人形浄瑠璃 平成廿六年四月公演(初日・19日所見)  

通し狂言『菅原伝授手習鑑』

第一部
「大内」
 通し狂言の場合に10時半開演が定着したようだが、好ましいことである。やはり大序が出なければ通しとは言えず(本来なら当然大詰まで出すべきだが、休憩時間を短くすることは客席での食事を建前上は認めていないから、難しいところではあると理解はしている)、発端の大悪時平を見せておかねばならないことに加え、詞章上も「この神未だ人臣にてまします時」とあることから、ここを聞かせねば物語はまったく始まらないのである。冒頭中国の古典を引いて書き出すのは三大狂言に共通しており、この小難しい詞章の解釈を聞き流して理解するのは無理であるから、格式が備わっていることが第一義的となる。そういう意味からも、初日亘と中日後咲寿はともによくそれを体現していると聞こえた。人物の語り分けに心し時平の左大臣たるも忘れず、両者互角の実力と言ってよい。続く小住はハルフシからの地が不安だが、詞とフシ落チはよいだろう。ここまで、三味線はこれと言って聞き分けてコメントするに該当するものでもなかった。天蘭敬からは靖、ワンランクのレベル差がある。浄瑠璃が血肉化していると表現するには早すぎるが、それほどに不自然も不安もないのは、若手を脱して中堅格としても問題ないほどである。それに配する三味線の寛太郎がこれまた血肉化の旗手であり、この床が続く地ノリを不即不離で足取り・間もよく奏演したものだから、大序にして早くも浄瑠璃義太夫節の面白さが体現され、ヲクリの処理から時平の詞まで、大序を抜けるとはこのことかと感じさせた。トリは希と龍爾、希はこれまで素直だがあまりに平板すぎたが、今回は長足の進歩(道真の詞「洩れしはなし/それとも知らず」のカワリ等)で仰天。靖と組まされても先を越された印象があったが、これなら今後ともよきライバルとして互いに切磋琢磨しつつ稽古精進、更なる上達が楽しみというものである。このことはまた、三味線にも当てはまるので、大三重までの具合は師の鋭さも継承しつつ有望株で、寛太郎とともに楽しみな二人である。
 人形はそれぞれに性根を踏まえるが、時平の大悪が猪首気味でやや卑近に見えたのは如何であったか。

「加茂堤」
  掛合。一人で勤めると人物の語り分けを中心に実力が如実に示されるところ、それ故に掛合での処理もしやすいということにもなる。三兄弟は、三段目で父親白太夫が評した如くで、まず人形(勘十郎、清十郎、文司)に眼前それが表現されており、三輪、始、津国もうまい割り振り。与勘平と若男カシラもそれに続く。娘カシラの姫は太夫に作りすぎの嫌いはあるが難ずるには及ばず、同じく八重は人形も太夫もやや老けた感じで、三段目切場で感じられた清楚さ可憐さが応えなかったのは残念である。段切も詞章の悪縁綴りが届かなかった(初日「お手水」の誤読は直ったが、それはそもそも目から入っている証拠である。浄瑠璃シャワーを浴び続けよ)。三味線は掛合専門(太夫陣も固定化しつつある)のような団吾だが、きっちり捌いて破綻なくまとめた。段切の情緒が出るよう(人形も同断)太夫を導いてももらいたい。

「筆法伝授」
  口を靖・龍爾。儲け役の希世はそれとして(と言っても詞ノリなど並大抵ではない)、御台所の衷心衷情が伝わりしみじみとさせられたのには驚いた。これは、敢えて工夫したというのではなく(もちろん心してはいるからだろうが)、節付けがそうなっているのを素直に語り弾いたからであって、そうなるためには浄瑠璃義太夫節が文字通り血肉化しつつあるということでもあるわけだ。中日からは希・寛太郎に変わったが、こちらも同断。とりわけ、「伝授も過ぎて聞き給はば」以降とヲクリを「続いてェェ/」と語った(「続いィィ/て」ではなく)のがよかった。
  切場は津駒を寛治師が指導する。マクラなどを聞くと、切語りというものは二の音そして一の音が腹に座ってどっしりとしなければいけないのだとよくわかる。津駒はまだまだ苦しいが、それでも応えるものはあった。かつてのどちらかというと美声家に属していたものが、ここのところ切場格を勤めるようになり、むしろ難声に傾いたかと聞き続けていたが、不思議なのはそれがマイナスには働かずプラスに作用していることで、すなわち、浄瑠璃義太夫節としてこなれてきた=血肉化の現れとして聞こえるのである。菅丞相の位もわきまえているが、源蔵の嘆きと終結部の夫婦と御台所との別れの悲嘆がとりわけ印象的であった。もちろん、これらは寛治師の三味線あってのことなのは言うまでもなく、例えば、前半戸浪が御台所へ不義追放後の有り様を述べるところの足取りや間など、筆舌に尽くしがたいものがある。是非とも耳にとどめておくべきである。この序切は、浄瑠璃五段構成においてその発端、善人側の貴人が危機的状況に陥るという場面であり、単に前振りや状況設定というのではなく、全体の骨格を決定する重要な切場である。ここがつまらないと、いわゆる見取り建て狂言の跋扈を許してしまうことになるのだが、今回は「通し狂言」が如何に面白く浄瑠璃義太夫節にとって(ドラマツルギーにおいては当然として、音曲的な意味からも)本質的であるかを、よくその奏演によって感ぜしめたという点で、津駒は次の切場語りとしての免許状を手に入れたとしてよいであろう。寛治師に弾いていただけるのは、故津大夫の弟子であることも大きい。今後は自己の完成はもちろん、この師系統そして彦六(近松・団平)系統にも意識して、研鑽と責任を積み重ねてもらいたい。

「築地」
  序切跡というのは、他段の跡(文字通りアト始末)とは異なり、主人公側が危機的状況へと急展開を迎える中、忠臣が悪側に一矢報いて今後への希望を持たせるという、客席に座っていても独特の高揚感のする所である。若手でも有望株が勤め、三大狂言にのみ使われる三味線の合の手も存在する(具体的には「築地」の場合、「斬り捨て斬り捨て(合)危い場所を盗人夫婦」)。睦・清志郎はその意味からも最適のコンビであった。太夫は一杯に勤めて力感あり、舞台に引き込む語りであったが、地ノリ詞ノリはもっと工夫があろうし、「心得たかき」の掛詞の処理や、「胸は開けど開かぬ御門」は強さの中に無念の心情描出など、まだまだ稽古稽古である。三味線は一言で評すとよかったとしてよい。前述の合も初日は不十分だったがその後はきっちり弾かれており、日々是稽古の精神が体現されている。このコンビは現在いわば若頭の地位にいるが、若手が急伸する中で安閑とはしていられない(もちろん懸命であるが)。中堅格へのハードルを早く越えてもらいたい。
  初段の人形陣は、それぞれが性根を踏まえて満足のいく遣い方をしていた。敢えて言うならば希世はつい悪乗りしてしまいたくなる役だが、玉佳は存分に遣いながらもその弁えが判然として実に好ましい。局は別に何をしなくとも格を出せばよいが、希世の苦言に顔を背け気味に迷惑感を出したのは工夫であるが、遣い過ぎとなるギリギリのところ。今後とも注意して見ていきたい。それにしても、菅丞相に御台所、源蔵夫婦に三兄弟などを見ていると、安定感があってよく映り、世代交代は人形陣においては上手くいったとしてよいと感じる。国立文楽劇場30周年記念三大狂言の通しという名目にも劣ることなく、緞帳の松の如く見事立派に成長したと感激もした。

「杖折檻」
  二段目、「道行」と「安井汐待」は上演時間の関係で省略。客席観劇中は飲食禁止であるから、昼夕食の時間を確実に確保するにはやむを得ないところ。NHKからそれらを収めたDVDが出ているので、是非とも視聴しておきたい。とりわけ、「汐待」は「杖折檻」での姉妹のやりとりに直接関わるところ(表現技巧や節付にも聞き取れる)で、故呂大夫と若き清治師による素晴らしい奏演であることも含め。
sugawara03.htmを参照されたい。
  マクラの語り分け・カワリ(五、六変)、立田前の詞を聞いただけでその実力は分かる。呂勢と清介。苅屋姫は地、立田前は詞という性根を見据えた節付けも判然。これは「汐待」から丁寧に本読みがされている証拠でもある。宿禰太郎も声柄ではないが陀羅助首が嫌みではなく苦みに映り、かつ剽軽なところも描出されていた。とはいえ、「杖折檻」という段書きの通り、この一段は覚寿の出からが眼目である。「打たるる姉妹〜荒折檻」は初日は今ひとつ応えなかったが、二度目は素晴らしく心に響いた。ただ、覚寿の詞ともう一箇所の聞き所「持つた持つた〜声限り」は、老母の悲哀が映るにはまだ早いこともあり、届いてはいるが深く入り込むまでには至らなかった。しかし、この一段はこのコンビしかあるまい。東風の節付けがピタリとはまり、摂津大掾の再現さえ期待されるのであるから。今後とも楽しみにし続けたい。

「東天紅」
  咲甫・宗助。宿禰太郎をしっかりと捉まえているので、全体がぶれず納得のいくもの。かつ、動きがあって儲かるところもきっちり決算していた。ただ、土師兵衛の造型が虎王首ではなく一般的な舅で、悪巧みの親玉という印象が薄かった。これは、ある程度身分があるから、卑俗で醜悪になってはいけないということであろう。しかし、この虎王というカシラはもともとその身分も含めたものなのである。例えばこの土師兵衛に板垣兵部や斧九太夫、七太夫あるいは五右衛門など、すべてそうである。つまり、ある程度の身分があるゆえに悪巧みをする性根が、卑俗醜悪的印象を招くわけで、身分を出すために卑俗醜悪を避けるというのは、本末転倒なのである。加えて、前段「杖折檻」と後段「丞相名残」での土師兵衛の造型には共通性継続性が感じられたから、余計に不釣り合いな浮いている感覚を持たざるを得なかったのである。とはいえ、これも自然に映るにはベテラン三役格の経験が必要なのであり、強烈な印象付け等の前受けを狙わないのが王道なのである。

「丞相名残」
  大曲であり難曲。今回あらためて思い知らされた。しかし、面白くもあり胸にも応え琴線にも響いたから、然るべき者が勤めれば作品は満足に再現されるのである。今回は咲大夫・燕三が担当するが、現陣容において他は考えられない。段切の一音上がってからが「丞相名残」であるとすると、この一段はバラバラに空中分解してしまい、前半の殺人事件始末と木像の不思議が終わってしまうと、ひたすら長く感じられ「暫時の睡眠」もしてしまうことになる。それを防ぐのがこの一段における通奏低音、すなわち「丞相名残」という別れの悲哀なのである。これは旅立ちとも違う、冤罪により島流しにされる丞相、これが永遠の別れとなるわけで、義理ゆえにこそ思いも深い丞相と苅屋姫、その衷心衷情をよく知る覚寿そして輝国と、すべてはこの別れの悲哀に収斂されるものである。もちろん、そこには節付けをきっちり奏演するという必要条件があるのはもちろんであるし、相三味線ということも問題になる(山城少掾の「道明寺」は決別に至る清六との冷ややかな齟齬が録音に感じられ、個人的には総合的に第一番の無類かつ理想の奏演とは認められない)。これら、二段目切場の王者たる「丞相名残」を下支えする要素が備わっていたと、咲大夫・燕三初役に聴いた。白木に銀紋の見台がそのまま映える床であった。この一段、まず覚寿を押さえてあるから、前半部の劇的進行はもちろんのこと、流罪の途中に立ち寄ったがために起こった悲劇と丞相が述べる、その覚寿の悲哀・憂愁も届くわけである(琴線に美しく響くとまでには至らなかったが)。続いて、丞相の木像因縁譚になるわけだが、往々にして単なる説明になる恐れがある(聞く方もそうだ)。道明寺縁起に収斂するために、あの高低強弱幅の大きく、詞から地までを駆使した節付けになっているのであるから、その音曲的処理と神秘的雰囲気とを以て、劇中物語が今の世に顕現する浄瑠璃というものを、語り弾く必要があるのだ。ここまではさすがに咲大夫が燕三を引っ張っていた感が強かった。そして段切である。丞相以外の足取りと間を早める処理は、最後へ来てもたれさせては元も子もないからである。そして、縁語(香、袖、鳥)による詞章の綾を上滑りにならないよう、丞相の後ろ髪引かれる思いの美的修辞として奏演しなければならない。大三重や裏六法もその延長線上になければ、重くもたれるだけの長ったらしい印象を与えてしまうことになるのである。この文字通りの丞相名残は、燕三の三味線がなかなか師匠譲りの捌き方で琴線そして涙腺に触れ、大曲・難曲を見事終焉させたのであった。
  人形陣。丞相の玉女は木像との遣い分け等はもちろん、動けない人形をよく遣い、床の表現によく相対して、故師の得意とするところを及ばずとはいえ破綻無く勤めたのは、いつ二代を襲名してもおかしくないと思われる。覚寿の和生は、初日にはまだ心情表現に甘さが感じられたが、二回目は強さも出て悲哀もにじみ出せていた。これまた師の二代にふさわしいと言ってよい。輝国の清十郎は清々しくてよく、立田前の勘弥が姉役のツボを心得、土師兵衛の勘寿がしっかり見せて脇固めをするという、二段目でも世代交代は確立していたと見た。宿禰太郎の玉志は昨年度からめっきり頭角を現してきたが、今回も憎めぬお調子者が悪父(もちろんこれも大悪時平が根源である)に巻き込まれて自滅するという、「不憫な死に様」の詞章に終わる性根(ある意味とても遣い辛い)を、前受けに走らずなかなかに遣って見せたのは、故玉男師の弟子として、ついにその花を開いたかとうれしく感じた。それ故に、柝頭が決まらなかったのはいかにも残念無念であった。

第二部
「車曳」
  歌舞伎の影響を受けたとはいえ、音曲的側面からの面白さは減殺されていない。それは、DVDに収められたあの歴史的決定的奏演を視聴すればわかる(公演記録映画会のそれにも当てはまる)。今回は、及ばずとはいえここ二十年来では最上位としてよい仕上がりであった。まず、三味線の清治師である。この一段はソナエで始まり上手から梅王下手から桜丸の出、節付も含めて景事的要素があり、立端場としての面白さに加えて、華麗に聞き映え見栄えもしなければならない。もちろん、三兄弟と時平の性根(桜丸は心情も)を描出するのは当然のことである。やはり、切場を弾く第一人者の三味線であればこそだ。太夫も英、津駒、呂勢に松香で固め、三段目切場の引退狂言をも考えての布陣である。大関関脇格そろい踏みといったところ。これでこそ満足のいく一段に仕上がるのである。杉王の咲寿と小住も詞を中心に大きく通っていた。

「茶筅酒」
  ここのところ千歳の持ち場となっているが、今回は団七の三味線でそれなりに仕上がっている。しかし、「春先は在々の鋤鍬までが楽々と遊びがちなる一物作り」から始まる雰囲気は、作られてはいたが自然ではない。それこそベテランが「楽々と遊びがち」に勤めてこそ映える一段なのである。伊達、小松、相生、現陣容なら松香であろう。もちろん、最後の白太夫の詞「ここで」「気が付いて」に、桜丸切腹がすでに悲しみとして予兆されているなど、実力が切語り一歩手前なのは判然としているのだが、白太夫が映らないというよりも、十作や嫁三人のやりとりに現代的ドラマが演じられているように思われた。これは、むしろ褒め言葉のように受け取られるかもしれないが、どうも心底から快哉を叫んだり盆が回る際に手を叩いたりする気にはならなかった。上手い(巧い)大夫だけに、便利に使っていると大成を妨げともなるのではないかと心配する。なお、初日は十全だった声が二度目には痛めていたのは、「寺子屋」一段の代役を勤めていたからであろう。またしてもいつもの千歳である。これでは、本役として切場一段など到底任せられないではないか。きれいに語る小さくまとまるなどというのは義太夫節ではない、しかし、筒一杯に声が割れようとも全力で勤めよというのは中堅に至るまでのことである。次代の光には影も伴っている。何としても輝かしい切語りとして襲名披露を行えるようであってもらいたい。

「喧嘩」
  文字久が師匠引退の切場の前を勤めるので、今回は咲甫が喜一朗を相手に語る。段書き通り梅王と松王の喧嘩が面白く力感あり。「共に呆れて手を打ち払ひ」からの変化と足取りも出来て、盆が回ると次が切場というヲクリまで、三味線ともども中堅陣としての仕事を実力通りに聞かせてくれた。

「訴訟」
  文字久は藤蔵に弾いてもらうと、自身の真面目だが面白くない、とりわけノリ間や段切における高揚感の欠如(聞く者にとっての)が、補われるとともに全体としてのバランスがとれ、彼の良さも耳に残るようになる。不思議なものだ。やはり、太夫は一人前になるまで格上の決まった姉さん女房に導いてもらう必要がある。白太夫の詞「ヤイ馬鹿者」が映らないとか、八重の「心当てが皆違うた」の高低がおかしい(二度目は正しく修正されていた)とか、いつものというかこれまで通りの文字久がやはり顔を出すが、なるほどいずれは西風の三段目切場(ということは座頭?!)を語るようになるのだろうと、自然に耳へ入ってくる浄瑠璃義太夫節であったのは、師匠引退後の重責も、幾分かはすでに担い済みだと安心もしたのである。終わり近く「千代はさすがに〜袂絞つて出でて行く」の魅力的なことにハッとしたが、これこそ三味線藤蔵ならではであって、昨秋「円覚寺」(『伊賀越』)の段切を思い出し、やはりなかなかよいものだと感心もしたし心地よくもあった。

「桜丸切腹」
  引退披露口上がないのは流石である。余力を持って後進に道を譲るのなら(四代越路など)ともかく、他の太夫ならこの期に及んで、何が何でも晴れ舞台を用意したことであろう。やはり、住大夫師匠は大したお方である。その至芸については今更何をか言わんやであるが、三兄弟の末弟桜丸ではなく「舎人桜」とあるその詞。白太夫と八重の泣きは「沼津」千本松原での十兵衛と平作の泣きとともに、過去現在未来においてその右に出る者なく歴史に残る。錦糸を相三味線に迎えここまでにした功も絶大である(その錦糸は秋以降誰を弾くのか注視したい)。平成の太夫と言えば、住大夫。その名はここに刻まれた。
  三段目の人形陣。簑助師と文雀師に関しては、住大夫師引退公演に相応しいの一言に尽きる。一時代を築いた舞台であった。阿吽の呼吸とはこういうのを言う。白太夫の玉也はそのカシラを見事に体現した遣い方であった。世話物久作にも使われるこのカシラは、剽軽軽妙さと慈悲を特徴とし老人の頑固一徹の面も持つ。本作でも、茶筅酒−喧嘩−訴訟−桜丸切腹とその性根が遺憾なく発揮されている。近年の人形はともすれば人間に近付こうとするからか、動きが控え目になる傾向があるが、あの玉男師でさえ老成以前の動く人形は公演記録にも明らかであり、玉也の故師玉昇はとりわけその天性の動き(それ故に巧みすぎて深みに欠けるとも言われたが、そう言うのは人形芝居の原点を忘れた現代日本人の悪癖であるとも考えられる)が唯一無二であったから、今回の白太夫を見ているとそれと二重写しになり、勘十郎−玉女の書き出し別書き出し格とは一線を画す中軸一字に収まる重要な位置にいることを再確認した。もちろん、桜丸切腹に対する心情はよく伝わり、「唾を呑み込んで」の上手屋台入りの表情など、ハッとさせられた。段切の処理(というものがどういう意味を持ちそのためにどういう節付けがされているかの理解も含め)もまた実に見事であった。三兄弟は、松王の勘十郎がやはりその細部までよく考えられかつそれを体現できる遣い方と型の美しさに脱帽。梅王の文司は地味だが堅実な長兄の存在感を自然に描出して実力を感じさせる。桜丸の清十郎は優男ながら初段と車曳で目立って見せる主役級の働き。時平の玉輝も大きく威厳有り。十作(簑二郎)に杉王(簑紫郎)はいずれ各段の中心的存在として頭角を現すはず、その片鱗が感じられた。三人の女房はやはり春の勘寿が安定しており、千代の清五郎は控え目、八重の文昇は老け気味であった。

「天拝山」
  三段目の頂点を堪能して休憩。その後に菅公の物語が完結する。天神縁起である。しかし、観客はほとほとくたびれを感じている後だから、骨休めの序が必要である。冒頭の三下り唄はその絶好の仕掛けで、もちろん流罪の憂き目はマクラで触れるが直ちに鄙の在郷気分となる。ここからまず、英と清友の床がピタリとはまる。何の苦も無く物語に引き込まれるのは、この両人がすでに幹部クラスに達しているからである。白太夫のカシラ相応の鄙野と丞相の気品が表現され、梅王と鷲塚の対比も鮮やかで、それは観客の反応にも明らかであった(「牛の講釈モウ仕舞い」「新らしう助かる様に」など。これはまた従来の関西(大阪)中心の客層に比して東京の観客(三宅坂での反応に類似。そういえば人形の出に際しての無駄な拍手も少なかった)が多かったことも示している)。飛び梅の縁起も出来てここの間と足取りがまた格別良く、いよいよ人間丞相が天神となる「三大怨霊」の恐ろしさも、「梅の名作御手の内」で客席に居ながらゾッと驚いたことで共有された(ここは人形と下座の貢献度が高い)。最後は大音強声とは至らず三味線も激しい叩きへは物足りなかったが、そこは人形との三位一体に下座や道具方音響方の効果抜群で、総合的に満足度の高いスペクタクルが劇場一杯に展開されたと言ってよいだろう。道行が無い中でこの立端場は、三段目から四段目へ変わる重要な一段であると再認識した。なお、続いて「北嵯峨」の段があり、ここもまた聞き所の多い魅力的な小段であるが、時間の都合で上演されない。また、八重の最期が描かれているので、ここが出ないということは大詰「大内天変」も出せない。実は、桜丸夫婦が主役である『菅原』ということが、「道行」「安井汐待」の省略もあってまったく観客に理解されないのは残念な限りである。幸いNHKDVDにはこれらすべてが収録されているので、是非とも視聴ありたいところである。国立劇場開場当時の人形浄瑠璃文楽がいかに素晴らしく、確かな伝承(口承の伝統芸能とはどういうものかにまで考えが至る)に基づくものであったかも知ることができる。なお、この一段に関する解説は以下の通り。
sugawara04.htm

「寺入り」
  若手の登竜門。芳穂が清馗と清丈の交替三味線で勤める。この人の語りは明るく開放的で伸びやか、莫とした大きさもあるから、四段目なり東風なりによく合う。将来的には麓太夫風(「尼ヶ崎」等)とか期待しておきたい。女二人の語り訳ができて、千代の愁嘆も胸にあり、合格だろう。「一筆啓上候べくの男が肩に堺重」などのカワリでハッとするような語りになれば、中堅格も目と鼻の先となるであろう。三味線はともに安心して聞けた。

「寺子屋」
  嶋大夫・富助。このコンビは嶋大夫の切語り就任に際しての「十種香」が素晴らしく、それ以来気に掛けていたが、今回の「寺子屋」もベテランのツボを押さえた浄瑠璃とはどういうものかを聞かせてくれた。うーん流石だと一段聞き終わって唸らざるを得なかった。それは、確かに声の衰えは如何ともし難いが(富助が女房役としてうまく支える)、前半部首実検の緊迫感と後半部夫婦の愁嘆から以呂波送りへの収斂と、西風から東風への転換とともに、「寺子屋」の眼目を捉えていたことによる。切語りとその相三味線とは、こういう実力者を指すのである。さて、二度目は代役で千歳が勤めた。彼も富助との相性は悪くない。しかも、英・津駒に続いて三番手の切語り候補である。加えて、昨年12月の東京国立以来、一段の進捗を聞かせているから、今回の代役も期待を持って客席に着いた。結果は、端的に言うとそれなりであった。千歳ならこうだろうという意味である。印象としてはピアノフォルテ法とでも言おうか。強弱の差が大きくとりわけ強いところが耳に付く語り。それ故に人工的な作られた浄瑠璃義太夫節という印象になる。別の表現をすれば、現代的ということにでもなろうか。封建時代のしかも伝統的日本音楽を「いまここ」の日本で再現するとなると、作り上げるしか仕方ないではないかということである。もちろん、千歳が越路師匠を始めとする口承をしっかり身につけていることは間違いないし、心情も十分掴んでいるのであるが、例えば今回のを白黒にして昭和四、五十年代の公演記録映画会に混ぜてみると、必ず違和感を覚えるであろうという感じなのである。もっとも、そんなものはお前に限った個人的な僻聞きであると済ませられれば、それに越したことはないのだが。加えて、声を痛めていたというのも以前に戻った感じで、「茶筅酒」と二段、それも「寺子屋」は前後半丸ごかしであるからには、全力で語ればそうもなろうと擁護する訳にもいかない。なぜならば、切語りというのは、その大変な一段を初日から千秋楽までごく普通に(と見える聞こえるほど自然に)語り通すのであるから。とはいえ、前後半通しての「寺子屋」は紋下の勤める格であるから、これといった破綻無く勤めた(富助の力が大である)ということからも、その実力を高く評価しなければならないのは当然のことであろう。それでも、劇場からの帰り道にニヤニヤできず心奥に一抹の雲がかかったごときであったのは、事実なのである。場合によっては、呂勢や文字久の後に千歳を置いてみなければならなくなるのは、瑕瑾というよりも決定的な何かがあるような気がしてならない。
  四段目の人形陣。紋寿の千代はかつて濡衣でも見せた悲しみの中の女という描出が見事で、ここでの一役で客席を堪能させた。菅公の玉女は梅花の火焔や巌上での祈誓など、もっと激しくもっと動いてもと思われたが、これほどの菅公が遣えたのであるから、故師の二代目を襲う者として不足は無い。現陣容に於いて、立役肚が出来ている人形遣いである(白太夫の玉也については三段目で述べた通り、梅王の文司も初段三段目に同じで、ともにカシラ相応の存在感を示した)。松王の勘十郎は、人間松王という言い方に尽きる。一子小太郎への思い、首実検では三箇所に明確な描出を見せ(首打つ音、首桶を閉めた後、駕籠に乗る前)、再登場して本心を吐露するところは、衷心衷情からの泣き笑いであった。ただし、首実検の三箇所については底を割るという意見もあろうし、武士の覚悟が弱いと見なされることもあろう。源蔵の和生、身代わりの懊悩とそれに起因する不機嫌そして首実検の緊張と、もはや持ち役の域に達しており、戸浪の簑二郎もよくそれに応対して的確に捌いていた。夫婦眼目の一つ「せまじきものは宮仕え」は、そこまで強烈な印象を持たなかった。春藤玄蕃は丸目かつ図体のでかい金時カシラの性根を掴んだ幸助がやはりうまい。この人も次代を背負う一人である。なお、時々問題となるよだれくり(若手が儲け役だと前受けを狙って床の邪魔となったり性根を踏み外したりさえする)に関しては相応で、一部ツメの子役(岩松)を二度目見た際に鬱陶しく感じもしたが、木みしり茄子だから許容範囲だろう。
  全体を通して、やはり通し狂言こそ時代物浄瑠璃の真髄だとあらためて感じた。また、そう感じられたのは三業が作品に位負けをしていなかった証左でもあり、住大夫引退の興行として恥ずかしくないものであった。世代交代が実現していることも実感し、平成の人形浄瑠璃文楽は新しい次代へと歩み出せるであろう。