人形浄瑠璃文楽 令和五年十一月公演(初日所見)  

 観劇して感想文を書く。それと劇評を書くこととはどのように異なるのか。高校生が書けば感想文で、評論家が書けば劇評になるのではない。両者の差は批評性の有無にある。では、批評性とは何か。端的に言えば、客観的な基準あるいは根拠により価値付けを論理的に行うことである。感想文には、この基準ならびに論理性が欠けている。例えば、感動を覚えた舞台をすばらしいと表現してみても、それは個人的感情を表明したことにしかならない。しかし、主人公の悲しみが役者の抑揚ある言葉により前回以上によく伝わったと書けば、それは劇評になる。この場合の基準は、前回の役者の言葉であり、主人公の悲しみは言葉の抑揚により描出されるというのが論理性である。そこには、観劇を重ねるという経験と、心理と言語の関係という知識が必要となる。さらに、経験と知識があっても、それを観劇という、「いま・ここ」において自身の諸感覚を通した実体験と結びつけることができなければ、劇評にはならない。逆に言えば、その体験が、客観的な経験と知識によって裏付けされなければならないということでもある。そして、最も重要であるのはその批評行為を現出させる視点の設定である。
  要するに、対象をとらえる「目の付け所」とそれを批評・評論へと昇華する基準および論理という三要素が備わった時、それは感想ではなく、批評となるのである。とすれば、劇評に繋がる鑑賞行為もまた単なる娯楽や趣味ではなく、批評・評論行為の一環として位置付けられることになる。趣味としての読書が、テクストクリティークとなるように。
  とはいえ、これは劇評を行うために劇場に通うことを意味しない。もしそうであれば、観劇行為は腑分けのために刑場へ出入りすることに他ならなくなる。観劇が手段と化してしまえば、そこから生じる劇評は文学的演劇学的解剖実習のレポートと何ら変わらないものとなるであろう。
  「小林秀雄の慧眼は批評を、分析でも悪口でもなく、愛情と感動だと喝破した。芸術に対峙し、心打たれることに意義を見出す。」これは小林秀雄『本居宣長』刊行を担当した編集者が記した解説の一部である。これを劇評に当てはめれば、観劇こそが中心であり、劇評はそこからの派生であることがわかる。根源が観劇という実体験にあり劇評はそこからわかれ生ずるのである。ただし、この派生を枝分かれすなわち枝葉末節に繋がるものとして捉えることは誤りである。その意味を正しく理解するために、小林の著作から引用してみよう。
  小林は刀の鐔を題材にした随想の中で、「もし鉄に生があるなら、水をやれば、文様透は芽を出したであろう。装飾は、実用と手を握っている。透の美しさは、鐔の堅牢と軽快とを語り、これを保証しているところにある。」と書いている。鐔の強度と軽さとを追求していく過程で、鉄という素材の質に見合った透がおのずと生み出されたということである。すなわち、文様透とは金工たちがその技巧により創意工夫して作り上げられたものではなく、自然に立ち現れたものであるのだ。そういう意味において、文様透は鉄という素材から派生したものなのである。
  この記述を踏まえるならば、人形浄瑠璃文楽の劇評とは、浄瑠璃というテクストと義太夫節という音楽、人形の動きが醸し出す芸術作品を目の当たりにそして耳にすることにより、自然に浮かび上がってくるものでなければならない。もちろんそこには、感動という心的作用が働いている。そこにあるのは、一観客として人形浄瑠璃文楽を楽しむ姿であり、人形浄瑠璃文楽への愛情なのである。
  とすれば、冒頭で書いた「感動を覚えた舞台をすばらしいと表現してみ」ることは、そのまま劇評になるのではないかということになるが、そうではない。これに関しても小林の著作から引用して考察してみる。
  「ある対象を批判するとは、それを正しく評価する事であり、正しく評価するとは、その在るがままの性質を、積極的に肯定することであり、そのためには、対象の他のものとは違う特質を明瞭化しなければならず、また、そのためには、分析あるいは限定という手段は必至のものだ。」と小林は言う。すなわち、劇評とは、対象を分析あるいは限定という手段を用いて、他とは違う特質を明瞭化することにより、その在るがままの性質を積極的に肯定し、正しく評価することである。
  ここにおいて、冒頭に述べた「対象をとらえる『目の付け所』とそれを批評・評論へと昇華する基準および論理という三要素」が、劇評において必須の条件となるわけである。人形浄瑠璃文楽の場合について具体的に述べれば、それは「風」であり名人上手が残した実演てあり、それによってもたらされた感動ということなのである。
  今回、劇評を記すに当たって長々と述べてきたのは、ともすれば劇場通いが義務と化し時には億劫かつ面倒なものにさえ感じられることがあるのを省みたからである。楽しみであるはずのないものから、劇評など生まれるはずはない。楽しみでないのなら劇場通いなどしなければよいのだ。劇場を書く熱と力は、批評しよう(してやろう)というところからではなく、実際の観劇体験の中から自然に生み出されるものなのである。書けなければ書けないでいいのだ、劇評などというものは。それが、心を揺さぶられた感動から「派生」したものであるゆえに、劇評として立ち現れてくるのであるから。

第一部

『双蝶々曲輪日記』
「堀江相撲場」
  もっぱら詞で進む。長五郎の睦も長吉の希もともにカシラの性根を踏まえていたが、全体として面白さに至らず平板に終わった。カシラの性根とは究極的には茶碗が割れるところ、長五郎はグッと力を入れるとそのまま割れるが、長吉は力んでみても割れずに癇癪を出して叩き付けてしまう、その所作が典型的に示しているものと言えよう。それがここまでの語りで自然に観客の胸へ落ちれば出来たということになるのだが、象徴される描出としてはここに至るまでに不足があったと言わなければならない。特定の箇所がどうのこうのというよりもしっくりくる感じがなかったのだ。この「しっくりくる」というのは気持ちとしては判然としているが特定の箇所云々で収まりがつくものではなく、やはり年輪というか芸の積み重ねによるとしか言い様がない。昭和四、五十年代の奏演を聞くとその差は歴然としているのである。もちろんそこには時代そのものの差が存在もしているのだろうが、そうなると事はなかなか厄介なものとなる。昭和四十年代を以て日本の伝統は断絶したという司馬遼太郎の言葉は真実そのものであるだけに、平成も過ぎて令和の人形浄瑠璃文楽がいかなるものであるべきか、簡単には解けそうもない難題が存在しているのである。なお、マクラは力強いが不安定であり、三味線の清馗は全体としてキビキビと弾いていたと言える。

「難波裏喧嘩」
  掛合をきっちりと寛太郎が捌く。二人侍は安っぽく出来、長五郎は「と言ふは嘘ぢや」の変化なども明確で、津国南都文字栄のベテラン勢が存在感を示した。長吉は「米屋」での姉の差配を受けて一つ成長して大人になっている感じを碩が納得の描出をし、吾妻と与五郎は若手咲寿と亘が相応に勤めた。

「八幡里引窓」
  端場を小住が勝平の三味線を得て語る。マクラは丁寧で地も安定しているが全体として詞が堅く平板であった。足取りも重すぎた。長五郎の「それは幸せなこと。同じ人を殺しても、運のよいのと悪いのと、ハテ幸せなことぢやの」など心情が伝わらないし、母の「年長けても父御の譲りの高頬の黒子」は嬉しそうに聞こえたが、なぜそう語るのか腑に落ちなかった。もちろん、そう語る理由は明白である。「この長五郎は五つの時養子に遣って、〜かつふつ音づれもせなんだが、去年開帳参りにふと大坂で見つけ、年たけても父御の譲りの高頬のほくろ。もしそなたは長右衛門殿へ遣った、長五郎ではないかと、問ふつ問はれつ昔語り。〜戻られたら引き合はし、兄弟の盃。負はず借らずに嫁ともに子三人。わしほど果報な身の上はまたと世界にあるまいと、悦ぶ親の心根」と詞章にあるのだから。にもかかわらず、胸にストンと収まらなかったのはとりもなおさずこの母(の言葉)が語られていないのである。実際、公演記録映画会(十九・錦糸)ではごく自然に納得がいったのだった。すなわち、適切な解釈がなされていてもそれが実際の語りに現出しないと何にもならないということを示している。そして、肝心の「欠け椀で一杯ぎり」もそれがどういう意味を持つのかなど考えさせるには至らず、ただの事実報告に終わっていた。結論としてはこの場を語るには未だ経験(稽古)不足と言わざるを得ないだろう。三味線はマクラを初め変化も出来て首肯の弾き方であった。
  切場。ここは数ある浄瑠璃義太夫節の中で最愛の一段である。古靱(三味線芳之助)の奏演を聞き込んだし、国立劇場公演記録会の白黒映像も体験し、『昭和の名人豊竹山城少掾』(渡辺保、吉田秀和賞受賞)中の所論も繰り返し読んでいて、もちろん『浄瑠璃素人講釈』「引窓」の項も武智の劇評も承知している。それもあって、自身も「『引窓』論―二世古靱太夫の浄瑠璃による―」を書き上げたほどである(http://www.ongyoku.com/hokan/hokan4.htm)。なお、今月の浄曲窟で相生・重造のを取り上げたがこれがまた絶品である。このコンビでの最高傑作の一つとしてよい出来で、相生は三世越路太夫のそして重造は三世清六の弟子であることをあらためて思い起こさせるものであった。未聴の方には是非とも一聴をおすすめしたい。それほどに思い入れのある一段であるが、とりもなおさず浄瑠璃義太夫節として魅力的かつ面白い一段なのである。楽しみとして何度でも聴いたり視聴したりできる。理屈はその後についてくる。マクラが奏演されるやそのまま段切まで、一本の糸がピンと張り詰められ、一本の棒が貫いているという感じで、グイと引き込まれるや終わってみて堪能したという充実感が溢れ出るというものであった。これこそ(視)聴者冥利に尽きるというところであろうし、それゆえにこそ、今回も期待感を持って劇場の椅子に座ったのであった。ところが、マクラの足取り間変化が乏しく、十次兵衛と二人侍のやりとりも淡々と進み、最初の眼目である引窓開閉のあたりも緊迫感はなく、引き続いての母と十次兵衛の会話には心情が不明で、ここまでで肩透かし感を抱かざるを得なかった。長五郎の登場からはまだマシになったと言えるが、「思ひ設けてどつかと座し」直後の詞も弱くと、最後までこんなものか(言葉は悪いが)という感じが拭えなかった。勤めるのは呂と清介で当代の第一人者であるから、悪いはずはないのだが(三味線は段切などさすがではあった)、どうやらこの「引窓」自体がただの浄瑠璃義太夫節ではないことがその原因であろう。すなわち「風」の描出現出化がなされていないとダメであり、いささかの間延びも隙も許されない、厳しい一段なのである。作品の完成度がそれほどまでに高いということでもある。要するに普通にやっては全くモノにならないのである。逆に言えば、古靱の奏演がいかに並外れて優れたものであり、公演記録映画会(越路喜左衛門であった)も抜群の内容であったということになるであろう。相生・重造の奏演もまた然りである。ということで、ライヴ奏演よりも、復刻CDを聴き白黒映像を視聴する方が勝っていたという結果に終わった。ただし、これは「引窓」に限ったことではなく、前述の通り昭和中後期までと平成令和との違いという大きなところに還元されるわけであり、かつ、今回はその差があまりにも懸隔していたというわけなのである。「風」とは難解なものとされるが(武智が難解なものに仕立て上げたという一面もある)、こうやって実際の奏演に耳を傾けると、事実として奏演の出来を直接的に左右するものであり、浄瑠璃義太夫節の完成度そのものに関わるものであることが、はっきりとわかるのである。しかもそれは、堪能するという感性や楽しめるという心情的な側面にまで及ぶものであるから、「風」とは理屈(こねくり回したりこしらえ上げたりしたもの)ではなく、浄瑠璃義太夫節の実体そして真実そのものということになる。それらを理解したのではなく実感したというところに、「風」の最重要性が存在していると言えよう。なお、今回の語りについては、太夫が来年四月に東風の元祖豊竹若太夫の十一代目襲名を控えているので、彼の真価はその襲名披露狂言において東風の大曲をどう語るかで見極めるということで、とりあえず不問にしてもよいだろう。
  人形陣。玉男師の十次兵衛は奏演によるハンディはあったものの、前述の歴史的奏演と合わせてみても遜色なく釣り合うという遣い方で、この一段を支えたと言える。ただし、段切「南無三宝夜が明けた」が判然としなかった点は一考の余地があろう。ここはまた、背景に月が出なかったというところにも一因はあると考えられ、前半おはやの機転の引窓が詞章通りに開かなかったこと(段取り万端が初日だから仕方ない面もあるだろうが)と合わせて、手摺の不手際と言えよう。母は勘寿が燻し銀の遣い手を十二分に見せて、これも奏演を補って余りあるものであった。おはやは路銀の確認など細かいところまで行き届いていたが、端場で元新町の都という出自を匂わせるには至らなかった。ここはかつての簑助師などが至高であった。長五郎の玉志と長吉の玉勢はそれぞれカシラをふまえた納得の遣い方であった。以下端役まで各々が相応に遣い、人形陣の充実を思わせた。以下余談というより冗談半分であるが書いておくと、オーストリアのザルツブルク音楽祭では、街中の店でかつての名演奏を流してパペットでオペラを見せるという趣向があるのだが、この人形陣でそれをやればより映えたのではなかろうかと思った次第である。

『面売り』
  劇場に出掛ける前からそして席についてからも、開演を半時間前倒しにしてまで出す意味のある景事とも思われなかったのだが、実際に床と手摺により始まって進んでいくと、その感は消え失せることとなった。そのことはまた、客席のそこここに笑顔が溢れていたことによっても裏打ちされよう。明るく晴れやかで、一足先に正月公演となったのではないかと感じられもしたのである。新作の景事としてここまでできれば言うことはあるまい。呂勢・藤蔵をシンに靖・友之助そして亘・錦吾以下の床である。三味線の調子もさまざまに上げ下げがあって耳にも賑やかであった。人形は玉佳と勘弥で、文字通り面々での遣い方がそれぞれによく映り楽しいものであった。ここでもまた昭和をいかに捌くかということはあり、「権兵衛が種蒔きや烏がほぜくる」という、作品初演時にはごく当たり前であった言い回しなのであるが、それだけで客を引きつけられた往年とは異なるも、「ズンベラ」や笑いで客席を沸かせた功は大きいと言って良い。第一部の追い出しとして成功裏に締めくくった。

第二部

『奥州安達原』
「朱雀堤」
  袖萩と直方という父娘出会いの仕込みというだけではいささか大仰に過ぎる一段で、生駒之助と恋絹も出るしやはり通しの中で存在意義が際立つものである。しかし、今回はそれとは別に収穫があった。床は藤と清志郎、それは何かというと非人の描出である。舞台正面に非人小屋がしつらえてあり、否応なしに乞食袖萩(そしてお君)の境遇を実感せざるを得ないわけだが、それを映えさせたのが非人同士の会話であった。とりわけ六がよかった。酒浸りでそれが怒りや泣きの感情表現と直結し(いわゆる何々上戸というもの)、日がな一日ところ構わぬ卑しい大声でくだを巻いているが馬鹿力があるという人物造形、それを藤が見事に映し出していたのである。前述の通り、ここを次場のお膳立てとだけ捉えれば、スルスルと語り進めば仕事は為果せることにはなるが、まるで面白みはなくなる。袖萩の非人という境遇を際立たせた、その一つの功が今回大きなものとなった。もちろん、他の多くの登場人物の語り分けにも実力を聞かせた。ただ、その非人の六(を中心とした非人社会の会話)が聞き入るほどに際立ったため、袖萩ならびに直方が主役にならなかった(父娘の対面場面が中心とならなかった)のは、切場へ至る端場の結構としては課題があるのかもしれない。なお、三味線の弾き分けは確実なものであった。

「敷妙使者」
  希と清丈。マクラで老夫婦のみが居る環の宮の明御殿しかも冬という大前提、それを活写するとまでには至らない。とはいえ、「物事包まぬ夫婦中涙一つは隠し合ふ」との詞章が実感として迫ってきたのは、老夫婦の会話をそれだけよく映していたということになろう。敷妙の出から物語は進み、義家の登場によっていよいよ動くことになるのだが、そこは相応であって鮮やかとまでには及ばなかった。しかし、語り場としてはきちんと勤めたとしてよい。毎公演評書いているのだが、ここは公演記録映画会の小松・叶太郎が基準となってしまっているので、それとの比較はなかなか厳しいものにならざるを得ないのである。人形は敷妙の清五郎が姿良く、武士である直方の次女で今は義家の妻という立ち位置をよくふまえた、立派なものであった。

「矢の根」
  ここの基準は前段同様の織・重造である。貴族(もちろんなりすましだがここではなりきっていなければならない)、御大将、そして存在感のある曲者。今回の語りは芳穂である。一番が則氏で和歌を受けての詞からの間と足取りがすばらしかった、これはまた三味線が錦糸であるということがとにもかくにも大きいに違いない。次が義家で、矢の根を受け止めてからの颯爽とした言い回しがよかった。第三というより至らなかったのが南兵衛で、ギョロ目の小団七という一癖も二癖もあるカシラの造形を生かし切れず、その描写に不足を感じた。全体として、三味線の功もあって、短いが面白みのあるこの場を客席にきっちり届けることはできたとしてよいだろう。

「袖萩祭文」
  ここの基準は音源の古靱・清六そして白黒の越路・喜左衛門である。清治師の三味線はマクラそして袖萩の出から神経が行き届いており、それは越路師の相三味線当時から一層の深みと奥行きを増したものである。祭文は美しくも哀れであり、盆が回る前には切迫感があった。その三味線で語るのは呂勢であるが、袖萩の最初の詞のノリ間は今一つ、「覆ふ袖萩〜浜夕も庭に立ち出でて」の変化ある間と足取りがもう一歩、祭文はあと少し情感が加われば、「惨う言ふのは可愛さのうらの浜夕」とある詞章通りの詞としてはやや不足で、交代前の切迫感もやや物足りない感を抱いた。とはいえ、これらを声に任せて振り回しては素人浄瑠璃になるわけで、なかなか難物であるのは理解している。そうなるとやはりここでも「風」が生きてくるわけで、大和風での行き方を徹底した方が全体として十分な仕上がりになったのではないかとも思われるのである。客の入りが三部中一番よかったのは、やはり作品すなわちこの「袖萩祭文」を目当てであったからであろうし、その意味からは観客の望みを叶えるに足る語りであったことに間違いはない。そう考えると、名人というのはマクラからグッと引きつけておいて交替(本来なら段切の柝頭)に至って初めてそれが緩むという類のものであるのだろう。そして、それが出来れば紋下であるということもまた確かなのである。

「貞任物語」
  段書きがしてあるのは、中次前切では落ち着かないためでもあり、清治師が勤める前場の格を高めるためでもある。その段書きを尊重すれば、一段の眼目は後半にあるわけで、なるほど前半の袖萩とお君は前場の継続であるし、途中の宗任と義家の件は「矢の根」と同位置と考えればそれなりに引き立てられなければならない。父娘の最期で物語は一つ上に進んで、鐘太鼓の音に再びの義家の出からが、いよいよ「貞任物語」の真骨頂となるわけである。段切はもちろん音が上がっての絶品の舞台が用意されている。こうした構造としておいて、床の錣と宗助がどうであったかというと、語りは一杯ではあるものの全体として難声が否めず、苦しく物足りなさを感じざるを得なかったし、鮮やかさにも欠けていたと感じられた。三味線は「貞任暫しと押し留め」以下のノリ間が抜群であったが、段切は大場には至らず、全体としてやはり喰い足らぬものがあった。今回は損な役回りであったというところであろうか。残念という一語に尽きる。
  人形陣、玉男師の貞任と宗任の玉助は、カシラの性根をふまえて何よりも大きな遣い方で、床ではなしえなかった大場を見事に作り上げ、「安倍貞任宗任が武勇は今に隠れなし」の段切詞章を体現した。途中までの則氏そして南兵衛という一癖ある人物像や不敵さも的確に描出しており、物語の全体結構を造形したと言えよう。和生師の袖萩は終始下手垣根外で遣われるから際立つ所作があるはずもなく、それを悪目立ちで振り回したりすると逆効果となる。盲目で乞食という境遇による悲哀が滲み出なければならないが流石であった。ただ、必死になるところもあるので、そこはもう少し押し出しても良いと思われた。お君(勘次郎)はそんな母に付き添いかつ支えもする健気さが表れていた。直方の玉也と浜夕の簔二郎が遣った老夫婦は、各場面場面で相応の動きを見せ、「ただ二人夫婦の人なんいまそかりける」との詞章を冬の情景の中で描出できた。ただ、浜夕はもう少し老けていてもと感じられた。義家は狂言回しで肝心なところに登場する。玉佳は要所要所での必要条件をクリアしていたものの、「源氏の御大将」とある颯爽とした大きさの描出はあと一歩であったように感じた。「朱雀堤」での非人群は床の奏演により活写されており(六は文哉)、他の人物もそれぞれ納得のいく遣い方であった。

第三部

『冥途の飛脚』
「淡路町」
  近松物は他のいわゆる浄瑠璃作品と比べて独特の趣がある。詞章や内容・心情はもちろんのことだが、ここは奏演に関してのみ若干の私見を記しておく。全体として潔さというかサッパリとした歯切れの良さが存在する。たっぷりという浄瑠璃義太夫節にとっておなじみの表現は該当しないのである。聞く側の印象としてはじっくり語られたというのではなく、語り捨てられたという感覚、時間があっという間に過ぎたという感じを抱く。料理で例えると、脂っこさしつこさとは無縁で、衣をまとって揚げたり汁をしみこませて煮たりするよりは、一塩してさっぱりと焼き上げるという調理法が相応しいというところか。近松物を勤めさせれば当代一(今以て)の綱・弥七の奏演を聴くと、これらがそのまま立ち上がってくるのである。サラサラという表現も相応しいだろう。要するに普通の浄瑠璃義太夫節とは異なるという印象を強くもつのである。最初にこう書いたのは、別に近松物について講釈を垂れたかったわけではなく、第三部を通して聞いてみて、すべてがどうも普通の浄瑠璃義太夫節に聞こえたからである。個々の奏演については以下で記すが、それらを超越したところに近松物のありようが存在するのではないかと感じたのである。近松物が難しいとされるのは、七五調の定型から外れる箇所が散見されるとか、大落シやクドキの典型的旋律がないとかいうわかりやすい段階以上に、鮮烈な印象とでもいうべきものが要求されるからではなかろうか。それが詞章と密接に関係しているのは言うまでもないが、そこから立ち現れてくる近松物の姿というものが、今回は淡かったとの感を抱いたのである。
  さて、上之巻を勤めるのは織で燕三が弾く。咲太夫師直伝であろうし悪かろうはずがない。マクラはまず忠兵衛の境遇を描き、間と足取りが変わると飛脚亀屋の店先が活写される。続いて手代による二件の扱いには明確な違いが聞き取られ、母妙閑が登場しての詞はなるほど「世迷ひ言」の印象である。「籠の鳥なる」から三味線の変化で下手へ自然に目が行くと、「里雀ちゅう兵衛」と掛詞を利かせて忠兵衛の出が語られる。飯焚きそして八右衛門とやりとりする忠兵衛の詞はいかにも軽薄で、頭の中は梅川のことのみでそれによる方々の不埒が如実に示される。忠兵衛の長台詞は衷心衷情の吐露が聞く者の胸を打つというよりは、切羽詰まっての告白という印象であった。もちろん正直といえば正直と言える。八右衛門は友達思いの男で、陀羅助カシラの典型的性根とは異なる。とはいえ、証文の件など単なる悪ふざけにとどまらず嫌味な苦々しさが加味されていればと感じられた。そして羽織落とし、ここの逡巡で客席から笑いが起こったが、これは当の本人は必死だが端から見ると滑稽という例であり、観客が忠兵衛の心情に寄り添っていない証左とは言えないであろう。以上、各所各所で行き届いた解釈がなされた床であった。

「封印切」
  中之巻、切場として千歳が富助の三味線で勤める。まず、梅川の独白が彼女の現状を如実に感じさせた。二上り唄は禿声で聞かせる。八右衛門の造形は「かう言へば忠兵衛を憎み猜むやうなれどあの男が身の成る果てが可哀ひ」と詞章にある通りで、上之巻での造形と軌を一にしており、統一感があった。ゆえに、カシラに自然と備わる嫌味な苦々しさは控えられていた。忠兵衛は狂気というほどではなく、「元来悪い虫押さへ兼ねて」そのままの封印切りであった。梅川のクドキは美しさと真実に溢れたもの。全体として丁寧にドラマが展開していったとの印象であった。一点、「金銀降らす邯鄲の夢の間の栄耀なり」とある「りんも玉も五兵衛も一両づつぢや来い来い」での忠兵衛の心情がどのようなものかは不明で伝わって来なかったが、ここは前述の綱・弥七の奏演を聴くと見事に描出されているのである。

「道行相合かご」
  心中の道行ではない。「生きらるるだけこの世で添はう」と詞章にある通りの逃避行である。残念ながら旅の行程は省略しての作曲上演となっているから、大和路という印象は薄いものとなている。「相合炬燵相輿の膝組み交はす駕籠のうち狭き局の睦言の」とあるからいかにも艶っぽい感じがするはずであるが、「過ぎしその日が思はれていとど涙のこぼれ口」と収斂するし、「横時雨野辺の笹原薄原」との情景ゆえに、もう寂しい一方の道行である。これが前述「生きらるるだけこの世で添はう」の実態なのであった。とはいえ「今は真身の女夫合ひ恋は今生」という梅川の言葉からすれば、やはり喜びと明るさもあるはずであるが、それもまた「霰交じりとに吹く木の葉袖の凍りと閉ぢ合へり」となる。この光と影、陰陽が語り出されればと思ったが、そこまでには至っていなかった。三輪と芳穂以下の太夫陣である。三味線は団七と団吾以下でよく揃っていた。
  人形陣、勘十郎師の忠兵衛はやはり語る太夫との相関関係で捉えられてしまうから、鮮烈な印象を抱くまでには至らなかった。もちろんその存在感は揺るぎのないものである。梅川は勘弥が遣ったが、その出から「田舎のうてずにせびらかされて頭が痛い」との詞章を体現しており、以下やはり床の奏演に対応した自然なものであった。これで「哀れ深きは見世女郎」の格が出ていれば。八右衛門の玉輝はこれまた床と相応したものであって、友情に厚い「親爺とも言はるる」人物造形であった。他の人形についてはそれぞれ的確に遣っており、その中では花車(簑一郎)が「女主人とて立ち寄る女郎も気兼ねせず」との人物像を体現していたのと、禿(簑悠)の三味線がピタリで観客を感心させ喜ばせていたことを記しておく。

 

【従是千秋氏評論】

令和五年十一月公演(十一月十日)
第二部「奥州安達原」 三段目

  11月になっても暑い日が続いて爽やかな気候とは言えず、体調も不安定になりがちです。開演前になっても空席が目立ち、シニアの健康が心配されましたが、直前には前方席はほぼ満席となりました。新人間国宝玉男師を初め、和生師、清治師御三方の揃い踏みとあって、期待が高まったのでしょう。

☆朱雀堤の段
   藤太夫     清志郎
  「さればにや少将は‥」から滑かに始まり、三味線も美しく、さあこれからと期待が膨らみました。しかし全体的に滑か過ぎて平板になりメリハリに乏しく、淡々と進むばかりで、六などの男達の野卑にリアルさはあるものの、袖萩の「行き先を思ひ廻せば夜の目も合はず、」は深みがありません。瓜割のワル振りも普通、{仗と袖萩の出会いもあっさり。
  つまりは人物描写が甘く、これからの展開に資する力が弱いのが残念でした。 
  但し登場人物が多く、語り分けが大変な中で、よく整理して観客を混乱させなかったのは、手腕の一つでしょう。

☆敷妙使者の段
   希太夫    清丈
  {仗直方とその妻浜夕という老夫婦の会話は「奥歯、漏れくるまばら声」である筈なのですが、無駄な高音と大声で、老人とはとても思えない。その上旋律流れず、リズム無しときては、折角の劇的な場面もただ説明となり、肩透かしとなりました。{仗は「元来それがしは平家、‥」と述べる通り、論理的でその分自己に厳しく、苦しみも一入なのですが、希太夫はその論理に同調せず、どこか他人事です。
  「八幡太郎参上」に重み無く、声か大きくなるだけで、「‥時しもあれ」と言っても、その「時」
は終に出現しませんでした。

☆矢の根の段
   芳穂太夫    錦糸
  三味線はリズム良く澄み切った音色で浄瑠璃を先導します。芳穂は「娘は立って行く」だけで新しい局面を開き、聴衆の展望を明るくしました。ここに至ってやっと劇中人物が立ち上がってきたのです。
  「中納言則氏卿、」と言う声と共に、厳かにしずしずと登場する則氏は、流石玉男師の遣う人形だけあって、堂々たる格式の高さが感じられ、大きく見えて立派でした。その顔も端正にして申し分無く、あたりを払う威厳がある中に、何処か下心が漂うあたり玉男師の、表現への精進振りが示されます。
  芳穂はこの段を切り開こうという気概があるので、思い切りよし、口跡よしで、「これはまた思ひがけもない、‥」にはリズムもあって、それが「‥白々しさ」という裏をかえって明白に示します。南兵衛、則氏、義家の絡みも緊迫して面白く、則氏が「さこそあらん。」と{仗を責め立てる梅の論理の決めつけ方も、逃れ難い締め付け感があって、説得力がありました。
  つまりこの段は芳穂と錦糸の三味線が相俟って、丸本の二次元から三次元の劇へと進んだのであって、やがては四次、五次‥X次と高次の劇が立ち現れる可能性を示したのです。

☆袖萩祭文の段
   呂勢太夫    清治
「たださへ曇る雪空に、」から呂勢の繰り出す微妙な揺れある旋律に、早くも心が動かされ、「一間に直す白梅も無常を急ぐ‥」情景に陰翳が差して来ます。故に袖萩の出が必然と思われ、待たれるのです。「娘お君に手を引かれ‥走らんとすれど、」に清治の三味線が絶妙に入り、呂勢の抑揚、間に絡みつつ、「この垣一重が鉄の」を哀切極まりないものとします。
  しかも美しい。汚辱の中で袖萩は美しい。 
  「琴の組とは引きかへて、」などは玉が零れるような美しさで、呂勢の語りは悲惨にして無惨な「これはまたあんまりきつい落ち果てやう、」の袖萩を浄瑠璃の珠玉の流れの中で磨き、輝かせている様です。まことに袖萩とはそういう存在なのです。屈辱と汚濁の底から一転して「美」に変化する存在。呂勢と清治師はそこを極めようとしているのでしょう。
  後で述べる様に袖萩とは東西のダイナミズムの間に翻弄されて死んだとはいえ、「袖萩祭文」で見事に甦るのです。甦りを「美」として実現するのは呂勢と清治師。
  観客にとってはその「美」は想定外だったかも知れませんが。
  その想定外こそX次元への道なのです。
  但し{仗の厳格、浜夕の滋味は呂勢には表現し難かった様です。

  呂勢の素晴らしい「間」と「間」に滴る珠玉の様な清治師の三味線を堪能した段でした。

☆貞任物語の段
   錣太夫     宗助
  錣太夫は大車輪の奮闘振りで、特に{仗、浜夕がニンに合い、「そんなよい孫産んだ娘、」と浜夕が慈しみの心が溢れるのを抑えながら言う詞は胸に響きました。「折しも」は少し弱かったのですが、宗任の出現、義家登場をよく整理し観客に印象付けました。女声も巧みで、「かうなり果てた身の上、‥」は切実です。
  そして終盤、貞任、宗任、義家の勢揃い。其々の詞を力強く語って、玉男師、玉助、玉佳の人形をしっかり支え、観客に満足を与えました。
  人形の出来栄えが良く、浜夕の傘姿は寂しく美しく(簑二郎)、玉男師の則氏は「鐘の声」まであくまで端正、一転しての貞任の荒々しさが見事です。かてて加えて、娘お君はたかが子役とあなどる勿れ、出色の出来。可愛くいじらしく、「さする背中も釘氷、」辺りの、袖萩をさする手つきには心が締め付けられました。勘次郎、新しい才能の出現です。
  錣は熱演で声を振り絞り、舞台を盛り上げるので、観客は見応えがあったと大いに満足した事と思います。

☆とはいえ‥‥帰途につきながら、つらつら考えるに‥やはりこれでは、この「貞任物語の段」は全て想定内の事に過ぎないのではないかと。

  限界突破が必要なのである。錣太夫にはその責務を果たして貰いたいものだ。
  錣の弱点はその語りに律動が無い事だろう。律動が無いから、無理な大声と力みによって疲弊し、此処という所で極める事が出来無いのだ。「折しも」が弱くて場面を変えられず、よって宗任の怖さが出て来ない。「曲者待て」から「‥日本国中を放ち飼ひ」との義家の詞も秩序の恐ろしさが判り難い。又「氷を踏んで‥別れ行く」の間の切れが悪いので「底の善悪」が見えて来ない。
  強弱、緩急、高低、皆律動が基本なのだが。

  古靭の「袖萩祭文」をCDで聴くと全編律動に満ち溢れているのが判る。その律動が聴衆の律動と共鳴して、大きな感動へと繋がって行くのだ。
  何故なら律動とは生命の根源。自己組織化寸前と言われる「ベローゾフ・ジャボチンスキー反応」を見ると、それはまさしく律動であって、「これが生命の始まりなのだ」と明確に認識させてくれる。そして細胞の律動、心臓の拍動へと繋がって行く。この生命の根本に即応する事こそが重要なのだ。
  しかも古靭はその律動にシンコペーション的な欠落を嵌めてぞっとさせるのである。つまりは心臓の期外収縮、そして死の影。「間」となっては殆ど死そのもの。古靭の浄瑠璃には生と死が既に包含されているのだ。聴衆は死の恐怖と再生の喜びを常に感じて陶酔する事になる。

  錣太夫がその律動を体得するならば、この「貞任物語」の世界は大きく変化して、「一体何事が起こったのか」と聴衆は驚き、人形陣も既成の枠組みを破って新しい世界を展開する事になるだろう。

☆それではどんな世界か。
  東と西の「力への意志」のダイナミズムの世界である。貞任、宗任は東の野生の「力への意志」を、義家は西の秩序への「力への意志」を。その間で袖萩の「美」と{仗の「義」が閃くのだ。その一瞬を観客は愛惜する事となる。

  ニーチェの概念「力への意志」は彼の発狂の為、未完成であるが、「ディオニソス」的な力動を整備し社会化しようとしたのであろうと考えられる。

  このダイナミズム、力動の世界は内的な律動の増幅によってのみ表現され、伝達されるのであって、急な大声では聴衆は共振出来ないのである。又東の野生の暴戻の恐怖は「死」によって裏打ちされるのであるから、「貞任無念の髪逆立て」は「死」という異物が取り憑いて「エエ口惜しやなあ。」と「太刀に手を掛け」てこそ、秩序の義家は受けて立つ事が出来るのである。
  それ故、この辺りの表現は生死を包含する律動の神秘に身を挺してこそ成し遂げられるのであって、その結果観客聴衆は畏怖、恐怖を感じ、日常の安穏な世界が破れて出現したものに慄然とするのだ。

  慄然。世界は「生」「死」が渦巻く坩堝であり、その結果は慄然たる有様なのである。しかしそこから「美」が現れても来る。
  想定内から生まれるものはニヒリズムでしか無い。錣太夫には自己の内なる律動を鋭く剔抉して、その生と死の真髄を浄瑠璃として表現してほしいものだ。
  ニヒリズムの克服の為に。