《 其ノ四 「引窓」論−二世古靱太夫の浄瑠璃による− 》

 
 「引窓」論を著すに至ったのは、二世豊竹古靭太夫のSPレコード奏演(三味線鶴澤芳之助、大正十二年七〜九月ニットーレコード発売)がCD復刻化されたからである。ライヴとデッドは異なるとはいえ、古靭太夫自身「お身上(給金のこと)を頂いた上、あとで聞いて勉強させていただく。レコードほど、ありがたいものはございません。」(『至芸 豐竹山城少掾』解説文・武智鉄二)と言っていたように、その録音奏演への真摯な態度は、浄瑠璃の真の姿をいささかも損なうものではない。それは「引窓」奏演にもそのまま当てはまる。さらにこの大正十二年の録音は、御霊文楽座での実演と比較してみるとき、大変重要な位置を占めるものであることが理解されるのである。古靭太夫の「引窓」初役は大正四年六月であり、次が十年九月である。相三味線は三世清六で、三世大隅太夫から仕込まれた「引窓」をそのまま古靭太夫にたたき込んだことであろう。また、清六は役毎に常に新しい本を持って六世豊澤廣助(後の名庭絃阿彌)の所へ通って朱を入れていたという(『山城少掾聞書』)から、古靭太夫・清六の「引窓」が当時の最高傑作であったことは想像に難くない。その清六は十一年一月に急逝するが、この「引窓」奏演は、清六から受け継いだものを十二分にふまえたものと言えよう。なお、「古靭師匠の変わられたのは、武智(鉄二)さんとお付合いし始めてからと思います。それまでは、先代の清六師匠に仕込まれたことをずっとやっておられました」(『文楽の三味線 鶴澤重造聞書』)という証言もある。蛇足ながら、三味線の芳之助は清六とは比較にならないとはいえ、「三代清六の長女聟。」「俊才の上に熱心。有望視されていた。」(『義太夫年表 大正篇』)と記されているように、少なくともこの古靭太夫の「引窓」奏演を損なうものではないことが納得できるであろう。清六の死後、相三味線は二世豊澤新左衛門を経て十二年十月公演から四世清六へと変わるのだが、当時の浄瑠璃界の庇護者であり、芸の伝承に厳しかった杉山其日庵の『浄瑠璃素人講釈』(大正十五年刊)に、「豊竹古靭太夫が時々此段を語るが、誰に稽古をして貰つたか知らぬが、大分面白いやうに思ふのである。」と明記してあること自体、古靭太夫の浄瑠璃、ひいてはこの「引窓」の姿の正しさを表しているのである。

 「引窓」の端場は「かけ椀」と呼ばれ、切場への伏線が仕込んである場である。しかし、古靭太夫自身「こんな風に別に名前のついてゐる「端場」は、それぞれ語りどころのある「端場」なんです。」(『山城少掾聞書』)と語っているように、ここは単なる話しの発端とか切場へつなぐためのお膳立てとかいった程度では済まされない内容を備えている。「語りどころ」と内容とは異なる、と言われればなるほどそうだろう。『義経千本桜』「河連法眼館」の端場「八幡山崎」は静御前の地の文、伸びやかで美しくはんなりした節廻しの部分から採られているし、また『新版歌祭文』「野崎村」の端場「あひたし小助」は金をゆすりに来た小助の詞とやりとりの面白さがその出自である。では、この「かけ椀」はどうであろうか。八幡の里の実母に暇乞いに来た濡髪長五郎の詞「申しなんにもお構ひなくとも、欠椀で一杯ぎり。ついたべて帰りましよ。」からそれは来ている。この詞自体「語りどころ」という性質のものではない。もっとも、長五郎の心中の苦衷を表現する大切な詞であることは事実だが、それよりもこの欠椀の一膳飯を、「母の手盛を牢扶持と、思ひ諦め」ている長五郎の覚悟、このあと役人に捕縛されるつもりの濡髪の真情こそが、「かけ椀」の焦点である。しかもその周りには、思わぬ再会への喜びに一つ屋根の下での暮らしを期待する母親の様子と、遊廓でのごたごたから解放されて幸福な毎日を送っているお早の姿が浮き彫りになっているのだ。さらにこの後にすぐ、「かけ椀」を現実のものにする立場としての十次兵衛となった与兵衛が登場してくるのである。このように「かけ椀」とは部分的な聴かせどころ聴きどころの称ではなく、「引窓」の端場はもちろん切場にまで及ぶ重要な内容を暗示しているものである。
  さて、その「引窓」の端場「かけ椀」はまず南与兵衛の母と嫁との仲睦まじい様子を描写するところから始まる。が語り出しの地の文において早くも、「引窓」のキーワードである「月」と「待宵」と「放生会」とが提示されているのだ。「月」については《出で入るや 月弓の、八幡山崎》とあり、弓張月から縁語の石清水八幡宮の八幡へと巧みに繋いでいるのであり、「月」そのものに注意が向けられているのではないが、「待宵」といい、さらには《嫁は小芋を月代へ、子種頼みの米団子、月の数程持ち出づる》と語り進められていることを考えれば、この語り出しは実に効果的な「月」の印象づけに成功しているのである。「月」は当日が「待宵」であることを引き出してくる。その「待宵」とは明日の十五夜を待つばかりでなく、夫婦間の子を待つことにもなり、そして与兵衛の帰宅出世をも待つという、期待に満ちた心の時を表している。ここにはいささかの不安もない。いずれは自然に現実のものになるであろう三様の「待つ」がここにはある。過去の苦渋はこの期待の前にはいささかもその暗い姿を現してこない。母も嫁もそれぞれが背負ってきた過去は、この期待が現実のものとなることで、明るい未来に転化することになるはずなのである。また、「時が秋の半の放生会であるのが既に風情が深い」(黒木勘蔵前掲書)との指摘の通り、「放生会」もまた、「引窓」にしみじみとした穏やかな雰囲気を与えている。この「放生会」の重要な意味は、最後の最後で解きあかされることになる。また、《神と仏を友にして》《雑行なれども神いさめの供へ物》とは老人の常の姿であり、とりわけ「放生会」を標的にしたものではないが、「引窓」における母親の深く篤い心を伝えてくる。《蚤の息が天とやら」との詞からもそれはうかがわれよう。しかし、その神や仏に代えてまでもという必死の願いが今宵のうちに表明されることになるであろうとは、母親本人も決して思い至っていないのである。
  次の《けふは待宵殊に日のうちからははやいはやい》は、ついこの間まで都という遊女であったお早とのほほえましい会話を導き出す。「お早」という名との連想まで楽しませてくれよう。が、この何気ない母の詞から「待宵ではまだ早い」という核心部分を抽出してみると、そこには、「この待宵の日における家族の状況は、見かけこそ何の問題もない円満なものではあるが、実は完全な家族に至っていない欠けた状態である。あたかも「待宵」の月が、十五夜の完全な満月に比すとき、欠けるところがある不完全なものであるように」という隠された真実が存在しているのだ。その真実が表面化するのにいくらの時間もかからない。濡髪長五郎の登場がそのきっかけとなる。
  《編笠にて顔隠し世を忍ぶ身の後や先、見廻し立寄る》で、長五郎が暗い影を背負っていることを表す。半通し上演ならば、難波芝居裏での殺人がすぐに思い出されよう。無論観客の心の中には、長五郎の立場に同情するだけの十二分の広さの情状酌量の余地がある。母親との対面、お早の《なんの気がかりなう添うてゐやんす》との詞は明るい光であるのだが、《ヤこれはしたり。さては…》との驚きと、《同じ人を殺しても、運のよいのと悪いのと》との述懐により、取り返しのつかない殺人の罪を犯した長五郎の過去の暗雲がたちまちに現在を覆うのである。《それは幸せなこと》と《ハテ幸なことぢやの》との間にある詞の調子の差には、妬み羨みの気味が感じられるとはいえ、天と地ほどに離れてしまった自分自身と都つまりは与兵衛との間の、埋めようのない深淵を目の当たりにした長五郎の嘆息が聞こえてくる。しかしまた、この光と影は一見平で滑らかに見える表面の凹凸を浮かび上がらせていくことにもなる。《同じ人を殺しても》はそのままお早と与兵衛に向かう。確かに、この事件は落着済みであり、何らの不安の種もないのであるが、与兵衛の女房お早としては、この話題を含む遊廓の都としての立場を再認識させられるのは気持ちの良いものではないだろう。まして、現在嫁として仕えているこの母には隠しておかねばならない。事実を語ることは、このお早−母親−与兵衛という新しい家族の構図にとって無意味であり、それ以上に危険でもある。親しげに語る二人の話に母親が注意を向けたとき、《イヤこれはつい一目知る人ぢやが、また長五郎様がお前を、母様と仰しやる訳はえ》と話を横道に逸らしたのは、お早にとっては当然のことであったのだ。なるほど、長五郎については《アイ廓でのお近付》と率直に答えてはいるものの、これは都−長五郎という過去の系譜に連なるからであって、現在そして未来へと続くお早−与兵衛−母親という構図とは全く別のものなのである。お早は母親に過去を隠さなければならなかった。長五郎もまた自ら犯した罪を母親はもちろんお早にも語る訳にはいかない。切場で告白されるように《ま一度お顔が拝みたさに、お暇乞ひに参つて》《眼前歎きを見せませうよりは》という思いであるのだから。では母親はどうか。《嫁ともに子三人。わしほど果報な身の上はまたと世界にあるまい》との手放しの喜びがすべてなのであろうか。
  母は嫁に長五郎が実子であると語り始める。《どうで一度はいはねばならぬ》ものの、この母と長五郎との血筋の話題は母−与兵衛−お早の構図においては禁句であった。《その訳知つても知らぬ顔あそこやこゝの手前を思ひ、かつふつ音づれもせなんだが》とは配慮や遠慮などというレベルのものではない。《与兵衛は先妻の子で、わしとはなさぬ仲ゆゑに》との詞はそれだけの理由、つまり血のつながりのない継子継母の関係であるという理由だけが、この家族にあって決定的な負の要因であることを意味している。血筋の不連続は自明のことである。にもかかわらずその事実を、あるいはその事実を想起させる一切の事柄をタブーとしなければならない家族の構図は、完全なものではない。さらに、血筋の引縄こそが家族の結合を支えるものであり、血の結合こそが自然な家族の結合であるという無意識の了解は、母親はもちろん与兵衛にとっても(お早にとっても)、実に不自然な家族結合の形成を意味していたに違いない。そうなるとこの家族の構成員は各々が家族であることを演じるよりほか仕様がなくなる。見かけの丸は真円ではない。月のあばた顔も月面の凹凸を当然の事実と受け止めればこそ、ユーモアにもジョークにも転じることが可能なのである。となれば、《かうしらけてきたからは戻られたら引合し、兄弟の盃》との母の詞はその解決策であるとは読み取れない。この母の詞にあるものは、実の子に対する愛情つまり自然な心の発露を抑え込まなくても済むという解放感なのである。つまり、継子継母の関係を白日の下にさらけ出すのではなく、自然な関係の下に不自然な関係を隠蔽してしまうという方向に進むものである。《兄弟の盃》とは母の実の子長五郎の兄弟として与兵衛が位置づけられることを意味する。無論この「引窓」の母が与兵衛を差し置いて長五郎を盲目的に愛することになろうとは考えられない。いやむしろ逆だろう。そうなればなおのこと、母の与兵衛への愛情は不自然に強調されたものになる。なぜならば、実子への自然な愛情は隠そうとすればするほどまぶしく光輝くからである。母は無意識でも、与兵衛と長五郎にはその輝きの違いがはっきりと感じられるはずである。これが義理というものだという考え方もあろう。しかし、義理の愛情と、義理の関係を昇華した上での愛情とはその質がまるで異なる。見かけの円があくまでも丸く、いよいよ滑らかに塗り込められるとき、真円との間には更なる断絶が深まるのである。「引窓」の「待宵」の月はそうはならなかった。《与兵衛に話さうかと思うたれど、以前を慕ひ尋ねても往たかと、思はれるが恥かしさに隠してはゐたが》と語る母の詞はこのあと再び現実のものとなり、《負はず借らずに》という母の思いは、まさしく「負うなり借りるなり」の状態に陥るのである。とはいえその苦しみも一時、「待宵」の月光が新しい家族の夜明けの光として認識されるとき、すべては止揚される。そしてその過程にこそ、「引窓」一段の浄瑠璃の真実が現れるのである。
 あと端場で注目しておかねばならない点について駆け足で見ていきたい。まず《年たけても父御の譲りの高頬のほくろ》のところ。わが子長五郎との対面を決定づけた喜びの証拠が、後にはわが子を逃がす上での最大の障害になるという落差。母や嫁の悲しみの深さを増大させる効果が与えられることになる。次に長五郎の詞、母へのよそながらの暇乞いは大切な語りどころであるが、ここではまず《男をたて過して》つまり長五郎の男伊達を再確認しておきたい。そして《お前ともあかの他人、倅持つたと思召して下さるな》《お早殿、与兵衛殿へも母のこと、頼みまするというて下され》のところ。長五郎は母−長五郎という構図から母−与兵衛−お早という構図へと母の立場を移そうとする。都殿をお早殿とすでに呼び変えていることにも、長五郎−都、長五郎−母という関係を過去のものにしようとする意識がみてとれる。母−長五郎という血筋の縄が太ければ太いほど、それが切断されたときに流れ出る血の涙もまた激しく濃いものになる。長五郎にはそれが堪えられないからである。しかし母にとっては、そう言われれば言われるほど、血筋の引縄が以前にもまして太く強く、その存在感を増大していくことになる。《マアお茶漬でもナお袋様》との嫁の詞に対して、《イヤイヤ初めて来たもの、鱠でもしませう、あの体では牛蒡の太煎、鮹の料理が好きであらう、気が晴れてよい二階座敷、淀川を見て肴にして一つ呑みや、うぢうぢせずと往きやいの、どりや拵よ》と語る母の詞の、何と自然で伸び伸びとした、実の子への深い愛情に溢れていることか。もはや長五郎は《母の手盛を牢扶持と、思ひ諦め煙草盆。提げて 二階へ萎れ行く》よりほかはないのである。
  《爼や薄刃の錆は身より出で、死出の出立の料理ぞと、思へばいとど胸塞がり》のところは実に素晴らしい文章である。縁語や諺を巧みに使って長五郎の心情を見事に描写している地の文である。浄瑠璃の語りの真骨頂が遺憾なく発揮される部分である。それゆえにこそ次の「欠椀」という言葉が生きてくるのだ。(それにしても、こういう日本語表現の素晴らしさを曖昧さ非論理性として切って捨て、明晰なる某国語に取り替えるがよいとした文筆家がいたことに、改めて驚かざるを得ない。もっとも現在ではトーンダウンされたのか、日本語の漢字仮名交じり文を廃してローマ字表記にせよという主張がなされているようであるが。ちなみに両者とも文化勲章授賞者の発言である。)したがって、「欠椀」の意味するところは明快である。それはこの考察の初めに記した通りである。しかし、この「欠椀」には「待宵」の月と共通するある意味が暗示されていないだろうか。《欠椀で一杯ぎり》と続けば、牢扶持の意味よりほか考えられまい。が、「欠椀」でまず思い浮かぶのは「欠けた」椀である。母の愛が篭められた御飯を盛るのに「欠けた」椀、母の愛を受け取る器は「欠けた」状態である。それを望む長五郎は前述のように、母−与兵衛−お早という構図へと母の立場を移そうとしている。長五郎はもはや「欠けた」椀にしか盛ることはできないという。では与兵衛であれば、母−与兵衛−お早という、この待宵の日における家族の構図であれば、「欠椀」ではなく完全な形の入れ物に母の愛を受け取ることができるであろうか。答は否である。理由は明らかであろう。このように「欠椀」には、母−与兵衛−お早の三者に長五郎を加えた四者の関係、いわば「引窓」の家族関係が、この時点においては「欠けた」状態であることが隠されているのである。それはまた、十五夜の真円に至る前日の「待宵」が暗示するところのものと共通していると考えられるのである。
  「引窓」の端場「かけ椀」はかくも重要な意味を与えられている語り場であった。「伊勢大夫の端場はあれどもなきが如し」(武智)とは、「問題は古靭大夫の切である」(同)ことを明確にするための飾り言葉であって、そのまま受け取るには問題があろう。実際伊勢大夫の端場と古靭大夫の切場とではすべての点において比較にもならなかったであろう。しかし、そこには多分に「「引窓」の端場は問題とするに足りない。」という見解が含まれているように感じられる。一般的な端場の意味や意義についてどうこう言おうとしているのではない。そのようなことなど氏は百も承知であるはずだ。ただ、「引窓」に関して端場を切り捨てるように受け取れる表現は、やはり不適切ではなかったか。正岡子規の貫之や芭蕉をめぐる物言いと同じように、戦略的発言は実に大きな影響力をもつ。それが子規や武智鉄二ほどの人物のものである場合は、なおさら心しなければならないだろう。「引窓」の端場「かけ椀」の分析にそれなりの紙面を費やしたのはそのためでもあるのだ。

  さていよいよ切場である。オクリで《二階へ萎れ行く》と語られたあと、《人の出世は時知れず、見出しに預り南与兵衛、衣類大小申し請け、伴ふ武士はなに者か所目馴れぬ血気の両人、家来もその身も立留り》までがマクラ一枚といわれる部分である。この部分については「浄瑠璃素人講釈」「引窓」の項に、三世大隅太夫の芸談が記載されている。それには「『人の出世は時知れず』と明るく云うたら、『見出しに預り南与兵衛』と声を落して云ひ升、『衣類大小申受け』と「ハツ」て云うたら『伴ふ武士は何者か』と平らに語るので厶り升、『所目なれぬ血気の両人』と強く云うたら『家来も其身も立止り』と静かに語るので引窓になつて、明るく暗くなつて行ますので、三味線も其心で弾かねば引窓は弾けて居らぬので厶り升、此から先は語る人と、弾く人の考と、力とで引窓が出来て行くので厶り升。」というように、大変重要な指摘がなされている。これを、「むろん『人の出世は時知れず』と明るく語り、『見出しに預かり南与兵衛』と暗く語ることにどんな理屈もない。『人の出世』以下が明るい意味をもち、『見出し』以下が暗い意味をもっているわけでもない。」(渡辺)と容赦なく切り捨ててしまう(この部分も戦略的発言と考えられなくはないが)のは、やはり誤りである。まず、「『人の出世は時知れず』と明るく云う」とは、端場からのオクリ《二階へ萎れ行く》長五郎の姿とは対照的に、庄屋代官十次兵衛として二本差の姿で颯爽と帰ってくる与兵衛を描写している。明るさは心の喜びでもあろう。長五郎の端場での独白《同じ人を殺しても、運のよいのと悪いのと》は、与兵衛のそれこそ「時知れぬ出世」によって一層その光と影、明と暗が際立つことになる。師匠二世団平が大隅太夫に語った「端場から奥を語れば『煙草盆提げて二階へしほれ行』の「フシ」切れに「ツントン」と重く弾くものじや」(「浄瑠璃素人講釈」「引窓」)という口伝もまた大隅太夫の言質の正当性を確固たるものにしているのだ。次に「『見出しに預り南与兵衛』と声を落して云ひ升」のところは、登場する十次兵衛がつい先刻家を出たときは町人与兵衛だったことを暗示している。有頂天の喜びは町人与兵衛のものであるが、十次兵衛としては軽々しい。「暗く」ではなく「声を落して」であることに注意したい。なお、古靭太夫の奏演では《南与兵衛》で「声を落として」いる。「『衣類大小申受け』と「ハツ」て云うたら」はそのまま庄屋代官二本差の十次兵衛の武士格を表現している。ここは初代吉田栄三の人形の「『衣類大小』となってトントンと束に立って極り」(前掲書『双蝶々曲輪日記 引窓の段 −栄三の十次兵衛−』「文楽人形の演出」大西重孝。以下大西氏からの引用はすべて同書による。)という遣い方の意図ともぴたり一致している。このマクラ一枚での与兵衛の世話と十次兵衛の時代の変化は、そのまま「引窓」の光と影、明と暗の変化と波長を同じくする大切なものである。「『伴ふ武士は何者か』と平らに語る」はこれから話が展開していくその話の振り子、きっかけをなす。おや?与兵衛が出世して戻ってくるだけではなくて…というような感じである。もちろん不審の念というほど強いものではない。あくまで「平らに」である。次の「『所目なれぬ血気の両人』と強く云う」は兄弟を殺された二人の武士の血気に逸る様子を強調する。そして「『家来も其身も立止り』と静かに語る」とは、ここでマクラ一枚が終わっていよいよ「引窓」の切場のストーリー展開にかかることを表現する。人形も「下手寄りで正面となる後へ平岡丹平、三原伝蔵が続いて出る」(大西)となっている。以上、古靭太夫の奏演もそれを踏まえており、芳之助の三味線も、明確には捉えがたいものの、その行き方である。なお、浄瑠璃の語り三味線奏演の陰陽と意味内容の光と影、明と暗とはそのまま一致しないということは、様々ある具体例をここに挙げる必要もないほど明確なことである。無論「引窓」のマクラについても同様であり、「『人の出世』以下が明るい意味をもち、『見出し』以下が暗い意味をもっているわけでもない。」とは、かえって誤解を招きかねない表現である。ただし、渡辺氏のこの一連の話は別の側面から捉えなければならない。そこには古靭太夫の山城少掾受領後の浄瑠璃や武智鉄二の浄瑠璃論等の根本にも関わる問題が存在しているからである。
 「この話を最初に読んだ時に、私はくだらぬ話だと思った。」と記し、「いかにもゴロ合せの駄洒落を聞いているような気がしたからである。」と続け、「私にいわせればただの遊びにすぎない。そう思えたのである。」と結ぶ渡辺氏の文章の真意はその著の前書きに該当する章『焼け跡の四ツ橋文楽座』を読めばよく理解できる。氏はその章の終わりに近い部分においてこう語る。すなわち、大阪の戦火のあとに残った近代的なコンクリート造りの三つの劇場を、単に建築技術をこえた「近代」そのものを象徴していたと捉えた上で、「前近代に生まれ、前近代に育ち、前近代に完成した人形浄瑠璃は、もはやその場所以外のどこでも生きようがなかった。戦火は、その事実をあからさまに露呈した。その歴史的な事実、必然といってもいいが、そこで私は山城少掾に出会い、人形浄瑠璃に出会った。」と。そこにはいわゆる「近代合理主義精神」の影が見える。しかしそれは西洋思想からの借用ではない。あの戦前戦後を体験した、そしてその体験を意味付けることができた日本人だけが持っている「近代的合理的なるもの」への希求なのである。敗戦後日本の伝統文化に対する攻撃にはすさまじいものがあった。「第二芸術論」がその筆頭だが、浄瑠璃についてみれば『浄瑠璃=白痴の芸発言』がある。この某大学教授の発言は当時文楽座紋下の地位にあった山城少掾にも徹底的な精神的ダメージを与えた。山城少掾はなんと谷崎潤一郎に対して、この発言を否定し浄瑠璃を擁護するよう頼み込んだという話がある。次に武智鉄二の場合である。彼は戦前の文楽研究の第一人者鴻池幸武を追悼して「無謀で無意味な戦争の犠牲となって、比島戦線で戦死した。」「鴻池さんを殺したことだけで、私は日本の軍隊を、永久に許すことができない。」(「道八芸談」『あとがき』)と断言する。彼については「昭和十年代のファシズムの暗黒の中で、ヒューマニズムの希求に全情熱を注がれたその評論の歴史・社会的意義は高く評価すべきである」(内山)という分析がその本質を語り尽くしている。とすれば、前述の「古靭師匠の変わられたのは、武智(鉄二)さんとお付合いし始めてからと思います。」とする四世鶴澤重造の発言の真意がどこにあるかも逆に理解できる。「わたくしとしては、昔の方が面白かったように思います。後のは、あんまり思い入れがありすぎたように思います。」というように、「面白かった」「思い入れがありすぎた」という言い方しかできなかった重造の発言は、いわば「近代合理主義的解釈」に取り残された形の、一人の職人芸的三味線上手のこだわりとでも呼べばよいものであろうか。ちなみに重造の三味線が、先代相生大夫(相生翁)とのコンビによる奏演によってその旨味が再評価されるようになったのは、彼の晩年昭和四十年代も半ばに入ってからのことであった。
  断るまでもないとは思うが、山城少掾の浄瑠璃や武智、渡辺両氏の論考が敗戦によって「近代合理主義的解釈」になったということでは決してない。事実昭和十年代の古靭太夫の浄瑠璃にそれは早くも聴き取れるし、人形の初代栄三の解釈もまた、古靭太夫の浄瑠璃と絶妙にマッチしていた。もっともそのことは各人の近代人としての個人的資質や自覚にまで話が及ぶかもしれないが。肝心なのは、敗戦がまさに「その歴史的な事実、必然といってもいい」として受けとめられたことである。そしてまた、そう受けとめた人々によってのみ、人形浄瑠璃はいわゆる「近代」に生き続けることができたということである。さらにはその人々が「古きもの」を大切に扱ってきたこと、その重要性に気付いていたこと、等もまた忘れてはならない。浄瑠璃の「風」というものの捉え方にそれは如実に現れているのだが、ここでは触れない。問題が大きすぎるからである。
 現在その「近代合理主義的解釈」は当然の事柄となったし、あらゆるテキスト研究においての基礎部分でもある。それなくしてはいかなる構築物も建造不可能である。しかし私たちは今その地平の彼方を見ている。そして「近代合理主義的解釈」が地下に押し込めなければならなかったものに対して、新しい光を当てることができるようなったはずだ。ただし、それが「近代合理主義的解釈」を頭から否定し去るものではないということは明らかである。山城少掾の浄瑠璃とそれに立ち合った人々にとって、「近代」は「必然」であったし、「必然」でなければならなかった。しかし私たちはその呪縛からは自由であろう。人形浄瑠璃もまた「近代的なるもの」を乗り越えてその先へと足を進めなければならない時に来ているのである。
 最後に一つ例を挙げて考えてみたい。「摂州合邦辻」『合邦庵室』の切場前半での玉手御前のクドキに「猶いやまさる恋の淵、いつそ沈まばどこ迄もと、跡を慕ふて歩はだし、あしの浦々難波潟、身を尽したる心根を」という一節があり、この「あしの浦々」で人形の足の裏を見た人形遣いがいたという話がある。あまりにも表面的でなんとも浅い解釈、噴飯ものである。しかも裏々だから両方見たというのだから話にもなるまい。しかし、この縁語・掛詞・枕詞を駆使した綾織物のような美しい文章が玉手御前の心情を見事に語り伝えてくることを感じるとき、この「足の裏」が「歩はだし」と「難波潟」とを有機的に結びつける実に重要なポイントを押さえていることに気が付くのである。つまり、跡を追う玉手御前の真情が、汚れあかぎれた「足の裏」に象徴されているということだ。この綾織りを面倒くさく煩わしいもの、虚飾過剰な非論理的なものとするときには、それに気が付くことはあるまいし、気が付く必要もないだろう。もっとも、その人形遣いはそう解釈した上で「足の裏」を見たのではないだろうし、実際「あしのうら」から単純に想起したのだろう。おそらく浄瑠璃本文も正確には読めてはいまい。とすれば、玉手御前のクドキの美しい浄瑠璃奏演がその人形遣いをして「足の裏」を見せしめる所作をとらせたというふうには考えられないだろうか。人形遣いが自然にその所作をしたというのではない。表面的な上滑りの解釈の下にも浄瑠璃の深淵な世界が広がっていたということである。
 明治大正そして昭和初期の名人たちの芸談逸話のなかには、にわかに信じ難いと思われるものがある。社会や生活の変化を差し引いても、「近代合理主義」の目には奇異に映るものがある。が、私たちはそれらをまず無条件で受け入れてみてもよいのではあるまいか。鵜呑みにするのではない。とりあえず丸ごと頬張って舌上にその味を広げてみるのだ。浄瑠璃でいうならばその戯曲性に対する音曲性の重視ということになろうか。「うまい」「面白い」あるいは「気持ちいい」といった快感、解放された感覚、そういったものを前面に出してみるということである。無論そこには感動やカタルシスが伴わなければならないし、浄瑠璃は情を語るのを第一とするということもまた自明のことである。そういう意味からも、古靭太夫(山城少掾ではなく)の浄瑠璃を中心とするSPレコードのCD復刻化は非常に重要な位置を占めている。古き良き時代に回帰するためではない。浄瑠璃の現風景のなかに、過去から未来の浄瑠璃へとつながるものを見いだすためにである。
  さて、「引窓」に戻ろう。《いそいそとして》以降も世話と時代のカワリは続く。「引窓」のいわゆる光と影、明と暗の一表現である。古靭太夫の浄瑠璃においても、その見事さに変わりはない。人形もまた同じである。初代栄三も今の玉男も全く抜かりはない。《今からは武士附合ひ、遠慮が多い》とは嫁姑ばかりではない。与兵衛とても同じである。が、密談云々をことさら強調してはならない。そういう状況であるということだ。次の平岡丹平、三原伝蔵と与兵衛との会話の部分では、触れておきたいことが二点ある。その一つは、二人の武士の語り分けについてである。古靭太夫の浄瑠璃を聴くと実に明快である。両人とも同じ穴の貉、薄っぺらくつまらぬ人物である。それが兄弟を殺した犯人探しに躍起になっている。とここまででも素晴らしいが、古靭太夫の恐ろしいのは、《年長なる侍》の地の文がこのあと見事に語り生かされていることである。耳を凝らさなくても《身が弟は郷左衛門手前が兄は有右衛門》という年齢差がよくわかるのである。しかしあくまで端敵役のふたりである。早口に語り切ることで軽々しい性根もまた表現されている。またその早口の中に強弱緩急自在の動きがあって実に面白いのである。端役に至るまで語り活かすという浄瑠璃の極意は、まさにここにあると言って良いであろう。
 二点目は殺された二人の武士の名が明かされたところである。《アノ平岡郷左衛門三原有右衛門とな》の部分についてはどの批評も、「『三原有右衛門』の如きも何だかきいた名前といふ以外の拵へがあつてはならず、また古靭の場合、ない。」(武智)とか「『アノ平岡郷左衛門三原有右衛門とな』の裏問ひも思ひ出し程度の軽い尋ね方、一般此問ひ方に深い意味を以てのやり方が多いがこれは慥かに此位の方がよい」(『古靭太夫の「引窓」』森下辰之助・前掲資料集所収)とかいった具合である。この平岡郷左衛門と三原有右衛門とは権九郎や佐渡七等とともに、第一段から与五郎与兵衛長五郎等の敵役として登場し、様々な悪巧みを行う人物である。もっとも与兵衛は平岡郷左衛門と三原有右衛門とには直接の関係はなく、都と駆け落ちしてこの枠の中から一番先に姿を消しているから、第八段「引窓」に至るまでに、その印象が薄れてしまっているとも考えられる。しかし、与兵衛はやむにやまれぬとはいえ佐渡七を殺し、吾妻の機転でその罪は権九郎に着せたという過去があるのである。自分に正義があり、すでに一件落着している事件とはいえ、薄いながらもその色は染み付いているはずだ。その名を聞いてハッとするのは当然であろう。思わぬところで過去がちらりと姿を現した。復刻CDの古靭太夫にはそのハッとした心の動きがある。記憶の底に沈澱していたものが揺り動かされ、再び舞い上がってきたとでもいうべきものである。ただし「深い意味を以てのやり方」とはまるで異なる。実ではなくて虚である。過去が暴かれるとかあの二人と長五郎とがこう結びつくのかとか、そんな生々しいものではない。さらに次の《ハアヽウヽム》にも相応(相当ではない)の思い入れがある。そして《アヽイヤ承つたやうにも》は否定するとか隠蔽するとかではなく、確述できないしまた確述する必要もないというふうである。最後に《ムヽしてその殺したる者はなに者》となるのだが、この《ムヽ》が自分で納得した、自分に言い聞かせたという語りである。この《ムヽ》で与兵衛の心中に一旦浮上した沈澱物は再び底へ収まった。このように、通し狂言「双蝶々曲輪日記」における「引窓」としての語りがここには見事に結実している。では、「引窓」単独としてはどうなのだろうか。前述二氏のように語るのが正当なのであろうか。それを考える手がかりはやはり「引窓」にある。母、お早そして長五郎のそれぞれがもつ二重性、それは与兵衛についても見られる。光と影の交錯、「引窓」の明と暗はまずこの一連の与兵衛の詞に現れるのである。《同じ人を殺しても、運のよいのと悪いのと》という長五郎の述懐ともまたほんのわずかに響き合うことになる。前述二氏の評をそのまま受け取れば、大正十二年前後から昭和十五年の間に古靭太夫の語りが変化したということになる。少なくとも、与兵衛のこの一連の詞にかけられていた比重が減じられたということは確かであろう。「一般此問ひ方に深い意味を以てのやり方が多い」のであらば、古靭太夫が意図的に減じたということをも意味しよう。ただ、両氏の評は、「拵へがあつてはならず」「此位の方がよい」との各自の判断が先にあって、それを古靭太夫の浄瑠璃によって裏付けたものとも受け取れるのである(前者の場合は特に)。仮にこの両氏が復刻CD版を聴いたとして、はたしてどのように判断するだろうか。仮定の質問は無意味ではあるが、奏演と批評との関係を探る上でも興味深い問題である。ともあれ大隅−清六−古靭へと伝えられた「引窓」が、この与兵衛の詞においてもその光と影、明と暗を表現するとの隠された口伝の存在を浮かび上がらせたのである。そしてそれは表の実ではなくて裏の虚としてである。与兵衛にも光と影が交錯しているのだ。「一般此問ひ方に深い意味を以てのやり方が多い」とは、裏を表に虚を実に受け取ったがための無意味な語りなのである。
 なお、ここまでのところでは《語るを一間に母親が、耳そばたつればこなたには、女房お早が立聞きの虫が知らすか胸騒ぎ》の部分に陰影が深く刻まれていること、また、与兵衛−十次兵衛と母−お早それに二人の武士とそれぞれに異なった運びのうまさが光っていることを特記しておく。なお、《与兵衛はなんの心もつかず》は次からの与兵衛の心の動きを探るための出発点となろう。
  二人の武士が帰ってからは、母−お早−与兵衛三人の心の探り合いが始まる。この三角形の中には長五郎がいる。与兵衛を頂点とする三角形は縦長の二等辺三角形である。しかも二人から与兵衛への長二辺は点線であり、中の長五郎に対して母とお早の双方から実線が引かれ、母−長五郎−お早という小正三角形ができあがっている。もっとも長五郎は二階にいてまだ姿を現していないが。《ハテ気疎いものゝいひやう》《なぜ》《ヤアいらざる女の差出》《ヤアこいつが、なんで濡髪をかばいだて》と、与兵衛の心理は不思議の思いから不審感そして不快感にまで至る。お早は馴染みの長五郎のため、そして何よりも母親のためにその心を汲んで夫の濡髪捕縛を思いとどまらせようとする。その心は夫婦の情愛以上に母に対する孝心へ、母の長五郎に対する母子愛へと向いている。《折るも一つはお前のため》と言うお早の心は、直接には夫のためではなく母のためであり、売り言葉に買い言葉の応酬は、何としても捕縛を阻止し妨害しようとするところにまで至っている。与兵衛が不快感をあらわにし刀にまで手を掛けるのも無理はない。しかしこの与兵衛の怒りは単に妻が夫の言に従わないということから生じているのではない。最大の要因は、出世と義母への愛なのである。
  与兵衛が今回の出世、すなわち庄屋代官に任命されたことに喜び満足している理由は三つある。一つは、放蕩者与兵衛からの完全な脱却ということである。《衣類大小くだし置かれ》《七ヶ村の支配》《イヤモ一生の外聞》《わりや手柄の先折るか》そして、《御前で請負ひ見出しに逢うたこの与兵衛、今までとは違ふ》というように、《今までとは違ふ》に代表される、男与兵衛の晴れ姿は、一昔前男伊達で鳴らした面目が今新しい形で施されることを意味する。お早の前で《『イヤナニ役人どもに申し付くる筈なれども、当所へ来て間もなく不案内、住み馴れたその方に申し付くる、日のうちはあの方より詮議せん、夜に入つてはこの方より隅々まで詮議しなにとぞ搦め捕つて渡せ、国の誉』とあつてのお頼み》と殿の口吻を真似て語る姿にも得意の様子が見て取れよう。かっこいい与兵衛という捉え方は表面的ではあるものの、与兵衛という人物の一面の真実を確かに言い当てているのである。古靭太夫の浄瑠璃を聴けばよくわかる。
 二つ目は《名も十次兵衛と親の名に改め下され、昔のとほり庄屋代官を仰せ付けられ》から受け取れる、亡父十次兵衛の跡を継いだという自覚である。自らの放蕩によって没落した家筋を再興することが当時どれほど切実な思いを導き、かつそれが図らずも現実のものになったことへの感激がどんなに大きなものであったか。十次兵衛となった与兵衛が思わず《いそいそとしてうちへ入り、母者人女房、》と世話に呼びかけてしまったのも、抑えきれない喜びのためであろう。それよりも大きいのは、亡き実父十次兵衛と名実ともにつながったという心の絆である。血筋の引縄によって繋がれていた子与兵衛と父十次兵衛との親子の絆は、その自然的結合のゆえに、父の生存中は意識もされなかったであろう。それが父の死によって切断され、失われてみて初めて明確に意識されることになった。そしてその意識は、後妻に入っていた母親と与兵衛との関係、継子継母という関係を強く浮き立たせることになったのだ。端場において、母が嫁に語った《連合ひがお果てなされてから与兵衛が放埒》という打ち明け話は、父の死が与兵衛にもたらした影響の大きさを物語っている。父を失った与兵衛は今十次兵衛という父の名を継ぐことによって、再びその絆を取り戻した。父十次兵衛が生きた人生を、その子十次兵衛が新しく生きてゆくのである。自然発生的な血筋の引縄は無意識のうちに自分を絡めとっていった。しかしこの新しい絆である引綱は、自分が意識的に架け渡したものなのだ。このときもうひとつの引縄もまた、新しい引綱、親子の絆として新生してくる。これが第三の理由、すなわち与兵衛の義理の母に対する愛情である。
  与兵衛の放埒、それは直接母に対するものではなく、血筋の引縄の切断への反動という形で現れたものであった。継子継母という関係へのこだわりといってもよい。《与兵衛は先妻の子で、わしとはなさぬ仲ゆゑに、その訳知つても知らぬ顔あそこやこゝの手前を思ひ》という気配りは、十次兵衛が亡くなって以降さらに深く潜行せざるを得なかった。それが逆に与兵衛にとっては一層心のトゲとなったのである。しかし都と駆け落ちしてこの家へ帰参した与兵衛は、妻お早と母との三人の家庭を一から作り始める。過去から現在までの放蕩という母への仕打ちは、現在から未来に向かっては家族の中での母への愛情という形となる。
しかも十次兵衛の名を嗣ぐことは、亡父へそして母への何よりの親孝行なのであるから。《昔に帰るはこの時と》《蚤の息が天とやら、お上の首尾が聞きたいの》という母の詞には、自分を二度目の妻として迎え入れてくれた亡夫に対して、一人息子を預かり育てるという責任をようやく果たすことができるとの喜びがある。その母の心を義理の子与兵衛はよく理解していたであろう。《「戻りやつたか、お上の首尾はどうぢやのどうぢやの」「お悦び下され極上々」「マそれは嬉しい」「すなはちこのごとく衣類大小くだし置かれ、名も十次兵衛と親の名に改め下され、昔のとほり庄屋代官を仰せ付けられ、七ヶ村の支配」「ヤレヤレそれは目出たいこと、》という母と与兵衛との会話には、母−与兵衛とともに母−亡十次兵衛−与兵衛という構図の完成への喜びがあふれているのである。したがって、《召捕つて手柄の程をみせたらば、母人にもさぞお悦び》と語る与兵衛の詞には、濡髪捕縛がこの十次兵衛を核とする新しい家族関係の構図をより確かなものにする行為であるとの思い入れがあるのだ。
  ゆえに、この初仕事を妨げようとする妻お早の言動を許さないのは理解できる。しかもお早はそこに母を持ち出してくるのだ。《なんのそれがお嬉しからうぞ》《お袋様の悲しみ、なんのお悦びでござんせう》と繰り返される詞は、お早にしてみれば当然である。継子の妻という立場の自分を《本の子よりも大切に、可愛がつて下さる》母、その母の実子長五郎が捕縛されるのであるから。しかもお早はこの実の母子が十分に愛情を交わし合うこともなく、離ればなれになっていたことを先刻聞いたばかりなのである。さらには、実子を継子が捕らえるということが、いかに母の心を傷つけ、ずたずたに引き裂くかを、お早は十二分にわかっていたはずである。しかし与兵衛は何も知らない。《与兵衛はなんの心もつかず》である。
 母への孝行になると喜び勇んでいる与兵衛、男としての面目を施す新十次兵衛、その顔を潰されその心を踏みにじられた与兵衛の怒りは収まりようもないのである。《折るも一つはお前のため》などとお為ごかしにいわれるといよいよ立腹する。ただここでもう一点見逃してはならないことがある。それは《なんで濡髪をかばいだて、たゞしはおのれが一門か、》との与兵衛の詞である。与兵衛は妻お早の係累程度ではこの捕縛を思いとどまる気はないということである。この行為は夫婦関係のレベルを越えたものである。それは私事に対する公事ということもあるが、それ以上に与兵衛−お早に対する母−(亡十次兵衛)−与兵衛の問題であることを意味している。これが実は長五郎−母…与兵衛という関係の問題であろうとは、与兵衛はまだ知らない。
  夫婦の争いを母が調停する。しかし母は長五郎のことをすぐにそれとは言い出さない。与兵衛がどこまで長五郎についての情報を仕入れているのかを探る。その具合によっては隙間を縫って長五郎を逃げさせることが可能になるかもしれない。母にとっては「知らない」という情報こそが重要なのである。しかし与兵衛の返答には隙がなかった。大前髪、右の高頬のほくろと確述され、手配書まで見せられるに至っては万事休すである。もはや逃れられないことを確認すべく、母もお早もその人相書をのぞき込む。そして第一の「引窓」が現出する。なお、《目ばやき与兵衛》《敏きお早》はこの場だけの描写ではない。互いに心を配り神経をすり減らし愛情を確認するという、この「引窓」に登場する四人の人物の性根、鋭敏で感じやすい心を現していることを見落としてはならない。
  ここで与兵衛の《ムヽハテナ、面白い、イヤ面白い、》について考えてみたい。「この間にいろいろと考へて、母に実子のあつたことを思ひ出し、濡髪が果して実子なりやを試して見ようと決心する。」「与兵衛は面白いどころか、母の実子を召捕らねばならぬ窮地に置かれているのである。」(武智)との考察がある。問題にしたいのは、与兵衛はいつの時点で長五郎が母の実子であると気付いたかということである。与兵衛は《なんで濡髪をかばいだて、たゞしはおのれが一門か、》と言った段階では、濡髪長五郎が母の実子であることに思い至ってはいない。次に母が登場して詮索を始めるが、ここでも長五郎と与兵衛との間における認知が問題なのであって、与兵衛自身《その後色里にて一寸の出合ひ》との発言こそ自分の過去に関わるが、人相書を取り出すところも、これこの通りという他に意図はない。少なくとも古靭太夫の浄瑠璃ではそのように語られている。もっとも、先ほどは妻がそして今度は母が執拗に長五郎にこだわるのは、なんとも解せないとは感じていたはずであるが。では手水鉢にその姿が映り、引窓が閉められたときはどうか。この家の二階に濡髪長五郎本人がいたこと、室内を暗闇にしてまで長五郎を隠すということ。ここに至って与兵衛は、母−与兵衛−お早という構成要員であるはずの家族の構図に、長五郎が入り込んでいることを、かつ、与兵衛自身は現在この構図から外されているのではないかということを意識しはじめる。しかもそのことは与兵衛に対しては決して明らかにされない。ただし、これをもって与兵衛が長五郎を母の実子だと気付いたとするには不十分である。なるほど、お早が母をかばおうとしているとは感じていたろう。が、与兵衛が向かうのはあくまでそのお早に対してである。与兵衛が濡髪を捕縛するのは母のためでもあるし、母も喜んでくれるはずだという思いがある。それが現在与兵衛が果たすことができる親孝行、愛情表現である。ところがお早はそれを否定し、捕縛を諦めるのが与兵衛のためだという。互いに母のためとする両者は衝突するより他はない。しかもそれが駆け落ちまでして夫婦となり、新たな家庭生活を営み始めた二人の間の衝突なのである。与兵衛は意地になるはずだ。信じていたものへの不信感ほど強烈なものはない。お早もそれは承知していよう。しかしお早はそうまでしても、母と与兵衛とが長五郎を中にして直接に対決しなければならない状況だけは避けたいと考えているのだ。それはまた、お早から母への愛情表現、親孝行であり、最終的にはそれが与兵衛から母への親孝行にもなるのだという信念である。実子実母の関係の断絶は、これまで微妙なバランスで保たれてきた継子継母の関係の崩壊をももたらしてしまうことを、お早は確かに予知していたのである。したがって、与兵衛の《ムヽハテナ、面白い、イヤ面白い、》とは、お前がそこまでするというのなら俺もまたここまでするぞという表現である。母も長五郎の隠匿に関係しているのは事実である。しかし母はここではあくまでお早の後ろにある存在なのである。試してみるという探偵趣味も、窮地に陥っているという危機意識も、直接母に向かっていると考えるのは、ここではまだそぐわないのではなかろうか。
  さて、再び夫婦の争いを見、かつお早の孝心愛情を十分に見た母は、自らこの場に臨もうとする。お早が憂慮した、長五郎をはさんでの母と与兵衛の直接対立の場にである。母は長五郎を逃すためにはもはや乗るか反るかの状況にあると認識している。母はその行為が究極的には実子長五郎を取り継子与兵衛を捨てることになることを覚悟しなければならない。《負はず借らずに嫁ともに子三人、わしほど果報な身の上はまたと世界にあるまい》という未来は現実のものになるどころか、全く逆の悲しみをもたらすことになったのである。しかし、実子への情愛、母の盲目の愛にはもはや母−与兵衛の関係などは目に入らない。とてもそこまで考えが回る状況ではない。わが子長五郎をなんとしても逃がしてやりたい、それがすべてなのである。母は神仏とともに自分の来世までも捨てようとする。《手放す心を推量して》に聴き取れる母の涙は、母−長五郎の血筋の引縄を印象づける涙でもある。また、神仏へつながる銀一包は、長五郎を逃がす行為への見返りという地位にまで引きずり下ろされる。しかも母は与兵衛に対して決して直接的には言わない。絵姿という対象を通してあくまで間接的に語るのみである。それが継子へのあるいは公人十次兵衛への遠慮であるならば、それが形式的なものであれ与兵衛はまだ救われよう。しかしそれは、後で母が言うように《なさぬ仲の心を疑ひ》から来たものなのであった。
  この母の言動によって与兵衛はすべてを悟るのである。ここにおいて初めて明確に長五郎が母の実子であるという事実を認識するのである。《ムヽ母者人二十年以前に御実子を、大坂へ養子に遣はされたと聞いたが、なんとその御子息は今に堅固でござるかな》という与兵衛の詞を最も軽く捉えれば、おそらくはという自分の推量を母の詞によって確定したいためのものとなる。しかし、古靭太夫の語りはその程度のものではない。与兵衛の人形もまた母に対して「身体を起こし」「上半身をのり出す」(大西)。与兵衛は自分の確信を母に突き付けているのである。《なんとその御子息は今に堅固でござるかな》はいかにも厳しい。大声で怒鳴るのではなく母の心の奥底へ入り込むような口調である。それはまた直接母の口から長五郎が実子であることを聞き出そうとするものでもある。しかし母は語らない。《与兵衛》はもうこれ以上追及してくれるなというすがりつくがごとき言い方。《どうぞ買ひたい》と泣く涙は、母という身も心もすべて投げ出してのものである。先の《手放す心を推量して》における涙の比ではない。ここにおいて母−長五郎の血筋の引縄は絶対的なものになった。母−与兵衛の継子継母の関係は全く形式化している。
 もっともそれは母が与兵衛を愛していないということではない。今あるのはただもう、腹を痛めて生んだ子、しかも十分に愛情を交わし合うことなく、離ればなれに生活しなければならなかったわが子長五郎への無償の愛だけなのである。与兵衛は最後の確認をする。母−長五郎の血筋の引縄はすべてに優先するのかという確認である。「泣く様をジッと見ていて」(大西)と遣われる人形は古靭太夫の語りとともに、与兵衛にとってこの母とは何であるかを注視する。《仏へ上げる布施物を費しても、この絵姿がお買ひなされたいか》は自分に取っても最後の確認である。それに対して母は決定的な発言をする。《未来は奈落へ沈むとも、今の思ひにや替へられぬわいの》はすべてを捨てても実子長五郎を取るという心情吐露であった。未来は単なる来世の極楽往生を意味するのではない。母は気付かなくとも、それは母−(亡十次兵衛)−与兵衛そしてお早という新しい家族関係、自然発生的な血の結合ではなく家族の絆によってもたらされる未来をも示しているのだ。それを母は捨ててもという。血筋の引縄の絶対性の提示なのであった。与兵衛はいかに母のわが子への愛情が深く濃く、何物にも変え難いものであるのかを痛感したのである。「自分の実の母への慕情も、いまの母への愛情もこえて、母なるものの愛情にうたれたのである。」(渡辺)とする通りである。そしてまた、これで与兵衛の立場は決定した。その思いは《ヘツエ是非もなや》に十二分に表現されている。「生さぬ仲の母への義理と、その切実な肉親の情にほだされて、出世はじめの功名を得る機会を失わねばならぬことを悔むせりふに外ならぬ。」(内山)との分析もまたその通りである。古靭太夫の浄瑠璃にもその低い音の中に、文字どおり是非もなやという一種の諦念を感じ取ることができる。そこにはまた悲しみや淋しさもまた含まれている。「『ヘツエ』と首を下げ」(大西)と遣われる初代栄三の与兵衛は、古靭太夫の浄瑠璃と相俟って、母の愛に打たれて頭を垂れる与兵衛とともに、決定的な母の詞の前に項垂れる与兵衛の姿をも表現しているのである。
 与兵衛にとっては、母からの愛を受けることも母への孝行を尽くすことも、この母をおいて外はない。そしてこの母には継子与兵衛と実子長五郎とがある。しかもこれまでは形式上(義理からといってもいいが)与兵衛が表で長五郎は裏であった。それが今逆転した。母は与兵衛を疑いのかかる生さぬ仲という関係、そしてわが子を捕縛する立場にある者としてとらえる。がまた、長五郎を見逃してくれと頼み込むのは、母と与兵衛が他人ではなく親子(義理ではあるが)という家族関係にあるからでもある。母はそこに甘えようとする。与兵衛はこの母をこの親子関係を受け入れる。そして出世した庄屋代官十次兵衛として亡父とともに(妻お早を含めて)母との新たな家族関係を形作ることを諦める。それは十次兵衛をやめることではない。が、もはや十次兵衛とは、母とも妻とも具体的な絆を持たない形式的な名前に過ぎなくなったのである。したがって与兵衛は出世する前の町人与兵衛の形で母と対する。《両腰差せば十次兵衛、丸腰なれば今までのとほりの与兵衛、相変らず八幡の町人》とは、濡髪の絵姿を母に売り渡すための理屈ではない。また、結果としてこの詞は、これ以降の母とのやりとりからも聴き取れるように、時代世話のカワリによる光と影、明と暗の描出にもなっているのではあるが、それがねらいであるはずもない。この使い分けは、与兵衛の心の葛藤からのぎりぎりの選択なのである。《お望みならばヘヽ上げませうかい》の《ヘヽ》にそれはうかがえる。軽々と何事でもないように町人与兵衛を演じるものの、そこには悲しみの影が一種自嘲の調子をおびて浮かび上がっている。「どうや欲しかったら売ったろか」などという卑しさはない。もしそれを感じることがごく僅かでもあるとすれば、それはむしろ、実子に対する継子としての立場から来る卑下というものであろうか。《それではこなたの》は母の与兵衛への思いやりともいえようが、直前の《アノ売つて下さるか》の反射的に飛び上がるような喜びと、後の《ハア忝なや》の心の底からの嬉しい感謝の表現の間にはさまれては、いかにも形式的な、捕縛方十次兵衛、継子与兵衛への言葉の上での配慮以上のものとは受け取れないのである。さらに、与兵衛の妻お早へのこだわり、夫婦関係もまた絆がうすれている。お早は《本の子よりも大切に、可愛がつて下さる御恩、》と義理を立てて《中に立つ身の切なさを、言訳》するのであるが、与兵衛は一言も答えない。浄瑠璃本文も《言訳涙に時移り、哀れ数そふ暮れの鐘》としんみりとそして確実に時間が経過することの描写へと流れていく。もっともこちら側には《中に立つ身の切なさ》は伝わってくるのであるけれども、《とともどもに隠しました》との告白は与兵衛が一人蚊帳の外であったという事実をかえって強調してしまうのではないか。「お早の言訳を聞きながら差添を差し『あはれ数そふ暮の鐘』で首をかしげて時の鐘を右手の指を折って数えるしぐさがあって、太刀を腰に差し、羽織の紐を直してから立ち上がり」(大西)といった人形の動きもまた、嵐の後のような淡々とした与兵衛の心もようを的確に映し出している。
 河内への抜け道を教えるところはいい場面である。《情けも厚き》はこれまたその通りである。与兵衛は完璧に母への愛を、長五郎を逃がしてやるという行為を成し遂げる。母もお早もこの時点での思いは叶っている。しかし、これで「引窓」が終わる感じはどこにもない。与兵衛=十次兵衛(亡十次兵衛)を巡る新しい家族の構図は未来が見えないままである。「引窓」前半では母−長五郎という血筋の引縄の太さ強さが前面に出されたが、まさにその長五郎の登場によって、逆に後半では母−与兵衛という家族の絆が強調されることになる。《隈なき月も待宵の光映れば》は「引窓」前半の主題を照らし出す。しかし待宵の偽円の月はすぐに《折から月の雲隠れ》となり、「引窓」はふたたびその光を失う。再び待宵の月が「引窓」を照らすとき、それはもはや真円に近い待宵の月の光としてではなく、新しい家族の構図を輝かす夜明けの日の光として認識されることになるのである。しかしそれはまだ先のことである。与兵衛もまた心を十分に残して様子をうかがうのだ。
 なお、この前半最後の部分における古靭太夫の浄瑠璃の足取り、間、カワリ、強弱等すべて絶妙である。芳之助の三味線もまたよく支えている。そして長五郎の出から急速調となり、「引窓」は新たな展開を迎えることになる。
  与兵衛の情け、実子長五郎への母の愛に対する継子与兵衛の答は、母よりも長五郎の胸に深く突き刺さることになった。《堪へ兼ねたる長五郎》《与兵衛殿の手前もあり》が表しているように、かつての与兵衛とともに男伊達の世界、義理人情の世界にその身を砕く濡髪長五郎の侠客精神が黙っていられるはずはないのだ。しかし母はそれをより強く血筋の引縄で縛ろうとする。一目母にと会いに来た長五郎である。捕らえられる覚悟でも《眼前歎きを見せませうよりは》と母に悲しい思いはさせまいとする長五郎である。母は初め《おればかりか嫁の志、与兵衛の情まで無にしをるか罰当りめ》と長五郎の義理人情を責めようとするが、《死ぬるばかりが男ではないぞよ》に続いて《七十近い親持つて》のクドキからその方向は母子の愛へと自然に移っていく。古靭太夫の浄瑠璃でもここで最高潮に達する。《不幸な子が世にあらうか》の嘆きはそのまま《それがどう見てゐられうぞ》との母の愛情を強化する。そして決定的な《せめて親への孝行に、遁れるだけは遁れてくれ、コリヤ生きられるだけは生きてたも》との哀願に至るのだ。《なんの因果で科人に、なつたことぢや、とどうど伏し、前後不覚に泣叫ぶ》母の前に、長五郎はうつ向いてじっと歯を食いしばって涙を堪えるしかないのである。ここで母は証拠となる大前髪を剃り落とそうとする。しかしそれは長五郎の男伊達をも剃り落とそうとするものであった。《一日々々と親のことが身に染み》からの長五郎の告白はこちらの胸に十分応えるものである。それは親子の情愛というものを痛いほど感じさせるすぐれた語り場である。しかし、濡髪の義理人情の侠客心はその情愛を振り切ってふたたび姿を現したのである。それで母はついに命を投げだそうとする。「古靭は『よいわ』を捨てるやうに語る。いくら愛しても、愛するものの心よりも下らぬ義理を重んずる濡髪である。愛する者−−母−−はそれに耐え得ない。その苦しみに直面するよりは自分の死を撰んだ方がましである。さう言ふ弱々しい、絶望的な感情を『よいわ』の一言に現した古靭の芸力には感嘆の他はない。」(武智)との評にはまさに感嘆の他はない。しかも復刻CDでの古靭太夫の奏演もまたその通りなのである。「その次の濡髪の『誤りました』の表現が又面白い。」(武智)の部分も全く同感である。長五郎の衷心がよく表現されている。それもまた古靭太夫だからである。
 《サアそんなら剃つて落ちてくれ》からは抒情味あふれる場面である。ここまで凝り固まって、一息つく間もなかった「引窓」の浄瑠璃世界を解きほぐすように、視覚的にも聴覚的にも、感覚にまかせるように演じられる。浄瑠璃は前半が大切で、後半はそれに乗って行けばよいという基本的構成の実践でもある。しかしその中に情愛を響かせるのが浄瑠璃なのであって、古靭太夫の奏演においても、三味線の余韻あるチン一撥につづく《涙で》の語りなど、全く以てえも言われぬものがあるのだ。まさに「音曲の司」である。もちろんそれは、ここまでのきっちりした語りがあってこそのメロディアスな抒情美である。さらに額の傷に墨を付ける部分は、一種のユーモアとなり、これもまた観客の心をなごませる効果を備えているのである。なお、「其他、『一日々々と、親の事が身にしみ』などの辺まで其心持が満ち満ちて引窓になるのじやと思ふてゐなはつたら間違ひはおません」(「浄瑠璃素人講釈」「引窓」)という三世大隅太夫の芸談が残っている。
  ここへきて、もうひとつの血筋の引縄が問題となる。高頬のほくろである。《これこそは父御の譲り、形見と思へば嫁女、わしはどうも剃りにくい、》との母の思いは、父の形見は同時にまた亡き夫を偲ばせる形見でもあることを暗示する。しかしそれを剃り落とさなければ、長五郎を逃すことはできない。つまり、ひとつの血筋の引縄がもうひとつの血筋の引縄を束縛するというジレンマに陥っているのである。《未来は奈落へ沈むとも、今の思ひにや替へられぬわいの》と語った母ならば、今この長五郎を逃したいという思いによって、過去のつながりすなわち高頬のほくろをも捨て去ることができるのではないか。いやそうではない。なぜならば、過去とはそのまま親子の血筋の歴史なのであり、血縁の存在証明でもあるからである。しかしこのジレンマも母親にとっては、《エヽ心からとはいひながら、可愛のものや》と、母親の情愛をかき立てるものとなる。この血筋の引縄がいかに太く強く、また母の愛がそれこそ奈落の底へ転落するほどの危うい力を持っているかが如実に現れているのである。このほくろを与兵衛が路銀の包を投げつけて潰す。先刻母の哀願を聞いて手柄を捨て、河内への抜け道を教え、今また長五郎逃走の障害物を除去し、さらに母から受け取った大切な銀を旅費というかたちで投げ返してやる。いかにもよくできたかっこいい与兵衛の姿であるが、それが一面的な捉え方であることは、これまでの考察で明らかであろう。むろん与兵衛の颯爽とした一面が、この「引窓」の印象をさわやかなものにしているのは確かであるが。
 さて、ここに至って、端場での《負はず借らずに》との母の理想は、現実のものとなるどころか、完全に「負うなり借りるなり」の身動きできない状態となってしまった。母とお早はそれをより一層の《情けも厚き薮畳》としてとらえ、感激し感謝する。が、長五郎はそうではなかった。その《情けも厚き薮畳》によって覆い隠された与兵衛の心、暗く淋しい側面をも痛切に感じ取っていたのである。それは長五郎の義理人情の侠客心が感じ取ったものであると言えなくはない。しかし、与兵衛の心の奥深いところにあるものを感じ取ったのは、長五郎の心にある親子愛、母というものの愛、肉親の情愛にうち震える敏感な心であったのである。
 この『双蝶々曲輪日記』の第四段「大宝寺米屋」に、濡髪長五郎が述懐する場面がある。放駒長吉の喧嘩好きを直そうする姉お関の愛情を感じ取った長五郎が長吉に向かって語る詞である。《俺も在所に母者人を持つていれど、五つの時別れてから逢うたのはたつた一度、養子に来た先の父親も死なるゝ、ほんの木から落ちた猿同然で誰が一人意見してくれ手がない、汝は結構な姉を持ち、好い意見の仕方があって、それを仕合者ぢやと云ふのぢや》云々がそれである。今長五郎はその母によって意見され、溢れる愛情に包まれている。では与兵衛はどうか。与兵衛は孤独である。血筋の引縄はすでになく、亡父十次兵衛の名は継いだものの、それが新しい家族の構図を確立するところには至っていない。その家族の構成員妻お早と義理の母とは、血筋の引縄である実子長五郎への母の愛をすべてにまさるものとしている。しかもその与兵衛自身が、様々な言動によってその母の愛を遂げさせようとしているのである。「米屋」において長吉の幸せを身に滲みて感じた長五郎、また現在母の愛を痛いほど感じている長五郎は、与兵衛の情けを痛切に感じ取り、そして何よりも与兵衛の心の内をわがことのように感じ取るのである。頬に投げつけられた路銀の痛みは、そのまま心の痛みとなって長五郎の心に突き刺さったのである。《アヽイヤその書付もほくろを消した心も、骨にこたへ肝にとほり、あんまり過分忝さに、母の歎きも御意見も、不孝の罪も、思はれず》との長五郎の述懐は、「米屋」での述懐と表裏一体、軌を一にするものである。《思はれず》が一杯に語られるのは当然であろう。
  ここで長五郎は最終決心をする。《かねて覚悟の長五郎》であり、《暫くはお心休めと詞に随》っていた長五郎である。その決心はもとより動かないし、もはや何物にも覆い隠されることはない。《思ひ設けてどつかと坐し、サア母者人、お前のお手で縄を掛け、与兵衛殿へお渡しなされて下さりませ》がいかに重く強いものであるかは、古靭太夫の浄瑠璃によく表現されている。そしてそれは観客にも重石となってその心を安定させる。すなわちこれでいいのだとの納得を与えるのである。「引窓」を聴きまた観る者は、このあとに語られる長五郎の詞にも、またそれによって導かれた母親の心の逆転にも驚きはしない。さらには段切りでの十次兵衛の言動は、鮮やかな印象を与えて「引窓」一段の浄瑠璃を締めくくり、柝頭とともに芝居の世界からの心地よい目覚めをもたらしてくれるものでこそあれ、母嫁ほどに《ハアはつ》と驚嘆するものではない。なお、もちろんこれらが「引窓」の筋書きをあらかじめ知っているからだなどというレベルの問題でないということは今更言うまでもないだろう。したがって、「段切近くなって主人公の心が逆転する」(内山)というのは戯曲構成上はもっともであるが、実際に浄瑠璃を鑑賞しまた古靭太夫の浄瑠璃を耳にした時の印象にはそぐわないものがある。
  母の心を納得させるために、長五郎はまず自分の犯した罪が決定的なものであり、とても逃れることはできないことを語る。《アヽア助かる筋はござりませぬ、》の口吻にそれは明確である。早晩母−長五郎の血筋の引縄は切断されるだろう。しかし、現在母の手でわが子長五郎を縄にかけ形見として与兵衛に手渡すことによって、その血筋の引縄は結晶化し、心の中の新たな絆として未来へとつながっていくことが可能なのである。長五郎は母親にそう諭すのである。と同時に、その未来への心の絆とは、二人の十次兵衛すなわち亡夫十次兵衛と継子十次兵衛と母とを結び、お早とともに未来への新たな家族の構図を形成する大綱となるものなのだ、と語るのである。(無論、字句上「未来」とは「三世の一つである死後の世、来世」のことであり、《立ちますまいがの》とは後妻としての義理ある亡夫への立場の有無を表していることは言うまでもない。)母から長五郎への愛情あふれる思いは、今、長五郎から母への情愛豊かな説得となって、血筋の引縄を《一世の縁の縛り縄》に変えるのである。それを受けての《一旦庇うたは恩愛》から続いていく母の心情吐露は、なるほど「余程うまい人で聴かぬ限り、現代人にとっては無意味な観念遊戯に終ってしまう」(内山)危険なものであるのかもしれない。が、ここもまた抒情性を持った美しくも悲しい浄瑠璃の調べと語りとによって、すぐれた音曲的効果が施され、「近代合理主義精神」のために解剖され分析されることなく、聴くもの観るものの心に滲み通っていくのである。古靭太夫の浄瑠璃はその見事な実例である。ゆえに、「大正末期の「引窓」(糸鶴沢芳之助・ニットーレコード)では、まさに前半はドラマ、後半は音曲、と分裂気味で問題があった」(内山)との評に従うことはできない。むしろ、まさにその「後半は音曲」によってこそ、「引窓」は音曲の司=浄瑠璃の傑作として完結するのである。(唐突な例ではあるが、歌劇『魔笛』がテキストとしてはフリーメーソンの思想的影響を多分に受けているものであるにも関わらず、作曲者モーツァルトの人間知を越えた卓抜した音楽性によって、時空の制約をこえて現在の全世界の人々に感動を与えていることとも共通するものがあろう。)与兵衛が再びこの家へ入ってくるまでのこの部分における音曲的処理は、古靭太夫という人物を得てはじめて有効に作用したと言えるのである。三味線の役割はまた一層重要である。相三味線の三世(あるいは四世)清六であればどうだろうかと想像をかきたてられる。もっとも芳之助もよく健闘しているのだが。蛇足ながら、四世豊澤仙糸の三味線を思い浮かべれば、浄瑠璃の音曲的処理の美とでもいうべきものの本質が、頭からの理屈ではなく、直接感性で受け取ることができるものだと納得できるはずである。なおこれが、仙糸と古靭の相性云々とか仙糸が「引窓」を弾くのかなどという話とは全く無関係なものであることを念のため断っておく。
  さて、「引窓」もいよいよ終曲に近付く。十次兵衛、母親、長五郎、お早の四人はそれぞれ、何事かを隠し、何らか妨げられ、何物かを失った。しかしそれは、新しい人間関係、家族関係を獲得し創造するための障害であり喪失であったのだ。四人はそれぞれ受け身ではなかった。最終的に自らの意志で未来を選択したのであり、それぞれがそれぞれのために能動的に行動したのである。例えば母親の場合、与兵衛ではなく《十次兵衛はゐやらぬか、受取つて手柄に召され》と呼びかける詞にもそれはうかがえる。なるほどこの詞には万感の悲しみがその底にある。しかしその悲しみは、《窓はふさがれ心は闇くらき》の《暗き》で泣きの涙として、さらに《きイイ…》と十二分な産字をもって表現されており、子故の闇に迷う母の心が描ききられているのであって、次の《思ひの声張上げ》にはその暗闇に沈もうとする心を自ら引き上げようとする、けなげな母の正(プラス)の指向性が伝わってくるのである。また、《さうなうては叶ぬところ》とは表面的に与兵衛の得意や十次兵衛の満足な心を描くものではなく、「引窓」全体、この浄瑠璃の主題にとっても、そうでなくてはならなかったことを表現しているのである。《受取つて御前へ引く》という十次兵衛の詞の確固たる響きは、お早を振り払ってまでの母と長五郎との決心が事実として確定し、現実として認知されたという重みを伝えてくるものである。
 受け取った長五郎の縛り縄を切り、「引窓」を開けて月光を導き入れ、それを自らの役目が終わる夜明けの光とし、放生会に掛けて長五郎を逃してやる十次兵衛、その志と情けの深さに感激する母と嫁お早、さらには、深夜九つの鐘を明け六つの鐘とすべく、残り三つは母への進上と言い、長五郎を逃すこともまた母への進上物であることを暗示する十次兵衛、自分の出世の手柄を放棄しようとする十次兵衛に対して自分の命を進上しようという長五郎、その長五郎をすべては了解済みだと落としてやる十次兵衛。それらが重からず粘らず勿体ぶらず語り進まれ、三味線もまたテンポよくリズミカルにタッタッと弾かれていく。そして開放された「引窓」からはさやけき月の光が差し込んでいる。十四日の待宵の月は翌日の十五夜の真円の満月となるのであり、それは新しい朝の夜明けの日の光として受け取られるのである。この清澄な月影が照らし出す浄瑠璃世界の現出をもって、「引窓」一段の浄瑠璃は幕を閉じようとするのである。
  なお、段切りについては、「近年の奏演では、『段切り』のテンポが相当おそくなっているし、手数もいくぶん少くなっている。戦前のSPレコードの奏演ときき比べるとはっきりわかる。むかしの奏演の方が一種溜飲のさがる思いがして、気分の転換、解放感もつよいし、音楽的な対比も鮮明で、新鮮な印象をうける。現行浄瑠璃の傾向として、一字一句を過剰に語り生かそうとし、『うれい』を強調するには、ゆっくり思い入れたっぷりとやりさえすればよいとばかりに、全体に間のびして、奏演時間が長くなりすぎている。とくに『段切り』にその傾向が顕著にみられる。浄瑠璃全体の構成と、『段切り』のもつ芸術的意義から、再考を要する問題であろう。」(井野辺潔「浄瑠璃史考説」『第二部 構造と歴史 四、「段切り」の構造』)というすぐれた分析がある。そして復刻CDの古靭太夫と芳之助による奏演は、見事にその「芸術的意義」を表現しているのである。
 最後に《別れて》が柝頭で「引窓」は終曲となる。が、「引窓」の光と影、明と暗はこの浄瑠璃の最後の最後においても印象付けられることになる。これは十次兵衛の人形、初代栄三をはじめとする立役人形遣いの演出から見て取れる。すなわち、「母親が濡髪の方へ近附こうとするのでトンと右足を踏み出し、太刀の束頭に手をかけて鐺の先で母親を支えて極る。」(大西)というものである。母親の至上の喜びはまた無上の悲しみを伴っている。逃されて落ちて行く濡髪を見送る母は、これが長五郎の見納めであり、わが子との永遠の別れになることを、今まさに心身のすべてにおいて感じ取る。ゆえに心も体も自然にわが子長五郎の方へ向かおうとするのである。長五郎は合羽を羽織り編笠を被って下手へと落ちて行く。が、そこに至るには、父親譲りの高頬のほくろの喪失と、母親との間の血筋の引縄の切断とが必要なのであった。家族は血縁という自然状態によって存立するものではない。構成員ひとりひとりがそれぞれの意志によって家族を存立させていこうとするものである。受動的に束縛するのが血筋の引縄であるならば、能動的に連携させるのが家族の絆である。母親を支える十次兵衛にそのことは最もよく理解されていたはずである。
 光が明るければ明るいほど、その作り出す影は暗く濃い。逆にまた影が深く暗いほど、光は明るくその輝きを増す。「引窓」一段の浄瑠璃が終わったとき、私たちの心の中にも光と影、明と暗とが交錯しているのである。

                                                             (初稿:平成七年如月)