平成七年十一月公演 

『双蝶々曲輪日記』

「相撲場」
  咲大夫は長五郎の風格あり。ただ前半の頼むところと後半の怒るところの変化がもう少し加わればと聴いた。緑大夫の長吉は若気と短気とそのまま直截的な表現はもっともであるが、一本調子にカンカンに突っ張るだけでは少々耳障りのきらいもある。まあ、長吉の相撲の取り方それこそが一本調子の突っ張りかもしれぬが。八介の三味線は敢闘賞。二人の達引を胸に応えるように弾こうという意欲が現れていた。今回特筆すべきは長吉の人形。丸目の鬼若という頭を120%生かし切った。アオチや目の遣い方も抜群で、型も決まり言うことなし。

「米屋」
  端場の三輪大夫、コトバ快調(長吉は変化に乏しかったが)で、地や色の語りにも稽古と配慮の跡が伺えた。ただ、フシ落ちがやはりベタ付きで「わが子の様に弟を思ふは姉の習ひなり」「軒伝ひ皆様これにと出でて行く」等聴いていて不快感を催させる。今一つの努力を望む。弥三郎は音に厚みと幅がでてきている。
  切場の伊達−団六。噛みしめて深い味わいあり。旨味有り。立端場の奥や二段目の切など、滋味を出せるというのは、先代相生や昭和初期の源・駒・錣に匹敵するかけがえのない存在。大切にしたい。正月の団六の七福神はあれは綱大夫への御祝儀でしょうね。伊達の夕顔棚も。(そうでなければ、そこに配せざるを得ない狂言建てにした劇場制作担当者の無知蒙昧ということになるが、まさかそうではあるまい。ま、四月公演を見れば一目瞭然であるが。)さて、長五郎の人形だが、諸肌脱いでからの貧弱さが気になる。肩のヘチマに糸吊りの腕、それが目立ってしまうのは先刻承知。仕方ないと言えば仕方ないのだが、長吉と比較してどうも人形拵えに難があるようにも見えるのだが、如何なものであろうか。しかし遣い方自体は大きく貫録あるようコセつかず、相応であった。文吾=立役遣いとして安心して見られる所まであと少し。長吉はここも結構。お関は弟思いというが、横溢して表現すること叶わぬはず。「姉の利発なり」ともあるように、この弟を掌の上で遊ばしておくかしこさと度量とそして何よりも奥底での愛情が必要とされるのだから。長吉もまたそんな姉だからこそ「あいつらが、おれを盗人と云ますわいの」と思いっきり甘えてもくるし、わがままも一杯である。姉妹の姉でも兄弟の弟でもいけない、この姉弟という関係での姉であり弟であるという表現が肝心要なのである。現代日本においても、「下に弟がいるんじゃない」「上に姉さんがいるだろ」とピタリ当たるタイプの男女がいるが、まさにその姉であり弟である。ゆえに、人間の自尊心を傷つけるような企みも、この姉弟関係の中では解消される。しかもこの姉弟には二親(母親については断言できないけれども)がもういないのだ。お関は長吉にとっては保護者同然。母親代わり父親代わりとして、長吉が全身全霊ぶつけてくる肉親への情愛をすべて引き受けなければならないのである。「わが子の様に弟を思ふは姉の習ひなり」とは比喩ではなく正真正銘そのままである。格好ばかりデカくても中身は悪ガキそのまま、その真っ直ぐで純粋な部分をハラハラしながらあたたかく見守ってやる、無論ダメな時はダメと引き締めもする、それも大手搦手多種多彩、真正面から叱りつけてばかりでは行かぬ。「悪者連れはなほ以て言葉優しく姉のお関」との詞章ひとつ取ってみても、流石に作者である。弟を持つ姉というものの本質を見抜いている。そしてこの姉弟関係を脇から支えるのが長五郎の説諭と妙閑ら講中のチャリなのである。下手すると不愉快極まりない「人を試す」という内容の浄瑠璃。一暢のお関はよくそれを心得ていた。段切りで長吉を引き離し長五郎を突き出し戸をぴしゃりと閉めるお関こそ、弟を持つ姉の面目躍如なる姿なのだ。というわけで、今回は三業それぞれの働きにより、一つ間違えばイヤな芝居と転落する所を免れた。何より伊達−団六の浄瑠璃と、この弟長吉=丸目の鬼若首を見事に遣ってみせた簑太郎を第一の手柄とすべきだろう。

「喧嘩」
  「直には行かぬ」郷左衛門と「難儀」な有右衛門の憎々しさは詞章通りの文字久・南都。これで端敵役の軽率さが表現されていたなら一人で端場を任せられるのだが、そこまでは至らず。憎々しさを出そうとすると語りが重くなるし粘ってしまう。吾妻・与五郎は声柄がちょうど合うということで貴・呂勢。まあ、そういうこと。長吉は緑と同断の津国。それに輪をかけて固い硬い堅い。それらを長五郎の相生と三味線の喜左衛門とでまとめあげるわけで、と、御苦労様でした。

「引窓」
  さすがは小松。マクラの「今は妻のみ生き残り」の語り方から始まって、長五郎の述懐から「俎や…欠椀」と続く眼目の所まで、紋下格切場の端場として文句の付けよう無し。病なくば既に切場をも任せられように、それでも与えられた役場をきっちり語りこなすのは、さすがに越路の一番弟子。清友もそんな小松をよく支えた。
 切場の住大夫は後半にたっぷりと中心を据えた語り方。たしかに長五郎と母親との愛情が主眼であった。三味線の錦弥もよく応えていた。ただ前半が緊張感とダイナミズムに欠け、間と変化に不満感が残ったのは、やはり付いて行くという三味線では精一杯の所なのだろう。致し方ない。東京公演で絶賛を浴びたこの切場、後半はその評に違わぬ出来だったかもしれぬ……。人形陣は端場から切場の前半後半すべて寸分の隙もない。文吾の長五郎も三人の人間国宝の競演の中にあって自然と芸が上がった。この人形舞台を脳裏に留めておいて復刻CDの古靭を聴くという贅沢が可能なのである。有り難い。浄瑠璃冥利に尽きる。

「橋本」
 老人三人は出来たし、吾妻のクドキはうまく処理し、お照のカタい所も描出、と初役の切場は成功裡に終わった。中でも与五郎の個性が詞章とともに伝わってきたのがよい。「角にいの字で四角な長十郎見立てがきついかけうといか」「駈落ちしても口減らぬ面白病は一と盛り橙にてや直るらん」(なお、ここは原作の与五郎狂気の重要な伏線である)「旨し昼寝はわれらがお内儀様」「エヽそんな処ぢやないかくまうならかくまうとちやつと云ふてたもいの」「イヤコレわが身の事をおりや何にも悪うは云やせなんだ」等など、まことにどうも金持ちのぼんぼん、軽佻浮薄、単純小心。吾妻の母性をくすぐるのも尤も、またお関の性格育ちとは合わないのも無理はないと納得させられる。これが段切りですべて丸く収まるというのは確かに改悪。発狂してこそ与五郎だし、この「橋本」一段の意味あいが天と地ほどに異なってくる。これに関してはすぐれた考察もあり言及はこれまでとして、ともかく甚兵衛と吾妻の語りが眼目なのは百も承知の上で、そこだけに拘泥せず浄瑠璃一段全体として面白く聴かせてもらえたのが結構でした。三味線の清介は切場が自然体で勤まるようになってきた。深み幅切れ味情感などこれから楽しみにさせていただく。人形陣はそれぞれ相応の出来。切場の浄瑠璃とも相対した舞台であった。ただ、与五郎に関しては織大夫の語りに比してはおとなしすぎた。玉女のわきまえ方にはいつも好感が持てるが、今回はもう少し動いても遣いすぎてもよかったろう。
 

『苅萱』

「大内館」
  東風の曲というのは聴いていると実に気持ちよくなってくる。リニアモーターカーかレヴィテイトの呪文か、地面から少し浮き上がってたゆとう感覚、おそらく雲の上を歩むとはこういう感じだろう。ゆったりと鷹揚と、そしてまたノリ間や段切りのテンポ足取りこれが極楽なのである。この「大内館」はなるほど「宮守酒」の重要な伏線として、とりわけゆうしでの女と処女性を考える上で必須だし、父新洞左衛門の置かれた位置を知るにも欠かせない。が、それと相並んでこの一段は立端場としての聴きもの浄瑠璃でもあることがよくわかった。燕三の補曲も的を得ている。呂−錦弥のコンビはまず東風を心得た上での丁寧な浄瑠璃。十分及第点だが、面白味とか楽しむ余裕とかには至らず。義弘の口開き文七これ自体がやっかいな上にゆうしでにホの字で力押しに出来ないところとか、関口隼人は与勘平の軽率滑稽味とか、御台所の二度絶妙のタイミングの入り方納め方とか、諸侯の家宝持参披露での音楽性の愉悦とか、そういった部分をうまく料理して味わわせてくれるという訳には行かなかったということ。しかし次代の切場を勤めることになろう大夫と三味線が立端場でダシ味を出してしまうというのも何ですからね。「ゆうしで悦び走寄り矢を抜取つて押戴きこのお使ひを仕果せなば枕一つで二十まで寝した事を世上へ言訳君の心も晴々と曇らぬ女の鏡にせんと帯引締める親子の勇み」の段切りがまことに晴々と気持ちよく、何よりも「大内館」の復活はさもありなんと納得させられたのであった。

「宮守酒」
  この端場もちょっと語りどころがある。御台若君に女之助と橋立の四人のやりとりが面白く、運びに間に変化にと気を配るところだし、そのあと監物太郎が戻ってからは打って代わって難儀思案の語り口と、それなりの技量が要求される。英大夫はひさびさの快打が出た。宗助も若手と呼ばれる腕は修了したようで、ともにこの端場の大事所を捉えてよござんした。
 奥の太夫、この人が東風を語るとたっぷりとした曲節がまず結構、その次に情愛筋立てと聴き取っていくことになる。「爪先鼠」でもそうだったと思うけど。その分は玉男の新洞左衛門・文雀のゆうしでがツボを押さえた遣いぶりで支えていたし、一暢の女之助は単なる好色男に堕せず「三代相恩のお主に対して不忠不義天命いかで」と段切りにもある通りの若武者なり、文昇の橋立は一癖ある老女形女房役を描出、玉幸の監物太郎は孔明首をよく弁えて肚の据わったところも垣間みせていたしと全体の仕上がりが予想以上の出来。「月と雪との真中に」のゆうしでの出、初代紋十郎が素晴らしかったとあるが、文雀のも姿形結構でハッとさせられた。女之助との絡みから矢の根を突き立てての自害、父新洞左衛門へのクドキまで十分。とりわけ「皆これお前のお世話故と表向なる互ひの辞儀」の所が絶妙でゆうしでの「女」が感じ取られた。玉男の新洞左衛門はどこがどうだと言い始めたらすべてに言及しなければならないほどのもの。語りが俗に流れている所も玉男の人形を見ていれば大丈夫とだけ述べておきたい。一生夫は持たせたくない、ずっと手元に置いてとの心境は愛娘を持つ父親にとっては分かりすぎるほど分かるもの。しかも四十の時の子。鬼一の首は(も)玉男をおいて余人はない。三味線の清治は太夫の大音強声を活かしてやりかつ引き締める所は押さえてと流石でした。それにしても名人団平がこの切場を「淋しくてどうもならぬ。ガサガサして弾いていられぬ。」と駒大夫風に替えたというのだが、何のことか私如きには全く見当も付かない。このままで十二分に面白い浄瑠璃だと聴いたのだが。まあそんなことでは「お耳も聞えお目もよいかえ」と言われるのがオチだろう。
 

『酒屋』

 端場の千歳・燕二郎。「看板も辛い渡世なり」「はや日も西にかた影を歩む姿はひと風ある」の周到さから始まって五人組半兵衛婆の語り分けに終わるまで安心できるし満足でもある。ただ毎回乱暴というか汚いというか、それは筒一杯精一杯勤めていますというのとはちょっと違うんじゃないのと思わせるところがあって気にかかる。引退後見の越路師匠はどう捉えておられるのだろう。無論私如き素人の理解し得ることではないのですが。
  切場の嶋大夫と富助のコンビ。ここのところ大曲大物の語り場続きで大変だが、今や文楽の現状がそう要求しているのである。責任重大、ということで言えば職責は果たしている。が、感動とかカタルシスとかいうところまでは届かない。マクラは難しいからおくとしても、「主の妻」と移るところの変化間足取りが不十分。そして「出合頭に」しては婆の詞が平凡で今一つ、また「どこやらに疵持つ足の踏みどさへ低き敷居も越えかぬる」というお園の地が生きていない。(ここの簑助の人形はこの地の文をよく弁えて秀逸。)次の宗岸・婆・半兵衛と続くところの変化に乏しく、宗岸の詞は単なる事の説明に堕するすれすれの線で平板、危うく「聴いている客の心は闇」となってしまう感じ。続く半兵衛も同断。半兵衛の咳は咳をしてますという大夫の技巧がありあり。(ここの介抱する婆とお園が良い。嫁姑の理想形だ。)お園のクドキは「結ぼれ解けぬ片糸の」が息継ぎまずく「堅い戸の」と聞こえた。(簑助のお園はまさしく「夫を思ふ真実心なほいや増る憂き思ひ」が見事に描出されていて、現代浄瑠璃人形の一頂点を示しており、私も思わず手を叩いた。)「あすはとうからとと様に〜余所の見る目もいぢらしし」は重く、今更ここでの感。「ヤアヤア親父殿聞かしやつたか」は思わず婆の声を踏み越えて怒鳴り気味。タ聞いてゐるさのタ鴛鴦の片羽の は実に効果的に挿入されていて、浄瑠璃と一体となってドラマを進めていくことになるのだが、残念ながらこれが不十分。はい、ここからが地唄ですと、一拍おいて明々白々に語り始め弾き始めるので、作者入魂の不即不離の離れ技が全く活きない。そして「時も時と隣の稽古そしてそのあとは」が通り一遍。なるほど怒ってはいるのだが、書置の途中で一刻も早く先が読みたいという心の焦りが聴こえない。あと「私の小さく成しと思し召されアアドレドレ婆」のところ。婆がたまらなくなって泣き崩れどうもならんから早よかしてみいと半兵衛が横から取るというこの緊密感が未だし。(半七の玉女・三勝の清之助はわきまえた遣い方で結構。)とまあ小舅のようになったが、嶋大夫・富助が悪いわけではないのだ。聞き込めば聞き込むほどの深さかな。まあこの程度だろうと割り切らないのが御両人のため。さて、ではもう一度SP復刻の駒太夫・才治のを聴いてみることに致しましょう。浄瑠璃の快楽まさにここにあり、です。

 朝日の(植)氏はとうとう開き直ってしまった。なるほど、あれならば確かに一つの演劇評ではある。氏の「無知の知」には敬意を表したい。浄瑠璃も三味線も、人形さえただ一つの言及もないのだ。しかし、これで人形浄瑠璃評はなくなってしまった。その演劇が「人形浄瑠璃」である必然性は皆無だと宣言されたのだから。