人形浄瑠璃 平成廿九年四月公演(初日所見)  

第一部
「寿柱立万歳」
  舞台の書割、人形は太夫才三、正月公演ならこれだけで春を寿ぐ狂言だと一目瞭然で、詞章や語りと三味線そして人形の動きがよくわからなくても、お屠蘇気分でとにかく目出度いと事は済む。しかし、今回は四月公演である。もちろん、襲名披露を寿ぐ意味があるからなのだが、それならもっと華やかでなければいけない。鏡餅も睨み鯛もなく着飾った着物姿も少ない劇場で、まさか花見時分の陽気がカバーしてくれるはずもない。開口一番、「四方の御客様、日頃の御ひいき御引立有難うござりまする」「コレ才三や、御祝儀の寿をばさらばお祝い申そう」を、それこそ満開の桜の下での襲名披露公演に合うよう入れ事にするのも一興で、有効な仕掛けとなるであろう。人形にしてもそうで、柱立の意味など誰もわからないが、数え歌になっているということと、それぞれに神様が組み合わせてあるのはわかるから、それを視覚的に明確な表現としてこそ面白みが伝わるというものだ。別に振付者の権利云々も発生しないのだから、思い切って工夫を見せてもらいたい。それと、何度も言うように、人間の舞踊なら滑らかかつ鮮やかになるところが、人形ゆえに不自由になり、その不自由さにもかかわらず人間の動きそっくりだというのは、褒め言葉でも何でもなく、むしろ人形劇が人間劇(用語の適否は措くとして)の下位互換であることを示すものなのであり(鼓を投げて見事キャッチし客席から拍手が来たことを喜ぶなどはまさにその範疇である)、もっと大胆にシャキシャキと遣わなければ、正月公演ではない今回などはどうしようもないのである。太夫陣も、ユニゾンで各太夫のソロ声がバラバラと聞こえてくるというのは、何のために掛合にしてあるのかという話になる。一人の太夫による語り分けなら評価もされようが、これは美しく響くものではなく一体化に欠けるという以外の何物でもない。その中で、三味線陣だけは?溂として、喜びの横溢が感じられた。開幕の一景事に別に何もそこまで目くじらを立てなくてもいいではないか、そう言われるのなら、家で半時間分ゆっくりしてから徐に劇場へ向かうことにするまでだ。

『菅原伝授手習鑑』
「茶筅酒」
  白太夫というカシラ名は、もちろんこの白太夫から命名されたもので、他の爺カシラとは別にキャラ立ちしているからである。田舎百姓であり、「堅地」と自称する通りだが、軽妙でもありかつ慈愛に満ちてもいる。今回の語りを聞くと、その辺りがどうも曖昧に感じられる。十作との会話にしろ、最初に八重の訪問を迎えるところにせよ、焦点がぼやけている。かつての伊達路や引退した松香だと自然に滲み出るのだが、それは時代の趨勢が然らしむるところなのであろう。劇場に来ていた観客のうち、一体何人が野良声の百姓を経験しているだろうか。語る太夫にしてからが、まさにそうであるに違いない。となれば、それを作るより他はないが、作ったものがしっくりと馴染んで映るようになるには相応の時間を必要とする。ゆえに、今回は仕方が無いということで収めるのが正当な評価であろう。ただし、三人の嫁の語り分けなどは、それとは別に出来ていなければならないが、「コレ皆様〜」の詞など、だれが語っているのか人形陣の動きを見てもよく分からなかった。しかし、この一段の主眼はしっかり押さえられていて、「ここでここで」「ハテ気がついて忝い」のウレイや、「三本の扇〜」が幸先を祈る詞の割には描出が内向しているなどは、この太夫の実力が確かなものであることを証してもいた。中堅に仲間入りしようとする芳穂であるから、抜擢にも近いこの一段をよく語ったと評してもよいのだが、将来を見据え敢えて為書き的なものにしておく。三味線の宗助は流石の導き手であり、メリヤスも心地よいものであった。

「喧嘩」
  前段が抜擢なら此段は大抜擢である。春と千代、梅王と松王の語り分けは、高低差を主として遅速をも利用するのだが、それはあくまでこの一段での相対的なものに過ぎず、三段目全段の本読みをして語り通す絶対的な実力がないと、八重と桜丸がいたらどう語るつもりかということになってしまう。また、喧嘩だからといって強く当たるのが甲高い叫びになってはおかしなことになる。と、最初からマイナス点を見せたのは、予想以上いや予想とは懸隔した驚くべき出来の良さだったので、絶賛の内に終わることを避けたためである。まず、浄瑠璃になっているということである。夥しいほどの浄瑠璃を名人上手の奏演によって聞いてきた耳が、また、それによって形成された心身が、この咲寿の語りをスッと受け入れたのである。上手くやろうとはせず力一杯挑んだということはもちろんであるが、面白いと感じられたところに主眼がある。間や足取りや緩急がちゃんと血肉化された動く語りであったのだ。師匠や兄弟子の薫陶によるものであろうけれど、自身も浄瑠璃のシャワーを浴び続け努力したに違いない。あのビジュアルでこの浄瑠璃が語れる、これは兄弟子にもそのまま当てはまる形容語であるが、将来の文楽にとっても第一等の慶事である。初めて彼を聞いたときには、この外れっぷりが一体どうにかなるものなのかと感じたものが、まだ若手の内にここまで至ったかと嬉しくもある。とはいえ、浄瑠璃太夫の修行は一生物である。若手や中堅で期待されそのまま伸び悩むことはざらにあるから、まずは兄弟子の襲名披露時に花を添えるほどまでに成長してもらいたい。三味線の清丈の実力についても、また一段上のものとして聞き直した。

「訴訟」
  ここから切場になる。錦糸が弾くということで、当然のことながら住師の語りが意識されるが、元より白太夫が映るなどとは思ってもいないし、比較の仕様もない。低音部もまだまだで満足とはとても言えないが、やはり浄瑠璃になっていて、聞くに違和感なく、身を任せても大丈夫だろうと思わせるところが、若手筆頭者である靖の実力である。特筆すべきは、千代が去るところの地合が、美しくもまた悲哀が底にある情味溢れるものになっていたことで、春の退場時とともに二人の嫁のこのときの心理が浮かび上がり、ここに感心して評したことは過去一度もないと思うのだが(それは逆に白太夫と松王梅王とそのやりとりにぐいぐい惹き付けられるまでには至らなかったためでもあろうけれど)、それほどの太夫なのである。もちろん三味線を錦糸が弾いているからというのは大前提ではあるが、浄瑠璃はいいなあと感じさせてくれただけでも、大したことなのである。

「桜丸切腹」
  この役割こそ、文字通り師匠の衣鉢を継ぐようにとの劇場側の意向がある。以前から言うように、文字久には師匠のベクトルとは異なる彼独自の魅力があるので、角を矯めて牛を殺す不幸は絶対に避けるべきなのだが、今回改めて聞いていると、マクラなど師匠そっくりだし、自然な滋味も滲み出ている。文化勲章受章者にして特別客員教授という大師匠の一番弟子とはさぞや荷が重かろうと思っていたのだが、今や堂々とそう名乗っていいところまで来ているのだ。とはいえ、この四月公演ならむしろ「徳太夫住家」を、五月なら「又助住家」を語るべきだとの思いに変わりはない。三味線を幸いにも藤蔵が弾いてくれていることもあるのだから、住師を彷彿とさせたいという理由で、彼を狭いところへ閉じ込めるのではなく、その個性を伸ばす方向に舵を取るべきである。今回も、八重のクドキとそのノリ間がよかったことと、段切が悲哀を底に持ちながらも、桜丸の死を引き摺って拘るのではない方向であった(それこそが浄瑠璃五段構成にも叶うものである)ことのみを評言として記すことにより、ここにそれを体現しておくものである。

『襲名披露口上』「豊竹英太夫改め六代豊竹呂太夫」
  咲太夫「ろの次はわ」、清治「文楽太夫に相応しい顔」、勘十郎「同期」、再び咲太夫「文学青年」、舞台上にずらり並んだ豪華な襲名披露ではなかったが、この親近感あるコメント群こそ英の新呂太夫に相応しいものであった。彼の存在意義は、若太夫の十一代目を「和田合戦」で披露することにあるし、その時にこそ文楽の顔そのものとなり、万年青年の感もあったバタ臭さが、年齢相応の匂いを醸し出すことになるであろう。
  それにしても、七十にしての呂太夫襲名である。平均寿命が延び、社会へ出る実年齢が上がり、今や七十は老いるに早すぎる年齢とはなったが、浄瑠璃を語る太夫の場合、体力的な衰えはやはり如何ともし難いものがある。成熟した語りや味のある浄瑠璃などという物言いは、最盛期を過ぎてから最後の最後に辿り着くものであって、やはり、五十で絶頂期を迎えないと、心身のバランスがとれないことになる。芭蕉ならば、いくら「炭俵」の軽みを評価しても、絶対的なのは「猿蓑」なのであって、山城少掾もその受領時点で最盛期は終わったことを意味するので、戦後ともすれば「山城風」(この表現の可否については触れない)が文楽の理想のように捉えられたのは、不幸であったというより他はない(その弊が現在に至るまで尾を曳いている)。浄瑠璃を聞いていて、面白いなあ、堪らんなあ、と感嘆することが、昭和五十年代以前の奏演(山城の場合はせいぜい弥七が弾いていた時まで)を再生する時にばかり限られるというのも、太夫個人の力量のためではなく、この時代性すなわち長寿社会の弊害ゆえと断じても間違ってはいないであろう。時分の花が咲かないところに真実の花など咲くわけがない。もし咲いていると言うならば、それは形而上的な幻影かVRの非生命体に違いない。ゆえに、新呂太夫は、是が非でも若太夫を襲名し「和田合戦」で披露しなければならないのである。

「寺入り」
  かつて、呂勢そしてそれ以前は千歳が語ったこの端場に感心した頃を思い出す。今日は、新呂太夫襲名のご祝儀としての位置付けで、清治師も弾いているのである。だから、何も評しはしない。ただ、この端場が首実検以降にプラスの効果を示したことは確かであった。端場の意義がここにあり、端場としても本望であったに違いない。

「寺子屋」
  前、新呂太夫を弾くのはここのところ清介であり、この三味線が太夫をうまく引き(弾き)立てている。相克や相殺にならずうまく相生の関係になっているし、顔順からしても相応しい両人である。この上演頻度の高い演目、過去に名人上手の奏演も数多くあるこの一段は、まず格として四段目の風が定まらなければならない。主人の危機に弟子子を犠牲にするまでの緊迫や、首実検の緊張感などのために、突っ込んで語りすぎると三段目になってしまう。それを四段目として鷹揚にしかも間延びせず語り弾くというのはなかなかに難しい。それを真っ正面から正攻法で奏演してみせたことは、襲名披露として立派の一言に尽きる。加えて、このような名作はストーリーに拠っただけでも十分に観客を引き付けるので、逆に奏演のそこここが際立つということに耳が反応し辛くもなる(もしそうなれば、受領級レベルである)。よって、今回も、観客がじっと浄瑠璃世界に集中し入り込んでいたことを以て成功と評してよいのである。しかし、良く出来た一段である。改めて堪能できた。
  後、切場の後半となり、節付も西風から東風へ、すなわち収斂から拡散へ向かう。存分に心情を吐露していろは送りは唄ってもよいとされる。紋下格咲太夫と燕三はそんなことは百も承知というように、千代で泣かせ松王で涙を催させ、菅原四段目としてのカタルシスをもたらしてくれる。十二分である。三百年前の名作が伝承に伝承を重ね「いま・ここ」に再現される、古典芸能の本質もまたここに存在しているのである。
  人形について。白太夫の玉也は「楽々と」「気楽なり」を土台に、怖さも慈愛もあるカシラの性根を描出し、かつ、段切の意味を正しく理解しての遣い方は第一等である。松王の玉男と千代の勘十郎は、先代玉男と簑助がそうであったような、琴瑟相和した関係が自然であった。個別に言うと、松王首実検で、ヨリ目を左右に遣うのはもちろん源蔵と玄蕃双方に注意しなければならない立場を明確に示したものだが、一子小太郎の首桶を前にして、偽首の配慮をする冷静さがあるということになる割には、その前後でずいぶんと心乱れる姿が描写されてもいた。千代は「利発らしき女房」で唯一の子持ちという立ち位置がしっくり来ていた。源蔵の和生と戸浪の勘寿は、今は田舎で寺子屋を営む夫婦という砕けた感じが忘れずに入っている(源蔵のマユが上がったままになっていたのは糸仕掛けの不具合か)。玄蕃の文司は丸目の金時という個性的なカシラをうまく遣って見せた。梅王の幸助は初段の跡と車引を見て評したいところ。八重の簑二郎は師匠との共演に引けを取らないが、個性が見えるまでには至らない。春の一輔は穏当というところか。簑助師の桜丸はその格式(武士として腹を切る)が備わっているところが流石で、そのために白太夫もその格に嵌まって切腹の用意をするのである。もう一人特筆したいのがよだれくりの玉翔である。寺子屋で文字を習っても所詮は山猿、それがドタバタとした動きになるのは当然であるのだが、このよだれくりはチャリではなく阿呆である。これがここのところ若手の人形遣いにはわかっていなかったらしく、現代的な逆にこましゃくれた風になるという矛盾を犯していた。師匠(先生)が絶対的であった時代を経験していないのだからこれも趨勢なのかと諦めつつも、毎回ミスマッチの不快感を抱いていたのだが、今回の玉翔は見事にその誤りを正してくれたのである。さすがは故玉男師の弟子である。それはまた、本読みが出来ているということでもあるし、浄瑠璃作品そのものの世界が出来ているということでもある。もちろん頭でっかちになってはいけないが、遣わないことで遣うという究極の境地に至った故師の姿を、弟子入りする以前の公演記録に残されている映像(むしろ遣っていた当時)もすべて含めて、常に想起してもらいたいものである。

第二部
『楠昔噺』
「碪拍子」
  高齢化社会とはいうものの、老夫婦というのも、現代日本の核家族化の中では当たり前の存在ではなくなったし、健康神話に加え若さの絶対化の中にあっては、老いるということが否定的に捉えられてもいるから、この一段の面白みは中々に伝わり難い。かつ、語るのが、横綱にはなれないが三役格として存在価値を示している老練な太夫ではなく、大関横綱が見えている上り調子の小結とでも言うべき咲甫なので、その性根が自然に映るということも難しい。お互い怪我せぬようにと言い、「一年一年弱りが見えると思ふも同じ身の」とある詞章の辺り、「しまひごとして戻りを待と」と言いながら「洗濯しまはずか」と聞く爺に「いやまだまだ」と答えて「そんなら幸ひひと休み」を引き出したり、加齢を嘆く爺に「はてそりやそのはずのこといの」と言う次に「橙の数から見てはまだ達者な」と付け足す婆、「その機嫌な時に言ふことがある」から推測される日常的な老夫婦の有り様など、まさにこの江戸期から昭和五十年代までは普通であった老夫婦の描写が、どれほどに観客へ伝わったかどうか。しかし、爺婆のやりとりに客席は沸いたし(「八十の三つ子と譬へに変はらず愚かさよ」が届いたと見てよいか)、どんぶりこと落武者の件が面白く出来たので、成功裏に終わったとすべきである。それには、三味線の清友がまさにうってつけの弾き方をした功も大きく、冒頭から魅力的な節付(旋律型)の一段を弾き活かしたこともある。「我が家へこそは」で三重になった時、しみじみと佳品であると感じたことが、今回の真実を物語っているのである。

「徳太夫住家」
  中、大団七カシラの物売り、すなわち公綱の怪しさ不敵さが描写されれば成功で、それに爺と嫁の会話が仕込みとして観客に届けばなお良い。その意味では、始と喜一朗は役目を果たしたと言え、この二人が掛合から抜け出たのは尤もだと言える。ただ、太夫の地合については不安定さがまだ残るので、中堅陣の仲間入りをするには修行を積み重ねる必要がある。
  奥、この公演の場割と配役からすると、時代物三段目切場を丸ごかし勤める千歳が形式的な第一の実力者ということになる。それは劇場側としても望むところであり、実際、三味線の富助による指導を得て、実質的なところへ近づいてもいる。とはいえ、この一段は難物であり、かつ『曾根崎』ゆえに満席となっている観客に対しなければならないのであるから、並大抵では劇場全体が睡魔に襲われることも十分に考えられる。が、この予想は良い方に外れた。まず照葉の性根が的確に描かれ、爺婆の昔話に例えた会話から孫の祝言までが面白く(とはいえ、映るまでには行かないし、悲哀も十分伝わったとは言えない)、二人の嫁の確執も客席を惹き付けた。なお、ここでの爺の詞「もうようもうよい」は、苦心の策を拒絶した嫁に怒りを表してよいのだが、そのまま「御明上げておくりやれ」まで通したのはいただけない。ここは、「わけておとわは気に掛かり」とあるように、拒絶された腹立ちから仏間へ引っ込んだのではなく、そこに諦観と死への覚悟が滲み出ていなければならないのである。従って、次の老夫婦相討ちの悲哀も不十分で、「修羅の巷に迷うてゐる」の凄惨さも描出しきれてはいなかった。三段目の常道として、ここからは大場となって鬱屈を払うのだが、大団七カシラが正体を顕すなどはそれにもってこいというところだ。しかし、太夫は苦しそうな展開となり、正成との対決で傲然と畳み込んで行くところも物足りず、初日でこれなら千秋楽いや中日にはどうなっているのかと、不安に思わざるを得なかった。やはりまだ例の欠点が克服されていないようだ。とはいえ、段切に両雄が老夫婦の死骸を抱き上げる心情は伝わったから、角書まで付けた意味の後始末は付けたとしてよいだろう。これだけでも上出来である、切語りには至らない中堅太夫としては。さて、これに関しては実際に千秋楽まで聞かないと結論は出せない。後学の徒ならぬ後聴の士を待つのみである。
  ここで一つ確認しておかなければならないことがある。それは、爺婆の対称形が中核を成す一段(正成と公綱、おとわと照葉、千太郎とみどり、六波羅方と天皇方)にあって、老夫婦の死が報われるのは、公綱が天皇方に付くことによってであるという点である。それはもちろん、老夫婦の死そのものが天皇方への不忠を負ってのことであるからだが、その設定自体が天秤の中立性が天皇方に傾いている証拠であり、休戦をすればそれでよいということにはなっていないのである。それも正成が主人公だから当然とは言えるのだが、そもそも大忠臣正成像が形成されているというところが重要なのである。明治近代国家確立と忠孝精神の蒸留酒ではない、三大狂言より前の作であるこの一段を、よくよく味わう必要がある。その意味からも、この一段を勤める者には図抜けた力量が必要とされるのである。
  人形陣。老夫婦の玉男と和生は、両師匠が文字通り金婚であったとすれば銀婚にまでは至っているし、わざわざ劇場側が角書とした期待も裏切らなかった。公綱の玉志は検非違使の印象であったが荒物遣いへの第一歩と見てよいか。正成の玉佳はこれたけでは判断に困るが存在感はある。二人の女房は勘弥と文昇で、このままでも交替しても大丈夫な出来、とはいえ太夫と同レベルということでもある。全体として床も手摺もより大場になってこそと総括できよう。

『曽根崎心中』
  四月第二部に曾根崎という意識がなかったので、売切の表示に驚いていたのだが、さすがは現代文楽の金看板である。実際に現代文楽の舞台として完成していて、そこには照明効果が果たす役割が抜群に大きい。もちろん、あの縁の下も絶対的であるが、観客に強い印象を与えるのはやはり光の遣い方なのである。ゆえに、この現代において小屋掛け芝居の一人遣いにしてみると、歴史的興味はさておき、これだけの支持は望めないであろう。それはまた、西亭の脚色ならびに作曲がまさに現代とピタリであったということにもなる。新作である近松、この矛盾した表現こそが、金看板として輝く所以なのである。

「生玉社前」
  新作浄瑠璃の節付(作曲)を演奏すると、ともすればのべつ幕なしに語り弾いているという印象を受ける。またそうしないと間が持たないというかスカスカに聞こえてしまうからでもある。従って、逆に近松原作そのままに節付することは無理なことであり(新作当時の上演時間という条件があったとしても)、その意味からも西亭の作曲はそれに見合う脚色が必要だったということになる。睦と清志カの演奏を聞いていると、ついそのような客観的な視点に立ってしまっていたのだが、それは登場人物についても当てはまり、徳兵衛に感情移入することもなく、あーあ嵌められてしまったと、事の成り行きを追い掛けていた。もっとも、世話物は上中下三巻で五段構成の一段に相当するわけだから、切場「天満屋」の立端場として仕込みの一段、発端の場ということであれば、十分それで役割は果たしていることになる。しかし、一本調子で徳兵衛が必死になっているばかりでは、その必死さにもそれぞれ異なる感情があり表現があるのでなければ、一段としての面白味は浮上して来ない。今回はその点において残念だった。九平次の悪役ぶりをむしろ抑制的な表現としたのは一つの行き方であるが、それもまた一本調子のライン上にあったものに過ぎないというのなら、落胆するより他はないが。

「天満屋」
  『曾根崎』は最初期の世話物(心中物)であり、それゆえの清新さや単純性が特徴で、その結果脚色作曲がし易かったということでもある。奏演も勢いその傾向を受けるので、スルスルと進んでいくが、そうなると徳兵衛やお初の微妙な心理が伝わりにくくもなる。少なくとも新作の印象は拭いきれない。実際、過去様々な床による奏演を聞いてきたが、うねうねとねばりのあるいわゆる近松物の中にこの「天満屋」も位置づけられると感じたのは、あの伝説的な国立小劇場での舞台公演記録、八世綱太夫十世弥七の奏演のみであった。津駒は団七に弾いてもらい着実に語っていたが、例えば「最早今宵は過ごされずとんと覚悟を極めた」が「声音も震ひ囁けば」にならず決意表明に聞こえ、「亭主もなんと味気なく」に空漠感が感じられなかった。板一枚隔てた縁の上下における恋心の切なさ辛さ苦しさ、締め付けられるようなものが客席に伝わることはなかったように感じた。やはり近松物は難しい。それならば改作物の方が常道に則っているだけ容易とも言えるのだ。

「天神森」
  印象的な三下りからの名文、あの舞台装置や背景に照明、そして下手から登場する二人、この道行だけでも『曾根崎』は価値がある。今回は、まさにこの道行ですべてを収斂した感があり、満足な仕上がりとなった。三味線が寛治師のシン、二枚目の清志郎、三枚目の寛太郎、それぞれにお初、徳兵衛、地の文にピタリ相応する弾き方で際立っており、呂勢、咲甫、芳穂の太夫陣がまた適格(的確)な語りを聞かせ(ちなみに、この道行のユニゾンは美しく揃って響いてきた)、の素晴らしさのゆえに、近松原文を脚色した詞章「風しんしんと更くる夜半(夜は?)」の違和感が際立つという(それほどに節付もまた優れているという証でもある)オマケまで付いてきた。本物の実力とはどういうものかを今更に思い知らされることになろうとは。至芸とは恐ろしいものである。
  人形については、お初の勘十郎がむしろ古典的で年嵩のような印象、例の足先で徳兵衛に知らせるところも体全体を揺らしてという遣い方で、その分やはり穏やかなイメージを与えることになった。徳兵衛は清十郎で誠実な手代がピッタリだが、若さゆえのどうしようもなさ、不器用な一途さまで描出できていればと思われた。九平次の玉輝はもはや持ち役と言ってよい。女中お玉は相変わらずよく動くが、車戸を開けるタイミングを火打ち石で的確に与えることが肝心である。