吉田 玉松


・玉松もさすがによく遣った。(「東大寺」『良弁杉由来』平成十年一月公演)

・万事限りの隔病」「百日と限りのある」婆の描き方はこれしかあるまいと思われる、玉松。(「野崎村」『新版歌祭文』平成十一年一月公演)

・玉松の経盛もさすがに格式行儀を見せたのは年功なり手腕なり。代役など寄せ付けずの感もあった。(「敦盛出陣」『一谷嫩軍記』平成十二年一月公演)

・人形では母の玉松が納得のいく遣い方で流石はベテランの味を出していた。(「沓掛村」『恋女房染分手綱』平成十二年四月公演)

・猫の上人玉松に風格があり、(「鼠のそうし」平成十三年七・八月公演)

・玉松の花菱屋長はとりわけ女房を押しのけてからの男ぶりが立派で、詞章を際立たせたし、(「花菱屋」 『嬢景清八嶋日記』平成十四年一月公演)

・母を玉松、わかりやすく納得できた。 (『雪狐々姿湖』平成十四年七・八月公演)
 
 

以上は劇評から抜粋したものです。

 
 玉松の名は、いずれ玉助なり玉蔵へと上り詰められるはずを、病魔は何と容赦のないことか。
その盛年時には若男が見事に映っておりました。自身がスマートであられたため一層見栄えがしたと評判でもありました。
晩年名脇役としての活躍は、昭和五十年代以前の人形浄瑠璃が血肉化していた証拠でもありましょう。
玉襷かかるとしらず散松葉  やなぎ
合掌。