人形浄瑠璃文楽 令和五年七・八月公演(初日所見)  

第一部

「かみなり太鼓」
  今回で三度目、上演頻度は高いということになるが、夏休み親子劇場の看板となったとしてよい。作もよく出来ているが、演者である中堅若手の力量とうまくマッチしていることが大きい。客席もその「ピッタリ感」がわかるから、最後三味線に合わせて拍手が手拍子になり、作品としてすべての一体感が現出した。今回も大成功裏に幕となったのである。まさに浪花の夫婦としての典型を小住・勘市と靖・簔紫カが活写し、トロ吉と名の通りのどこか頼んない造型を希・玉佳が創出する。頑是無い寅ちゃんも碩・勘次郎がうまく描く。それらすべてを三味線シンの清馗がまとめ上げ、二枚目の清丈はクドキの三味線がよく弾けていた。何もかも十分であったと総括できるのだが、開幕前に余計な無駄な演出があった。人工的録音による雷鳴である。落雷時に子どもがびっくりしていたが、そんなことをする必要などさらさらない。劇中での落雷とはトロ吉が落下することであって、その驚愕は恐怖に繋がるものではない。かつ、冒頭も「あつい、あつい」の繰り返しなのだから、雷鳴音の効果は開幕と何の意味も無いわけである。どうしても幕開けに使いたいなら、暑さすなわち夏を表現する音にすればよい。雷鳴は雷を巡る話としての前座を務めることはできないのである。
  続く解説は必要十分にして無駄がなくまとまっている。体験コーナー復活は、いかに人形を使うことが大変か(重量感や手指の疲労感など)が感想によりよくわかるという、副産物をもたらしてくれた。

「西遊記」
  冒頭の地獄の火焔で客席からオオと声が上がる。大道具方の手柄である。ただ、内容が元の各場面を継ぎ接ぎしたもので(それゆえに全体として不足感不十分感ちぐはぐ感が残った)、地獄の閻魔はおじゃる丸よろしく揶揄われる対象でしかなくなってしまっていたから、却って仰々しいだけのものになってしまった。閻魔の裁きをカットしたのは鬼の存在感を含めて地獄の恐怖を無にしたことともなり失敗であった。続いて、毎回不明瞭であるのが悟空が捕らえられるところ。仙術自在の悟空が木の根に躓いてという場面が見ていてわからない。この見ていてわからないというのは次の虹も同様で、詞章を読まなければ(子どもにこの詞章を聞き取れというのは無理、「かみなり太鼓」とはそこが違う)何のことかわからないことになる。それでも、宙乗りは流石にウケていたが、それだけではもったいなく、簔二郎には一仕事してもらう必要がある。まず如意棒である。読んで字のごとく意のままに伸縮大小が自由自在になるもので、劇中でも普通サイズから巨大化まで各種取り揃えてあったが、それらが単体で登場するから連続性がない。自由自在に伸縮大小するところを客席にはっきり見せなければ。次に小猿の登場、唐突であり詞章にも書かれていない。悟空が自らの髪の毛を抜き吹くことで現出させるという、その所作と演出は可能なはずだ。今回はこれらすべてが相俟って、孫悟空という折角のキャラクターを生かし切れず、あれよあれよという間にスルスルと(順調ということではなく手応えがなく)、ただ宙乗りはウケたという一点豪華主義で終わってしまった。作を活かせなかった痛恨のミスである。したがって、三業の成果も三輪、津国そして団七のベテラン勢に、亘、聖、薫と友之助、錦吾、燕二郎の若手陣がそれぞれ各自の特徴を示したが、それだけにとどまったのは残念な限りであった。

第二部

『妹背山婦女庭訓』
「井戸替」
  久し振り、文字通り久しいものであった。求馬=淡海の現状を明示するだけでも必要不可欠な一段である。位置付けとしては四段目立端場の前すなわち小揚ということになり、そこを藤蔵の三味線というのはもったいない気もするが、聞いてみて納得した。この一段、間と足取りと変化がとりわけ面白くなければならないという点で、藤蔵なのであった。小住は完全にこの三味線に助けられており、地に不安定なところがあるのもまだまだ修行である。やはり「かみなり太鼓」がピタリと嵌まっていた分だけ不足に感じられた。「堀川」や「十種香」のパロディーも藤蔵の完全性に比して太夫はまだまだであった。「堀川」や「十種香」が十全に語られてこそのパロディーなのであるから。かつての相生や伊達路がピッタリであったことは今以て変わらないのである。また、この一段は風物詩という点から見ても、文月七日は七夕よりも井戸替えというのが江戸から近代初期にかけての常識であったことが、井戸端会議や長屋という言葉の存在感とともに伝わってくるのであった。大切にしたい一段である。

「杉酒屋」
  錦糸の三味線で芳穂が語る。三味線に関しては、たとえば「力む拍子に呑み口抜け酒は滝津瀬びつくり敗亡」の巧みさなど挙げれば切りがないので、以下に記すのはもっぱら太夫についてである。冒頭のマクラが不安定、橘姫の出がそれと暗示されない(巧みな奏演の場合、下手幕へ自然と目が行くものである)。お三輪のクドキが不十分で快感に至らず。ただし、「月の笑顔をぴんと拗ね」以下橘姫の詞は出来ていた。魅力的な一段ということはよくわかったので、現在の力量相応ということになろうか。

「道行恋苧環」
  颯爽とした道行である。清治師に清志郎以下よく揃っており、とりわけ三下り唄の踊りが引き立った。太夫の織はふくらみや艶に欠け、靖はやはり低音の響きが浅く弱い。床は全体として平面的で幅や奥行きが不足し、情感も物足りなかった。これはシンの呂勢の出来を踏まえてもである。そう感じたのは、おそらく期待感が強すぎたためであろう。それほどに、この道行は魅力的なのである。南部、嶋、小松のものが近年では耳に残っている。

「鱶七使者」
  口は御簾内(碩と燕二郎)。太夫は語り分けが出来ており、三味線はよく決まっていた。仕丁二人の会話部分で客席が反応していたが、本日の客層はなかなかの文楽ファンが多かったようで、文楽もまだまだ捨てたものではない(観客レベルで)と感じられた。
  奥は珍しく錣と宗助である。この大音強声を要求される一段(大笑いもある)はさて如何なものか(故師津太夫の語り場として耳にしていたことは別にして)と思ったが、難なく為果せたのは両人の力量がなかなかの域に到達している証拠であろう。とりわけいつもは間延びして退屈さえ感じる女官の件が、足取りと間が冴えて面白く聞かれたのが収穫であった。もう一カ所、鱶七「我武者なやうでも正直者、真面目になつて気の毒顔」の件が詞章を見事に体現していた。
  一方人形には注文があり、入鹿(玉輝)は出から座に上り退出に至るまで動きに軽々しいところが見られ、「高慢我慢」の詞章とやや齟齬が感じられた。鱶七(玉志)は突き出す槍に対して驚愕してはならず、一瞬ハッとはしても「構はず」「不敵」でなければならない。

「姫戻り」
  ヲクリからしていよいよ華やかで四段目風が明らかとなる。希と勝平が担当して無難に勤め上げた。尽未来夫婦と語る淡海の人形(玉助)はなかなかの色男、前段七夕の件でお三輪と唱和する求馬もこれだからモテるはずだと思われて、いずれも究極は利用しているに過ぎないのであるから、なかなかに罪な男を見事に描出していた。

「金殿」
  呂清介。まず、豆腐の御用で儲け、続くお三輪の詞に心情変化が巧みに表現されており、女官の苛めにあっては悲哀が感じられ、疑着の相にはやや物足りなさが感じられたが、金輪五郎の詞ノリは三味線の助けで豪快に語り進め、最後横笛堂の縁起にも情感があって、全体として第一人者としてよい出来であった。
  とはいえ、やはり期待は今から若太夫襲名にある。披露狂言は当然ながら「合邦」などでお茶を濁すのではなく、堂々と『和田合戦』を引っ提げて臨んでいただきたい。東風元祖の一大名跡であるのだから。

「入鹿誅伐」
  プログラムの鑑賞ガイドにある、文楽劇場開場以来初というのは、どうだすごいだろうという意味ではなく、ここまで実に申し訳ございませんということに違いない。今回目にして、『妹背山』はこの「入鹿誅伐」まで出して初めて通し狂言と名乗れるものだと確信した。この一段、「かみなり太鼓」同様に演者の力量が最大限に発揮され充実したものとなった。淡海(南都)の色男ならぬ勇士姿、入鹿(芳穂)の大物ぶり、橘姫(咲寿)の一途な働き、二人の忠臣(薫)、とりわけ孔明首鎌足の詞は睦が立派に描き出せていた。
  最後に、人形陣をフライヤー(チラシ)裏面の掲載順に従って概括する。子太郎(玉勢)は阿呆でもませガキでもない三枚目の狂言廻しとしての役作りが出来ていた。土左衛門(玉翔)以下借家連中(勘介、玉路、和馬)は市井人の活力を描出した。母(紋臣)は悪婆首が詞多く忙しないゆえであるとわかっての遣い方。玉助は求馬の色男も淡海の勇士も遣い分けて十分。家主(簔一郎)の立場はあっても間抜けぶり。橘姫の一輔はとりわけ淡海と対する時がよく映った。勘十郎師のお三輪は各場面各状況各心情それぞれに見事な遣い方であるが、それでも床(太夫)の力量にもよるものであることを実感した。もちろんこれが人形(浄瑠璃文楽)の本来の姿である。入鹿家臣(玉誉、勘次郎)は相応の出来。入鹿の玉輝は前述以外は口あき文七として問題なし。玉志も前述以外は荒物遣い現陣容第一人者として納得できた。豆腐の御用の簔二郎は孫悟空よりも十全さとして上。鎌足の文司と玄上太郎(玉彦)は論無し。

第三部

『夏祭浪花鑑』
「住吉鳥居前」
  口を亘と錦吾。映る映らないという段階ではなく、耳が自然になじむということもないが、声色に落ちず語り分け(弾き分け)が出来ていたからよしということになる。ヲクリ「入る間」を「いるま」と正しく語った点も評価したい。
  奥は清友に三味線を弾いてもらって睦が語る。聞いていて驚いた。まず冒頭のヲクリが安定しているし、進むにつれきちんと浄瑠璃になっているのである。このごく当然のことが従前の睦には欠けていた。今回は語り分けも出来ているし、間足取り変化もあるし、喉や肩の力が抜けたのでもあろうし、それまでに稽古を積んだことでもあろう。もちろん、清友のよき指導によるところも大きかろう。依然として地に不安は残るし、「牢へ入(はい)らぬ者」と語ってはいたものの、全体として本公演中第一の収穫となった。滑り落ちていた中堅筆頭の地位へも復活である。大音強声の素質を活かせるところへようやく至ったかと、その語りを聞きながらニヤニヤしてしまった。実のところ、朝から晩まで終日の鑑賞は応える年齢にもなったし、本作は何度も見聞しこの間上演されたばかりで、床と人形も想像が付くことであるから、第二部までで失礼しようと考えなくもなかったのであるが、いつも書いているとおり、今回もまた実際に劇場の椅子に座ってみなければわからないということを実感したのであった。これだから劇場通いはやめられない。
  ではこれで全面的に大喜びできるかというと、帰宅後に「牢へ入らぬ者」が従前どう語られていたかを確認するためにNHKDVDを視聴して愕然とした(「いらぬ」であったことは言うまでもない)。相生が勤めていたのだが、その自然でしっくりきて違和感なく安心して浄瑠璃に身を任せて堪能できることといったら、現状の比ではなく、歴然とした懸隔が存在していたのである。そのまま江戸の風俗が立ち上がってくる臨場感、かつてはこれが当たり前だったのだ。今は語りの入り口から気に懸けねばならないのだから、作品への没入感から引き戻される(あるいは没入すら出来ない)こともしばしばである。となれば、作品内容への評が深まらなくなるのも致し方あるまい。あの頃の「自然」とは一体何だったのだろうか。それはやはり昭和四十年代を以て日本の伝統は断絶したと司馬遼太郎が述べたように、断絶の前であったからだろう。昭和は遠くなりにけり。文楽も宮部みゆき等の歴史小説と同様に、現代人が日光江戸村で人工的な町並みにカツラをかぶり着物を身にまとっているかの如く、いかにも作為的で不自然なしっくりこない感覚を抱きながら作品世界と向き合うことになるのだろう。もっとも、この「違和感」自体を感じない人々が増えていけば、この大問題もなかったことにされるのであろうけれど。大阪国立文楽劇場がテーマパークと化す日もそう遠くないのかも知れない。ただし、これは単に三業技芸員の問題ではない。上演作品数の縮小もそのまま文楽の衰退を示す。劇場制作側は少なくとも戦前の上演作品は調べ上げて、現行上演へと繋げなければならないはずだ。「竹中砦」が他者の手によって上演されたことを大いに恥じ入るのでなければ、文楽研修生ゼロという非常事態は自らが招いたものとして反省することもないであろう。文楽の危機は今や獅子身中の虫によってもたらされているのである。

「釣船三婦内」 
  千歳富助。富助の千歳を弾いて切語りまで引き上げた功は、自らも切場を弾く結果をもたらした。その意義は大きい。今回の千歳はまずおつぎの詞で聞くものをハッとさせる。取り立てて何と言うこともない脇役だが、それだけに印象に残ることもまずない。ところが、このおつぎがまさに老?客を支えてきた古女房として実に練れているのである(人形の勘寿も燻し銀でよく応ずる)。そして登場した釣船三婦の詞がよく映ることにまた驚いた。続いてお辰の「立ち直つて襟かき合はせ」前後の変化、「コウ傷付けて預かる心、推量してくださんせ」で終わる詞、実にすばらしい(人形の勘弥も同様によく遣っていた)。加えて権と八との掛合がまた絶妙で感心した。ヲクリ前でいつものfp(古くなったカセットテープの音が大きくなったり小さくなったりブレるようなもの)が出ていたが、全体として見事な切場であり実に面白かった。やはり現状第一人者であろう。今回のは定番だった文化勲章太夫のものと比べてもよい水準に達していたのである。
アトとして咲寿と寛太郎が勤める。全体の印象としては、「住吉鳥居前」の口と同様であるが、こちらの方がより自然で慣れていたし利いてもいた。

「長町裏」
  今回は義平次を藤が勤めるというのが前回と異なるところ。虎王カシラをよく体現していたが、「まだ吐かすかい」「ならぬわい」を大音強声に任せて怒鳴ってしまっては性根とちぐはぐになる。加えて「立ち蹴にはつたと蹴られても」の地までが詞の憎々しさを引き摺ってしまったのはよろしくない。織は持ち役の域に至ろうとする勢いだが、地に揺らぎがあるから完全体とはいかない。とはいえ、この両人で納得の仕上がりとなった。もちろん、三味線燕三の働きが大きいことは当然である。
  最後に人形陣について(既述以外で)。玉男師が登場するや割れんばかりの拍手と「人間国宝」と声も掛かって、お客さまは神様に違いない。有難いことである。和生師が遣う義平次との泥場は、前回を踏襲するものとなったが、その結果井戸周りの所作がアクションゲームのようにジタバタしたものであった。義平次が足にしがみつき団七が刀を振り上げて極まる型など美しく目を見張るばかりであったのだが、ふと前述の所作を含めて確認しておきたいことがあったので、これまたNHKDVDで先代の玉男と勘十郎の遣い方を見たのだが、やはり愕然とせずにはいられなかった。極まる型の所作は先代の二人が遣うと両者の心情が伝わってきたのである。ここは様式美だと思っていただけに驚いた。井戸周りの所作もごく自然なものであった。これだけ違うものか。もう一点、団七が天神祭の講中の団扇を取って囃すところ、今のは一緒にワッショイとやるのだがこれでは殺しの後の心情にそぐわない。興奮が残りつつも収束していくというのが先代勘十郎の所作であった。こうしてみると、和生玉男両師の人間国宝認定は、両人の力量そのものに対してではなく、文雀と初代玉男の芸を継承するという立場によってなされたものであろう。そう考えれば納得がいく。三婦の玉也は実によく映る。心情変化も手に取るようにわかり、こういう人形遣いこそが師系に関係なく人間国宝に認定されるべきだ。徳兵衛の玉助とお梶の一輔は相応、磯之丞の清五郎と琴浦の紋秀は、それぞれの場に応じて確実に遣い分けていた。

 プログラムは口絵写真の裏面について一言。これは舅が婿に「ちょっと顔見せてみ」と顎を上げている図ではないか。雪駄に気付いて初めて、ああいびっているのだなと理解できる。要するに人形の表情が活き活きとしていないところをパチリと撮影したものなのである。タイミングがずれたと言えばそれまでだが、一瞬を切り取る芸術なのだから、それを逃すようではいただけない。かつての三村幸一氏の写真を見よ。どれもすべてがその絶妙な瞬間を写し取っているではないか。つまりは、撮る側の肚に浄瑠璃がストンと収まっているか否かの違いなのである。

 さて、今回観劇中に隣席のイヤホンガイドから音がダダ漏れという事態に遭遇した。もちろん、当人に漏らす意図はないのだが、ウォークマンが流行した当初のトラブルが想起された。あれも故意ではないのだが、イヤホンをしている人間にとってこの音が漏れているとは考えもしないことである。となると受動喫煙よりもタチが悪い。喫煙ルームが存在するなら、イヤホンルームもあって然るべきである。しかし、耳が遠い方かもしれないし、そうなるとますます隔離は必然的なものになるはずである。もちろん、一言言えば済むことで、当方もそうしたところ相手側から丁寧な謝罪の言葉があった。ではそれでよいではないか、わざわざここでアクリル板で囲い込むなどと書き連ねることもないと指摘されるだろうが、事はそう単純には済まない。たまたま今回は当事者同士が他者を注意するという「昭和」の文化を身につけていたから簡単に解決したのであって、昨今のように他人の子どもに声を掛けたら誘拐犯とされ、寺の鐘がうるさいと放火され、他人に席を譲るのが面倒だから最初から優先座席には腰掛けないという、他人との不交渉が一般化している社会にあっては、このイヤホンからの音漏れ問題も簡単ではないことになりかねない。それに対してはすでに劇場側から注意喚起のアナウンスがなされているとはいえ、クラシック演奏会でオペラがわからないからといって字幕やイヤホンガイドなどあり得ないことを考えれば、このイヤホンガイドもその存在自体から字幕とともにもう一度考え直してみなければならないだろう。この両者は新たな観客を呼び込む手段のはずが、文楽の存在基盤を揺るがすものであるかもしれないのである。

 

【従是千秋氏評論】

 八月四日に劇場に向かうべく準備をしていると、あろう事か、「複数の体調不良者が確認された為八月二日(水)から五日(土)まで全ての公演を中止」との報が入り、ガックリしました。前代未聞との事ですが、どうしようもありません。
それ故、今回は急遽嶋太夫と山城の「金殿」の評を以って、劇評に換える事にしました。

   「金殿」
☆ 嶋太夫  清介  DVD
嶋太夫は声瑞々しく、お三輪のおぼこ育ちの娘らしい羞らいが、絶妙の間、「ひよつと愛想をつかされたら。‥と言つて此儘に。」に表出されており、他にも美しい間が数多あって、お三輪の純情、可憐さが間から溢れんばかりである。それ故に旋律表現の流麗さと相俟って、その純情、可憐、一途さが官女による虐めを受けての哀切に繋がり、一転して疑着の相を表すその変化の奥にも内なる一貫性がある事を感じさせるのである。
  その為嶋太夫の語りには、奇妙な重層性が現れ、表現と伝達に神秘性が感じられるのである。
  「姿心もあらあらしく」と疑着の様相を表現しても、嶋太夫は(それだけ凄みには乏しいが)お三輪の純情を忘れはしない。その結果、表面上の疑着という様相の底に、一貫するお三輪の純情が透けて見える不思議な二重構造が形成されるのである。
  その為聴衆は疑着に純情を感じると言う特異な体験をする事になる。これは浅薄なコミュニケーションには無い表現と伝達の神秘であると言えよう。
  嶋太夫の魅力は、その美しい語りだけでは無く、「語り」の可能性が展かれて、重層構造を示すところにあるのだ。
その可能性を極限まで追求し、遂行したのが、山城ではなかったか。

☆ 山城 藤蔵 録音「浄曲窟」
山城の「金殿」には究極の「語り」が呈示されている。
  それは「運命」の「語り」である。
  山城の「金殿」はスケールが大きく、しかもリズム、曲調とも端正で極めて安定し、且つ飽きさせる事がない。そして全体を統一するのは、悽愴と言っていい程の凄みなのである。荘重にして重厚、時に苛烈。
  「運命」は「地」として現れる。「行きかう女中見咎めて‥むらむらと‥寄りたかり。」こうして「運命」の地平は展かれて行くのだ。お三輪の「詞」は「運命」の上を転々とする。山城にはもはや嶋太夫の瑞々しさは無いが、それ故に「運命」に侵蝕されたお三輪の悲劇が凄みを帯びてくる。
  山城によるお三輪の「疑着」は「運命」の齎したもので、お三輪は「運命」に呼応したのである。
  「じろりと見や」る鱶七は、山城に於いては「運命」の眼差しでお三輪を見ているのであり、「其訳語らん」と述べるのは神的領域からである。
  つまり山城の語りは神的領域からの「運命」の語りであって、「運命」の統べる「地」の上を
翻弄される人間存在の呻きとしての「詞」が転々とするという二重構造を形成しているのだ。
  そして山城の凄みある語りが「運命」の苛烈さを聴衆の耳に激突させる事になる。「髻掴んで氷の刃。脇腹ぐつと‥」の「ぐつと」に込められた差し通すその肉体の厚みは「運命」のリアルさを感じさせ、聴衆を慄然とさせるのである。
  しかもこの山城の、神的領域から「運命」を語るという究極の浄瑠璃は、お三輪を疑着へと呼応させると共に、聴衆をも日常を超えた大いなるものと呼応させるのである。
  山城を聴いて、いたく感銘を受けたのは、その声が確かに彼方から響いて来たからなのである。  
  荘重にして重厚、悽愴の気配すらあるその声が。

 現今チャットGPTに代表される生成AIはコンピュータの解析をもとに短時間で、文章、絵画、楽曲を作成する事が出来る。やがて瞬時にという事になるだろう。即ち大量の文章、絵画、楽曲が溢れ返る事になるのだが、しかしそれらは所詮、認識されたものを認識する事を繰り返すだけであって、循環という相対性の罠に嵌り、終にその循環諸共暗黒の虚無に呑み込まれてしまう事になる。我々はメルトダウンしかけているのである。

 虚無に呑み込まれんとする我々を喰い止めようとするのが、彼方からの「運命」の声なのだ。何故なら我々の存在証明とは我々に示された「運命」とそれに呼応する「受苦」しかなく「運命」の声に呼応しなければ、我々が虚無の底に滑り落ちるのは必定であるからだ。

 お三輪の「運命」を見てみよう。彼女の呼応は凄まじく、「袖も袂も喰い裂き喰い裂き‥姿心もあらあらしく」駈け行くのだが、これは個人的な嫉妬の域を超えて、お三輪という存在が裂け割れ、異形のものを現出させたのであって、お三輪はその人格を裂き割って「運命」に呼応したのである。故にその血は入鹿を迷わせ、「横笛堂」は「今の世迄鳴響」いているのだ。
  「疑着」は虚無に抵抗している。

  「金殿」に於ける山城の語りは、全て神の領域からの「運命」の声として彼方から湧き上がって来るのであって、聴く者がそれに呼応すれば、相対性の虚無の渦巻きから浮上出来るかも知れないと確信出来る程の力がある。

 現代に於いて、山城が重んぜらるべき所以は其処にある。
  「運命」を語る山城に感銘を受けずに居られようか。

☆ 呂太夫はその特色ある「捩れ」によってどんな「運命」を垣間見させてくれただろうか。
  公演中止が残念であった。

          以上