桐竹紋寿


紋寿のおかつにも見所があった。 (『染模様妹背門松』平成十年一月公演)

・紋寿の藤の方は母親まさしく子の親としての溢れる愛を表現できた。紋寿の藤の方は序切に於いて十二分に一子敦盛への愛を横溢させていたから、この段の詞章とそれにともなう所作とが十二分に伝わってきた。この点もまた通し狂言ならではである。だから小次郎の身代わりを知って後、これまた十二分に相模の心と波長を同じくすることができたのである。(『一谷嫩軍記』平成十二年一月公演)

・女房の勘寿は欲面ぶりもさることながら、糸滝が語る乳母の最期を聞いている間の心理描写が上手く、「邪見につるゝ娑婆惜しみ、女房死に沙汰聞き辛く」の詞章を見事眼前に再現して見せたのは流石である。(『国性爺合戦』平成十四年一月公演

・お絹の紋寿は「私も女子の端ぢやもの」からの本心吐露がとりわけ鮮烈。(『桂川連理柵』平成十七年七・八月公演

・ここは道行とはいえ、濡衣に始まり濡衣に終わる。「今の我が身はなかなかに」を勝頼の所作に割り振ってあるのは、そうでもしなければ出番がないからである。もちろん詞章は濡衣のものである。この濡衣は「廿四孝」の偶数段のシンである。今回このことが明確になったのは、第一に紋寿の力量あってのことである。愁いの女、濡衣を文字通り描出して見せたのだ。(『本朝廿四孝』平成十七年十一月公演

・お谷の紋寿、喜びは政右衛門に会った一時だけ。武士の娘であり妻となった者、堪え忍ぶ姿悲しみの姿は心打たれるものがあった。段切の愁嘆はもう少し主張してもよかったかもしれないが、濡衣といいこの種の造型は第一人者となったとしていいのではあるまいか。(『伊賀越道中双六』平成十八年十一月公演)

・人形では紋寿がやはり悲哀十分な女性を近年実にうまく遣っており、尾上も「草履打」では遺恨が復讐として外に出て岩藤を害するのではなく、内にめり込んで我とわが心身を傷付ける行き方が何とも辛く、ここでもまた内へ内へ巻き込んで沈んでいく様子が、よく描出されていた。(『加賀見山旧錦絵』平成十九年四月公演

紋寿の時姫が妙。局・藤三に対して、三浦母に対して、三浦之助との恋模様、表情豊かに遣いわけていた。あとは思い詰めた時の芯、意志の強さがぐっと伝われば、番付別書出しの格に至るであろう。 (「鎌倉三代記」平成十九年七・八月公演

・紋寿のお絹には愛と悲しみを背負う妻お絹の真心が感じ取られ、甘美さとともに胸が痛む思いをしたのも、お絹のクドキと不可分の半中や繁太夫節という節付を正しく聴かせているからである。(『桂川連理柵』平成二十年四月公演

・祐仙の紋寿の人形もまた、クドくはならず笑わせて円熟の境地を披露した。(『生写朝顔話』平成廿一年七・八月公演

・三婦は紋寿。老け役が似合うようになったと言っては失礼であるが、矍鑠たるという辞を前に付けると、なるほどと納得されるであろう。(『夏祭浪花鑑』平成廿二年七・八月公演

・与次郎は紋寿の人形の中でもベストの出来で、又平カシラらしい動きが前受けを狙う嫌らしさというアクもなくするすると展開した。もちろん、段切猿廻しで情感を滲ませたのが名人の域に達した証左である。人形らしく動いて人間を心まで描写する、これもまた文楽の極みに違いない。(『近頃河原達引』平成廿二年十一月公演)

・実母である沢を紋寿が活写。(『女殺油地獄』平成廿三年四月公演)
 

以上は劇評から抜粋したものです。


前受けという言葉は否定的な響きを含んでいますが、
紋寿師が遣うと人形がその非人間的な魅力を前面に押し出すという肯定性を帯びるのでした。
人形遣いという意味が古典的かつ正統的位置を占めていた最後の人でありました。
その完成形が祐仙であり三婦であり与次郎であり、
これらは永遠に記録としてまた観た人々の記憶にとどまるものです。
憂愁と悲哀の女性、
この評言を書かしめたのも紋寿師の人形でありました。
濡衣を名は体を表すものとして造形できたとは、
まさしく名人と評してよい力量を示すものなのです。

贈 中軸