人形浄瑠璃文楽 平成廿七年一月公演(5日・17日所見) 

第一部

「花競四季寿」
 後の演目を見ると、景事以外は実質「毛谷村」だけだから、正月公演として「万才」と「鷺娘」だけとし、『彦山』に「須磨浦」などを付けて充実させるべきではないかとも思うが、『彦山』は半通しもずいぶん出ていないから、ここで中途半端にお茶を濁すよりも、初春みどり狂言と割り切った今回の建て方でむしろよいのかもしれない。しかし、このまま『彦山』をいつも「毛谷村」で放置できるほど、観客はもはや見巧者でも聞き上手でもないのだから、今後長期的スパンで狂言建てを検討しておいてもらわなければなるまい。
  とはいえ、本公演の出来は春夏秋冬すべてを扱うに足る素晴らしいものであり、三業によるこの成果を念頭に置いて狂言建てをしたというのであれば、企画制作側の深謀遠慮には恐れ入るしかない。初回よりも二週間経過した後の方が、太夫と人形陣の練度が上がり、公演記録映画会で取り上げてもよいほどのレベルに達していたのは、中堅若手の弛まぬ稽古(努力と精進)の後が感じられ、気持ちよいものでもあった。新春を言祝ぐ出し物としても大成功であったと言えよう。
  「万才」は、溌剌として清新な床に、伸びやかさも加わって聞こえたのは、三味線シンの清治師指導の下、その薫陶を受けるシテ呂勢の一段の成長を現してもいよう。「関寺小町」がとりわけ印象に残ったというのも、次代の切語り(声柄からして「四段目」だが、義太夫節が血肉化して「風」等にも留意しているから、「二段目」も大いに期待したい)として大成する過程に確かにある証左であろう。ワキの芳穂そしてツレの靖と、嶋大夫の弟子が続いて語っていくのも印象的であった。もちろん、ツレの希も同レベルである(咲寿は豆喰いというのは失礼だが安心して耳を傾けるには至らない)。三味線も二枚目宗助以下よく揃っており、「鷺娘」が最もよいと感じられたが、これはシンの飾り撥が活きていたことからも肯けよう。人形は、才蔵の一輔が前受けにはならずに道化方(上方漫才で言うとボケ担当)をうまく遣い、対するに太夫の玉佳は、これまではその道化役に見どころを発揮していたのだが、初見時に若男カシラにしてはぎこちなく生硬な箇所があり、舞踊劇としてはいただけないと見たが、中日過ぎには鍛錬の成果か自然体に遣っていたのは評価できる。次次代の立役候補としても楽しみにしたい。
 「海女」は、観客としては最後に蛸が登場してから目が覚めるのだろうけれど、主眼はもちろん中盤の恋ゆえの物思いであり、そして前半の風景描写がそれに関わって重要となる。マクラからは季節の移ろい(初夏〜)を花を題材に仕立ててあるが、「誰にか見せん…色深く莟を」とあり、足取りと節付を聞けば、ここは恋しかも海女という下々の恋が主題である。その季節が夏であり、大道具は夜の海であるから、聞く者は夏の宵、日中の蒸し暑さが浜風によってやや収まったかという、気怠く物憂い雰囲気の中へ身を置くことになる。もちろん、恋には激情もあるわけで、それは打ち寄せる波音と月の出に叢雲の描写によって象徴的に表される。聞く者の胸も轟くわけである。ここは太夫陣も十分だが、やはりシンの三味線が色気ありそして波音も見事に聞こえてくるという、妙音であった。人形の簑二郎はこの恋の気分を見せるには物足りないところがあったものの、蛸との戯れは的確な遣い方であった。その蛸は、もちろん妖艶さを引き出すための触媒であるが、あの表情といいむしろ可愛いゆるキャラのようであったのは、現代日本の観客に合わせてあると解釈してよいだろう。
 「関寺小町」は本狂言の中心であり、景事ながら至難の箇所である。そこは文雀師を配して万全の態勢で臨む。婆だからよぼよぼよろよろと遣っていれば事が済むのならお安い話だが、それでは、晩年を関寺に暮らす零落した美女小町にはならない。冒頭は文屋康秀との著名な贈答歌をふまえ、それだけで早くも衰えが身にしみる。悲哀、憤慨そして恥辱と千変万化する感情を、文雀師が活写する。中でも、盛者必衰の理に愕然として恐れ戦くところは絶佳である。そして、恋ゆえに狂う心を昔日の姿に回想して見せるのは、若々しい魅力が深奥から滲み出ていた。最後、ウタイで消えるのもまた哀切であり悟道の歩みにも感じられた。三味線がそれと終始相和していたことは言うまでもないが、それはまた清治師の円熟を示すものでもある。呂勢は二回目に聞いて、それらの情感が乗るようになっていた。慎重に丁寧に語っていただけではどうしようもないからだ。しかしながら、このようにまで語れるということは、切場が見えてきたということでもある。二月東京はついに「楼門」である。正月にこれだけのものを聞いただけに、大いに期待したいし楽しみでもある。
 「鷺娘」は前場から一転するのと最終であるから、急速調かつ華麗に締め、この床にもっとも映える。人形の清十郎は出のモノトーンが印象的で、春待つ雪景色に舞う白鷺姿の娘を美しく品良く遣う。二本の傘の遣い方などは、例えば勘十郎の巧みさなどには及ばないが、派手ではないところにこそ白という色が象徴されているとも感じられるのである。これを見ていると、木の精であるお柳も見てみたいと勝手に四月大阪の人形割りを考えてもいたのである。
 この後、正月恒例の手拭い撒きとなるのだが、今回は大抽選会になっていた。劇場側の言葉を借りれば、三十周年記念で例年の倍の数を出すのでということであったが、撒く時間が倍になってもたいしたことはない。思うに、これは客席の位置によって撒き手拭いが到底届かないことへの配慮(苦情)であろう。座席番号の列が全列当たりの籤を三回引くところからも、裏打ちされるところである。正直、三宝に載せた手拭いを撒くというのが、いかにも正月公演の目出度く華やかな雰囲気と合致していたから、むしろ倍だからこそ派手にばらまいてほしかった。実際は三回籤を引いてお終いというのは、大ではなく小抽選会であった。無論、この大小は撒かれる手拭いの多少とは比例せず、籤引き回数そのものの多少と関係することは言うまでもあるまい。最初大いに期待させ、ドキドキワクワク感が高まるや、たった三回という結果を知って、苦笑する客がそこここにいたのも大いに首肯されるのである。次回の改善を期待する。ちなみに、咲寿はこういうイベントの進行役を務めさせると実にうまいしピッタリ来る。イケメンでもあるし、新たな女性ファン層を開拓するには、こういうところも必要であるかもしれない。文楽ジャニーズなどは甚だセンスが悪いが、若手技芸員ならうまいキャッチコピーとかも考えられよう。もちろん、芸が第一で、あくまでもアピールの一手としてではあるが。

『彦山権現誓助剣』
「杉坂墓所」
 掛合である。ここのところメンバーも固定している感があるが、それはそれでやる気を持って励んでいるから、蔑視とも卑下ともまったく無縁である。加えて、毎公演必ず掛合の場は設定されるから、むしろ必要不可欠な存在と言ってもよいだろう。実際、掛合(たいてい立端場か跡場である)が面白いと、切場への期待が高まるし、狂言全体に躍動感が生まれる。しかも演者が年の功を積んだ陣容であるから(若手が端に座ることはあっても)、なかなか味があり旨味も感じられるのである。そのシテは今回も松香で、六助という若く実直誠実情愛ある人間的で魅力的な、かつ些事には何ら動じず悪には滅法強いキャラクターを確かに聞かせる。対するに微塵弾正は津国で、前場がないから色悪ではなく、もっぱら下手に出ながら底の大きさは忘れない語り口(「誠に尽きぬ御情、重ねてゆるゆる御礼」で、人形が偽母にかかりきりで六助に向かなかったのは遺憾)。左五平の南都は最初どうもただ老人というだけで応えなかったが、二度目はまず「たかの知れたる下郎と侮り」の詞章そのままの語り口となり、続いて欺し討たれかつ見違えたことへの口惜しさ無念さが表現され、見事に工夫の跡が舞台に映えた。その相手門脇は始が大音強声に憎たらしさを加えて活写した。小住は真っ直ぐに外連味なく、亘は幼さと悲哀をきっちり届かせた。三味線はいつもの団吾だが、やはりうまく取りまとめ成果をあげた。敢えて言うならば、冒頭「内に音する鉦の声、毛谷村の六助が」で足取りの変化が今一歩鮮やかであればと思われた。

「毛谷村」
 端場を咲甫が清介の三味線で語る。にほんごであそぼコンビであるが、清介に弾いてもらうことで確実にしかも速歩で咲甫は成長している。今回も、冒頭二人の家臣の詞がまず完璧な出来で、これを聞いていると六助をとりまく状況が手に取るように見えてくる。それはまた、当時の武士階級と百姓以下との絶対的な身分意識というものもひしひしと感じさせた。また逆に、そんな身分の者どもがいかに六助を自らの象徴としてとらえていたか、そのことを次の杣どもの詞によって明白に聞かせた。ここまで語れれば端場の出来は明らかであるが、続く地の情景描写を三味線の心強いサポートを受けつつ、春先の雰囲気と老女の出とを十分に語り、六助との会話はまた面白く引き込まれ、あっという間にヲクリとなったのは、師匠の前座を見事に勤め上げた天晴れな結果である。師の襲名ならびに紋下復活とともに、咲甫も同時襲名が望ましいとまで思わせた。
 盆が回って咲大夫と燕三。マクラ、春の夕暮れは伸びやかだが春風には冷ややかさもあり、そこへ春愁の憂いが加わる。これで、切場前半の眼目、すなわち亡き母を慕う六助と弥三松の情愛を語る下地が出来るわけで、この浄瑠璃義太夫節の構造としても一般化できることを、いわば演繹的にも帰納的にも語って聞かせる力量は、やはり紋下櫓下にふさわしい。三味線がもう立派にその相方格に至っていることも聞き落としてはならない。この六助の述懐から弥三松の石積みまでの節付が実にしみじみとしてすばらしいものであるということも、この床を聞いていて知らされる。そして、男泣きから太鼓の件は、六助の心根の良さが真っ直ぐに伝わり、一段の成功は保証されたのである。虚無僧姿のお園の出からは、動きもあるし詞章も面白く引き込まれているうちに、聞かせ所のお園のクドキとなる。SP時代からレコード録音としても多く収録され人々に愛されたクドキ、江戸明治大正そして昭和前期まで、義太夫節が素人衆の広い裾野に支えられていたその証拠たる、古き良き時代を彷彿とさせる、そんなクドキが平成も四半世紀を経た劇場内に響き渡ったのである。これを楽しみに待ってましたと声も飛んだであろう、その芝居小屋に居る気分になるほどに、うっとりと魅力的でたまらない節付を再現芸術として「いま・ここ」に聞かせてくれる床こそが、義太夫節三百年の伝統の正真正銘の継承者と言えるのである。続く六助断腸の思いからのオトシは、もう少し剛強でもいいのではと思わせたが、単なる大音強声ではここまでで既に破綻しているから、望蜀はいかなる名人上手にも付きものだと勘弁していただこう。母お幸が登場してからはもう段切の気分である。時間的にはまだあるが、構造的にそうだという意味である。その証拠に、斧右衛門の愁嘆は、それが杣人のものであるのはそれとして、チャリ掛かってノリ間の気味もある詞章であり節付なのである。最後は「泣き顔を笑顔に直して帰りける」とある通りなのだ。庭石をめり込ませる力は精神力でもあるのだが、これだけ趣向満載ながらそれぞれを客席の胸中に放り込めるのが第一人者の腕であって、これが未熟であると滑りに滑って、あざとい作として白々とした空気が劇場全体を覆うことになるのである。それならいっそ、愁嘆場で最後まで押し通す作りの方がマシだ。客は辛抱して収斂傾向で聞くだろうから。浄瑠璃義太夫節も後期の作品は、よほどその本質を知り尽くし血肉化していないと、情だのストーリーだのと言っているだけでは到底十全に体現されないのである。最後は、箙の梅でひらかな盛衰記を思い起こさせ、弥三松を抱きかかえての柝頭に、見事正月狂言大当たりで気持ちよく幕となったのである。常日頃は古靱C六や綱弥七をもっぱら聞いているのだが、今回の奏演はそこへ入れても何ら違和感のない、近現代全盛期の義太夫節の系譜にあったものと総括してよい。平成とは平らに成る時代かと、昭和を憧憬してばかりいたのだが、「いま・ここ」が引き続き三百年の滔々たる流れの中にあることを実感し、感動を覚えたのである。
 人形陣、六助は玉女で、まず気持ちの良い人物像が素直に現れており、型の極まりはここのところいささかの乱れもなく、四月の襲名披露前夜にふさわしいものであった。なお、お園との立ち回りで屏風が倒れ弥三松が駆け出るところ、六助自ら蹴倒したのは、妹の形見と言ったこの子が出れば誤解も解けすべてが判然とするだろうと予想したとの解釈であろう。お園は和生で、男勝りもそうと見える遣い方だが、本領は女の性を現してからの方と見えた。いずれにしても活き活きとしていたのがすばらしい。京極内匠は玉輝だが、騙して勝ち誇るにいささかの羞恥も躊躇もない嫌らしさがそれなりに感じられた。母お幸はただの婆でないばかりか、一癖ある前半と亡夫に代わって吉岡の頭領たる後半とで、遣い分けなければならず、しかも単に動いただけではどうすることもできない難役。だからこそ紋寿を配してあるのだが休演代役として勘弥、床にも助けられ好演であったが、一本シンが通っている強さが背景に感じられればとも思われた。斧右衛門は前述の通りで、愁嘆しているがチャリがかっており、どちらに傾いても芝居は崩れるが、ベテラン勘寿は流石に心得ていた。その他、若手勢もそれぞれが為所のある役をもらい、上出来の床にプラスに働いても損なうことなく遣ったと言える。

「道行初音旅」(『義経千本桜』)
 正月公演第一部の追い出し景事として、十分に堪能させるものとなった。何と言っても、三味線シンの寛治師。道行の足取りはこれだと体感させ、さりげない飾り撥が得も言われぬ快感を増幅させ、高音は利いてもぎくしゃくしがちなシテの津駒だったのが、伸びやかさが出ている。そして、三下りの鄙びた里歌と二上り唄は華麗に響きと、全体としてまさしく自然なる神業であった。二枚目がまた藤蔵という贅沢さで、二枚目がしっかりしているとシンも楽だし全体がよくまとまると言われる通り。忠信の件など雄渾で、ワキの文字久も例のつまらなさが感じられず結構。三枚目以下ツレも十分で、気分良く劇場を後にすることが出来た。もちろん、人形二人の功績も大である。静の勘十郎は、細部まで神経が行き届き、最大の見せ場である扇の放物線など、数学や物理の教科書に載せたいほどの理想的な軌跡を描き、それだけでふうわりとはんなりと美しくという道行の理想をことごとく描ききってしまった。ただし、もう一箇所「住吉浦に吹き上げられ」の扇は詞章の解釈表現としてぴったりで、また一つ勘十郎の世界を世に残すことになったのだが、残念ながら高さが不足して滞空時間が短く、結果として落とさぬようにとせせこましい曲芸まがいの感じばかりが残ってしまったのは逆効果であった。もちろん、高く上げれば垂直落下はしにくくなり受け取るのも困難なのは明らかであるが、それに合わせた遣い方を彼なら工夫できるであろう。今のままでは、一力亭主の方に軍配を上げざるを得ない。忠信は幸助が抜擢されたが、それによく応えて株を上げたのは間違いない。セリ上がりの登場は一興であったし、何よりも鼓を慕い静の従者としてお伴をしているとの印象が明確で、道行の忠信でこれほど人物像を浮かび上がられたのは希有である。眉の遣い方も巧みで、将来大成した暁には仕掛け糸の名人と呼ばれるかもしれない。亡父の名を継いで更には玉助などをも襲えるのではと、今後に大いなる期待感を与えてくれた。寿ぐ正月にもふさわしい。そして、静と忠信がともにする所作が絶妙で、うまいと舌を巻くより他はなかった。動画で撮影すればヌルヌル動き、静止画にすればどの一コマをとっても絵になり、来年のカレンダーもこの一枚には困ることはないであろう。眼福とはこのような手摺のことか。

第二部

「駒木山城中」(『日吉丸稚桜』)
 この端場も面倒である。前半と後半とでがらりと雰囲気が変わってしまう。それゆえにこそ面白いとも言えようが、語り活かし弾き活かせるかは床次第である。結論から言うと、三味線の清志郎は中堅入り、太夫の睦は若手筆頭据え置きと聞こえた。以下、太夫についてのみ触れる。安心してその語りに身を任すことができない。若手だから仕方ないと言って済まされないのは、その義太夫節が自然に耳へそして体へ入ってこないのである。苦しそうに語っているという印象が毎回あり、生硬でトゲトゲしたところも耳に付き、裏返ったり外れたりもする。同門の弟弟子がそれぞれ自分なりの雰囲気を醸し出しているのに対し、もちろん睦も目隠しして聞いても本人の語りだとは判別は付くのだが、例えば、芳穂が四段目語りで靖が三段目語りという将来像を脳裏に浮かべられもするのに、睦の場合は、一生懸命稽古する努力家で真っ正面から義太夫節に取り組んで絞り出すということは直ちに言えても、個性が感じられないのである。したがって、今回もその前半部でうっとりすることもないし後半部では面白さに欠けた。そう言えば、思い当たることがある。かつて十二月東京で復曲「身替音頭」がかかったとき、その端場を大汗をかきながら目を閉じて懸命に勤めていたが、あれは無本で語るという十二分な稽古の跡が見える天晴れな義太夫語りの姿のようでいて、実は浄瑠璃本から離れた勝手な節を絞り出す姿に見なければならないのであった。床の太夫は見台に本を置いてはいるが、無本で語れる状態にまでなっていることに疑う余地はない。では何故に本を置き語りの進行に従ってめくっていくのか。万が一頭の中が白くなった時のためでもない。それは、浄瑠璃本から生まれてくる義太夫節を太夫が自らの声により紡ぎ出していくという行為に外ならない。その浄瑠璃本の詞章とそこに付された節付は、初演太夫のために書き下ろされたものであり、再演再々演も含めて「風」が定まったものである。それを「いま・ここ」に至るまで伝承し再現するのである。浄瑠璃本を読むときに理想の語りが脳内に描き出され、それと自身の語りとの齟齬に愕然としなければ、その太夫は人間ではなくただの天狗なのだ。もちろん、睦が天狗になっているはずもないし、芥子ほども思ってもいないのだが、彼にはそう、師匠やこれまでの名人上手の残した語りを日々シャワーのように浴び続けてもらいたいと願っておこう。何せ、若頭の待遇に処せられているのだから。それと、太夫にとって重要な二の音の響きになかなかよいものがあるから、ここを大切に伸ばして大成してもらいたい。
 奥は富助の三味線で千歳の役場だが、冒頭から難しい。端場は茂助が妻お政を突然離別する伏線にはなっているが、深酒をしたお政が出てきて夫にしなだれかかるといのはあまりにも唐突である。マクラの詞章は何も知らぬお政が間もなく命を落とすことになると暗示してはいるものの、この酔態が何によるものなのかは不明のままである。もちろん、その詞と端場の五郎助の語りから、夫が法外の出世をしてそれを喜んでいることは確かであるが、それでも一人酒を過ごすなどということがあるだろうか。お政の性根がまったく見えていないだけに不審は募るばかりである。ところが、離別を言い渡された後のクドキ、かつては人口に膾炙した、まずは観客の最初の楽しみであるこの詞章によると、夫と父が敵同士であったことを立ち聞きしたとある。そして、祝言後は夫が久吉とともに行動して長期間離れ離れであったことがわかる。とすると、この深酒は、長年辛抱した甲斐あって夫としかも出世をした男と再会する喜びと楽しみが、一転して退っ引きならない様子となったことによって、最悪の事態への予想を紛らわし忘れるためのものということになる。寄り添うのも当然に夫の反応を確かめるためである。つまり、冒頭の酔態はわざと作られたものであり、それゆえにその詞も仕草も感情も大げさでなければならないのである。実際、最悪の結果となった後のクドキはまったくのしらふなのである。このお政を簑助師がよくわかっていて、敢えて積極的かつ大仰な素振りに遣って見せてくれる。ところが、太夫の方は確かにマクラの意味深なところを丁寧に語っているものの、お政の詞については性根が据わらない。お楽しみのクドキも艶がなく、SP時代から何枚も録音され発売された箇所とは到底思えないものであった。しかし、これは太夫の責任として済ますことも実は酷であり、平成以降の義太夫節のあり方、音曲性に重点を置かない(確かに、現代の観客からすればストーリーがよくわかって感動できればよい)行き方が標準となってしまったことに、その要因の第一を求めなければならない(その意味からも、今回の「毛谷村」は大いに称揚されなければならない)であろう。
 さて、こうなるとまた例によって例のごとき千歳の語りになるのかと落胆をしていたのだが、五郎助の詞すなわち蔭腹になると引き込まれ、明知の久吉を狂言回しとして、五郎助の苦衷なり衷情がひしひしと伝わってきたのである。これは、この一段の中心をここと定め、千歳を見事に導いた三味線富助の手腕に違いない。この父の真情が応えると、続くお政の瀕死のクドキが涙腺を緩ませ、繰り上げフシのお定まりも、定型旋律だからこそ胸に迫ることになり(上昇旋律や下降旋律が世の東西や時代そしてジャンルを問わず用いられているのは、そのもたらす効果が覿面である証拠で、これがヘタだとステレオタイプとされてしまう)、久吉の情けについに本心を吐露する父の思いが激流となって客席に響き渡り(「思ひ出だして折々は」以下、「思ひ出だすは桜丸」と同一の旋律型で、聞く者の胸に強く応える)、母のクドキからは「尼ヶ崎」同様に大落シへ向けて完全に道がついており、「山も崩るゝ如くなり」がまったく大げさな表現ではなく、客席からも拍手が湧き起こったのである。ここまで語りが成功すれば、後は段切まで勢いで行けばよく、注進と虎之助初手柄もそのために用意してある。最後、正清宮の詞章を耳に、千歳がこのまま「尼ヶ崎」や「正清本城」を切語りとして勤めるようになる、その由来をこの一段で聞いているような不思議な気分にもなったのである。近々では二月東京の「甘輝館」も聞きに行く楽しみができたと感じられた。以上が、初回の5日に聞いたときである。そして二回目の17日、お政ではないが最悪の事態への一抹の不安―公演半ばで保たなくなってしまうというこれまでの轍がまた踏まれるのではないか―を抱きつつ、席に着いたのである。結果は、お政のクドキから例によって例の如しとなってしまった。冬であるし風邪のため一時的なものとも考えられようが、この後の嶋大夫が声を痛めても梅川の真情がやはり伝わってきたことと比較しても、惨憺たる有様であった。客席の心はまったく分離し、典型的な時代物の構成・詞章・節付となっているだけに、ステレオタイプ化した白々とした空気に満ちて、三味線の掛け声が懸命に聞こえれば聞こえるほど、語りは手応えもなく、人形だけが舞台上で動いているという状況になってしまったのである。この場の初演は麓太夫である。すなわち、高音から低音まで声量・腹力とも剛強かつ上品でなければ勤まらないのである。なぜなら、そのように節付がなされそのように詞章が書かれているからである(他例をあげれば、駒太夫風「林住家」で忠度の怒りを烈火の如くとか川水増さるとかではなく「照る月に氷を降らすが如くにて」と表現している)。そうなると、大落シが終わった後の注進と虎之助の件は、これが段切のお楽しみとして大車輪で語れるかという試金石にもなるわけだ。もちろん、メッキは簡単に剥げてしまった。さあ、困ったことになった。初回は邯鄲の夢であったのか。いや、これを現実として受け止めなければならないのであろう。とすれば、公演前半で聞くに限ると言うことか(二月東京は上京可能が末だからダメということか)。しかし、このままでは将来も半切語りとでも呼ぶしかないではないか。四月大阪は「尼ヶ崎」の後半と発表された。またしても麓太夫場である。さあ、千秋楽まで保つのかどうか。第一の楽しみは、清治師の三味線による呂勢の前半だが、ついでに後半も二度聞いて確認させていただこう。
 人形陣、簑助師については前述の通り。五郎助は和生で、文雀師の一番弟子とあって何でも遣える。本心を吐露する以前の方が蔭腹の遣い方ともどもよかったと見た。鬼一カシラの愁嘆開陳は、自然な感情に任せて遣うと本来の性根と矛盾するだけに難しい。堀尾茂助は勘弥が終始端正に遣ってよし。夫婦の情愛をこのカシラでどう出すかが関門だろう。久吉は玉志で大きくかつ堂々と存在感を持ってきっちりと見せた。こうでなければ狂言回しの役は務まらない。ずいぶん長い時間が掛かったが、もう次代を支える人形遣いの一人と数えて問題ないだろう。五郎助女房の清五郎以下、端場の萬代姫を含めて若手も的確に遣っていた。ただ、注進に駆け出す型はバランスが悪かったように思う。

『冥途の飛脚』
「淡路町」
 英と団七。年の功の重要さをあらためて痛感した。正直、鮮やかに冴え渡る爽快さやイキの詰んだ疾走感は覚えなかったが、キャラクター(人物像そして心理や感情)が立っていたのとそれぞれの箇所でハッとしたり考えさせられたりしたことは、近松作品のドラマツルギーを見事に体現していたと評してよいだろう。マクラは、飛脚問屋の目の回る忙しさの描写よりも、忠兵衛が梅川と深い仲となるに至った背景が如実に伝わった。元から大坂商人の跡取りとして生まれ育っていれば、こうはならなかったであろう。商業都市というものの魅力であり魔力、そこにはまた交通や通信など情報網の萌芽期なればこその、都市と農村との隔絶しながら隣接する有様も思い浮かんだ。また、欲望というものが、発展も荒廃も含め人間世界のすべてを牛耳っているということも認識させられた。もちろん、これらは後から理屈立てて考えたことでもなく、事前にテキストを読んで考察したことでもない。実際に劇場の客席で床の奏演を聴きながら、リアルタイムで脳裏に浮かび上がり劇の進行とクロスしていたものである。続く為替銀催促の場面では、手代のあしらい方の違いが面白く、とりわけ当時の武士と町人との関係が如実にうかがわれ、「徒士若党も刀の威光、銀拵へも胡散なる鉛(訛)散らして帰りしが」の詞章を活写した。「籠の鳥なる」から思案に文字通り暮れる忠兵衛の出、『南無三宝日が暮れる』と現実に立ち帰るところの変化足取りがまた見事。下女を口先で捌くつもりが逆に攻勢に出られての「オヽ」が、心中の当てが外れたがやむを得ぬと不快になった一瞬をよく表現し、「嘘腹の立煩ひ」の詞章とも合致する行き届いた解釈と語りであった。八右衛門が登場するや狼狽し「たくしかかくれば」「苦々しく極めつけられ」る忠兵衛のどうしようもなさ、そして弁解の長台詞、最後は卑屈な告白のはずが不思議と胸を打つのは、忠兵衛が仮面をつけず素顔を晒すことが出来る男であることを示している。純情でもある。が要するに子どもである、しかも思春期までは大百姓の一人子として大切に育てられた。八右衛門はいわゆる世間の大人そのままで、真っ当な常識の持ち主だが、男気があり冗談も利くのはすなわち大坂商人の魂を宿している証拠でもあろう。そして羽織落とし。金懐(くわい)中にから、一音上がりまた浄瑠璃が変化する。ここの引き道具はいつみても感心する。土蔵から明かり障子へ、忠兵衛の本性もまた、商業の象徴よりも人の情けが灯る方にあるのだろう。自然に落ちる羽織もまた、そのことを物語っている。ここの逡巡も見事に語った。以上、英と団七の床から自然に導き出されたものである。良い(とはまた何とも抽象的な評価表現だが)浄瑠璃義太夫節を聞くと、次から次へするすると筆が進むのである。これはまた近松作品の魅力・魔力がもたらしたものでもあろう。

「封印切」
 嶋大夫の封印切は越路師匠の跡を襲うもので、現状における極め付きである。それを、錦糸が弾くというのが、どういう化学変化を起こすかという期待と不安がある。結論としては、新たな世界に立ち会えたという印象を強くした。嶋大夫はプログラムのインタビューそのままに登場人物をよく掴み、錦糸が円い弾き方でその情を支えるから、この床の奏演は近松のドラマツルギーを見事に体現することになる。
 梅川の勘十郎がその出から観客を虜にしてしまう。この疲れた姿はどうしたことかと。無論詞章通りである。二階の拳の騒々しさは茶屋の習いで遊女の日常を活写しているが、梅川の忠兵衛を語る詞はしみじみと客の心をも自らの深淵に引き込んでしまう。「天神太夫の身でもなし」「面が脱ぎたうござんす」がとりわけ胸に応える。禿(義太夫節をよく覚え巧みに遣っていた)の語る浄瑠璃は、それが無心によるものであるだけに、有心の者(見世女郎そして観客)には応えることになる。とりわけ、梅川にはたまらないはずで、これは彼女自身の真情を語っているのではないかと感じられる。語りの中心もまた梅川の心にあり、人形とともに客席全体がその心情に一体化するという希有な体験をしたのであつた。ここまでで、すでに一段の成功は確かなものになっている。そこへ八右衛門が登場し、雰囲気はがらりと変わる。その詞は辛辣だが事実そのもので、忠兵衛の地獄行きを救おうとしていることが明瞭である。この八右衛門、友情に厚い男気のある人物なのになぜ梅川は「逢ひともない」と言うのか。相性が良くないとか忠兵衛との仲を揶揄されるからというのは表面的なことに過ぎない。その理由は、すでに梅川が自ら述べている。前述の「面が脱ぎたい」という言葉である。面とは遊女の顔、すなわち傾城に真なしであり、遊郭の沙汰は金次第、落語なら三枚起請の世界に生きるための顔である。梅川の場合、それを脱ぐとは「忠様と本意を遂げ」ることであるが、田舎客の身請けを逃れることが出来ない以上、それは「死」を意味する。賢明な遊女ならそんなことはしない。いや、梅川にしても苦界に身を落としたのは生きる(金の)ためであったのだから。では、なぜこれまで苦しみながら(諦めながら)生きてきたのに、死を選ぼうとするのか。それは、忠兵衛が面を付けた梅川ではなく、面を脱いだ素顔の梅川を愛したからである。もちろん、最初は忠兵衛も八右衛門同様に「若い者の習ひ〜揚屋の座敷も踏まねばならぬ」であり、梅川も遊郭へ通う客として扱っていたのである。それが、忠兵衛という男は素顔を晒すことが出来る希有な(というか世間的には賢明ではない)男だったのである。真っ直ぐで透明な光が、梅川の心底まで届いたに違いない。しかし、考えて見れば面を脱いだ遊女ほど無価値なものはない。格安の面でも、それをつけているから客を取り金を得る世界に生きていられるわけである。八右衛門はよくそれを(というよりそんなことは常識であるが)知っており、自身も難波の若旦那という面を付けている以上(何らかの面をつけていない人間などあり得ない)、揚屋の遊女という面を付けた梅川として対応するのである。八右衛門は、この世間の常識の体現者であり、梅川にもそれを明瞭に感じさせる。梅川自身、自分が見世女郎に過ぎないことはよくわかっているだけに、それを露わに剥き出す八右衛門の存在は、金のためにする嘘の恋を拒否する真の恋が「いま・ここ」に存在することを認識した以上、とても耐えられるものではなかったのである。さて、その八右衛門は梅川のために忠兵衛が獄門台のすぐ傍にいることを知らせる。「いま・ここ」に迫る忠兵衛の転落死、これが真実なのである。「悲しいと身のはかなさ」から梅川が自死したいのも当然だが、そこに「いとしい」という感情があることに注目しなければならない。忠兵衛の逆上に対する八右衛門はあくまでも具体的かつ現実的で道理そのものである。そして封印切となるが、男(その対象として女・梅川も)の面目なり一分ゆえは詞章通りだが、田舎客と張り合い一日一刻とも目を離さず自らが庇護しなければならない梅川の待つ越後屋へ、冥途の飛脚となるとも知らず飛んで来た忠兵衛にしてみれば、一人立ち聞きする間にその感情が手の付けられぬところへ飛んでしまうのも当然であろう。これがもし、二階で梅川と忍んでいるところへ八右衛門が登場したとしたら、同じように封を切ったであろうか。やはり、間接的に他者の言動を一方的に浴びるうちに、自我という名のブラックホールへと自ら螺旋階段を駆け下りていったのである。梯子を駆け下りた梅川が八右衛門に詫びる詞章で、人形が下手の忠兵衛も拝んだのは好ましい解釈であった。人の金を撒き散らすところは、「邯鄲の夢の間の栄耀なり」と書く近松は流石で、太夫や人形はもちろん、三味線が夢現の地に足の着かない不安定な音と弾き方で描出したことにとりわけ耳が反応した。「下宮島へも身を仕切り」以下は聞く者の心を締め付けるが、男である私はここの感想を控えたい。それにしても、「かうは誰がしたエヽわしがした」を自惚れた女と評する者は、真実の恋とも愛とも無縁な、世の賢い人々であろう。金の世界にダメを押すかの如き太鼓持ちの描写も見事。最後は、忠兵衛とも梅川ともなく、「男」「夫婦」と書かれる(この手法は源氏物語でも男女の愛として一般化される際に使われている)ことにより、心中によってのみ遂げられる愛の形を示している。梅川忠兵衛としての心中ならば、馬鹿な商人と愚かな遊女の成れの果てであるから。
 梅川の人形は美しさや華やかさよりも儚さや苦衷や悲哀がひしひしと伝わった。勘十郎の解釈であり、床ともピッタリでずれがないところが素晴らしい。忠兵衛の玉女は裏のない(あの程度の嘘は逆に裏など持てない証拠で、母妙閑が文盲であることにより象徴的に示されている)単純な源太カシラとして納得のいく遣い方。八右衛門の玉也は前述した通りの人物像を的確に描き出し、嫌らしい悪人様で受けるようなことは一切なく、とはいえ苦手とする人間もいるであろうという性格をうまく見せた。これで、昭和末の人形黄金時代と遜色ない舞台となり、世代交代の成功を実感させた。二人の遊女もあくまでモブに徹しながら、考えて遣うところは動きも見せていたし、「淡路町」での母も下女も手代もその他、特筆はしないが相応に脇を固めていて、ツメ人形が荷物を担ぐ所作などまできっちりとかつ煩わしくなく神経が行き届いていた。全体として、これはDVD化するに足るものであったと総括したい。

「道行相合かご」
 引き道具の工夫はここに必然的ではないが、羽織落としと対照させる狙いならば見事である。西亭の節付は、梅川の詞を挿入してカンで始めカンで終わらせ、忠兵衛の入れ事は低く終焉する。降雪に下座の篠笛を聞かせての幕は印象的にしてある。横時雨のわびしい道行を、清友の三味線がよく弾いて、二枚目喜一朗以下の若手、太夫陣はシテの三輪ワキの咲甫にツレ芳穂以下、作曲の意図をよく体現した。とはいえ、ここは二度目を失礼して近松原作を電車の中で読むのがよかろう。それほどに、近松の筆は完成しているものなのである。

 展示室は文楽研修制度を特集していた。こちらとしては、何よりも往年の名人上手たちの姿の、知られざる部分を目の当たりにできたことが有り難かった。挨拶するスーツ姿の喜左衛門の謹直さ、激越な熱意が白黒写真の向こうから突き抜けてくる寛治と傍でやや斜め後ろに仰け反って聞いている津大夫の表情に見える情愛、人形を遣う研修生に話しかける玉男の笑顔と後ろ振り的な立ち姿、等々。そしてまた、第一期生からの名簿一覧を目の当たりにして、時の流れの速さを、多くの写真や資料からは、歴史的な決断をしての事業開始時の強い思いが、それぞれひしひしと感じられた。もちろん、これらを引き継いで文楽を更なる隆盛へと導くのは、「いま・ここ」のわれわれなのである。