初代 吉田玉男


【盲景清】
この「日向嶋」においては、景清の人形、いや、玉男師が遣うところの景清の人形がなければ完結することはあり得ないのである。それは、典型的には段切りの舟唄のところ、床においては全一音上がって華やかに終結を迎えるだけ(「敵と味方は追手追風向かふ風、千里一飛び一走り」の詞章はしっかり語り聞かせる必要あり)なのだが、船上では景清の人形に一連の所作がある。そこをどう遣うかということが、この浄瑠璃一段の主題とも関わる重大な見所なのである。過去の遣い方も含めて考えてみると、まず、重盛の位牌を取り出して拝礼した後それが海中に落下するのは、景清が位牌を握りしめる力がゆるんだためか、それとも自然に手の内からこぼれ落ちたものか、ということがある。次に、それに驚いた景清が船端へ駆け寄ったのを両脇から天野・土屋(玉輝とは贅沢な)が支えたのは、その位牌の後を追って海中へ吾が身をも投じようとするのを引き留めたのか、海中へ沈んでいく位牌を追い求めようと体勢が崩れたのを引き起こしたのか、ということがある。当然この両者は関連する動きであるが、これに加えて19日の玉男は、景清をして位牌をいとおしむかの如く頬に当て(て落涙)させても見せたのである。前者の解釈はこうなろうか。平家の侍大将悪七兵衛として自己の位置を確定した景清にとって、重盛の位牌は自己の座標を象徴する記号、すなわち自己の存在証明に他ならない。盲目の流刑人となった今も、その位置を固守している景清であるが、糸滝の父としての立場を、そしてその糸滝を父景清と対面させる(位置付けさせる)ために多くの人々の善意と想像力(ネットワーク)がそこに関わっていることを思い知らされることにより(ここに立端場「花菱屋」のもつ大きな意味合いが認知されよう)、景清という自己の存在が新たな座標軸に位置付けられたことを明確に認識する。しかもそれはかつて敵対した頼朝との関連付けにおいて成立するものである(先に挙げた「敵と味方」云々の詞章は、それを昇華するものとしての意味があるから、素浄瑠璃ではこの時点で両者の自己矛盾は解消されることになる)。景清は悪七兵衛としての自己を放棄せねばならない。そしてその象徴たる位牌をもはや握りしめておくことは出来ないと意識したとき、その力は弛み、位牌は海中へ落下するのである。自己の存在証明を失った景清が、一瞬呆然とした後、やはり自己の存在自体をも消滅させようとするのは当然の心情である(このとき新しい自己を位置付ける座標軸としての娘糸滝も左治太夫等もこの場には存在しないのだから)。そこには最後まで強く生きようとする人間景清の姿がある。12日の玉男、いや、かつての玉男はそう遣っていたように思われるのである。一方、後者の解釈はこうだ。父娘の情愛と、それを現出させてくれた人々の善意と想像力によって形成された網の目に気付かされた景清は、これまでの自己を位置付ける象徴として捉えてきた位牌に対して、申し訳ないとも情けないとも、無限の慈しみの気持ちを込めて捧げ持とうとする。その時、重盛の位牌はするりとその掌から海中へと落ちていくのである。…もういい、景清よ。おまえの忠義は十二分に果たされた。これ以上おまえをかつての位置(自己他者関係)つまり悪七兵衛として束縛する(座標軸の一点に留める)ことは私の本意でない。おまえは自らその網の目を解き放つに忍びない男だ。だから私の方からおまえを新たな世界へ移してやろう。景清よ、娘糸滝と幸せに暮らせ。これまでの間、本当に辛苦をかけたな…景清はその声を聞いたかもしれないのだ。12日も、そして何よりも19日の玉男はそう遣ったように見えた。人間としての弱さを見せる景清、玉男師が到達した究極の地点といってもよいのではなかろうか。

(『嬢景清八嶋日記』「日向嶋」平成十四年一月公演)


【薩摩守忠度】
まず、玉男である。この通し狂言上演が判明するや、忠度は玉男師以外にはありえない(熊谷は文吾玉幸ラインに任せても)と述べたが、実際目の当たりにして一層その思いを強くした。忠度の品格と言ってしまえば他に言葉はないのだが、それは言わずもがなとして、忠度のかしらが源太であるということに注目してみたい。詞章での描かれ方やとりわけ玉男の遣う忠度ならば検非違使の方が映るとも考えられるのだが、未だ妻帯せず菊の前との恋仲、勅撰集に名を留めたいとの歌人としての思い、そして武門平家の貴公子としての心の趣等々からみて、源太が至当ということであろう。そうするとこれは容易ではない。検非違使ならば風格も出しやすいし、若男ならそのまま優美である。(もちろん、これらを描出するにしても相当の力量が必要とされるのだが。)それが源太かしらである。その年齢の常として当然外へ向かって発散されるべきエネルギーを中に溜め=矯めなければならなくなる。とはいえそれが憤懣に変化したり暴発前の蓄積状態であったりしたのでは、忠度の性根は死んでしまう。その上にこの作品世界の抒情味である。例えば忠度が梶原を追い返した後の詞章、「怒りの涙」を浄瑠璃作者は「照る月に氷を降らすが如くにて」と表現している。普通ならば、烈火の如くとか川水増さるとか書かれるところであろう。それを照月に降氷とは…。これを源太かしらで表現するのである。何と至難の技ではないか。それを玉男師が顕現するのである。これはもう玉男師の気品風格の為せる技としかいいようがない。いや、もはや風韻気韻の神位であると評すべきものかもしれない。そういえば11月の八百屋半兵衛も源太かしらであった。玉男の遣う源太は確かに今世紀が誇る至高の芸術といってよいだろう(初代栄三とともに)。さて、具体的にとりわけ印象に残った玉男の忠度について述べてみることにする。まず、菊の前に仔細を語るところ「口には諌め心には」からが無類で、「いるもゐられぬ座を背け脇目に余る御涙つつみかねさせ給ふにぞ」など、うつむいた表情とネムリ目の遣い方至上である。メリヤスに乗ったツメ人形との組み手から前述の照月降氷の部分、そして「痛はしくもまた道理なり」で極まる型の美しいこと。手を叩こうと思ったらちょうど叩いた人がいたので図らずも二人して客席を先導することになった。同志なる哉。そして究極は段切りの片袖由来物語。馬上にて流しの枝の短冊を頭高に差しながらネムリ目でうつむく所作、ここは片袖を渡す六弥太(玉幸)に忠度を一途に思う菊の前(簑助)それを押し隠す乳母林(文雀)と四者一如の手摺であって、これはもう一幅の大和絵を見る心地であった。類希なる詩情。

(『一谷嫩軍記』「林住家」平成十二年一月公演)

【乳母政岡】
至福の時間を過ごさせていただいた。感激である。とりわけ玉男の政岡が絶品。詳述してもすべてがすばらしいとしかいいようがない。筆を捨てるしかないとはこのことである。それでも評というからには一つなりとも触れねばなるまいから書く。千松を励まして雀の唄を歌わせるべく自ら歌い出す「七つ八つから金山へ金山へ、一年待てども、まだ見えぬまだ見えぬ」のところは、千松殺害の後の愁嘆のクドキの重要な伏線にもなっているのだが、それとは別に大切な仕所でもある。政岡はこう歌ううちに自分の世界に入り込んでいるのである。ここ数カ月数週数日の心労はそれはもう言語に絶するものがある。しかもわが子千松には鶴喜代君の手前もあってむごいほどの辛抱をさせ続けているのである。あれやこれやの思いが頭の中をぐるぐると駆けめぐっている。唄は自然に口をついて出る、飯炊きはもう煮上がるのを待つより他にはない。この御殿の中三人だけ居るにおいてはとりあえず安心だ。というように、時空的ホールがぽっかりと穴を開ける静寂の瞬間が現出するのである。それを鶴喜代の「乳母まだ飯はできぬかや」の言葉で、はっと我に返る。この一連の遣い方である。

(『伽羅先代萩』「御殿」平成八年一月公演)

【良弁僧正】
何よりもその表現に品格を要求されるこの浄瑠璃は、聴く者にもまた自然と居住まいを正させるものがある。行儀の良さ、つまり私心のない慎みである(論語「礼は其の奢らんよりは寧ろ倹せよ」)。今回とりわけ際立ったのは良弁の述懐で、最初の「烏に反哺の孝もあり、鳩に三枝の例もある。われは闇路の魂よばひ、生れぬ先の父母も、空懐かしさ、はかなさよ」と、段切の「杉の梢も雨露の恩。恩と情の親心。恵みも深き二月堂。日頃の憂きは木の元に、悦び栄ふ孝の道」とが、この一段の骨格を成していることを気付かせたのである。つまり、自己の内へ内へと省みる視線の下降と、彼方へ外へとあこがれる上昇の視線と、それは両者に共通して対称を成している。そしてまた、前者は落ちる涙に収斂され、後者は微笑みとして拡散されるという、対照的な描出でもあるのである。実はこのことは、玉男師の遣う良弁僧正の人形によって、というよりも、ほんとうにわずかな首の角度、この位置しかないという仰角と俯角とによって、観客に納得させられたものでもあった。そして、この両者の詞章の間に、この一段の感動の頂点、良弁と渚の方の再会があるわけで、「そんならあなたが」「そもじが」の語りから、「渚の方、人目も恥ぢず抱きつき」で文雀師の渚の方が良弁の胸に縋り付くところ、その母をやさしく抱きしめる玉男師の良弁、「喰ひしばりてぞ泣き給ふ」の泣キまでに、客席でも涙を流さない者は一人もいなかったのである。ちなみに、段切の見上げる視線は、長かった過去を振り返ることはもちろん、二人が生きて再会するに至らせてくれた多くの人々、母と子とそれぞれに関わった人々の善意と想像力とに、この上もない感謝と愛惜の思いを走らせているものである。この段切に、「桜宮」の船人や「東大寺」の伴僧の、温かい親身の言動が浮かび上がるとき、親子再会の愛の物語は、人間への信頼という愛の物語ともなるのである。深く根を張り天に聳える杉の大木をその象徴として。

(『良弁杉由来』「二月堂」平成十六年一月公演)

【俊寛】
今回、玉男師描くところの俊寛は、非日常世界である鬼界が島に生きる、日常生活者としての人間、という側面が際立っていた。この地を餓鬼道と見、孤独をかこつ俊寛に対し、熊野三所を勧進して日参に励む康頼(その意味では玉志の抜擢はいささか早すぎたようだ。現実的な存在感が今一つ乏しかったのだ)、千鳥とあはれにをかしき恋を生きる成経の三者が、日常の喜びを告げる。海女千鳥の描写は、豊かな自然とともに生きる彼女の、謳歌する生命力の象徴である。健康的なエロティシズムを近松は歌い上げる(その点十九大夫富助の奏演は平板か)。俊寛の心身にも熱い血が駆け巡り、玉男師の遣う人形は心からの喜びを表す。もちろん恋女房あづまやとの日々を思い出してもいるのである。美しい生の輝きのある所、「硫黄が島も蓬莱の島」となり、山水も鮑も、今ここにある現実が永遠の存在としての価値を持つことを示している。簑助師の千鳥と俊寛との濃やかな情愛は、まさに親子の温かみを感じさせる。俊寛は心底楽しげであるのだ。それは、冷酷な(元よりこの島を非日常の地獄と見ている)上使の登場によって引き裂かれる時の、縋る千鳥と抱き寄せる俊寛との姿により強烈に感じられる。日常に生きているのが人間ではなく、人間が人々とともに関係性をもって生きている場所が日常世界なのである。四人帰洛が叶えば、もちろんそこが日常世界となったろう。そこが都だからではない。そして、その都から最愛の妻は除去され、今また千鳥が拒絶される。そこはもはや俊寛という人間が生きる場所ではない。「鬼界が島に鬼はなく鬼は都にありけるぞや」千鳥もまたその真実を直観する。「三悪道をこの世で果たし後生を助けてくれぬか」「俊寛が乗るは弘誓の船浮世の船には望みなし」という俊寛の詞は、決して自己犠牲の英雄的行為を韜晦する形式的な美辞麗句ではないのだ。したがって、段切の「思い切つても凡夫心」とは、都へ帰りたいなどという願いを言うのではない。死を引き受けた俊寛が、三人とともにあの輝く喜びの時空間を生きたいと欲する、「人間」としての心の叫びのことである。

(『平家女護島』「鬼界が島」平成十五年十一月公演)
【菅丞相】
次の百年に再びまみえるために言うならば、木像の菅丞相の遣い方を見るべきであり、「某これへ来らずば」の嘆きは首の傾け方と肩の動きとネムリ目のみで描出されること、まずはこれらから。そのあとの縁起や物語の箇所はちょっとやそっとの人間業ではどうすることもできない。並の座頭級では親子この世の別れの表現で精一杯だろう。「讒者のために罪せられ、身は荒磯の、島守と朽ち果つる後の世まで」に貴種流離譚を、「仰せはほかに荒木の天神、河内の土師村道明寺に残る威徳ぞありがたき」に鎮魂祭祀を見事に描いてみせ、人間菅丞相をこの二十世紀末の日本においても神へと昇華させ得た玉男のまさにその神業にふさわしいものであった。段切りの菅丞相の涙はいうまでもないが、今回はそれよりも「立ち出で給ふ御詠歌より」から「ここに残れる物語」に至る部分のまさにその「物語」、事実が真実として夾雑物を排除して純粋結晶したもの、過去から現在を経て未来に至るナマの時空間から取り出され完結された、そのきらきら輝く美しくも冷たい結晶体の現出にこそ目を見張るべきである。歌舞伎ではせいぜいが菅原道真一代記の再現にとどまるであろう。人形浄瑠璃にしてはじめて成し得た、しかも玉男という一世紀に一人の人形遣いのさらに一世一代興行おいてのみ可能であった、この舞台に立ち会えたことの感激と喜びに涙は留まることを知らなかったのである。無論苅屋姫との別れの情感などいうまでもない、今回は百年に一度の体験であるのだ。「天拝山」とあわせてこれで天神の社の御霊は今後一世紀百年の間は安らかにあらせられることであろう。浄瑠璃の言霊は人形の形代とともに確かに千年の時空を超越した。今回は「丞相名残」の段ではなく、正真正銘の「道明寺」の段であったのである。
今回は玉男の菅丞相である。面落ちして「骸は虚名蒙るとも死したる後は憚りなし」と言い切り平馬が首を打つところの気合い、私自身まさに「恐るゝばかりなり」であった。そして段切り「怪し怖ろし」はそのまま天神記の完成を意味し、荒ぶる神としての一面をも玉男は見事に遣いきったのである。公演終盤はまさしく芸力で遣っていた感がある。体力の衰えはさすがに隠せないが気力と精神力の発光雷電、これは玉男のことでもありそのまま菅丞相のことでもあったのだ。最初玉男の遣う菅丞相が上手から牛に乗って登場するや、ほとんどすべての観客が居住まいを正して舞台に向かったのである。この光景が意味するものは何か。げに今世紀最後にして最高の『菅原』はこうして幕を閉じたのである。
(『菅原伝授手習鑑』「丞相名残」「天拝山」平成八年十一月公演)
 

以上は劇評から抜粋したものです。


玉男師の人形を評するや、筆に尽くすこと能わざれば、
「劇場に足を運び、その至芸をご覧いただきたい」と書いてきた。
それも今は叶わぬものとなった以上、
もはや口をつぐみ目を閉じるよりほかはない。
ただただ悲しみに呆然とするのみである。

由良助や治兵衛などの人形には敢えて言及しなかった。
別論として稿を設けず語ることなど不可能だから。

手摺から目を合わせられることがたびたびあった。
書き散らした勝手な劇評を気に留めていただいて、
遣い方の工夫の一助にもされていたことは、
名誉であり誇りでもあることはもちろんだが、
それ以上に、
どんな些細なことでも芸の研究材料とされる姿勢に、
真の名人というものを圧倒的な力で感じ取った。

「昭和立役列伝中の人。感動的。」(高木浩志「文楽の人びと」)