られているのである。もちろん太夫ならそんなことは百も承知のはずだ。小字の見落としだから大事ないとは、軽口でも絶対に言えない。なぜなら、この語りは浄瑠璃を耳から覚えるのではなく目で追って語っていることの証左なのであり、しかも七五調が乱れて気持ち悪いと感覚が反応して、その場で当然修正がかかる(というより勝手にそのように語る)はずだからである。このように書かざるを得ないのは、これに類することを過去に何度劇評で指摘してきたかという思いがあるからだ。さて、このマクラ一枚は城五郎の謀略をすでに聞かされている観客にとっては、正義方でありかつ大序で見た通り志津馬にとってなくてはならぬ人物の丹右衛門が、敵中深く伴は僅か三人で入り込こんできたという、緊張感をもって事態の行く末を見守ろうとするところである。ここの地の語り、幼少期より義太夫節(日本音階や発声法)に慣れ親しんだとは思えないが、せめては引き締まった力感を描出してもらいたいものである。とはいえ、城五郎の詞以下丹右衛門の最期までストーリーは確実にたどられていくし、人形との齟齬もなく納得できる出来である。そして段切り、ここは三味線が実に上手く、良い節付けになっていることは魅力的で、それゆえにこそ段切りという表現が生まれたものだとも感じさせ、その意味が明確になったのは、浄瑠璃義太夫節一家に生まれ育った藤蔵の身についている徳(得)というものである。つまり、芝居としてはもう為すことはないので、歌舞伎ならば丹右衛門と鳴海が刺し違えて落ち入るとともに幕にすれば済む。しかし、音曲の司たる義太夫はここに絶妙な節付けを配して、段切りという音楽的構造を組み上げるのである。なお、門外への場面転換からは序切跡と呼ぶべき部分で、その浄瑠璃五段構成における役割と意味付けについては、次の論文が参考になるが(人形浄瑠璃における「序切跡」についての考察―詞章内容および曲節の分析から―『藝能史研究』189号)、やはりここでも節付けは特徴的であり重要な意味を持つ。それが耳から聞こえて明瞭に理解されるところに、音曲の司としての存在意義があるのであり、このことが当段においても作曲によってきっちり踏まえられていることは、三百年の伝統を強く実感させられる。丹右衛門と鳴海が互いに死を承知の上で図ったことだったという事実が明かされ、股五郎と志津馬という当事者二人のために、この善にも義にもすぐれた両人が命を落とさなければならないという、仇討悲劇の一端をまざまざと見せつけられる後半は、今回三味線との相乗効果は実現しなかったが、少なくともつまずくことはなかったという点を涼としなければなるまい。越路や津に対し、伊達路や織が序切を勤めていた頃の充実感・満足感が懐かしくもまた悲しく蘇ってきた。
  丹右衛門の玉志は持ち前の実直さに、大分強さや力感などが押し出せるようになってきた。鳴海の文司は遣えているが、玉五郎の孫弟子だったと思わせるまでには至らない。

「唐木政右衛門屋敷」
  前段「郡山宮居」は省略であるが、呂大夫で聞きもしたとはいえ、大内記のニセ遊興放蕩の詞章を復活上演時に削除してあることもあり、ともかくも現行上演時間体制の中で通し狂言を実現するという観点からすると、半時間以上かかる一段の省略はやむなしと考える。
  この口はまたしても腰元の口さがない喋りから始まるが、武助の詞があるだけ序中よりは難しい。奴詞の訛と盆が廻る前の三味線べったりで腰元の卑俗を表現するところ、希と龍爾はまず出来たとしてよいだろう。
  中は蝶花形と別称が付き語り甲斐のある端場である。それは、とりもなおさずお谷の衷心衷情が描出されたかどうかで、真価が問われると言うことでもある。加えて前述の武助である。ゆえに、ここと「岡崎」の端場相合傘は若手ではとても勤まらないのであり、中堅それも次へのステップが見えているクラスが何とか出来るというものである。三味線の清志郎はその実力があった。お谷の腰元が居る間と去ってからの差、眼目蝶花形の地の処理と節付け足取りが意図しているところを描出する。太夫は睦で若手時代早くから期待が掛かり順調にここまで来たが、「姫戻り」「陣門」等の語り場に声柄はあってもまだまだ実力が伴わず浄瑠璃に聞こえない。今回もその延長線上にあり、お谷がやや軽く武助の詞は嵌まらず「お道理だ」「ごもっともだ」も頓狂、間や足取りも平板で活きていないしアクセント(張り裂ける)に問題もある。蝶花形は型枠をなぞって忠実だが魅力に欠けうっとりはしない。全体として面白くないというのはやはり平成浄瑠璃のストーリー至上主義の申し子と言うことか。故呂大夫がこの辺りを勤めていた時分、昭和後期の輝きが思い返されてならなかった。
  切場は咲大夫と燕三の受け持ち。次回は「岡崎」だろう。政右衛門はマクラで示される性根が、次の詞ではもう覆い隠され、後半「かなたこなたを思ひはかつて〜」そして「時には拙者が剣術を〜」まで不明(ということは、とりもなおさずこの2カ所は最重要ということ)となる。それだけに肝心なところ。「下女になっても〜」はお谷の真情描写。「役には立たずとも〜」と真実を知った五右衛門の心持ちの良さ。ノリ間からクドキそしてヲトシで収まるところの三味線。等々、これら押さえどころ聞き所が床本に○印を付けられていたということで、この床の評価は明確である。二段目はがむしゃらに押し通すことも浴びせ倒して乗り切ることもできぬだけに、相応の実力者による床は逆にまた面白さが倍増するのである。
  なお、この「唐木政右衛門屋敷」に関して、二十年以前に書いたものを「文楽補完計画」其ノ十二にあらためて上げておきたい。これは、この段を語るとき必ず触れなければならない古靱清六の奏演を基本として、一段を解析したものである。
  五右衛門の玉也は床を動かしたとまで言えるほどの造形。柴垣一役のみの勘弥はもったいないと言える出来であった。

「誉田家大広間」
  跡。咲甫と喜一朗。人形中心の場であることは否めないが、「郡山宮居」が出ないため、林左衛門とりわけ大内記の存在感(存在理由)をきっちり描き出しておかなければ、狂言全体を支える基礎が崩れることになる。林左衛門は陀羅助ではなく金時首である。卑賤にならず巨大な単細胞とでも言うべき人物を表現できた力量は高い。大内記は源太首の若殿である。才気煥発として善政を施し名君たらんとする意気もある。それが政右衛門を前にして、君たり臣たり。最後「ハヽヽヽヽ」の泣き笑いに、大内記の性根は見事に描出された。聞く者の胸を打ち涙を催させたことは、武士道という精神性もまた語り演じられたという証拠である。実に見事な一段であった。かつて槍にグラスファイバーを用いて柄も撓うほどの力を見せようとしたことがあったが、ブルブルと奇怪な様相を呈し失笑を買った。今回、そのような小細工はせずとも、勘寿のように遣えれば十二分にそれは伝わってきたのである。もちろんそれには床の力も大いに与っているとはいえ、この伝授場を見応えある一段に仕立て、気持ちよく休憩昼食へとつなげたのはさすがに年功であった。

「沼津里」
  前回も津駒が勤めたが、今回はとりわけ十兵衛が長足の進歩であった。平作については、老人だからと詞がゆっくりになると(「平作は千鳥足」などはよろよろともつれるのは当然)、浄瑠璃全体が緩くなりよろしくない。「エヽそんなら持たして下さりますか」の「エヽ」がどのような感情から発せられたものか等々、次回に期待する。太夫の声柄は耳に心地よいとは言えないものだが(悪声ともまた異なる)、不思議と違和感がないのは浄瑠璃義太夫節が身についている証拠である。もちろん寛治師の三味線に拠るところは大であって、それは例えば、十兵衛が平作の詞から肉親と悟りそれを気取られずに金を渡そうと再び話しかけるところなど、三味線を聞いているだけで十兵衛の心情変化が手に取るようにわかるというものであった。

「平作内」
  清治師の三味線を切場で聞けるというのはやはりうれしい。呂勢もそれに相応しい太夫へと成長していることと相乗効果である。西風三段目で渋く引き締まっているとはいえ、クドキは美しさを伴ったカタルシスであるから、「お米はひとり物思ひ」からはちゃんと独り芝居となり(平作と十兵衛は就寝中。「酒屋」でも三人が奥へ入ってからお園の独白)、一騒動あって後その訳を聞かれるままに話すことになる。もちろん観客も耳を傾ける。ここの簑助師が遣うお米にはまた得も言われぬ魅力があった。零落の遊女とはいえ「堀川」のお俊とは異なり、吉原で全盛の身を擲って志津馬と同道しているのである。顰みに倣うではないが、憂愁の美女には格別の妖艶さがある。すでに、前場の菊一輪を持っての出や「昔の残る風俗も」辺りから際立ち、「上手な娘の饗応に」の詞章が眼前そのままといい、あらためてその遣う人形の格の違いに衝撃を受けた。そこへ眼目のクドキである。文字通り惚れ惚れするものであった。床も、「先程のお話に金銀づくではないとの噂、灯火の消えしより、あの妙薬をどうがなと」の詞カカリ地と、他者視線から自己内省へと巧みに語り続けられるところなど、故越路師の相三味線で勤めた清治師と、呂・南部襲名からその先受領級までもと夢を見させてくれる呂勢とによって、浄瑠璃義太夫節の魅惑的面白さを味わうことが出来たのであった。その後も、「随分無事に、親仁殿」での万感の思い、「心に一物、荷物は先へ、道を早めて急ぎ行く」での三味線の妙、そして、急速調での千本松原への展開は観客を捉えて前のめりにさせ、それだけに雨音が効果的に焦燥感をかき立てと、三段目切場を三分割にせよ十全に勤めたことは、天晴れであり万歳であった。

「千本松原」
  「不思議に初めて逢うた人」から段切りまで浄瑠璃作者の筆は絶妙の究竟に至るが、それを実際耳へ届かせるのは床の仕事である。住大夫師そして琴瑟相和すに至った女房役の三味線錦糸による奏演に、涙を催さない観客はなかった。
  このように、床が万全であると、人形の方に安心して目を向けられる。今回はその型の意味についてあらためて考えさせられた。「血筋と義理と道分石〜踏み迷ふこそ道理なれ」はもちろん比喩であるが、それを平作の所作として見せるところに人形の本質がある。人形は人間を象徴しているのであって、人間そのものではない。生身の人間に近づくことは否定しないが、人形浄瑠璃は、床によって手摺が働くのである(力量の差により逆の場合もある)。浄瑠璃作者の手になる詞章を太夫が語り、舞台上で人形が動く。平作の心中描写だからといって何も動作に表さないというのは、浄瑠璃として破綻する。読本であれば、これは平作が語り終える時の衷情を比喩的に表現したものだと、その姿を思い描いていればよいのだが、このフシ落ちに収まるところは音曲の司たる義太夫節として眼目の一つなのである。そこで、人形はまさに「踏み迷う」ような型をしてみせるのである。それは短絡でもなければ浅薄でもない。人形浄瑠璃ならではの型なのである。そして、逆に言うと、そのように詞章は書いてあり節付けもされているということである。平作を遣う勘十郎は微に入り細に入り人間そのものとして人形を遣う時もあれば、このようにまさしく人形として超現実的に遣うこともする。そうでなければ、文楽は歌舞伎の人形版として見られるだけの存在になってしまうのだ。十兵衛の和生にしても、その神経の行き届いた遣い方は完全に文雀師の後継として文句ない地位に至ったことを示しているが、「心の掛け籠一重明けぬ十兵衛」の型に、やはり同様の人形芝居らしい美しく極まった姿を見ることができた。一歩間違うと表層を流れしまうものだけに、絶妙の技を必要とするのである。そして、これが歌舞伎で言うところの様式美とは異なるものだと認識されなければ、人形浄瑠璃を本当に見たとは言えないのである。

第二部

「藤川新関」
  ここまで道行もなく、しかも厳めしい関所に掛かっては、観客は気散じ(カタルシスではない)にも困り果てるところだが、それを知ってのチャリかがったしかも引き抜きで景事が入るという一段に仕立ててある。とはいえ、それを待ってましたの掛け声で迎えられると、そんなに通しが退屈なら二部から椅子に座ればよいではないかと言いたくもなるというもので、贔屓の引き倒しならいさ知らず、大向こうのつもりなら新築成った歌舞伎座で存分に願いたいものだ(ただし、顰蹙を買い追い出されても責任は取らない)。そう言えば、人形の出に拍手が起こることもいつの間にか定着してしまった。引っ込みの時には、詞章はもとより節付けもフシ落ち等の収束定型であるから、音に浄瑠璃がかき消されても問題はないのだが、登場の時にはマクラであったり性根を描出するものであったりと、床の奏演が妨げられることは、一段全体を乱すことにほかならない(もっとも、義太夫節を聞きには来ず人形を見に来ただけと言う客が現在では存在するかも知れない)。少なくとも昭和時代はそのような悪弊(敢えてこう記す)はなかったと記憶している。人形の楽しみはもちろんあるが、浄瑠璃義太夫節を聴くという姿勢が確実に三百年伝承されていたのである。今回など、出遣いの人形が出るたびに後方から高らかに手を叩く客がいた。こうなるともはやつまらぬ意地としか思えない。ところが、途中からそれがなくなった。人形浄瑠璃に引き込まれたからである。要するに、人形遣いへの応援でも何でもなく、勝手気ままで無意味な自己顕示に過ぎなかったのである(無論、当の本人はまったく気付いていないだろう)。国立劇場開場当時の、小劇場における人形浄瑠璃文楽公演の撮影記録を是非ともいくつか見ていただきたい。そして、そこでの観客の反応を現状と比較していただきたい。質(浄瑠璃義太夫節をわかっているという点)の低下は観客においても明らかであると認識するだろう。
  待ってましたは、しかしながら確かに待ってましたであった。引き抜きの万歳の方が床の力量相応であったのだ。新関所自体もチャリ場として見れば、三輪の詞は相変わらずうまく、始も浄瑠璃として聞こえるし咲甫も白歯の娘だが、三者三様の心情とその変容が明瞭に描き出せれば、引き抜き万歳は待たずして自然に寛げる場となったであろう。人形は、助平代役の玉也が前受けに陥ることなく性根を描き、太夫と才蔵も、勘市と一輔が遣ったと書き表してよい出来で、見ていて一息付ける(つまり安心できる)ものになった。

「竹藪」
  股五郎、林左衞門、眼八、政右衛門と男ばかりだが、それぞれ特徴的なカシラすなわち個性が異なる。語り分け弾き分けを声色にならずに行うのは若手に簡単な仕事ではない。靖は声柄にも合ってか上出来で、寛太郎も身についたものの大切さを感じさせた。小気味の良い床で、政右衛門関所破りの人形待ち合わせへ繋いだのは想像以上であった。

「岡崎」
  前場から続けると、色模様への変化が明瞭で楽しめるのだが、ここから二時間の長丁場ではトイレ休憩を入れざるを得ない。近代的劇場における観劇形態では仕方の無いことである。ここと「円覚寺」の中は語り甲斐があるところで、靖とこちらは芳穂が勤めるというのはやはり師匠の育て方がうまいのだろう(「蝶花形」は睦であるし)。若手から中堅への伸びどころはこの一門が占めているのだ。マクラの四段目風に意を用い、幸兵衛の堅さから女房の柔和へ、相合傘から生娘お袖の心を許したがゆえの積極性そして志津馬の色男振りと、雰囲気は出している。三味線は清馗。しかし、婆の台詞になると弱くへたるのはやはり声色から抜け出せていないゆえであり、ここで退屈を思わせては「お袖が意見の相伴」という気の利いた詞章も死んでしまい、何とも残念であった。口ではなく中なのは、次との顔が理由だけではないのである。
  『伊賀越』全段を通じていわゆるまともなクドキがあるのは、「沼津」のお米と次のお袖のみである。調子が上がってからは段切りの旋律に乗っているから思い入れはできないし、お谷は雪中の苦悩が眼目であって、「庭に転びつ這ひ回り」以下の節付けを聞けば、そこの愁嘆も後始末であることがわかる。その二カ所のクドキをともに呂勢が勤めるのは偶然ではない。現在の陣容において最適の配置なのである。公演前半に聞いたときは物足りなく感じたが、後半は満足のいくものとなっていた。純情可憐な真情が屈折なくまっすぐに迸っており、四段目風の装飾音といい開放的で、三段目のお米とはまた異なったクドキが聞け、このあたりもまた浄瑠璃義太夫節の魅力であり、美声の素人なら自ら見台の前に座ってみたいと思わせるものであった。次に眼八の一仕事がまた聞かせどころだが、馬方の卑賤さが不十分であったのはニンではないからだろう。間とか足取りは出来ていただけに。志津馬の出から幸兵衛との探り合いとなるのも惹き付けられる(人形「封押切つて老眼に」で書面を読みにくいから手元から離して見るところなど、勘十郎の鋭いリアリズム表現の片鱗)。老夫婦が声色遣いでなく確かに聞こえるのは中堅からその先が開かれている証拠。ヲクリ前の笑いからお袖そして志津馬へと至る詞章の変化は、節付と合わせて面白く(綱大夫弥七は絶品、南部錦糸もさすが)、このように肯定的に書けるところが、呂勢そして宗助の実力(浄瑠璃義太夫節の血肉化が感じられる)である。
  切場を嶋大夫富助が受け持つのは、現在第一人者であることを示す。「岡崎」で最初に退屈に囚われるのは師弟再会の場面である。直前捕り物の躍動感と比して、経過説明に聞かれてしまうからであり、ここは人形で保たすにしても単なる対面にならないだけの力量ある遣い方が要求される。そして岡崎雪降の段とも書かれる眼目の場面、お谷の出となるが、通しでここまで来ると観客の頭もぼんやりとして疲労感は隠せない。夜廻りを出すのもチャリで変化をつける必要があるからで、当地岡崎の法度を説明する役だからではない。ここでぼんやりと糸紡ぎ唄を聞かせては観客に寝ろと言っているようなものだが(山城は芸談で寝てもいいと言っている)、しんみりとした唄と象徴的な歌詞が内外に響き合う抒情は、対称形と雪降りを得意とする作者近松半二が描き出すものだけに(ちなみに、「岡崎」でいつも問題になる嬰児殺害については、安達原「一つ家」、廿四孝「勘助住家」と即座に例を挙げられるから、これも半二作劇法の特徴―伝説でもその要素の採否は作者に委ねられている―としてよいかもしれない)、客の全身を包み込んで浄瑠璃世界に引き込んでくれるのが不思議である。お谷の独白も「喉に熱湯内外に水火の責め苦雪霙」が実感されないとやはり説明になる(ここは古靱清六の奏演が凄絶)。ここからは先は動きもあるから、そのまま後場の幸兵衛の詞による一段の解きほぐしにまでするすると至る。はてさて、評判通りの大曲であるが、盆が回るまで引き付けられたのは実力の為せる業なのである。
  千歳が―今回の三味線は団七でこれは寛治・津ラインであるゆえ―切場後半を任されることも当たり前になってきたが、そうでなくては困るのである。彼の語りにおいてその造形性から作り物臭さが抜けたとき、切語りがところてん式ではなく待ち受けていることだろう。部分的に可否を評さないのは、今回そういう出来だったということである。
  人形は、幸兵衛の勘十郎が一癖ある手強さをよく表現していた。「もはやこれ限り只の百姓」との詞章を以て涙する爺となったが、「志津馬かたゞし余類の者か」と推察しても娘お袖を契らせたのであるから、やはり段切りまで侍気質が抜けていないとして最低限の涙に遣うべきではなかろうか。お谷は辛抱苦悩悲哀が二段目からひしひしと伝わった好演だが、岡崎まで訪ねてくるなり勘当受ける不義をしたりという、積極性や強さがその底にもっと感じられれば至高であった。あと、幸兵衛女房は柔和でわかりやすいが説明的過ぎるかもしれない。捕手小頭は存在感があった(文哉)。なお、文雀師のお袖については、遣うとか技とかの人為を越えたもので評言は控えるより他はない。

「伏見北国屋」
  五段目。この前に夕食休憩が入るので、「岡崎」で帰る客も多いだろうと思ったが、案外残っていたのは通し狂言ならではというものだろう。床の英と清介は初日随分淡々と、五段目であるからにはそうであろうがとまで感じさせるサラサラとしたものであった。この段の存在理由としては、敵討ち成就のための場所確定と十兵衛の死であって、後はどんでん返しとチャリ味により、ここまで芝居に付き合ってきた観客を慰めるというものである。しかしそのためには、それぞれの場面と個々の人物が生き生きとして際立つ必要があるのであり、公演後半聞いたときには、見事にそれが現実のものとなり、帰宅せず椅子に座り続けてよかったと思わせたのである。並の力では筋が流れていくだけでまるで面白くなく、あるいは夥しい登場人物を捌ききれず声色遣いに堕することになろう。ゆえに、切語りの実力ある者が勤める一段なのである。按摩導引は林左衛門だけでなく、大場「岡崎」の凝りをほぐすためにも有効であった。
  十兵衛の和生は伊賀越の一方の柱であることがよくわかり、五段目まで出してその最期を観客に見届けさせるだけの価値があった。前述のお谷とで書き出し格そして別書き出しへの近未来が見えたと言えよう。瀬川は遊女とはいえもはや世話女房であるが世帯じみてはならず、何とも安定のしない感じが一輔の遣い方に見て取れた。偽医者は動いても(紋秀)軽く遣っても(玉勢)、それぞれに若手として合格ラインは越えていた。

「伊賀上野敵討」
  丸本では芝垣も自害するし、孫八武助もここで討ち死にという、敵討というものの凄絶さ残酷さをこれでもかと描くが、それがなくとも股五郎に止めの刀を三人が刺すところで、軽く失笑が漏れていたのは、大序から大詰まで莫大な犠牲を払っての敵討成就が、このようなものであったのかという慨嘆の皮肉な微笑であろう。つまり、観客は『伊賀越』の本質をよく理解していたということになる(なお、手を叩いていた客もあったが、これもまたそうでもしなければ空虚なることこの上ないという心情からであろう)。したがって、上記の改変省略は咎めるに及ばないものとしたい。郡山の真剣勝負を今ここで見せるという政右衛門や、一対一では最後まで決着が付かない股五郎と志津馬など、それなりに面白く出来ていて、やはり通し狂言は大団円まで出すべきものであるとあらためて感じた。
  大詰まで出た人形について総括する。政右衛門の玉女は、これまですでに遣い方は大きく、型も極まり美しく、天晴れの立役と呼んでもよかったのだが、常に師匠の影を気に掛け、それにぴったり合うことを心掛けていたために、玉女の立役と呼べるところへは到達できていなかった。それが、今年正月公演のひらかな盛衰記は樋口の人形を見てこれはと感じ、今回の政右衛門で間違いないと思ったように、一つの完成形として出来上がったのである。玉女はいい顔というか嬉しそうな顔が見える時があるが、まさにその、力一杯どうだと大きく遣う人形、深刻に考えすぎず、近代的懊悩などとは関わり合いのない、よい意味で大雑把な人形、単純明快に芝居の主人公だと見て取れる立役こそが、玉女の魅力なのである。山城(古靱ではない)以降現在最高潮に達した、主知主義的矛盾内包的いわば辛気くさい近代人としての造型は、狂言綺語に恍惚となる大海へ沈めてしまう時がやってきているともいえよう(山城少掾に関する批評が、歌舞伎から入った人々によって好意的になされていることにも注意すべきである)。勘十郎(人形遣いとしての天賦の才はそれとして)の精細なリアリズムはそれと矛盾するものではないが、好敵手がいて名人が誕生するという意味で、緻密なことは勘十郎に任せ、大きく遠慮のないそして理屈抜きでカッコイイ人形を遣ってもらいたい。もちろん、故師の教えである床本を読み込んで性根を定めることは受け継ぎながら。次に、志津馬の清十郎はお坊ちゃんかつ色男であるという描出、大序と相合傘がよく、しばしば耳にする「こんなツマラナイ男のせいで、いったい何人が命を落とし悲痛な思いを抱くことになったか」との見方に至らなかったのは、その時その場の言動なり心情が、一人間の真実として伝わったからである。敵役の股五郎は、小団七のギラ付く感じを玉輝が存在感をもって遣い、なかなか討たれぬ狡猾さが大詰まで見えていた。林左衛門の文司は、金時首の調子に乗ると電車道だが結局一本抜けているという性根を、相応に表現していたと思う。武助と孫八という従者二人は、それぞれ気が働き有能な部下として勤務査定も高いであろう造型を、玉佳と幸助が文句なく遣い、次代の主役級たる地位を確かなものにした。
  今回、昼夜合計約十時間椅子に座っていたことになるが、疲労感はなく居眠りを催すこともなく、気持ちよく観劇できたことは、三業の実力が相応のレベルであったことを示していたと言えよう。睦月大阪は典型的なみどり建てだが、正月公演ゆえ致し方のないところであろう。もっとも、そうである以上は、屠蘇気分を台無しにしたり、餅も食わぬに喉が詰まったような結果にならないよう、くれぐれも願いたいものである。