平成九年七・八月公演 

『雪狐々姿湖』

 有吉佐和子は浄瑠璃にも精通していたようで、詞の部分と地の部分の書き分けが実にうまい。故清六もそれに助けられてもあろう、よく曲付けし、浄瑠璃としての正当な作品に仕上がっている。ということは、逆にこれを子供向け作品としての枠に閉じこめようとすると無理が出てくるわけだ。あと、季節感についてはこの日の本の国では先へ先へと取っていくのが伝統(初物とか季語とか)だからかまわない。ただし、春の『千本桜』で狐を堪能させまたここで狐というのはいただけない。劇場側の見通しの悪さに一言苦言を呈しておかねばなるまい。それはそれとして、昨年一昨年よりは客席のお子たちの反応も鑑賞態度も良く、やはり浄瑠璃作者の腕次第であるなあと改めて感じた。

「崑山の秋」
  中堅若手の掛け合いが功を奏して明快に仕上がった。心配された貴も文字栄も声の不安定さをユーモラスな語り口に転じて見せたのはお手柄であろう。ただし、緑の白蘭尼の詞に聞き取りにくい箇所があったのは不調法である。婆の声を作ろうとして例のねちゃねちゃとする悪癖が出てしまった。三味線好演。人形も楽しそうに楽々と遣う。この段で客席の心を掴めたのが、今回成功の一大要因である。

「源左内より湖」
 「貧乏ながら幸せに」このコンセプトがもはや現代日本の子供たちには理解できない。同伴の親の世代にとっては当たり前でも。だからなぜそれほどまでに白百合がこの生活にこだわるかが腑に落ちない。そこでそれを説明することになる白百合と右コン左コンとのやりとりで十分客席に行き届かさなければならない。またここは情愛溢れる場面という点からも大事の場である。が太夫の語り分け詞の明瞭さに欠けるところがあり不満足に終わった。ということはこの場が客席にとっては動きのない退屈な中だるみとしてしか捉えられなかったことになる。右コンが足を挟んでから幕切れまでは一気に進むが、湖に沈む白百合の悲劇がもう一つ手応えに欠けるのはなぜだろう。スピーカーからの鉄砲と氷の割れる効果音もかえって白々しく浄瑠璃には不釣り合い。舞台演出上も人形の動きにも更なる工夫の必要を感じた。新作ものとして数少ない佳品を今上演は生かし切れなかった、これが率直な感想だ。
 

『増補大江山』

 これもまた中だるみ。つまり二人連れだって若菜が綱にクドキかかるところが退屈で唄もまた快感には至らず。英には景事のシンは似合わないから仕方がないか。もはや嶋・小松クラスが勤める場でもなくなったから、艶物語りあるいは立声の大夫の出現を待つ他あるまい。三味線人形に罪はないが、どうにも冴えない景事であった。これでまた子供たちは文楽とは人形を見るお芝居だと理解しただろう。
 

『心中天網島』

  三業の顔ぶれからしてこの夏公演の目玉であるはずだし、果たしてその通りであった。これだけ贅沢なものは特別公演以外にはないだろう。有り難いことだ。

「河庄」
 端場の千歳燕二郎は実力まざまざ。しかも公演前半と後半とで一段と向上の跡が見受けられた。前回英が勤めたときの上をいく。今や千歳は津駒緑らを抜いて、咲・呂のあとにつける程になった。為所のある端場立端場は是非彼に任せたい。聴く方にも新発見がある。原作の浄瑠璃を活かせる数少ない大夫である。人形では太兵衛の簑太郎がうまい。今敵役の陀羅助首を遣わせると右に出る者はいない。器用でかつ人物観察眼が鋭いからだろう。
 切場はこれこそ三業一体(錦弥はよく頑張った。例えば「膝に」チン「もたれて泣きゐたる」など哀感があった。)の手本のようなもの。やはり住大夫は世話物である。住襲名以来のどちらかというと粘って芝居がかっていくやり方が時代物では鼻につくが、世話物になるといい塩梅になる。(それでも間狂言風の太兵衛善六の件はもっとさっさと済ませたらどうかとは思うが、これも二度三度と繰り返し聴いてきての話で、一度限りのライヴという点ではあれでよいのだろう。ここまでくるとこれはもう好みの問題だから。)錦弥の三味線も一音一音妙音を繋げていく弾き方は世話物でこそ生きてくる。孫右衛門の文雀も前回に比してもはや何の不安もない。ここ数年の男首遣いがすっかり板に付いたというよりも芸風芸格が自然に遣わせる域に達したためであろう。これでこそ人間国宝である。玉男と簑助については書くだけ野暮で、劇場に足を運べばそれでもうよいのだ。

「紙屋内」
  「河庄」に比べると地味だがその分近松原作の味わいがあっていいものである。 端場の松香弥三郎は思っていたより出来がよく、客席の受けもよかった。
  切場の綱清二郎はやはりこれが王道で、住錦弥と役場を入れ替えていたら共倒れなのである。綱としては舅五左衛門がとりわけよく、その分治兵衛おさんの情愛も語り活かされた。段切りは三味線ともにひときわ哀感あって結構なものであった。おさんの女房ぶりも舅の娘可愛さ故の憎々しさも文昇玉幸がきっちり遣っていた。

「大和屋」
  綱弥七の名録音、それに聴き劣りさせなかったのは咲清介の実力である。佳品に仕上げた。やはり『天網島』は『曾根崎』にはないコクと旨味がある。次回は是非「道行」を心中場と合わせて見せてもらいたい。小春の死の苦しみ治兵衛のぶらり瓢箪の死に様など近松最晩年の冴え渡った眼と筆致を出さずしては、本物の『網島』上演とは言えないからである。
 

『夏祭浪花鑑』

 キャストを根こそぎ持って行かれたあとのようで客の入りも寂しいものであった。しかし出来は悪くない。とはいえこの外題はせめて半通しで上演しないと、サマーレイトショーとして無理に仕立てた分、中途半端に終わってしまった。これは三業の責任の外のことである。

「鳥居前」
  口の津国団吾は相変わらず堅いが、浄瑠璃になっているのと駕篭屋のやりとりが聴けたのでよしとしたい。
  奥の小松団七は人物の語り分け弾き分けよく、人形も徳兵衛が鮮やかでその分団七お梶らの大人ぶりが引き立った。

「道具屋」
  南都は依然として口と咽で小細工するから浄瑠璃にならない。よく通る大きい声を持つだけに残念である。自分の浄瑠璃モドキをテープにでも吹き込んで何度も何度も聞き返すことをおすすめする。そうすればどこがダメかわかるはずだ。そうして誰かの浄瑠璃のものまねから始めることだ。まなぶとはまねぶなり。綱が山城の8ミリ越路が16ミリと言われたのも名人の修業時代の誉め言葉だと理解しないと。今からオリジナリティーをだそうなどとは考えないことだ。演歌歌手でもうまい者は必ず他人の物まねもうまいのはテレビなどでも証明済みである。このままではいつも掛け合いの一員としての役場しか回ってこないだろう。とにかく現状ではその大きな通る声が逆に耳障りで仕方がないのだから。
  奥の伊達喜左衛門は軽々としてうまい。大渋である。どこを切っても浄瑠璃で、当たり前のことだが、これだけ浄瑠璃の流れに安心して身を任せられる人は他にはいない。そういう意味では切語りを越えたレベル、技の外とでも言えようか。

「三婦内」
  文字久も依然として面白くもなんともない。がそれでも清太郎ともども公演後半はまだ聴けたから努力と工夫の跡は認めたいと思う。それにしてもかつてここを千歳が語ったときの新鮮な驚きは今も耳に残っている。
  切の嶋団六はおそらくこの程度だろうと予想していた以上の出来。まずお辰がいい。「親の生みつけた満足な顔へ、コウ疵付けて預かる心、推量して下さんせ」に真実あり涙あり。こちらの心へ確かに届いた。ゆえに次の「語るを聞いておつぎの涙、三婦も涙の横手を打ち」がそのまま利いてくるのだった。ここを掴めたからもうこれだけで一段の成功と見てよいのだ。がそれ以外にも手柄がある。例えば三婦なども、語り出してすぐはやはりこんなもんだろうと聴いていたが、そのお辰とのからみ以降、二人組をあしらう所などもよく工夫して面白く、へえここまで語れるかと聞き直したほど。もっとも義平次は未だ至らずではあるけれども。詞に工夫を凝らして努力した跡が全体に見られて結構であった。切語りとなり切場をどんどん勤めるようになるとそれだけ成長していくのがいいところだ。それにはなんと言ってもここのところ団六が(相)三味線として付いているからでもあろう。今後ともこのコンビには期待と楽しみをもっていたいと思う。人形はやはり簑助がお辰の性根をうまく遣う。いわゆる極道の妻であり姉さん女房でありと。少しオーバーアクションかと思うところもなきにしもあらずだが、徳兵衛の内儀としての若さを表現したものとして受け取っておこうか。作十郎の三婦はもう遣うというより自然体である。そっくりそのまましっくりというものだ。

「長町裏」
 呂相生富助のトリオも手慣れてきて何の苦もない。相生の義平次などはますます写実がかって自家薬篭中のもの。人形も何はともあれ文吾玉幸でこれを見られるようになったということだろう。まだ型を自分に覚えさせてそれを応用する段階だが、見ていて特に問題はない。次世代もようやく完成の域に達しつつあるということか。

 全体としてやはり三部制はコマ切れで浄瑠璃を堪能したという気になれない。というわけで劇評もここまで。

 ところで、鶴沢八介さんのインターネットのホームページ見ました。良くできていると思います。本当は劇場側がきちんとやるべきなんでしょうが、個人的に頑張ってられますね。ただひとつ残念なのは、個人的なために「文楽」「人形浄瑠璃」「国立文楽劇場」という名前を冠できないこと。一般人なら「鶴沢八介のページ」と文楽とは直結しないでしょう。もっとも検索システム(gooなど)を利用すれば大丈夫なんでしょうけれど。自分でやらないのなら、全面的に資料提供など協力してあげて下さいよ、劇場側は。なんせ「文楽」で開いてみて最初に出てきたのが「乙女文楽」のホームページなんですから。この現状でいいのですか。新しい21世紀未来の文楽とやらをいつも声高に叫んでいる国立文楽劇場さんが。