初代 吉田文雀


・何と言っても文雀おさゐの人物造形に手応えあり。「さすが茶人の妻、物好きもよく気も伊達に、三人の子の親でも華奢骨細の生れつき、風しのばしくゆかしくの、三十七とは見えざりし」の詞章の格抜群。これがおさゐのシンになければならないのだが、さもありなんと首肯させる。琴入唄のところもパターンといえばそうだが、母が自慢の娘の髪を手づから結い直す情景が実に鮮やかに描き出されていた。(『鑓の権三重帷子』 平成七年七・八月公演)

・「月と雪との真中に」のゆうしでの出、初代紋十郎が素晴らしかったとあるが、文雀のも姿形結構でハッとさせられた。(『苅萱』平成七年十一月公演)

文雀の源蔵は前回に比して格段の進捗。検非違使首の典型である源蔵をよく映していた。芸格がにじみでてきたものか。さすがは人間国宝である。(『菅原伝授手習鑑』平成八年十一月公演)

・文雀の遣う玉手の人形にも前半以上に味わいが出た。例えば「何の思はう思やせぬ」など前半は流れていたのに、後半では玉手の真情が思わずほとばしり出るというように語られそう遣われた。また、「後を慕うて知らぬ道、お行方尋ぬるその中も君が形見とこの盃、肌身離さず抱き締めて、いつか鮑の片思ひ」のところなど、官能の倒錯の味わいも感じられ、これでこそこの恋は偽りか真実かとの論争が巻き起こるのももっともと思われた。文雀の人形も玉手の妖艶な美を描出していた。文雀は自己犠牲の覚悟を決めた上で偽りの恋を仕掛ける玉手御前として遣う。やはり後半部分の方がよい。(『合邦』平成九年正月公演)

・弥左衛門の文雀はこれが映るようになったのは自身の芸格のなせる技。こういう人形を例えば中堅のうまい所に遣わせて比較すると良くわかる。こういう「遣う」は他動詞ではなく自動詞にならなくてはダメなのだ。(『義経千本桜』平成九年四月公演)

・文雀も「ふっと気のつく渚の方」からの悔改心の描出と船上のうわさ話に再び心を動かすところまで、至難の人形を遣って見せた。栄三−文五郎はいさ知らず、玉男−文雀の『良弁杉』もまた後世の手本となろう。玉男の僧正と文雀の渚の方の抱き合う舞台の崇高かつ人間的なこと。普遍的な親子の情愛が感動的に描かれていたからである。(『良弁杉由来』平成十年正月公演)

・徳右衛門の文雀はこれこそ最優秀助演男優賞もの。首の性根から始まってピタリと寸分違わず。とりわけ「おかしさ隠すばかりなり」の見事さ。こちらもつい同じ表情になってしまったほどであった。(『生写朝顔話』平成十年七・八月公演)

・石堂。これは人形の文雀が秀逸の出来であったことが主原因だが、心ある孔明かしらの上使を表現できていたと思う。(『仮名手本忠臣蔵』平成十年十一月公演)

・おみつは「孝行臼の石よりも堅い行儀」で「在所に惜しき育ち」でも「袂くはへるおぼこさ」が肝心だが、代役というよりも穴を空けまいと買って出た(と思われる)文雀の人形が切場を通してまで秀逸。このおみつこそは至上の出来。この「野崎村」の段切りは悲哀を払うように出来ているとはどの本にも(今回のパンフにも)書いてはあるものの、文字通り悲哀を身にひしひしと感じるほどのものに出会うことは滅多にない。ところがどうだ。今回はツレ弾きが始まって舞台が久作おみつとともに後ろへ下がって徳庵堤の駕篭と船に場面転換されるときのあの哀切、悲しみ、こんな経験はとんと覚えがない。これでこそ詞章のごとく「哀れをよそにみなれ棹」なのであった。出来た出来た文雀。(「新版歌祭文」平成十一年正月公演)

・人形の文雀は品格はもちろん、雛鳥との恩愛の描出が至高で「恋も情けも弁へて義理の柵せき留めても」の詞章そのまま立派であった。(『妹背山婦女庭訓』平成十一年四月公演)

・文雀のお初は簑助とはまた異なる味わいがある。普段は撫子でもいざというときは死をも恐れず男を積極的に引っ張っても行くという、その積極性を秘めて遣うところが奥床しい。
(『曽根崎心中』平成十一年七・八月公演)

・微妙は文雀が慈悲の心もありまた高綱盛綱両雄の母としての格も背骨も通ったところを見せる。さすがである。(『近江源氏先陣館』平成十一年十一月公演)

・文雀の林は文字通り菊の前の乳母であった。(『一谷嫩軍記』平成十二年正月公演)

・文雀のおさんが実に上手くはまっていて、やはり老女形かしらの女房はこの人である。(『心中天網島』平成十二年十一月公演)

・文雀が本当によく遣い、足腰の不安などものともせぬ、お伝の心で遣う人形であった。 (『日蓮聖人御法海』平成十三年七・八月公演)

・文雀の老婆、「唐猫」の件がこれほど鮮明にしかも胸に応えたことはなかった。後ろ手に縛られ口で喰い付く一連の所作は、眼前情愛のこぼれんばかり。そして「屍は異国にさらすとも魂は日本に導き給へ」で眼差し遥かに漂わす真実心の崇高さを見た思いがしたのであった。(『国性爺合戦』平成十四年一月公演)

・文雀師の覚寿はいよいよ滋味あふれる優しさに満ちたもので、髻払うところの哀感もこれでこそ「判官輝国大きに感じ」となるものであり、段切も何とか丞相に一目会わせようとの心遣いはそれとして、丞相の御詠歌を伏籠へ差し入れる所作等、苅屋姫への心の働きがとりわけ情愛豊かになされていた (『菅原伝授手習鑑』平成十四年四月公演)

・文雀師の累が、深奥からこみ上げてくる怨念の表現や、霊力に憑依されたどうにもならぬ様子をよく描出していた。「秋雨降りしきる天の悲しみ目前に」とは眼前客席の同情悲哀の涙でもあったろう。(『薫樹累物語』平成十四年七・八月公演)

・文雀の操はさすがに武家の妻として抑制された中にも情感が出、夫に仕え姑に仕え、我が子への愛情等々と、大人の女である老女形かしらの性根をよく捉えていた。(『絵本太功記』平成十五年四月公演)

・そして何よりも文雀師のおさゐが、前後整わぬ詞章の中にあっても、常に心が前に先へと動いてやまない、中年女性の熟れ切った言動をまざまざと見せてくれたのであった。(「伏見京橋女敵討」『鑓の権三重帷子』平成十五年十一月公演)

・人形は、文雀の渚の方が持ち役で、賢明かつ物堅いがゆえに、突然の決定的不幸の前には、狂乱するよりほかなかった女の姿を描いて見せた。(「志賀の里」『良弁杉由来』平成十六年一月公演)

・玉男師と文雀師に関してはもはや一言もない。その名が末代に語り継がれる芸とはどのようなものであるか、一観客としてそれに遭遇することができたことに、ただただ姿勢を正して舞台を見つめるだけであった。それでも敢えて言うならば、知盛のかしらの俯く角度と方向の微妙かつ究極の一点、典侍局の得も言われぬ品格とふくらみ。(『義経千本桜』平成十六年四月公演)

・文雀師の相模がまた母として妻としての自然な情感にあふれ、小次郎の首を持ってのクドキにはやはり涙の玉が浮かんだ。(『一谷嫩軍記』平成十六年七・八月公演)

・人形は、文雀師のお園が内省的な美しさをよく描き、一つの形を見せてくれた。(『艶容女舞衣』平成十七年四月公演)

・文雀師の玉手はまず存在感と強さがあり(これほどの自己犠牲を成し遂げる女性である)、その上に、俊徳丸への慈愛が仕掛けた恋の詞のところどころに思わず溢れ出し、手負いになってからの真情吐露には、人間存在とその意志の発動に崇高なものを感じるまでに至った。やはり余人の及ぶところではない。(『摂州合邦辻』平成十七年七・八月公演)

・人形は、文雀師のお種が論無きすばらしさ。前半の溜があってこそ後半の発散があるわけで、並大抵ではない至芸である。(『本朝廿四孝』平成十七年十一月公演)

・人形、文雀師の千代は格が違う。オーラと言ってもいい。もちろん人形がである。中堅が陥る小さくまとまった芸との決定的な違いが明瞭。(『菅原伝授手習鑑』平成十八年四月公演)

・文雀師の幸兵衛はもう自然に遣ってああいう存在感が出るのだから恐ろしい。芸力芸歴というものに改めて感服した。(『伊賀越』平成十八年十一月公演)

・文雀師一世一代の至芸。絶世の美女小町の老残を、眼前ありありと見るが如しであった。(『花競四季寿』平成十九年一月公演)

・文雀師の萩の方は余人無しである。(『玉藻前曦袂』平成十九年四月公演)

・文雀師の錦祥女は抑制された動きの中に美しさと情感が滲み出て、若々しさも体現できていたのは驚異としか言いようがない。(『国性爺合戦』平成二十年一月公演)

・文雀師の狐葛の葉は床ともども母の情を自然に描き出す。(『芦屋道満大内鑑』平成廿一年十一月公演)

・文雀師と簑助師の二大競演によって妹山での情愛が満ちあふれていた。(『妹背山婦女庭訓』平成廿二年四月公演)

・人形。まず文雀師の千代。これがなければ、「寺子屋」後半の感動は生まれては来なかった。(『菅原伝授手習鑑』平成廿二年七・八月公演)

・人形は文雀師の「きれいでかわいそうなお姫様とお客様に思っていただけるように」との言葉通りで、有言実行は流石に人間国宝なのであった。(『ひばり山姫捨松』平成廿三年一月公演)

・簑助師と文雀師とその信頼感で結ばれているから、奇跡とも言ってよい舞台が現出するのである。(「上田村」『心中宵庚申』平成廿三年七・八月公演)

・文雀師のお米である。一段のシテとワキは平作十兵衛親子であるのは確かだが、「上手な娘の饗応」があればこそ、街道から平作内へと自然に移れたのであるし、そのクドキがあったから、千本松原が現出したのである。これは、筋書きがそうなっているから当たり前のことなのではなく、不十分な芸ならば、観客はただ筋追いにとどまり、例えば、雨が降り出す中を池添と出会って後を追うところの切迫感も、まるで感じられないまま終わってしまうのである。(『伊賀越道中双六』平成廿三年十一月公演)

・人形は、文雀師が狐葛の葉とは違う精霊の楚々とした感じを、自然に表現するという至芸。(『卅三間堂棟由来』平成廿四年一月公演)

・絹は貞淑で慎みある商家の嫁として地味で控え目な存在であるが、そこに繁太夫節(例えば「河庄」小春のクドキ)が付けてあることの意味、すなわち「私も女子の端ぢやもの」から始まる表現がこれ以上ないもの。これを書いている今もしみじみと耳に残る。これはまた、文雀師というとんでもない人形の描出があったからでもある。ほとほと堪能するとは舞台がはねてからのこと、その場ではただただ芝居の中へ吸い込まれ、かつそれを対象として見て聞く自分が存在し、人形浄瑠璃文楽鑑賞の真の姿、極致がそこに現出した。(『桂川連理柵』平成廿四年四月公演)

・第一にはやはり文雀師の栄御前である。その登場で俄然舞台が引き締まった。その権威は客席にまで緊張感をもたらし、お家騒動ものの黒幕的存在の怖ろしさまで伝わってきた。さすがに人間国宝は違う。かつて、先代勘十郎が妹背山二段目の鎌足を遣ったときもそうだったが、こういう一種超越的存在は、動かずしてその威光が自然に感じられなければならないのであって、それはとりもなおさず、人形遣いそのものの存在に負うている。大したものである。(『伽羅先代萩』平成廿五年四月公演)

・「関寺小町」は本狂言の中心であり、景事ながら至難の箇所である。そこは文雀師を配して万全の態勢で臨む。婆だからよぼよぼよろよろと遣っていれば事が済むのならお安い話だが、それでは、晩年を関寺に暮らす零落した美女小町にはならない。冒頭は文屋康秀との著名な贈答歌をふまえ、それだけで早くも衰えが身にしみる。悲哀、憤慨そして恥辱と千変万化する感情を、文雀師が活写する。中でも、盛者必衰の理に愕然として恐れ戦くところは絶佳である。そして、恋ゆえに狂う心を昔日の姿に回想して見せるのは、若々しい魅力が深奥から滲み出ていた。最後、ウタイで消えるのもまた哀切であり悟道の歩みにも感じられた。(『花競四季寿』平成廿七年一月公演)

以上は劇評から抜粋したものです。

文雀師の人形を評する際には、
自然体。まさに人形そのもの。
という類の表現を用いました。
これは何も評していないように見えて、
実はすべてを評していることになる、
究極の評言なのです。

人形浄瑠璃文楽の人形としてあるべき姿が、
いつも舞台上に描出されていたのでした。

とりわけ最晩年にあっては、
奇跡的な場面が簑助師との共演により現出し、
「時よ止まれ お前は美しい」
と思わず声を上げたくなるほどでありました。
「上田村」、「浜松小屋」、「甘輝館」等々。

「首割」の大役を務められたことについては、
内部のことでもあり詳述を控えますが、
戦前の名首割であった吉田玉次カに関する記事を読みますと、
文雀師が昭和平成の名首割として、
永遠にその名がとどめられること間違いありません。